「V.」はスゴ本
取り囲まれ、振り回され、小突き回される、疾走・爆笑・合唱小説。
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鼻をつかまれ引きずりまわされる。ジェットコースターに腹ばいに縛り付けられグルグル連れて行かれる(もちろん逝った先で放り出される)、この宙ぶらりんの射出感はキモ良い怖い。
全方位に伸びるエピソードとウンチク、隠喩、韻踏み、奇談と冗談、伝説と神話といかがわしい会話の妙。声と擬音と狂態に、もみくちゃにされ、ふらふらにされ、もうどうにでもしてーと全面降伏する読書。次々と繰り出される挿話を正しい時間軸で再構成するのに一苦労し、多重にめぐらされた人物のつながりを手繰るのに二苦労する。
これがポリフォニーなら分かる。ドストエフスキーのどんがらがっちゃんだ。おのおの言いたいことを一斉にしゃべり散らす「わわゎ~」は、うまくハーモナイズされると、勢いやら心地よさが生まれる。だが、「V.」はソロ演奏のとっかえひっかえがハウリング→ハーモニーに至る。つぎつぎと焦点が切り替わり、話者が代えられ、時を跳躍し、倫理感覚と予備知識のレベルがめまぐるしく上下する。そして、結節点として「V.」なる女の存在が瞬間(!)浮かんで輝き沈んでゆく様は、エピファニーまんまやね。
この「V.」が誰であるか(何であるか)は、読んだ人の前に立ち現れる。ほんとうだ、「○○こそV.の正体だ」なんて指さず、でもV.が何であるか(誰であるか)はちゃんと記述される。要はそれを信じるか・信じないかだ。どこまで話者のいいなりになるかによって、V.の存在は変化自在となる。わたしは面倒だから全部信じたが、疑い出すとめちゃめちゃ厳密な読みを要求されそうだ。
これが全体小説なら分かる。ジョイスやプルーストのあれだ。人の生きる総体的な現実をひとつの作品にぎゅうぎゅう押し込む。ところが、「V.」は特定の人の現実よりも、人のなす業(というか行動と思考を)めいっぱい詰め込もうとする。ニューヨーク地下で白子のワニを撃ち殺すこと、ドブネズミ(雌)をカソリックに改宗させること、亡父の残した日記に隠された暗号を解くことと、鼻骨をノミで削った奴の子を宿すことを全部押し込む。"あの世界"全体を詰め詰めしたパンパンのスーツケースの状態で、ロックを外したらバン!いちどに飛び出してくる"全部入り小説"になる。
だから、「きちんと」「じっくり」を放棄して、ひたすら次から次へと出てくる料理を平らげるような読書。これ、果たして「読んだ」と言えるのか?(すげェ面白かったけど)。この疾走満腹感は「ヴァインランド」の一頁ごとに登場人物が入れ替わり立ち代りするさまになるし、ギガ盛り物語は「メイスン&ディクソン」で激しく既視してる。ああそうか、「V.」はピンチョンのデビュー作なんだよね。だからまだ入りやすい(かも)。
登場人物は例によって200人は下らない。「主要」登場人物でも数十人だろう。いちいち覚えてられないのに、これまた脇役がこってり熱いイベントを引き起こすのであなどれない。「ヴィーナスの誕生」を盗み出す緻密な計画を、豪快に指揮する革命家とか、究極の自己愛を目指すあまり生命と無生命の、人間とフェティッシュの交換を果たすレズビアンなんて、ものすごく魅力的なキャラクターだ。それだけで一つの物語が作れてしまうのに、脇話として惜しげもなく消費する。
そう、これは巨大な無駄話なのだ。普通の小説に仕立て直すなら、何百ものストーリーやキャラクターに小分けできるだろう。だが、われらがピンチョン、そんなケチなことはしない。贅沢にも一つに叩き込む…というか湯水のごとく、どくどく放流する。
しかし、やりっぱなし・出しっぱなしではない。もつれあい、きしみあい、炸裂するストーリーは、楕円のように2つの焦点に収斂していく。だから、この2人を視野に入れておくと、ラクにイケる。デブなダメ男(なぜかモテる)ベニー・プロフェインと、V.を探し求めるシドニー・ステンシルだ。物語がドシャメシャに降り注いでいると思いきや、ちゃんと役割分担されている。
つまり、プロフェインは空間軸を、ステンシルは時間軸を移動するように紡がれているのだ。仕事を探したり、女から逃げ出すため、プロフェインがヨーヨーのように移動するとき、物語は前へ進む。一方、ステンシルが世代を渡ってV.の謎に近づいたり遠ざかったりするとき、物語は前へ進む。そうでないものは伏線+挿話だと見ればいい。ただし、ステンシルが焦点のときは注意が必要だ。父ステンシルの回想記から始まり、息子ステンシルの妄想へつながり、誰がしゃべってるのか分からない"ステンシルの話"になるから。どこまで信じて良いものやら"つじつま"が合わなくなる。
タイミングがそうだからプロフェイン=ステンシルが物語の駆動者かと思いきや、違う。物語は回転しており、自分の遠心力や求心力で軸がブレてズレて転がっていく。プロフェイン=ステンシルも物語に小突き回されているのだ。この物語は、自分自身を駆動力としてロックンロールしている。
あけすけで杜撰で、ワイルドで精密。ロジカルで騒々しく、コミカルで生々しい、ピンチョンの世界へようこそ。

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