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ものつくりの科学の歴史「工学の歴史」

工学の歴史 科学史や技術史とは一線を画する「工学史」という新しい領域を読む。

 かなりの大著と思いきや、ポイントを絞ってコンパクトにまとめている。機械工学を中心に据え、細部は参考文献に任せ、キモのところを大づかみに伝えてくれる。おかげで、歴史・地理の両方から俯瞰的に眺めることができる。知のインデックスとして最適な一冊。

 テクノロジー&サイエンスといえば、西洋の専売特許だが、長い目で見ると違う。ニーダム線図、ニーダム・グラフと呼ばれるグラフが顕著だ。歴史的には、長いあいだ中国こそが科学技術の先進国だったことは知っていたが、ここまであからさまだとは。

 中国は古代から中世まで科学技術で世界をリードしていた。だが西洋は後期中世から急激に成長し、ルネサンスを境に両者の関係は逆転している。新参者にすぎない西欧が、なぜ中国を追い抜いたのか?

戦争の世界史 もちろん科学と軌を一つにしてきた軍事面から説明できる。「戦争の世界史」を読むと、あらゆる科学技術の進展は、技芸化→商業化→産業化された戦争の賜物だということが分かる。ヨーロッパの歴史はそのまま戦争の歴史であり、戦争の歴史はそのまま科学技術史になる。

 しかし本書では、軍事技術の側面も認めつつ、当時の「価値観」から説明する。ガリレオ、パスカル、ニュートン……彼らは、自然の背後に隠された神の意思を読むこと、つまり自然法則や原則の発見を最高の使命と考えたという。数学を用い、現象を計量的に分析し、結果を論理的に統合するやり方は、近代科学そのものだから。

 これに対し、中国では、こうした方法による原理・法則の探求が普遍化しなかったという。世界を数学と結びつけ、論理的な体系を打ち立てようとはしなかった―――これが決定的な差なんだと。では、なぜしなかったのかというと、「文明論的な問題」と逃げる。工学の歴史の手に余るのだろう。

 とても興味深いのは、技術者の地位について。一言なら、西低東高になる。

 例えばBC3世紀の世界最古の技術書「考工記」を見ると、工人(技術者)は国家社会に欠かせない職業として尊敬され、高い地位にいたという。一方、古代ギリシアでは、自然を理解する科学は哲学同様「高貴な学問」だったが、手仕事である技術は「奴隷のわざ」として軽蔑されていたそうな。ローマでは土木技術は発達したが、機械は人々の生活に浸透しなかった。なぜなら、安価で確実な「人間機械」である奴隷が容易に手に入ったからである。

 「エンジニア」の語源を追うと、技術者の倫理的責任が見えてくるのが面白い。民衆に公益を提供する技術者と、軍事技術を発明・開発する技術者は、責任の負い先が異なる。

 中世ヨーロッパでは、技術者は民衆に対してじかに職業上の責任を負っており、ギルドをつくって相互扶助と技術の維持・伝承にあたったという。ギルドごとに倫理綱領がつくられ、その技術者には社会的教養と倫理が要求されていた。

 ところがルネサンス期になると、軍事上の必要からギルドに属さない新しいタイプの技術者が現れた。軍事技術の開発には、ギルドの倫理綱領は邪魔でしかないからだ。一切の責任は雇い主が引き受け、技術者は社会や民衆に関わらないといった風潮は、ここから始まったという。そこで開発された新技術をラテン語でインゲニウム(ingenium)といい、engineの元になる。そして、軍事技術者であるかれらをインゲニアトール(ingeniator;要塞建築師)と呼んだ。フランス語のingenieur、英語のengineerの語源である。

 現在のエンジニアは、国家や企業に雇われて新技術の開発にあたる。エンジニアとしての活動で生ずる責任は、民衆にではなく、雇い主に対してのみ負う。この性質は、ルネサンス・インゲニアトール以来の伝統を受け継いでいるといっていい。

 そして、昨今のモラルハザードはエンジニアも民衆の一人であることから生じている。新聞沙汰になる耐震偽装も隠蔽操作よりも、いち職業人として「技術者の倫理と社会的責任」が問われるタイミングは、かなり身近なところにある。引き継いだプロジェクトがズサンな設計なことに気づいたとき、会社が有害物質をタレ流していることに気づいたとき、エンジニアの責任は雇い主が負ってくれるのか───否、逆にトカゲのしっぽとなるのが現在だろう。

そのとき、エンジニアは何をするべきなのか この、エンジニアが直面する倫理問題は、「そのとき、エンジニアは何をするべきなのか」が詳しい(レビュー)。雇用者やエンジニアの立場を超えたところから、倫理綱領を引き受ける第三者的な組織が求められている。工学の歴史のなかで、いったんは雇用者が引き受けた「モラルの問題」が、再び戻されようとしているのかも。

 技術史的な面と、それを扱う人や社会の側面から解説してくれるおかげで、常軌のように、芋づる式に読んできた本と記憶がつながってくる。この点は大いに感謝だが、技術の本質について、著者と徹底的に意見を異にしている。p.261の以下の部分だ。

軍事技術を除けば、技術はつねに人類の生活上の便利さを豊かさを与えるために開発され、発展してきた。人と社会はこれを歓迎し、技術が善であることを疑うものはなかった。ところが最近、技術を取り巻く社会環境は急変した。科学技術の発展にともなって深刻な社会問題が顕在化し、人々はもはや技術を「無条件で」善とは考えなくなったのである。
 つまり、技術は本質的に「善」であったが、最近では必ずしもそうでなくなった───これが著者の主張になる。しかし、わたしは本書の末尾で紹介されている「クランツバークの法則」に近い考えを持っている。技術は、社会や文化のコンテクストの中で(相対的に)評価されるものであって、その本質は善悪から離れたところにあるという主張だ。まとめるとこうなる。
  1. 技術は善でも悪でもなく、また中立でもない
  2. 発明は必要の母である(≠必要は発明の母)
  3. 技術は「パッケージ」としてやってくる
  4. 技術政策上の決定では、しばしば非技術的な要因が優先される
 第二法則が面白い。「必要は発明の母」の逆を言っているが、イノベーションが効果的であるためには、さらなる発明を要するのだろう。iPhoneが顕著な例だね。第四法則も生臭くて良い。レアメタルを要しない加工技術が急ピッチで開発されている理由は、チャイナリスクになる───これも第四法則の好例だろう。

 技術の歴史に限らず、その技能や知識が社会の中でどのように位置づけられていたも併せて分かる一冊。

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スゴ本オフ@カドカワのお知らせ(参加者募集中)

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 オススメ本をもちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。新潮、ハヤカワと続いて、今度のテーマは「角川文庫」になる。twitter と facebook のスピードが早すぎてblogが追いつかない。入口はここから→大人の事情付きの「角川文庫さんシバリのスゴ本オフ」だけど、招待制になりました。ご希望の方は「参加したい!」と告げてくださいませ(初心者枠を設けましたぞ)。やすゆきさんの「大人の事情で「角川文庫さんシバリのスゴ本オフ」を6月23日にやります。」もあわせてどうぞ。

  日時 2012年6月23日(土) 17:00~23:00
  場所 恵比寿
  参加費 3,000円

 「スゴ本オフ」の雰囲気を、思いつくまま並べてみる。コンセプトは、Book Talk Cafe、(お酒も出る)カフェで、本を片手に、ユルくアツく語る場だ。

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  1. 一言でいうなら、テーマに沿ったオススメ本をもちよって、プレゼンする読書会。最後はブックシャッフルといって、本の交換会をするよ
  2. プレゼンへのツッコミ歓迎。「その本が良いならコレは?」や「むしろワタシはこう考える!」といった応答は、「わたしが知らないスゴ本」を知るチャンス
  3. 会場に着いて受付を済ませたら、持ってきた本をディスプレイしよう
  4. お土産があると喜ばれます(受付で清算するのでレシートを忘れずに)。必ずしも全員分準備する必要はなく、早い者勝ちorじゃんけんバトルで決します。ただ、あまり高くつくのも大変なので、2000円ぐらいを上限にどうぞ
  5. プレゼンは5分くらい、自由に語ってくださいませ。「この本のココが好き!」や、「この本で考えさせられたところ」とか、「この本に出合ったときのワタシ語り」もOK 必ずしも、「紙の本」でなくても良い。青空文庫を Sony Reader でプレゼンした人もいるし、iPad で電子書籍を紹介するのもあり。本じゃなくって、CDやDVD、ゲームソフトもあり
  6. 開始~終了の拘束は無し、遅れて参加~早めに退出もOK。最初はオブザーバーで「ちょろっとだけ見る」のも吉。ホントに「見てるだけ」だと寂しいので、ワイワイの輪に混じってくださいな。「プレゼンは勇気がでてから、それまでみんなと歓談してます」が最初のステップかな(すぐに飛び越したくなるでしょうが)
  7. twitter実況をやったり、会場によってはUstreamに流したりします。顔出しNGの方は映らないように配慮します
  8. ブックシャッフル(交換会)は「あみだくじ」と「じゃんけん」がある。昔は「あみだくじ」でちまちまやってたけれど、集まる本の数が半端ないので、「これ欲しい人~!?」→立候補者がじゃんけんで決めてる
  9. ブックシャッフルする本は、「放流」なので、基本あげちゃう。秘蔵本なので放流できませんという方は、プレゼンだけもOK。そのときは、放流用に別の本をご用意くださいませ
  10. 初参加の方に意見を聞くと、「すごい読書家がウンチクを傾けあう会」というイメージがあるみたい←かなり違う。「その本がいかに好きか熱っぽく語らう場」が近い(酒も入るし、ヒートアップするし)
  11. むしろ、あんまり本は読まないけれど、どんな面白い本があるのだろう?という方が宝探しするのにピッタリ。「○○みたいな話が好きなのですが~」と振ったら、ダイレクトな打ち返しが山とくるはず。ここはネットと違って生々しく即応しますぞ、わたしも
  12. 本に出会う場でもあるし、人に出会う場でもある。わたしが知ってるスゴい本を「好きだ」と言う人がいたら、やっぱり気が合うもの。そして、その人が「これも面白いよ」とオススメする「わたしが知らない本」があれば、それはスゴ本確定
  13. 「読書会」というと、本の読み手というイメージがあるけれど、ここは違う。編集者や作家、デザイナーといった本の作り手や、書店員、図書館員、電子書籍の仕掛け人といった本の送り手など、さまざまな立場の人が集ってくる。「中の人」の意見は一味もふた味も違うぞ
 今回のテーマは「角川文庫」。スニーカー文庫とかルビー文庫だけならまだしも、メディアファクトリーや電撃文庫など、いわゆる「カドカワ・グループ」で考えるとえらいことになるので、どこまで限定するか(またはしないか)は、絶賛検討中…というか、ラノベ限定の会をやりたいねぇ

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ミステリとして食う「ハムレット」

ハムレット 「死ぬまでに読みたい」シリーズ。有名すぎる復讐劇だが、これをミステリとして読むと、緊迫した心理戦になる。

 WhodoneitやHowdoneitは隠しようもなく描かれてしまっているから、Whydoneitを考えなおす。台詞の表層を裏読みし、一貫した別の動機をあぶりだす。ポイントはここ→「父の亡霊を信じたか/信じなかったか」この二択のどちらを選ぶかによって、王子ハムレットの台詞が、まるで違う様相を帯びる。「善いも悪いも、考えひとつ」と、価値観の相対性をうそぶくハムレット自身に、同じ相対性をつきつけるのだ。

 もちろん流して読めば、父の亡霊から陰謀を知り、復讐に燃えるハムレットの葛藤の話になる。だが、二度読みされる方は、「亡霊を信じない」ハムレットという目で見るがいい。

 すると、彼の葛藤は、母を奪った叔父への嫉妬が生んだ幻想になる。父の葬式と母の結婚式という、受け入れがたい現実を説明する物語の語り部として、亡霊が生まれたと考える。そして、最初は自ら(の精神)を疑っていた目を、次第次第に叔父に向け、劇中劇という罠を仕掛ける。結果からすると、"幻想の亡霊"が告げたことは真実なのだが、そこへの過程が捻れているわけ。

 いや、亡霊は他の連中も見たんだから「いた」んだよ、というツッコミは有り。だが、亡霊を信じられない(でも信じたい)と苦悩していたとするなら?「しゃべらずにいれば、言葉は自分のもの。しゃべってしまえば、他人のもの」の諺のとおり、しゃべらずに(しゃべれずに)疑惑を抱え込んだまま彷徨っていたとするならば?

 そして半ば信じ、半ば疑いながらクライマックスへなだれ込む。すべてが明らかになるのは、明らかに手遅れとなってから。

 おまけ。岩波文庫ハムレットで、注釈のありがたさ(と時代性)を思い知る。世相としての「厚底ブーツ」が引き合いに出されるのを見ると、時代は急速に変わっているなぁと感じさせられる(今では絶滅種)。また、注釈「求愛行動を戦争用語で表わすのは、この時代の常套。女は城、求愛をする男は城攻めの敵軍のイメージ」を読むと、あの有名な2ちゃんねら名言を思い出す。男女の普遍性なのか、それともインテリねらーだったのか、想像すると笑える。

  童貞ってなんで馬鹿にされるの?

    処女:敵の進入を許したことのない堅城
    童貞:敵の城を攻めたことがない兵士

 次は、光文社のQ1や白水Uも照らしてみよう。

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このハヤカワがスゴい!

 オススメ本をもちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフ、今度は「ハヤカワ」だ。

 つまり、早川書房が肴だ。SF、NV、JA、HM、NF、FT、epi、演劇、もちろんハードカバーやミステリマガジンもOKだ。それではと、ハヤカワ・マイベストを選ぼうにも……これがすっごく難しい。「この新潮文庫がスゴい!」と同じで、素晴らしい本がありすぎるのだ。

 「ハヤカワといえばSFだろ常識的に考えて」、「ハヤカワといえばミステリの王、いや女王」という意見がある。全面的に賛成……なのだが、わたしの傾向では、NV(ノヴェル)やNF(ノンフィクション)を好んで読む。シリーズ丸ごと推したいのがハヤカワepi文庫。epiとは、"epicentre"の略で、「震源」のこと。海外小説の素晴らしさを伝える発信源たる思いが込められているという(こっそり「よりぬきハヤカワさん」と呼んでいる)。スゴ本が、傑作が、徹夜小説があまりに多すぎる。

 なので、ここではレーベルごとにマイベストを無理やり決める。異論は認める。「それを推すならコレも!」とか、「ひょっとしてコレ未読?」と、言いたいことは沢山あるだろう。「このハヤカワがスゴい!」あなたのオススメを教えてください」で受け付けるので、思いのたけをどうぞ。

■ハヤカワNV  「シャドー81」 ルシアン・ネイハム

シャドー81 スリルとスケールたっぷりの極上エンタメ。新潮文庫で絶版→ハヤカワで復刊して、わたしを狂喜乱舞させた曰くつきの傑作。

 プロットは極めてシンプル。表紙がすべてを物語る、最新鋭の戦闘機が、ジャンボ旅客機をハイジャックする話。犯人はジャンボ機の死角にぴったり入り込み、決して姿を見せない。姿なき犯人は、二百余名の人命と引き換えに、莫大な金塊を要求する。

 シンプルであればあるほど、読者は気になる、「どうやって?」ってね。完全武装の戦闘機なんて、どっから調達するんだ? 誰が乗るんだ? 身代金の受け渡し方法は? だいたい戦闘機ってそんなに長いこと飛んでられないから、逃げられっこないよ!

 本書の面白さの半分は、この表紙を「完成」させるまでの周到な計画にある。一見無関係のエピソードが巧妙に配置され、意外な人物がそれぞれの立場から「戦闘機によるハイジャック」の一点に収束していく布石はお見事としかいいようがない。

 そして、もう半分は、表紙が「完成」された後、ハイジャッカーと旅客機のパイロット、航空管制官の緊張感あふれるやりとりだ。無線機越しの息詰まる会話から、奇妙な信頼関係が生まれてくるのも面白い。ハリウッドならCG処理してしまいそうなスペクタクルシーンも魅所だが、時代がアレなだけに、米軍が残虐すぎるので映画化不能www

 さらに、面白さを加速しているのは、先の見えない展開だ。伏線であることは分かっていたが、まさかそこへ効いてくるなんて…と何度も息を呑むに違いない。文字通りラストまで息をつけない。未読の方こそ、幸せもの。徹夜を覚悟して、明日の予定がない夜にどうぞ。

■ハヤカワSF 「幼年期の終り」 アーサー・C・クラーク

幼年期の終り それこそ山とあるハヤカワSFのなかの、オールタイムベスト。いや、SFというジャンルをひっくるめても、オールタイムベストかも。未読の方へは「黙って読め、うらやましい奴め」といいたい。

 初読では、3回驚愕して、1回嗚咽した。悲しいからではなく、終わりを受け入れる巨大な感情に揺り動かされて。感傷を超越した、自分ではどうしようもない、取り返しのつかないものを眺めている―――そんな気分をたっぷりと味わう。死ぬのが悲しいのではない、終わるのが切ないのだ。そして、まるごと愛おしくなる。

 スゴいSFなだけでなく、優れたミステリとしても楽しめる。読み進めながらも、「なぜそんな世界設定なのか?」と立ち止まるときがある―――全能者の姿が、なぜ○○なのか? 、なぜ地球にやってきたのか? そして、"childhood's end"(幼年期の終わり)が意味するところは…? ―――展開の先読みをしつつ、その乖離を愉しんでいたら、謎あかしの瞬間、物語と感情と世界設定がぴったりと噛み合って、身体じゅうに震えが走った。

 大事なので、未読の方へ、もう一度、「黙って読め、幸せ者め」。

■ハヤカワFT 「妖女サイベルの呼び声」 パトリシア・A・マキリップ

妖女サイベルの呼び声 極上のファンタジー。緻密な心理描写と奥深いスケールに、圧倒されるのではなくのめりこむように読める。

 キャラとイベントで物語を転がす濫製ファンタジーの対極にある。「ファンタジー」なんて、しょせん剣と魔法、光と闇の活劇だと決め付けている人ほど、嬉しい悲鳴をあげるに違いない。この物語はファンタジーでしか書けないし、テーマはファンタジーを、(少なくともわたしが勝手にファンタジーだと思いこんでた範囲を) 完全に超えている。

 かといって、テーマが複雑に折れ曲がっているわけではない。魔法使いサイベルが、人の心と愛を知り、そしてそれゆえに苦悩し、破滅へ向かおうとする話。お約束の台本どおりに進まない心理劇を眺めている気分になる。

 かつて読んだファンタジーの記憶を刺激する一方で、オリジン(源)の匂いをかぎつけて嬉しくなる。黄金財宝を守るドラゴン、いかなる謎(リドル)の答を持っているイノシシ、黄金色の眼と絹のたてがみを持つライオンといった、どこかで見たイメージが交錯する。妖女サイベルは、いわゆる召喚士や幻術師が持つ能力を用いて、魅力的なケモノたちを操る。

 心理描写を幾重にも張り巡らすのに、肝心のサイベルの心情は外からしか分からないように書いてあるのが心憎い。登場人物の性格についてもほとんど説明がない。表情や動作のちょっとした描写や、唇や眉の微妙な動き、息遣いの変化が心理の動きをあらわし、読み進むにつれて各人の性格が生き生きとイメージされてくる。

■ハヤカワNF 「神話の力」 ジョーゼフ・キャンベル

神話の力 世界と向き合い、世界を理解するための方法、それが神話だ。

 現実が辛いとき、現実と向き合っている部分をモデル化し、そいつと付き合う。デフォルメしたり理由付けすることで、自分に受け入れられるようにする。例えば、愛する人の死を「天に召された」とか「草葉の陰」と呼ぶのは典型かと。そのモデルのテンプレートが神話だ。いわゆるギリシア神話や人月の神話だけが「神話」ではなく、現象を受け入れるために物語化されたものすべてが、神話になる。

 本書は神話の大家、ジョーゼフ・キャンベルの対談をまとめたもの。キャンベル本は、現代の小説家やシナリオライターにとってバイブルとなっている。例えばジョージ・ルーカス。スターウォーズの物語や世界設定のネタは、古今東西の神話から想を得ているが、その元ネタがキャンベル本なのだ。本書では、「英雄の冒険」や「愛と結婚」といった観点で古今東西の神話を再考し、神話がどのように人生に、社会に、文化に影響を与えているかを縦横無尽に語りつくす。おかげで、あらためて「分かり直した」感じだ。存在には気づいていたものの、名前を知らなかったものを教えてもらったようだ。

 例えば、かつてシャーマンや司祭が担ったことがらが、我々全員に委ねられようとしているという。衝動に駆られて行動したとき、幸福をとことんまで追求するとき、自分に何が起こるのかを教えてくれるのが、神話だった。神話を通じ、シャーマンや司祭は、何に嫌悪を抱き、どういうときに罪悪感を抱くのか、その社会の構成員の手引きをしていたのだ。ところが、神話の伝え手がいなくなったいま、判断の基準そのものが個々のものになっている。

 わたしはこれを、「価値観の多様化」「フラット化」という言葉で理解していたつもりだったが、「神話の喪失」と考えることもできる。ストーリーを自分で作り出さなければならない世の中になったんだね。子どもじみた選民妄想である「邪気眼」が、なぜか「あるある!!オレも厨二の頃考えた」となる理由はここにある。ストーリーの核は、かつて語り部だけが運んでいたが、マンガやテレビに散らばってしまっているからだろう。

 究極の真理の一歩手前にある神話の力を感じながら、世界と向き合うために、「使う」一冊。

■ハヤカワepi 「君のためなら千回でも」 カーレイド・ホッセイニ

君のためなら千回でも1君のためなら千回でも2

 乗車率200%の痛勤電車で嗚咽が止まらない。

    For you, a thousand times over
    きみのためなら千回でも

 このメッセージが本当に伝わったとき、「心がとどいた」感覚になる。あまりに強い感情にうちのめされ、立っていられないほどになった。まるで感情の蛇口が壊れてしまったよう。

 アフガニスタンの激動の歴史を縦軸、父と子、友情、秘密と裏切りのドラマを横軸として、主人公の告白を、ゆっくりゆっくり読む。描写のいちいちが美しく、いわゆる「カメラがあたっているディテールで心情を表す」ことに成功している。ニューヨークタイムスのベストセラーに64週ランクインし、300万部の売上に達したという。アフガニスタンが舞台の物語としては異例だが、これは移民の読者層が増えている証左なのかもしれない。

 祖国を離れアメリカで生活をしている人にとって、二つのスタンダードに挟まれることは想像に難くない。本書の主人公は、むしろアメリカ流に飲み込まれ、過去を深く埋めるほうを望む。この「過去」は特殊かもしれないが、ダブルスタンダードを意識する人にとって、本書は別の意義をもち始める。

 本書には、二つの「ダブルスタンダード」が折りたたまれている。一つは、戒律の厳しいアラブの男の「ダブルスタンダード」。「嘘と贖罪」の過去が暴かれるとき、気づかされる仕掛けとなっている。もう一つは、イスラム法を厳格に守る(守らせる)集団、タリバンの「ダブルスタンダード」。過去に糊塗されたダブスタが開かれるとき、強い痛みが走る、まるでわが事のように身を折り曲げたくなる。

 場所も文化も遠いのに、感情まるごともっていかれるのは、この苦悩の普遍性だ。「父と子」、「友情と裏切り」、「良心と贖罪」といったテーマは、いつでも、いつまででも古びることはないだろう。

■ハヤカワJA 「戦闘妖精・雪風」 神林長平

神話の力 現実は、SFよりもSFだ。なぜなら、あらゆる最先端の兵器の最も弱い点は、「人」なのだから。人は訓練と休息を要し、感情に左右され、よく間違える。加速度Gや水圧に弱く、そして死ぬ。「ロボット兵士の戦争」で米軍が直面している現実は、30年前描かれた架空の戦闘機・雪風に体現されている。そして、これから向かい合う未来の現実も。

 主役はなんといっても「雪風」、近未来の戦術+戦闘+電子偵察機だ。この戦闘妖精を嘗め回すような描写のデテールを見ていると、著者はこの"機"に惚れこんで書いたんだろうなぁと思い遣る。

 論理的にありえない超絶機動を採ろうとしたり、合理的な意思を突き抜けた真摯さをかいま見せるので、読み手はいつしか雪風を人称扱いしはじめる。さらに、雪風こそ全てで、「人類がどうなろうと、知ったことか」と嘯くパイロットも、"彼女"を恋人扱いするので、ますますそう見えてくるかもしれない。

 そんな孤独なパイロットが、戦闘を生き延びて行くにつれ、人間味のある一面を見せるようになる。反面、"女性的"に扱われていたマシンが、残忍かつ非情な選択をする瞬間も見せる。テクノロジーとヒューマンの融合、人間味と非人間性の交錯がメインテーマなのかも。けれども、その演出がニクい。先ほど使った「人間味」や「残忍」という修飾は、あくまでヒトたるわたしが外から付けた表現だ。そんな甘やいだ予想を吹き飛ばすような展開が待っている。次のセリフが示唆的だ。人とは何かをテーマにするため、いったん、ヒトを突き放して考えているところが、とてもユニーク。

戦争は人間の本性をむき出しにさせるものである。だがジャムとの戦闘は違う、ブッカー少佐はそう言っていた。ジャムは人間の本質を消し飛ばしてしまうと
 そう、戦況が膠着化するにつれて、ヒトからますます離れてゆく。テクノロジーが先鋭化するにつれ、搭乗する"ヒト"の存在が、機動性や加速性へのボトルネックになってくる。無人化・遠隔化が進むにつれて、「戦いには人間が必要なのか」という疑問が繰り返し重ねられてゆく。

 過去なのに今を、今なのに未来を見ている感覚になる。SFではなく、この問題は現実なのだと痛感させられる。

■ハヤカワミステリ 「初秋」 ロバート・B・パーカー

初秋 文句なし傑作。

 ジャンル的にはハードボイルドだが、大人と少年の交感ものとしてジンときたし、ビルドゥングスロマン(成長譚)とも読める。本書はスゴ本オフ@ミステリでやすゆきさんに教わった。良い出会い、ありがとうございます。

 離婚した両親の間で、養育費の駆け引きの材料に使われている少年がいる。心を閉ざし、ぼーっとテレビを見るだけで、周囲に関心を示そうとしない。私立探偵スペンサーへの最初の依頼は、「父親に誘拐された息子を母親に取り戻す」だったはずだが、放置され、ニグレクトされた少年に積極的に関わろうとする。そのスペンサー流のトレーニングがいい。

「おまえには何もない。何にも関心がない。だからおれはお前の体を鍛える。一番始めやすいことだから」
 ときには突き放し、ときには寄り添う。厳しくてあたたかい、という言葉がピッタリ。これは二色の読み方ができる。かつて少年だった自分という視線と、いま親である立場というそれぞれを交互に置き換えると、なお胸に迫ってくる。無関心という壁をめぐらす少年に、スペンサーは、妙な距離をおきつつ、「大人になること」を叩き込もうとする。

 年をとるのは簡単だが、大人になるのは難しい。そも「大人になる」とはどういうことか、わたしの場合、親するようになってようやく分かった。そして、その答えがスペンサーと一緒なので愉快になった。

「いいか、自分がコントロールできない事柄についてくよくよ考えたって、なんの益にもならないんだ」
 子どもの目線と、大人の目線と、両方で読める。どちらの立場で読んでも、あたたかいものがこみ上げてくる。

■ハヤカワ・クリスティー文庫 「春にして君を離れ」 アガサ・クリスティー


 「自分を疑う」これが最も恐ろしい。

 誰かの矛盾を突くのは簡単だし、新聞などの不備を指摘するのは易しい。科学的説明の怪しさを探すのは得意だし、だいたい『言葉』や『記憶』こそあやふやなもの。しかし、そんなわたしが最も疑わない―――あらゆるものを疑いつくした後、最後に疑うもの―――それは、自分自身。わたしは、自分を疑い始めるのが怖くて、家族や仕事に注意を向けて気を紛らわしているのかもしれない。自己正当化の罠。

 では、こうした日常の諸々から離れたところに放り出されたら? たとえば旅先で交通手段を失い、宙吊りされた場所に居続けたら? 読む本も話し相手もいないところで、ひたすら自分と向き合うことを余儀なくされる。最初は、直近の出来事を思い出し、何気ないひとことに込められた真の意味を吟味しはじめる。それは次第に過去へ過去へとさかのぼり、ついに自己満足そのものに及ぶ。

 クリスティーにしては異色作、誰も死なないし、犯人もいない。中年の女性の旅先での数日間が、一人称で描かれる。しかし、暴かれるものはおぞましい。読み手はきっと自分になぞらえることだろう。

 「いろいろあったが、自分の人生はうまくいっている」「それは全く、自分のおかげ」「わたしこそ良妻賢母の鑑だ」「あいつのような惨めな境遇ではない」「あいつがああなったのは、自業自得だ」「夫のダメな部分はわたしが正してやらないと」「いつだって子どものことを考えてきた」───こうやって書くから、読み手はこの中年女の"自己中心"が見える。しかし、それは"ほんとう"なのだろうか? 疑いはじめるとキリがない。自分の人生が蜃気楼のようなものだったことに気づく恐ろしい瞬間が待っている。

 これはありむーさんに推されて手にした傑作。ありむーさん、恐ろしい作品をありがとうございます。

■ハヤカワ演劇文庫 「セールスマンの死」 アーサー・ミラー

セールスマンの死 毒物指定、ただし社畜限定。

 読書は毒書。とはいうものの、読者によって毒にもクスリにもなる。ローン背負って痛勤するわたしには、狂気たっぷりの毒書になった。やり直せない年齢になって、自分の人生が実はカラッポだったことを思い知らされて、嫌な気になるかもしれない。全てを捨て、人生をリセットしたくなるかもしれない。

 かつては敏腕セールスマンだったが、今では落ち目の男が主人公。家のローン、保険、車の修理費、定職につかない息子、夢に破れ、すべてに行き詰まった男が選んだ道は――という話。だれもが自由に競争に参加できる一方で、競争に敗れたものはみじめな敗者の境涯に陥るアメリカ社会を容赦なく描き出している。

 見どころは、このセールスマンの葛藤。

 とても前向きで、強気で、ひたむきだ。人生の諸問題はプラス思考でなんとかなると押しまくる。今で言う「ポジティブシンキング」の成れの果てを突きつけられているようだ。自分に都合よく現実を解釈し、自らを欺き続ける主人公への違和感は、そのまま自分の人生への違和感になる。

 そしてついに、目を背け続けてきた現実が、過去が、彼をつかまえる。自己欺瞞が徹底的にあばかれるとき、読み手は思わず自分を振り返りたくなる。わたしの人生はカラッポなんかじゃないって。同時に、彼がおかしい――いや、狂っているのかどうかも分からなくなってくる。いっそ「狂気」のせいにしてしまえれば救われるのに、と念じながら読む。

 思わす自分の半生をふり返り、そこに欺瞞を狂気を見いだしてしまうかもしれない。そんな毒を孕んだ戯曲。

■ハードカバー 「ブラッド・メリディアン」コーマック・マッカーシー


 息を止めて読む。本書を読むことは、強烈な体験となるだろう。

 アメリカ開拓時代、暴力と堕落に支配された荒野を逝く男たちの話。感情という装飾が剥ぎとられた描写がつづく。形容詞副詞直喩が並んでいるが、人間的な感覚を入り込ませないよう紛れ込ませないよう、最大限の努力を払っている。そこに死が訪れるのならすみやかに、暴力が通り抜けるのであれば執拗に描かれる。ふつうの小説のどのページにも塗れている、苦悩や憐憫や情愛といった人間らしさと呼ばれる心理描写がない。表紙の映像のように、ウェットな情緒が徹底的に削ぎ落とされた地獄絵図がつづく。

 感情を伴わない暴力は、自然現象に見える。しかも、その行為者が人間の場合、一種奇妙な感覚にとらわれる。即ち、その殺戮は必然なのだと。生きた幼児の頭の皮を剥ぐといった、こうして書くと残忍極まる行為でも、実行者は朝の歯磨きでもするかのようにごく自然に「す」る。もちろん行為の非道徳性を批判する者もいるが、どちらも感情が一切混じえてない会話・行動なので、読み手は移入させようがない。起きてしまったことは撤回されることはない。

 強靭で的確でスケールのでかい記述にたじたじとなる。地の文と会話が区別なくよどみなく進み、接写と俯瞰の切替は唐突で、動作は結果だけシンプルに続く。人間のセリフだけが意味あるものとしてカッコ「 」に特権化されていないため、人の声も風の音も銃声もすべて等質に記述される。

 このどこにもない物語は、あたらしい神話と呼ぶにふさわしい。

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 駆け足で一気に紹介したが、ぜんぜん足りない。オーウェル「一九八四年」は?キイス「アルジャーノンに花束を」は?伊藤計劃「虐殺器官」を外すなんて! マッカーシーなら「すべての美しい馬」だろ常考、ファンタジーならエディングス「ベルガリアード物語」が一番って言ってたじゃねーか、ハヤカワNVなら、いろんな意味で目を真っ赤にして読んだ「女王陛下のユリシーズ号」しかありえねぇ、ひょっとして国民的大ベストセラー(ただし未完)の「グイン・サーガ」がハヤカワだってこと、忘れたわけじゃないだろうね―――いくらでも、どこまでも、とめどなく出てくる。スゴ本オフがたのしみだーッ

 ここに紹介した作品はどれも傑作なので、オフ会に参加される方のとカブることもあろうかと。被っても無問題、自分の思いを語ればよし。重畳上等、被るということは、より強力にその本をオススメしたくなるのだから。


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大学入試問題で語る 数論の世界

大学入試問題で語る数論の世界 素数、完全数、ゼータ関数…数論の入門書は多々あれど、料理の仕方が素晴らしい。大学入試問題を俎上にのせ、次々と問題を解くことで、数論の深さと美しさを堪能するのだから。

 高校生なら受験勉強を兼ねた好著になるが、むしろ本書は受験を終えた人にオススメ。受験勉強として通り過ぎるには勿体ないから。かくいうわたしこそ、学び直すべき。「数学は暗記科目」と割り切ってチャート式をひたすら"覚えて"しのいでしまったからなぁ。

 そして本書は、「問題を解いて終わり」ではない。解いた後、問題が語りかけている世界の本質を知らせるよう、問題を「改変する」のだ(ここが面白い&恐ろしい)。面白いというのは、ほんの一部を変えるだけで難問になりかわり、全く異なるアプローチを要するところ。さらにちょっとヒネるだけで、大学入試問題が、今なお解決されていない問題に大化けする。数論の先端を知るとともに深淵を覗き見たような気分になる。

 たとえば、2006年の京都大学のこの問題。

2以上の自然数nに対し、nとn^2+2がともに素数になるのは、n=3の場合に限ることを示せ
 この解法はすんなり入れた。

   n=2のとき n^2+2=6
   n=3のとき n^2+2=11 ←これだけ素数
   n=5のとき n^2+2=27
   n=7のとき n^2+2=51=3・17
   n=11のとき n^2+2=123=3・41

 n=3以外は3で割り切れるように「予想」できる。なので、nを3で割った余りで分類するのだ。n≧5のとき、nが素数であることから、n=3k+1、n=3k+2の2つの場合がある。

   n=3k+1のとき
    n^2+2
    =9k^2+6k+3
    =3(3k^2+2k+1) ←これは3の倍数

   n=3k+2のとき
    n^2+2
    =9k^2+12k+6
    =3(3k^2+4k+2) ←これも3の倍数

 で京大が解けてめでたしメデタシ…ではない。著者はさらに条件を締めて「n^2+2が素数となるのはどのような場合か」を考える。等差数列、つまり自然数nの一次式{an+b}について、aとbが互いに素であるならば、この中に素数が無数にあるというディリクレの算術級数の定理を引き合いに出した後、まだ分かっていないというのだ。

 代数的に見れば何もいうことはない式なのに、これを素数という観点から眺めると荒野に放り出されるらしい。ただ、不思議なことに、楕円曲線と関係があることは分かっているとのことなので、数論はいくらでも遊べそうだ。

 その時代のトレンドを映した問題もある。1998年の信州大学なんてそうだ。フェルマーの最終定理のニュースを受けて、こんな問題がある。

フェルマーの定理を知らないものとして、次を証明せよ。「x,y,zを0でない整数とし、もし等式x^3+y^3=z^3が成立しているならば、x,y,zのうち少なくとも一つは3の倍数である」
 もちろん問題を出す人も解く人も、フェルマーの最終定理が完全に証明されたこと、その証明は複雑すぎてとても入試問題にならないことを知っている(はず)。でもそいつを和らげて(n=3)、ちゃんと問題に仕立てているのは面白い。これは背理法で解けるので、お試しあれ(p.80)。

 完全数や黄金比、パスカルの三角形、フィボナッチ数列あたりまでは楽しめたが、ゼータ関数やリーマン予想は歯が立たなかった。「数学ガール」を読み直そう…

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「女と男」のスゴい本

 質量旨さ、本も料理も凄マジいい夜だった。

 好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。始めて2年になるのだが、回を追うごとにパワーアップしている。出てきた本も料理も洒落にならんほど多量多様・ハイレベル・ユニークで、このエントリでは書ききれない。雰囲気ぐらいは伝わるので、これ見たら飛び込んどいで。

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 今回のテーマは「女と男」、つまり男性の参加者は「女が書いた/女をテーマにした本」だし、女性なら「男が書いた/男をテーマにした本」になる。男の身勝手さ(純粋さ?)と、女の率直さ(素直さ?)が、選書にもプレゼンの端々にも見いだされ、男と女の巨大な深淵と壮大な誤解をかいま見る。わかり合えないからこそ、やってこれたのかもしれないね、人類の男と女は。

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 何をどうオススメするかによって、その人となりが如実に出る。深く濃くやわらかい趣味全開のトークもあれば、紹介する本がそのまま自分の半生にからめた物語りとなるプレゼンもある。本だけでなく、語る人が面白いのだ。

 「女と男」のテーマから、どうしても男女関係へ走りがち。そんな連想をいったん留め、「オトコが好きなもの」もしくは「オンナが惚れるもの」を再考する発想も素晴らしい。そこで分かったことは、Tumblrで親しんだこの名言になる。これ、額に入れて玄関に掛けておくべき。

“たんぶらを見ていると、男の人が女の人を好きな程には女の人は男の人を好きじゃないかもという気がします。”
 面白いナー、と惹かれた議論は、「男だから成り立つ物語」や「女でしかありえない展開」があること。つまり、逆は成り立たないことがあるのだ。性差云々とジェンダー気味の論になりがちだが、レッテル以前に、少なくとも著者読者の了解事項が存在する。

春琴抄 たとえば「春琴抄」。盲目の美女・春琴に惚れ込んで、身も心も捧げる男の話。ある事件をきっかけに、彼女のため、「ある究極のこと」をするのだが───この「あること」、できるだろうか?もちろんほとんどの人はできない。

 しかし、もしできるとするならば、それは男でしかありえぬ。女なら、もっと違った、別の選択をするに違いない。なぜなら、(反転表示)自らが盲目になってしまったら、もう春琴の世話ができなくなるから。ここは合理的に考えるのが普通だ、そして不合理な一線を越えてしまうことが出来るのは、莫迦な男だけなのだ。

まどかマギカ あるいは、「魔法少女まどか☆マギカ」。ただ一つの願いの代償に、魔法少女として命を賭して戦う少女たち。彼女たちの願いは、(傍からは)ほんのささやかなものだったり、愛する誰かのための自己犠牲だったりする……のだが、その代わりに引き受ける運命が、あまりにも過酷なのだ。絶望的な情況で、ずっと無力な傍観者だったまどかが選んだ「願い」は───

 誰であれ、この「願い」を選べない。他の魔法少女の願い事なら、思いつくのだが───それぞれの大切な"人"や"思い"への献身───それならわたしでもできる。しかし、まどかが願った「たったひとつの想い」は、とても合理的で、母性的で、わたしのみならず、男という男は、思いつくことすらできないだろう。

 春琴やマギカは、男女を入れ替えると成り立たない。春琴を惚れ抜いた男がヤったことを、あらゆる女ができないように、まどかが選んだ運命は、あらゆる男は背負えない。これ、両方を読んだ/観た男女と、ネタバレ全開トークしてぇ…

 ちなみに、わたしがプレゼンした内容は、だいたいココで語っている。源氏ネタだと女子の食いつきがいいので、「あさきゆめみし」はもっと若い頃に読んどきたかったね…

 今回の「まとめ」は、ズバピタさんの実況まとめが生々しくっていいぞ。みさわさんの、もうやめて、男子のライフはゼロよ>ω<は、「女vs男」の目線で観たレポート。しょせん女と男、戦っても勝てるわけがないことがよく分かる。

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 今回のランナップは以下の通り。モレヌケありまくりなのでご容赦。

  • 「ここ10年分のヒロシ。」田丸浩史
  • 「女子をこじらせて」雨宮まみ
  • 「クリスタル・シンガー」アン・マキャフリイ
  • 「キラシャンドラ」アン・マキャフリイ
  • 「Motor Fan SUBARU Technology Details」
  • 「RALLY & Classics 05」
  • 「Tiger & Bunny」榊原瑞紀
  • 「武器製造業者」ヴァン・ヴォークト
  • 「ジョゼと虎と魚たち」田辺聖子
  • 「泣き虫チエ子さん」益田ミリ
  • 「「フィルムカメラの撮り方きほんBook」
  • 「母の発達」笙野頼子
  • 「芋虫」江戸川乱歩
  • 「少女病」田山花袋
  • 「巴里の憂鬱」ボードレール
  • 「痴人の愛」谷崎潤一郎
  • 「高慢と偏見」ジェイン・オースティン
  • 「愛と笑いの夜」ヘンリー・ミラー
  • 「シェリ」コレット
  • 「女ごころ」モーム
  • 「錦繍」宮本輝
  • 「おんなのことば」茨木のり子
  • 「あさきゆめみし」大和和紀
  • 「ロリータ」ナボコフ
  • 「春琴抄」谷崎潤一郎
  • 「ノルウェイの森」村上春樹
  • 「イノセントワールド」桜井亜美
  • 「乱暴と待機」本谷有希子
  • 「軽蔑」中上健次
  • 「ファミリーポートレイト」桜庭一樹
  • 「チッチと子」石田衣良
  • 「クワガタクワジ物語」中島みち
  • 「会社の人事」中桐雅夫
  • 「奇跡の人ヘレンケラー自伝」ヘレン・ケラー
  • 「1リットルの涙」木藤潮香
  • 「いのちのハードル」木藤潮香
  • 「ぼくたちが見た世界」カムラン・ナジール
  • 「愛に関する十二章」五木寛之
  • 「老人と海」ヘミングウェイ
  • 「#9 ナンバーナイン」原田マハ
  • 「マスターキートン」浦沢直樹
  • 「ジャッカルの日」フレデリック・フォーサイス
  • 「プラダをきた悪魔」ローレン・ワイズ・バーガー
  • 「太陽の塔」森見登美彦
  • 「若き数学者のアメリカ」藤原正彦
  • 「こころ」夏目漱石
  • 「人間失格」太宰治
  • 「豊穣の海」三島由紀夫
  • 「もてない男」小谷野淳
  • 「かめきちパパの365日レシピ集」亀田保
  • 「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」ランス・アームストロング
  • 「あなたのために いのちを支えるスープ」辰巳芳子
  • 「小悪魔な女になる方法」蝶々
  • 「モテれ。」春乃れい
  • 「「かわいい」の帝国」古賀令子
  • 「重力の都」中上健次
  • 「女である時期」野口晴哉
  • 「ちはやふる」末次由紀
  • 「フラニーとゾーイー」サリンジャー
  • 「ああ息子」西原理恵子
  • 「魔法少女まどか☆マギカ」Magica Quartet

 次回も凄マジいいぞ、ハヤカワ・オンリーのスゴ本オフなり。SFを始め、NV、JA、HM、NF、FT、epi、演劇、もちろんハードカバーも有りあり。ハヤカワ・マイベストを熱く語ろうまい。残念ながら、あっという間に定員が埋まっちゃったので、募集は締切り状態。ただし、「どうしても」という方や、初参加なら枠がある(はず)なので、twitterなら@yasuyukima、facebookならやすゆきさんに申し込んでくださいませ。

 日時 5/12(土)13:00-20:00
 場所 半蔵門
 会費 2000円

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「それでも、読書をやめない理由」は何だと思う?

 いきなり結論、答えは「情報過多だからこそ、本を読むことが重要」になる。

 結論はシンプルだが、ここへたどり着くまでの曲折は、身に覚えありまくり。そして、この結論そのものも激しく納得できる。「やっぱり本が好き!」この理由を腑に落とすことができる、貴重な一冊。

 著者は批評家で、大学では文学を教えている。本を読むのが仕事なのに、ある日、読書に集中できなくなった自分に気づく。

 もちろん、誘惑しているのはネットだ。メール、チャット、ブログ、ツイッター、フェイスブック、ニュースサイト……テクノロジーがもたらすノイズに注意散漫となり、ネットサーフィンの合間に本を読んでるようなもの。ミソとクソと絶え間ないざわめきの中で、作家の権威は失墜し、物語の力は骨抜きになる。

 著者の悩みは身に染みる。実際、イマどきのモノ書きが直面している問題は、まさにこれだろう。彼は、息子の宿題をダシに「グレート・ギャツビー」を再読しようとするが、どうしても読めない。とどめは息子の一言、「もう、だれも本なんて読まない、本は終わりなんだ」。

 ここからの葛藤に揉まれる。大統領のスピーチに対するネットの反応から"結論を編集する"ネット世論を批判/自己批判する。フェイスブックを用いた文学の新しい「ふざけかた」を紹介する。あわせて自分の青春時代を振り返る。カフカ「変身」の一日前をテーマにした自主制作映画を思い出し、文学はメディアによって何層にも読めることに、改めて気づく。

 さらに、テレビのリアリティ・ショーが「リアル」の意味を歪め、行過ぎたニュース解説の物語化が物語というジャンルを台無しにしたと指摘する。ネットでは、シャワーのように最新情報を浴び、わかりやすい言説に飛びつき、したり顔コメントを鵜呑む。そこでは考えよりも反応、知識よりもイメージが優先する―――はやく、はやく、もっと、もっと。

 「もう、本は終わりなんだ」という一言は、著者をうちのめすよりも気づかせる。本を読むことと、情報にもみくちゃにされることとは、まったく逆の姿勢が必要なんだと。本を頼りに、時間の急流から身を引き、現在から距離を置く。そうすることで、本来の「わたしという人間」のありようを取り戻せる、というのだ。

 そこでは、余裕をもって深くのめりこむ姿勢が求められる。一つのページで完結している断片化されたトピックならネットに吸収されるだろうが、順番に進めないと分からないような文脈や、積み上げ形式のコンテンツは「本」が引き受ける。著者の読書観は、次の引用に端的に顕れる。

少なくとも、わたしが本を読むのは、話の底にひそむものを見つけ出すためであり、挑発され、混乱させられるためであり、それまでの価値観をゆさぶってもらうためだ。同時に、作品を読まれる作家たちのほうも、いやおうなく自分たちの価値観を問い直しているのだ。

 ここは、わたしが「スゴ本」と読んでいるものに近い。「スゴ本=凄い本」とは、読む前後で自分の中の何かが変わるほど凄い、という意味だ。単に知を摂取した、ではなく、吸収したモノが体内(胎内?脳内?)で化学変化を引き起こすようなものになる。

物語とは、混沌に立ち向かうための装置であり、一連の可能な解釈を認めつつ、いつでも変わる可能性があると認めるための装置でもある。物語は、芸術的なものも政治的なものも、持続的な集中を求める。

 面白いことに、著者はこの「本」を紙の本に限定しない。出たばかりの頃のKindleやiPadにおける電子書籍を、「貧弱なもの」「(本来の読書における)補助的な役割」といった位置づけに留める。だが、本書の後半で信者と化す。輝かしい本の未来を、このデバイスに夢想する。

 そうかな?「本」としての役目なら、充電無用、起動ゼロ秒の紙の方が良いぞ。長い目なら、アプリとOSとデバイスのサポートがついてまわるのはリスクだぜ―――わたしのツッコミを尻目に、彼は、より根源的な「紙の本の優れた特質」を暴く。これは、どんなにKindleやiPadが進化しても、電子書籍よりも紙の書籍を好み続ける理由のひとつなんだという。それはこうだ―――

紙の書籍は、何もしないのだ。紙の本はわたしが集中することを助けてくれる。読書以外にすべきことは何も提供しない。紙の本は、検索も更新もしない代わりに、わたしが取り組むことを静かに待っている。

 何かと注意散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだという。そして、わたしたちが物事に向き合わないことを何よりも望んでいるこの社会において、読書とは没頭することなのだと。それは早く終わらせるものでなく、時間をかけるもの。時間をかけて本を読む根本には、それによってわたしたちは時間と向き合うことにつながる。

 本に没入することで、自分を取り戻すという主張は、非常に逆説的だが、ここに至る著者の葛藤を伴にしてきた読者なら、激しく頷くことだろう。

 昨今の読書を取り巻く環境の変化は、まさしく市場の変化をレポートした「本の現場」や、やせ我慢的な遠吠えに聞こえなくもない「本はこれから」などが象徴的だ。だが、ここまで自分に引きつけられた、「イマどきの読書」も珍しい。

 本を愛し、憂える人にオススメしたい一冊。

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「スゴ本オフ」のロゴ募集します

 好きな本をもちよって、まったり熱く語り合う。凄い本と出会えるだけでなく、それを読んでる人から直接オススメされる。スゴ本オフは、文字どおり、「わたしが知らないスゴ本を読んでるあなた」との出会いの場でもあるんだ。

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 本を受け取る側だけに限らない。本を送り出すほう―――著者、編集者、デザイナー、書店や図書館の中の人も巻き込んで、かなり面白い方向へ転がっている。個人的な体験だった読書が、みんなの輪をつなげる行為になる。

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 持ち寄る本のテーマも、「SF」や「ミステリ」といったジャンルから、「愛」や「食」、「戦争」などのキーワード連想、変り種だと「新潮文庫しばり」もある。だんだんシリーズ化してきたので、ここらでロゴを募集します。ラジオ体操みたいにスタンプ押せたらいいね。

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 窓口は、やすゆきさんの「勉強会もイベントも社会と関わるゲームと思ってやるとそれはそれで含蓄がある楽しい遊びになると思うけど気のせいかもしれない。」をご覧くださいませ。

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人生を思い出す「あさきゆめみし」

あさきゆめみし 「女と男」をテーマにするならコレ。そして、読まずに死ねないのもコレ。

っとばかりに、積読山から発掘してくる。"源氏"は受験勉強で断片しか読んでないのと、どこかの引用エピソードでしか知らなかった。だからコミックとはいえ「通し」で読むのはこれが初。

 幾重にも深読みできることは知っていたが、百聞一読、本作へのわたしの勝手なイメージが潰えるのが小気味いい。プレイボーイの女漁り、きらびやかな殿上話、マザコン、ロリコンのみならず、ツンデレ、ヤンデレ、萌え成分満載の、枯れた、不倫の、裏切りの遍歴譚───という思い込みは、全て正しく全て誤り。

 一言で語るなら、これは子どもには勿体ない(ましてや受験生の年頃なら絶対ワカラン悔恨譚)。エエトシこいたおっさん・おばさんが読んで、もう絶対に手に入らない、若かりし暴れん坊の自分の心を懐かしむ話なんだ。

 もちろん、ドラマティックな盛りはある。生霊となり死霊となって憑き殺そうとする女の「想い」はすさまじく、並のホラーの何倍も恐ろしい場面もある。ずっと片想いを貫き通そうとしたら念願かなって、コミカルな恋のさや当てに広がる展開もある。愛とは人を、鬼にも邪にも変えてしまう空恐ろしさを自らにあてはめることもできる。

 だが、源氏物語の本質(というかメッセージ)はこれに尽きる。全ての栄華を極め、あらゆる富と名声を手中にし、世界を運営するがごとき存在になって、これに気づく。自らの半生を総括した魂のセリフだ。

   なぜ…
   …なのだろう…

   …なぜ…
   わたしという人間は
   しあわせになれなかったのか

   しあわせになれるはずの人生であったものを
   なぜ自らそれをこわすようなことをしてきたのか

   なぜ
   たったひとりの
   最愛の人さえ…

   幸福なまま逝かせることが
   できなかったのか…

   …わたしという人間は…

   まるで人というものの愚かしさ…
   悟りの地にいたることのむずかしさを…

   御仏がわたしをとおして
   世の人に教えているようではないか…

 死ぬまでに複数回、これを聞くだろうが、次は"幸せな奴"を探しながら読むことにしよう。

 初回で気になったのは、この光源氏、島耕作並みに仕事をしない。大臣やら大将やら、要職を務める重鎮ならば、も少し政務を仕切るシーンがあると思いきや、ものの見事に仕事をしていない。「仕事で忙しい」は会えない言訳の枕詞として扱われる始末。それでも面白いように出世していく。

 下世話な言い方するならば、「女の尻を追いかけている」うちに出世の途へ乗っかっている。そして、後から振り返ってみると、あっちこっち手を出して関係を築いたのは、最終的に自らの地位を確立するネットワークを編み出すプロジェクトを遂行していたかのよう。つまり、回り道に見えても伏線だったり、いったん表舞台から去ったのは、もっと大きな厄をやりすごすための見えざる「しかけ」に沿った台本のようなのだ。まるで物語のようによくできている(って文字通り"もの語り"なのだが)。

 さすが1000年間のベストセラー、現在にいたる様々な作品と照応した読みができる。わたしの偏見も入ってた「ロリコン」の観点から振り返ると、両方を深く掘れる。両作品に共通する、覗き見たょぅι"ょを誘拐して養女にして、幼女のまま手籠めにするなんてなんといううらやま盗ッ人猛々しいことか。だが、同じロリコンでも、本家本元のナボコフのとは真逆の価値観に立てて、非常に面白い。

 なぜなら、幼女誘拐→養女育成→手籠め蹂躙のプロセスは同一ながら、紫の上は少女から大人へ成長していくことが求められ、ドロレスは永遠の美少女・ニンフェットのままであることを強いられる。

あさきゆめみし つまり、「去年より今年はまさり、昨日より今日はめづらしく、常に目慣れぬさま」の人として賞賛される中年女性と、あけすけで信じられないくらいお腹が大きくなって、こけた頬に脇毛も伸び放題の17歳と、どちらも同じ言葉「愛する」で向かい合える。最初の欲望は同じかもしれない(俺専用の愛玩物)。だが、人はうつろう。特に女はだ。それを前提としてつきあうことと、変わった相手をむりやり受け入れようとすることは、まるで違う。

 かつて劣情を注いだ"ロリータ"を見いだそうと残滓を漁る男と、ママの面影を漁るあまり近親相姦危険域を彷徨する男は似て非なる。人は変わる。己もだ。そいつを折り込んでいられる分、光の君のほうが一枚上手だな(しかし、変化を超えようとするハンバート・ハンバートのほうが健気だな)。

 「女と男」の男目線から、"女に狂う"感覚をオーバーラップさせるなら、源氏とロリータは見事に重なる。あらゆる理性の壁をうちやぶって、もの狂おしく、せつなく求める心(でも性欲で説明がつかないんだよ不思議なことに)。

 このトシになると、「わかんない方がいいこと」もしくは「知らないまま死ぬ方が幸せなこと」に入ってくる、"恋"についての回答が書いてある。解が空だと分かっても心配いらぬ、きっと「それは違う!」と言い切れる人が、あたらしい恋を生きることができるから。

 受験生には勿体ない、エエトシこいた大人向けのファンタジー。

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生き方とは住まい方「東京R不動産2」

東京R不動産2 「性格は顔に出る、生活は体型に出る」という寸鉄がある。これに「生き方は住まいに出る」を加えたい。というのも、本書には、ユニークな物件を住みこなしている人となりが強く出ているから。

 「Real Tokyo Estate / 東京R不動産」は、新しい視点で不動産を発見し、紹介していくサイトだ。ありがちな『ふつうの』物件を集めて、立地と広さと価格をデータベース化したものではない。エッヂの利いたこだわりや独自嗜好をもつ人と、『ふつうじゃない』物件をマッチングさせる出会いサイトだといっていい。さらに、「欲しいのがないなら、作ればいい」と建築プロデュースやリノベーションまで手がけてしまう。

 その中で、コレハ!というのを集めものが本書になる。いわば、不動産のセレクトショップのカタログなのだ。マニアックな物件を見ていると、住まう発想を縛っていた制約がとっぱらわれる快感を味わう。住宅情報誌を眺めて「いいなぁ、こんなとこに住みたいなぁ」という受動的願望ではなく、「自分の大切な○○を最大限に活かす住まいはどれだろう(なけりゃ作るか)」という、積極的欲望だ。

 たとえば、屋上物件と称した16平米のワンルーム。ビルの屋上だから眺めはサイコーと宣うが、夏は過酷で冬は冷酷のはず。あるいは、ミクシィの住空間化。独身寮を改良して、日本版「フレンズ」みたいなシェアハウスがある。ずっと住み続けることはないだろうが、人生のソロ期に過ごしてみたい。学生のとき独身寮は経験済みだが、これは性別無用のシェアハウス、微妙に緊張する毎日になりそう。

TOKYOSTYLE 書籍とサイトに共通しているのが、雑誌感覚。フックの入ったコピーでつかみ、特徴的なスナップで惹いて、リード文で取り込む。雑誌と建築のハイブリッドな編集の仕方になっており、脳の違う場所が同時に刺激されて面白い。これは、東京に棲む人々の生々しい生活空間を活写した「TOKYO STYLE」と同じ。TOKYO STYLE が部屋を通じて住まい方を観る写真集なら、Real Tokyo Estate は住宅を通じて住まい方を知る写真集になる。この雰囲気は、コラムが参考になるかと。

 著者のメッセージで響いたのを引用する。住まいを変えることはまずないだろうが、住まい方を変えるトリガーになる。

人口はどんどん減っていき、家はどんどん余っていく。所有という欲求や概念さえ少しずつ薄くなっている。それよりも誰と、どのような環境で、何を語り、何を食べるか、そうした時間のほうがずっと大切だ。
 住むことについて、もっとワガママになってもいいんだなぁ、と改めて気づかされる。もちろん懐具合や同居者との相談になるが、ライフスタイルに合わせて住まいを「選ぶ」だけでなく「変える」ことも、充分にアリなのだ。とはいえ、自分の部屋すらないわたしは、家庭内ノマドとして生きてゆくか。

 住まう常識に、ガツンと一撃。

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さよなら、プリキュア

 はっきりいって、俺サマ大勝利の気分だった。

 人目を気にしぃ映画館に集結するヲタを尻目に、「パパと一緒に観ようね」と娘の手を引き入場行進できる優越感。「ミラクルライトは子どもだけ」という制約には、「2回行けば平和的解決」とオトナの対応。

 しっかし、今度のプリキュアはスゴいね、ごく普通の、ただの女の子、なんたって戦わないプリキュアだもの。抱きしめるだけで昇華させられるって、なんという女神だろう。わたしの知る限り史上最短は10センチ爆弾だけど、そいつを超えるゼロ距離攻撃だぜ。

  大切な人を守りたい
  そんなやさしい心があれば

  女の子は誰だって
  プリキュアになれる!

 だから俺だってプリキュアになれる!ピンチのときは「プリキュアに、力を!」と(心の中で)唱えつつ、ジャラジャラさせながら歴代ミラクルライトを一斉に点ける。月光に照らされた蛍の群れのような館内で、ここだけ薔薇色と日光の輝きに満ちあふれる。「なにあれー」「スゴーい」鵜の目と鷹の目でこっちを見てる女児(およびミラクルライトを持たないヲタ)の視線を浴びていると、我が鼓動は激しく律動し、我が松果体から変な汁があふれ出る。

 ところが、である。桃の花が咲く頃から、近所の女児たちで、脱プリキュアが始まったのだ。ポケモンからモンハンに移行するように、プリキュアからプリティリズムに移り変わる。高価な玩具を買ってもらう代わりに、フィギュアスケート教室へ通いだす児もいる。

 でもあれって変だよ!美しい旋律に合わせ、「お洋服の声が聞こえる」と叫びながらジャンプするだけで、マカロンやら果物が出てきて、だいたいあれ、"プリズムストーン"って初代のパクリやん、パパ許しませんよ! (あとちっちゃくない種島さんも)。どちらが本家か、黒白はっきりさせようじゃないの。

 …とはいえ、冷静に考えると、他人事ではない。「Change!」(バラク・オバマ)、「気合だキアイだ」(アニマル浜口)、音撃棒(響鬼)、サザエさんじゃんけんなど、換骨奪胎はよくあること。大きな声では言えないか、海より広い心で受け止めてあげましょ。

 だが、いつか告げられる日がくるかもしれない、「パパ、まだプリキュア見てるの?」ってね。だから、これは一時の夢なのだ。休日の陽気な日差しを浴びながら、嫁の冷たい視線も一緒に浴びながら、薄荷に檸檬を混ぜたジュースでも飲みながら、苺ケーキを食べながら、紅顔の娘と仲良くプリキュアを鑑賞するなんて。

 ひょっとすると(しなくても)来年、いやもうすぐなのかもしれない。「パパ、なんでプリキュア見てるの」と問われる日が。わたしの答えが何であろうとも、反応は分かっている。嫁と同じ眼になるだろう…

 そのときは、心の中で告げるんだ、「さよなら、プリキュア」ってね。そして、もって行き場のない情熱を抱えながら、録り溜めしたプリキュアを深夜に再生するんだ。その日がくるまで、この幸せを噛みしめよう。

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