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「ビブリオバトル@紀伊國屋書店」の可能性

 オススメ本を語りまくり、読みたい本をみんなで選ぶ「ビブリオバトル」。行ってきた&語ってきた。そして、面白いことに気づいた。書店は、本に会いに行くのではなく、人に会いに行く場なんだと。

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 かつては孤独なマタギのように棚めぐりをしたもの。感性と眼力を頼りにしたソロハンティングを続けるうちに、井の中の殿様になっていたのはわたし。ネットのおかげで「人つながり」ができ、グループハンティングがメインになった。

 狩場はネットに限らない。「つながり」のある多人数でオススメしあうことで、わたしが知らないスゴ本を読んでいる「人」が見えるようになった。それがスゴ本オフであり、本屋オフであり、ブクブク交換であり、ビブリオバトルなんだ。

 イベントだけではない、書店で最も重要な「棚」の背後には、選択・配列している「人」がいる。ある書店に通ってしまうというのは、その棚を作っている「人」が、わたしが知らないスゴ本を読んでいるから。

 SWITCH「表現者たちの本棚」も、BRUTUS「世の中が変わるときに読む263冊」も「人」に焦点をあてている。たとえばSWITCHの「子どもには隠しておきたいブックガイド」。みうらじゅんが「鬼畜」(松本清張)を強力にプッシュしている、さもありなん。本谷有希子は「蝿の王」(ゴールディング)で邪悪を語る。ケッチャム読んでみたら?と背中を押してやりたい。本をノードにして話したくなる。

SWITCH1月号BRUTUS1月号松岡正剛の書棚

 売れてる本、新刊本を並べるなら誰でもできる…が、本が多すぎるのだ。だから人がハブになって本を集める。丸善の「松丸本舗」なんて発想はそのものズバリで、(絶対彼が読んでなさそうな○○本も含め)松丸というブランディングで目にとまり手にとってもらえる。ジュンク堂の「山形浩生が選ぶ経済がわかる30冊」は硬柔まざった面白いリストで、フェア期間中は小冊子を配布するという。これは、お金を出しても買いたい。本をじゃなく、人を出すことで、「顔」が見える。

 Amazonの「この本を買った人はこれも…」は、その背後にいる「人」を隠している。同じカートに入っている他の本を数えているだけなのだが、マスになれば精度は馬鹿にできない。レビューアーやリストマニアのシステムは、「人」を前面に出しているものの、顔が見えない。

 リアルの強みはここ、実際に「人」と「本」を見ることができる。書店の中の人とお話しすると、上層部はおしなべて「Amazonは敵」だそうな。もったいない。Amazonは敵ではなく、学ぶ相手であり、盗み先だ。うろ覚えから特定させる仕掛けや、「似た本」の見せ方は素直にパクればいいのに…と思う。その上で、リアルに誘導する。ソーシャルソーシャルってWebの世界だけだろうか?店内の通路や書架や陳列台こそ、その書店の「人」とそこに集まる「人」のsocialな場になる。

 誘導する仕掛けになったら、中の人の十八番だろう。リーフレットやイベントが盛りだくさんだから。たとえば、ピクウィッククラブのこの冊子なんて一生モノ。世界文学を数百冊、短評とともにコンパクトにまとめている。また、書評空間はすごく良くできている。ただ、「人」はスタッフではなく著名人に焦点が当たっているのと、ネットに閉じているのが残念。ネット→リアルへの導線が無いから。

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 いっぽう、ビブリオバトルは「人」に焦点が当たっている。オススメされた本を頼りに、わたしが知らないスゴ本を読んでいる「人」を識ることができるから。さらに今回、U-streamで札幌と新宿をつないで、双方向のライブを実現したところが素晴らしい。ネット→リアルへの道筋がはっきり見える。

 ちょっと残念だったのは、肝心のU-streamの音声がブツブツ途切れていたところ。理由は単純、マシンスペックが足りないのだが、これも改善されるだろう。また、事前告知を厚くして、twitterとの連動を増やすといいかも。発表者→受け手・視聴者→発表者へのフィードバックがあると、本から人のつながりが、ネットからリアルへのつながりが、さらに増える。

 こうなってくるとビブリオバトルではなく、本屋オフやね。店内を巡りながら、ネットやリアルに本を紹介しながら連想を膨らませながらフィードバックを受ける。これは松丸本舗に一日の長ありやね。イシス編集学校で鍛えられたスタッフを常備しているから。

 本を介して人に会い、人を介して新たな本を知る。知は本というノードに集約され、本は人というノードでつながる。ネットとリアルの双方にまたがる、ソーシャル・ブック・エリアやね(Bookshopでないところに注意)。ビブリオバトルのようなチャンネルが増えると、もっと書店に行きたくなる。

 わたしが知らないスゴ本を、きっと読んでる「あなた」と会うために。

 最後に、ビブリオバトルについて。わたしのオススメ本「なぜ私だけが苦しむのか」はトップはとれなかったけれど、何人かに届いたからよしとするか。当日のレポートは、「鈴木たかみつが考えると。」をどうぞ。

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この本でタバコをやめて十年目

禁煙セラピー 最後の一本を吸い終えたのが、ちょうど十年前。

 やめた(やめられた)のは、子どものこととか懐具合とか健康を気にしてではなく、この一冊を読んだから。今やコンビニで見かけるほどメジャーになったが、本当に、本当に感謝している。文字どおり、わたしの人生を変えた一冊やね。

 10年前のスペック―――文字どおりの「ヘビースモーカー」。マイルドセブンが220円だった頃から始め、マイセン系はカスタムライトまで試し、CASTERのチョコっぽさに辟易し、ピースに浮気して、結局ピースライトに落ち着いた。十年間、一日一箱を守り、さらに開高健の影響でパイプをやっていた(紙巻は肺ガンになりやすい、と信じてた)。「タバコをやめよう」なんて考えたこともなかった。タバコがない人生なんて、考えられなかった。

 「読むだけでやめられる」というキャッチで惹かれて立ち読み。タバコと不可分のわたしに対する挑戦だと受け取ったから。さぞや、タバコの害を並べ立ててるんだろうなぁと思いきや、キッパリ裏切られる。真っ黒になった肺の写真も無いし、ガンとタバコの統計といったものも、一切ない。

 恐ろしいのは、まえがきを読んだだけで、「やめられるのかも」と思ってしまったところ。千円でやめられるならダメ元だと買ってみる。その日に一読。一日間をおいて、さらに一読―――そして、一本のタバコに火をつけて、ゆっくりと吸い終えた。それでオシマイ。魔法のようにやめられたのだ。

 時は流れ、ニコチンパッチやニコチンガムが一般化し、それでも禁煙に苦労している人がいる。が、少なくともここに一人、この一冊だけでやめられたわたしがいる。もちろん誰にでもオススメというわけではない。周りに奨めて読んでもらった3人中3人とも禁煙できなかった。だが、「タバコへの心理的依存」が軽くなることは請けあう。

 タバコのメリット・デメリットに自覚的になったのは、タバコをやめてからだ。タバコは有効なリフレッシュ手段で、なおかつタバコ部屋は情報収集にうってつけだった。「タバコのデメリット」は、タバコを日常的に吸っている時代には、ピンとこなかった。「息苦しい」「体や息が臭い」「メシがまずい」「肌が荒れる」といった、タバコの良くないとされている部分が分からなかった。全て、タバコをやめた後、「改善」という形でフィードバックされた。

 余得として、「匂い」が戻ってきた。女の微かな妙やかな体臭や、冬でも汗の匂い/臭いを感じられるようになった。もちろん匂いが「見える」わけではないが、濃淡がダイレクトに伝わってくる(匂いは音楽に似ている)。オフィス街を闊歩する女の後ろを少し歩くだけで、ファンデの中から脂を嗅ぎ分けたり、生理直前のアーモンド臭を嗅ぎ当ててウキウキできる(立派な変態ですな)。

 この本の効果は、「吸うのをやめる」というよりも、「吸う必要がなくなる」感覚。「食後の至福の一服」とか「タバコでリラックス」といった暗示から解き放たれるのだ。ヒネた言い方でまぜ返すなら、「『タバコのメリットという幻想』からの解放という暗示」にかかったんじゃないの?とツッコムこともできる。だが10年はさすがに長いぜ。

 ときおりあの、「喉が渇くような感覚」に襲われることがある。昔なら、タバコが吸いたいという体の反応だ。「タバコを吸っている夢」を見たこともある。ひょっとすると、10年経っても抜けていないのかもしれぬ。この「タバコの暗示」というやつは。

 全てのタバコ吸いに捧げる、千円でタバコ依存から解放される(かもしれない)一冊。

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過去なのに今、遠いのにここにある感覚「ゴーストタウン―――チェルノブイリを走る」

 過去なのに「いま」の感覚に襲われる。むかし読みふけったサイトが本になったのだ。時間も距離も、遠い大事件だったものが、凄く身近に感じられる。

 彼女の名はエレナ、バイク乗りだ。カワサキのニンジャを駆ってあの土地を旅する。豊富な写真と淡々とした体言止めコメントが印象的だ。驚くほど自然に還っている建造物や、誰もいない世界の様は、人類史後を眺めているようだ。ある特定の廃屋や廃ビルの「写真集」ではない。バイクに乗って延々と走っても走っても、遺棄された光景が続く。危険なので地図からも抹消されている。場所が丸ごと捨てられているのだ。

 それでも、人がいる。興味本位の「観光客」ではなく、自分の家に戻ってきて自活している人々だ。原子炉50キロ南に住む老人がいる。放射能汚染で移住を余儀なくされたものの、見知らぬ土地で死ぬよりも、自分の家で死にたいという。自分の畑の野菜を食べ、飼っている牛のミルクを飲んで生きている400人のうちの1人だ。

 彼女は大丈夫かって?わたしも心配したが、ガイガーカウンターを常備している。ホットスポットは文字どおり斑状となっており、「あぶない場所」に留まらないように気をつけているという。危険なのは「ホコリ」で、常に動き続けていることで回避しようというのだ。

 いま改めて読むと、別の箇所に目が行くのが面白い。これは書籍の形だからそうなのか、福島原発事故を見ているからなのか。自分のことなのに、分からない。四半世紀の事故を、7年前の旅行記と思えないくらい、「いま」「ここ」に引き付けることができる。彼女は言う、

進めば進むほど、
土地は安くなり、
人は少なくなり、
自然は美しくなる。

 そう、捨てられたラクターや、巨大アパートや観覧車を見なければ、木々が生い茂り、人が一切立ち入らない、静謐な楽園となっている。そこだけ時間が止まったようで、彼女と一緒に闖入者の眼で眺めることができる。異郷なのに、既視感と既聴感に満ちている。彼女の、このセリフなんて強烈だ。

事故の後数年間、私たちのモットーは「チェルノブイリを救おう!」だった。今では、「草が伸びるままにしておこう……」というだけ。

サイトは以下の通り。上が本家、下が翻訳になる。

Elena's Motorcyle Ride through Chernobyl チェルノブイリの写真 Elenafilatova和訳

 そう、このサイトで「チェルノブイリ」の本当の意味を知ったのだ。ウクライナ語でチェルノブイリとは、ニガヨモギの草、もしくはアブサンのこと。この言葉は、土地の人々をぎょっとさせるさおうな。信心深い人たちは、聖書の黙示録にニガヨモギが出てくることを知っているから。

第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が天から落ちてきて、川という川、水源という水源の三分の一がニガヨモギのように苦くなった。そのため多くの人が死んだ。
ヨハネ黙示録8:10

 この隕石の名前は、「ニガヨモギ」。

 昔のわたしの感想は、以下にある。まさに back log (=blog)だ、いま内省すると、傍観者と当事者の違いが如実に分かる。

チェルノブイリ旅行記 チェルノブイリ旅行記―――オオカミの大地 「チェルノブイリ旅行記」と「廃墟チェルノブイリ」

 なぜなら、エレナの父のこの言葉が、触れるほど感じられるから。

人々は目に見えなくて、触れることができなくて、においも感じることができないことに、恐怖を感じるのだよ、と私の父はよく言っていた。わからない、ということ自体が、死をよく表しているからだろう。

 過去なのに現在を、遠いのに肌で分かる一冊。

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ビブリオバトル@2011オススメ

 師走が「速い」のは、実質的に活動できる日が少ないから。

 気づいたらもう来週に迫ってるので再告知、ビブリオバトル@紀伊國屋書店に参戦しますぞ。わたしが参戦するのは、17:00開始の第2ゲーム。Ustream でも流れるので、twitter のハッシュタグ #bibliobattle をチェックすると吉。公式サイトは、ビブリオバトル in 紀伊國屋<年忘れ☆オールスター2011>をとうぞ。

   2011年12月28日 (水) 16:00~
   紀伊國屋サザンシアター(紀伊國屋書店新宿南店7F)

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 画像はまみやさんより。なんだかスゴいバトルのイメージング、ありがとうございます(実際はビーム出ない)。

 ビブリオバトルとは、ずばり書評合戦。オススメを1冊、5分だけプレゼンして、観覧者と「いちばん読みたい1冊」を決める。持ってくる本の威力も当然ながら、プレゼンの熱意も結果を左右するので、とてもスリリングだ。

 今回ユニークなのは、Ustream でセッション形式のビブリオバトルがあるところ18:30開始の第3ゲームは、東京と札幌をUstで接続するんだって。Ust はタレ流し感覚だったのだが、こういう使い方もあるんやね。さらに一歩進め、Ust + twitter で発表と投票を司るシステムにすれば、リアルとネットの双方をイベント空間にできそう。

なぜ私だけが苦しむのか 予め公開しておく。わたしのエントリー本は「なぜ私だけが苦しむのか」。大きな災厄に襲われ、多くの訃報に接するのが多かりし一年。"生き延びた"わたしにも、遅かれ早かれ、苦悩は訪れる。それは、自分の病なのか、近しい人の不幸なのか分からない。

 だけど、「なぜ私だけが苦しむのか」と嘆きたくなるときに、これを知ってると知らないとでは、大きく違ってくる。いわば保険のような一冊を紹介するつもり。岩波の人気本なので手に入りにくいが、今回は会場で入手できるよう、在庫厚めにしてもらっている(前回は速攻売り切れた)。

 これは、「読むべき」ではなく「読め(命令形)」。なぜそうなのかは、会場で熱く語る。

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料理はヒトの生存戦略「火の賜物」

 本書の結論は、「ヒトは料理で進化した」になる。

火の賜物 すなわち、ヒトをヒトたらしめているのは料理になる。ヒトは料理した食物に生物学的に適応したと主張する。体のサイズに比べて小さい歯や顎、コンパクトな消化器官、生理機能、生態、結婚という慣習は、料理によって条件づけられてきたというのだ。

 解き明かしの前に、問題を一つ。イギリスBBCのドキュメンタリーがある実験を行ったのだが、予想外の結果が得られた。その理由を考えてみよう。正答できるなら本書を読むまでもないだろう。

 実験名は「イヴォ・ダイエット」。重症高血圧の志願者が12日間、動物園のテントの仕切りで類人猿に近い生活を送る実験で、あらゆるものをほとんど生で食べたのだ。「イヴォ」とは、この食生活により進化(evolve)したからという意味。

 食べたものは、ピーマン、メロン、キュウリ、トマト、ニンジン、ブロッコリー、ナツメヤシ、クルミ、バナナど50種を超える果物や野菜、木の実になる。2週目から脂分の多い魚の料理をいくらか食べた。栄養学者が立会い、毎日の摂取カロリーが女性で2000、男性で2300キロと充分になるよう調整している。

 参加者の目的は健康の改善であり、全員成功した。コレステロール値は1/4下がり、平均血圧は標準に落ち着いた───のだが、ひとつ、予想外のことが起きた。参加者の体重が大幅に減ってしまったのだ(平均4.4キロ減)。これはなぜだろう?

料理の四面体 答える前に、料理の本質を考えてみる。「料理の四面体」で興味深い指摘を受けた。英語のcook、仏語のcuisineの本来の意味は、火を通したものという。翻って日本語の「料理」の本来の意味は「うまく処理すること」───これでは分かりにくいので、料理をする人「板前」で考えている。「板前」とはまな板の前だから、切ることが料理の本質だというのだ。すなわち料理とは、切って火を通すことになる。

 何のために切って火を通すのか?見栄えの華もあるが、食べやすくするため、おいしく食べられるようにするために、「うまく処理する」のだ。口や歯に合うよう、コンパクトな消化器官で吸収できるよう、消化プロセスを外部化する技術こそが料理なのだ。

 料理によって消化・吸収しやすくなる。加熱により澱粉がゲル化し、タンパク質が変性して、あらゆるものが軟らかくなる。料理は食物から得るエネルギーの量を実質的に増やしてくれる。

 だから、「イヴォ・ダイエット」の答えはこうだ。体重減の理由は、料理されてない食物を消化するために、必要以上にカロリーを消費していたから。さらに、料理していないため、食材からカロリーが予想よりも得られなかったためだ。

 著者は指摘する、ヒトの小さな口、歯、消化器官は、料理した食物の軟らかさ、食物繊維の少なさ、消化しやすさにうまく適応している。コンパクトなことで、繊維の多い食物を大量に消化する代謝コストを払わなくてすむ。軟らかく高密度の食物を噛むのに大きな口や歯は必要ないし、料理したものを食べるに適した弱い咀嚼力を生むには、小さな顎の筋肉があれば足りる。料理を始めた者たちはエネルギーをより多く得て、生物学的に優位に立った───これが著者の力点になる。

 そこから面白い考察を進める。体重あたりの代謝率は、ヒトも他の霊長類も変わらない。料理とそれに適応した器官により、効果的にエネルギーを吸収するしくみがあるにもかかわらず、基礎代謝率が同じ。では、余分に取っているエネルギーはどこへ行ったのか―――脳が消費しているのではと仮説を立てる。

 そして、小さい胃腸を持つことで節約できるカロリーを計算し、それが大きな脳に求められる追加のカロリー量とほとんど一致していることを示す。エネルギーは、脳と胃腸でトレードオフしてたんやね。

 著者はさらに、料理は男女の役割分担をうながし、結婚形態や社会構造を条件づけたと論じる。この畳みかけは小気味良いが、「男は外・女は内」は料理を中心とした進化史上のもの……とは、イロイロ物議を醸しそうだ(だからといって、今後もそうあるべしというのは別の議論)。

 食べ物がどんどん軟らかく加工され、より吸収されやすくなり、歯がどんどん小さく顎が弱く胃腸がコンパクトになる……のだろうか。たとえば、「ソフト食」が高齢者向けから一般化しそうだ。これは食材をいったんマッシュして、元の姿に再形成したもの。誤飲の恐れのあるきざみ食や、病人食のようなミキサー食とは違う、軟らかいけれど形がある食材として人気がある(端肉を再形成したサイコロステーキを想像して)。そこまでくると、「料理」とはちと違うのかもしれぬ。

 料理を通したヒトの肉体的・社会的な成り立ちを知る一方で、料理を通じたその先を考えると、ちと怖い一冊。

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「疫病と世界史」はスゴ本

 感染症から世界史を説きなおしたスゴ本。

 目に見えるものから過去を再現するのはたやすい。事実、書簡や道具から過去を再構成することが歴史家の仕事だった。が、この一冊でひっくり返った。「目に見えなかったが確かに存在していたもの」こそが、人類史を条件付けていたことが、この一冊で明らかになった。

 著者はウィリアム・マクニール、名著「世界史」で有名だが、本書では、感染症という観点から世界史を照らす。欠けている部分は推理と計算を駆使し、見てきたかのような想像力を見せつける。それは、面白いだけでなく、状況証拠を示すことで強力な説得力を併せ持つ。

 本書の結論はこうだ。

人類の出現以前から存在した感染症は、人類と同じだけ生き続けるに違いない。人類の歴史の基本的なパラメーターであり、決定要因であり続ける。

 本書は、宿主である人と病原菌の間の移り変わる均衡に生じた顕著な出来事を探っていく。帝国や文明の勃興・衰亡レベルで影響を与えていた微生物の侵入経路を暴き、手記の間にこぼれ落ちそうなトリビアルも、疾病の観点からピックアップする。それぞれのエピソードが劇的につながっており、ページを繰る手が止まらない。人類史とは疫病史、ヒトが病気を飼いならす歴史なのだと改めて認識させてくれる。

 ただし、著者が冒頭で告白するとおり、マクニールが敢えてした断定や示唆の多くは、試案・仮説の域を出ない。その病気が何であるかを、書かれたものから同定するのは困難だ。しかも、宗教的プロパガンダにより、なんでもかんでも疫病を「黒死病」という名に丸めることで、特定をより困難にしている。古い文書から、人に危害を加える微生物や寄生生物が何であったかを探り出すことは、ほとんど望み薄だから。

 著者は、この難問に「移動手段の発達」と「疫病の地域性」というツールを使う。当時の移動手段(徒歩、馬、帆船)でどれくらいの人数がどこまで到達できるか、というアプローチをとる。例えば、帆船時代は、海があまりにも広すぎたがため、ペスト菌が拡散するより前に宿主を殺してしまっていた。汽船の出現が船脚と容量を増すことにより、感染が長時間循環できるようになり、海は突然、かつてないほど通過しやすい場所になったという。

 また、1817年インドにおけるコレラ流行の真相を突き止める。それまで風土病として徒歩圏内に留まっていたパターンが、イギリスによって押し付けられた通商上・軍事上の移動パターンと交差したからだと解き明かす。それまでは、感染して歩けなくなったというヒトの肉体的な限界が、コレラを封じ込めていたのだ。

 さらに、病気の地域性が、文化や制度を条件付けていたことまで踏み込む。カースト制度が発生した原因は、いわば疫学的疎隔意識とでもいうべきものがあったのではないかと考察する。これは、天然痘など文明に伴う病気が好例となる。小児病として感染し免疫のあるアーリア人の侵入者が、インド東南部の高温多湿ではびこっている風土病への耐性を獲得していた土着の「森の種族」と出会ったときを想像する。そこに生じた、互いに相手を避けようとする態度が一般化したのだという論考は、検証しようのないものの、なるほどと思わせる。

 著者は、「記述がない」ことの重要性を指摘する。ただ一つの記録しかない場合は無理だが、複数のソースを手繰りながら、この「あぶりだし」は使える。この手法で、三世紀にローマ帝国の諸民族を荒廃せしめたこの病気の正体を「天然痘」と「はしか」だと結論づける。

 「天然痘」と「はしか」に罹ったならば、体の外側に劇的な症状が出る。ところが、ヒポクラテスやその後継者の著作には、その痕跡すら見つかっていない。症状を正確に記述している著作にそれがないとなると、ヒポクラテスはこの病に出会っていないはずだ―――このように、「ない」を積み重ね、「あった」と突き合わせていく様は、推理小説の謎解きのように楽しい。

 ペストがどのような経路をたどって中世ヨーロッパを襲ったかの検証は、ユーラシア大陸を股にかけている。著者は欧州ではなく、まず中国に目をつける。中国に災厄がもたらされた時期と、十数年の時間差を経て欧州に到ったことを考える。そして、仲介役はフビライ汗が率いる騎馬民族と、ヨーロッパ~イスラム圏の海上輸送手段だと結論づける。

 この、イーグルアイからグローバルな見方と、数十年数百年をワシ掴みにする把握力は、「銃・病原菌・鉄」を思い出す。いわば"人類の格差"をテーマにしたスゴ本だ。この著者ジャレ・ド・ダイアモンドは、ひょっとしてマクニールの本書を読んでいたんじゃないかと思わせる箇所もある。

 たとえば、免疫を身につけるため必要な過程を、人口の稠密化にしているところ。一人から別の一人へと感染が広がっていくほど、人の出会いが頻繁に行われるためには、共同体がいわゆる文明化されている必要がある。つまり、規模が大きく、複雑な組織を有し、人口密度が高く、都市を中心とした共同体が条件だという。そこでは、中間宿主なしに、病原菌が直接ヒトからヒトへ移動する。はしか、おたふく風邪、百日咳、天然痘など、普通の小児病として罹っているからこそ、耐性が生じるというのだ。

 そして、メキシコ文明やアンデスの諸文明に壊滅的な打撃を与えたのは、征服者たちの武器ではなく、彼らが持ち込んだ病気だという。子どもの頃に感染し、免疫があるスペイン人は、一方的に神の恩寵に浴しているとみなされていたに違いない。インディオがあれほどやすやすと恭順の意を示し、キリスト教に同化していったか、推して知ることができる。この展開、マクニールとダイアモンドは同じに見える。

 だが、ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」において、この展開に乗せる前提条件のあぶりだしが面白い。大陸の陸塊の形態から考察している。Google Earth のような人類史「銃・病原菌・鉄」を参照してほしい。

 いっぽう、マクニールはメタファーがユニークだ。微生物がヒトの体内で生息する様を「ミクロ寄生」と呼び、ヒトが地表で都市を築く「マクロ寄生」として対照化させている。地表を開拓し、住み良い環境に作り変えようとする人類の営みと、肥沃だが危険を孕んだ人体に寄生しようという病原菌の営みが、オーバーラップしてくる。世代を経て"賢く"なりながら、寄生先から搾取をすることは、ミクロでもマクロでも変わらない。

 「面白い」は不謹慎かもしれないが、本書がもたらした視座がとてもユニークだ。ともすると、過去に「今」を見ることができる。「移動手段の発達」が、徒歩、馬、帆船、汽船、そして飛行機と進むにつれ、ほとんど爆発するように感染域が拡大する。飛行機に乗ったトリインフルエンザは、これまでの疫病とは比べ物にならないスピードを誇って良い。

 同時に、感染サイクルが二極化しているように見える。これまで1週間の潜伏期間が数日で発症する感染症にとって代わったのは、稠密化されたところまで数日でたどり着けるから。このままだと、感染して数時間で発症するようなウィルスでも、文明化された地域でなら「やっていける」だろう。また、ヒト側の対策も充実している「数日~数週間サイクル」を捨てて、何年も潜伏するような戦略をとるウィルスもでてくる(たとえばHIV)。エイズについては、本書の冒頭にあてている(というのも、執筆された1976年は知られてなかったから。それくらい「新しい」疫病なのだ)。

 エイズについてのマクニールの見解は、過去のものに見える。曰く、「ゲイの性的乱交の増加、静脈注射による麻薬使用者がHIVを広めた」といい、今後は小数の向こう見ずな個人だけが危険だという。社会階層の両極端―――富裕層の自分には関係ないと信じている若者と、極貧の落ちぶれた人―――に分化して集中すると予想する。梅毒について起こったことと同じことが起こりつつあるというのだ。

 だが、この予想とは裏腹に、社会全層にわたって広がり、新規HIV感染者数は年々増加傾向にある。また、Wikipedia:後天性免疫不全症候群を見る限り、全世界的な問題だろう。一時期は、「激増」「爆発的」といった表現も使われたが、これも当たらない。無症状期間が5~10年と長期にわたるため、気づかれないまま広まって、HIVにとっての収穫期が「今」なのだろう。

 本書の大部分は、疫病が人類を規定する様が語られる。人と疫病は、あるバランスの上で"共存共栄"してきたともいえる。WHOが天然痘の根絶宣言をしても、エボラ出血熱やSARSなど、新しい疫病が待ちかまえている。ヒトという、ウィルスにとって"肥沃な"場所がある限り、感染症は、人類にとっての基本的なパラメーターなのだ。

 本書の読了後、Wikipedia:感染症の歴史を読むとスゴい。「ペスト」や「コレラ」や「インフルエンザ」など、感染症ごとに歴史をまとめている。「疫病と世界史」が、より人類史的なマクロ視座である一方、百科全書的Wikipediaも興味深く読める。

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負うた子に教えられ「ゼルダの伝説」

 「ゲームで子育て」のつもりが、子どもに教えられたでござる、の巻。

ゼルダの伝説スカイウォードソード 「子どもに読ませたい本」があるように、やらせたいゲームがある。ピカイチはゼルダ。本なんて好きなものを勝手に読むだろうが、ゲームはそうはいかぬ。うっかり「無料です!」に騙されて時間とカネを吸い取られないように、とーちゃんが教えてやる。

 自分で考えることなしで、ただ刺激と反応をくり返す―――「ゲーム脳」で親を脅す商法は種切れだろう。今のゲームは緻密で複雑で、トライ&エラーを重ねながら、因果関係とパターンを見抜く必要がある。もちろん例外はあるが(無料です!)、わが家では禁止だ。こういうときこそ、温故知新「タダほど高いものはなし」を思い出せ。

 ゲームとは、現実のシミュレーション。対象を「観察」し、「目標」を定め、ミスをくり返しながら目標に近づく方法を模索する。さらに、別方向からアプローチできないか、他の要素から効率化できないか考えながら試す。リアルでは「試行錯誤」「FIT/GAP」と呼んでおり、失敗に不寛容な世間を生き抜くための強力な武器だ。

 「ゼルダの伝説」は、この「試行錯誤」に誘ってくれる。「行きたい場所」「入れたいスイッチ」「倒したい敵」があって、最初は上手くいかない。何かが足りないのか、もっと効果的な方法があるのか、考えて、試して、くり返して、正解を得る。このエウレカ!がごほうびなのだ。

 目を輝かせる子どもを傍らに、「スカイウォードソード」をプレイしながら、どうだ、とーちゃんスゴいだろ、と自慢する。人食い花をなで斬りにして、囲まれたら回転斬りだ。「これまでの経験」があるから、パターンは分かっている。新しく手に入れたアイテムは、そのダンジョン攻略のキーとなる。周囲をよく見ろ、やるべきことは全部試せ。

 ところが、ある「部屋」で詰まる。ロックされた扉の上に、巨大な一つ目がある。部屋の中央に立つと、「目」が開いてこちらを見つめる。説明によると、「尖ったものを見つめる習性がある」そうな。なるほど、剣を抜くと、切っ先を目で追いかける。ははーん、これは剣で突くのだなと思っても、届かない。じゃぁジャンプ切りだ、と跳んでもギリギリで目を閉じられる。むむッ、これはさっき手に入れた「パチンコ」でぱちーんと……できない。

 うんうん悩んでいると、息子が、「パパ、○○してみたら?」と言い出す。なんだよそれ、そんなアホな……と試すとあら不思議、息子が正しかったのだ。今までの経験に寄っかかって、「新しく試す」ことを怠ってたことに気づかされる。

 その後とんとんと進み、ある「敵」で引っかかる。そいつは無謀にも素手で向かってくるのだが、こちらの剣を受け止めてしまう。何度やっても、どうやってもダメージを与えられない。ハートも薬も使い切って、ダメかとあきらめてたら、息子「パパ、○○を狙って攻撃すれば?」と言い出す。ホントかよ、と試してみたら、あら不思議、息子が正しかった。ちゃんと「観察」してなかったのは、わたしだね。

 ありがたかったのが、「鬼ごっこ」。15個の「あるもの」を手に入れるのだが、「鬼」に見つからないように隠密行動する。見つかってしまうと、今度は鬼とのデッドヒートになる。一撃でミスとなり、せっかく手に入れた「あるもの」はゼロに戻されるというシビアさ。たくさんの「鬼」に追い回され半ベソかきながら、なんとかクリアする。それは、岡目八目。わたしよりも子どもたちのほうがよく見ており、「そっち行き止まり!さっきやられたよ」とか「そこから登れる!」など、ナビゲートしてくれたおかげ。

 こんな感じで、子どもに助けられながらゼルダしてる。ゲームは孤独に黙々とだったのが、家族みんなでワイワイ遊ぶようになった。もちろん、コントローラー持つのは一人。でも、これ試してみたら?とか、もっと簡単に倒せるんじゃない?とか、これであそこへ行けるね、などと皆でアドバイスする。試行錯誤していくうち、みんなで遊んでいる気になる。独遊びでなく、共遊している感覚、これは面白い。

 現在は心が折れそうになりながら鬼ごっこしてる。点在する場所をあちこちめぐるのは、島めぐりの「風のタクト」を、浮遊するように風に乗る感覚は「パンツァードラクーン」を、そもそもの世界設定は「1000年女王」を思い出す。剣に宿る精霊は、映画「コクーン」を彷彿とさせる。カートゥーンタッチの猫目リンクも可愛らしいが、この油絵タッチのリンクは凛々しい。マイベストゲーム「時のオカリナ」を越えてくれる予感にワクワクしている。「死ぬまでにしたいゲーム1000」を超えるゲームが、「スカイウォードソード」でありますように。

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次回のスゴ本オフのテーマは「戦争」ですぞ(2012/2/4)

好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフ。

 時間  2012年2月4日(土) 17:00~23:00
 場所  恵比寿

テーマは「戦争」、ただし制約あり→「紹介するのは一冊(一作品)のみ」。持ってくるのは何冊でも可。ただし、プレゼンできるのは一つだけ。リアルでも空想上でもいい、国家でも個人でもいい、過去・現在・未来どれでもあり、フィクションでもノンフィクションでも、文字でも写真でも、紙でも電子でも、自分が戦争だと思う一冊を選ぼう。

募集はfacebookで、こちらからどうぞ↓
スゴ本オフ:春なのに「戦争」をテーマに語る会


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読書は"競争"か?「つながる読書術」

 対照的なのに得るもの多し。いや、対照的だからこそ学ぶところが多いのか。

つながる読書術 ブログから飛び出して、リアルな場所で読書会を開いたり交じったり。会議室で、本屋で、飲み屋で、レンタルキッチンで、たくさんのスゴ本と、「スゴ本を読むあなた」と会う。その動機は、面白いから、ワクワクするから……漠然としてたのを、本書は一言で喝破している―――「つながる読書」なんだ。

 著者のいちいちが的を射る。本書の提案はこうだ―――個人で完結するのではなく、発信とフィードバックを重ねることで、おもしろさを循環させよ。この、「みんなでおもしろがる読書」は、まさに「スゴ本オフ」でやっているので、身近なレベルで納得できる。p.174にこうある。

本という一つの素材を使って、お互いの意見や「おもしろさを感じる部分」を交換して知的な刺激を受け、思いがけない着想を得たり、コミュニケーションをとったりして楽しむ新しい場(メディア)です
 そのとおり。自己と他者の違いを、共通する一冊というスケールで測ることができる。同じ本を読んでも、反応するところが異なる。違うから面白いし、違いから自己を拡張できる。殻や井戸に閉じこもる読書、さんざんやったけれど、「みんなで読む」ほうが広く深く早い。「ソーシャルリーディングは、大人の部活」は言いえて妙なり。

 さらに、この日垣隆氏、質量ともにハンパない。「年間の本代は600万円」、「270人の大読書会を開催」とスケールのデカい話が飛び出す。瞠目したのが、松本清張について「新潮45」に書いた手順。締め切り3ヶ月前で取り掛かったアクションと所要時間は次の通り。「文献収集は短時間で。漫然と時間をかけてたら、収拾がつかなくなる」というヒントは肝に銘じるところ。

  1. 「松本清張全集」(文藝春秋)全巻=古書検索サイト「日本の古本屋」にて(所要時間2分)
  2. 全集にない解説を読むために、文庫約40冊をネット注文(20分)
  3. 清張以外の著者による"清張論"=ネット書店にて(15分)
  4. 日本最大のジュンク堂書店(10分)
  5. 国会図書館などのデータベースから、全集に含まれなかった文献を検索して入手(自分で=40分、スタッフによる複写が3日間)
 まるでレストランの全メニュー全制覇のような勢い。これだけの注文した「料理」を平らげていく様子は、スゴいというより凄まじい。目も脳も手も足もフルに使いまくった後、一気呵成にアウトプットする。その鬼気迫る様に、プロフェッショナルとはここまでやるのかと感心する。作家を生業とするなら、これだけ厳しいのかと思うと、読書のヒントよりも、ため息の方が多くなる。

 いっぽう、引っかかるところもある。「本読み競争」や「自分を追い込む読書」といったフレーズに示される、著者のポーズだ。読書「量」を競ったり、「ノルマ」をこなす姿勢は、わたしと偉い違う。もちろん、ピンチョンなら「格闘する読書」になるし、「読んでから死ね」シリーズや、やりなおし数学は、わたしの課題だ。しかし、著者や他の読み手との「対決」姿勢といったものは無い。読書を「競って」るわけじゃないから。

 では、なぜ、本を読むのか?わたしにとって、「おもしろいから」という理由で割り切るには手広くなりすぎた。だから、まなめ王子を見習ってみよう。

 まなめはうすの先頭に、「良いニュースで、良い人生を。」とある。昔こんなことを聞いた、「情報を集めるなら、ネットでいくらでもできる。でも、なぜ情報を集めるかというと、"良い選択"をするため」。ここで"正しい"選択と言わないところがミソ。"正しい"と言った瞬間、誰にとっての/どの立場にとっての"正しさ"といった基準が浮上するから。

 ところが、基準や立ち居地があっても、揺らいだり、変わるのがわたし。そのわたしにとって、より良い選択のために、読む。すでにケースケさんが言ってるとおり、「良い本で、良い人生を。」だね。

 日垣氏は、図書館派について冷ややかな目で見ているようだ。「敵とも思いませんが、勝手にやってください」というスタンス。わたしにとって、損切りを回避しつつ多読できるのは、図書館あってこそ。本書でも、「つまらない本は的確に損切りする」ことを推奨している。「お金を出したから、読まないと損」と読み通すのは、お金だけではなく、時間も無駄にするから。サンクコストの発想は激しく同意だが、図書館は保険になると強調したい。

 また、「つながる読書」の場は、図書館にもある。本好きが集うのは、書店だけではない。書店では、「本を買う人」しか見えないが、図書館では、「本を読む人」が見える。どんな人が何を読んでいるか、その「場」では何がオススメされているか、予約されている人気本(≠ベストセラー)は何か、直接確かめることができる。図書館のコミュニティを通じて、スゴ本の輪を広げてきた。

 これは、プロフェッショナルの読書と、アマチュアの読書の違いなのだろう。自分の"正しさ"と違うからといって叩く人がいる(Amazonレビューが典型)。だが、違うから面白いし、違いから自己を拡張できる。参考にしつつ、アマチュア読書を充実させていこう。

 人生は短く、読む本は多い。良い本で、良い人生を。

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スゴ本オフ@2011ベスト

 好きな本を持ちよって、飲みつつ食べつつ熱く語るスゴ本オフ。

 今回は(というか毎回)スゴい本が集まった。あと甘(うま)い酒と美味しい料理を堪能した。質量ともに凄いレポートは、ずばぴたさんのまとめ「スゴ本オフ2011年ベスト」を参照いただくとして、ここでは思い出すままつらつら書く(妄想込み)。

 まず、参加いただいた方、協力いただいた方、ありがとうございます。毎回毎回語っているんだけど、「今回が最高」でした。やるたびに発見と読みたいリストがガンガン増えていくので、嬉しい悲鳴が止まらない。

 そして、見てみて、狩りの成果。

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 全ラインナップは、以下の通り。

  • 【やすゆき】「アイの物語」山本弘
  • 【やすゆき】「What'sGoingOn」MarvinGaye(CD)
  • 【やすゆき】「Unforgettable」NatalieCole(CD)
  • 【ともこ】「サザエさん」長谷川町子
  • 【Dain】「千夜一夜物語」リチャード・バートン訳
  • 【Dain】「ゴヤ」堀田善衛
  • 【Dain】「冒険エレキテ島」鶴田謙二
  • 【Dain】「しんきらり」やまだ紫
  • 【Dain】「BRUTAS 2010/7/1号 美味求真」BRUTAS編集部
  • 【ずばぴた】「スティーブ・ジョブズ」ウォルター・アイザックソン(iPad/iPhone/書籍)
  • 【ずばぴた】「ねじまき少女」パオロ・バチガルピ
  • 【ずばぴた】「流星たちの宴」白川道
  • 【ずばぴた】「ぼぎちん」横森理香
  • 【はやしだ】「俺節」土田世紀
  • 【はやしだ】「ぼくらの」鬼頭莫宏
  • 【はやしだ】「ビブリア古書堂の事件手帖2」三上延
  • 【カネヅカ】「失敗の本質」戸部良一ほか
  • 【カネヅカ】「ガタカ」アンドリュー・ニコル監督(DVD)
  • 【カネヅカ】「ユリイカ「魔法少女まどか☆マギカ」特集」ユリイカ編集部
  • 【カネヅカ】「珈琲時間」豊田徹也
  • 【ふじわら】「空が青いから白を選んだのです」寮美千子
  • 【ふじわら】「和本のすすめ」中野三敏
  • 【コロポットン】「多読術」松岡正剛
  • 【コロポットン】「知の編集術」松岡正剛
  • 【タケダ】「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」ジュノ・ディアス
  • 【タケダ】「E=mc2 世界一有名な方程式の伝記」ディヴィッド・ボダニス
  • 【タケダ】「猫楠―――南方熊楠の生涯」水木しげる
  • 【まみや】「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ
  • 【まみや】「恋愛中毒」山本文緒(iPad)
  • 【まみや】「ジェノサイド」高野和明(iPad)
  • 【ムチャテ】「プラネタリウムのふたご」いしいしんじ
  • 【ナリー】「つゆのあとさき」永井荷風
  • 【ナリー】「ブラフマンの埋葬」小川洋子
  • 【オシカワ】「謎解きはディナーのあとで」東川篤哉
  • 【オシカワ】「儚い羊たちの祝宴」米澤穂信
  • 【オシカワ】「ビブリア古書堂の事件手帖」三上延
  • 【オシカワ】「しょっぱいドライブ」大道珠貴
  • 【オシカワ】「花嫁花鳥」寺山修司
  • 【オシカワ】「少女地獄」夢野久作
  • 【オシカワ】「怪しい来客簿」色川武大
  • 【オシカワ】「Pen 2011/4/1号 世界で一番好きな建築」Pen編集部
  • 【オシカワ】「水域」漆原友紀
  • 【マリコ】「ラテン語の世界」小林標
  • 【マリコ】「サクリファイス」近藤史恵
  • 【マリコ】「生命の跳躍」ニック・レーン
  • 【マリコ】「孤高の人」坂本眞一(原作:新田次郎)
  • 【まさみ】「おもちゃの王様」相沢康夫
  • 【まさみ】「心にナイフをしのばせて」奥野修司
  • 【マー】「自分の仕事を作る」西村佳哲
  • 【マー】「鏡の中の鏡」ミヒャエル・エンデ
  • 【マー】「Self-ReferenceENGINE」円城塔
  • 【MasterLibrarian】「究極の鍛錬」ジョフ・コルヴァン
  • 【でん】「ニコニコ時給800円」海猫沢めろん
  • 【でん】「冲方丁のライトノベルの書き方講座」冲方丁
  • 【でん】「映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと」シド・フィールド
  • 【chibizou】「今、頑張れないヤツは一生頑張れない。」吉野敬
  • 【かなこ】「夏の闇」開高健

     まずアツくなったのは、開高健。全著作を読んだわたしにとって、「夏の闇」を高く評価するかなこさんに強く共感する。ただ、闇三部作(輝、夏、花)のうち、「輝ける闇」をピカイチとするわたしと、「夏の闇」を一番とする彼女と意見が割れた。「輝ける闇」は、「ベトナム戦記」と併せて読むとガツンときますぜ。どちらもベトナム戦争を扱ってはいるものの、「輝ける闇」は文学の姿をとったルポルタージュの傑作で、「ベトナム戦記」はルポルタージュの文体を借りた文学の傑作だから。

    はてしない物語 そして、自炊派のまみやさんが、「『はてしない物語』だけは自炊不可、というかこの本という形で読まないとダメ」と熱く語ってくれて嬉しい。同じ文句で口説き落としたので、おもわずガッツポーズをしてしまう。あらためてくり返す。物語が大好きなのに、「はてしない物語」を読んでないのは損、そしてハードカバーで読まないのは大損。理由は、読めば分かる。分かったとき、きっと「あっ」と叫ぶはず。

     そのまみやさんが、「スゴ本のイメージイラストを描いてきました」とiPadで見せてくれる。ちょwwwこれwwwなにwww美少女なんですけど。いや好みだからいいケド、曰く「少女でなくショタ」だそうです。ありがとうございます、ここに飾っておきますね。

    Sugohon

     読みたくなったのが、「E=mc^2」。あちこちでオススメされてたのを思い出す。それぞれの要素、E、m、cについての物語と、それらをイコールでつないだ物語で、主役はこの式そのものだそうな(これは楽しみ)。また、「知は変わるが方法は不変」と喝破するISIS編集学校の教科書である「知の編集術」は、沢山得るものがありそう。

     ここで完結を知ったのが、コミック版「孤高の人」と「ぼくらの」。「孤高の人」は新田次郎の方を読んでいたが、「山の本」はそのうち取り組むつもりなので、とりかかるか。ちなみに山の本として未読だが味読予定は、夢枕獏「神々の山嶺」、井上靖「氷壁」、ジョン・クラカワー「空へ」、沢木耕太郎「凍」、吉村昭「高熱隧道」あたり。

     膝うつ惹句もたくさん、未読既読に関わらず、おもわず読みたい!と思わせる名セリフがどんどんでるでる。「読むと自分に言い訳できなくなる(究極の鍛錬)」や、「演歌版マクロス(俺節)」、「読むと鎌倉に行きたくなる!(ビブリア古書堂の事件手帖/海街diary)」は納得。思わず唸ったのが、「タイトルの意味がわかると鳥肌(サクリファイス)」だ、まさにそのとおり。

     さらに、「ラノベの定義だって!?作家がラノベといったらラノベ。ただし編集者との力関係で覆されるときもある(ビブリア古書堂の事件手帖)」や、「『どう死ぬ』から『どう生きる』に変わっていくとき、悲壮感から救われる(ぼくらの)」など、琴線かかりまくり。決定的なのが、「これこそiPad/iPhoneで読むべき(スティーブ・ジョブズ)」だね。電子書籍の波を受けて、「紙の」本ではなく、iPadやiPhoneやReaderでプレゼンする方が幾人か。

     わたしが紹介したのをいくつか。まず、「千夜一夜物語」。これは2011ベストなのだが、対照的な2冊を持ってきた。ひとつは、有名な「シンドバットの冒険」が入っている7巻で、面白さレベルでいうと中くらい。もうひとつは、1番おもしろい「カマル・アル・ザマンの物語」が収めてある4巻。だが実は、「1番おもしろい」より面白いのがある。「千夜一夜」は、シャーラザットの夜伽話であるメタ物語の構成をとっている。最高なのは、このシャーラザットそのもののお話だ。少年少女版では削除されている、彼女の身の上に起きたことがラストで明らかになるとき、きっとグッとくる。最終11巻の大団円は、ハンカチを用意して。

    冒険エレキテ島 そして、「この本がスゴい!2011」で紹介しそびれたもの。あまりに沢山ありすぎて、載せるのを忘れてしまってたやつを放流。まずは鶴田謙二「冒険エレキテ島」。鶴田作品はコミック版「おもいでエマノン」で楽しませてもらっているが、これはエエで。発育豊かな処女の冒険的日常を窃視できる、ため息ついて堪能せい。ただし、超遅筆作家なので、2巻が出るのに2年は待たないと。来年のアフタヌーンで続きが連載されるらしい。eBookJapanの電子書籍で読もうかなぁ。また、夫婦のすれ違いを「妻」目線で描いた、「しんきらり」。妻帯者必読と強調したら、会場で回し読みされたw。さらに、「ゴヤ」4巻を放流。上野の国立美術館でやっている「ゴヤ展」の予習にオススメだね。

     本ばかりでない。見てくれ、この料理を。どれもこれも美味くて上手くて、美味しくいただきました。酒も料理も、ホントはもっと大量にあったのだけど、消えるのが早くて追いつけなかったw。写真がちっとも美味しそうに見えないのは、わたしのせい。まず、「押せば撮れる」という発想を捨てる、そして練習だ。

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     今回の気づき1。余裕大事。平日夜にすると、どうしても2時間でこなすことになる。必然的にプレゼン時間は「ひとり5分」になる。マシンガントークは面白いが、どうしても駆け足になってしまう。また、twitter連動だと打ち込みが厳しい。これが、5時間まったりできるとなると、ゆったり話せる、つぶやける。平日夜にするなら、人数を絞って回数を増やすのもありかと。

     今回の気づき2。facebook便利すぎる。告知から通知からリマインダー、メニューの調整、質疑応答、スケジューリングなど、リアルとの「つながり」を考えると、いちばん使える。mailやtwitter、blogといったメディアは、あくまで「あっち」の中でやりとりする手段。もちろん「こっち」にも接続できるが、「つなげる」ためのカスタマイズが必要。facebookとは、「リアルと同じ位相のあっち」なんだね。「facebookはトモダチコレクション」だと思い込んでたのは要反省。

     そして、次回のテーマも決まっている→「戦争」だ。戦争を軸に、これはという本を持ってきて語ろう。リアルでも空想上でもいい、国家でも個人でもいい、過去・現在・未来どれでもあり、フィクションでもノンフィクションでも、文字でも写真でも、紙でも電子でも、自分が戦争だと思う一冊を選ぼう。ただし制約つきだ、「持ってくるのは何冊でもいいけれど、プレゼンするのは1冊(1作品)だけ」。これは難しい。「戦争」をテーマとするなら、書架どころか、それこそ図書館ができるくらいの質量になるから。2月上旬になりそうなので、本屋オフで選ぼうかなぁ…(そして積本の標高が上がっていく)

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