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スゴ本オフ@新潮文庫のお誘い(3/16開催)

 好きな本をもちよって、まったりアツく語り合うスゴ本オフ。「マイベスト新潮文庫」で開催するよ。

 今回はちょっと変わっていて、どんなジャンルでもOK。しばりはただ一つ、「新潮文庫」であること。小説から論説、ミステリからインテリ、ロマンスからサイエンスまで、実にさまざまの作品が、安くて手軽なフォーマットで読める。そんな中で、あなたの「この新潮文庫がスゴい!」を語って欲しい。「新潮文庫の100冊」から選んでもよし、渾身のマイベストを発表してもよし。新潮文庫の中の人も呼んでいるので、隠れたオススメが聞けるかも。

 時間  2012年3月16日(金) 18:30~22:30 確定しました
 場所  恵比寿
 会費  2000円

 オススメ本ばかりでなく、みんなで食べたい・飲みたい・ご馳走したい料理やらツマミやらお酒やらデザートをもってきて、ワイワイやりますぞ。手土産買ってきた!という方はレシートを忘れずに(清算します)。

 平日なので、ちょっと遅れるよーというのもアリ。いつものペースだと、18:30開場でスタートは19:00~になりそう。新潮文庫は何冊持ってきてもOK、最後に交換会をするので、そのつもりでどうぞ。

 応募はfacebook「新潮文庫シバリのスゴ本オフ!」からどうぞ。

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「音楽の科学」はスゴ本

音楽の科学 音楽とは何か? 音楽を「音楽」だと認識できるのは、なぜか? 音楽を「美しい」と感じたり、心を動かされるのは、なぜか?

 音楽好きなら、誰でも一度は思ったことを、徹底的に調べ上げる。そして、究極の問いかけ、「音楽は普遍的なものか」に対して真正面から答えている―――答えは"No"なのだが、そこまでのプロセスがすごい。

響きの科楽 類書として「響きの科楽」を読んでいるが、こちらのほうが入りやすい。リズムや平均律、協和音、周波数といった音楽に関するトピックを取り上げ、音楽と快楽のあいだにあるものを浮かび上がらせる。

 いっぽう「音楽の科学」はかなり踏み込んでいる。音楽の定義から、楽曲と使う音の恣意性、「良い」メロディの考察、音楽のゲシュタルト原理、協和・不協和音、リズムと旋律、音色と楽器―――ほぼ全方位的に展開される。さらに、音楽を聴くときの脳の活性状態についての研究成果と、音楽に「ジャンル」がある理由、「音楽=言語」の音楽論など、膨大な知見が得られる。「響きの科楽」は物理学から斬り込んでいるのとは対照的に、「音楽の科学」は認知科学から解こうとする。「響きの科楽」→「音楽の科学」の順に読むといいかも。

 たくさんの楽譜が引用されており、調査の確からしさを支えている。楽譜が読めなくても心配無用、ここ Music Instinct (原著タイトル)にて全ての音源が公開されている。読み手がネットにアクセスできるという前提で書かれているので、電子書籍との親和性も高いですな。

 音楽の「快さ」に入る前に、人は音楽をどのように聴いているかに着目しているのが良い。芸術や文化論で補完しつつ、メインは認知科学だ。すなわち、「脳は音楽をどのように聴いているか」に力点を置くと、脳が意外とアナログな(文字どおり適当な)処理をしていることが分かる。

 たとえば、脳は、情報量を自動的に減らす能力が備わっているという。音程がわずかに違うだけの音は「同じ」と判断してしまうのだ。おかげで、少しくらい調律が狂っていても、音楽を楽しむことができる。もし調律の狂った音がすべて別の音と認識されれば、音楽はとてつもなく複雑に感じられ、処理能力の限界を超えるからね。

 あるいは、脳は、メロディの最初の一音を聞くだけで、すぐはたらきだす。そして、「メロディはどこへ向かうのか」、「次に来るのはどの音か」を予測し始めるという。リズムで補完しつつ、音を補いながら、調性を察知するようにはたらきだす。過去に聴いた、調と音の組み合わせの記憶と照らし合わせながら、調を想定し、次の音を予想する。これは、イントロクイズとか、ドレミファドン(古いか)などで、この能力の一端を垣間見ることができる。

 そして、この解釈は一時的なものではなく、次々と聞こえてくる音と記憶の比較は絶えず続けられ、必要に応じて解釈が更新されていくのだという。どちらかというと受動的なイメージが先行していたが、本質はどうやら違うようだ。聴く、というのは予想をはるかに上回る創造的作業なんだね。

 このとき、聞こえてきた次の音やメロディのパターンが分かり、次の展開が想像どおりになると、愉快な気持ちになるという。物事を正しく予見できれば、進化的に有利だからね―――これは音楽評論家デヴィッド・ヒューロンの主張だという。ソナタ形式や変奏曲における構成美を「美しい」「快い」と感じるのは、予感が当たったというご褒美なんだと。だから音楽は、次の展開をほのめかしては、そのとおりに展開したり、裏切ったりの連続で成り立っているという(これは、L.B.メイヤーの言)。

 ここまでは、「響きの科楽」でも語られていた主張だ。だが、「音楽の科学」の著者フィリップ・ボールは、これに物言いをつける。音楽と感情の関係を、予測や裏切りで説明する理論には、大いに検討の余地があるという。

 なぜなら、聴き手の「予測」が具体的に何なのか明確ではないから。聴き手が曲のどの箇所に感動しても、あてずっぽうに「予測が裏切られたからだ」と説明すればいいことになってしまう。実証が困難だから、「何とでも言える」「まともに答えていない」と腐すのはどうかと思うが、厳密を良とするサイエンスライター魂から来ているのだろう。

 ただ、この研究から面白いことが分かっていることも事実だ。人が音楽を聴くとき、主音を探す「習性」があるという。これは、途中で主音をわざと出さない曲を聞かせる実験で分かったこと。被験者はそれに気づかず、無意識に主音を補って聴いてしまうのだ。そして、どれが主音かの判断は、統計によるのだという。すなわち、最も使用頻度の高い音を人は無意識のうちに主音とみなすというのだ。

 これを逆手にとって、調性をなくしてしまう試みが出てくる。たとえば、アルノルト・シェーンベルクが1907年に書いた「弦楽四重奏曲第二番」になる。オクターヴを構成する12の音を均等に使い、すべての音が使われる前に同じ音がくり返されることのないようにする。そうすれば、他の音に比べて重要に感じられる音が生じることはない。

 この調性を破壊するメロディを実際に聴くと、次がどう来るのか全く見えない。主音がどれか判断が揺れ動くような音楽は、人によるとひたすら退屈だったり、「音楽でない」と腹を立てたりするらしい。著者はこれを「帰る場所がない緊張感」「曲芸をはらはらしながら見るのに近い感覚なのかもしれない」という。シェーンベルクの作曲法で許容される音の配列操作を試すなら、MusicInstinct_chapter04をどうぞ。リンク先の「Fig4.22(1) ~(4)」がそれぞれ以下に相当する。

  Fig4.22(1) … 音の配列
  Fig4.22(2) … 反転
  Fig4.22(3) … 転回
  Fig4.22(4) … 反転と転回

 破壊された調性、馴染みのない調性を聴いていると、調性とは恣意的な慣習ではなく、音楽の認知に一定の役割を果たすスキームなのだという主張が真実味を帯びてくる。調性があるおかげで、重要な音とそうでない音が出てくる。それが、メロディを理解する手がかりになる。いわば、道に迷わないための道標が調性だというのだ。

 調性階層に加え、音程変化の幅やパターンについての記憶が、メロディを理解する手助けとなるのであれば、そいつを逆手にとって、同じような調性や音程変化をする曲を「似た曲」として探すことはできないか?

 こんな素朴な問いに「響きの科楽」のコメント欄で、以下の論文を教えてもらう(asmさんありがとうございます)。コード進行の類似パターンをクラスタリングすることで、楽曲の「近さ」や「相関」を抽出する。Amazonの「これを買った人はこれにも興味があります」は純粋にユーザのふるまいを蓄積したデータだが、この仕掛けを楽曲そのものからあぶりだそうというわけ。

 近親調を用いた楽曲クラスタリングシステムの構築に向けて(pdf)
 ポピュラー音楽クラスタリングのための近親調を用いたコード進行類似度の提案

 本書では一歩進んだ"サービス"が紹介されている。Search Inside Musicで、曲の音響学的属性(メロディ、テンポ、リズム、音色、楽器の編成など)を比較して、似ているか否かを判断する。ユーザーが自分の好きな曲を指定すれば、それに似た曲を探して勧めてくれるのだ。残念ながら活動中止になってしまっているようだが、これ、精度によっちゃ喜んで金を出すぜ。最近トンと聞かなくなった Google Books Library Project より実現性高そう。

 音楽とコンピュータの幸せな融合なら初音ミクだろう常識的に考えて、と思ったのだが、2009年のロンドンまで届かなかったようだ(今ならきっと、知っているだろうが)。本書では、適応学習を応用した音楽の自動生成アルゴリズム"GenJam"を持ち上げている。これは、トランペッターでもあるプログラマが開発したシステムで、音楽を学習させることによって作曲と演奏を進化させることができるそうな(結果は…芳しくないようだが)。

 究極の問いである、「音楽は普遍的なものか?」については否定的な答えが出ている。音楽を解する能力には、学習によって身につく要素がかなり大きい。同時に、音楽を聴くという行為と、文化的背景とは切り離せない。つまり、音楽がどう聞こえるか、ということ自体を、学習や属する文化がかなりの程度決めてしまうのだ。

 これは、異文化の音楽を聴くときにはっきりする。音楽が文化によって違うのは、音楽の「解釈」にあると誤解されがちだ。しかし、実際のところ、耳に聞こえた時点で違ったものになっている可能性が高いという。脳が聞こえる音に手を加え、自分の文化の枠内にある音楽であるかのように錯覚させてしまうのだと。

 音楽がわたしたちの耳にどう聞こえるかは、聞こえた音そのものだけによって決まるのではない。その人がこれまでどんな音楽を聴いてきたのか、つまりどういう音楽が聞こえると予測するかによっても聞こえ方は変わってくるというのだ。

 このように、音楽の魅力について、科学的・文化的にかなり深いところまで連れて行かれる。ネットに接続できる環境を準備して、ゆっくり・じっくり、それこそお気に入りのBGMを聴きながら読んでほしい。きっと、いつものBGMの聞こえ方に耳を澄ませている自分に気づくだろう。


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喩え先をまちがえると恐い「犬の心臓」

犬の心臓 「わが国の首相は馬鹿で無能だ」と叫んだ男が裁判にかけられ、懲役20年の刑となった。1年は侮辱罪、19年は国家機密漏洩罪だそうな―――この小話、出所はロシアだが、ニッポンでも笑えるから情けない。

 同様に、本書はソビエトの風刺なのに、ニッポンにも刺さってくる。さすが「巨匠とマルガリータ」のブルガーコフ、共産主義社会の不条理をグロテスクにあげつらい、どんちゃん騒ぎの馬鹿笑いに誘いこむ。人の脳下垂体を犬に移植する実験で、「人間みたいな犬」ができあがる。

 ありえないSFだが、この犬みたいな人間をコミュニストのメタファーにすると、俄然、赤い笑いがこみ上げてくる。猫を絞め殺すようなプロレタリアートを生み出すのが革命なのか、「犬でもできる仕事」で一人前(一犬前か)を標榜できるのが共産主義なのか。移植手術したインテリ代表の医者と、もと犬だった人もどきと、そいつに肩入れするプロレタリアート代表が、三つ巴になって大騒ぎする。

 当然、この人間もどきをコントロールできなくなって―――と、お約束の展開になるのだが、所詮犬畜生。役に立つなら人でなくてもいいし、立たないなら要らないよ、というコミュニズムの暗黙の了解を暴き立てる。ただこれ、コミュニズムじゃなくっても成り立ってしまう。特に、「世界で最も成功した共産国」なら、あてこすりじゃなくって"ありそう"な展開になる(妙な思想を吹き込まされて手ェつけられなくなったコクミンとかね)。

 奇想の大胆さや強烈な風刺、加えて自由自在のカメラワークは、「巨匠とマルガリータ」が上手だが、「犬の心臓」は短めでマイルド。ダラダラ・ゲラゲラ読むのにいいかも。

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嘘と統計を見抜けないと、経済は難しい「クルーグマン教授の経済入門」

クルーグマン教授の経済入門 説明のための、道具としての経済を学ぶシリーズ。

 日経新聞中毒症だったこともあり、経済は避けたい話題だった。なぜなら、嘘と統計の区別がつかないから。詐欺師と経済学者の区別がつかないから。その場のレトリックや明快さに騙されて、嘘に気づくのえらい年月を要するから。

 日米貿易摩擦は"大問題"だったし、ユーロの"脅威"が取りざたされてた。自由化と規制緩和こそが"経済活性化の鍵"と言われてた。うすうす胡散臭さは感じてたものの、「なぜ」なのかを考えていなかった。新聞からはデータではなく、主張を読み取っていたから。とがった感情論や、借りてきたナショナリズムを振り回すことが「経済について議論する」ことだと取り違えていたから。

 そうした思い込みを払い落とし、現象を解説する「経済学の使い方」が分かる。経済にとって本当に重要な問題は、「生産性」「所得分配」「失業」の3つだという。この観点から、巷を騒がす財政赤字や金融市場の問題を説き明かす。

 たとえば、わたしの思い込み。「(米国の)貿易赤字、ジャパンバッシング、為替レートをなんとかしろ」という説。為替レートへの政治的発言に塗りつぶされていた新聞にハマり、悪玉善玉論に陥っていた。続々と船積みされる日本車の列とか、ラジカセをハンマーで叩き壊す映像とかね。

 クルーグマン教授は、「為替レートは貿易のバランスを決定する重要なメカニズムの一つだが、それは独立して貿易バランスを決める原因ではない」という。そして、貿易収支が崩れているそもそもの原因は、為替レート以外のところにあると説明を始める。基本的に(米国の)貯蓄率の低下と、そこからくる資本の巨額流入により、貿易赤字が生じた経緯を説明する。

 あるいは、レーガノミクスのからくり。小さい政府、減税、規制緩和による、産業の回復と低インフレは、口当たりのいいキーワードで知ったかぶってた。だが本書によると、「政治的な風向きは、政権党の知恵を示すものでもないし、マキャベリ主義の反映でもない。単に時期的にツイてただけ」になる。そのわけとして、インフレ退治のコストがいかに高くつくかを説明する。さらに、経済政策が、いかに政治的な思惑でゆがめられているかを知らされる。

 必読は、第11章「日本」。日本構造障壁、"紛争"とまで煽られた貿易摩擦の仕組みを解説する。失われたン十年ですっかり影をひそめてしまったが、"日本をどのように見ていたか"が分かる。ただし、章の最後で「日本問題はあっさり消えちゃうかも」とツッコんだ通りとなって、笑ってしまう。クルーグマン教授が、"中国問題"についてどう語っているか、知りたくなった。

 そう、話題が古いのは、書かれたのがずいぶん前だから。原著の初版は1990年、訳書は1997年だから、時の審判に20年以上もさらされてきたことになる。当時から予想される一番ありそうなシナリオでは、「経済的な大惨事も大成功もなく、単にただよい続ける」になる。原著のタイトル通り、わたしたちは、「期待しない時代」(The Age Of Diminished Expectations)に住んでいるのだ。

 そして高齢化が追いついてくる。「2010年より手前のどこかで、押し寄せる年齢的な危機が、だれにでもはっきり見えるようになってくるはず」という。人口構成図は予想しやすいからね。年金支給額が、あっさり大幅に削られるのだろうかと振った後、引退者の政治的圧力から考えにくいと下げる。そして、「人口が高齢化するにつれて、有権者に占める引退者の割合も今よりもっと大きくなるってことをお忘れなく」と刺す。最近、「年金もらうような齢になったら選挙権を取上げようぜ」などと物騒な論を目にするが、いま・ここの危機やね。

 「面白くてタメになる」エンタメ教養書として素晴らしいが、訳文が砕けすぎ。訳者・山形浩生氏に言わせると、原文のニュアンスに近いそうだが、いいこと言ってるのに、ふざけたような語り口にイライラさせられる。おまけに原注と訳注に同じ通し番号が振られているため、クルーグマンが書いたのか、山形が伝えたいのか分からなくなる。もちろん注記号で判別できるが、いかにもクルーグマン/山形がいいそうな文句なので、そのうちどっちでもよくなってくる。

 ラストの番外編「日本がはまった罠」では、流動性の罠について、IS-LMモデルで説明する。最近、連邦準備銀行や日銀が舵を切りつつあるインフレターゲットを支える議論なのだが、書かれたのが1998年であることが驚きだ。正直いうと、よく分からなかった。最初に結論があって、そちらへ向かって数式を練っているような印象を受けたので、再読三読する。

 「読んでタメになった」だけでは、自分の頭で考えていないという点で変わらない。鵜呑みの鵜匠を代えただけというのでは情けないので、もっと教科書的なやつからも攻めて、ツールを探してみよう。

 嘘と統計を見抜けないと、経済は難しい。ペテン師とエコノミストの区別も、やっぱり難しい。わたしにとって、見抜くための最適な一冊。

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だれかに、なにかを、魅力的に伝える「はじめての編集」

人間ども集まれ わたしは「編集者」だということに気づかされた一冊。

 そして、より良い「編集者」を目指すことは、わたしの人生をより良い作品にしていくことなんだというメッセージが届いた「あなたの人生があなたの最高の編集物なのです」。職業としての編集者(エディター、デザイナー、プランナー)に限らず、「人生を編集したい」、そんな方にオススメ。

 著者は菅付雅信、第一線で活躍する編集者だ。出版からウェブ、広告、展覧会までを手がけ、「編集」というより「企画」「デザイン」「コンサルティング」に近いクロスオーバーな役割をこなす(その仕事っぷり)

 そんな一流人が、編集の原則/本質を惜しみなく開陳する。ブログを書いて、ときどきイベントを企画するわたしにとって、ありがたいエッセンスで満ち溢れている。書く対象やプランを検証する優れた手助けとなった。

 たとえば、「編集とは、『だれかに、なにかを、魅力的に伝える』という目的を持った行為」であり、「企画には目的がある」―――これは、当然すぎて見過ごしがちなのに、迷ってもここへ戻ってこれない場合が多い。企画にはターゲットがあり、受け手・読者・視聴者・消費者がどんな人かによって、題材も表現方法もメディアも変わってゆく。

 料理の"たとえ"は言いえて妙だ、著者は折々で企画を料理になぞらえる。100の食材があれば、料理する100の企画が生まれてくるという(企画に王道なし)。

 ただし(ここが肝心)、素材が強くて良いものであれば、企画はヒネらないほうが良いんだって。最高の神戸牛なら、ハンバーグよりも塩胡椒だけで焼いたほうが美味だし、素材がイマイチなら調理や味付けに手をかける。素材の鮮度で勝負するDIMEと、素材を「提案」として料理するBRUTUSの例に納得させられる。料理人と編集者は「さじ加減」が求められるんだね。

 そして、料理にも、焼く、ゆでる、蒸す、煮る、炙る、揚げるなど、基本的な方法があるように、編集にも基本形となる題材の料理法があり、応用がある。本書で紹介される、「企画はかけ算」「独占・挑発・再提案」といった手法は、ヤング「アイデアのつくり方」に通じる。一時間で読めて、一生役立つスゴ本だ。

 自分の企画に、もっと意識的に取り組むためのヒントも貰った。このブログもそうなのだが、著者はこう言い切る「言葉の編集ですごく大事なポイントは、読者が本文を最初から最後まで読まないだろうということを前提に作る、ということです」。そして、新聞を例に、タイトルや見出しでスキミングされる仕組みを紹介する。

 さらに、「メディアの言葉というのは、まずスキミングされる」という出発点から、挑発としての広告コピーや、フックの名人芸である雑誌のキャッチを次々と示してくれる。読めば「ああ、あれね」と思い出すようなものばかりで、痛勤電車の中吊りはフックを学ぶ最高のテキストなんだと改めて気づかされる。本ばかりでなく、上も見るか。

 そして、本書で出合った最も重要な言葉は、これだ。

   文章は飾れば飾るほど汚れるものだから。
   形容詞は甘く触れてくるが、その分腐るのが早い。

 ついつい文を着飾ってしまうわたしには、キツい戒めとして覚えておこう。

 最後に。本書を一読して、もう一度表紙に戻ると、こう書いてあることに気づく。

   THE
   WAY
   OFE
   DIT

 The Way Of Edit 、「編集道」だと泥臭く感じてしまうが、そうなのかも。軽やかでいながら、意外と素振り百回的なところもあるから。

 人生をプロデュースする、すべての「編集者」にオススメ。


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次のスゴ本オフは4/14(土)、テーマは「女と男」

 オススメ本をもちよって、まったりアツく語り合う、今度のテーマは「女と男」。

 本を介して人と会い、人を介して本と遇う、まさに「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」を地でいくオフ会ですな。読書スキーの交流の場や出会いの場と化して嬉しい。「本が好き」なんて、ネットならともかくリアルで言うのは抵抗あるから。

 時間  2012年4月14日(土) 17:00~23:00
 場所  恵比寿
 会費  3000円

 オススメ本ばかりでなく、みんなで食べたい・飲みたい・ご馳走したい料理やらツマミやらお酒やらデザートをもってきて、ワイワイやりますぞ。キッチン設備が充実しているので、食材もってきてその場で料理するのもアリ。手土産買ってきた!という方はレシートを忘れずに(清算します)。

 「女と男」というテーマは、「男性が持ってくるのは女本、女性が持ってくるのは男本」という含み。「女本」とは、「女性をテーマにした本」や、「書き手が女性の本」という意味で、「男本」は「男がテーマ」または「著者が男」になる。

 フィクションでもノンフィクションでもコミックでも、文字でも写真でも音楽でも、紙でも電子でもゲームでも、なんでもござれ。この女本・男本が好きだーという思いのたけを、アツくユルく語ってほしい。

 募集はfacebookで、以下からどうぞ。

 春だからスゴ本オフで「女と男」を語ろう!

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手塚治虫の戦争ポルノ「人間ども集まれ!」

人間ども集まれ

 戦争ポルノ(war porn)なる言葉がある。安全で暖かいところから、ネット越しで、冷酷で残虐な戦場を観覧する。一種の恐いもの見たさで、いかがわしい好奇心を満たしてくれる。無人偵察機が写したり、収容所で隠し撮りされた映像を後ろめたい気分で眺めていると、つくづく戦争はショーなんだと痛感する。

 戦争をショーだと喝破したのは、何もわたしが初めてじゃない。いまどきの人なら、森博嗣or押井守の「スカイ・クロラ」だろうが、残念!積山の中。オッサンなわたしは「銀河鉄道999」のライフル・グレネードのエピソードを思い出す。これは本物の戦争を観光資源としている話だ───なんてつぶやいていたら、当たりを教えてもらう。手塚治虫の「人間ども集まれ!」だ(ありがとうございます、ひできさん)。

 ナンセンス風刺とでもいうべきか。太平洋戦争~ベトナム戦争、冷戦の時代を映し替え、セックスとバイオレンスとギャグてんこ盛りの"問題作"となっている。今だと発禁レベルの、口に出しにくい差別を容赦なく扱っており、嘲笑(わら)うにはちちょっとした度胸が必要だ。

 人と違った精子を持った主人公が、人工授精の実験材料にされ、そこから「製造」される新人類は、男でも女でもなかった───という展開なのだが、丸出しの悪趣味に辟易する。手塚センセ、抑圧されてたのかしらん、それとも、あの三丁目の夕日の時代こそ俗悪リミッターカットされてたのかも。いずれにせよ、今では書くことも読むこともためらわれる作品だ。

 ここでは完全に戦争はショー化される。もちろん、リアルだってそうだ。一糸乱れぬ隊列やトレーラーに積んだ弾道ミサイルのパレードは、国威の"見せびらかし"だ。戦闘機のアクロバットや艦隊の洋上演習は、それだけの戦争能力があることを内外に見せるため。だが本書ではもっと大がかりで、ホンモノの戦争を引き起こすことで、「それだけの戦争能力の担い手を作り出すことができる」ことを見せびらかそうとする。

 口上はこうだ。

あなたがたのお国が戦争をなさる
戦争には人間が必要だ しかも、死んでもいい人間が!

そいういう人間や軍隊を、
私どもの国では格安にお売りしてるんですよ!

規律正しく
忠実で勇敢で
死を恐れない
無性人間!

 米ソ両方が買ったため、ベトナムでは南北に分かれ、冷戦の代理戦争の代理として戦うなんて外道そのものやね。弾よけ扱いされていた黒人は大喜び、なぜなら黒人の弾よけになるから、なんてキツすぎるブラックだ。

 人間の代理戦争を任されるほど「生産」され、地球に広まった無性人間が、次に何をするか───カタストロフの予想どおりなのだが、ラストはちょっと切ない。

 手塚治虫の狂気の極北を眺めつつ、戦争とは「見る」ものなのだと、あらためて知ることができる。「スゴ本オフ@戦争」にて、わたしがプレゼンした一冊なのだが、あまりにキッチュでオススメしにくいかも。

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「八月の砲声」はスゴ本

 ノーベル平和賞を受賞したノーマン・エンジェルは、国際平和における経済の相互依存関係を重視した。ベストセラーとなった「大いなる幻影」で、これだけ財政・経済が緊密にからみあう現状では、戦争は実行不可能だと証明した。第一次世界大戦が勃発する5年前のことだ

八月の砲声上八月の砲声下

 もちろん戦争は外交の延長にあるが、為政者は戦争を避けたいと考える。勝っても負けても苦しい目にあう、割りに合わないものだから。では、"なぜ"戦争が起きるのか?ピューリッツァーを受賞した「八月の砲声」を読むと、この設問が誤っていることに気づく。

 どんな国も戦争を起こすようなバカなまねはしたくないはず。「だが、"なぜ"戦争が起きるのか」…この問いからは、戦争が起きる理由をたどれない。正しくは、"なぜ"戦争をしたかではなく、"どのように"戦争に至ったのか、になる。

 なぜなら、戦争の理由を追求すると、イデオロギーになるから。"なぜ"をつきつめると、「悪いやつ」を探すことになる。人に限らず、悪の帝国や党派だったり、組織的収奪や不均衡といった現象もそうだ。むろんそれは、原因の一つかもしれない。しかし、そこに説明を求めると、主義主張がからんでくる(対戦国で「原因」は180度反転する)。何を信じるかによって、原因が取捨選択され、勝者の主義によって原因が決められる。そして、その"なぜ"は次の戦う相手となるのだ。

 いっぽう、戦争のプロセスに着目すると、事実の話になる。宗教上の軋轢や、貿易摩擦、異文化の緊張がどのように高まっていったか、どんな交渉が、どう決裂したかは、事実の話だ。もちろん事実のどの側面を拡大し、どこを過小評価するかは、主義主張の圧力にさらされるかもしれない。だが、それは事実を吟味する俎上に(いったんは)乗せられる。

 本書は、"どのように"第一次世界大戦が始まったか、開戦前後の1ヶ月間の政治と軍事の全体像を検証・分析する。経済的に依存しあった大国が、どんな誤算と過信に基づいて、「実行不可能な戦争」に突入していったのかが、克明に記されている。

 「サラエボで皇太子が殺されたから」「三国同盟・三国協商」といった後付けの知識で説明するのなら、単なる暗記科目になる。後知恵だから当人たちの「誤算」が愚かしく見えるかもしれない。だが、当時リアルタイムで決断を下したとき、状況は今ほど見えていなかった。乏しい判断材料、緊迫する展開、伝わらない情報の中で、どのように戦争に向かったかは、どうしても知る必要がある。

 たとえば、当時でも反戦団体はあった。ドイツの脅威に対し、英仏が協調して事に当たる計画が明るみに出たとき、反戦グループは猛然と反対した。しかし、英仏の大使で交換された"書簡"は、省略法の傑作というべきものだったという。要するに、どうとでもとれる文書だったのだ。

英仏共同作戦計画は、英国には実戦には"介入しない"という究極の合法的な虚構を除けば、フランスがロシアと、ドイツがオーストリアと用意していた共同作戦計画となんら変わるとこはなかった。英国の閣僚や議員の中でその方針を好まないものは、ただ目をとじて、催眠術にでもかかったような態度で、その虚構を信じつづけていた。
 この戦争計画は、サラエボに銃声が響く9年前から作成され、錬られ、政策として組み込まれていた。しかし、反戦グループは英国の不介入が謳ってある理由で、フランスは協同計画を公的に認めたという理由で、満足したのだ。その現実を、見たいように見、思いたいように思い込んだ。これを愚挙と見るか、カエサルの箴言として戒めるかは、読み手に任される。

 誰も好き好んで戦争を始めない。いかに戦争を回避しようとしていたか、各国の努力が描かれている。英国は、ベルギーが破壊されるまで動こうとはしなかった。自国の参戦を道義的に正しいものにするためだ。フランスは、国境に展開した戦線を、いったん引かせている。「ドイツが先に侵略した」既成事実を作るためだ。ドイツですら、外交上の方便を用いて、ロシアに先攻させようとした。子どものケンカの「ボクは悪くない、あいつが先にやったんだ」を巨大にしたやつだね。

 大衆は? あれだけ悲惨な戦争に反対しなかったのか? 英仏の大衆は、現状を知らされてなかったという。作戦が敵に漏れるのを防ぐため、作戦本部の発表は不明瞭そのものだったそうな。これは「愛国的沈黙」と呼ばれ、報道陣は現場からシャットアウトされ、都合の良いことしか書かれなかったという。自粛? 翼賛? どこかで聞いたことがあるなぁと思いきや、作戦本部は日本軍のやり方を採用したというのだ。今ならネットがあるから大丈夫だろうと思いきや、政府が本気を出したら、ネットの方が遮断が容易かもしれないね。

 戦争を回避しえない、point of no return を超えるとき、必ず吐かれるセリフがある。軍事計画が政治を左右する際、必ず使われる文句だ。もちろん、国や背景は違えども、英、仏、独で共通してこう述べられる―――「一度決定されたことは、変更してはなりません」―――これは、モルトケがカイゼルに直言したセリフで、独軍が犯した全ての過失の起因となり、ベルギー侵略を決行させ、米国に対する潜水艦作戦を遂行させた寸鉄だ。だがこれと同じ文句を、チャーチルが、ウィルソンが、ジョフルがそれぞれの立場を背負って吐く。

とかく世間ではすでにある計画を推進しようという熱意のほうが、それを変えようとする衝動よりも強いものだ。カイゼルはモルトケの計画を、またキッチナーはヘンリィ・ウィルソンの計画を、ランルザックはジョフルの計画を変えることはできなかった。
 いったん立てられた計画は、たとえ立案者が死んだとしても、粛々と遂行される。計画を「変える」ほうが何倍もエネルギーを必要とするからね。ここから第二次大戦やベトナム、アフガニスタンを考えることはできる。だが、もっと引きつけて読んでも面白い。

  「これだけ先行投資しているから…」
  「もうプロジェクトが発動しているので…」
  「ローンチされてしまったから…」
  「すでに人的資源はアサインされた」
  「もう締め切りは過ぎているんですよ!」

 わたしが見てきたデスマーチ・プロジェクトで、後に誤りだったことが分かる"判断"を後押しするセリフが、「決められたことなので、もう変えられません」になる。内心では、「おかしい」「まずいぞ」と思いつつ、ゴーサインを出すとき、いつも背後からこの言葉で撃たれている。面白いのは、狙撃者は、この「決められたこと」の当事者でないところ。必ず伝聞の形で告げられるところだ。

プロパガンダ これは一貫性の罠やね。小さいyesを積み重ねると、NOと言うのが難しくなる心理だ。説得する技術を徹底解説した「プロパガンダ」を思い出す(悪用厳禁!「プロパガンダ」)。これに、責任者不在の計画だけが進行すると、立派なデスマーチになる。世界大戦とデスマを一緒くたにするのは乱暴かもしれないが、「どのようにコントロール不能となるのか」と「そのとき、どんな大言がまかり通っていたか」はソックリだ。

 計画の不備や判断の誤りについて、後から指摘するのはたやすい。予想と現実のギャップに狼狽する将校たちの様子はそのままドラマになる。無謀な突撃をくり返し、死人の山を築き、失敗を失敗を認めることにかけては驚くほど無能だったウィルソン。自分が招いた事態の責任を指揮官に負わせ、どんどん担当者を罷免することで自分を守りぬいたジョフル。今から見ると愚の骨頂に見えることも、そのときは絶対の自信をもって下した"英断"なのだ。

 著者は、指導者が無能だったせいとか、ドイツが悪者だからといった視点を混ぜない。「○○すべきだった」などという後付けの賢しらは一切ない。無能な司令官が「どのように」戦況を泥沼化していったか、独軍が見せしめとしてやらかした虐殺が、国際世論に「どのように」影響を与えたかを、淡々と、意図的に感情を排して描く。それがいっそう、凄惨さを際立たせている。「誤った判断」が下されるとき、そこに楽観論、情報の錯誤、個人の感受性が「どのように」影響を与えていたかを知ることができる。

 戦争の背後にある、欺瞞や背信は、「なぜ」ではなく「どのように」という問いであぶりだす。そして、いつNOと言ってもいいのだということに気づく。戦争を避けるためには、戦争を知らなければならない。

 戦争を知るためのスゴ本、ガツンと読むべし。

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本書は、スゴ本オフ「戦争」に伴い、oyajidon さんのオススメで知りました。oyajidon さん、ありがとうございます。おかげで、すばらしい本に出会えました。「どのように」という切口から、次はハルバースタム「ベスト&ブライテスト」にしようかと。


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スゴ本オフ「戦争」がスゴい

 好きな本(と料理)を持ち寄って、まったり熱く語り合うスゴ本オフ、今回もスゴいのが集まった&積読山と積ゲー山がさらに高くなった。なによりも、わたしが知らないスゴ本を読んでいるあなたに会えること。本を介して人と会い、人を介して本と出会う。スゴ本オフとは、本を通じた出会い系なのかも。

 まずは見てくれ、狩りの成果。

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  • 【やすゆき】「エンダーのゲーム」オースン・スコット・カード
  • 【やすゆき】「月は無慈悲な夜の女王」ロバート A.ハインライン
  • 【ふじわら】「カメラ(「宝物」所収)」平田俊子
  • 【ふじわら】「戦争中の暮しの記録」暮らしの手帖(編)
  • 【はまじ】「戦争の経済学」ポール・ポースト
  • 【はまじ】「戦争の世界史」W.マクニール
  • 【はまじ】「複合戦争と総力戦の断層」山室真信一
  • 【ますなり】「ダルフールの通訳」ダウド・ハリ
  • 【ともこ】「戦場から生きのびて」イシメール・ベア
  • 【ともこ】「ファイナルファンタジー零式[PSP]」スクウェア・エニックス
  • 【おおた】「ブロデックの報告書」フィリップ・クローデル
  • 【たけだ】「鬼子又来了(「鬼子」がまたやって来た)」太田直子
  • 【はやし】「戦争の法」佐藤亜紀
  • 【はやし】「1809──ナポレオン暗殺」佐藤亜紀
  • 【こみや】「私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった」サラ・ウォリス
  • 【おぎじゅん】「スカイクロラ」森博嗣
  • 【なかだ】「スカイクロラ」森博嗣
  • 【はやしだ】「孫子」金谷治(訳)
  • 【おおもり】「ヒットラーのむすめ」ジャッキー・フレンチ
  • 【浮雲屋】「T・E・ロレンス」神坂智子
  • 【ばん】「銀河英雄伝説」田中芳樹
  • 【でん】「聖闘士星矢」車田正美
  • 【おしかわ】「世界サイバー戦争」リチャード・クラーク
  • 【むらかみ】「あの戦争から遠く離れて」城戸久枝
  • 【ひらの】「ロボット兵士の戦争」P・W・シンガー
  • 【ごとう】「ヴィンランド・サガ」幸村誠
  • 【もみやま】「他者の苦痛へのまなざし」スーザン・ソンタグ
  • 【Dain】「人間ども集まれ!」手塚治虫
  • 【?】「The Five Star Stories」永野護
  • 【?】「百億の昼と千億の夜」光瀬 龍、萩尾 望都

参加できなかったものの、オススメを表明していただいたのは、以下の通り。

  • 【かんざき】「戦争の法」佐藤亜紀
  • 【やなぎ】「夜と霧」V.フランクル
  • 【まみや】「一人だけの軍隊」D.マレル
  • 【かねこ】「雲の墓標」阿川弘之
  • 【kartis56】「仮装巡洋艦バシリスク」谷甲州
  • 【oyajidon】「八月の砲声」タックマン
  • 【ずばぴた】「チェーザレ・ボルジア 優雅なる冷酷」塩野七生
  • 【?】「わたしが一番きれいだったとき」茨木のり子
 面と向かうからできること───それは朗読。言葉の力は、声に出すことで直接伝わる。強く実感したのは、ふじわらさんが朗読した「カメラ」だ。「わたしのかわいい寝顔をあなたは撮る」から始まる、戦争をテーマにした詩は、目で読むのと全然ちがった、胸を撃つように言葉が入ってくる。なかださんが読んだ「僕はまだ子供で、ときどき、右手が人を殺す。」(スカイ・クロラ)に惹きつけられる。音読はオフ会ならではやね。

 テーマがテーマなだけに、各人の「戦争」との距離感覚をどういう選書に表わしているかが見所。ドキュメンタリーやノンフィクションは、どれくらい"その戦争"に近いかが肝やね。太平洋戦争という近過去を、生活レベルで観察した「戦争中の暮らしの記録」や、個人の罪として引きつけた「鬼子又来了」は、身に迫る思いがする。

 切り口を絞ると、戦争の意外な本質が見えてくる。テクノロジーの観点から見た「ロボット兵士の戦争」は、現実がSFよりもSFじみていることが分かるし、「戦争の世界史」は、戦争から人間疎外の方向に働いていることを示す。ともすると善悪やイデオロギーになりがち・モメがちなのを、経済の観点で斬るとすっきりする(戦争の経済学)。

 そして、テーマを強調するために、フィクションの力が有効だ。傑作「エンダーのゲーム」は、SFなのにもかかわらず、イラクの戦場にも通じる。背筋が寒くなったのは、「ファイナルファンタジー零式」。"クリスタルの力で死んだ人のことを忘れてしまう"という設定は、フィクションだからこそ(これはやりたい)。「ヒットラーのむすめ」は、いわゆるHistorical Fictionだ。史実をベースに、嘘を一つだけ入れ、世界を再構築する。「もしパパが大量殺人者だったら、私はどうする?」「もし私が殺人鬼になったら、パパはどうする?」という思考実験は、子どもと一緒にやってみる。

 圧巻の全巻そろいは「聖闘士星矢」。全部放出だから太っ腹なり。「銀河英雄伝説」はラスト1巻だけ欠けているが、9巻まで読んだら10巻は余裕買いだね。そうそう、全巻放出する方は増えてきているので、ジャンケンと腕力に自身ある方はどぞ。

 ちなみにわたしが手に入れたのは、「ヴィンランド・サガ」と「複合戦争と総力戦の断層」。「戦争を(戦闘でなく、ほかならぬ)"戦争"として、どのように認識するのか」という問いを保ちつつ、ハマる。戦争というテーマは、食と同じくらい深く長く追いかけられそう(たぶん一生モノ)。

 次回のテーマは「女と男」「男が選ぶ『女』本と、女が選ぶ『男』本」。つまり、男性の参加者は、「女性」をテーマやモチーフにした本になり、女性の参加者は「男性」になる。ずばり相手側のジェンダーを扱った本でもいいし、異性が主人公の小説でもアリ。異性をどのように見ているか(見たいか)が現れてくるんじゃないかと。facebookで募集するつもりなので、しばし待たれよ。このblogの更新スピードよりもfacebookで告知~定員が埋まるほうが早いので、wallを張りこんでおくといいかも。

スゴ本オフ@SF(2010/4)
スゴ本オフ@愛(2010/5)
スゴ本オフ@夏(2010/7)
スゴ本オフ@POP(2010/8)
スゴ本オフ@ミステリ(2010/12)
スゴ本オフ@最近のオススメ(2011/3)
スゴ本オフ@元気をもらった本(2011/5)
スゴ本オフ@ジュブナイル(2011/7)
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スゴ本オフ@2011ベスト(2011/12)

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「この世で一番おもしろいミクロ経済学」は面白かっただけでなく、経済学を学びたくなる

この世で一番おもしろいミクロ経済学 「経済学は面白い!」と言える一冊。かつ、初学者のわたしに、かなり有用な一冊。

 「経済学」ってこんなに興味深いモデルを扱っていたのね、と改めて知らされる。裏づけのあるトピックで構成されているため、眉唾に見えるのは、わたしの勉強不足だな。聞きかじり知ったかぶりの「弾力性」「パレート効率」「限界分析」の肝が、大づかみで納得できる。これを取っ掛かりに、いわゆる「教科書」に行ける。

 この本はまず、最適化する個人に注目し、次に数人の戦略的な交渉に注目し、そして多数の個人による競争市場のやりとりに注目する。その間ずっと、一つの大きな問題を考えて続け、噛み砕き、伝える。そのテーマとは、これだ。

「個人にとっての最適化の結果が集団全体にとってもよい結果になる」のは、どんな場合?
 マンガでは(マンガなのだこれは)、説明役にこう言わせている。
言い換えると、ぼくが自分にとってよいことをして…
きみが自分にとってよいことをして…
みんなが自分1人にとってよいことをすると…
…その結果が全員にとってよいものになるのは、どんな場合?

―――気候変動は古典的な「共有地の悲劇」だね
でも市場の力を利用して環境を救える…
公害排出を高価にすればいいんだ!

 ただし、経済学者が「よい」と言うとき、それは「善い」というよりも「パレート効率が良い」ことだけに注目していると釘を刺す。「パレート効率」は、ケーキを分け合う兄妹のエピソードで分かるから大丈夫。さらに、パレート効率も万能ではなく、知見の一種なのだと謙虚に振舞う。おかしいな、「なぜ経済学者は自信満々なのか」で立てた仮説と違うぞ。

 税制、格差、環境破壊、最低賃金、健康保険など、人類の手強い問題について、経済学者は創造的で強力な解決策を考案している。もちろん唯一解ではないし、時には反目しあうかもしれない。それでも、経済学的な洞察は、さまざまな知見を提示することで、こうした問題を理解しやすくしてくれる←シンプルだが、経済学の本質に触れた思いだ。人が豊かになるため、問題を理解し、解決するための学なんだね。

 この本を入口に、「教科書」を読み始めている。手をつけて分かったのだが、これは学生時代にやっておくべき(そして一生継続していく学びやね)。「経済学者はマルクス主義者」「経済学者は自分の財すらマネジメントできぬ」「ノーベル経済学賞はバラまき」などと独り合点して、ずっと避けてきたわたしが愚かですな。遅まきながら、やってみよう。わたしと同じような場所にいるなら、本書はオススメ。

 「ミクロ経済学」の見晴らしが良くなる一冊。


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