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少女に狂わされる人生もまた良し「カメラ・オブスクーラ」

カメラ・オブスクーラ 男の人生を狂わせる女は確かにいるが、狂わされるような男だから。

 誰にとってもファム・ファタルな女なんていない。別の男なら、別の不幸な(しかし狂わない)結末となる。つまり、狂わせる女と狂わされる男が"正しく"組み合わさったとき、異常な物語が回り出す。

 刹那的な十六歳の少女が男を破滅させる話として読んでもいいし、少女にハマった男が奈落にハマっていく哀れな話にしてもいい。彼女の元カレの化物語に注目しても面白い。初読は単純にサスペンスとして楽しめる。浮気バレの話かと思いきや、盛大に変転しスピーディーに横滑りしてゆく展開に乗せられる。

 いい歳こいたオッサンが、家族も立場も投げ打って、少女に溺れる。惚れた弱みよ、恋は盲目というが、変なところで身に詰まされる。志村後ろ的状況に腹立たしさを覚えたり、自業自得だと意地悪く納得したり、胸と頭を揺さぶられる。

 問題は一読してから。悲劇の余韻さめやらぬうち、罠だらけだったことに気づく。少女の狡猾さや邪悪なところは、最初から「蛇」のメタファーに彩られていたことを思い返す。小説のあらゆる場所に、「視覚」の比喩が隠されていることに愕然とする。

 たとえば、受話器からの「顕微鏡的な声」とか、「右に赤い舌を出すと角を曲がって」ゆくタクシーなど。読み手にあれっ?おやっ?とつまづかせる箇所は、すべて視覚にまつわる。ぱんぱんに張り詰めた黒い水着から透ける地肌は、脱皮を思い起こさせる。そして、一度そんな視覚を手にしたならば、再読三読はそういう視線でしか見られなくなる。ナボコフの罠にハマる。

 同時に、登場人物たちの「視差」にも思い当たる。少女の「美しさ」は男全般に通用しない。「ロリータ」ならばニンフェットになる魅惑的な少女の描写は、主人公の視線に曝されたときに限る(他人目線だとガキだったり娼婦だったり)。作家視点の描写とキャラが"見たまま"との書き口を一緒にして混ぜてある。彼女が美少女なのか微妙女なのか、信じられなくなる。「信頼できない語り手」ではなく、「信頼できない書き手」になる。これもナボコフの罠。

 これは尤もなことかもしれぬ。信じようと信じまいと、読書は、まず作者の言葉を受け取ることから始まる。洞窟の比喩が示すとおり、言葉を通して読み手の脳裏に映った影にすぎないのかも。「カメラ・オブスクーラ」という表題が示唆的だ。これは、ラテン語で「暗い部屋」を意味する。写真機の原型である光学装置の一種で、壁の小穴から外光を取り入れ、反対側の壁に外の風景を映し出す。面白いことに、構造的に上下がひっくり返ってしまい、天地逆さまに見えてしまう。

 そう、イデアが逆転しているのだ。天使のように愛らしく見える彼女がえげつない嘘吐きに、子煩悩・妻煩悩の小心者に見える彼が家庭を顧みない冷血漢として、脳裏のスクリーンに映し出される。これも、ナボコフの罠なのだ。

ロリータ
 ナボコフ初心者は、この後「ロリータ」を読むと捗るぞ。

 よい小説で、よい人生を。

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最優秀の集大成「ピュリツァー賞 受賞写真 全記録」

ピュリツァー賞受賞写真全記録 凡百の言葉よりも選一の写真が雄弁だ。そんな最優秀を集大成した一冊。

 米国で最も権威あるピュリツァー賞、その受賞写真を年代順に眺める。ベトナム戦争、冷戦、アフリカでの紛争、イラクやアフガニスタンと戦争報道が多いのは、米国の国際的関心とフォトジャーナリズムの潮流が同期していたから。地震や噴火、津波などの災害モノもあり、安全な場所から歴史の現場を垣間見ることができる。

 ただし、内側・地方紙の報道写真も挟み込むように受賞している。井戸に落ちた乳児が救出される瞬間を捉えた一枚とか、大柄な赤ん坊を産み終えた直後の母親の笑顔とかに出会うとホッとする。パレードの交通整理をしている警官が、小さな子どもと目線を合わせている微笑ましいショットなんて、見てるこっちの頬がゆるむ。

 共通しているのは、一枚で全てを物語っているところ。出来事の背景や状況の説明、カメラマンのプロフィールから撮影情報まで記載されている。だが、そうしたキャプション抜きで、"起きていること"がダイレクトに伝わってくる。撮り手のメッセージ性は見えにくいが、ひたむきな"伝えたい"は熱いほど感じる。

 ショッキングなやつもある。たとえば公開絞首刑の図。ニヤニヤしている"観客"を背景に、ぶらぶらしている死体に椅子で殴りかかっている構図は、おもわず目を背けた。あるいは超高層ビルの崩壊。巨大な構造物が真っ二つになり、真ん中あたりから自重で沈む様子は、(何度も目にしたにもかかわらず)カタストロフを直接受ける。

 見るたび考えさせられた一枚にも再開する。「ハゲワシと少女」だ。スーダンの飢餓を訴えたもので、1993年3月のニューヨーク・タイムズに掲載されると同時に、称賛とバッシングにさらされた一枚だ。飢えた少女がうずくまっている背後で、その死を待ち構えているハゲワシが写っている[google画像検索]

 強烈な批判は報道のエゴイズムに向けられる。「"よい写真"を撮ることを優先し、なぜ少女を助けなかったのか」という問いが突きつけられる(後日、撮影者は自らの命を絶った)。少女の傍らに母親がいたとか、カメラマンは救護センターの場所を少女教えたといった情報をネット越しに聞いたが、"よい写真"は揺らがない。キャプション抜きで成り立っているから。何を入れて何を外すかは撮影者の意思による。写ったものが全てだと思い込むのは無邪気すぎる。だが、写ったものは"伝えたいもの"だ。

 こういった報道写真をもっと見たい。大御所はLIFEか、日本ならアサヒグラフ(休刊中)だろうか。歴史の目撃者の視点眺めると、「世界を変えた100日」になるだろうし、雑誌ならDaysJapan(マグナムフォト)、ネットならBIG PICTUREになる。

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"よい戦争"とは何か「戦争の経済学」

戦争の経済学 「戦争は割に合わない、儲けはドルだが、損は人命で数えるから」というセリフがある。だが、戦争を「プロジェクト」として捉えたら、どのように"数える"ことができるか。

 この問いに、本書は二つの読み方で応えている。一つは戦争に焦点をあて、これについて考える枠組みとして、経済理論を適用した読み。もう一つは、ミクロ・マクロ経済入門を説明するために、戦争をダシにした本として。どちらの側面からでも、「面白く」といったら不謹慎だから「興味深く」学ぶことができる。

 戦争で失われた人命の価値をカウントするため、保険支払いのための人命価値計算を持ってくる。ご丁寧にインフレ補正のために消費者物価指数(CPI)まで用いているところがミソ。式はこうなる。

  戦争時点の1人の人命価値
  = 2000年の1人の人命価値×(戦争年のCPI/2000年のCPI)

 「命に値段をつけるなんて!」と反応するのも結構だが、結構な値がついている(2000年時点で、米国の男性労働者は750万ドル)。これを"コスト"としてみるならば、決定者に戦争をためらわせる根拠にもなりうる。もっと悪い(良い?)ことに、この"コスト"より安価なロボット兵の大量生産に踏み切らせる動機にもなりうる(→現実はSFよりもSFだ「ロボット兵の戦争」)。

 経済学の教科書のトピックを"戦争"にあてはめると、突如イキイキとしてくる。例えば、ゲームツリーを用いて、テロリズムの選択モデルを分析するくだりは、(そのインセンティブの多寡はともかく)非常にありえそうだ。もちろん「自爆テロに合理性はあるか?」と、そもそも論に走ることもできるが、宗教観や異文化理解に流れるだろう。だが、もし自爆テロの合理性を考えるならば、どう説明できるかというアプローチに、経済学は役に立つ。

 「戦争=絶対悪」として捉える限り、本書を読むのは難しいかもしれない。だが、同じ場所で議論するためのツールとして、経済学を使うことはできる。人命や国土の荒廃といったセンシティブな要素は、付け加えるパラメータを何にするか、どの程度の価値と見なすかという形でまな板に乗せるのだ。

 巻末に、訳者・山形浩生氏が「プロジェクトとしての戦争」として、「日清戦争」の収支や、「自衛隊のイラク派兵」の便益を計算している。もちろん"進出権"だの"プレゼンス"は損得勘定にそぐわないかもしれないが、それでも、「元をとる」のは大変なことがよく分かる。

 では、経済の観点で「よい戦争」というものがあるだろうか? 著者は、第一次・二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争の個々のケーススタディを用い、以下の結論をはじき出す。戦争が経済的に有益なのは、以下の条件がそろったときだ。

  1. その国が戦争前に低い経済成長で遊休リソースがたくさんあるとき
  2. 戦時中に巨額の政府支出が続くとき
  3. 自国が戦場にならず、期間が短く、節度を持った資金調達が行われているとき
 条件がそろったからといって開戦するような輩はいないだろうが、それでもシビアすぎる。第一次・二次大戦の米国がたまたま合致していたにすぎぬ。そして、(経済の観点から)有益でない戦争を続けてきたのが、今の合衆国なのかも。たしかに戦争は、きわめて巨大な公共投資でありうるが、ありがちな「戦争はカネになる」論で事足れりとしないために。

 次はハルバースタム「ベスト&ブライテスト」か、タックマン「八月の砲声」に取り掛かろう。次回のスゴ本オフ「戦争編」までに、どこまで読めるか。

―――メモ : 誤りがいくつかあった(初版1刷)。

 p.198の末尾
  上の標本調査に基づいている。この調査に寄れば、7割の軍人世帯は…
  →「この調査に因れば」が正しい

 p.225中ほど
  でも限界収入は10億ドルにしかならない。表5・1はこれを…
  →「表5・2」が正しい

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徹夜小説「シャンタラム」

 鉄板で面白い小説はこれ。

 もしご存じないなら、おめでとう ! あらすじも紹介も無いまっさらな状態で、いきなり読み始めろ(命令形)。新潮文庫の裏表紙の"あらすじ"すら見るの厳禁な。あと、上中下巻すべて確保してから読み始めるべし。さもないと、深夜、続きが読みたいのに手元にないという禁断症状に苦しむことになるだろう。

 どれくらい面白いかというと、ケン・フォレット「大聖堂」中島らも「ガダラの豚」古川日出男「アラビアの夜の種族」級といえば分かるだろうか。要するに、「これより面白いのがあったら教えて欲しい」という傑作だ。寝食惜しんで憑かれたように読みふけり、時を忘れる夢中本(わたしは4回乗り過ごし、2度食事を忘れ、1晩完徹した)。巻措く能わぬ程度じゃなく、手に張り付いて離れない。とにかく先が気になって気になって仕方がない。完全に身を任せて、物語にダイブせよ。

 このエントリも含めて前知識は邪魔。読め、面白さは保証する。

 

 ここから完全蛇足。オーストラリアの重刑務所から脱獄して、ボンベイへ逃亡した男が主人公だ。すべて彼の回想モノローグで進行する。だからコイツが死ぬことはないだろうと予想しつつも、強烈なリンチシーンや麻薬漬けの場面にたじたじとなる。敵意と憎悪、恥辱と線虫にまみれ、痛めつけられ、翻弄されている彼が、憎しみと赦しのどちらを選ぶのか。

 赦すとは、自分自身の怒りや憎しみを手放すこと。これが基底となる。そして彼は幾度となく間違える。行動を過つこともあれば、まちがった理由で正しい選択をすることもある。これがもう一つのテーマ「人は正しい理由から、まちがったことをする」だ。この復讐と赦しの物語は、世界で一番面白い物語「モンテ・クリスト伯」と同じだ。手に汗握る彼(リン・シャンタラム)の運命は、そのままエドモン・ダンテスの苦悩につながる。

 あとを惹く面白さは、追いかけてくる過去にある。ボンベイの話に突然、さらに昔のオーストラリア時代の過去がフィードバックしてくる。それはナイフを用いたストリートファイトの鉄則だったり、ドラッグの溺れ方だったりする。回想口調に一般論が入ると、ストーリーは転調する。この物語に呑み込まれる感覚は、スティーヴン・キングを思い出す。

 エピソードの一つ一つが、細やかで鮮やかで生々しく、ゾクゾクするほど圧倒的な迫力をもつのは、著者の実体験に基づいているから。この小説を書くことそのものが、著者グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツの、過去を赦す行為なのだろう。

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マンガを読めない子どもたち

 「マンガが読めない子どもが増えている」というが、本当だろうか。

 セリフをつないで読むだけでなく、コマを追って、間を想像して理解できないらしい。体感ネタだから真偽は人それぞれだが、マンガそのものは複雑だぞ。漫符や構成を読み解くところなんて、相当の慣れが必要だし。

マンガの創り方 マンガが複雑?不思議に思うかもしれない。「マンガで分かる」シリーズがあるくらいだからね。しかしそれは、昔から日常的にマンガに親しんでいるから。「マンガの方法」について習熟しているんだ。わたしがこれに気づいたのは、逆説的だが、「マンガの創り方」を読んでから。これは、完成稿から、そこへいたるネーム、箱書き、構成、ネタを逆算し、「マンガを面白くしているものは何か?」を徹底的に解体している。音楽や絵画や小説と同様、普段からマンガを読まない人にとって、その面白さを味わうのは難しいのかもしれない。

 ためしに異国のマンガに触れると、かなり戸惑う読書になる。日本コミックの「お約束」と違う文法で描かれているからだ。たとえば、切り裂きジャックをモチーフにした「フロム・ヘル」なんてそう。伏線が精密で丁寧に織り込んだ、「見る」というより「解く」グラフィック・ノベルは、みっちり読み込みを要した。あるいは、「パレスチナ」のデフォルメされて歪んだパースは、恐怖がそうさせている。ドキュメンタリー・コミックは日本にもあるが、これは客観性よりも感情を優先して描いており、描き手の感覚に寄り添う読書になる。

 このように、面白くするため複雑になり、世代と時代と文化に沿って多様化しているのが、「いまのマンガ」だ。だから、新参者の「いまの子ども」のうち、マンガを読めない人がいてもおかしくなかろう。あるいは、もともと日常的にマンガを読まない子どもは昔からいて、それが可視化されただけなのかもしれぬ。または、世代問わず「読めないマンガが増えている」の言い換えかも。

 翻ってわたしの場合をふりかえる。わたしの親が「マンガなんて読んでると馬鹿になる」だった。コロコロ・ジャンプは友達ン家で貪り読んだもの。その反動で、わが子にはマンガでも物語でも好きに読ませている。息子「コロコロ」、娘は「ちゃお」で互いに交換しながら読んでいるが、その入り口は何だったろう?

 それは「絵本」だ。本の入り口は、絵本だが、マンガの入り口も絵本になる。絵本は1ページ1ページが、それぞれのシーンを形成している。それらを、巨大な一コマと見なせばいい。ページを繰ることが、シーンを展開することで、ひいては物語のコマを読み進めることになる。絵本とマンガは、演出は異なれど、「読み進める」でつながっている。

となりのせきのますだくん ただし、面白い例外もある。武田美穂の「ますだくん」シリーズだ。大判のハードカバー、デフォルメされた画など、絵本の体裁をとる。ところが開けると、純粋なマンガとなっている。絵本/マンガを分けて考えていたわたしには、ちょっとした衝撃だった。なかでも、「となりのせきのますだくん」が傑作なので、小学校入学前後の子どもにオススメ。マンガなのに「絵本を読んでいる」感覚のため、子ども心をくすぐっていたのかも。

 もうひとつ、「絵本と読物」、「絵本とマンガ」の間に立つものとして、絵とき物語がある。基本は「絵+説明文」で、ナレーションのように物語文が配置されている。わが家では、原ゆたか「かいけつゾロリ」が大人気で、最初は絵だけをマンガのように見て、慣れてくると文を追いかけて「読書」できるような仕掛けになっている。物語本はOKで、マンガはNGだったわたしからすると、アニメにもなったゾロリは羨ましい限り。

 ためしに子どもに、学校図書について訊いてみる。すると、「火の鳥」「ドラえもん」「はだしのゲン」「まんがひみつシリーズ」が人気だそうな。マンガに目くじら立てなくなったことは喜ばしい限りだがトラウマンガ「はだしのゲン」があるとは……あと、「火の鳥」は近親相姦もあった気がするが、まぁいいか。

 「最近の子どもは…」の説教になりそうだが、学校の現場でマンガを採りあげていることも事実だ。小学5年国語「ひろがる言葉」(教育出版)に、石田佐恵子「まんがの方法」が教材として載っている。「ポケットモンスター」や「ジャングル大帝」、「ちびまる子ちゃん」を掲載し、コマ割や漫符を解説しつつ、マンガの読み方や面白さの秘密を解説している。ヒンディー語の「ドラえもん」が紹介されており、わが子はドラえもんの威力を思い知っているところ。

 これは、小説、解説文、詩歌、古文、漢文などのチャンネルに、「マンガ」が追加されていることを意味する。わが子は、漫然と読んでいたマンガに、実は文法や方法があることに気づき始めている。ご丁寧にも、発展学習では「アニメの方法」に主眼が置かれている。アニメのルールになると、視界がバッと広がるぞ。とーちゃんは全力で応援しよう。まずはWORKING!を見せて勤労の尊さを伝えようw

 しかし心配もある。異端だったマンガが市民権を得て、教科書にまで載っているということは―――こんな試験問題も出てくるということになる「次の四コマ漫画を読んで、まる子の気持ちをア~オの中から選びなさい」。英語だと既にあるが、国語でこんなのが出てくるとしたら…「マンガを読めない子ども」は根が深いのかも。

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なぜ経済学者は自信満々なのか

 twitterやblogで見えるようになったのは、権威の裏側。大学教授や医者、弁護士の「中の人」のつぶやきは、ときに専門的な視座から、ときに一個人として、生々しく迫ってくる。それぞれ自分の分野を保持しており、そこでは専門家として、そこ以外では部外者としてふるまう。

 しかし例外がいる、「経済学者」だ。なぜあんなに、あらゆる分野で自信満々なのか。

 スーパー上から目線で常識を非常識と断じる。別の権威(≒主流派)の政策やガバナンスを糞味噌にけなす。なぜか突然、放射性物質の知識が豊富になり、マスコミに代わって警鐘を鳴らす。恐怖や不安を煽るキャッチーな惹句をヒネり出すのが上手く、たとえ話はもっと上手。だが、本論は2行で片付く捗りよう。

 脳内タレ流しの書き散らしを眺めるともなく見ていると、経済学教授はよっぽどヒマなのか、論文書けよ、さもなきゃ講義しろよと言いたくなる。反論には猛然と襲いかか(っているような口調だが意味不明な羅列にな)り、シンプルかつ説得力を持つ批判にはコメントを排除するといった対抗手段をとる。

 経済学者同士の罵りあいを見ていると、それぞれ「俺様経済学」というものを持っており、従わない連中は、「経済を分かっていない」と両断する("俺様コンセンサス"やね)。長年の疑問だった。自信たっぷりに高飛車な態度は、一体どこからくるのか?ひょっとすると、経済学は人を傲慢にする学問なのか?

 実は、もう答えは見えている。「わたしが観測した経済学者が自信満々だったから」だね。ひょっとすると、わたしが知らないだけで、謙虚で控えめで、モジモジしながら持説を展開してくれる経済学者がいるのかもしれない(そして、そっちが大多数で、講義や論文で忙しく、とてもネットに書いてる暇なんてないのかもしれぬ)。

 この仮説を身をもって検証するため、経済学を勉強する。やりなおし数学、やりなおし歴史シリーズの一環で、経済学に取り組んでみよう。「○○でも分かる経済学」やタレント解説者のしたり顔は見てると辛くなるので、教科書に直接あたる。

 わたし自身、「経済学」を学んでいない。日経系列を精読していたのと、簿記の資格、あと解説書を齧った程度。最近なら「要約 ケインズ 一般理論」を読んだ。日経新聞の論説と社説が、なぜ正反対の主張をするのだろう、といった疑問に答えられないくらい、経済が分かっていない(セオリーとして日経が一貫していないという事実は、いったん脇におく)。

 だからこそ、わたし自身が勉強してみよう。読んだ経過はここに書いていくから、ゴーマンな口調、上から目線になってきたら、「経済学は人を高慢ちきにする」の良い証拠となる。そうでなければ……

301 良いブックリストは、山形浩生氏がみつくろっている。「山形浩生が選ぶ経済がわかる30冊」だ。 これは、「要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論」の刊行記念のフェアで配布されているリーフレット。ジュンク堂新宿店にて無料で手に入れたのだが、千円の価値がある。寸評を読むと、本物が読みたくてたまらなくなるから。この冊子、なくなり次第終了だから、6Fの特設コーナーへ急ぐべし。PDFで読みたいという方には、ありがたいことにポット出版からお年玉がッ→「山形浩生が選ぶ経済がわかる30冊」PDF公開

 たとえば、「入門経済思想史 世俗の思想家たち」の紹介文の一節―――「ごく一部の現象(たとえばリーマンショック)を見ただけで、経済学なんか全部ダメだとか極端なことを言う人もいる」―――まさにわたしなので、極端に走らないためにも読んでおこう。

 あるいは、「クルーグマン教授の経済入門」では、教授自身が「なぜ生産性が上がるかよくわからない」と率直に認めているという。この一文は単純だが、言っている人が人なので、そこに到るまでのプロセスが楽しみだ。山形氏のコメント「経済学が何をどんなふうに考えるか、それが現実経済の説明にどう使われるか、というのが理解できる」を腹に入れてね。その後、クルーグマン先生の「教科書」に取り組もう。

 他に、「レモンをお金にかえる法」は、まさに今のわが子に読みきかせるための本。経済というより、「お金」のリテラシーは親こそが伝えるべきだから(これを"社会"に任せると、とんでもなく高い授業料を払うことになるから)。

302

  1. 「クルーグマン教授の経済入門」ポール・クルーグマン ちくま学芸文庫
  2. 「入門経済思想史 世俗の思想家たち」ロバート・L. ハイルブローナー ちくま学芸文庫
  3. 「新装版 レモンをお金にかえる法」ルイズ・アームストロング 河出書房新社
  4. 「新装版 続・レモンをお金にかえる法」ルイズ・アームストロング 河出書房新社
  5. 「ヤバイ経済学 増補改訂版」スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー 東洋経済新報社
  6. 「REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方」ローレンス・レッシグ 翔泳社
  7. 「評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている」岡田斗司夫 ダイヤモンド社
  8. 「市場の倫理 統治の倫理」ジェイン・ジェイコブズ 日経ビジネス人文庫
  9. 「テロの経済学」アラン・B・クルーガー 東洋経済新報社
  10. 「市場を創る バザールからネット取引まで」ジョン・マクミラン NTT出版
  11. 「海賊の経済学 見えざるフックの秘密」ピーター・T・リーソン NTT出版
  12. 「不道徳な経済学 擁護できないものを擁護する」ウォルター・ブロック 講談社プラスアルファ文庫
  13. 「民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実」ポール・コリアー 日経BP社
  14. 「傲慢な援助」ウィリアム・イースタリー 東洋経済新報社
  15. 「ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版」服部正也 中公新書
  16. 「ムハマド・ユヌス自伝 貧困なき世界をめざす銀行家」ムハマド・ユヌス、アラン・ジョリ 早川書房
  17. 「「壁と卵」の現代中国論 リスク社会化する超大国とどう向き合うか」梶谷 懐 人文書院
  18. 「あなたのTシャツはどこから来たのか? 誰も書かなかったグローバリゼーションの真実」ピエトラ・リボリ 東洋経済新報社
  19. 「クルーグマン ミクロ経済学」ポール・クルーグマン、ロビン・ウェルス 東洋経済新報社
  20. 「クルーグマン マクロ経済学」ポール・クルーグマン、ロビン・ウェルス 東洋経済新報社
  21. 「高校生からのマクロ・ミクロ経済学入門II」菅原晃 ブイツーソリューション
  22. 「コンパクトマクロ経済学」飯田泰之、中里 透 新世社
  23. 「ゼロから学ぶ経済政策 日本を幸福にする経済政策のつくり方」飯田泰之 角川oneテーマ21
  24. 「日本経済のウソ」高橋洋一 ちくま新書
  25. 「デフレ不況 日本銀行の大罪」田中秀臣 朝日新聞出版
  26. 「経済復興 大震災から立ち上がる」岩田規久男 筑摩書房
  27. 「日本はなぜ貧しい人が多いのか 「意外な事実」の経済学」原田 泰 新潮選書
  28. 「環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態」ビョルン・ロンボルグ 文藝春秋
  29. 「世紀の空売り」マイケル・ルイス 文藝春秋
  30. 「パーキンソンの法則」C.N.パーキンソン 至誠堂
 そう、このリストで注意しなければならないのは、「経済がわかる30冊」ということ(≠経済学がわかる30冊)。もちろん「経済学の教科書」もあるが、そこからかけ離れたように見える本もある。「経済がわかる」ことと、「経済学がわかる」こと、ひょっとすると、両者は別物なのかもしれぬ。すると、「経済をわかっていない経済学者」という存在が、俄然真実味を帯びてしまうのだがw


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「戦争の世界史」はスゴ本

 ギルガメシュ王の戦いから大陸弾道ミサイルまで、軍事技術の通史。人類が「どのように」戦争をしてきたかを展開し、「なぜ」戦争をするのかの究極要因に至る。本書は非常に野心的な構想に立っている。軍事技術が人間社会の全体に及ぼした影響を論じ、戦争という角度から世界史を書き直そうとする。

 最初は大規模な略奪行為だったものから、略奪と税金のトレードオフが働き、組織的暴力が商業化する。戦争という技芸(art of war)を駆使する専門技術者が王侯と請負契約関係を結ぶ。常時補給を必要とする野戦軍を、その経済的作用から「移動する都市」と喝破したのはスゴい。略奪して融かされた金銀地金は市場交換を促進し、従軍商人は日用品から武器まで売りつけていたから。

 そして、現代の軍産複合体の前身にあたる軍事・商業複合体が形成され、ライバルとの対抗上、この複合体に依存して商業化された戦争を余儀なくされる。民間から集めた税金で軍事専門家を雇って戦ってもらい、その支出が有効需要として経済を刺激する。増加した税収でさらに軍事力が高度化し……このフィードバックループこそが、ヨーロッパを優位に立たせたのだ。

 さらに、イギリス産業革命は軍事・産業複合体が支配する産業化された戦争を生み出す。そこでは、アメリカで開発された旋盤技術により、ライフル小銃の大量生産が可能となり、大砲や戦艦の製造技術が産業化されることによって、全世界を顧客とする近代兵器製造ビジネスが誕生する。

 戦争をする主体(王侯・政府)の財政・経営上の決定と、民間企業である武器製造会社の財政・経営上の決定とは、縦横の糸のように交錯しあう。そしてついに、公共政策と民間企業のポリシーとは、二度と解きほぐせないほど緊密な布地に織りあわされる。

 本書の視線で西欧史を眺めると、社会そのものが、長い時間をかけて、戦争というシステムにロックインされてきたのが分かる。もちろん、戦争は欧米の専売特許ではない。だが、フランス革命とイギリス産業革命をトリガーに、全世界を巻き込みながら戦争と産業というシステムを二人三脚で輸出する過程こそが西欧史なのだ。このダイナミズムに圧倒される。

 本書をユニークにしているキーワードは、コマンドになる。文脈により「指令」、「注文」、「勅令」と変えられているが、補給や戦略における命令の伝わり方に着目しているのが面白い。たとえば、戦友がばたばた倒れているのに、隊列を崩さず頑張る行動様式は、本能からしても理性からしても説明がつかない。しかし、18世紀のヨーロッパの軍隊は、これをあたりまえにこなしていた。なぜか。

 あるいは、軍隊の戦闘単位が上官からの命令に厳密に従うことについて。命令の出所がすぐそこの丘の頂だろうと、地球を半周した先の本国であろうと、同等の正確さで服従したという事実は、驚くべき事なのに、ルーティンワークとしてこなしていた。これはなぜか。

戦争における「人殺し」の心理学 それは二つある。ひとつは頻繁に反復される体系的な教練を発達させたこと、もうひとつは主権者(国王、為政者)に発して最下級の下士官まで行き届く明快な指揮系統をつくりだしたことにある。「戦争における人殺しの心理学」が述べているように、たとえ戦場であっても、人は人を簡単に殺せない。人を殺す抵抗感を減らすため、「相手を人とみなさない」「戦闘行為の反復化」こそが鍵となる。練習による殺人は、グロスマンが「戦争における『人殺し』の心理学」で述べている通りだが、今に始まったことではないのだね。

 そう、歴史を俯瞰しているのに、過去問ではなく、極めて現代的な課題にぶち当たることが多々ある。

ロボット兵士の戦争 たとえば、人間性を排除した戦争が、戦争の非人道化を招いていること。テクノロジーの発達の歴史は、戦場を拡大化───戦線の無効化を促しているように見える。近接武器を手にした格闘戦から投擲器、弓矢による遠距離、クロスボウ、鉄砲、大砲、ミサイル、空爆、そして無人機と、殺戮は非対称で一方的となる。シンガー「ロボット兵士の戦争」と同じ議論が展開される。

 つまり、肉体の鍛錬による殺人行為ではなく、技術的な技能は、昔風の勇気と武勇を無用の長物とする脅威をはらんでいる。より遠くから、より効率的に(≒より安く)殺戮が行えることにより、軍人であるということが何を意味するのか、定義自体に疑問符が付けられる。象徴的な言い方をするなら、エヴァンゲリオン初号機のパイロット、碇シンジ君なんてそうだ。戦士としては非力だが、人類が保有する最後にして唯一の対抗手段となっている。

 ミエー銃やアームストロング砲など、近代兵器の拡充は、そのままドコモのiモードの盛衰と重なる。いわゆる技術の馬跳び現象だ。いったん兵站の標準化を成しとげたら、砲弾や銃弾サイズは柔軟に変えられない。設備投資は10年サイクルなのだ。だから、後追いの方が馬跳びのように先行者を追い越してしまう。フランス軍のジレンマは、なまじiモードが成功したからスマートフォン移行が遅れたdocomoに重なる。さらに、アナログ端末が普及していたためデジタル携帯革命に乗り遅れ、2Gを一気に飛ばして3Gスマホにジャンプした米国は、そのままクリミア戦争当時のロシア陸軍の戦備とダブって見える。

 軍備が遅れていた国が、一つ先の設備とサービスを取り入れてジャンプしてしまうのだ。ガラパゴス携帯は日本を揶揄する物言いだが、イノベーションのジレンマは、戦争の世界史のあちこちに散見される。古いのに新しい問題だ。

 Howから入り、Whyに至る。「なぜ」戦争をするのかの究極要因は、急激な人口増だ。人口が過剰になって成年に達しようとする世代が、今までのやり方で暮らしを立てられなくなれば、非常な緊張を生むことになる。新しいドグマ、新しい土地、新しい生活様式を探し求めてやまない、焦燥と激情にみちた精神状態は、どんな形態の政府で動揺させずにはいないという(いっぽう軍隊は雇用受入皿として有用だ)。ヨーロッパの1750~1950年がまさにそれで、アフリカ、アジアはまだ続く。日本はどうだろうか。団塊が老害として居座るのであれば、この不安定は解消されないだろうが、わたしの生きている間で行く末は定まるだろうか。

 著者・ウィリアム・マクニールの研究テーマは「西洋の台頭(The Rise of the West)」だ。西洋文明が他の文明にもたらした劇的な影響という観点から世界史を探索し「世界史」「疫病と世界史」を著している。前者は、読むシヴィライゼーションともいえる名著で、後者は、感染症から世界史を説きなおしたスゴ本だ。

 マクニールは何度も読む。そのたび異なる視点で現代を「過去問」として取り組むだろう。

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食欲だけが、死ぬまで人間に残る「ラブレーの子供たち」

ラブレーの子どもたち 食べることは生きること。生きることを文学から知ろうとした人にとって、本書は、懐かしくも未知の味に充ちている。

 著名な芸術家が何を好んで食べてきたかを調べあげ、その料理を再現する。それをみずから口に運び、かの人の「人となり」に思いを馳せるコンセプト。愛好している料理から、その人物の幸福感、ひいては世界観を引き出そうとする。ブリア=サヴァランのこの箴言を、素直にリアルに追求しているね。

「何を食べているのか言ってごらんなさい、あなたがどんな人だか言ってみせましょう」

 俎上にあがるのは、ロラン・バルトの天ぷら、小津安二郎のカレーすき焼き、谷崎潤一郎の柿の葉鮨など、いかにも美味そうな一品から、魔女の蛙スープ、ウナギのクリーム煮など、ちょっと遠慮したいものまで。

 こういう本は、書き手の読量がモノを言う。料理の感想文ではないのだから。たとえ素朴な料理でも、その背後の思想まで透徹するぐらい作品を読み込んでなければならないから。マドレーヌから長編小説を紡ぎ出せる経験の厚みと想像力が必要だ。

 この点、著者は四方田犬彦なので安心できる。たとえば、「バルトにとって天ぷらとは、ほとんど純粋な表面からできている、理想的な食物であった」だって。揚げられた実質ではなく、揚げる油の処女性こそが、求められるのだという。できたての天ぷらに、そんなキャッチが添えられると、見慣れた料理が見違えてくるから不思議だ。

 いっぽう、著者の着眼にハッとさせられる。魔女のスープなんてまさにそう。レシピは次の通り(黒山羊の頭の煮込みは俗信で、「蛙のスープ」が一般的だそうな)。

  1. 蛙を洗って皮を剥き、胸と肢を別々にする
  2. セロリ、ニンジン、ニンニク、タマネギを微塵切りにし、ラードで炒める
  3. 胸肉を加え、少々の白ワインを振りかける
  4. ワインがすべて蒸散してしまったら水を足し、グツグツと煮込む
  5. スープを一度濾し、さらに肢を加える
  6. できあがったスープにバターを添え、辛めのチーズを擦り下ろしていただく

 ポイントは、当時に忠実なところ。15世紀のイタリアの魔女のレシピなのだ。著者は「何か風味が足りない」ことに気づく。それは、16世紀にスペイン人が"発見"した胡椒やトウガラシといった香辛料になる。もし現代のイタリア人ならば、間違いなくトマトベースに塩胡椒で下味をつけ、トウガラシがアクセントの「蛙のスープ」になるだろうと喝破する。そこからの洞察がスゴい。ちと長いが引用する。

そして21世紀に住むわれわれは、知らずのうちに塩と胡椒、トウガラシとトマト、それにオリーヴオイルを基本とするイタリア料理の約束ごとによって、すでに舌をコード化されてしまっているため、そのコードが成立する以前の料理を口にしたとき、奇妙な違和感を感じるまでになってしまった。魔女の料理は逆に、世界食物史におけるペルーの偉大さを、わたしに改めて考えさせてくれたのである。

 「舌をコード化されてしまっている」発想に犯られた、たしかにその通りだ。料理をするとき、わたしは"お約束"のように塩胡椒する。和なら出汁、中なら鶏ガラ、洋ならブイヨンなど、ベースの味付けに寄せて、アクセントとして辛味や酸味を加える。毎日つくる「新しい料理」は、料理史の振り付け通りに譜面をなぞっているのかも。

 真面目(?)な考察から離れて、ほとんど冗談のようなネタもやってくれる。これは、著者というより編集者のたくらみやね(画にかいた企み、"企画"とはよくいったもの)。

 たとえば、アンディ・ウォーホルの「キャンベルスープ100缶」をリアルでやってしまう。大衆文化を代表する「キャンベルスープ缶」をモチーフに、アメリカ社会をメタ化したポップアート―――これをさらにメタ化(メタ「メタ化」)して、作品どおりに「現実の」キャンベルスープを並べる。並べるだけでなく、食べてしまうのだ―――全部!

 グラス「ブリキの太鼓」で精神に異常をきたした母親が食べたとされるウナギ料理も再現される(そして食す)。「ブリキの太鼓」そのものが陽気で不吉で饒舌で猥雑さに満ちているのだが、その象徴みたいな食べ物であることが、実物の写真を見て分かった。純白の生クリームに濃緑のウナギがとぐろを巻いている姿は、グロテスク&エロティックだ。食事は色事に通じる。胃袋から玉袋(子袋)に届けよ。

 「食とは記憶である」ことを再認識させられる一冊。

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現実はSFよりもSFだ「ロボット兵士の戦争」

ロボット兵士の戦争 現実はSFよりもSFだ。しかも、SFよりも「お約束」な展開が恐ろしい。

 革新のスピードが速すぎて、考えるのをやめ、「なりゆきを見守っている」のが、現状になる。SF好きには堪らないだろう。なんせ、ロボット兵を作り出すアイディアを、SFから拝借しているどころか、SFでもやらないベタな地雷を正確に踏んでいるのだから。

 軍用ロボット技術の現状を洞察し、イラクやアフガニスタンで活躍する無人システムを、(良いとこ悪いとこ含めて)解説する。紹介される無人偵察機やロボット兵はSFまんまだけれど、だいたい想像つく。むしろ、使い勝手の良さや、ユーザ巻込み発想はスゴい。

 たとえば、ルンバで有名なiRobot社のPackBot(パックボット)は、箱から出してすぐ使える。8つのペイロード・ベイがあり、地雷探知機や生物化学兵器センサー、ズームカメラなど何でも搭載できる。イラクではカメラ+かぎ爪を組み合わせ、遠隔地から爆弾を分解するのに使われた。ロボットといえば汎用人型決戦兵器を発想する国とは違うのだ。

 後継機はUSBポート搭載され、センサー、散弾銃(最近の銃はUSBで接続できる)、テレビカメラ、iPod、スピーカーなど、プラグイン周辺機器市場が広がる。iRobot社はこれを「プラットフォーム・ロボット」と呼び、マイクロソフトがソフトウェア産業でやったことを、ロボット産業でやろうとしている。

 軍事ロボットの現場はスゴい。C-RAMシステムは自律的な機関砲を使って、人間では遅すぎて反応できないミサイルやロケット弾を撃ち落す。命中率100%のSWORDSは、むしろ撃たれたがる。「そうすれば、相手を標的をみなせるからだ」。砂、雪の中を進み、水深30メートルまで潜り、バッテリーで7年間スリープ状態で潜伏し、目覚めて敵を撃ち倒すことができる。

 地上だけではない。5メートルの波浪でもUSV(無人水上艇)なら活動できる。呼吸や水圧による潜水病といった問題に煩わされることもない。クリック一つで離着陸するグローバル・ホークは、GPSで飛行ルートを確認しながら、完全自動で任務を遂行する。UCAV(無人戦闘機)にとって人間のパイロットはむしろ邪魔だ。あまりに高速で旋回・加速できるため、Gによって失神してしまうからだ。イラクで何度も"戦死"したスクービー・ドゥーについて、指揮官は評価する───「戦死したのがロボットだから、母親に手紙を書かなくてすむ」。

 そう、人は防衛システムの最も弱い環(weakest-link)だ。無人システムはこの限界を回避できる。機内のやわな人間を気にすることなく、より速く飛べ、より激しく旋回できる。もっと深くさらに長く潜行・航行・遡行することができるのだ。人は標的を間違えるし、狙いを外す。休憩が必要で、訓練に時間がかかる。何よりも厄介なのは感情というやつ。怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、不安にさいなまれ、名誉欲、権力欲、色欲、野心に振り回される。機械は、人の不安定さから完全に自由だ。

 ここで徹夜SF「戦闘妖精・雪風」と「グッドラック」を思い出す。二十年前の傑作なのに、まったく同じ議論をしている。地球へ侵攻する異星体("ジャム"と呼ばれる)に反撃する特殊戦の話だが、メインは雪風というAIの戦術戦闘電子偵察機だ。

戦闘妖精雪風グッドラック

 ジャムとの戦況が膠着するにつれ、「戦争」がヒトからますます離れてゆく。テクノロジーが先鋭化するにつれ、搭乗する"ヒト"の存在が、機動性や加速性へのボトルネックになる。無人化・遠隔化が進むにつれて、「戦いには人間が必要なのか」という問いかけが繰り返し重ねられてゆく。

戦争は人間の本性をむき出しにさせるものである。だがジャムとの戦闘は違う。ジャムは人間の本質を消し飛ばしてしまう
 「雪風」の予言が、まさに今の米軍の課題になっている。低予算と効率性を追求することで、戦争の現場から人を減らした(一番高くつくのは人件費だからね)。その結果、戦争から人間性が喪われているというのだ。

 本書は主張する。戦争を煽り、持続させるのは、人間の感情だと。激しい恐怖、憎悪、名誉、誇り、そして、怒りこそが、戦争の燃料なのだと。「怒りは兵器や甲冑と同様に、戦争の一部である」と喝破するが、無人システムには「感情」が無いのだ。「リスクを遠ざけた」のではなく、「リスクが存在しない」ところから、一方的に殺戮を行うことができる。

 そこには、敵との間に相互依存の関係は生まれない。感情は制限されたり抑圧されるのではなく、完全に排除される。自律性のあるロボットは、怒りに任せて戦争犯罪を引き起こすことはしないが、プロの兵士なら拒否するような戦争犯罪を淡々と遂行できる。ロシアの戦車T80にミサイルを発射するのも、80歳のおばあさんにミサイルを発射するのも、ロボットにとっては同じことになる。

 そこでは、敵を人間ではなく、画面上の光点とみなすようになる。デジタル処理された「目標」は、リアルとバーチャルくらいかけ離れた存在になるのだ。エヴァンゲリオンの「目標をセンターに入れてスイッチ、目標をセンターに入れてスイッチ」を思い出すね。

 無人システムは「戦闘の非人格化」に深刻な影響を与えるという。物理的な距離を広げるだけでなく、従来にない心理的な断絶を生む。爆撃機のパイロットは従来のように標的の上空にいるのではなく、1万キロ以上離れたところにいる。ゲーセンの筐体に似た制御装置に座って、危険といえば腱鞘炎という状況で、午前はアフガニスタン、午後はイラクを攻撃した後、PTAの会に出席するお父さんもいる。

 いまや戦争体験そのものが変わってしまった。無人機プレデターのリアルタイム情報共有は、マイクロソフト・チャットで行われる。操縦者、サポート部隊、支援されている隊、そしてそれぞれの上司が入り乱れ、匿名性と飛び入り自由の雰囲気が軍の上下関係を混乱させている。友軍が窮地に陥っても遠い場所から「見ているだけ」しかできない。目の前でアメリカ兵が殺されていく様子で受けたストレスを、「メタル・オブ・オナー」で解消する。

 この戦争と人間性の断絶は、戦争のショー化につながる。1991年の湾岸戦争で、ロケット砲が飛び交う夜襲の映像を見たとき、「テレビゲームみたい」だった。2007年の時点で、イラクでの戦闘を撮影したビデオクリップは、Youtubeだけで7000件を超えたという。本書の言葉では、「戦争ポルノ」と化している。サッカーのスーパープレイと一緒で、メールとつぶやきで瞬時に拡散する。

 これも、SFがいつか来た道、かつて開けたパンドラの箱になっている。昔なら松本零士「銀河鉄道999」の惑星ライフル・グレネード、最近なら森博嗣「スカイ・クロラ」だね。本物の戦争を見せることで金を取る、「ショーとしての戦争」だ。999の第47話「永久戦斗実験室」が放送されたのは、1979年9月20日、戦争を観光にしている話は(ラストも含めて)衝撃的で、よく覚えている。

「お前もやっぱりただの観光客さ。防弾ガラスの中でうまいものをたらふく食って、戦争見物をして笑いながら、またこの星から旅立って行くんだ」
 今はもっとひどいのかもしれぬ。無人システムが「安全に」攻撃する様を、銃弾から地球半周り離れたところから視聴する。プレデターが人々の体を吹き飛ばす映像に、シュガー・レイの「I just want to fly」(空を飛びたい)をつけて流す悪趣味なクリップもあるという。無人機のおかげで、戦争が「娯楽」になっている。「巻き込まれていない人間にとっては、見るスポーツ」となのだと。

 長弓であれ銃であれ飛行機であれ、あるいは原子爆弾でさえ、変わったものは「戦争の距離と破壊力」だけだ。これに対し、無人システムは、単に戦い方を変えるだけでなく、誰が戦うかを根本的なレベルで変える。戦争の担い手の能力だけでなく、担い手そのものを変えてしまっている。

 明確な前線はめったになく、戦闘は敵味方の区別がつきにくい状況で行われる。遠くから指揮され、通信システムの不備が民間人に死と破壊をもたらす。この現実は、アメリカ本土では理解されておらず、相手側はもちろん、ときには味方の死傷者についても驚くほど無神経という。

 もっと悪いことに、この「遠い戦争」は(アメリカにとって)安全なので、「軍事」カードが切りやすくなっているという。無人システムは米国民と軍との断絶を象徴している。徴兵制が停止され、議会の承認も不要で、戦時公債もなく、危険にさらされているといえば、もっぱらアメリカ製の機械だけというのが現状になる。戦争から人間的要素をなくすことで、戦闘の経費が安くなり、結果、紛争が増える。「最後の選択肢」だった武力行使が、無人システムのおかげで「お手軽」になっているのだ。

 これまで、著者P.W.シンガーの著書は「戦争請負会社」「子ども兵の戦争」を読んできた。国際紛争の視点は中立的(国連的)で、多国籍軍とは距離をおいた言い方をしていた。ところが本書では、驚くほどアメリカンな視線で語ってくれる。戦場から人を排し、ロボット兵を送り込むことで、自国がどのように見られているか、ようやく気づいたようだ。

戦争請負会社子ども兵の戦争
  • 戦争から人間性を奪うことによって、世界から見れば、われわれ(アメリカ)こそ「ターミネーター」のように見えてしまうかもしれない
  • アメリカは「スター・ウォーズ」の悪の帝国のように、相手はロボットの侵略者に応戦する反乱同盟軍のように見える
 正義の味方になりたがり、「戦争を終わらせるための戦争」をしたがるアメリカ人にとって、無人機は、誤ったメッセージを発信するという。曰く、無人機は無差別テロを「引き寄せる」のだと。イラクの民間人の発言が印象的だ。
「イスラエル人やアメリカ人は冷酷で残忍だという象徴が、無人システム。私たちを戦わせるために機械を送り込んでくる臆病者だと考えている…男らしく戦おうとせず、戦うのを怖がっている、と。だから自分たちが勝つには、イスラエルやアメリカの兵士を何人か殺すだけでいい」
 ロボットというと、アメリカ人は「ターミネーター」のような不気味な存在を思い浮かべるらしい。お国柄だろうか、ロボットというと友達やメイドを作りたがる日本人と偉い違う。2003年のイラク戦の作戦名「Shock and Awe(衝撃と畏怖)」で役立つと思いきや、「正々堂々戦わない」という、まるで逆の印象を植え付けている。著者は、テロリストにアメリカ本土を攻撃する動機を与えることになると警告する。無人機が、「テロを推奨する」のだ。

 じゃぁどうすればよいのか?本書に明確な「解答」は無い。現状を詳らかに事細かに開陳して、あとはオマエが判断しろ状態で放置している。それはそれで正しい。変革のスピードが早すぎて、上が追いついていない。重要な判断が、教義(ドクトリン)なしで決まっていく。SF読みなら行き当たる疑問、「アシモフのロボット三原則は?」はスルーどころかナンセンスとして放置される。ロボット工学が原子力物理学の二の舞になろうとしているのか?

 様々なアイディアが展開されるが、製造物責任の考え方を、民間の法律から戦時国際法に応用している。無人システムは自律的だとしても、作った人間はシステムのすることになんらかの責任を負う。戦争犯罪の原因が、作り手の落ち度ではなく、使い方が間違っていたり、適切な注意を怠っていたりしたためであるケースにも、この考え方が使えるという。

 犬と飼い主の話が適切だ。飼い主は自分の犬が何をするか、誰に噛み付くか、把握しているわけではない。しかし、犬が自律性のある「生き物」だからといって、犬が子どもを襲っても、自分の責任ではないと知らん顔をしていいわけない。飼い主はその場にいなかったとしても、刑事責任を問われる可能性がある。つまり、ロボットも同様に「不作為による」責任を問われることもあるというのだ。

 その予防措置として、鑑札やナンバープレートをつけることを義務づけるアイディアが、古くて斬新だ。登録や免許のような、何らかの正式な承認によって、自律的システムの製造および配備の段階ごとの責任の所在を明確化することを主張する。この辺はSFよりも泥臭くて現実的だ。宙ぶらりんの状態で不安になりながら、次の2つのセリフが未来を暗示している。ひとつはアイザック・アシモフの「社会が知恵を集めるより早く、科学は知識を集める」だ。もう一つはロボット工学者のこの一言。

「有罪無罪は状況次第さ。ただ、あまりにしょっちゅう起きる場合は、リコールすればいい」
エンダーのゲーム もう一つの、見たくない未来は「エンダーのゲーム」か。ネタバレになるので一切触れられないが、傑作だ。だが、エンダー(ENDer)が終わらせた方の世界は、本書が示す「現状」と真一直線上にある。SFこそ未来予想図(しかも一番おぞましい奴)を指してくれる。

 知らない方がよかった現実と、知っていた方がマシな未来を識る一冊。


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