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この本がスゴい!2011

 今年もお世話になりました、すべて「あなた」のおかげ。

 このブログのタイトルは、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」。そして、このブログの目的は、「あなた」を探すこと。ともすると似た本ばかり淫するわたしに、「それがスゴいならコレは?」とオススメしたり、twitterやfacebookやtumblrで呟いたり、「これを読まずして語るな!」と叩いたり―――そんな「あなた」を探すのが、このブログの究極の目的だ。

 昨年までの探索結果は、以下の通り。

 この本がスゴい!2010
 この本がスゴい!2009
 この本がスゴい!2008
 この本がスゴい!2007
 この本がスゴい!2006
 この本がスゴい!2005
 この本がスゴい!2004

 昨年から始めたオフ会で、たくさんの気づきとオススメと出会いを、「あなた」からもらっている。目の前でチカラ強くプッシュしてもらったり、物語談義を丁々と続けたり、楽しすぎる。さらに、今年始めたビブリオバトルで、本の魅力を「しゃべりで」伝えるヨロコビを味わっている。読書は孤独な行為なのに、こんなにも豊かにつながっているのかと思うと、嬉しいのとありがたいのが込み上げてくる。

 以下の長い紹介は、今年の選りすぐり。いい出会いをくれた「あなた」への感謝の気持ちを込めて。

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このフィクションがスゴい!2011
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■「ガダラの豚」中島らも

 2ちゃんねらが絶賛してたので読了。なるほど、「寝る間も惜しんで読みふけった」のはホントだ。


 半信半疑で読みはじめ、とまらなくなる。テーマは超常現象と家族愛。これをアフリカ呪術とマジックと超能力で味付けして、新興宗教の洗脳術、テレビ教の信者、ガチバトルやスプラッタ、エロシーンも盛り込んで、極上のエンターテイメントに仕上げている。中島らも十八番のアル中・ヤク中の「闇」も感覚レベルで垣間見せてくれる。

 エンタメの心地よさといえば、「セカイをつくって、ブッ壊す」カタストロフにある。緻密に積まれた日常が非日常に転換するスピードが速いほど、両者のギャップがあるほど、破壊度が満点なほど、驚き笑って涙する、ビックリ・ドッキリ・スッキリする。この後どうなるんだーと吠えながら頁をめくったり、ガクブルしながら怖くてめくれなくなったり。

 オカルトとサイエンス、両方に軸足を置いて、どっちにも転べるようにしてある(そして、どっちに転がしても「読める」ように仕掛けてある)。ホンモノの呪いなのか、プラセボ合戦なのか、最後まで疑えるし、読み終わっても愉しめる。どっちに倒すのかは、読み手がどっちを信じてるのかに因るのかもしれん。

 ウンチクともかく、寝食忘れる徹夜小説


■「逆光」トマス・ピンチョン

 終わるのがもったいないし、終わらせる必要もない。ずっと読んでいたい。


 辞書並みの上下巻1600頁余から浮上してきたときの、正直な気分。読了までちょうど1ヶ月かかったけれど、この小説世界でずっと暮らしていきたい。死ぬべき人は死んでゆくが、残った人も収束しない。エピソードもガジェットも伏線もドンデンも散らかり放題のび放題(でも!)いくらでもどこまででも転がってゆく広がってゆく破天荒さよ。

 ストーリーラインをなぞる無茶はしない。舞台は1900年前後の全世界(北極と南極と地中を含む)。探検と鉄道と搾取と西部と重力と弾圧と復讐と労働組合と無政府主義と飛行船と光学兵器とテロリズムとエロとラヴとラヴクラフトばりの恐怖とエーテルとテスラとシャンバラとデ・ニーロがぴったりの悪党と砂の中のノーチラス号と明日に向かって撃てとブレードランナーと未来世紀ブラジルとデューン・砂の惑星とiPhoneみたいな最終兵器とリーマン予想とどうみてもストライクウィッチーズな少女たち(でもありえない)。

 ウロボロスの蛇のようにからみあい、自己言及するストーリーの、飲み込み/呑まれ感覚にめまいする。さっき描写していたエピソードが、今度は登場人物が読む三文小説としてカリカチュアライズされる。作中作とその読者が言葉を交わすシーンは、ずばりドン・キホーテの後編。のめりこんだ物語から顔をあげるとき、現実に息つぎするものだが、これは息つぎしようと頭を振ったらまた別のストーリーにフェード・インするようなもの。光と意識の具合で瞬時に地と図が反転する感覚。3D立体視を小説で実現させる。混ざるのでなく交じる。もつれあい、からみあう物語のダイナミズムが、そのまま前へ、上へと転がりだす。挿話と格闘していくうちに、くんずほぐれつ巻き取られる。時間軸の遡上や図地反転を意識したうえでの「逆光」(ぎゃっこう=逆行)なのだろう。

 これまで、「トマス・ピンチョン全小説」という素晴らしい企画の下、「メイスン&ディクスン」「逆光」「V.」「ヴァインランド」と読んできたが、どれも強烈な体験で、再読を必要とする。なかでも、「もう一度読みたいピンチョン」ベストは、「逆光」だ(断言)

 いつかはピンチョン、そう言ってるうち人生終わる。だからいま読む、ピンチョンを。


■「戦闘妖精雪風」「グッドラック」 神林長平

 「オススメされなかったら読まなかった傑作」がある。もちろん読んだからこそ傑作と言えるが、なかなか手が出なかった。だから、SFスゴ本としてガチ宣言した@yuripopや、「SF好きで雪風読んでないって、アニメ好きでジブリ見てないレベル」と喝破した@roki_aに大感謝。

 主役は「雪風」、近未来の戦術+戦闘+電子偵察機だ。いちおう主人公っぽいパイロットやら上司がいる。地球を侵略する異星体と戦うヒトたちだ。が、この戦闘妖精を嘗め回すような描写のデテールを見ていると、著者はこの"機"に惚れこんで書きたくて、こんな設定やらヒューマンドラマをでっちあげたんだろうなぁと思い遣る。

 論理的にありえない超絶機動を採ろうとしたり、合理的な意思を突き抜けた真摯さをかいま見せるので、読み手はいつしか雪風を人称扱いしはじめる。非情・冷徹が服着てるようなパイロットも、"彼女"を恋人扱いするので、ますますそう見えてくるかもしれない。彼にとっては雪風こそ全てで、折に触れ「人類がどうなろうと、知ったことか」と嘯くため、人格破綻者か、非人間的な第一印象を抱く。

 そんな孤独なパイロットが、戦闘を生き延びて行くにつれ、人間味のある一面を見せるようになる。反面、"女性的"に扱われていたマシンが、残忍非情な選択をする瞬間も見せる。テクノロジーとヒューマンの融合、人間味と非人間性の交錯がメインテーマなのかも。けれども、その演出がニクい。先ほど使った「人間味」や「残忍」という修飾は、あくまでヒトたるわたしが外から付けた表現だ。そんな甘やいだ予想を吹き飛ばすような展開が待っている。

 テクノロジーが先鋭化するにつれ、搭乗する"ヒト"の存在が、機動性や加速性へのボトルネックになってくる。無人化・遠隔化が進むにつれて、「戦いには人間が必要なのか」という疑問が繰り返し重ねられてゆく。この課題は、見事に、そのままに、現代の無人軍用機にあてはまる。アフガニスタンで"活躍"しているRQ-1プレデターがそうだ。その恐ろしい相似を想像しておののくもよし、ひたすら物語に没入するもよし。続編「グッドラック」と併せると、徹夜SFになるぞ。


■「細雪」谷崎潤一郎

 900ページの長編なのに、するすると呼吸をするように読み干す。ああ、美味しい。一文が異様なほど長く、描写と感情を読点でつないでいる。パッと見、読みつけるのが大変かと思いきや、全く逆。読点のリズムが畳み掛けるよう囲い込むように配置され、単に「読みやすい文章」というよりも、むしろ読み進むことを促される。お手本のような小説だ。

 そして、ひたすら面白い。芦屋の上流家庭が舞台で、大きな事件も起きるのだが、圧倒的に紙幅が割かれるのは、淡々とした生活習慣や、家族の恒例行事になる。その、ちょっとした挙措や応接ににじみ出る感情のゆれや成長の証がいとおしく、思わず知らず口がほころぶ。読むことがこんなに美味しいなんて!

 日本語が、これほど艶やかで美味しいなんて(知らないとは言わないが)忘れてた。花見の宴や蛍狩のシーンは、読んだというよりもその場にいた。谷崎は桜のひとつひとつを描写しないのに、花弁の輝きは見える。谷崎は闇の色合いばかり濃密に描くのに、息づくように蛍が明滅する様は見えるのだ。ふしぎなことに、雪が降るシーンはなかったはずだが、桜・雪・蛍と、輝きがつながる。


■「WORKING!!」高津 カリノ


 「このために生きている」一つ。ファミレスが舞台の、帯刀納豆暴力の変愛マンガ。「おもしろい」というよりも、「ハマる」。ニヤニヤががやめられない止まらない。個性的なキャラが織り成す「ズレ」「ヌケ」「イジリ」が楽しいのだが、そんなことより種島ぽぷら小さい、かわいい。種島ぽぷら好きすぎで困る。彼女を見かけると顔が火照って困る。あまつさえガストに行くと種島ぽぷらを探してしまう。ワグナリアはどこですか?

 高じてくると、嫁さんと「種島ぽぷらごっこ」をする。台所の上の棚を開けようと背伸びしている嫁さんに、「どれ、お兄さんがとってあげよう」と手伝う。そして、「ぽぷらはいつも小さいなぁ、かわいい、かわいい」と頭をなでくりするのだ。最初は嫁さん「も~かたなし君は~」と付き合ってくれたのだが、何回もくり返すべきではなかった。突然、伊波まひる化した嫁にボコられ、以降、伊波まひるごっこになる(伊波まひるごっこは危険なので素人はマネしないように)。


■「香水」パトリック・ジュースキント

 これは、面白い。18世紀フランスの、「匂い」の達人の物語。

 匂いは言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。目を閉じ耳をふさぐこともできるが、呼吸につながる「匂い」は、拒めない。匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。

 だから、匂いを支配する者は、人を支配する

 主人公はグロテスクかつ魅力的。恐ろしく鋭敏な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、匂いによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。嗅覚という、言語よりも精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る。さらに、頭で匂いを組み合わせ、まったく新しい匂いを創造することができる。彼によると、世界はただ匂いで成り立っている。

 そんな男が、究極の香りを持つ少女を、嗅ぎつけてしまったら?

 主役が主役なら、脇役も鼻持ちならない。銭金、名誉、欲情のために、平気で道義を踏みにじる。悪臭ふんぷんの魑魅魍魎の行く末が、これまた痛快だ(なんでかは読んでくれ)。無臭、異臭、体臭、乳臭さから、酒臭さ、きな臭さから、血腥さまで、ぜんぶの「臭い」がそろっている。そして、強烈であればあるほど儚い。著者・ジュースキントは、文字どおり雲散霧消する運命も重ねている。オススメいただいたのは、金さんさん、ありがとうございます。

 イッキに読んで、めくるめくにおいの(匂いの/臭いの)饗宴に陶然となれ。


■「気違い部落周游紀行」きだみのる

 タイトルは釣りだが、ホンモノの釣り針が入ってる。

 とがった看板なのに中身は普遍、諧謔たっぷりのとぼけた会話を嘲笑(わら)っているうち、片言の匕首にグサリと刺される。そんなスゴい読書だった。

 「気違い」と「部落」という反応しやすい強烈な用語を累乗しながら、中身はありふれた『ど田舎』の村社会を描く。でもその「ありふれ」加減は、いかにもニッポン的だ。彼らを笑うものは、この国を嗤うのと一緒だというカラクリが仕込まれている。

 たとえば「正義」という言葉は、「一般に自己の利益を守るため他を攻撃する道具」だと喝破する。自らの損失に於いて正義を云々する例が無いではないかと断ずる。正義の名のもとにルール違反者を見つけては断罪するのが大好きな「正義漢」は、正々堂々ストレス発散できるからね。

 政治家の言説に用いられる「コクミン」という抽象語は、この単純素朴な村人への洞察を通じて見事に具体化する。それは、したたかさ、たくましさ、ずるさ、妬み、目先ばかりの功利主義、裏切りと足の引っ張りあい―――嫌らしくて懐かしい村民の言動に、腹を抱えて笑うだろう。そしてゾクりとするだろう。愚かしいほどの忘れっぽさや、口と腹とじゃ言うことが違う気質は、そのまんま「いま」「ここ」のことだから。

 ニッポンジンの本質は、今も昔もそのまんま。テクノロジーや表層で変わった気分になっていた背中に冷水を浴びせられる。うちひしがれた心に、とどめのように寸鉄が刺さる。曰く、「先生よ。良心って自分の中の他人だな」ってね。痛々しさの「痛み」はわたしのもの、笑ってしまう笑えないスゴ本。


■「ゲド戦記」アーシュラ・ル=グウィン

 「読まずに死ねるか」級、または「読んでから死ね」レベル

 重厚な世界設定に心奪われ、緻密な内面描写に感情移入し、謎が明かされるカタルシスに酔う。ただひたすら夢中になれるのだが、哀しいかなハマる自分を醒めて見ると、著者の意図が映りこんでくる。キャラやイベントの出し入れについて、ル=グゥインはかなり計算しており、読み手の年齢まで考慮した上で、時間軸を決めている。

 たとえば、第1巻「影との戦い」は、ゲド自身の成長譚になる。生い立ちから青年になる過程を、その葛藤とともに描くことで、最初の読者 ―――「少年」を獲得する。思春期にありがちな高慢が招いた災厄「影」は、姿こそ異なれど、読者の現実にシンクロしてくる。それは、虚栄心によるコミュニティ内の「不和」だったり、自信過剰がもたらした「失敗」、あるいは自身の「欠点」になる。自覚の有無はともかく、少年はゲドが戦うように「影」と向き合うことを覚悟するはずだ(こじれると厨二病になる)。

 そして、第2巻「こわれた腕環」では、自己を剥奪された少女の視点で展開することにより、次の読者―――「少女」を得る。大迷宮の探索や闇の儀式といった演出を振り払うと、これは少女を救出する物語になる。ただし、囚われた少女と白馬に跨ったゲドという話ではない(むしろ逆だ)。これは、「日常」に埋め込まれて見失っていた「自分」を手に入れる苦悩とあがきの軌跡になる。「選ぶ」という自由を手にしたならば、選ばなければならないという恐怖に向き合うことになる。「少女」や「女子○学生」といったラベルをきゅうくつに思い、「妻」や「母」に底知れなさを感じている女の子こそ、少女テナーに共感するに違いない。

 さらに、第3巻「さいはての島へ」は、少年と少女が見まいとして目を背けていた最大のテーマ、「死」になる。青春の蹉跌を克服し、自分を自分にすることが(物語のなかで)できた読者に対する挑戦だ。これは、ゲドへの挑戦だけに限らず、読み手に「死を直視する」ことを強要する。思い上がった「わたし」を「影」というメタファーで引きずり出し、日常に埋没していた「わたし」を明るみに出し、若者にとってのタブー「死」と対決させるのだ。ゲドの活躍からよりも、むしろ読み手に内在する「死」の克服から得られるカタルシスが大きい。ドーパミンあふれるラストとなるだろう。

 4巻以降は、主張のあまりのどぎつさに読み手は辟易するかもしれない…が、これは著者の上にも同じだけの時間が流れた、として受け止めた。

 「ゲド戦記」は、「指輪物語」「ナルニア国物語」と並び世界三大ファンタジーとして名高い。だからこれがオリジン、根っこになるのだが、その豊かな果実のほうを先に味わっているので、要所要所で懐かしい驚きに出会う。たとえば、「真の名を知ることで、相手を支配する」なんてくだりは、「ベルガリアード物語」「闇の戦い」シリーズで幾度もお目にかかっている。初めてなのに懐かしい、死ぬ前に読めてよかった傑作なり。オススメいただいた、ゴミバコさん、アタミルクさん、ユーキさん、MOTOさん、ASMさん、HANAさん、ようぎらすさん、ありがとうございます。


■「シュナの旅」宮崎駿

 宮崎駿「ぜんぶ入り」のコミック。ナウシカ、もののけ、千尋、ラピュタなどのさまざまなイメージが渾然と浮かび上がってくる。似ているというよりも、むしろ「完全に一致」してる構図・アイディアが、後から後から湧き出てくるので、映画を観たときの感情の噴出をとめるのに一苦労する。

 貧しい国の王子シュナが金色の種を探す苦難を描いた物語なのだが、いままで観てきた宮崎駿がぜんぶ詰まっている。もとはチベットの民話を児童書化した、「犬になった王子」を下敷きにしている。民を救うため辺境まで赴き、異化して戻ってくるというお話だ。物語の骨格は完全一致しているが、ロストテクノロジーや舞台やキャラによる置き換えが、異質なものにしている。

 骨は一緒でも、身にまとった肉や装束が違うことで、新しいのに懐かしい感覚がある。「ナウシカは虫愛づる姫君」とか「宇宙戦艦ヤマトは西遊記」と同じようなデジャヴを受けるかもしれない。オススメしてくれたyuripop、ありがとうございます。


■「レイモンド・カーヴァー傑作選」レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳

 村上春樹と池澤夏樹に感謝、二人のおかげでこの本に出会えたから。

 優れた小説家の仕事は、小説を書くだけでは不十分で、他の作品を紹介することにある。優れた書き手は、優れた読み手でもあるから。池澤夏樹の小説はもう読まないが、彼が選んだ「世界文学全集」は鉱脈を見つける助けになった。村上春樹の小説はもう読まないが、彼が訳したレイモンド・カーヴァーのこの短篇集は素晴らしい。

 乾いた文体でレポートされたような"悲劇"。感情を具体的な語で指さず、淡々と行動で記録してゆき、ラストの最後の、「ささやかだけど、役にたつこと」のところで綿密に描写する。そのワンシーンだけが読後ずっと後を引くという仕掛け。これは狙って書いて、狙って訳している。レイモンド・カーヴァーと村上春樹、神業なり。

 訳者・選者である村上春樹が「マスターピース」と言い切るだけあって、どれもこれも素晴らしい。あんまり勉強ライクに分析するのは避けたいが、技巧の旨さに舌を巻く。小物やエピソードの一つ一つをとりあげ、必要な細部を拡大しながら、かつ、修飾を捨てて書いている。クローズアップやフラッシュバックのテクニックが控えめ(しかし)要となっている。わたしの胸をつかんだのは、以下の3つ。構成、描写、そして物語として傑作の類に入る。

 ・ささやかだけど、役にたつこと
 ・大聖堂
 ・足もとに流れる深い川

 カーヴァーを読むと、きっと胸がじわっとくる。そろそろ、この現象に名前をつけるべき。寒い夜にはカーヴァーをどうぞ。


■「埋葬」横田創

 事実へのかかわり方で世界がズレる、これは初感覚。

 読んでるうち、世界がでんぐり返る瞬間は体感したことがある。だが、これはその先がある。でんぐり返った所が真空となり、そこが物語を吸い込み始めてしまうので、穴をふさぐために自分が(読み手が)解釈を紡ぎなおさなければならない―――こんな感覚は、初めてだ。

 若い女と乳幼児の遺体が発見された。犯人の少年に死刑判決が下されるが、夫が手記を発表する。「妻はわたしを誘ってくれた。一緒に死のうとわたしを誘ってくれた。なのにわたしは妻と一緒に死ぬことができなかった。妻と娘を埋める前に夜が明けてしまった」―――手記の大半は、妻と娘を「埋葬」する夫の告白なのだが、進むにつれ胸騒ぎがとまらなくなる。

 なぜなら、おかしいのだ。冒頭で示される記事と、あきらかに辻褄があわないのだ。「信頼できない語り手」の手法は小説作法でおなじみだが、夫は嘘は語っていない。妄念と真実の混合でもない。さらに、この事件を取材される側のインタビューがモザイク状に差し込まれる。どれも核心に触れながら、微妙にズレている。インタビュアーの会話で芥川の「藪の中」が出てくるので、おもわず現代版「藪の中」と評したくなる。

 しかしこれは罠だ、あの短篇とはまるで違う。むしろ正反対の問題を差し出している。「藪の中」の本質は、「真実は一つ、解釈は無数」だ。死者も含む登場人物の数だけ解釈はあるものの、ただ一つの真実は「藪の中」にしたいから、タイトルでそう伝えている。ところが「埋葬」は、事実へのかかわり方(深度と密度)によって、事実のほうがズレてくる。インタビューと手記の穴が食い違ってくる。

 そして、だれかの"語り"だけを選べない。選んだ瞬間、選ばれなかった"語り"が埋めていた空虚をふさぐため、読み手が再解釈しければならなくなる。その余地が大きすぎで、選んだ"語り"が空虚に飲み込まれてしまうほど。あたかも、地の文であるインタビューの記録と、表の文である夫の手記が、角度を変えると入れ替わってくるかのよう。

 「読み手が何を信じるか」によって、読み手を語り手に逆転させる傑作。


■「モレルの発明」アドルフォ ビオイ・カサーレス

 いまなら分かる、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛した理由が。

 なぜなら、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという驚くべき小説なのだから。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた、SF冒険小説として読むと、ただの面白いお話になるのだが……あらすじはこうなる。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……

 どうやら、彼ら来訪者たちに、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、来訪者たちは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。

 この秘密そのものは、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的なのだ。それは、「わたしは、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。

 本当の他者というものは存在するのだろうか。語り手であれ読み手であれ、主体と関わりあって、初めて他者が「人」として立ち上がってくるのではないか───読み手の「関わりかた」さえ変えてしまう一冊。


■「塩壷の匙」車谷長吉

 私小説とは内臓小説だ、これで思い知らされた。

 自分自身をカッ斬って、腸(はらわた)をさらけだす。主人公=作者の、あたたかい内臓を味わいながら、生々しさやおぞましさを堪能するのが醍醐味。キレ味やさばき方の練度や新鮮さも楽しいし、なによりも「内臓の普遍性」に気づかされる。そりゃそうだ、美女も親爺も、外観ともあれ内臓の姿かたちは一緒なように、えぐり出された内観は本質的に同じ。だから他人の臓物に親近感を抱く読み方をしてもいい。

 純朴で残酷であるほど、美しい。白眉である「白桃」は、ラストの悪意と対照的な、この出だしが素晴らしい。カメラ的絵と3D音響効果と脳裏への焼きつきが、一文にて示される。

納屋の背戸から涼しい風が吹いて来た。竹藪の葉群が風に戦ぎ、納屋の土間から見ていると、黄色く変色した葉の残る、篠竹の葉裏が目の中で騒ぐようだ。

 「白桃」のストーリーには一切口をつけないので、愉しんで欲しい。著者の内奥の記憶の痛みは、「塩壷の匙」よりも優れていると思うぞ。他人の不幸は蜜の味。その悪意に触れたときの無残な味と、それを黙ってさらしておくようなむごさとさみしさを胸で感じる。

 腹の中のものを、ほらこれだよ、ほらどうだよ、と手づかみで見せ付けてくる。おもわず目を背けたくなる。自分の半生の汚辱や怨恨を暴露し、それを切り売りすることで、自身を救済しようとしているのか。描かれる「不幸」がありふれていればいるほど、抉り出す狂気のほうに目が行く。書くことは煩悩そのものやね。

 では読むことは?女が男に求めるグロテスクさにたじろぎ、澱んだやりきれない生活に安堵感を見つけてうな垂れる。「万蔵の場合」をひきつけて読むと、主人公=作者と共に、感情を生き埋めにすることを覚えるだろう。この本をつかむ手が、そのまま深闇の淵をつかむ手になる。同じ臓物を、わたしも持って生きていることが分かる。読むこともまた煩悩なのだ。


■「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」 アゴタ・クリストフ

 現実と向かいあうための嘘は、「必要嘘」になる

 物語のチカラと感染力を試される読書。およそ二十年ぶりの再読なのに、反応する箇所が一緒で笑える。戦時下の混乱をしたたかに生き抜く双子におののき、その過去を相対化する続編におどろき、「相対化された過去」をさらにドンデン返す最終作に屈服する。これをミステリとして扱って、嘘を暴くことはもちろん可能だが、そんなことして何になる。一切の同情を拒絶する結末に、読者は完全に取り残され、鬱小説と化す。

 酷い目に遭ったとき、受けいれがたい現実と直面したとき、その出来事そのものを別のものとして扱うことができる。すなわち、「……というお話でしたとさ」と、物語化するのだ。葦船や平家の落人の貴種流離譚から始まって、邪気眼や「パパが犯しているのはアタシじゃなく別の子」といった自己欺瞞は、別の人格どころか、別の人生を創りだす。そして、辛いことや悲惨なことは、その人格や人生に担わせ、自分はそれを外側から眺める/聴く存在として演ずるのだ。

 「悪童日記」では、" 感覚を消す練習"が出てくる。親に遺棄され、辛い生活強いられる現実を克服するため、互いを実験台にして双子は練習を重ねる。片方がもう片方を叩き、刃物をふるい、炎を押し付ける。ひととおりこなすと交代し、互いに傷つけあう。痛みを感じるのは、誰か別人だと感じるようになるまで。また、罵ったり、むごい言葉を浴びせあう。酷い言葉が頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで続ける。文字を読んだり、楽器を弾くのと同じように、感覚を麻痺させたり、残酷になる練習をする双子。読み手はそこに、浦沢直樹「モンスター」のような"かいぶつ"を見つけるかもしれない。

 その続編となる「ふたりの証拠」では、離れ離れになった双子の片方の物語となる。「信頼できない語り手」どころか、「信頼できない作家」のことばを頼りに読み進むと、一作目自体が罠であったことに気づく。「悪童日記」を否定しているのではなく、悪童「日記」として書かれた帳面を生み出した世界を、もう一度構築しなおしている。最初の生活の輪郭をなぞるように語られる過去は、なぜ「悪童日記」が書かれなければならなかったのかを理由付けする。(二十年前の初読のとき)わたしは幾度もこう思ったものだ→「双子とは偽りで、実は一人が生み出した別人格なのではないか?『悪童日記』の『ぼくら』を『ぼく』に置換すると、一作目と二作目がちょうどウロボロスの蛇のように、たがいの尻尾を飲み込みあった円環になるのではないか」と。これは、二作目で完結しているのなら、正しい。

 しかし、三作目「第三の嘘」になると、はっきりする。「悪童日記」を物語として相対化したのが「ふたりの証拠」、そして「ふたりの証拠」と「悪童日記」をもうひとつの物語として包んだのが、「第三の嘘」であると。過去を清算するための嘘、現実と向き合うための嘘、嘘を嘘で塗り固め、嘘を嘘で包み、混ぜ、練りこむ。書こうとしたのは本当の話なのかもしれない。しかし、事実であるが故に耐えがたくなる。真実を書こうとするならば、そのペンの下の紙が燃え上がってしまうというが、この場合は、真実の重みに耐えかねてペンがへし折れてしまうのだ。だから、現実の(過去の)重みを逸らすために嘘を書く。あるがままではなく、あってほしい形、あればよかった思いにしたがって書く。

 読み手はどの現実?と自問していい。「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」の、どのバージョンの物語を採択できるのだ。どうやって現実と折り合いをつけるか?現実を歪めるか、別の現実(=物語)を生み出すか。その捻れた現実を復元する読書となる。そして、解きほぐした結果はかくも苦い。

 生きるためというよりも、狂わずにいるための「物語」。


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このノンフィクションがスゴい!2011
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■「生命の跳躍」 ニック・レーン

生命の跳躍 How(いかに)を追って、Why(なぜ)に至る。

 分子レベルのメカニズムから、深海の熱水噴出孔の生態から、地球の歴史から、生きる営みの"わけ"に迫る。つまり、構造に理由を物語らせるわけだ。もちろん、生命現象すべての理由が明らかになっているわけではない。だが、最新の科学的解釈や研究の成果・仮説を元に、分子レベルから地球規模まで、スコープを自在に操りながら、なるべくしてなった必然と、そうとしか考えられない偶然の握手を提示してくれる。その推理の推移が大胆・周到・スリリングなのだ。

 ニック・レーンは、進化における革命的な事象を10とりあげ、俯瞰と深堀りを使い分ける。この10の革新的事例を "invention" と銘打っているのは面白い。「発明」というよりも「創造」というニュアンス。自然選択がすべての形質を厳しい検査のふるいにかけ、そのなかで環境やパートナーに最も適応したデザインが生き残ってきた。この "invention" の成果こそ、無数の選択を経ている、「いま」「ここ」の「わたし」だと考えるに、ただ驚くしかない。ここにいる「わたし」は、それなしでは世界を認識できない前提のような存在なのに、同時に生命進化の最新鋭の "invention" なのだ。

 その10の "invention" は以下のとおり。

  1. 生命の誕生
  2. DNA
  3. 光合成
  4. 複雑な細胞
  5. 有性生殖
  6. 運動
  7. 視覚
  8. 温血性
  9. 意識
  10. 死

 4章の有性生殖と10章の死。要するに、「なぜセックスするのか?」「なぜ死ぬのか?」という疑問に正面から応えたものがスゴい。

 少数のアメーバのように、クローンでいいじゃないか。生存の観点からは最高に不合理な行為なのに、多くの生物はセックスをするのか。あるいは、どうして老いて死ななければならないのか(そしてその過程で悲惨な病気で苦しめられなければならないのか)。ともすると哲学的な応答になってしまうのを、生存闘争の視点から科学で斬り込む。

 生物である限り、変異は必ず起きる。そして、変異のほとんどは、集団全体の適応度を低下させる働きをするという。この変異を聖書の「罪」になぞらえている説明がユニークだ。変異率が1世代あたり1個に達すると(=だれもが罪人ということ)、クローン集団において罪をなくすには、旧約聖書のように大洪水でおぼれさせ、集団全体を罰して滅ぼすしかない。だが、有性生殖は違う、新約聖書のように。

有性生殖をおこなう生物が多数の変異を(後戻りのできない限界まで)蓄積しても危害を被らなければ、有性生殖には、健常な両親のそれぞれに多数の変異をためこませて、すべてを1体の子に注ぎ込む力があることになる。これはいわば新約聖書のやり方だ。キリストが人々の罪を一身に引き受けて死んだように、有性生殖も、集団に蓄積した変異を1体のいけにえに押し付けて、処刑してしまえるのだ。

 また、有性生殖は寄生虫対策でもあるという。捕食者や飢餓よりも、寄生虫のもたらす病気によって死ぬ可能性のほうが明らかに高いことを指摘する。急速に進化する寄生虫は、宿主に適応するのに長くはかからないし、適応に成功したら今度は集団全体に取り付き、全滅させてもおかしくない。一方、宿主に多様性があれば、一部の個体がたまたま寄生虫に耐性をもつまれな遺伝子型を備えている可能性がある(はず)。そして、そのような個体は繁栄し、次は寄生虫の方がこの新たな遺伝型への対応を余儀なくされる───寄生虫と宿主とのたゆまぬ競争こそ、有性生殖が大きな利益をもたらすというのだ。

 われわれはどこへ行くのか、という問いは、われわれはどこから来たのか?という問いと、われわれは何者かという問いに支えられている。生物学の「いま」でもって、あらためて(具体的に)考えることができる。


■「ベッドルームで群論を」 ブライアン・ヘイズ

ベッドルームで群論を 「ベッドルーム」だから、艶っぽい話を期待したらご勘弁。これは、眠れぬ夜に羊を数える代わりに、マットレスをひっくり返す黄金律を探すネタなのだから。命題はこうだ「マットレスを一定の操作でひっくり返し、マットレスがとりうるすべての配置を順繰りに実現する方法はあるのか?」。長いこと使っているとヘタってくるので、定期的にひっくり返す必要があるのだ。マットレスはごく普通のもので、長方形の、ちょうど単行本のような形だ。本書をマットレスに見立てて、タテに回したり、ヨコにひっくり返したのは、わたしだけではないだろう。

 著者はマットレスを飛行機に見立てて、ピッチ、ロール、ヨーの回転を定義づけている。左右を軸とした回転(pitch)、前後を軸とした回転(roll)、上下を軸とした回転(yaw)の3種類だ。「マットレスをひっくり返す」とは、結局のところ、この3つの操作と、「何もしない」を組み合わせることに他ならないと見抜く。さらに、回転の組み合わせにより、別の回転と一致することも思いつく(たとえば、「ピッチ」+「ヨー」→「ロール」とか、「ピッチ」+「ピッチ」→「何もしない」)。ここまで一般化すると、群論(ここではクラインの四元群)が登場する。あの「クラインの壺」のクラインだ。

 日常の、ちょっとした疑問をとりあげて、あれこれいじり回し、さまざまな分野から問題に迫る。歯車のギア比から始まった話題に、いつのまにか素数とフィボナッチ数が登場し、西暦2000年問題、ついには西暦10000年問題へリレーしてゆく手際は、鮮やかだ。今までの(科学の)啓蒙書と毛色が違うのは、解よりも解決法に力点があるところ。アメリカ合衆国の分水嶺を見つけるために大洪水をシミュレートしたり、シンプルな数学の問題(NP完全)にわざわざ物理系のモデルに対応させて理解しようと試みる。結論よりも試行錯誤が好きなのだな、と思わせる。

 著者のユニークなのは、正解云々ではなく、着眼点と発想の自由度だ。畑違いからのアプローチからトンでもないところまでもって行かれる。この「触れるサイエンス」と「連れて行かれ感」で、ついついページが進む。眠れぬ夜のお供に開いたのに、どんどん読み耽ってしまう。


■「数量化革命」 アルフレッド・クロスビー

数量化革命

 なぜ西欧が覇者なのか?これに「思考様式」から応えた一冊。

数量化革命 キモはこうだ。定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった(→数量化革命)。その結果、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させた(→近代科学の誕生)。

 このような視覚化・数量化のパラダイムシフトを、暦、機械時計、地図製作、記数法、絵画の遠近法、楽譜、複式簿記を例に掲げ、「現実」を見える尺度を作る試行錯誤や発明とフィードバックを綿密に描く。

  • 複式簿記・記数法:量を数に照応させることで、動的な現実を静的に「見える化」させる。あらゆる科学・哲学・テクノロジーよりも世界の「世界観」を変えた(と著者は断言する)
  • 地図製作・遠近法:メルカトル図や一点消失遠近法を例に、三次元的な広がりを二次元に幾何学的に対応させた。さらに、図画から「そこに流れている時間」を取り去り、空間を切り取られた静止物として再定義した
  • 暦法・機械時計・楽譜:時を再定義することで、時間とは一様でニュートラルなものであることを「あたりまえ」にした。定量記譜法により、「音がない」時間(=休符)すなわちゼロ時間が見いだされる

 数量化革命とは、一言でまとめると、「現実の見える化」になる。ん?現実は"見える"に決まってるじゃないか、というツッコミは、そのとおり。数量化革命「後」からすると、あたりまえのことが、革命「前」はそうではなかった。 そこでは、「時間は、その間に生じたものと同一視され、空間はそれが内包するものと同一視されていた」という指摘が面白い。年代は統治者の名で記録され、ゆで卵をゆでる時間はグレゴリオ聖歌を歌う間になる。この感覚は今でも通用する。東京ドームで量を、駅徒歩で距離を「はかる」のだ。

 計る・測る・量る―――「あたりまえじゃなかった」ものが「あたりまえ」に変容する様は、ゆっくりとだが確実に進行する。著者はそのちょうど変化の境目・ティッピングポイントへ誘ってくれる。ここが一番の読みどころで、たっぷり知的スリルを感じた。現実を再「定義」する思考の動き方が掴み取るように分かるのだ。著者のスタンスは天邪鬼的で、権威主義に頼らず、「そのとき席巻していた思考」を執拗に追いかける。

 面白いだらけだが、不満もある。肝心なところが、ないのだ。どのように(how)は綿密に記されているものの、なぜ(why)が見当たらない。世界の覇者となった理由は、数量化革命が起きたから。それは分かった。だが、それが、他ならぬ西欧で起きたのは、なぜなのか?この説明が薄いのだ。ソロバン、暦、地図、インド・アラビア数字、日時計、水時計は他の地域にも存在した。だが、他ならぬ西ヨーロッパ人が数量化・視覚化に気づいたのはなぜか?他の文明・地域・国家・勢力との比較がない。

 著者は結果から原因を説明しており、ニワトリ卵となってしまう。この点では、ジャレ・ド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」に軍配が上がる。遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫っている。そして、ある究極の(強力な!)結論に達している。併せて読むべし。

銃・病原菌・鉄上 銃・病原菌・鉄下


■「高校数学の教科書」 芳沢光雄

 習うより慣れろ、学ぶより真似ろ。

 やりなおし数学シリーズ。いつもと違うアタマの部分をカッカさせながら、3週間で一気通貫したぞ。もとは小飼弾さんへの質問「数学をやりなおす最適のテキストは?」から始まる。打てば響くように、吉田武「オイラーの贈物」が返ってくる……が、これには幾度も挫折しているので、「も少し入りやすいものを」リクエストしたら、これになった。

高校数学の教科書1 高校数学の教科書2

 本書の特徴は、「つながり」。アラカルト方式を改め、高校数学の体系を一本化しているという。なるほど、上巻の「数と式」の和と差の積の形に半ば強引に持ち込むテクは、下巻の積分の展開でガンガン使うし、図形と関数はベクトルと行列の基礎訓練だったことに気づかされる。ベクトルが行列に、行列が確率行列に、さらに行列がθの回転運動や相似変換に「つながっている」ことが「分かった」とき、目の前がばばばーーーっと広がり、強制覚醒させられる。

 上巻
    1章 数と式
    2章 方程式・不等式と論理
    3章 平面図形と関数
    4章 順列・組合せと確率
    5章 指数・対数と数列
    6章 三角関数と複素数平面
 下巻
    7章 ベクトル・行列と図形
    8章 極限
    9章 微分とその応用
    10章 積分とその応用
    11章 確率分布と統計

 高校ンときと明らかに違うのは、テストするのは、自分であること、期限がないこと。期末試験も受験もない(そういや、「数学=テスト」という構図から、ついに逃れられなかったなぁ、高校時代)。好きなだけしがみついてもいいし、早々とあきらめてもいいわけだ。おかげで、全体のなかの部分として学びなおすことができた。要するに、高校数学とは微積分なんやね。

 概念やテクニックの集大成として微積分に収斂されていく全体像が見えてくる(確率・統計という例外もあるけど)。微積分を理解するために極限があって、それを支えるアプローチや、同じ本質の別のふるまいとしてのベクトルや行列、三角関数や対数が説明される。それらの理解の基礎として、図形や関数、方程式や論理が準備されている。逆順に話したが、数学という道具を使いこなす段階を考慮した章立てだね。


■「千の顔をもつ英雄」 ジョセフ・キャンベル

 昔むかし、あるところに若い脚本家がおりました。野心家の彼は、誰もが夢中になる映画をつくろうと思い立ちました。そして彼は、古今東西の神話や伝説から物語の共通性を抽出した「千の顔をもつ英雄」を元に、ひとつの映画をつくりました。

千の顔をもつ英雄1 千の顔をもつ英雄2

 その映画の名は、「スター・ウォーズ」。

 おびただしい事例を枚挙し、かつて持っていた初源の意味がおのずから明らかになるように、原型神話そのものに語らせるのが、本書の試みだ。それによって、宗教と神話の仮面を被って偽装されてきた人類の世界観を詳らかにする。さらに、伝説の人物の生涯、自然の神々の力、死者たちの霊、部族のトーテム祖先たちの形姿を借りて描かれる"英雄"たちの行動を積分することで、いわゆる「英雄の条件」を深堀りする。

 だから、具体的なエピソードの英雄成分の抽出において、オビ=ワンやルーク、ヨーダやベイダー卿といったキャラクターを微分することも可能。だが、それはものすごくゼータクな読書になるはず。読み進むにつれて、スター・ウォーズに限らず、記憶しているあらゆるヒーロー・ヒロインたちのエピソードの噴出に取り囲まれて身動きが取れなくなるからね。

 また反対に、今のウツワに注ぎなおすことによって、本書を新しい酒として発酵させることも可能だから面白れぇ。要するに、このフレームから別の物語を紡ぎなおすのだ。どんなストーリーフレームが「面白い」ものとして人類の深層レベルで記憶されているのかが列挙されているから、あとは「いま・ここ」の演出方法に沿って飾りなおすだけというお手軽さ。ストーリーテラーとして生計を樹てる人なら、必ずおさえている(もしくはパクっている)一冊やね。それくらい普遍性と恒常性を持っている。

 著者キャンベル曰く、そこには人間行動の意識化されたパターン下にある無意識的な欲望、恐れ、緊張に付与されている象徴を汲み取ることができる。換言すると、神話の恒常的なパターンを分析さえすれば、(時代・地域を超えた)人間性の最深層に秘められた記録を抽出できるというのだ。


■「人間の土地」 サン=テグジュペリ

人間の土地
 「愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ること」―――この文が出てくるところで、胸を衝かれるだろう。

 読んでいて、何度も妬ましい炎に焼かれる。サン=テグジュペリはあらゆる乗り物が果たせなかった、速度と高度を得ただけでなく、その高みから観察する目と、見たものを伝える言葉を持っていたのだから。

 たとえるなら、究極に達したアスリートかアストロノーツが還ってきて、自分のセリフで批判を始めたとき、わきあがる嫉妬の痛み。一つ一つわたしの胸に刺さる言葉は、究極からの帰還者だから吐けるのか、究極への到達者だから見いだせるのか、分からない。分かるのは、わたしには絶対たどり着けないことだけ。

 このセリフは、路を失い、砂漠に墜落して、それでも奇跡的に助かった彼と僚友のエピソードから酌みだされる。航路から外れており救出隊は絶望的だ、食糧は燃え尽き、水は砂漠が吸ってしまった。2人は生きるためにあらゆる手立てを尽くそうとするが、ことごとく失敗する。渇きに声を失い、幻覚が見はじめ、死まであとわずか。2人のあいだに、一種の"希望"のように横たわるピストルが不気味だ。

 そこで、残骸の中から一果のオレンジを見つけるのだ。すぐさま2人で分かちあう。そして、死刑囚の最期のタバコのように味わう。そして、進むために、もう一度立ち上がる。同じ運命に投げ込まれ、ピストルやオレンジを前に顔を見合わせることも可能だ。だが、彼らはそうしなかった。東北東に進路をとって、歩き続ける。この名言は、生死ギリギリのところから酌みだされた美酒なのだ。

 「星の王子さま」だけじゃもったいない、必再読の一冊。ただし、再読のたび、より芳醇となるだろう。


■「それでも人生にイエスと言う」 V.E.フランクル

それでも人生にイエスと言う こころが傷んだときの保険本。「なぜ私だけが苦しむのか」と同様、元気なときに読んでおいて、死にたくなったら思い出す。

 「なぜ私だけが…」は、わが子や配偶者の死といった悲嘆に寄り添って書かれている。いっぽう、「それでも人生に…」は、生きる意味が見えなくなった絶望を想定している。こうした喪失・絶望に陥っているときに開いてもダメかもしれない。だが、「あの本がある」と御守りのように心に留めおいているだけでもいいかもしれぬ。「これを読めば元気がもらえる」と言ったらサギだろうが、少なくともわたしは、これのおかげでもうすこし生きたくなったから。

 著者はヴィクトール・フランクル、ナチスによって強制収容所に送られた経験をもとにして書かれた「夜と霧」は、あまりにも有名。凄まじい実態を淡々と描いた中に、生きる意義をひたすら問いつづけ、到達した考えを述べている(リンク先のレビューにまとめた)。

 「それでも人生に…」は、このテーマをさらに掘り下げ、さまざまな視点から疑いの目と、批判への応答を試みる。いくつかは肌に合わないかもしれない。彼のように考えるのは難しい、そう感じるかもしれない。だが、それを理由にして、フランクルがたどり着いた答えを無視するのは得策ではない。いったん受けて、噛み砕く。

 フランクルは、自殺の問題を四つの理由から考える。心を病むのではなく、身体状態の結果から決断する場合、自分を苦しめた周囲の人へ"復讐" するための自殺、そして生きることに疲れて死のうとする場合のそれぞれの自殺に答える。だが、四つ目の理由に最も強く反応する。すなわち、生きる意味がまったく信じられないという理由で自殺しようとする、「決算自殺」の場合だ。

 決算自殺とは、いわば人生からマイナスの決算を引き出したので、死のうとすることだという。生きてきたその時点での、借方と貸方を比べ、人生が自分から借りたままになっているものと、自分が人生でまだ到達できると思っているものとを突合せる。そこでどうがんばっても返してもらうことはないことに気づいて、自殺する気になるのだと。

 これに対しフランクルは、「しあわせは目標ではなく、結果にすぎない」と言い切る。人生には喜びもあるが、その喜びを得ようと努めることはできないという。"喜び"そのものを「欲する」ことはできないから。

よろこびとはおのずと湧くものなのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。

 不治の病にかかり余命が告げられた人、非生産的な毎日を送っている老人、病気で動くこともままならなくなった人、働けなくなった人―――著者は、さまざまな逆境を例に、そこでどう考えるかを提案する。いつまで不治だとみなされるかは誰にも分からないという。「ただそこにいる」だけで子どもや孫の愛情に包まれ、代替不可能でかけがえのない存在もあるという。

 たとえ全てのものが取り上げられても、人としての自由は、取り上げることができなかった強制収容所の体験を語る。つまり、選び取る自由は残っていたというのだ。収容所が強いる考えに染まるのではなく、"わたしならこうする"という選択の余地は、たとえわずかなものであれ、必ずあったという。そのわずかな余地で、"わたし"のほうを選べというのだ。

 つまり、生きることの一瞬一瞬が、この選択を問われていることに他ならないという。そして、生きることは、その一瞬の具体的な問いに答えることであるのだと。人生の意味を一般的な問題にすることは、あたかもチェスの個々の局面を離れて、「一番いい手は何か」と問うようなもの。定石はあるかもしれないが、あくまでもその一手を自らが選ぶことが、生きることなんだろうね。人生に意味はないけれど甲斐はある、そう納得させてくれる一冊。


■「がんの練習帳」 中川恵一

がんの練習帳 受験であれ性交であれ、結婚であれ親業であれ、人生は初めてに満ちている。そして、初めてのときはドキドキ(ワクワク?)するもの。いざ本番になって慌てないように、予行演習をするのだ。過去にさかのぼるように赤本を解いたり、暗闇でコンドームを(裏表をまちがえずに)装着したり、さまざまなな「予習」を積んできた。

 本書では、「がんにかかる」予行演習をする。日本人の2人に1人はなるといわれており、目耳ふさいで知らんぷりにはムリがある。受験や性交と違って、突然・唐突・直接だから、準備なしの初体験は危険でもある。「あのときに訊いておけばよかった」とか「あんなガセに振り回された時間が…」というのが、ずっと後になって分かるから。もちろんそうなったら、ショックを受けるだろうし、かなり慌てることは間違いない。しかし、予習するとしないとでは雲泥だ。受験や性交がそうだったようにね。

 さらに、自分に限らず、パートナーや近しい人がなった場合のシミュレーションにもなる。たいていは、ショック→なんで私が(怒り)→ネットで検索しまくり→サプリや民間療法に取り込まれる構図のようだ。その良し悪しはともかく、「主治医とのコミュニケーション」が鍵になる。

 本書は、患者とその家族の目線からみたケーススタディ集だ。人生のさまざまなステージで「がん」と出会い、どうやって乗り越え/付き合い/闘ってきたかの演習になる。予防から告知されたときの心構え、検診や療法選択のコツ、費用から最期の迎え方まで、すべて「練習」できるぞ。もちろん具体的な療法や症状は人さまざまだが、どうやって「がんとつきあっていく」かを考える羅針盤になった。

 練習の中で、わたしのがんに対する態度が変わってくる。定期検診での早期発見は「めでたい」ということや(米国では"Congratulrations!"と祝うらしい)、飛び散ってしまった場合は「室内から屋外へ逃げた鳥を捕まえるようなもの」など、"がんを視る目"が変わってくるのだ。「どんなに気をつけても"なる"ものだから、定期健診は保険と思え」なんて発想は目を引いたぞ。

 いきなり初体験はキツいから、これで何度も練習しよう。


■「10代の子をもつ親が知っておきたいこと」 水島広子

10代の子をもつ親が知っておきたいこと あと数年で思春期にさしかかる。「なってから」読むのでは遅い。だから、「なる前に」やれる準備はしておこう。そのための心強い一冊となった。一読、「思春期の親業」に自信がつく、スゴ本というよりも、心構えをつくる本。

 もちろんマニュアル世代ですが何か? こういう手引き本というかマニュアル本を良しとしない人がいる。だが、むしろ先達の経験+専門家の知識を短期間で吸収できる。あたって砕けろ的な現場主義はいただけない。本で練習して、実地に適用する。教本ばかりも情けないが(ビジネス書フェチの畳上水練)、選んで読んで、実践とフィードバックをしていこう。

 思春期のポイントは2つ、「自尊心」「コミュニケーション力」を育てること。「自尊心」とは、そのままの自分の存在を肯定する気持ちのこと。「コミュニケーション力」は気持ちを分かりやすく伝えることで、他者とのつながりを深めたり、求めるものを得る能力のこと。両者は密接な関係にあるという。自尊心が低いと、「どうせ誰も自分のことなど聞いてくれない」と思い込んでコミュ力も低下するが、反対にコミュ力を通じて相手とのつながりを感じると自尊心が育つそうな。そして本書の目的は、その具体的な育て方にある。

 このエントリでは、受け取ったものをいったん咀嚼して自分向けに"まとめ"直している。

 まず、著者の姿勢が潔いというか謙虚だ。著者自信も10代の子を持つ母親。だから親の不完全さはよく分かっており、本書を「こうすべき」と読まないでと釘を刺す。ありがちな「親の不安を煽って売ろうとする育児書」とは一線を画している。そして、彼女の基本スタンスはこうだ。

    変えられるものは、変える
    変えられないものは、折り合い方を考える

 ラインホルト・ニーバーのコレを思い出す。

    神よ願わくは我に与えたまえ
    変えられるものを変える勇気を
    変えられないことを受け入れる忍耐を
    そして、その二つを見分ける知恵を

 この二つの知恵を実践しようと心がけると、子どもへの姿勢は、次のように変わるだろう。「なぜ、そんなことをしたのか?」という問い詰めから、「ほんとうは、どうしたかったの?」という問いかけへ


■「料理の四面体」 玉村豊男

 読んだら覚醒した。料理が好きに自由になる一冊。

料理の四面体

 料理とは、振付け通りに踊るキッチンのダンスにすぎず、料理上手とは、いかに振付けを完璧に再現できるかだと思い込んでいたわたしは、この薄い文庫で、木っ端ミジン切りにされた。

 本書の本質はこうだ。要するに、料理ということは、道具や調味料の差異はあれ、「空気」「水」「油」という要素が「火」の介在によって素材をいろいろな方向へ変化させることだと喝破する。それぞれを頂点とした四面体を考案し、あらゆる料理はその四面体のどこかに位置するというのだ。そして、ある料理が占める一点を動かすことにより、違った形の料理へと導くことができるというのだ。

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 この四面体を腹に落とすために、世界中のさまざまな料理の「本質」を換骨奪胎(文字通り!)してくれる。冒頭の「アルジェリア式羊肉シチュー」が、「コトゥレット・ド・ムトン・ボンパドゥール」に変換され、さらに「ブフ・プルギニョン」から「豚肉の生姜焼き」に一気通貫する様は鳥肌モノ。

 それぞれの皿の相違点ばかり見つめていると、それらの料理は相互に関連のない別物になる。だが、本質を射貫くと、実はひとつの料理なのだということが分かる。ひとつの本質が、時と所に応じて風土ごと様々に異なる姿を見せているだけなんだということに気づくと、次の料理が格段に広がってくる。言い換えると、料理のレパートリーが、ぱあっと広がる。料理の一般原則を「手が探し当てていく」状態になるのだ。

 ただし、料理を職業とする人からは、かなりの酷評をもらっているらしい。料理の原理原則に迫るあまり、枝葉をバッサリ斬ってるから。確かに牽強付会じみている(でも本質)なトコもあり、干物とは太陽に炙られたグリルだといい、サラダの語源が「塩味がつけられたもの」だからあらゆる料理はサラダになるという。

 それでも、本書の価値はいささかも減らない。レシピ通りに作ることは大切だが、「レシピ通りにしか作れない」罠に陥っているわたしの蒙を啓いてくれたから。


┌――――――――――――――――――――――――――――
この本がスゴい!2011
└――――――――――――――――――――――――――――

 今年ほど「生きたい」欲望が強く湧き上がったときは無かった。

 不幸に遭った方へ思いを馳せるいっぽうで、わたし自身が「生きねば」と自分に言い聞かせた。当たり前すぎて気づかなかったことに気づいた。それは、「生きることは食べること」、そして「エロスは生きる力である」こと。食事と色事こそが、わたしが生きることだと、あらためて思い知った。

■「檀流クッキング」 檀一雄

 安くて野蛮でやたら旨い一冊。

檀流クッキング レシピ本は親切だけど、信頼するのはクチコミになる。掲示板やコミュニティでかじったレシピを頼りに、すばらしくうまい一皿を作ったことが何度もある(ピェンロー鍋とかアンチョビソースのパスタとか)。嬉しいのは、ただ簡便なだけでなく、「ここだけ肝心」「これはこだわる」といった、ポイントを突いているところ。

 本書はそんなキモが並んでいる。しかも、完全分量度外視の原則を貫き、アミノ酸至上主義をせせら笑うレパートリーが並んでいる。「塩小さじ 1/2」みたいな科学調味料的態度を突き抜けて、塩の量がいかほどと訊かれたって、答えようがない、君の好きなように投げ込みたまえ、と言い切る。

 それでも、「ゴマ油だけは、上質のものを使いたい」とか、「暑いときは、暑い国の料理がよろしい」のように、妙な(だがスジの通った)こだわりが出てくる。おそらく、ない材料はなくて済ませはするものの、ここを外しちゃダメだ、という最低限の勘所だけは伝えようとしたからだろう。ヘタの横好きのわたしでも分かる、料理で大切なのは「下ごしらえ」なことを。檀センセは説明を厚くすることで、その勘所を伝授する。

 次のイメージは、檀流クッキングで覚えた「イカのスペイン風(プルピードス)」。イカを丸ごとさばいたのは初体験だったが、200円ですばらしく美味な一皿ができあがった。「本書の一品一品を、わが腕に叩き込むように覚えてゆけ」を文字どおり実践するべ。本書は、幅書店の88冊で知った一冊。美味しい出会い、ありがとうございます、幅さん。

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■バートン版「千夜一夜物語」

 「死ぬまでに読みたい」もとい、「読んでから死ね」級のスゴ本。

千夜一夜物語1 千夜一夜物語2 千夜一夜物語3
千夜一夜物語4 千夜一夜物語5 千夜一夜物語6
千夜一夜物語7 千夜一夜物語8 千夜一夜物語9
千夜一夜物語10 千夜一夜物語11  

 多くの人が編さん・翻訳しているが、なかでも一番エロティックでロマンティックでショッキングな奴が、バートン版なのだ。淫乱で野卑で低俗だという批判もあるが、その分、意志の気高さや運命の逆転劇が、いっそう鮮やかに浮かびあがる。妖艶な表紙からして子どもに見せられないし、残虐だったりドエロだったり萌えまくる描写が山とある。これらは、人性のドロドロの濃淡・陰影をつけるための淫猥ではないかと。

 物語のバリエーションは無数。シャーラザッドの千一夜におよぶ千態万様の物語は、悲劇あり、喜劇あり、史話あり、寓話ありといったふうで、変幻万化、絢爛無比の東洋的叙事詩がくりひろげられる。献身の情熱があり、狂信の沸騰もある。哀愁さそうペーソスあり、荘重から滑稽への急転落もある。甘さ、深さ、清純さ、多彩、華麗、強靭さがちりばめられているなかに、どうしようもない厭世観が透けて見える。

 この世ならぬ美しさの王女の体の、いちばん秘密なところに隠されていた赤い宝石の話とか、魔神のたわむれから、遠く離れた国の王子と王女が恋におちて数奇な運命をたどる一大ロマン「カマル・アル・ザマンの物語」とか、妖艶な美女との官能的な恋も束の間、怪盗の手により苦境に陥った商人のスリル満点の話など、まさに夢のような物語ばかり。妻の仕打ちに耐え忍ぶ夫に身につまされならも、二転三転どんでん返しでハラハラどきどきさせっ放し「靴直しのマアルフとその女房のファティマー」なんて、物語を読む面白さとか喜びのエッセンスそのものが沁み入ってくる。

 ちなみに、よく知られている「シンドバットの冒険」の面白さレベルは、「中」だ。児童書だけで知ってる気になってたらもったいない。少なくとも、少年少女版「アラビアンナイト」では、「シンドバット」が盛大に去勢されてることが分かるだろう。好奇心旺盛な若者の冒険を描いたというより、行く先々で殺人と略奪に勤しんだ告白記と読める。特に、次から次へと落ちてくる人を石で撲殺するスプラッタなシンドバットは、おぞけをふるって読むべし。

 全11巻を一気に読む必要はない。枕元でちびちびと、シャーラザットの一夜語りをそのままに、毎夜の楽しみにしてもいい(わたしは、1年かけて惜しみ愛しみ読んだ)。千と一夜の後、シャーリヤル王に訪れた変化は有名だが、シャーラザットに起きた出来事には感無量になった。

 死ぬまでに読みたい、もとい、読まずに死ねない物語。最高の物語とは、これだ。


■「エロティック・ジャポン」アニエス・ジアール

 エロスは生きるチカラだ、皮膚感覚で思い知る。

エロティック・ジャポン
 自分を見ることはむずかしい。鏡なしでは自分を見ることすらできないし、その像は反転している。「他人から見た自分」を見るためには、最低2枚必要だ。どんなにレンズが歪んでいても、カメラや他者の目があれば、自分が「どう見られているか」を知ることは可能だ。これを「日本人のエロス」でとことんヤったのが、本書。

 「趣味はエロス」というわたしだが、本書には大いに教えられる。単純にわたしの精進が足りないのか、それとも著者のフランス女が半端じゃないのか、分からぬ。徹底的に、全面的に、過激に貪婪に、日本人のエロスを詳らかにする。もちろん、「俺はそんなことしない」「それは普通の日本人じゃない」とか弁明するのは可能だ。

 だが、普通ってなに?どんなに異様で異常だろうと、それを追求・志向する人が居るのは、日本そして日本人なのだ。そいういう特殊もひっくるめて普遍化しているのが、日本なのだろう。カレーから宇宙船まで、なんでも取り込み自家ヤクロウにする。ケモノレベルのエロスから、高度文明化した情動まで、想像力の尽き果てるまで許し許される。わたしはこの大らかさが好きだ。目ぇにクジラ立てるよりも、まぁまぁなぁなぁゆるめなトコが大好きなのだ。残念ながら昨今の情勢では、堂堂エロスを語れない。外のレンズを通してでしか、日本のエロスを語れないのは残念だが、本書が刊行されるだけのウツワは残っていると信じたい。

 「普通」ってなんだろう?次々と現れるニッポンのセックス業(ごう、と読むべし)を眺めていると、境目が見えない。むしろ「ブルセラショップ」や「うろつき童子」は、メジャーなジャンルだろう。だが、「ライクラ・コスプレ」や、「ラブドール・デリバリー」は、ひとつの極北か、未来の冗談に見える。 google 画像でダメージ食わないよう急いで説明すると、前者は伸縮自在のスーツを全身に被ったプレイで、後者は精巧に作られたラブドールの宅配レンタルの話だ。いくらエロスが得手でも限度がある。

 しかし、著者は違うと主張する。日本人は、変身願望があるという。仏教伝来このかた、日本の文化はエゴを拒否するようになったという。西洋的な問いかけ「私とは何か」ではなく、「どうしたら私は私以外のものになれるのか」という解脱への問いかけがなされてきたのだと。そして、その証拠として遊戯王やらセーラームーンを出してくる!ある日突然、別次元で活躍するヒー
ロー・ヒロインに託す日本人の熱意は、現実以外に別世界があり、魂の転生で到達するという集団的幻想の現われなのだと。さらに、ライクラ着ぐるみとは、男が女に変身するだけではないという。実際には「女」になるのではなく、「アニメの女の子」になる、即ち、性を越境しているのではなく、現実をも越境しているのだと。藤崎詩織になりたいかどうかはともかく、「いま」「ここ」の自分ではない存在には、あくがれる。

 ほぼ全ページに掲載される、豊潤な画像もわたし「好み」を視覚化してくれる。会田誠は「ジェローム神父」でガツンと犯られたが、本書では「切腹女子高生」という最高にクレイジーなグラフィティが紹介されている。ロリ自虐やね。さらに、日本人の触手好きの原型は、葛西北斎「喜能会之故真通」の「蛸と海女」にあると喝破されたり。目ウロコではなく、違うところにまぶたがあったことに気づくとともに、ほぼ強制的に開かされた。わたしには、こんな「好み」があったなんて。エロスのために生きているといよりも、エロスにより生かされているのだ。これが肌で分かった所以。

 かなり限定されたトピックで語ったが、本書にはありとあらゆる日本のエロスに満ち溢れている。したがって、わたしの例があなたの「うへぇ」であったとしても、あなたのピタリが必ず見つかる、かならず。それほど日本人のエロスは幅広で、あなたは(わたしも)多様なのだ。なぜなら、エロスとは、偏愛なのだから。

 あなたが抱いたエロスこそが、ジャパニーズ・エロスそのものなのだ。


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この劇薬小説がスゴい!2011
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 「劇薬小説」「劇薬系」とは、読み手の精神に大ダメージを与える作品のこと。かなり丈夫なココロを準備しておかないと、「読まなければよかった」と後悔に苛まれるかも。自信がない方は以降を読まないほうが吉。

■「ソドムの百二十日」 マルキ・ド・サド

 この世が始まって以来、最も淫らで穢らわしい物語。

ソドムの百二十日 自分を壊す本を選んで読む。殻を砕き、やわらかいエゴを引っ張り出し、押し広げる、自己を拡張する読書。わたしの心を抉りだす読書。なかでもキツいのは、次の3つ。誘拐した少女の全身の穴という穴を縫い合わせる───ただし口とヴァギナを除いて。『おまえはその二つの穴だけで世界とつながるんだ、その穴だけでわたしを感じるんだ』(ラヴレターフロム彼方)。子宮を裂いて胎児を取り出し、代わりにぬいぐるみを押しこむ陵辱破壊、あるいは、女子高生コンクリート詰殺人事件で有名(真・現代猟奇伝)、家族丸ごと監禁し、家族同士で殺し合いをさせ、家族中で死体処理させるノンフィクション(消された一家)

 これら読むと、最高に胸クソ悪い満腹感を味わえる。自分の中に、こうまでドス黒い感情が溜まっていたのかと思うと、心が溶ける。この3つを超えるやつはもうないと信じてた。

 しかし、間違ってた、上には上がいる。しかも、かなり上で、マルキ・ド・サド「ソドムの百二十日」だ。上3つを含み、もっと狂ってる。一言なら、「読む拷問」。男色、獣姦、近親相姦。老人・屍体に、スカトロジー。読み手にとてつもない精神的ダメージを与え、まともに向かったら、立てなくなる強烈な兇刃に膾にされる。イメージを浮かべながら読むと、想像力が絶叫する読書になる。三柴ゆよしさん、オススメありがとうございます。間違いなく劇薬No.1ですな。

 鼻水吸引や髪コキ、愛液フォンデュ、ミルク浣腸は序の口で、真っ赤に焼けた鉄串を尿道に差したり、水銀浣腸で腸内をごろごろする感触を楽しむ。抜歯や折骨を趣味とする男の話や、女の耳や唇を切断したり、手足の爪をムリヤリ剥がす話が喜喜として語られ、実践される。眼球を抉ったり、乳首や睾丸を切断したり、嗜虐趣味極めすぎ。

彼らにとって他者とは、壊す対象になる。犯しながらノコギリでゆっくり首を切断したり、恋人同士を拉致して、彼女の乳房や尻を切除して調理して彼氏に食べさせたり。母に息子を殺させたり、塔の上から子どもを突き落とす『遊び』や、むりやり膣に押し込んだハツカネズミや蛇が娘の内臓を食い破る様を眺めるなど、よくぞ想像力が保つなぁと感心する(同時に、ちゃんと読んでる自分がたまらなく嫌らしい)。

 圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、そして傷害致死―――ここにはあらゆる「死」の形が描かれている。「死」は一つなのに、至る道はさまざまやね。

 本書は、性倒錯現象の集大成ともいえる。自己愛、同性愛、小児愛、老人愛、近親相姦、獣姦、屍体愛、服装倒錯、性転換といった現象を、露出症、窃視症、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムといった性手段で果たそうとする。では、完全なる狂気から成っているかと思うと、そうではない。極端は異常性欲を、極めて冷静沈着に書いているからね。

 想像力が凶器となる読書。目を疑え、そして自分を壊せ。


■「ペインティッド・バード」 イェジー・コシンスキ

 ホロコースト劇薬小説。

ペインティッド・バード 戦争が子供に襲いかかり、子供が怪物に変わっていく話。エグいのに目が離せない、手が離れない、強い吸引力をもつ小説だ。TIMES誌の「英語で書かれた小説ベスト100」に選ばれている。

 「酒が人を駄目にするのではない、元々駄目なことを気づかせるだけ」という言葉がある。アルコールは本能をリミッターカットする。酒が個人に降りかかる狂気ならば、戦争は大衆を襲う狂気だ。10歳の男の子がサヴァイヴする疎開先の人々は皆、酔ったかのように本能に忠実だ。むきだしの情欲や嗜虐性が、目を逸らさせないように突きつけられる。目撃者=主人公なので、読むことは彼の苦痛を共有することになる。

 体験と噂話と創作がないまぜになっており、露悪的な「グロテスク」さがカッコつきで迫る。日常から血みどろへ速やかにシフトする様子は、劇的というよりむしろ「劇薬的」。スプーンくりぬかれた目玉が転がっていく場面は、狂鬼降臨のあの「抉り出される目玉から見た世界が回転していく」トラウマシーンを想起させる。白痴の女の膣口に、力いっぱい蹴りこまれた瓶が割れるくぐもった音は、今でもハッキリ耳に残っている。読んだものが信じられない目を疑う描写に、口の中が酸っぱくなる。耳を塞ぎたくなる。そのうち、読んだものを一貫して信じようとする努力を放棄して、それぞれのエピソードごとに「主人公」がいたんじゃないかと思えてくる。

 なぜなら、悲惨すぎるのだ。

 苛烈な虐待を受け続けると、普通は死ぬ。氷点下の河に突き落とされ、浮かび上がるところを押し戻され呼吸できない状態が続くと、溺れ死ぬ。真冬の森に放置されると、飢え死ぬか凍え死ぬ。だが、彼は生き延びる。次の章では誰かに助けられるか、まるでそんなエピソードは無かったかのような顔で登場する。これは、様々な死に方をしていった子供たちの顔を集めて、この「彼」ができあがったんじゃないかと。


■「夜のみだらな鳥」 ホセ・ドノソ

 愛する人をモノにする、究極の方法。

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 それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる―――「魔法少女マギカ☆まどか」で囁かれた誘いだ。

 悪魔のようなセリフだが理(ことわり)はある。乱歩「芋虫」の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。まぐわいの極みからきた衝動的な行為かもしれないが、彼女がしでかしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」ことそのもの。早見純の劇薬漫画「ラブレターフロム彼方」では、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺様)を味わえというのだ。

 感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。

 ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。

 子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。

 読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる……はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく。

 本書は、「劇薬小説ベスト10」で教わった逸品。「狂鬼降臨」や「城の中のイギリス人」といった肉体的おぞましさをキワ立たせるものや、「児童性愛者」や「隣の家の少女」のような精神的衝撃を受ける中で、本書は、悪夢に呑まれて帰ってこれなくなる肉体・精神の双方に対してダウナー系ダメージを喰らわせてくれる。

 生きた迷宮をさまようような、誰かの悪夢を盗み見ているような毒書は、シロさんのオススメが発端。おかげで、うなされるようなおぞましい一冊にあえました、ありがとうございます。


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スゴ本2012
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 ゆるやかに、自分の「死」と向かい合う準備をしている。別に病気をしたとかではないが、一番罹る可能性が大である「がん」になったら…を具体的に想像するようになった。そして今年、不意打ちのようにいきなり死んでしまうこともある、と考えるようになった。

 死にたくない、は理不尽なので、「まだ」死にたくない、と言い換えよう。では、どうしたら「まだ」が減らせるか、ピックアップしよう(ゼロは無理)。いわば、「死ぬまでにしたい10のこと」やね。「死ぬまでに読みたい10冊」までは絞れないが、100作品なら選べるだろうか。このリストは入れ替わりの激しい揺れ動くリストかもしれない。だが、順々に読んでいこう。

 オフ会について。スゴ本オフはより濃く深くまろやかになった。「旨さ」も加わって、すごい出会い場になっている。本屋オフは財布と相談しながら増やしていこうかと。大人のための「エロ本オフ」は来年の課題だな。ビブリオバトルは本というよりプレゼン合戦なので、しゃべり場といて活用していこう。

 スゴい本に出会えるのは、皆さんのおかげ。オススメいただいた方、つぶやかれた方、(カウンター本を提示しつつ)叩かれる方に感謝して、精進していこう。

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子どものために、できること「40歳の教科書」

 親業の確認のつもりで読む、だいたい合ってた。

40歳の教科書 親を見て子は育つ。だから、子の努力を望むなら、まず親が努力する。「幸せ」とは何か伝えたかったら、親がイライラするのをやめる。「英語」はツールにすぎないが、「お金」の教育は重要。学校は人間関係を学ぶところだから、失敗の練習場と思え。社会に出ると、失敗は有償だぜ。

 受験マンガ「ドラゴン桜」を本にした「16歳の教科書」、その番外編が「40歳の教科書」になる。以下の4テーマに対し、強いメッセージ性をもつ人からのインタビュー集といったところか。一問一答に「まとめ」ると、こんなん。

 英語早期教育
   「もっと早く英語の勉強をしておくんだった…」
   「小学校から英語なんて、破滅するぞ!」

 中高一貫校
   「早いうちにいい学校に入れば、あなたがラクできるのよ
   「その受験で幸せになるのは、子どもじゃなくてあんただろ!」

 お金と仕事
   「お金の話をするのは恥ずかしい」
   「お金で人生を踏み外す人がいるのに、しないでいいのか?」

 挫折と失敗
   「第一志望に行けなかった」
   「それがどうした、良かったじゃないか」

 まず母国語である日本語をマスターせよ、というのが至上命令。一番重要な科目は「国語」だと伝えてある。なぜなら、「相手の意図を間違いなく受け取る」「自分の意思を正確に伝える」は、科目に関係なく、生きていくうえで最重要だから。Thinking in English はいいけれど、日本語でちゃんと考えられないような奴は、英語でも無理。どんなに研鑽しても、英語力は日本語力を越えられない。

 だから、小学英語は適当でいい、中高は「受験英語」をちゃんとやれと言っている。もちろん、力を入れるのは、グラマーだ(後がラクだから)。受験英語は役立たないという奴に限って、ちゃんと英語やってない(ソース俺)。「最大の問題は、『親の』英語コンプレックス」とある。然り。ン十万する、ディ○○ーの幼児英語教育セットを、夫婦で話し合ったこともあったな…(遠い目)。

この世でいちばん大切なお金の話 お金について。「お金」の教育は、むずかしい。というのも、「この世でいちばん大切なカネの話」を渡せば済むという話ではなく、わが身をもって、子どもとの対話で伝えていかないと。「カネさえあれば幸せになれる」といったら異論が出るだろうが、「カネさえあればかなりの不幸を回避できる」は本当だ。カネを使って不幸を撃破しつつ、幸せに匍匐前進するのが"勝ち目"のある戦い方だろう

 「お金の教育」で西原理恵子氏のメッセージが重たい。正直、この章だけでも充分に読む価値がある。自分で読み返すため、ここにまとめる。

  • 専業主婦ってものすごくリスクが高い職業
  • 「夫が一生健康」&「夫の会社が一生安泰」&「夫が一生自分だけを愛してくれる」&「夫のことを一生愛することができる」極めて限られた条件下で、ようやく成立する職業が、専業主婦
  • 他人(夫)の感情に自分と子どもの人生を預けてしまうなんて、ほとんどギャンブルのような行為だと思いません?
  • 稼ぎ頭の夫が心身を壊したら、家族でサポートするが、稼がない専業主婦が心を壊しても「面倒くせーな」のひと言で終わる
  • このとき、いちばん被害を受けるのは子ども
  • 「自由」と「責任」って、有料なんですよ
  • お金のことを口にするのは卑しい、という考えは昭和で終わった
 「専業主婦は人生のギャンブル」―――西原氏がギャンブルに喩えると、重いなぁ。

 「やりたいこと」の選択の自由を広げるには、お金が必要。言い換えると、お金がないことは自由がないことと同義。「やりたいことが見つからない/決まらない」あいだは、お金を貯めることに徹せよ、やりたいことを見つけたときに、すぐ取りかかれるように―――と伝えるつもり。

 アルバイトは重要だけど、「バイトに明け暮れる」はダメ。ポイントは「カネ」そのものではない。知らない年上に揉まれること、知らない年下を扱うことに慣れるのが、バイト。バイトで失う最も痛いものは、時間だ。小遣いに毛が生えた程度のカネを手にするために、若い貴重な時間を使い果たすのは愚かだ(ソース俺)―――と伝えるつもり。

 そして、もっとも期待値の高い投資は、自己投資。目標像とのFIT/GAPから必要なものを一覧化→自分で自分を教育する(足りないものは外から「買う」)のだ。この「自分で自分を教育する」が教育の最終目標だ。自律して学んでいけるようになれば、職も遊びも安泰だ。これはわたしが身をもって実践しているところ。

 わたしの中で、かなり大事な位置を占めつつあるのに、本書で一切言及されていないのが、「食べたいものを食べる自由」。それはカネさえあれば代替できるというものではない。自分で作れるようにならないと。ただ空腹を紛らわすための食はむなしいことなのに、おざなりにしてきた。「食べる」は生きる基本、生きることは食べることに等しい。だから、料理をちゃんと教えよう(というより、わたし自身も学びながら、だね)。


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「要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論」はスゴ本

 経済学者が嫌いだ。

 イソターネットで可視化された「経済学者」は、嘘つきで尊大で、自分以外は馬鹿に見えるらしい。誤りを指摘されると、猛々しく開き直り、詭弁を弄して話をすりかえる。「経済学者だから、さぞ金持ちだろう」は冗句だが、「経済学者だから、リーマンショックは予見しただろう」は洒落にならぬ。「経済学者が集まったから、EUクライシスの処方箋がまとまるだろう」は、もはや寝言だ。

要約ケインズ しかし、わたしが間違っていた。ダメな「経済学者」がいるかもしれないが、「経済学」は価値がある、まちがいなく。ずっと避けてきたのに、とうとう出てしまったのだ、「ケインズ一般理論」の要約版が。岩波文庫で何度も撃沈していたものを、ていねいに噛み砕き、今に合わせて剪定してある。ありがたく感謝して読む。

 もちろん一読で理解できるはずもないが、どこまで分かっていて、どこまで分かっていないかが、判別できた(←これ重要)。なのでクルーグマン先生のデカイ教科書に取り組める。ここでは、わたしがどのように読んだかを備忘的に記す。

 まず、これを翻訳・要約したのが山形浩生氏だ。だから、末尾の解説から読むのが正しい。氏が訳した本に共通するのだが、本文よりも解説の「まとめ」のほうが分かりやすい。その本の位置づけから見通しを語り、そこから拡張した氏の主張まで展開している。だから、そこだけ読めば事足りる(その証拠に、解説だけを集めた「訳者解説」という本が出ている)。

 そんなわたしの「横着」ぶりを見透かされつつ、クルーグマンを引きつつ、さらに要約してくれる。p.246によると、ケインズ一般理論の肝はこうなる。

  1. 経済は、全体としての需要不足に苦しむことがあり得るし、また実際に苦しんでいる。それは非自発的な失業につながる。
  2. 経済が需要不足を自動的になおす傾向なんてものがあるかどうかも怪しい。あるにしてもそれは実にのろくて痛みを伴う形でしか機能しない。
  3. これに対して、需要を増やすための政府の政策は、失業をすばやく減らせる。
  4. ときにはお金の供給(マネーサプライ)を増やすだけでは民間部門に支出を増やすよう納得してもらえない。だから政府支出がその穴を埋めるために登場しなきゃいけない。
 さすがにまとめすぎだが、解説を予め読んでおくと、すっきりした見通しで取り掛かれる。さらに、各巻の冒頭はそれぞれの「訳者の解説」が、そのうえ各章の最初は「Abstract」があり、ここだけでも充分価値がある。

 語り口はざっくばらんで、「根拠レスな批判」「こいつがイカレポンチだ」などと、いかにも山形氏が言いそう(だがケインズの言)。本文中にも迷いそうなところには [ ] で山形コメントがあり、たいへんありがたい。だが、地の文(ケインズ)も、解説や[ ]の文(山形)も、どちらの主語も「ぼく」なので、注意が必要。例えば、20章 雇用関数のセクションI は、次の文で始まる。

(数式が嫌いな人は、このセクションを飛ばしても全然オッケー!)
めんどくさい数式がずらずら並んでいるので、喜んで飛ばさせてもらった。だが、これはケインズ?山形?どちらの発言か想像すると楽しい(どっちの場合でもニヤっとさせられる)。ケインズは茶目っ気たっぷりのおっさんだったらしい。山形氏もそうなのだろうか。VI巻ラストのこの一文なんて、ケインズの地の文なのにモロ山形節で、爆笑させてもらった。
知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどっかのトンデモ経済学者の奴隷だ。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文殴り書き学者からその狂信的な発想を得ている。
これは冒頭でわたしが嫌っていた「経済学者」じゃねーか。

経済学思考の技術 わたしの理解不足も分かった。まず、何度も出てくる「限界効率」。もうかっているお店が、さらにバイトを雇ったとき、どれくらい儲けが期待できるかという話だが、わたしの理解がアヤシイ。飯田泰之著の「経済学思考の技術」を再読して復習しよう。ロジカルシンキングものとして読んだことがあるが、もっと広くて深くて実践的だ(ロジシン本に矮小化したら失礼だ)。限界効率について目ウロコだったことを覚えているが、もう一度目ェ洗ってくる。

 「金利」について、復習が必要だ。というのも、中央銀行が決める政策金利と、債権の利息として扱われるものと、2種類(もっと?)の意味が混在して使われているように読めたから。文脈によってきちんと読み分けられないわたしにとって、混乱の元になった(あるいは、政策金利も債権の利息も「同じ」とみなす?)。ちゃんと勉強してこなかったツケがまわってきたね。

 さらに、わたしは「危機」について分かっていない。本書では、「危機(crisis)」「暴落(slump)」「バブル崩壊(collapse)」が同じ意味で使われている(ように読めた)。景気循環の下降局面なら「危機」、資本の限界効率が急落し、みんなが現金を欲しがっている状態を「暴落」、さらに過剰投資(=バブル?)が行過ぎて、期待収益がゼロ以下になることを「バブル崩壊」と呼んでるみたい。いわゆる「バブル崩壊」は、そんな景気循環から外れた、日本だけの極端な現象だと思っていたが、ケインズも指摘しているくらい「予見されたこと」なのだろうか(あるいは山形氏の勇み足?)。これは、「原書にあたれ」やね。

 わたしの理解のために、もうワンクッション要る。これは自分で式を展開したり図を書くことで補完しよう。あれ?と思ったのは、第10章の「限界消費性向と乗数」。既存の資本設備を500万人雇って動かして生産している社会の話に、こうある。

すると、50+n×10万人が雇用されているときの限界での乗数は100/nになって、国民所得のn(n+1) / 2(50+n)が投資にまわされる。
ここでは、520万人が雇用されているときを考えているから、「50+n×10万人」ではなく、「500+n×10万人」なのでは?と引っかかった。投資にまわされる割合の式から考えると、「(50+n)×10万人」のほうが妥当だろうか。「分かってる加減」を確かめるため、本書をベースに手を動かす必要がありそうだ。

 いずれにせよ、食わず嫌いだった「経済学」にも手を出す。まずはクルーグマン先生の「マクロ経済学」「ミクロ経済学」から。警戒すべきは、慢心。「自分以外は馬鹿に見える」病に陥らないよう、気をつけて学ぼう。

 追記。本書の全文は、以下のリンクから読める。わざわざお金を出して「紙の本」で読む必要なんてないじゃないか、というツッコミもあるだろう。だが、やってみるがいい(全部読めないから)。いま全体のどこにいるかを押さえつつ、行きつ戻りつしながら「読み」「書き」「付箋貼り」には、どうしても紙の本でないと。一読腹に落ちるような代物ではなく、「取り組む」「格闘する」ものなのだから。オールドタイプのノスタルジーという揶揄上等、やってみなはれ。

ケインズ『雇用と利子とお金の一般理論』要約

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「2011最もオススメする本」をビブリオバトルで紹介する

 12月28日(水)、ビブリオバトル@紀伊國屋書店に参戦しますぞ。

 ビブリオバトル(書評合戦)は極めてシンプルだ。

 1. 参戦者が本の魅力を5分で語る + 観覧者と質疑応答
 2. 参戦者と観覧者で投票して「最も読みたい一冊」を決める

 わたしの「読む」傾向偏差がデカいことは承知しているから、一般の人様にオススメできる(したい)ような本が少ないのも分かってる。幾度も言及している本なので、ここの読者には目新しくないかもしれない。それでも、2011年、一番オススメしたい一冊を持って、全力でプレゼンするので、ぜひご観覧くださいませ。

 しかも、かつての優勝者や歴戦のビブリオバトラーが集う「年忘れ☆オールスター2011」組に入れてもらえるので、猛者を探すならうってつけかも。「本を探すのではなく、人を探す」良い出会い場だと思う。いつもの片隅のブースではなく、サザンシアター借り切ってガッツリやるので、お楽しみに。もちろん一般参加もありなので、オススメしたい本がある方は、ぜひ。

 当日はtwitterやU-Streamで実況があるので、@KinoShinjuku や #bibliobattle をチェックすると吉。

ビブリオバトル案内

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「死ぬまでにやりたいゲーム1001」はスゴ本

 読まずに死ねない本があるように、死ぬまでにやりたいゲームがある。

死ぬまでにやりたいゲーム1001

 本とゲームの違うところは、「読まずに死ねない本」の大半は既知だが、「やらずに死ねないゲーム」は未知であるところ。つまりゲームは日々進歩しつづけており、スゴゲー(すごいゲーム)とはこれから出てくるものと思っていた。ところが本書で振り返って、どうやら違うようだ。

 世界初の家庭用ゲーム機Odysseyが発売されたのが、1972年。以降、2010年の初頭ぐらいまでの、家庭用ゲーム、携帯ゲーム、筐体ゲーム、PCゲームが発売年順に並んでいる。対応機種やジャンルと併せて、スクリーンショットも掲載しており、強烈に懐かしさをかき立てる。一方で、自分が熱中していたゲームが「クラッシックゲーム」扱いされてガクゼンとする(「懐メロ」と一緒やね)。

 「スペースインベーダー」、「パックマン」といった伝説級はもちろん、ドラクエ・FFといったRPG、ストII・VF・鉄拳の格闘モノ、リッジやBOPといったレース、DoomやHaloのFPS、マリオ・ソニック・ゼルダの定番、DDRやパラッパなどの音ゲーなど、およそ思いつく名作ゲームは全部あるといっていい。「シェンムー」や「シーマン」といった"お騒がせ"したものや、よくぞ入れてくれたと感涙モノの「クロノ・トリガー」「R-TYPE」を見てるだけで胸が熱くなる。

 20年30年というロングスパンで見ると気づかされる、セガは時代を先取りすぎや…また、最初の頃はグラフィックもシステムも知名度も、日本のゲームが群を抜いていたのが、年を追うごとに海外勢に埋もれていく。さらにこれからは、iPhoneアプリやFacebookのソーシャルゲームが席巻していくのだろうか。レイトン教授の人狼モドキなんて伸びていきそうだ。

 逆に、この本に教えられたことも沢山あった。ドリキャスにトドメを刺した「シェンムー」に続編が出ていたとは知らなかったし、あの「人喰いの大鷲トリコ」が未だにリリースされていないことを知って驚く。出たらPS3ごと買いだな(+アンチャーテッド)。零シリーズの評価が高いらしいが、未プレイだった(サバイバルホラー好きなのに)。激賞されている「魔界戦記ディスガイア」は未プレイだったのでPSPで手を出してみるか。他にも、「ベヨネッタ」「犬神」など、未プレイだったのを思い出させてもらう。ある意味危険な本でもある。

 ただし、注意を要するのは、これはアメリカ人が編集したこと。隠れた名作やゲームの歴史を塗り替える傑作まで、網羅性を目指しているものの、どうしても偏りが出る。どころか、(意図的か無知かによる)モレヌケも生じる。日本人とのセンスが違うのか、それともわたしがマイナーなのか…

 例えば、Wizardoryシリーズや、Y'sシリーズ、三国志シリーズ、大戦略シリーズは、充分資格ありなのに選外。また、「ノベルゲーム」というジャンルそのものが無い。黎明期の「テキストアドベンチャー」に該当するいくつかはあるが、あくまで初期マイナーとして。「かまいたちの夜」や「EVER17」「ひぐらしのなく頃に」なんて傑作の類に入るのに(やはりマイナーなのか?)。「ギャルゲー」は難しいところだが、一切無い。「プリンセスメーカー」や「アイドルマスター」、「ラブプラス」はゲームとの付き合い方を変えてしまった作品だと思うぞ。

1001games も一つ、注意が必要なのは、広辞苑レベルの扱いにくさ。このデカさは書影だと分かりにくいので以下をどうぞ。鈍器並みの殺傷力を持っていることが分かるだろう。これこそiPadで欲しかった。7000円超える本書は、原書(1001 Video Games You Must Play Before You Die)だと2600エンぐらいで手に入るが、扱いにくさは一緒だろう。こういうのは持ち出して、飲み屋でワイワイ言いながら懐かしがるものだから(ついでにニコニコへ飛びたくなるから)ね。

Photo

 数えてみたら、本書で紹介されている中でわたしがプレイしたことがあるのは、以下の105本だった。

1970s

  • スペースインベーダー(タイトー)
  • ギャラクシアン(ナムコ)
1980s
  • パックマン(ナムコ)
  • ドンキーコング(任天堂)
  • STAR WARS(Atari)
  • フロッガー(コナミ)
  • ドラゴンズレア(Cinematronics)
  • ディグダグ(ナムコ)
  • ゼビウス(ナムコ)
  • ハイパーオリンピック(コナミ)
  • スパルタンX(アイレム)
  • 空手道(データイースト)
  • パックランド(ナムコ)
  • 戦場の狼(カプコン)
  • グラディウス(コナミ)
  • スーパーマリオブラザース(任天堂)
  • テトリス(Alexey Pajitnov)
  • ダライアス(タイトー)
  • アウトラン(セガ AM2)
  • ドラゴンクエスト(エニックス)
  • スペースハリアー(セガ)
  • スーパーハングオン(セガ)
  • R-TYPE(アイレム)
  • 大魔界村(カプコン)
  • シムシティ(Maxis)
  • ヘルツォーク・ツヴァイ(テクノソフト)
  • ポピュラス(Bullfrog Productions)
  • ストライダー飛竜(カプコン)
1990s
  • クラックス(Atari)
  • R-360(セガ)
  • ボンバーマン(ハドソン)
  • コラムス(セガ)
  • シヴィライゼーション(Microprose Software)
  • ソニック・ザ・ヘッジホッグ(セガ)
  • ゼルダの伝説 神々のトライフォース(任天堂)
  • ドラゴンクエストV(チュンソフト)
  • ファイナルファンタジーV(スクウェア)
  • ソニック・ザ・ヘッジホッグ2(セガ)
  • バーチャレーシング(セガ)
  • ウルティマVII(Origin Systems)
  • ストリートファイターII(カプコン)
  • ミスト(Cyan Worlds)
  • デイトナUSA(セガ)
  • リッジレーサー(ナムコ)
  • バーチャファイター(セガ)
  • 鉄拳(ナムコ)
  • Doom II:Hell on Earth(id Software)
  • ファイナルファンタジーVI(スクウェア)
  • タクティクスオウガ(Quest)
  • バーチャコップ2(セガ)
  • クロノ・トリガー(スクウェア)
  • セガラリー・チャンピオンシップ(セガ)
  • ガーディアンヒーローズ(トレジャー)
  • ナイツ(Sonic Team)
  • バイオハザード(カプコン)
  • パラッパラッパー(七音社)
  • タイムクライシス(ナムコ)
  • ザ・ハウス・オブ・ザ・デッド2
  • I.Q.(ソニー・コンピューターエンタテインメント)
  • グランツーリスモ(ポリフォニー・デジタル)
  • シャイニング・フォース(キャメロット)
  • バーニングレンジャー(Sonic Team)
  • ダンス・ダンス・レボリューション(コナミ)
  • 電脳戦機バーチャロン(セガ)
  • パンツァードラグーン(チーム アンドロメダ)
  • バイオハザード2(カプコン)
  • ソニックアドベンチャー(Sonic Team)
  • ゼルダの伝説 時のオカリナ(任天堂)
  • サイレントヒル(コナミ)
  • シェンムー(セガ)
  • シーマン(ビバリウム)
  • スペースチャンネル5(United Game Artists)
2000s
  • バイオハザード コード:ベロニカ(カプコン)
  • ファンタシースターオンライン(Sonic Team)
  • 罪と罰 地球の継承者(トレジャー)
  • ゼルダの伝説 ムジュラの仮面(任天堂)
  • バルダーズゲート2・ダークアライアンス(Snowblind Studios)
  • デビルメイクライ(カプコン)
  • サイレントヒル2(Team Silent)
  • ピクミン(任天堂)
  • クレイジータクシー(ヒットメーカー)
  • ソウルキャリバーII(ナムコ)
  • ゼルダの伝説 風のタクト(任天堂)
  • アヌビス Zone Of The Enders(コナミ)
  • Zuma(PopCap Games)
  • ドラゴンクエストVIII(レベルファイブ)
  • 塊魂(ナムコ)
  • ピクミン2(任天堂)
  • ぷよぷよフィーバー(Sonic Team)
  • 脳を鍛える大人のDSトレーニング(任天堂)
  • ゴッド・オブ・ウォー(ソニー・コンピュータエンタテインメント)
  • おいでよ どうぶつの森(任天堂)
  • ワンダと巨像(Team Ico)
  • バイオハザード4(カプコン)
  • The Elder Scrolls IV:オブリビオン(Bethesda Game Studios)
  • ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス(任天堂)
  • ポケットモンスター ダイヤモンド・パール(ゲームフリーク)
  • バーチャファイター5(セガ AM2)
  • Wii Sports(任天堂)
  • メトロイドプライム3コラプション(任天堂)
  • Wii Fit(任天堂)
  • バーンアウトパラダイス(Criterion Games)
  • Dead Space(Electronic Arts)
  • 大乱闘スマッシュブラザーズX(任天堂)
  • バイオハザード5

 おまけ。この中で、わが「ベストゲーム」を5つ挙げるなら、以下になる。最もプレイ時間を費やし、最も熱中し、最も胸が熱くなるやつ。ハード指定で、リメイク、移植されたものはバランスが変えられているので論外。

   タクティクスオウガ 【SFC】
   ヘルツォーク・ツヴァイ 【MD】
   ゼルダの伝説 時のオカリナ 【N64】
   R-TYPE 【筐体】
   ワンダと巨像 【PS2】

 タクオは、70時間超×4回やった(もちろんカオス→ロウ→ニュートラルの順にクリアして、もう一度カオスだ)。寝食忘れて死者の宮殿をさまよったが、SFCなら再プレイしたい。ヘルツォークは知られざる傑作。一見シューティングなのに、戦略性と高度なマネジメントを要求される、シビアーなゲーム。WiiかXboxでダウンロードできる日を首長くして待ってる(or このためにMDを買ってもいい)。R-TYPEは2周するまでやりこんだが、Xboxのダウンロード版では戦艦で早くも撃沈、鈍ったな。ゼル伝は来週が楽しみすぎる。ワンダと巨像(とICO)ともども、子どもにやらせたいゲーム。

 そう、「子どもに読ませたい必読書」ではなく、「子どもにやらせたい必須ゲーム」がある。いい本は放っておいてもそのうち出合うが、いいゲームは導きが必要。しょうもないクリックゲーに時と金を吸い取られるよりも、とーちゃんが教えてやろう、人生を一変させるスゴゲーを。

ゼルダの伝説 プレイ・オア・ダイ級のゲームが1001本、まずはDragonAgeからいくか、それとも来週発売のゼルダ新作から攻めるか、あるいは来月発売のオブリビオン新作にしようか。まだまだ死ねないなw

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雲マニア必携「驚くべき雲の科学」

驚くべき雲の科学

 雲フェチならずとも魅了される。

 オッサンになっても空を見るのは、いつまでたっても厨二だから。刻々と姿を変える層雲のうねりに魅入り、巻雲の高みを想像して地べたの自分を見下ろしたり、いろいろ遊べる。デカい低気圧(必ずしも台風に非ず)がやってくるとわけもなく興奮し、取乱し、窓を開けて空を見る。雲マニアまでいかないけど雲好き。そんなわたしが大興奮した写真集。

 奇妙な雲、めずらしい雲、レアな空の現象を集めているのだが、「雲」っぽくない。理由は、撮った場所にある。山頂や飛行機の窓、はたまた人工衛星から撮影した「雲」は、別の何かに見える。たとえば、太平洋上の層積雲は、雲というより、洋上を浮遊する氷棚に見える。ちょうど割目が氷のそれとそっくりなのだ。圏外から大気を眺めると、雲と地球の距離はほぼ無いに等しい。薄い膜(殻?)のような存在になる。

 バラエティー豊かな雲を眺めていると、そこが空であることを忘れてしまう。レース編みのようなカルマン渦の雲や、色合い・質感ともに「おっぱい」に見える乳房雲は、とうてい雲に見えない。何か生き物の細胞を拡大したような像だ。本書ではレンズ雲は「めずらしい」うちにはいらず、それは見事なレンズ雲がふんだんに出てくる。見事なやつだと、アダムスキー型未確認飛行物体まんまだ。真珠母雲の虹色は真珠よりもシャボン玉に見える。

 信じられないような雲もある。ハリケーン・カトリーナの"内側"を撮ったものは、地球のものとは思えない光景だし、命の危険を顧みず写したスーパーセル・サンダーストームは、まどかマギカの「ワルプルギスの夜」そのもの。音速を突破する戦闘機の衝撃波を撮った「雲」は有名だが、失速した戦闘機の主翼にあわ立つようなウィングクラウドは、まるでそこだけ水中のようだ。そして、画像だけでなく、「なぜそういう現象が起きるのか」「どんな天候の変化が予想されるか」を説明してくれるのはありがたい。

 こうした映像モノは、ネットのほうに分がある。雲フェチの集う以下のサイトをどうぞ。癒されるか、瞠目するか、時を忘れることは確か。

THE CLOUD APPRECIATION SOCIETY

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「V.」はスゴ本

 取り囲まれ、振り回され、小突き回される、疾走・爆笑・合唱小説。

V1V2

 鼻をつかまれ引きずりまわされる。ジェットコースターに腹ばいに縛り付けられグルグル連れて行かれる(もちろん逝った先で放り出される)、この宙ぶらりんの射出感はキモ良い怖い。

 全方位に伸びるエピソードとウンチク、隠喩、韻踏み、奇談と冗談、伝説と神話といかがわしい会話の妙。声と擬音と狂態に、もみくちゃにされ、ふらふらにされ、もうどうにでもしてーと全面降伏する読書。次々と繰り出される挿話を正しい時間軸で再構成するのに一苦労し、多重にめぐらされた人物のつながりを手繰るのに二苦労する。

 これがポリフォニーなら分かる。ドストエフスキーのどんがらがっちゃんだ。おのおの言いたいことを一斉にしゃべり散らす「わわゎ~」は、うまくハーモナイズされると、勢いやら心地よさが生まれる。だが、「V.」はソロ演奏のとっかえひっかえがハウリング→ハーモニーに至る。つぎつぎと焦点が切り替わり、話者が代えられ、時を跳躍し、倫理感覚と予備知識のレベルがめまぐるしく上下する。そして、結節点として「V.」なる女の存在が瞬間(!)浮かんで輝き沈んでゆく様は、エピファニーまんまやね。

 この「V.」が誰であるか(何であるか)は、読んだ人の前に立ち現れる。ほんとうだ、「○○こそV.の正体だ」なんて指さず、でもV.が何であるか(誰であるか)はちゃんと記述される。要はそれを信じるか・信じないかだ。どこまで話者のいいなりになるかによって、V.の存在は変化自在となる。わたしは面倒だから全部信じたが、疑い出すとめちゃめちゃ厳密な読みを要求されそうだ。

 これが全体小説なら分かる。ジョイスやプルーストのあれだ。人の生きる総体的な現実をひとつの作品にぎゅうぎゅう押し込む。ところが、「V.」は特定の人の現実よりも、人のなす業(というか行動と思考を)めいっぱい詰め込もうとする。ニューヨーク地下で白子のワニを撃ち殺すこと、ドブネズミ(雌)をカソリックに改宗させること、亡父の残した日記に隠された暗号を解くことと、鼻骨をノミで削った奴の子を宿すことを全部押し込む。"あの世界"全体を詰め詰めしたパンパンのスーツケースの状態で、ロックを外したらバン!いちどに飛び出してくる"全部入り小説"になる。

 だから、「きちんと」「じっくり」を放棄して、ひたすら次から次へと出てくる料理を平らげるような読書。これ、果たして「読んだ」と言えるのか?(すげェ面白かったけど)。この疾走満腹感は「ヴァインランド」の一頁ごとに登場人物が入れ替わり立ち代りするさまになるし、ギガ盛り物語は「メイスン&ディクソン」で激しく既視してる。ああそうか、「V.」はピンチョンのデビュー作なんだよね。だからまだ入りやすい(かも)。

 登場人物は例によって200人は下らない。「主要」登場人物でも数十人だろう。いちいち覚えてられないのに、これまた脇役がこってり熱いイベントを引き起こすのであなどれない。「ヴィーナスの誕生」を盗み出す緻密な計画を、豪快に指揮する革命家とか、究極の自己愛を目指すあまり生命と無生命の、人間とフェティッシュの交換を果たすレズビアンなんて、ものすごく魅力的なキャラクターだ。それだけで一つの物語が作れてしまうのに、脇話として惜しげもなく消費する。

 そう、これは巨大な無駄話なのだ。普通の小説に仕立て直すなら、何百ものストーリーやキャラクターに小分けできるだろう。だが、われらがピンチョン、そんなケチなことはしない。贅沢にも一つに叩き込む…というか湯水のごとく、どくどく放流する。

 しかし、やりっぱなし・出しっぱなしではない。もつれあい、きしみあい、炸裂するストーリーは、楕円のように2つの焦点に収斂していく。だから、この2人を視野に入れておくと、ラクにイケる。デブなダメ男(なぜかモテる)ベニー・プロフェインと、V.を探し求めるシドニー・ステンシルだ。物語がドシャメシャに降り注いでいると思いきや、ちゃんと役割分担されている。

 つまり、プロフェインは空間軸を、ステンシルは時間軸を移動するように紡がれているのだ。仕事を探したり、女から逃げ出すため、プロフェインがヨーヨーのように移動するとき、物語は前へ進む。一方、ステンシルが世代を渡ってV.の謎に近づいたり遠ざかったりするとき、物語は前へ進む。そうでないものは伏線+挿話だと見ればいい。ただし、ステンシルが焦点のときは注意が必要だ。父ステンシルの回想記から始まり、息子ステンシルの妄想へつながり、誰がしゃべってるのか分からない"ステンシルの話"になるから。どこまで信じて良いものやら"つじつま"が合わなくなる。

 タイミングがそうだからプロフェイン=ステンシルが物語の駆動者かと思いきや、違う。物語は回転しており、自分の遠心力や求心力で軸がブレてズレて転がっていく。プロフェイン=ステンシルも物語に小突き回されているのだ。この物語は、自分自身を駆動力としてロックンロールしている。

 あけすけで杜撰で、ワイルドで精密。ロジカルで騒々しく、コミカルで生々しい、ピンチョンの世界へようこそ。

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ぐっと胸が温まる「レイモンド・カーヴァー傑作選(Carver's Dozen)」

カーヴァーズ・ダズン 村上春樹と池澤夏樹に感謝。

 優れた小説家の仕事は、小説を書くだけでは不十分で、他の作品を紹介することにある。優れた書き手は、優れた読み手でもあるから。池澤夏樹の小説はもう読まないが、彼が選んだ「世界文学全集」は鉱脈を見つける助けになった。村上春樹の小説はもう読まないが、彼が訳したレイモンド・カーヴァーのこの短篇集は素晴らしい。

 出会いは、池澤夏樹が「短篇コレクションI」に入れた「ささやかだけど、役に立つこと」。これはグッとくる、というか涙した。これほど平易な言葉で、これほど深いところまで届くのか、と驚きながら湧いてくる気持ちに感情を委ねた。

 乾いた文体でレポートされたような"悲劇"。感情を具体的な語で指さず、淡々と行動で記録してゆき、ラストの最後の、「ささやかだけど、役にたつこと」のところで綿密に描写する。そのワンシーンだけが読後ずっと後を引くという仕掛け。これは狙って書いて、狙って訳している。レイモンド・カーヴァーと村上春樹、神業なり。

 この、翻訳者としての村上春樹つながりで、「Carver's Dozen」にたどりつく。もちろん、本書に収められた「ささやかだけど、役に立つこと」もあらためて読んだ。夏樹選のバージョンよりも文章が膨らんでいるように見えるが、気のせいか。

 そして春樹選のレイモンド・カーヴァーを読む。選者自身が「マスターピース」と言い切るだけあって、どれもこれも素晴らしい。あんまり勉強ライクに分析するのは避けたいが、技巧の旨さに舌を巻く。小物やエピソードの一つ一つをとりあげ、必要な細部を拡大しながら、かつ、修飾を捨てて書いている。クローズアップやフラッシュバックのテクニックが控えめ(しかし)要となっている。

 紹介者としてのハルキ節も良い。いかにも彼の小説の登場人物が言いそうなもったいぶった言い回しでオススメされるとクラっとくる。修飾子のリズムが心地よく、本編読了後にまた戻って読み直してしまう。このレコメンドの風合いはわたしの薬籠にしたい。

しかし話はこの「困ったぷり」を描くいつものカーヴァレスクなトラジディコメディーにはとどまらない。ふとしたきっかけで、物語の流れは二人の「赤の他人」のあいだに生じる奇跡的な魂の融合のようなものへと突き進んでいく(「大聖堂」の紹介)
幸せな人間は一人も出てこない。だからまったくもって明るい話ではないのだけれど、どういうわけか読み終わったときにじわっと胸が温まる思いがする(「ぼくが電話をかけている場所」の紹介)
 わたしの胸をつかんだのは、以下の3つ。構成、描写、そして物語として傑作の類に入る。

 ・ささやかだけど、役にたつこと
 ・大聖堂
 ・足もとに流れる深い川

 カーヴァーを読むと、きっと胸がじわっとくる。そろそろ、この現象に名前をつけるべき。寒い夜にはカーヴァーをどうぞ。

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どうせなにもみえない

どうせなにもみえない

 写真よりもリアル。諏訪敦絵画作品集。

 図書館で一目惚れ、4回借りて取り憑かれた。だから買った。舐めるように見て飽きず、目が広がった。

 対象をリアルに写し取るのであれば、それは機械の仕事だ。だが、対象をいかにリアルに近づけるかは、人の仕事だ。諏訪敦は写実を極めるが、実は対象は存在しない。不在の写実って、それだけで矛盾してる。だが、もしそこにあるのなら、そうあるはずだという想像のいちいちを裏付けるように描く。つまり、あるように描く。

 ヌードを描くなら、ひじから肩の"しみ"の一つ一つを、乳輪の突起の凹凸を、捩れた陰毛と真っ直ぐなのを一本一本、脱いだばかりの下腹部についた下着跡まで描いてある。貌なら産毛の一本一本、潰れたにきび跡、ファンデーションの微小な輝きの欠片まで見える。死顔の、開き気味になった唇の端がくっつく様子や、薄い皮膚を透かした腱と老斑の乾いている感覚が、さわるようだ。どこまで細かくみても、あるように描いてある。大型の画集なのだが、どんなに目を近づけても、ちゃんと「見える」。貌・肢体・皮膚・体毛は、どんなに微分しても連続性を保つ。

 実際の絵は「巨大」といってもいいほどらしい。だから画集に縮めた精密度はハンパじゃなく、目を凝らした程度では解体され得ないのだ。肖像画を描いてもらった古井由吉さんは、こう言いあてる。「写実はそれ自体、いくらでも過激になりうる。そのはてには、写すべき『実』を、解体しかかるところまでいく」

 「わたしゲーム」を思い出す。「わたしゲーム」とは、わたしが名付けたもので、「どこまで切ったら『わたし』じゃなくなるか」という思考遊戯。わたしの頭髪を一本抜いても、わたしは『わたし』のままだろう。逆から考えると、わたしの頭を一個抜いたら(一個しかないがw)、生き物としても姿かたちとしても『わたし』たりえない。だから、この間を微分していくなら、頭髪一本から頭一個の間に『わたし』が存在することになる。

 諏訪は、この微分を許さない。髪一本抜くことも許さない執念のようなものが見える。写される「実」は解体可能だが、写実そのものは手のつけようのないほど「そのもの」になる。にもかかわらず、これが絵であることを主張する。描きあげた最後に、何か飛沫が散った跡や、微粒子のようなものを混ぜ込む。これが絵である証拠を執拗に残そうとするのだ。リアルよりも実物に近く、それでいて絵である側にいようとするのだ。

 「どうせなにもみえない」はいくつかの連作でver.を持つ。そのモチーフは、裸の女だ。骸骨の眼窩をまっすぐ覗き込んだり、一眼レフのファインダーを構えたりしている。女の視線の先に共通するものは、「写されているもの」だ。カメラであれマナコであれ、写されているものをどんなに見たって、「どうせなにもみえない」のかもしれない。

 見るより魅入られるべし。

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完璧な小説「モレルの発明」

N/A

 いまなら分かる、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛した理由が。

 なぜなら、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという驚くべき小説なのだから。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた、SF冒険小説として読むと、ただの面白いお話になるのだが……あらすじはこうなる。

絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……

 どうやら、彼ら来訪者たちに、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、来訪者たちは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。

 この秘密そのものは、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的なのだ。それは、「わたしは、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。

 「パーティを続ける来訪者と、それを見つめる《私》との関係は、」を見つめる《私》と、それを読み進めるわたしと鏡像関係にある。つまり、ちょうどページが鏡のように、以下の等式の間に立っている。

      来訪者 : 《私》 = 《私》 : 読み手

 この関係から、わたしが抱いている他者性に一撃を食わせる。《私》が見るのをやめれば、『彼ら』は不在となるし、読み手であるわたしが読むをやめれば、《私》は不在となる。これは、他者を他者たらしめているのは、ほかならぬ自分自身であるという事実を突きつけてくる。

 解説によると、「モレル」の発明は、「モロー」博士のオマージュなのだそうだ。人を人たらしめている根拠に一撃を食わせたのは、ウェルズの「モロー博士の島」だ。絶海の孤島で続けられる恐ろしい実験は、「人を人扱いする理由は、他ならぬ自分がそう認めているからにすぎない」という事実を突きつける。そして、自分が「人」として見えなくなったとき、文明や都市はモロー博士の島と化す。

 「モレルの発明」は、他者を他者たらしめるのは、自分自身であることを指摘する。そして、「モロー博士の実験」は、人を人たらしめるのは、自分自身であることを指摘するのだ。

 本当の他者というものは存在するのだろうか。語り手であれ読み手であれ、主体と関わりあって、初めて他者が「人」として立ち上がってくるのではないか。実存は本質に先行するサルトル云々を持ち出さなくてもよい。「プリティリズム・オーロラドリーム」や「輪るピングドラム」を観ればいい。あそこに出てくるモブキャラ(mob character)は、完璧にデフォルメされている。群集や背景として抽象化されているくせに、動いたり話しかけたりしてくるのが新鮮だ。しかし、登場人物に関わらない限り、他者にすらなれない。

 「致死量ドーリス」というコミックがある。美しい女がいて、知的で痴的で、狂気と貞淑と奔放をそれぞれ見せる。対する男は、自分が望んだ性質を彼女に投影して愛する。男に応じて性格を使い分けるのではなく、都合のいい"女"を(彼らが)彼女から汲み取るのだ。「だれも本当の彼女を知らない」って話なのだが、そこが要点ではない。

 むしろわたしたちを確かにしてくれるのは、愛なんだということ。現実を微分しても、そこには「奔放な女」や「サイケな女」が断片的に現れるだけだ。モブキャラが「板」っぽく見えるのは、微分された一つのキャラクターだけが割り当てられているから。

 しかし、そこに興味が好意が愛情が湧いて出るとき、拡張現実は現実になる。3DSになってもラブプラスは幻影かもしれないが、寧々さんへ愛は本物だ。オクタビオ・パスは、「愛は特権的な認識」と喝破する。「美しい水死人」の解説に、こうある。

肉体というものは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである。

 わたしも含め、影でしかない存在が現実と関わっても、残すものは幻でしかない。それでも、関わろうとする情熱を支えているのは愛なのだ。表紙のフォスティーヌと、裏表紙の《私》の奇妙な関係が分かるとき、あっと驚くかもしれない(そしてきっと、二度じっと見るはずだ、表紙と裏表紙を)。だが、それでも関わろうとする《私》は、たしかに現実を認識しているのだ―――わたしという読者が見ている存在とは独立にね。

 そして、本を閉じても、この思いはいつまでもわたしから離れない。わたしが読んでいなくても、《私》は続く。《私》が「モレルの発明」を知ってしまったように、わたしが「モレルの発明」を読んでしまったのだから。

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料理を好きに自由にする「料理の四面体」

 読んだら覚醒した。料理が好きに自由になるスゴ本。

 たとえばオレンジページの「絶品ベスト20レシピ」があるとしよう。すると、その20品しか作れない。20だって凄いのだが、いかんせん替えが利かない。食材や調味料が欠けると作れない。つまり、わたしにとって料理とは、「レシピ通りに切ったり火を通すプロセス」に過ぎなかった。

 それだけでない。実は、本書に出会う前に、衝撃的な料理を食べた。

 一つは「大根のコンソメ煮」もう一つは、「白菜サラダ」だ。「大根のコンソメ煮」は、面取りした大根をコンソメスープでひたすらぐつぐつ煮込んだやつ。「白菜サラダ」は適当に切った白菜にドレッシングをかけたやつ。

 なんだぁフツーと言うなかれ。わたしがガツンとやられたのは、「大根は出汁+醤油か味噌で」「白菜は鍋物」しかなかったから。大根とは根菜だから人参や玉葱と一緒だから、コンソメ煮も美味しい。白菜とは葉物だからサラダになる←そういう発想がなかったことにガツンとやられた。クックパッドかレタスクラブあたりでこのレシピに出会ったら驚かないだろうけど、問題は、その発想に驚いているわたし自身にある。

 そして、本書のトドメの一撃になる。

 料理とは、振付け通りに踊るキッチンのダンスにすぎず、料理上手とは、いかに振付けを完璧に再現できるかだと思い込んでいたわたしは、この薄い文庫で、木っ端ミジン切りにされた。

 本書の本質はこうだ。要するに、料理ということは、道具や調味料の差異はあれ、「空気」「水」「油」という要素が「火」の介在によって素材をいろいろな方向へ変化させることだと喝破する。それぞれを頂点とした四面体を考案し、あらゆる料理はその四面体のどこかに位置するというのだ。そして、ある料理が占める一点を動かすことにより、違った形の料理へと導くことができるというのだ。

Photo

 この四面体を腹に落とすために、世界中のさまざまな料理の「本質」を換骨奪胎(文字通り!)してくれる。冒頭の「アルジェリア式羊肉シチュー」が、「コトゥレット・ド・ムトン・ボンパドゥール」に変換され、さらに「ブフ・プルギニョン」から「豚肉の生姜焼き」に一気通貫する様は鳥肌モノ。

 それぞれの皿の相違点ばかり見つめていると、それらの料理は相互に関連のない別物になる。だが、本質を射貫くと、実はひとつの料理なのだということが分かる。ひとつの本質が、時と所に応じて風土ごと様々に異なる姿を見せているだけなんだということに気づくと、次の料理が格段に広がってくる。言い換えると、料理のレパートリーが、ぱあっと広がる。料理の一般原則を「手が探し当てていく」状態になるのだ。

 そうすると、経験から類推したケースが「いま」「ここ」の目の前に当てはめて、どう「入替え」「アレンジ」していくかの話になる。もちろん唐揚げをチキン南蛮か油淋鶏にするぐらいの頭はあるが、唐揚げをフリッターや「グルテン質で肉汁を閉じ込めた料理」にまで抽象化するようになる。料理本はインスピレーションのヒント集になる(もちろんレシピ通りにつくるワケない、味強すぎるから)。そうした"年季"が要る仕事が、一冊で手に入る。オーソドックスに時間かけて試行錯誤するよりも、これ読むほうが特急電車ナリ。

 ただし、料理を職業とする人からは、かなりの酷評をもらっているらしい。料理の原理原則に迫るあまり、枝葉をバッサリ斬ってるから。確かに牽強付会じみている(でも本質)なトコもあり、干物とは太陽に炙られたグリルだといい、サラダの語源が「塩味がつけられたもの」だからあらゆる料理はサラダになるという。著者も分かっているようで、「料理の原理は簡単だ、といったのであって、料理をつくることが簡単だといっているわけではない」と弁解しているのが可愛らしい。

 また、この「料理の四面体」で全ての料理を包括できると言い切るモノの、人類が冷蔵庫を手に入れてから発明したデザート、「アイスクリーム」が入っていない点や、煮こごりといった、(室温より)マイナスの温度を応用した料理が入っていないなど、穴もある。しかし、だからといって本書の価値はいささかも減らない。

 なぜなら、料理の本質は、「おいしくする」そのものにあるのだから。そしてそのプロセスは、何億回もくり返されて「見える」状態になっているのだから。プロフェッショナルではないわたしにとって、料理とは、「組み合わせ」なのだから。

 選んで、育てて、頼りたいスゴ本。

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恐怖なしに生きる

 恐怖なしに生きる、そんなことが可能だろうか。

 わたしが恐怖を抱いているもの───家族を亡くすことや、健康や職を失うこと、その基盤自体が災害や戦いで破壊される不安から、自由になれるのか。もっと引きよせて、仕事で失敗して降格されるとか、痴漢と間違われるとか、個人情報が悪用されたんだけど人に言えないようなサイトからだから泣き寝入りするしかないとか。肉体的、精神的な打撃への"おびえ"をなくせるのか。

 クリシュナムルティは、できるという。

 この一冊を賭けて、くりかえし述べている。手記、詳論、対談、インタビュー、手を変え品を変えて同じテーマ「恐怖なしに生きる」ための問いかけを続ける。非常に興味深いことに、アプローチは「怒り」と一緒なのだ。

 順番に言おう。クリシュナムルティによると、最初に自問すべきは「恐怖とは何か」「それはどのように起こるのか」なんだと。わたしが何を恐れているかがテーマになるのではなく、ずばり恐怖の本質とは何か、これを問うのだ。

 恐怖の本質とは、不確実なことへの心の動き。わたしたちが人生を送る際、拠りどころとなるもの、思考の型や生活様式、信条や教条、常識(と信じているもの)……これらが乱されたり揺らいだりすると、未知の状態が生ずる←これが厭なのだという。不確かな別のパターンを作り出すことを、わたしたちは拒もうとする。その心の動きを、恐怖と呼ぶというのだ。

 確かにそうだ。出発点は「わたし」に属するもの───家族や友人、同僚との関係において、あるいは過去から連続する「わたし」を変えようとするものに恐怖を感じている。それは「周囲の評判」だったり「痛みのない日常」だったりする。過去から現在に至る日常性や、信じていることへの揺さぶりが、失望や不安と呼ばれる。そして失望や不安に対する思考こそが恐怖を生み出している。つまり、恐怖というのはそうした思考を続けるわたし自身のことになる。

 だから、恐怖に「打ち勝つ」とか「克服する」というは正しくない。恐怖を、なにか別の存在として定義し、それに対してあれこれするというのはありえない。それらは、「恐怖をもたらすもの」とわたしが決めていることへのアプローチなのだから。その闘いは死ぬまで終わらないだろう。なぜなら、「恐怖をもたらすもの」の一つを除いたところで、また別の「恐怖をもたらすもの」が生じるのだから。極論言うと、「わたし」を消さない限り続くゲームになる。

 ではどうすれば、恐怖から「自由になる」のだろうか。このアプローチが、「怒り」への対処と一緒になる。すなわち、「注意深く観察しろ」になる。

 いっさいの抽象概念をもたずに、恐怖そのものを見つめる。「○○が怖い」の「○○」ではない、「怖いとは何か」「怖いと感じるとき、わたしの中で何が起きているのか」を丹念に眺める。この集中しているとき、見ている時間と、見られている空間はゼロになる。一体化する。

 これは、怒りが生じたとき、怒りを観察せよという教えと一緒。怒りをごまかしたりカモフラージュしたりせずに、まざまざと観るのだ。そして観られた瞬間、怒りは消える(やってみると分かる、事実だ)。クリシュナムルティは、恐怖に名前を付けずに、「恐怖」という言葉もまったく使わず、ただ観察せよという。これは「怒り」について応用できる。

さらに、「怒り」がエゴイスティックな感情であるのと同様に、「恐怖」もまた然りであることに気づく。仮にわたしが子を失ったら、その悲しみの大部分は、「もう二度とわが子に会えない」ことに費やされるだろう。若くして死んでいった子どもの無念さよりも、"わたし"の感情が可哀想だから泣くのだ。今はまだ、おっかなびっくりだが、ここまで深いところに理解が至ったのは嬉しい。わたしは、この本でわたしのエゴと向き合うことができたのだから。

 クリシュナムルティは、本書で、もっと先へ行く。喜びや苦悩をひっくるめた人類の意識を共通化してみせ、その一端がわたしなのだと示す。まるでジョン・ダンの「誰がために鐘は鳴る」(≠ヘミングウェイ)を彷彿とさせる人類感覚だが、そこまではついていけなかった。

 エゴと向き合い、エゴとつきあう一冊。

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大化けした「ゴヤ」がスゴい

 上野のゴヤ展の予習として読んだらぶッ飛んだ。

 庶民出身の、サラリーマン絵師だったゴヤが、どうやって伝説へ大化けしたかをつぶさにたどると、近代革命史あり、宮廷の権謀術数あり、どん底からの這い上がりど根性物語あり、なんでもありのスゴい伝記と相成る。ゴヤの作品と生涯をタテ軸に、同時代のスペインとヨーロッパの激動をヨコ軸に読み進めると、「ゴヤ」という名の人間ではなく、これらの化学反応により生み出された怪物のごとく見えてくる。

ゴヤ1ゴヤ2
ゴヤ3ゴヤ4

 わたしの悪いクセなのだが、一人の天才に焦点を当てると、その最高傑作だけに眼が奪われ、そこに至る紆余曲折や失敗プロセスの一切を、無かったことにしてしまう。そして、その天才を神格化して崇め奉ってしまうのだ。同じ轍を踏んでる発言の感嘆符(!)を眺めると、連中の崇め奉りたい欲求にジワジワくる。

 その天才は、そう呼ばれる前にやっつけ仕事もたくさんこなし、身過ぎ世過ぎしてきたはず。意に沿わぬ仕事も受けなければならないし、嫌なおべんちゃらも吐かねばならぬ。時には目上のタンコブを引きずり下ろし、慣れない政治にも手を染めねばならぬ。そういう「あがき」や「もだえ」が人臭く、凄い勢いで親近感が湧いてくる。

 ゴヤは、出世欲と自己顕示欲の塊だったという。どぎつくて、濃厚で、露骨で、脂にみちみちて、どこまでもぎらついた存在だったそうな。王の注文で描いた絵の隅に、家臣として自画像を書き込んだり、40年の結婚生活で妻を20回も妊娠させたりと、著者曰く「エゴイストで恥知らずの牡馬」なのだと。

 それでいて、時の権勢に従い、仕事も生活も合わせようと努める、大勢順応主義者(コンフォルミスト)だったという。ときにロココ調、ときにリアリズム手法を発揮し、いきなり新古典派に戻ったり、ロマン派に走ったり、遠慮会釈なく画調をまるっきり変えてしまう海千山千の芸術家だったらしい。著者は、あきれたり罵ったり応援したりしながら、この怪物前のゴヤを紹介してゆく。

 いちいち鼻につくのが、著者の神視点。後付けだから、様々な視座や、時間を措いた考察も含め、玩味できる。パリが火薬庫だった急転回する状況で、しかも情報入手が極めて限定的だった時代に対し、「こうすべきだった」とか「判断が誤っていた」と、分かった風な口を利くのは独尊の極みだが、その自覚が欠片もない。

ゴヤに対する非難の大部分は、単純かつ直接の非難であって、当時の事実と事情の調査の上に立っていない、と私には思われる。研究者たちの閉口頓首もまた事実調査を欠いているものが大部分である。
ということは、「オレサマだけが知っている」事実があるのだろうか?または事実への別の解釈が展開されるのだろうかと勢い込むのだが、逆説的な問いかけや、「~のはずだ」という締め文に胸が熱くなる。論文としてのロジカルさを求めてはいけない、これは、壮大なる「感想」なのだから。

 やってる当人は楽しかろう。読んでるこっちは説明がつく。だが、当時リアルに現在進行で藻掻いてた連中に、同じ人が上から"説明"することの愚かしさも感じる。「オマエは神にでもなったつもりか」と問いたくなる。歴史書や手紙から再構成した、出来合いの仮説を読み、都合よく切り貼りし、恥ずかしげもなく、「これが事実だ」と言い切る。

 そこに謙虚さは毛ほども無く、ただただ「俺様だけが知っている」と鼻をピクつかせ高らかに宣言する。その偉そう加減が(たまらなッッく!)くだらない。研究成果から取捨選択して拝借しているくせに、「コイツは分かってない」とかバッサリ斬ってるところなんて、塩野七生そっくりで笑う。物書きの不遜が齢を経てこうなるのなら、反面教師として学ぼう。わたしも同じ傲岸の岸辺に立っているのだから。

 人間ゴヤよりも、人間・堀田善衛がクサヤの干物のごとくプンプンする(ホメ言葉だよ)。それが、イイのだ。ゴヤに辟易しながら、恐れながらも、代弁者たろうとする。そこから滑り出した「俺様が語るゴヤ」が凄まじい。

 まず、「5月の3日」で驚いた。これは蜂起したマドリードの市民を処刑すべく、銃を向けるフランス兵描いたものだ―――と思っていたが、事実とは異なり、ゴヤは「伝説」を描いたんだという。著者曰く、「戦争の惨禍」を見れば、ゴヤが描いた略奪、暴行、強姦などの戦争の惨禍が誰によってもたらされたか瞭然なんだって。そこでは、「仏軍もゲリラも英国軍でさえ遠慮会釈もなくやってのけたのである」そうな。

 代わりに、中央の白く輝くシャツの大男を見よという。シャツではない、この男が大の字に振り上げている両手の、とりわけ右手の掌をよく見ろというのだ。すると、その掌に、あたかも釘で打ち抜かれて、そのまわりの肉が盛り上がったような傷跡があることを指摘する。そして、画面左端の、判別しがたい陰のなかに赤子を抱いたマリア像を見いだす。

5月の3日

 つまり、ここはゴルゴタの丘なんだって。もちろん掌の傷は聖痕で、イエス・キリストを「民族ゲリラ」の代表として看破する。植民者、帝国主義者としてのローマに挑戦し、ユダヤ民族解放のために戦ったユダヤ人の王と、スペインの民が抗フランスのゲリラとして立ち上がったことを呼応させている。

 このように、イメージとイマージュを結びつけるのが、滅法おもしろい。ゴヤの「私がこれを見た(Yo lo vi.)」に平家物語における平知盛の「見るべきは見たりけり」を重ねたり、ヨーロッパをシメントリックに挟んだ、スペインの反対側にドストエフスキーを"発見"したり、「気まぐれ」詞書に「方丈記」を引いて、鴨長明の乱世とリエゾンさせる。その視線の跳躍っぷりと思うがままの批評に感心する。

 それがホントか否かは別として、怪物的な絵に心をつかまれ揺さぶられていくうちに、見たいように見てしまうのだろう。「このモチーフはこれこれなんだけど、言いたいことはこれなんだ」などと、絵の中に入って一つ一つの象徴先を腑分けできる。これが楽しいやら戦慄するやら忙しい。静止した絵に感情や記憶が動的になるのは、そのせいなのだ。

特にゴヤの場合、普通の美術作品を見るようには見るものではなくて、それはむしろ読むものなのであらう。古典主義時代の絵画の大部分もまた図像学上の様々の約束に従って、見るよりも読むものであった。読む美術というものもまた、今日では消えうせてしまったのである。
 ゴヤは見るより読むもの―――仮に、図像学や観相学を駆使して、込められたメッセージや比喩を読み解くものであれば、その解釈は「○○学」によって定義された範囲内で共通するはず。にもかかわらず、著者をはじめ、解説する人のフリーハンドで言いたい放題だ。人によって異なるばかりか、正反対の「解釈」が生まれてしまう。なぜか?

 強弁するなら「それがゴヤのすごいとこ」と言うかもしれないが、単に前提「見るより読む」が誤っているか、ブレが大きいからになる。その図像学による解説もどこかの孫引きで散発的なので、しがみつかない程度にアテにすればいい。むしろ、自由に見ていいんだ、と勇気づけられる。ゴヤの研究者や伝記作家があれこれ書いたのを、都合よくツマんだり、バッサリ斬ったりした後、「わしにはこう見えるのだ」と断言していい。学も何もあったもんじゃない―――おそらく、わたしのこの分析は盛大に間違っている、学術書にあたれば「共通解の部分」と「解釈が割れる部分」が見えてくるだろう。ゴヤ展に行けば少しは"見える"に違いない。

 これだけゴヤと「同化」している分、ゴヤが大化けするところが圧巻だ。病苦と死の深淵をのぞき見た視線が、これまで自らの周囲に立てまわしていた「立身出世した宮廷画家」に注がれるとき、それは文字どおり「音もなく」崩れ去ってゆく。怪物前のゴヤが描いてきたもの―――牧歌、田園風景、理想化した生活情景、王族の肖像画―――のほかに、彼が決して描かなかった「現実」にムリヤリ目を向けさせる。

 「戦争の惨禍」における、裸の首、手、足を分断され、男根を切り取られて樹木に逆吊りにされた死体や、人間のやらかす所業に吐き気をもよおして「人間を」吐き出している怪獣を指し示す。わたしは単純に、フランス兵の鬼畜っぷりを告発する画だと信じ込んでいたのだが、著者は違うらしい。スペイン人の犠牲者ではなくて、スペイン愛国者にやられたフランス兵の可能性もあるというのだ。「裸に剥がれて切り刻まれた人間の国籍を誰が知ろう」とうそぶくが、過剰解釈なのか、一つの見解なのか。

 戦争は人を狂わせる。人が人に狼になれるから、残虐非道は仏軍に限らない、という主張は、その通りだろう。だが、ゴヤが何を伝えたかったかは、絵を見れば分かる。モチーフを見分ければ、それが堀田が誘導したい結論ではないことぐらい、すぐ分かる。堀田は、この行為を全人類の罪的なものにしたいらしいが、それは当人の「願い」に過ぎぬ。堀田自身、典型的なこの軍人が何人であるか何度も言及しているではないか。そして果敢に武器をとり闘っているのがどこの人であるか、くりかえし説明しているではないか。

 自分がお世話になったゴヤ伝の作家たちを振り返って、「伝記作家を信用してはならない」と言う。なぜなら、「彼らは時に"想像力を解放"してとんでもないことを書く」からだと言い切る。巨大なブーメランが見えるが、同じブレードはわたしにも向いている。一方で、こういうときだけ歴史や人類のマスクを被ろうとする偽善的態度に、ぞくぞく・わくわくする。

 ものすごいものを生み出すのは、戦争だという真理に到達する。少なくとも文学なら知っている。戦争は文学を、しかも素晴らしい文学を産む。例を挙げると、それだけで文学史が成立してしまうぐらいだ。そしてこの真理は、文学のみならず、テクノロジーだけでなく、絵画にも適用されるのかと思うと、肌が粟立つ。"かいぶつ"ゴヤを見ていると、心底おそろしい。

 深淵を覗き込む者は、警告されるのが常なのに、「黒い絵」シリーズを語る堀田は、「黒い絵」に一体化してしまう。シリーズが描かれたリビングを脳内と紙面で展開し、順繰りに読み解いていく様は、ページ越しでも鬼気迫る。我が子を喰らうサトゥルヌスの勃起が塗りつぶされたことを嬉々として伝えながら、本人もそうなってるんじゃないかと感じるぐらい勢いよく書く。

 著者と一緒に、"かいぶつ"に呑まれるべし。

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