恐怖なしに生きる
恐怖なしに生きる、そんなことが可能だろうか。
わたしが恐怖を抱いているもの───家族を亡くすことや、健康や職を失うこと、その基盤自体が災害や戦いで破壊される不安から、自由になれるのか。もっと引きよせて、仕事で失敗して降格されるとか、痴漢と間違われるとか、個人情報が悪用されたんだけど人に言えないようなサイトからだから泣き寝入りするしかないとか。肉体的、精神的な打撃への"おびえ"をなくせるのか。
クリシュナムルティは、できるという。
この一冊を賭けて、くりかえし述べている。手記、詳論、対談、インタビュー、手を変え品を変えて同じテーマ「恐怖なしに生きる」ための問いかけを続ける。非常に興味深いことに、アプローチは「怒り」と一緒なのだ。
順番に言おう。クリシュナムルティによると、最初に自問すべきは「恐怖とは何か」「それはどのように起こるのか」なんだと。わたしが何を恐れているかがテーマになるのではなく、ずばり恐怖の本質とは何か、これを問うのだ。
恐怖の本質とは、不確実なことへの心の動き。わたしたちが人生を送る際、拠りどころとなるもの、思考の型や生活様式、信条や教条、常識(と信じているもの)……これらが乱されたり揺らいだりすると、未知の状態が生ずる←これが厭なのだという。不確かな別のパターンを作り出すことを、わたしたちは拒もうとする。その心の動きを、恐怖と呼ぶというのだ。
確かにそうだ。出発点は「わたし」に属するもの───家族や友人、同僚との関係において、あるいは過去から連続する「わたし」を変えようとするものに恐怖を感じている。それは「周囲の評判」だったり「痛みのない日常」だったりする。過去から現在に至る日常性や、信じていることへの揺さぶりが、失望や不安と呼ばれる。そして失望や不安に対する思考こそが恐怖を生み出している。つまり、恐怖というのはそうした思考を続けるわたし自身のことになる。
だから、恐怖に「打ち勝つ」とか「克服する」というは正しくない。恐怖を、なにか別の存在として定義し、それに対してあれこれするというのはありえない。それらは、「恐怖をもたらすもの」とわたしが決めていることへのアプローチなのだから。その闘いは死ぬまで終わらないだろう。なぜなら、「恐怖をもたらすもの」の一つを除いたところで、また別の「恐怖をもたらすもの」が生じるのだから。極論言うと、「わたし」を消さない限り続くゲームになる。
ではどうすれば、恐怖から「自由になる」のだろうか。このアプローチが、「怒り」への対処と一緒になる。すなわち、「注意深く観察しろ」になる。
いっさいの抽象概念をもたずに、恐怖そのものを見つめる。「○○が怖い」の「○○」ではない、「怖いとは何か」「怖いと感じるとき、わたしの中で何が起きているのか」を丹念に眺める。この集中しているとき、見ている時間と、見られている空間はゼロになる。一体化する。
これは、怒りが生じたとき、怒りを観察せよという教えと一緒。怒りをごまかしたりカモフラージュしたりせずに、まざまざと観るのだ。そして観られた瞬間、怒りは消える(やってみると分かる、事実だ)。クリシュナムルティは、恐怖に名前を付けずに、「恐怖」という言葉もまったく使わず、ただ観察せよという。これは「怒り」について応用できる。
さらに、「怒り」がエゴイスティックな感情であるのと同様に、「恐怖」もまた然りであることに気づく。仮にわたしが子を失ったら、その悲しみの大部分は、「もう二度とわが子に会えない」ことに費やされるだろう。若くして死んでいった子どもの無念さよりも、"わたし"の感情が可哀想だから泣くのだ。今はまだ、おっかなびっくりだが、ここまで深いところに理解が至ったのは嬉しい。わたしは、この本でわたしのエゴと向き合うことができたのだから。
クリシュナムルティは、本書で、もっと先へ行く。喜びや苦悩をひっくるめた人類の意識を共通化してみせ、その一端がわたしなのだと示す。まるでジョン・ダンの「誰がために鐘は鳴る」(≠ヘミングウェイ)を彷彿とさせる人類感覚だが、そこまではついていけなかった。
エゴと向き合い、エゴとつきあう一冊。
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コメント
最近立て続けに邦訳されている、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンの著書の中で、「死もなく、怖れもなく」に似たものを感じます。
クリシュナムルティは既成宗教の中からの発言は否定してしまうでしょうけれど。
投稿: sarumino | 2011.11.03 23:37
>>saruminoさん
おお、教えていただきありがとうございます。「死もなく、怖れもなく」、チェックしてみますね。既成宗教を叩くクリシュナムルティの主張を、いったん呑み込んだ上で思うのですが、彼の実践は八正道の「正見」そのものではないかと。
投稿: Dain | 2011.11.04 06:56
「恐怖は心を殺すもの。恐怖は全面的な忘却をもたらす小さな死。ぼくは自分の恐怖を直視しよう。それがぼくの上にも中にも通過してゆくことを許してやろう。そして通りすぎてしまったあと、ぼくは内なる目をまわして、そいつの通った跡を見るんだ。恐怖が去ってしまえば、そこにはなにもない。ぼくだけが残っていることになるんだ」--ポウル・ムアドディブによって唱えられた、ベネ・ゲゼリットの恐怖についての連祷
投稿: SFファン | 2011.11.04 15:12
>>SFファンさん
教えていただき、ありがとうございます。
「小さな死」といえば情事の後の一睡だと思ってましたが、恐怖も然りですね。そして、恐怖を怒りに置き換えても通じるから不思議ー
投稿: Dain | 2011.11.04 22:30
毎日を「今日が人生最後の日」と思って暮らせば、恐怖なんて無くなります。私の場合、一番怖いのは自分の死ですが、何度かピンチがありましたがラッキーなことにこの年まで生きる事ができました。後は、親より早く死ななければいいや、くらいの感じです。
投稿: morihiko | 2011.11.06 07:50
>>morihikoさん
自分の死を想像すると、確かに不安をかき立てられます。ただ、いま最も恐怖に近いのは、太宰治の「トカトントン」ですね。張り詰めていた気力が、ぽっきり折れるような投げ出すような瞬間、生の裂け目を感じます。
投稿: Dain | 2011.11.06 10:10