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「白鯨」は、スゴいと言うより凄まじい

 鯨で世界を束ねる、野心マンマンの試み、大成功。

白鯨上白鯨中白鯨下

 メルヴィルは、「鯨辞典」を書こうとしたに違いない。だが、あまりの博覧狂気っぷりに読者は逃げ出すだろうと踏んで、興味をつなぎとめるため、モービィ・ディックとエイハブの物語を織り込んだのだろう。

 あるいはメルヴィルは、30人の命を奪い、3隻の捕鯨船と14艘の捕鯨ボートを破壊し、2隻の商船を沈没させた「モチャ・ディック」というマッコウ鯨(実話)をテーマに、冒険小説を書こうとしたに違いない。だが、鯨そのものに魅了されるあまり、ついには関連するネタ全てをぶちこんだ全体小説に仕立てたのだろう。

 そう、これはラーメンでいうなら「全部入り」、小説ならば「ピンチョン」だ。執念と薀蓄が詰まったどんぶりに顔つっこんでむさぼり喰らう読書になる。その生態から始まり、消化器官や神経系の詳細な説明や骨相学的見解を逐一述べる一方で、苛酷な捕鯨の現場を簡素かつ的確かつ生き生きとリポートする。見つけ、追いつめ、しとめる場面は"狩り"そのもの、血が騒ぐ。

 捕鯨というより、闘鯨、そして屠鯨の場面に、手に汗ずっと握りっぱなし。150年と大海原を隔てているのに、読み手の闘争本能が燃え上がる。ずいぶん昔に失われた狩猟魂に、いきなり火が点けられる。おもわず拳をつき上げ「うぉぉっ」と叫びたくなる自分を押し留める。

 とはいえ、本体の構造は複雑妙味で衒学的なり。詩、論文、小説、伝説、口伝、物語、手記、神話、報告書そして聖書からの抜粋のみならず、地の文も一人称から独白そして三人称、神視点から戯曲方式まで取り入れ、あまつさえ物語内物語、物語物語まで盛りだくさん。おかげで、捕鯨の叙事詩的な壮大さと崇高なイメージが、歴史のなかで立体的に浮かび上がってくる。

 だが、やっかいなことに、この引用、ときに意図的ときに不注意により、必ずしも正確ではない。注釈と首っぴきで読み進めるのだが、この注がめっぽう面白い&タメになる。

 頭ガツンと殴られたのは、「鯨の頭はどこまでか」の考察(太字はわたし)。

四足獣なら何でもよいが、その脊柱を注意深く観察していただければ、それが小さい頭骨をつらねたネックレスに似ているばかりか、ひとつひとつの椎骨が未発達の頭骨の様相をしていることに一驚されることだろう。椎骨は未発達の頭骨にほかならない
 認識がでんぐり返った。たしかに節の一つ一つは神経の根にして叢だ。感覚と知覚を束ねているのが「アタマ」なら、あれはアタマなのだ。「アタマ」とは頭蓋骨に守られたところだとばかり考えていたが、あれ全部がそうなんだね。

 何重にも興味深いのが、一等航海士のスターバック。合理的だが信心深く、勇気と野蛮を持ち合わせる捕鯨員だが、聞き覚えないだろうか。そう、オサレが集うコーヒーショップ、あのスタバの名前は、このスターバックから来たそうな。だが、彼は一滴たりともコーヒーを飲んでいない(コーヒーが好きだという描写もない)。教養や歴史をありがたがるアメリカン・マインドが透け見えて、思わず微笑む。

 それよりも、いい奴なんだ彼は。船員としての任務を全うしようと、復讐に囚われたエイハブと衝突する。でも賢くたちまわり、表ざたにならないよう船長の意志を翻させようと、涙ぐましい努力をするわけ。あまつさえ、船長を○○しようとまでするのだが……ピークオッド号の良心ともいうべきスターバックが、狂気の塊と化したエイハブと対決するシーンは、目がひりつく読書になった。そして、スターバックの魂の叫びは、エイハブの心の底に届いたに違いない。「鯨vs人」で有名だが、ヒューマンドラマとして一級品だ、刮目シテ読メ。

「おおエイハブ!」スターバックがさけんだ。「いまからでも遅くありません。ご覧ください!モービィ・ディックはあなたを求めてはいません。やつを狂ったように求めているのは、あなたなのです!」

 知ってはいたが、「これはひどい」のは屠鯨のくだり。鯨油のためとはいえ、頭を切断し皮脂を剥がしたら、後は放置。老いた鯨から龍涎香を取り出したり、征服欲を満たすためステーキにすることもあるが、大部分は捨ててしまう。鯨肉鯨油のみならず、血・骨・腱も全て使い切り、一切の無駄を出さない日本の捕鯨とは好対照なり。鯨を"浪費した"ヤンキーが捕鯨の補給基地のため、日本に開国を迫るのは、なんという歴史の皮肉か。

 語り手に憑依してメルヴィルは断言する、広大な全世界を平和裡に、ひとつの束にまとめあげるような影響力を発揮しえたものは捕鯨業においてほかならないと。しかし、そのほかならぬ捕鯨業が、今日の自然保護問題や動物愛護運動、さらには公海利用に関する国際法上のパワーゲームの駒として扱われているのを考えると、本書の諧謔は何倍にも増幅される。あれほど海洋を"搾取"していた欧米の捕鯨業の大家として、メルヴィルはこうも言い放つ。鯨を捕り尽くすようなことになるかという懸念に際しての答えだ。

いろいろ議論はあろうが、鯨は個体としては死滅するが種としては不滅である、とわたしは断定するのである。鯨は諸大陸が海面に姿をあらわす以前から海を泳いでいたのである。
 本書は、サマセット・モームが選んだ世界の十大小説にエントリされている。だが、スゴい小説としてだけでなく、物議を醸す火薬をたっぷり孕んだアカデミック・ゴシップでもある。名著とかグレート・ブックとか呼ばれる奴は、「いま」に引きつけて読むと、何倍も美味しくなる。

 たとえば、モービィ・ディックを「白色人種の最深奥に宿る血の実体」と看破したのはD・H・ロレンスだし、モームは憎しみに駆られるエイハブこそ悪の象徴だと断じている。様々な人種が乗り込んでいるピークオッド号はさしずめアメリカ合衆国のアイコンか。するとピークオッド号の運命は、かなりねじれた寓意に満ちていることになるね。

 しかし、モームをはじめ、世間の「邪悪な狂人・エイハブ」には違和感を抱いた。確かに悪鬼の如く振る舞いをするときもあるし、子の親とは思えないほど冷酷な決断を下す瞬間もあった(レイチェル号の災難)。だが、一方で冷静に部下の判断を吟味して、自ら撤回することもあるし、故郷を思い出して落涙する人心も持っている。この差は何か?

 それは、エイハブにぴったりと寄り添っている、拝火教の呪術師が鍵となる。この呪術師・フェダラーは、エイハブの影のようにつきまとい、彼の不死をほのめかし、全幅の信頼を得ている。事実、呪術師の視線にさらされていないとき、エイハブはただの老いた船長のように見える。そして、クライマックス、呪術師が○○になったとき、エイハブはまるで別人のように心を開く。ジキルハイドのハイドの面を担っているのが、呪術師なのかもしれぬ。再読時は、呪術師が見ているか否かに注目しよう。世間のレッテル通りに読むともったいない。

 物語はしょっちゅう中断し、足踏みし、プロットが中途で変わったり、異質な挿話がはさまったり、つぎはぎ細工な「知的ごった煮」と呼ばれるにふさわしい。だが、そこから立ち上がってくる鯨の、マッコウ鯨の巨大さと獰猛さと美しさに、文字どおり目を見張るだろう。

 つぎはぎ構成をとっぱらって、物語だけを楽しみたい人は、下巻の解説にある、「『白鯨』モザイクの図」を見てみよう。「白鯨」を以下の3つに分け、各章にそれぞれの役割を振っている。

  N : 物語(Narrative)
  D : 劇(Drama)
  C : 鯨学(Cetology)

 モザイク状になった全体像から、N(物語)だけ拾い出して読めば筋は追える。すると、135章が77章と、ほぼ半分になる。ただし、寄り道回り道の楽しみが失せるのも事実。語り手と黒人の銛打ちのホモ・エロティックな関係を想像したり、なぜモービィ・ディックは白いのかといった、心理の深いところを衝く話を落とすから。いずれにせよ、再読・再再読には必携の表だな。

 心して飛び込め、物語世界に。

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日本語を飲む快楽「流れる/幸田文」

 最初のページを読んで、そのまま"持って行かれる"。

流れる 昭和まもなく、花柳の女たちを活写した傑作。何気ない会話や描写がそのまま、日本語を読む快感になる(幸田文すごい)。これは、「この新潮文庫がスゴい!」でオススメされ、言われるがまま手にして、そのまま流れるように読む。

 奇想な展開に"呑まれる"のではなく、プロットやキャラに"ハマる"のでもない。おいしい水をごくごく飲み干すように、うまみのあることばを読み干す(ShinRaiさん、ありがとうございます)。

 読みよくしているのは、選ばれた言葉の音律だ。字余り字足らずはあるが、五七五を意図して組み立てている。五七五、五七五、五七五七五七七…と、畳み掛けるように背景と人を描いて、さっと会話を紛れ込ませる。女中奉公する主人公の語り(地の分)と受け答えがシームレスなので、容易に中に入れる。

 もう一つ、読みを愉しくしているのは、主人公の感応と、カメラ視線が連携しているとこ。たとえば序盤、奉公先の狭さについてこう考える。

狭いということは乏しさを指すことがしばしばだが、こう利口につかった狭さにははみだす一歩手前の、極限まで詰った豊富さがある。
 そして畳一枚の空間しかない焚き付け口で、自分の半生を交えながら、こう結論づける───「狭いということは結局、物なり人間なりがあるということなのだと。何かがあるから狭さもあるので、人も物もないとき狭いという限界はない」。
奇蹟のように明いているこの畳一畳分の空地から仰ぐと、星が白く高く、夜はすぐそこ、隣の物干しに残ったパンティまで低く降りていた。
 この、思考と視線の切り替えの拍節が巧みなため、ダレることなく一気に読ませる。「この後どうなるんだろう」と「彼女はいったい何者なんだろう」が交互に読者を引っ張ってゆく。要所で差し込まれるオノマトペもユニークだ。擬音はカタカナ、擬態はひらがなのオノマトペにするテクニックは、小説を書くヒントになりそう。

 驚くことに、彼女の一人称視線であるにもかかわらず、彼女の人となりがほとんど"見えない"。いや、「信頼できない語り手」ではない。任せて安心な話者なのに、奉公先にだけなく読み手にすら、上手に自分を畳み込んでいる。彼女の物言いや捉え方から教養の片鱗を解きほぐす、といった高度な(意地悪な?)読みもできるのが吉。

 くろうと女のなまなましさ、しろうと女のしたたかさを、味のある日本語で読み干す一冊。

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シンプルな人類史「スプーンと元素周期表」

 面白い本の探し方を教えよう。

 図書館限定だが、的中率は100パーセントだ(ソース俺)。面白いかそうでないかは、もちろん好みによる。読書経験やそのときの興味、コンディションによっても左右される。だが、誰かを夢中にさせた本なら、あなたを虜にするかもしれない。手に取る価値は充分にある。

 では、「誰かを夢中にさせた本」をどうやって見つけるか?書店の新刊と違って、図書館なら、ちゃんとその跡が残っている。

 それは、本の「背」。本のてっぺん(天)から背を眺めてみよう。少し斜めになっているはずだ。本を開くと、表紙に近いページが引っ張られ、背がひしゃげる。本を閉じると、引っ張られたページが戻ろうとする。つまり、一気に読まれた本の背は、ひしゃげたまま戻らなくなる。途中で放り出されたり、中断をくり返したなら、新刊本のように真っ直ぐなまま。

 試みに、ちょい昔のベストセラーを見るといい。気の毒なくらいひしゃげているはずだ。これは、沢山の人に一気に(最後のページまで)開かれた、という証拠なのだ。

 きっとあなたは、何がベストセラーとなっているかは(読まないまでも)知っているだろう。だから、知らないタイトルで、なおかつ背がひしゃげているならば、それは「あなたが知らないスゴ本」である可能性が高い。

 わたしが知らないスゴ本「スプーンと元素周期表」は、図書館で読まれまくっていた。そして、期待どおりスゴ本だった。

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 元素周期表といえば科学の粋、さぞかし高邁な啓蒙書と思いきや、180度ちがってた。生臭いネタ満載で、科学史というよりも人類史だ。食べ、呼吸し、大金を賭けては擦り、毒し、魅了し、戦争を引き起こし、詐欺や爆弾のネタになり、政治や歴史を変え、そして愛を生みだす―――それが元素周期表なのだ。

スプーンと元素周期表 人類の行いを周期表の枠から眺めてみるという、ユニークでエキサイティングな試みだ。科学はおまけにすぎない(だが、そのおまけも濃く熱く饒舌だ)。高校で周期表に悩まされたわたしは、喝采しながら一気読みだぞ。

 周期表は科学の成果であると同時に人の営みの結果になる。ノーベル賞を取った盗られたという話から、私たちが星くずであるわけ、トンデモサイエンス、ケイ素系生物の可能性、携帯電話とコンゴ紛争の深い関係、なぜコーラにメントスを落とすと噴き出すのか―――どれを読んでも、どこから読んでも、どこまで読んでも、深く楽しく新しい。

 トピックの面白さもさることながら、読みやすくしているのは、絶妙な比喩。これは著者のセンスが輝いている。たとえば、極低温で電気抵抗がゼロになる伝導体は、iPodを極低温まで冷やしたら、どれだけ長く再生してもバッテリーが減らないと説明する。あるいはレーザー冷却の件では、「ゴーストバスターズよろしくビームを何本か交差させ、『光の糖蜜』と呼ばれるわなを仕掛ける」なんてマシュマロマンを思い出して笑ってしまう(古いか)。

 その一方、メタファーの危険にも釘を刺す。「電子とは硬い芯の周りを飛び回る針の頭」というイメージで説明したあと、類推の行き過ぎをたしなめる。おきまりの、「太陽の周りを回る惑星」というイメージが、沢山の科学者に苦い思いをさせたことを警告する。まさに惑星と太陽の喩えで分かった気になってたわたしは、永年の謎がようやく腑に落ちた。

 「惑星と太陽」なら、電子の"軌道"から原子核までスカスカでしょ?でも物質はもっと硬く、密になっている。その惑星にとっての"一年"をかけて周回するのなら、電子をかわして核に到達するのは難しくないんじゃない?―――わたしの稚拙な思い込みに、著者はこう説明する。

電子は、原子のコンパクトな芯───核───の周りを渦巻く雲のように、原子の事実上のほとんどの空間を占めている。核を構成する陽子と中性子のほうが個々の電子よりはるかに大きいのにそうなのだ。原子をスポーツスタジアムほどに膨らませたとしても、陽子をたくさん持つ核さえフィールド中央に置かれたテニスボールほとの大きさにすぎず、電子にいたっては周囲を飛び回る針の頭ほどでしかない───だが、飛び回るのがあまりに速く、毎秒数え切れないほど何度もあなたに当たるので、あなたはスタジアムに入れないだろう。針の頭どころか固い壁のように感じるはずだ。そのため、原子どうしがぶつかっても、中の核は口を出さず、電子だけが反応にかかわる。
 わたしの沢山の無知も、確認できてありがたい。イタイイタイ病の原因がカドミウムなのは知ってたが、その名は神岡鉱山に由来することを教わったし、窒素がなぜ窒素と呼ばれているのか、恥ずかしながら初めて分かった。窒息の「窒」から取られていたんだね。

 窒素の列の元素は「ニクトゲン」と呼ばれ、語源は「窒息」や「絞殺」を意味するギリシャ語になる。窒素は臭いも色もなく、吸ったり吐いたりも簡単で、身体を「優しく落とす」そうな。NASAの(爆発でないほうの)死亡事故を紹介しつつ、人体のセキュリティシステムを解説する。なんと、人の体は「酸素があるか」をチェックしないんだって。何かの気体を吸って、二酸化炭素を吐き出していれば「問題なし」なんだって。精妙な最適化か絶妙な手抜きかはともかく、人の体は面白いね。

 なじみの薄い元素「コルタン」については、ルワンダ虐殺の関係から語られる。毒殺者御用達の「タリウム」は、連続殺人犯グレアム・フレデリック・ヤングの話になる。「ポロニウム」はもちろん、元KGB幹部が食べたポロニウム入り寿司のエピソードだ(これは知ってた)。戦争に欠かせない元素や、虐殺を引き起こした元素という観点から、周期表は科学の成果だけでなく、人間の残虐な本能にも訴えうることを証明しているという。

 言いたいことは分かるが、元素のせいにするには擬人化が激しすぎるかと。元素は戦争も虐殺も関係ない、ただそこに有るだけ。しかし、そこに価値を見いだし、奪い合い、殺し合うのは人間なのだ。元素にドラマがあるのではなく、元素をドラマティックにしているのは、ほかならぬ人間なのだ。

 無味乾燥な元素周期表が、生々しく見えてくる一冊。

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本好きが選んだ新潮文庫の160冊

 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフ。今回のテーマは「新潮文庫」。ジャンル不問・冊数未定でありながら、やってみるとむつかしい。

 なぜと問うなら、自分の書棚と脳裏を浚ってみるといい。文芸、海外、歴史、冒険、SF、純文、対談、ミステリー、ファンタジー、ドキュメンタリー、エッセイ、記憶から積山から、懐かしの一冊から流行りの新刊まで、いくらでも出てくるから。ありすぎて選べないのだ。

 それでもムリヤリ選んだのが、「この新潮文庫がスゴい!(徹夜小説編)」。これは「新潮文庫」+「寝食忘れる徹夜本」という組み合わせで厳選したもの。そして、人力検索はてなで質問したのが、「『この新潮文庫がスゴい!』という、あなたのオススメを教えてください」になる。わたしの偏見「理系のはてな」を跳ね返す文理入り乱れの怒涛のラインナップが揃った。

 そして、実際にみんなで語り合ったのがスゴ本オフ。新潮文庫の良さ(と悪さ)をぶちまけながら、新潮文庫の中の人の熱い想いを聞きながら、濃密なひとときを味わう。読書体験の思い出だったり、節目節目での気づきだったり、さまざま。わたしも読んだ同じ一冊が、記憶の媒体というか"とっかかり"となっているのが面白い。根岸さんのこのコメントが、素晴らしいまとめ。

今夜のスゴ本オフでわかったのは、新潮文庫ってどの世代にとっても青春の記念碑なんだということ。文学とエンタメの境目で、僕らに素敵な世界を案内導き続けてきてくれた。これからも、よろしくお願いします
 まぁ見てほしい、大人が選んだ新潮文庫を。

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 そう、新潮文庫はどの書店にも必ずあって、ハズレが無い。しかも安い(想像力と数百円)。間口の広さは、子どもが本の世界に入る最初の(自分で買う)一冊になるし、読み巧者なベテランには古典や新ジャンルを開拓するトバ口になる。「新潮文庫は人生の教科書、これなくして大人になれなかった」とか、「わたしの十代と二十代は、新潮文庫で出来ている」など、名言炸裂してた。

 ただし、いいことづくめでもない。熱血気味にオススメしたいのが絶版だったりすることが多々ある。わたしのマイベスト新潮文庫「シャドー81」「大聖堂」は、現在では他社が扱っている。「なんで絶版なの?」愚痴気味に尋ねると、新潮文庫の中の人曰く「全国書店の棚は有限なのに、毎月20冊新刊が追加される、どこかで涙を飲まにゃならんのです」とのこと。編集と営業で「絶版vs重版未定」のせめぎ合いがあるようだ。

 裏話というか、興味深いことを聞いた。新潮文庫の裏表紙にある「あらすじ」、あれは176文字なんだそうな。ここを書くのは編集者の仕事で、ネタバレを回避しつつ「読みたい!」気分をソソるよう上手にまとめるのが腕の見せ所だ。編集者の熱量(と力量)を知るには、「ここが176字ピッタリか」に着目する。情報量を詰め込んで、176字を使い切っているほど(編集者の熱量と力量が)良いらしい。

 オフ会で、ブログで、はてなで、twitterで、「この新潮文庫がスゴい!」をテーマに集まったものを並べてみる。本好きが選んだ新潮文庫たちだ。

 もちろん分かってる。「これが入ってない!」「あれを入れないなんて!」と言いたいでしょうに。だが、それはきっと、あなたの青春の一冊なんだ。

  • 「軍艦長門の生涯」阿川 弘之
  • 「最後の恋」阿川 佐和子ほか
  • 「砂の女」安部 公房
  • 「他人の顔」安部 公房
  • 「ゴールデンスランバー」伊坂 幸太郎
  • 「ダレカガナカニイル…」井上 夢人
  • 「孔子」井上 靖
  • 「勝ち続ける力」羽生 善治・柳瀬 尚紀
  • 「沈黙」遠藤 周作
  • 「海と毒薬」遠藤 周作
  • 「哀愁の町に霧が降るのだ」椎名 誠
  • 「コンスタンティノープルの陥落」塩野 七生
  • 「ローマ人の物語(ハンニバル編)」塩野 七生
  • 「ローマ人の物語(ユリウス・カエサル編)」塩野 七生
  • 「球形の季節」恩田 陸
  • 「上と外」恩田 陸
  • 「こころの処方箋」河合 隼雄
  • 「蜘蛛の糸・杜子春」芥川 龍之介
  • 「ワイルドソウル」垣根 涼介
  • 「星虫」岩本 隆雄
  • 「零式戦闘機」吉村 昭
  • 「関東大震災」吉村 昭
  • 「羆嵐」吉村 昭
  • 「あかんべえ」宮部 みゆき
  • 「火車」宮部 みゆき
  • 「レベル7」宮部 みゆき
  • 「流転の海」宮本輝
  • 「螢川・泥の河」宮本輝
  • 「最長片道切符の旅」宮脇 俊三
  • 「完全復刻・妖怪馬鹿」京極 夏彦
  • 「溺れる魚」戸梶 圭太
  • 「流れる」幸田 文
  • 「神様のボート」江國 香織
  • 「ベルリン飛行指令」佐々木 譲
  • 「エトロフ発緊急電」佐々木 譲
  • 「双頭の鷲」佐藤 賢一
  • 「国家の罠」佐藤 優
  • 「ア・ルース・ボーイ」佐伯 一麦
  • 「あんちゃん、おやすみ」佐伯 一麦
  • 「カリスマ―中内功とダイエーの『戦後』」佐野 眞一
  • 「絶対音感」最相 葉月
  • 「風が強く吹いている」三浦 しをん
  • 「豊饒の海」三島 由紀夫
  • 「鏡子の家」三島 由紀夫
  • 「クラッシックホテルが語る昭和史」山口 由美
  • 「不毛地帯」山崎 豊子
  • 「沈まぬ太陽」山崎 豊子
  • 「ぼくは勉強ができない」山田 詠美
  • 「累犯障害者」山本 譲司
  • 「梟の城」司馬 遼太郎
  • 「歴史と視点」司馬 遼太郎
  • 「峠」司馬 遼太郎
  • 「飢えて狼」志水 辰夫
  • 「隠密利兵衛」柴田錬三郎
  • 「雪舞い」芝木 好子
  • 「ウルトラダラー」手嶋 龍一
  • 「薬指の標本」小川 洋子
  • 「恋」小池真理子
  • 「夜ごとの闇の奥底で」小池 真理子
  • 「柩の中の猫」小池 真理子
  • 「屍鬼」小野 不由美
  • 「サクリファイス」近藤 史恵
  • 「白鳥の歌なんか聞えない」庄司 薫
  • 「全国アホ・バカ分布考」松本 修
  • 「孤高の人」新田 次郎
  • 「芙蓉の人」新田次郎
  • 「ヰタ・セクスアリス」森 鴎外
  • 「そして二人だけになった」森 博嗣
  • 「ホワイトアウト」真保 裕一
  • 「縛られた巨人──南方熊楠の生涯」神坂 次郎
  • 「本格小説」水村 美苗
  • 「水木しげるの日本妖怪紀行」水木 しげる
  • 「BRAIN VALLEY」瀬名 秀明
  • 「妖精配給会社」星 新一
  • 「ボッコちゃん」星 新一
  • 「桶川ストーカー殺人事件」清水 潔
  • 「パーマネント野ばら」西原 理恵子
  • 「4TEEN」石田 衣良
  • 「国防」石破 茂
  • 「幽霊屋敷の電話番」赤川 次郎
  • 「雪国」川端 康成
  • 「掌の小説」川端 康成
  • 「五郎治殿御始末」浅田 次郎
  • 「蝦夷地別件」船戸 与一
  • 「アマノン国往還記」倉橋 由美子
  • 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」村上 春樹
  • 「一瞬の夏」沢木 耕太郎
  • 「深夜特急」沢木 耕太郎
  • 「細雪」谷崎 潤一郎
  • 「剣客商売」池波 正太郎
  • 「剣聖」池波 正太郎ほか
  • 「夫婦茶碗」町田 康
  • 「そこに僕はいた」辻 仁成
  • 「魚雷艇学生」島尾 敏雄
  • 「夏の庭」湯本 香樹実
  • 「笑うな」筒井 康隆
  • 「家族八景」筒井 康隆
  • 「虚航船団」筒井 康隆
  • 「私説博物誌」筒井 康隆
  • 「旅のラゴス」筒井 康隆
  • 「ロートレック荘事件」筒井 康隆
  • 「用心棒日月抄」藤沢 周平
  • 「鋼鉄の騎士」藤田 宜永
  • 「そして殺人者は野に放たれる」日垣 隆
  • 「しゃばけ」畠中 恵
  • 「スクールアタック・シンドローム」舞城 王太郎
  • 「葬送」平野 啓一郎
  • 「決壊」平野 啓一郎
  • 「日蝕」平野 啓一郎
  • 「カンバセイション・ピース」保坂和志
  • 「この人の閾」保坂和志
  • 「消された一家」豊田 正義
  • 「楡家の人びと」北 杜夫
  • 「凶笑面」北森 鴻
  • 「触身仏」北森 鴻
  • 「写楽・考」北森 鴻
  • 「月の砂漠をさばさばと」北村 薫
  • 「スキップ」北村 薫
  • 「河童が覗いたインド」妹尾 河童
  • 「河童が覗いたヨーロッパ」妹尾 河童
  • 「日本仏教史」末木 文美士
  • 「文人悪食」嵐山 光三郎
  • 「西の魔女が死んだ」梨木 香歩
  • 「死ぬことと見つけたり」隆 慶一郎
  • 「一夢庵風流記」隆 慶一郎
  • 「鬼麿斬人剣」隆 慶一郎
  • 「マイブック」
  • 「朽ちていった命――被曝治療83日間の記録」NHK「東海村臨界事故」取材班
  • 「アシモフの雑学コレクション」アシモフ
  • 「ロリータ」ウラジミール・ナボコフ
  • 「ウンベルト・エーコの文体練習」ウンベルト・エーコ
  • 「人はなぜエセ科学に騙されるのか」カール・セーガン
  • 「冷血」カポーティ
  • 「異邦人」カミュ
  • 「りっぱな犬になる方法」きたやま ようこ
  • 「シャンタラム」グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ
  • 「リプレイ」ケン・グリムウッド
  • 「大聖堂」ケン・フォレット
  • 「蝿の王」ゴールディング
  • 「フェルマーの最終定理」サイモン・シン
  • 「暗号解読」サイモン・シン
  • 「宇宙創成」サイモン・シン
  • 「ナイン・ストーリーズ」サリンジャー
  • 「ママ・アイラブユー」サローヤン
  • 「人間の土地」サン=テグジュペリ
  • 「最後の晩餐の作り方」ジョン・ランチェスター
  • 「ゴールデンボーイ」スティーヴン・キング
  • 「クージョ」スティーヴン・キング
  • 「ダーシェンカ」チャペック
  • 「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー
  • 「ハンニバル」トマス・ハリス
  • 「ホース・ウィスパラー」ニコラス・エヴァンス
  • 「優しい関係」フランソワーズ・サガン
  • 「報復」フリーマントル
  • 「朗読者」ベルンハルト・シュリンク
  • 「風と共に去りぬ」マーガレット・ミッチェル
  • 「ストーンシティ」ミッチェル・スミス
  • 「白鯨」メルヴィル
  • 「赤毛のアン」モンゴメリ
  • 「かもめのジョナサン」リチャード・バック
  • 「シャドー81」ルシアン・ネイハム
  • 「ジャン・クリストフ」ロマン・ロラン

 ちなみに、わたしのイチオシ最新は、「シャンタラム」。新潮文庫の翻訳物編集者が選ぶオールタイムベストらしいが、さもありなん。鉄板の面白さなので、必ず三冊そろえてから読むこと(これより面白いのがあったら、逆に教えて欲しい、喜んで読むから)。そして、裏表紙の「あらすじ」はネタバレ全開なので、一切見ることなしの予備知識ゼロでハマってくれ。そうそう、「河童が覗いたインド」が傍らにあるといいかも。

シャンタラム1シャンタラム2シャンタラム3

 おまけ、若鶏のグリルレモン添え。ジューシーさと酸味が相まった絶品で、ワインがいくらでも入りました(ごちそうさまでした)。他のご馳走は、やすゆきさんのレポートは「新潮文庫シバリのスゴ本オフ」は名作ぞろいで最高だったし、なかのひとイヂリが楽しかった件からどうぞ。

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 参加いただいた方、ありがとうございました。次回は「女と男」でやりますぞ。


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被災地の子どもにオススメする一冊を選ぶなら

 「被災地だから」というのなら、特にコレというのは無い。中高生に「コレいいよ」というつもりで選ぶ。宮崎駿の、非常にメッセージ性の強い一冊だ。

 本に関わる人たちの飲み会に混ぜてもらった。これは、文字通り「混ぜてもらった」になる。編集者、起業家、書店員から、デザイナー、ライター、エージェントといったそうそうたる面子の中、「ブロガー」という肩書きでご一緒させてもらう。濃くて熱くてエキサイティングで、旨くて上手くて美味い宴だった。タイトルの「被災地の子どもにオススメする一冊を選ぶなら」は、そこでのお題。

 いわゆる定番ばかりと思いきや、全く知らないスゴ本にも出会えたのが収穫。

1歳から100歳の夢 最も惹かれたのが「1歳から100歳の夢」。1歳から100歳に渡る、100人の夢を集めた写真集だ。右手がポートレイト、左手がメッセージ、つぶやき、決意表明、日常描写になっており、ひとまず自分の年齢の人を確認したくなる。次いでわが子の年代、自分の親の年代へと行きつ戻りつ読める。これは、それぞれの時代を生きぬいて、今の日本を一緒に歩む「みんな」の一冊になる。

 逆説的だが、山田風太郎の「人間臨終図巻」を思い出す。アンネ・フランクから東郷平八郎まで、古今東西の著名人たちの臨終をまとめたものだ。これをユニークにしているのは、享年順であること。読み手の年齢と重ねながら読むと、自分の凡庸さと命の儚さ、そして「まだまだこれから感」がふつふつと湧き上がる。「臨終図巻」が死者たちの夢なら、「1歳から100歳」は生者たちの夢になる。

1歳から100歳の夢 定番だが、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」を読む。何度もオススメされてはナナメ読みだったが、これを機にきっちり読もう。これは、わたしの子に渡す一冊になるだろうから。「ガンバの冒険」の原作「冒険者たち」も然り。ルブランの「アルセーヌ・ルパン」もそう。

 このような「後がつかえている本」が増えているのに気づく。未読本か再読本を積んでいくうち、わたしではなく、わたしの子どもに託したくなる───そんな一冊だ。もちろん子どもは、わたしの思いに関わらず、読みたい本を手にするだろう。だが、読み慣れたジャンルから一歩出るときの出口(入口?)のために、書棚を遺すくらいのことはしておきたい。

 そんな意味でも、被災地に関係なく中高生に手にして欲しい(オトナの思いの詰まった)リストになっている。

  • 「君たちはどう生きるか」吉野源三郎
  • 「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ
  • 「TUGUMI」よしもとばなな
  • 「李陵・山月記」中島敦
  • 「水源」アイン・ランド
  • 「1歳から100歳の夢」いろは出版
  • 「アルジャーノンに花束を」ダニエル・キイス
  • 「対話篇」金城一紀
  • 「宮本武蔵」吉川英治
  • 「ワイルド・ウィンター ブランキー・ジェット・シティ インタビュー集」
  • 「ロックで独立する方法」忌野清志郎
  • 「せいめいのれきし」バージニア・リー・バートン
  • 「星の王子さま」サン=テグジュペリ/池澤夏樹訳
  • 「永遠の仔」天童荒太
  • 「アルセーヌ・ルパン」モーリス・ルブラン
  • 「麦ふみクーツェ」いしい しんじ
  • 「たいせつなこと」マーガレット・ワイズ ブラウン
  • 「甲子園への遺言」門田隆将
  • 「希望をはこぶ人」アンディ・アンドルーズ
  • 「こうちゃん」須賀敦子
  • 「篦棒な人々」竹熊健太郎
  • 「七瀬ふたたび」筒井康隆
  • 「NO LIMIT」栗城史多
  • 「流れる星は生きている」藤原てい
  • 「ビビを見た」大海赫
  • 「余命1年からの奇跡」野澤英二
  • 「冒険者たち」斎藤惇夫
  • 「ハッカーと画家」ポール・グレアム
  • 「シュナの旅」宮崎駿
  • 「心に響く5つの物語」藤尾秀昭
  • 「ひとつ」マーク・ハーシュマン
  • 「聖の青春」大崎善生
  • 「チボー家のジャック」デュ・ガール
  • 「宇宙飛行 行ってみてわかったこと、伝えたいこと」若田光一
  • 「得手に帆あげて」本田宗一郎

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 わたしがオススメした一冊は「シュナの旅」。プレゼンタイムが1分もらえたので、会場の皆さんに質問してみる。もののけ観た人、ナウシカ観た人、千と千尋が好きな人……と順々に聞いていって、「これ知ってる人」と訊ねると、ほぼ皆無だったのが面白い。「宮崎駿の原点にして頂点」というと異論がありそうだが、15分で読める絵物語で、彼の強いメッセージが伝わってくる───「生きろ」ってね。

 追記。「勝屋久の日々是々」にて、当日のレポートがアップされている。本の全体写真や場の雰囲気は、こちらをどうぞ。英治出版の杉崎真名さん/ダイヤモンド社の和田史子さん/技術評論社の傳智之さんのお誕生会に参加させていただきました

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「世俗の思想家たち」はスゴ本

世俗の思想家 経済学の目的は、人の営みの本質をヴィジョンとして描くことが分かる。そして、経済学は科学でないことが、やっと腑に落ちる。

 スミス、マルクス、ケインズ、シュンペーター、経済学説史上の巨人たちの言動がときに生々しく、ときにユーモラスに語られる。彼らは皆、学説や主義の発明者というよりは、目の前の現実社会に影響を受けながらも、「なぜそうなっているのか」を得心しよう/させようと奮闘したのだ。

 彼らの出自も栄達もさまざまだ。裕福な教授もいれば、極貧の文筆家としての人生を送った者もいる。共通していることは、彼らの描くヴィジョンは、それぞれの個人的な経験に裏打ちされているところ。絶対的なプリンシパルがあって、そこから証明や体系を拡張したものでないオリジナリティが、経済学を世俗の思想にしている。

 たとえば、冷酷な物言いで追い詰められた感じを漂わせ、重苦しく、希望を失った人生を送ったマルクスが構想したのは、「破滅に向かう資本主義」だ。いっぽう、自らが愛した人生を、軽快に気楽に、そして首尾よく乗り切ったケインズは「持続可能な資本主義」の立役者となった。資本主義の崩壊を予言する情熱の下地に、マルクスの神経衰弱を見たり、一般理論の説得力の裏側に、ケインズの陽気さと闊達さを透かすことができる。

 つまり、言説には彼ら個人の、ひいては当時の世の中の裏付けが存在するのだ。インターナショナル全盛のときは、資本主義は打倒されることが真実だったし、帝国主義の勃興は、資本主義がみずから課したジレンマから逃れるための、歴史的趨勢だと考えられた。それらは、真実というよりも信念、つまり、ヴィジョンを指す者が何を信じるかに依存する。

 一部の(?)経済学者に対し、虫酸が走るのはここだ。モデルや数式や比喩を扱うのは問題ない。自らのアイディアを表現するとき、モデルやグラフや式にするほうが分かりやすいからだ。あるいは、「たとえ」を用いて理解を促すメリットもある。

 この場合、以下を主張するのは、「正しい」。

 1.このモデル(式、比喩etc)から、この事実の説明ができる
 2.このモデル(式、比喩etc)が正しいならば、次はこうなる

 しかし、次を主張するのは、おかしい。

 3.次はこうなる。なぜなら、このモデルが示しているから

 この主張は、モデルの正しさを当然視するあまり、「このモデルが正しいならば」という前提が抜けている。比喩や数式を駆使してモデルの説得力を高めることにやっきになるあまり、「モデルが正しい」ことは扱う人々の社会的環境に因ることを忘れてしまう───これが嫌らしいのだ。

 その「正しさ」加減が追試可能で、追試されているのが科学で、「正しさ」と「もっともらしさ」をはき違えているのが経済学。そして、モデルの数式がいかにも科学カガクしているので、余計に痒い。数式としての正しさと、数学的な正しさは別物であることに気づかないのが痛い。

 スタンリー・ジェヴォンズの純粋数学的な経済理論では、緻密な正確さをもった理論体系に還元できないパラメータを全部外している。つまり、理論に合わない現実は、見なかったことにするのだ。「詭弁としての経済学」は、自分で自分の首を絞めている。

 経済学を支えるのは、「何を信じるか」に過ぎぬ。相対する人の生い立ちや社会的情況に依存するのだ。ペシミストが見た社会は崩壊の危機に瀕しているし、(経済的に限らず)様々な意味で楽に・楽しく生きてきた人にとっては別の見方ができる。

 自らの信念に因り、モデルの説得力を高める、これが(その人にとっての)経済学の目的だ。では何のために?現在を理解し、より良い未来のためできる手立てを選ぶためだ。だから経済学者の舌は重い。間違えた場合、死なない程度に切り取られても文句は言えないくらいの重責を負う。

 しかし、紙以上に軽く回転する舌を持つ「経済学者」がいる。床屋談義の先見自慢でいいのなら済むが、うっかり為政者の/独裁者の耳に入ったならば、国が滅ぶ。酒屋で一席ぶつ程度なら勝手だが、採用されたならば、その舌、懸けろよと言っておく。

 そして、同じ理由で本書は面白い。それぞれの主張の根拠と動機は、赤裸々な彼らの半生かもしれない。だが、そこから照射される現実は、確かに強い説得力を持って現在に通じる。本書のテーマとして、そして結論として、そうした説得力をもつ「ヴィジョン」が無くなっていることが強調されている。

 だが大丈夫、いま見えないだけで、すこし経つと適切な名前が見つかるはずだ。そして、「あんな時代があったねと、いつか笑って話せる」ってね。「ブラック・スワン」は「分かりません」の別名かもしれないが、まだ名付けられてないならOK、「エコノミカル・ハイバネーション」とかね。

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物語とは物騙り「パラダイス・モーテル」

 狂気のなかに置き去りにされる恐怖。

パラダイス・モーテル 物語がさしだされ、受け取る。"ふつうの物語"では、語り手は後ずさりしながら去っていったり、なれなれしく近づいてきて同化しようとしたりする。ところが本書は、受け取った物語をあらためているうちに、語り手は忽然と消えてしまう。かなりグロテスクな物語を、信頼できない語り手が紡いでいるなぁという第一印象はかき消えて、狂った世界に取り残される。

 読む前と世界は一緒なのに、見るわたしが異質化したような感覚。これは嫌だ。

 「お話」そのものは、よくできている。ある日、ある町のこと。四人の兄弟姉妹が学校で腹痛を訴える。様子があまりにもおかしいので、診たところ、体に何か埋め込まれている。それは、バラバラにされた彼らの母の体の一部だった。そして埋め込んだのは、その夫、つまり四人の父である外科医だった―――という語り。

 だがこれは、本書の語り手=主人公が祖父から聞いたというお話。その祖父も、若い頃に知人から聞いたというお話……と入れ子構造となっている。しかも、主人公はこの語りの真実性を求め、四人の兄弟姉妹の行く末を探し出そうとする。そこで見いだされる、それぞれの「お話」が多重の語りとしてさしだされる。

 たとえば、車にはねられて記憶を失った女が、創作された偽の記憶を信じる話―――ここまでは「ありがちな都市伝説」として済むかもしれない。が、この偽の記憶は本物だったという話。彼女が"思い出し"た「夫」「家」「職場(教師)」は、確かに実在していた―――しかし、誰も彼女のことを知らなかった。と二重三重に語りに騙される。

 あるいは、未開の部族に捕らえられた男の話。そのシャーマンによって、体中に小さな孔を開けられ、そこに苗木を埋め込まれ、ジャングルに放置される。苗木は男の体液を吸って成長し、男はジャングルと一体化する至福を味わうが―――しかし、誰がその語りを聞いているのか。すべては伝聞という形でいったんは示されるが、中の語りは「わたし」で統一される。誰かが語りを騙っているのか―――多重の入れ子によって虚構性が強調されるが、どこまでが語りで、どこからが騙りなのか分からない。

 異常なキャラクターたちは、すべて語り手に収束する。モノローグでありつつ、別の視線でもって自らを眺め、描写する異様な視線は、あのシャーマンのようだ。補足すると、先で紹介したシャーマンの片目は頭の後ろに結わえられている。子どもの頃から十年の歳月をかけ、左目を眼窩からひっぱりだす。じわじわと視神経をのばしていって、ついには眼球が左耳の後ろにくるようにするという。だから、前後ろを一緒に見ることも可能だし、あるものを見つつ、同時に見ている自分を見ることも可能になる。このシャーマンの"気持ち悪さ"を上書きするような読書。

 真実と、もっともらしい作り話とのあいだの壁が薄くなり、たやすくとっぱらわれる。世界の統一性は一瞬のうちにぐらつく。物語は虚構だと分かっていればいるほど、その虚構につきあっている自らが危うくなる。そんな読書をどうぞ。

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この新潮文庫がスゴい!(徹夜小説編)

 「マイベスト新潮文庫」を探すべく、書棚と脳裏を漁るのだが……出るわ出るわ、記憶からも積山からも怒濤のごとく、文芸、海外、歴史、冒険、ミステリ、ファンタジー、ドキュメンタリー、エッセイ……ありすぎて選べない。

 だから、も一つ「しばり」を設ける。それは「徹夜小説」であること。ひたすら面白く、寝食を忘れて読みふけった鉄板を挙げる。くれぐれも、明日がお休みの夜を見計らって手にしてほしい。

■「シャンタラム」 グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ

シャンタラム1シャンタラム2シャンタラム3

 未読なら、おめでとう。「これより面白いのがあったら教えてくれ」という傑作だから。憑かれたように読みふけり、時を忘れる夢中本だ。(わたしは4回乗り過ごし、2度食事を忘れ、1晩完徹した)。巻措く能わぬ程度じゃなく、手に張り付いて離れない。とにかく先が気になって気になって仕方がない。前知識は邪魔、完全に身を任せて、物語にダイブせよ。

 とはいうものの、蛇足気味に補足。オーストラリアの重刑務所から脱獄して、ボンベイへ逃亡した男が主人公だ。すべて彼の回想モノローグで進行する。だから彼が死ぬことはないだろうと予想しつつも、強烈なリンチシーンや麻薬漬けの場面にたじたじとなる。敵意と憎悪、恥辱と線虫にまみれ、痛めつけられ、翻弄されている彼が、憎しみと赦しのどちらを選ぶのか。

 赦すとは、自分自身の怒りや憎しみを手放すこと。これが基底となる。そして彼は幾度となく間違える。行動を過つこともあれば、まちがった理由で正しい選択をすることもある。これがもう一つのテーマ「人は正しい理由から、まちがったことをする」だ。この復讐と赦しの物語は、世界で一番面白い物語「モンテ・クリスト伯」と同じだ。手に汗握る彼(リン・シャンタラム)の運命は、そのままエドモン・ダンテスの苦悩につながる。

 新潮文庫の裏表紙に「あらすじ」があるが、見ないほうがいい。ネタバレを極力回避しているのは分かるが、主人公に待ち受ける波瀾万丈は、主人公と一緒になって驚くべし。

■「フェルマーの最終定理」 サイモン・シン

 知的没入感が圧倒的で、一気に読んだ。

フェルマーの最終定理 生々しい感情たっぷりの、ゾクゾクずるほど人間くさい数学ドラマ。多くの数学者をロマンと絶望に叩きこんできた超難問「フェルマーの最終定理」、これに関わる歴史をひもとくことは、人類にとっての数学を振り返ることになる。

 タイトルからして数学スウガクしていると思いきや、"お勉強"は皆無。難解なことは一切出てこないにもかかわらず、この難問に対し、どのようなアプローチがとられ、どういう経緯をたどったかが鮮明に見える。もちろん専門的な説明は「たとえ」で代替されているが、この業績を"わたしが分かる"レベルまで噛み砕いたのは驚異的といっていい。

 「フェルマーの最終定理」に至るまでの、数学ドラマが興味深い。たとえば、数学が生きる望みを蘇らせた例がある。恋に破れ自殺を決意した青年がいた。遺書を準備し身辺整理を終わらせたが、死ぬ直前にフェルマーの最終定理に関する著作を読み始めてしまう。そこに重大な瑕疵を見つけてしまい、夢中になってギャップを埋めていくうちに、悲しみも絶望も消え去ってしまう。これは、数学の効用というよりも、数学が本質的に持つ力に触れる思いがする。

 あるいは、ドイツのエニグマ暗号システムを破ったチューリングの例を引いてくる。第一次世界大戦は化学者の戦争(化学兵器)であり、第二次世界大戦は物理学者の戦争(核兵器)だったと言われる。だが、第二次大戦は暗号解読する数学者の戦争でもあったという。そして、もし第三次世界大戦があるとすれば、そこでは数学者の果たす役割はさらに重要となるだろうと予言する。

 「帰納法とはドミノ倒しのようなものである」など、著者一流の喩えが、分かる感覚を加速する(これが気持ちイイ)。「素数理論を用いた公開鍵暗号化方式について」と始めると、読み手としては構えてしまう。だが、暗号化よりも復号化のほうが難しいことを、「例えばスクランブルド・エッグを作るのは比較的簡単だが、それを元に戻すのは非常に難しい」という言い方をする。この絶妙な比喩のおかげで、数学的な本質を感覚的に受け取ることができる。

 そして本題の「フェルマーの最終定理」、ワイルズは完全な秘密主義で、たった一人で仕事を進めていった。栄誉を独占したい気持ちと、成果を横取りされる恐れが彼に孤独を強い、集中力とプレッシャーの中で、精神的にかなり辛い思いをする。この産みの苦しみは、ワイルズと著者と読み手が一体となって味わうといい。そして、「現代の数学と未来へのインスピレーションとの完璧なる統合」とも讃えられる証明に至ったとき、一緒に歓喜の涙を流すことだろう。

■「屍鬼」 小野不由美

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屍鬼4屍鬼5

尋常でない何かが起こっている───物語が怖い。展開が怖い。キャラクターが怖い。描写が怖い。 フレーズが怖い。テーマが怖い。完全無欠。逃げ場なし。

 この、帯のキャッチコピーが正しい。物語世界に「連れて行かれて」「取り残されて」「出来事に直面させられて」「逃げられない」助けて! と、何度も絶叫するだろう。ページをめくるのも、めくらないでおくのも嫌だ、おぞましい(と薄々知っている)先を知りたくないけど、知らないままのほうがもっと恐い。目を背けたい、見なかったことにしたい、恐いのに、やめられない止まらない、そんな読書体験を堪能できる。

 これは、スティーブン・キング「呪われた町」のオマージュなのだが、こっちのほうが輪をかけてこわい。日本の田舎の共同体の息苦しさと閉塞感が見事にあらわされており、読んでるこっちに確実に伝染する。死が徘徊し、村を何度も蹂躙するシーンでは、のどかな田園風景と積み上げられた死体がオーバーラップして、狂気も一緒に伝染ってくる。

 ただし、ボリュームありすぎ。単に吸血鬼の話といえば、それこそ短編でだって書ける。そうではなく、あの村全体を"汚染"した空気を書き尽くすために、それぞれの立場と視点からかかわる登場人物を丹念に描写する必要があったんじゃぁないかと。「事実は一つで、それは明確な第三者から語られる」といった直裁な小説に慣れていると、足もとから引きずり込まれるか、織り込まれた展開に袋だたきにされるかも。

■「火車」 宮部みゆき

 ミステリはこれがベスト(異論は認める)。

火車 点がつながり、謎が解かれてゆくカタストロフもさることながら、ラストに向けて濃密になってゆく切迫感は、まさに銭金に追われる焦燥感と一緒。カード破産の凄惨な人生は、借金は身を滅ぼすそのまんま。今では珍しくなくなったのかもしれないが、わたし自身に起きるとなると……

 かつて、知人の多重責務の整理を手伝ったことがある。そのときお世話になった弁護士事務所では、これが新人の課題図書だった。感想を求めることなどせず、若手が入ってきたら、さりげなく渡される。物語性で誇張されてはいるものの、現場の予行演習になるという。

 悲劇は愚かさからくるのか、無知から引き起こされるのか。予想はできないが、想像をすることはできる。これが、物語の力だ。わたしの子どもが高校ぐらいになったら、ぜひ読んでもらうつもり。

■「ローマ人の物語(ハンニバル戦記)」 塩野七生

ローマ人の物語・ハンニバル1ローマ人の物語・ハンニバル2ローマ人の物語・ハンニバル3

 これから「ローマ人」に手をつけようとするなら、ぜひとも「ハンニバル戦記」から始めることを強くオススメする。文庫本では第3巻からの上中下が相当する。律儀に最初から読むよりも、まず美味しいところからを喰らってみるべし。

 これは「ローマvsカルタゴ」という国家対国家の話よりもむしろ、ローマ相手に10年間暴れまわったハンニバルの物語というべき。地形・気候・民族を考慮するだけでなく、地政学を知悉した戦争処理や、ローマの防衛システムそのものを切り崩していくやり方に唸るべし。この名将が考える奇想天外(だが後知恵では合理的)な打ち手は、読んでいるこっちが応援したくなる。

 特筆すべきは戦場の描写、見てきたように書いている。両陣がどのように激突→混戦→決戦してきたのか、将は何を見、どう判断したのか(そして、その判断の根拠はどんなフレームワークに則っている/逸脱しているのか)が、これでもかと書いてある。カンネーの戦いのくだりでは、トリハダ全開になるだろう。

 ハンニバルだけが主役ではない。絶体絶命に追い詰められたローマが命運を託した若者、スキピオの物語でもある。文庫本第5巻で活躍するのだが、これがまた惚れ惚れするほどいい男なんだ。容姿端麗、頭脳明晰なスキピオが、頭脳戦、外交戦を駆使し、ハンニバルを追い詰めてゆく。この丁丁発止の権謀術数がスゴい。

 両雄の対決クライマックス。名将どうしがぶつかり合うなんて歴史はほとんどないが、ここではあった。ハンニバルvsスキピオの直接対決(これはスゴい)―――ザマの戦いは瞠目・刮目して読んだ。

 「戦争は、人間のあらゆる所行を際立たせる」とあるが、本作を読むと勝者と敗者をどう扱うか――戦後処理こそがキーポイントだと納得した。戦闘準備や戦闘そのものの勝敗も重要だが、その後何をしたかが、趨勢を決定していたということは(後知恵ながら)まぎれもない事実だ。戦後処理に見るローマの強さは、著者の以下の指摘が興味深い。

敵方の捕虜になった者や事故の責任者に再び指揮をゆだねるのは、名誉挽回の機会を与えてやろうという温情ではない。失策を犯したのだから、学んだにもちがいない、というのであったから面白い

 「ローマ人の物語」は、この「ハンニバル」と「カエサル」が徹夜本。それぞれ三分冊そろえてから、お楽しみあれ。

■「峠」 司馬遼太郎

峠1峠2峠3

 司馬遼太郎の最高傑作は「峠」だ(異論は認める)。

 「項羽と劉邦」「燃えよ剣」「国盗り物語」のどれも傑作かつ徹夜小説だが、どれも2回しか再読していない。ところが「峠」だけは、4回繰り返し読んできた。というのも、自分が迷ったとき、これに立ち戻っているから。

 幕末の混乱期を生きた越後長岡藩の河井継之助の英雄伝だ。自らの主義や野心が、"生まれ"の束縛にとらわれるとき、どうするか? 「竜馬がゆく」のような自己解放と奔放の物語も痛快だが、継之助は別の途を選ぶ。藩に潰されるのではなく、藩を利用し、藩に依って立つ。

 だが、時代が藩を潰すことは明らかだ。徹底的に実利を見据えた合理主義の塊である継之助にとって、もはや「武士」は求められないことも分かっている。それでも、(それだからこそ?)武士として全うしようとするギリギリの積極的妥協が、幾度もわたしを勇気づける。

 起きたことは悲劇だが、当人は悲壮感を持たない。あくまで、勝つつもりでいる。そのからっとした姿勢を求めて、何度も立ち戻る。もし、司馬遼太郎で一作品というなら、これを推す(くりかえすが、異論は認める)。


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 こうやって振り返ると、質・量ともに新潮文庫が圧倒している。一流の作品が近所で小銭で買えるのは、実はスゴいことなんじゃないかな。「想像力と数百円」とはよくもいったものナリ。

 イイのがあったら、コメント欄から教えてくださいませ。はてな人力検索でもオススメを募集中なので、「この新潮文庫がスゴい!」という、あなたのオススメを教えてくださいからどうぞ。


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