少女に狂わされる人生もまた良し「カメラ・オブスクーラ」
男の人生を狂わせる女は確かにいるが、狂わされるような男だから。
誰にとってもファム・ファタルな女なんていない。別の男なら、別の不幸な(しかし狂わない)結末となる。つまり、狂わせる女と狂わされる男が"正しく"組み合わさったとき、異常な物語が回り出す。
刹那的な十六歳の少女が男を破滅させる話として読んでもいいし、少女にハマった男が奈落にハマっていく哀れな話にしてもいい。彼女の元カレの化物語に注目しても面白い。初読は単純にサスペンスとして楽しめる。浮気バレの話かと思いきや、盛大に変転しスピーディーに横滑りしてゆく展開に乗せられる。
いい歳こいたオッサンが、家族も立場も投げ打って、少女に溺れる。惚れた弱みよ、恋は盲目というが、変なところで身に詰まされる。志村後ろ的状況に腹立たしさを覚えたり、自業自得だと意地悪く納得したり、胸と頭を揺さぶられる。
問題は一読してから。悲劇の余韻さめやらぬうち、罠だらけだったことに気づく。少女の狡猾さや邪悪なところは、最初から「蛇」のメタファーに彩られていたことを思い返す。小説のあらゆる場所に、「視覚」の比喩が隠されていることに愕然とする。
たとえば、受話器からの「顕微鏡的な声」とか、「右に赤い舌を出すと角を曲がって」ゆくタクシーなど。読み手にあれっ?おやっ?とつまづかせる箇所は、すべて視覚にまつわる。ぱんぱんに張り詰めた黒い水着から透ける地肌は、脱皮を思い起こさせる。そして、一度そんな視覚を手にしたならば、再読三読はそういう視線でしか見られなくなる。ナボコフの罠にハマる。
同時に、登場人物たちの「視差」にも思い当たる。少女の「美しさ」は男全般に通用しない。「ロリータ」ならばニンフェットになる魅惑的な少女の描写は、主人公の視線に曝されたときに限る(他人目線だとガキだったり娼婦だったり)。作家視点の描写とキャラが"見たまま"との書き口を一緒にして混ぜてある。彼女が美少女なのか微妙女なのか、信じられなくなる。「信頼できない語り手」ではなく、「信頼できない書き手」になる。これもナボコフの罠。
これは尤もなことかもしれぬ。信じようと信じまいと、読書は、まず作者の言葉を受け取ることから始まる。洞窟の比喩が示すとおり、言葉を通して読み手の脳裏に映った影にすぎないのかも。「カメラ・オブスクーラ」という表題が示唆的だ。これは、ラテン語で「暗い部屋」を意味する。写真機の原型である光学装置の一種で、壁の小穴から外光を取り入れ、反対側の壁に外の風景を映し出す。面白いことに、構造的に上下がひっくり返ってしまい、天地逆さまに見えてしまう。
そう、イデアが逆転しているのだ。天使のように愛らしく見える彼女がえげつない嘘吐きに、子煩悩・妻煩悩の小心者に見える彼が家庭を顧みない冷血漢として、脳裏のスクリーンに映し出される。これも、ナボコフの罠なのだ。
ナボコフ初心者は、この後「ロリータ」を読むと捗るぞ。
よい小説で、よい人生を。
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