「世俗の思想家たち」はスゴ本
経済学の目的は、人の営みの本質をヴィジョンとして描くことが分かる。そして、経済学は科学でないことが、やっと腑に落ちる。
スミス、マルクス、ケインズ、シュンペーター、経済学説史上の巨人たちの言動がときに生々しく、ときにユーモラスに語られる。彼らは皆、学説や主義の発明者というよりは、目の前の現実社会に影響を受けながらも、「なぜそうなっているのか」を得心しよう/させようと奮闘したのだ。
彼らの出自も栄達もさまざまだ。裕福な教授もいれば、極貧の文筆家としての人生を送った者もいる。共通していることは、彼らの描くヴィジョンは、それぞれの個人的な経験に裏打ちされているところ。絶対的なプリンシパルがあって、そこから証明や体系を拡張したものでないオリジナリティが、経済学を世俗の思想にしている。
たとえば、冷酷な物言いで追い詰められた感じを漂わせ、重苦しく、希望を失った人生を送ったマルクスが構想したのは、「破滅に向かう資本主義」だ。いっぽう、自らが愛した人生を、軽快に気楽に、そして首尾よく乗り切ったケインズは「持続可能な資本主義」の立役者となった。資本主義の崩壊を予言する情熱の下地に、マルクスの神経衰弱を見たり、一般理論の説得力の裏側に、ケインズの陽気さと闊達さを透かすことができる。
つまり、言説には彼ら個人の、ひいては当時の世の中の裏付けが存在するのだ。インターナショナル全盛のときは、資本主義は打倒されることが真実だったし、帝国主義の勃興は、資本主義がみずから課したジレンマから逃れるための、歴史的趨勢だと考えられた。それらは、真実というよりも信念、つまり、ヴィジョンを指す者が何を信じるかに依存する。
一部の(?)経済学者に対し、虫酸が走るのはここだ。モデルや数式や比喩を扱うのは問題ない。自らのアイディアを表現するとき、モデルやグラフや式にするほうが分かりやすいからだ。あるいは、「たとえ」を用いて理解を促すメリットもある。
この場合、以下を主張するのは、「正しい」。
1.このモデル(式、比喩etc)から、この事実の説明ができる
2.このモデル(式、比喩etc)が正しいならば、次はこうなる
しかし、次を主張するのは、おかしい。
3.次はこうなる。なぜなら、このモデルが示しているから
この主張は、モデルの正しさを当然視するあまり、「このモデルが正しいならば」という前提が抜けている。比喩や数式を駆使してモデルの説得力を高めることにやっきになるあまり、「モデルが正しい」ことは扱う人々の社会的環境に因ることを忘れてしまう───これが嫌らしいのだ。
その「正しさ」加減が追試可能で、追試されているのが科学で、「正しさ」と「もっともらしさ」をはき違えているのが経済学。そして、モデルの数式がいかにも科学カガクしているので、余計に痒い。数式としての正しさと、数学的な正しさは別物であることに気づかないのが痛い。
スタンリー・ジェヴォンズの純粋数学的な経済理論では、緻密な正確さをもった理論体系に還元できないパラメータを全部外している。つまり、理論に合わない現実は、見なかったことにするのだ。「詭弁としての経済学」は、自分で自分の首を絞めている。
経済学を支えるのは、「何を信じるか」に過ぎぬ。相対する人の生い立ちや社会的情況に依存するのだ。ペシミストが見た社会は崩壊の危機に瀕しているし、(経済的に限らず)様々な意味で楽に・楽しく生きてきた人にとっては別の見方ができる。
自らの信念に因り、モデルの説得力を高める、これが(その人にとっての)経済学の目的だ。では何のために?現在を理解し、より良い未来のためできる手立てを選ぶためだ。だから経済学者の舌は重い。間違えた場合、死なない程度に切り取られても文句は言えないくらいの重責を負う。
しかし、紙以上に軽く回転する舌を持つ「経済学者」がいる。床屋談義の先見自慢でいいのなら済むが、うっかり為政者の/独裁者の耳に入ったならば、国が滅ぶ。酒屋で一席ぶつ程度なら勝手だが、採用されたならば、その舌、懸けろよと言っておく。
そして、同じ理由で本書は面白い。それぞれの主張の根拠と動機は、赤裸々な彼らの半生かもしれない。だが、そこから照射される現実は、確かに強い説得力を持って現在に通じる。本書のテーマとして、そして結論として、そうした説得力をもつ「ヴィジョン」が無くなっていることが強調されている。
だが大丈夫、いま見えないだけで、すこし経つと適切な名前が見つかるはずだ。そして、「あんな時代があったねと、いつか笑って話せる」ってね。「ブラック・スワン」は「分かりません」の別名かもしれないが、まだ名付けられてないならOK、「エコノミカル・ハイバネーション」とかね。
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