この本がスゴい!2011
今年もお世話になりました、すべて「あなた」のおかげ。
このブログのタイトルは、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」。そして、このブログの目的は、「あなた」を探すこと。ともすると似た本ばかり淫するわたしに、「それがスゴいならコレは?」とオススメしたり、twitterやfacebookやtumblrで呟いたり、「これを読まずして語るな!」と叩いたり―――そんな「あなた」を探すのが、このブログの究極の目的だ。
昨年までの探索結果は、以下の通り。
この本がスゴい!2010
この本がスゴい!2009
この本がスゴい!2008
この本がスゴい!2007
この本がスゴい!2006
この本がスゴい!2005
この本がスゴい!2004
昨年から始めたオフ会で、たくさんの気づきとオススメと出会いを、「あなた」からもらっている。目の前でチカラ強くプッシュしてもらったり、物語談義を丁々と続けたり、楽しすぎる。さらに、今年始めたビブリオバトルで、本の魅力を「しゃべりで」伝えるヨロコビを味わっている。読書は孤独な行為なのに、こんなにも豊かにつながっているのかと思うと、嬉しいのとありがたいのが込み上げてくる。
以下の長い紹介は、今年の選りすぐり。いい出会いをくれた「あなた」への感謝の気持ちを込めて。
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│このフィクションがスゴい!2011
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2ちゃんねらが絶賛してたので読了。なるほど、「寝る間も惜しんで読みふけった」のはホントだ。
半信半疑で読みはじめ、とまらなくなる。テーマは超常現象と家族愛。これをアフリカ呪術とマジックと超能力で味付けして、新興宗教の洗脳術、テレビ教の信者、ガチバトルやスプラッタ、エロシーンも盛り込んで、極上のエンターテイメントに仕上げている。中島らも十八番のアル中・ヤク中の「闇」も感覚レベルで垣間見せてくれる。
エンタメの心地よさといえば、「セカイをつくって、ブッ壊す」カタストロフにある。緻密に積まれた日常が非日常に転換するスピードが速いほど、両者のギャップがあるほど、破壊度が満点なほど、驚き笑って涙する、ビックリ・ドッキリ・スッキリする。この後どうなるんだーと吠えながら頁をめくったり、ガクブルしながら怖くてめくれなくなったり。
オカルトとサイエンス、両方に軸足を置いて、どっちにも転べるようにしてある(そして、どっちに転がしても「読める」ように仕掛けてある)。ホンモノの呪いなのか、プラセボ合戦なのか、最後まで疑えるし、読み終わっても愉しめる。どっちに倒すのかは、読み手がどっちを信じてるのかに因るのかもしれん。
ウンチクともかく、寝食忘れる徹夜小説。
終わるのがもったいないし、終わらせる必要もない。ずっと読んでいたい。
辞書並みの上下巻1600頁余から浮上してきたときの、正直な気分。読了までちょうど1ヶ月かかったけれど、この小説世界でずっと暮らしていきたい。死ぬべき人は死んでゆくが、残った人も収束しない。エピソードもガジェットも伏線もドンデンも散らかり放題のび放題(でも!)いくらでもどこまででも転がってゆく広がってゆく破天荒さよ。
ストーリーラインをなぞる無茶はしない。舞台は1900年前後の全世界(北極と南極と地中を含む)。探検と鉄道と搾取と西部と重力と弾圧と復讐と労働組合と無政府主義と飛行船と光学兵器とテロリズムとエロとラヴとラヴクラフトばりの恐怖とエーテルとテスラとシャンバラとデ・ニーロがぴったりの悪党と砂の中のノーチラス号と明日に向かって撃てとブレードランナーと未来世紀ブラジルとデューン・砂の惑星とiPhoneみたいな最終兵器とリーマン予想とどうみてもストライクウィッチーズな少女たち(でもありえない)。
ウロボロスの蛇のようにからみあい、自己言及するストーリーの、飲み込み/呑まれ感覚にめまいする。さっき描写していたエピソードが、今度は登場人物が読む三文小説としてカリカチュアライズされる。作中作とその読者が言葉を交わすシーンは、ずばりドン・キホーテの後編。のめりこんだ物語から顔をあげるとき、現実に息つぎするものだが、これは息つぎしようと頭を振ったらまた別のストーリーにフェード・インするようなもの。光と意識の具合で瞬時に地と図が反転する感覚。3D立体視を小説で実現させる。混ざるのでなく交じる。もつれあい、からみあう物語のダイナミズムが、そのまま前へ、上へと転がりだす。挿話と格闘していくうちに、くんずほぐれつ巻き取られる。時間軸の遡上や図地反転を意識したうえでの「逆光」(ぎゃっこう=逆行)なのだろう。
これまで、「トマス・ピンチョン全小説」という素晴らしい企画の下、「メイスン&ディクスン」「逆光」「V.」「ヴァインランド」と読んできたが、どれも強烈な体験で、再読を必要とする。なかでも、「もう一度読みたいピンチョン」ベストは、「逆光」だ(断言)。
いつかはピンチョン、そう言ってるうち人生終わる。だからいま読む、ピンチョンを。
「オススメされなかったら読まなかった傑作」がある。もちろん読んだからこそ傑作と言えるが、なかなか手が出なかった。だから、SFスゴ本としてガチ宣言した@yuripopや、「SF好きで雪風読んでないって、アニメ好きでジブリ見てないレベル」と喝破した@roki_aに大感謝。
主役は「雪風」、近未来の戦術+戦闘+電子偵察機だ。いちおう主人公っぽいパイロットやら上司がいる。地球を侵略する異星体と戦うヒトたちだ。が、この戦闘妖精を嘗め回すような描写のデテールを見ていると、著者はこの"機"に惚れこんで書きたくて、こんな設定やらヒューマンドラマをでっちあげたんだろうなぁと思い遣る。
論理的にありえない超絶機動を採ろうとしたり、合理的な意思を突き抜けた真摯さをかいま見せるので、読み手はいつしか雪風を人称扱いしはじめる。非情・冷徹が服着てるようなパイロットも、"彼女"を恋人扱いするので、ますますそう見えてくるかもしれない。彼にとっては雪風こそ全てで、折に触れ「人類がどうなろうと、知ったことか」と嘯くため、人格破綻者か、非人間的な第一印象を抱く。
そんな孤独なパイロットが、戦闘を生き延びて行くにつれ、人間味のある一面を見せるようになる。反面、"女性的"に扱われていたマシンが、残忍非情な選択をする瞬間も見せる。テクノロジーとヒューマンの融合、人間味と非人間性の交錯がメインテーマなのかも。けれども、その演出がニクい。先ほど使った「人間味」や「残忍」という修飾は、あくまでヒトたるわたしが外から付けた表現だ。そんな甘やいだ予想を吹き飛ばすような展開が待っている。
テクノロジーが先鋭化するにつれ、搭乗する"ヒト"の存在が、機動性や加速性へのボトルネックになってくる。無人化・遠隔化が進むにつれて、「戦いには人間が必要なのか」という疑問が繰り返し重ねられてゆく。この課題は、見事に、そのままに、現代の無人軍用機にあてはまる。アフガニスタンで"活躍"しているRQ-1プレデターがそうだ。その恐ろしい相似を想像しておののくもよし、ひたすら物語に没入するもよし。続編「グッドラック」と併せると、徹夜SFになるぞ。
900ページの長編なのに、するすると呼吸をするように読み干す。ああ、美味しい。一文が異様なほど長く、描写と感情を読点でつないでいる。パッと見、読みつけるのが大変かと思いきや、全く逆。読点のリズムが畳み掛けるよう囲い込むように配置され、単に「読みやすい文章」というよりも、むしろ読み進むことを促される。お手本のような小説だ。
そして、ひたすら面白い。芦屋の上流家庭が舞台で、大きな事件も起きるのだが、圧倒的に紙幅が割かれるのは、淡々とした生活習慣や、家族の恒例行事になる。その、ちょっとした挙措や応接ににじみ出る感情のゆれや成長の証がいとおしく、思わず知らず口がほころぶ。読むことがこんなに美味しいなんて!
日本語が、これほど艶やかで美味しいなんて(知らないとは言わないが)忘れてた。花見の宴や蛍狩のシーンは、読んだというよりもその場にいた。谷崎は桜のひとつひとつを描写しないのに、花弁の輝きは見える。谷崎は闇の色合いばかり濃密に描くのに、息づくように蛍が明滅する様は見えるのだ。ふしぎなことに、雪が降るシーンはなかったはずだが、桜・雪・蛍と、輝きがつながる。
■「WORKING!!」高津 カリノ
「このために生きている」一つ。ファミレスが舞台の、帯刀納豆暴力の変愛マンガ。「おもしろい」というよりも、「ハマる」。ニヤニヤががやめられない止まらない。個性的なキャラが織り成す「ズレ」「ヌケ」「イジリ」が楽しいのだが、そんなことより種島ぽぷら小さい、かわいい。種島ぽぷら好きすぎで困る。彼女を見かけると顔が火照って困る。あまつさえガストに行くと種島ぽぷらを探してしまう。ワグナリアはどこですか?
高じてくると、嫁さんと「種島ぽぷらごっこ」をする。台所の上の棚を開けようと背伸びしている嫁さんに、「どれ、お兄さんがとってあげよう」と手伝う。そして、「ぽぷらはいつも小さいなぁ、かわいい、かわいい」と頭をなでくりするのだ。最初は嫁さん「も~かたなし君は~」と付き合ってくれたのだが、何回もくり返すべきではなかった。突然、伊波まひる化した嫁にボコられ、以降、伊波まひるごっこになる(伊波まひるごっこは危険なので素人はマネしないように)。
これは、面白い。18世紀フランスの、「匂い」の達人の物語。
匂いは言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。目を閉じ耳をふさぐこともできるが、呼吸につながる「匂い」は、拒めない。匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。
だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
主人公はグロテスクかつ魅力的。恐ろしく鋭敏な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、匂いによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。嗅覚という、言語よりも精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る。さらに、頭で匂いを組み合わせ、まったく新しい匂いを創造することができる。彼によると、世界はただ匂いで成り立っている。
そんな男が、究極の香りを持つ少女を、嗅ぎつけてしまったら?
主役が主役なら、脇役も鼻持ちならない。銭金、名誉、欲情のために、平気で道義を踏みにじる。悪臭ふんぷんの魑魅魍魎の行く末が、これまた痛快だ(なんでかは読んでくれ)。無臭、異臭、体臭、乳臭さから、酒臭さ、きな臭さから、血腥さまで、ぜんぶの「臭い」がそろっている。そして、強烈であればあるほど儚い。著者・ジュースキントは、文字どおり雲散霧消する運命も重ねている。オススメいただいたのは、金さんさん、ありがとうございます。
イッキに読んで、めくるめくにおいの(匂いの/臭いの)饗宴に陶然となれ。
タイトルは釣りだが、ホンモノの釣り針が入ってる。
とがった看板なのに中身は普遍、諧謔たっぷりのとぼけた会話を嘲笑(わら)っているうち、片言の匕首にグサリと刺される。そんなスゴい読書だった。
「気違い」と「部落」という反応しやすい強烈な用語を累乗しながら、中身はありふれた『ど田舎』の村社会を描く。でもその「ありふれ」加減は、いかにもニッポン的だ。彼らを笑うものは、この国を嗤うのと一緒だというカラクリが仕込まれている。
たとえば「正義」という言葉は、「一般に自己の利益を守るため他を攻撃する道具」だと喝破する。自らの損失に於いて正義を云々する例が無いではないかと断ずる。正義の名のもとにルール違反者を見つけては断罪するのが大好きな「正義漢」は、正々堂々ストレス発散できるからね。
政治家の言説に用いられる「コクミン」という抽象語は、この単純素朴な村人への洞察を通じて見事に具体化する。それは、したたかさ、たくましさ、ずるさ、妬み、目先ばかりの功利主義、裏切りと足の引っ張りあい―――嫌らしくて懐かしい村民の言動に、腹を抱えて笑うだろう。そしてゾクりとするだろう。愚かしいほどの忘れっぽさや、口と腹とじゃ言うことが違う気質は、そのまんま「いま」「ここ」のことだから。
ニッポンジンの本質は、今も昔もそのまんま。テクノロジーや表層で変わった気分になっていた背中に冷水を浴びせられる。うちひしがれた心に、とどめのように寸鉄が刺さる。曰く、「先生よ。良心って自分の中の他人だな」ってね。痛々しさの「痛み」はわたしのもの、笑ってしまう笑えないスゴ本。
「読まずに死ねるか」級、または「読んでから死ね」レベル。
重厚な世界設定に心奪われ、緻密な内面描写に感情移入し、謎が明かされるカタルシスに酔う。ただひたすら夢中になれるのだが、哀しいかなハマる自分を醒めて見ると、著者の意図が映りこんでくる。キャラやイベントの出し入れについて、ル=グゥインはかなり計算しており、読み手の年齢まで考慮した上で、時間軸を決めている。
たとえば、第1巻「影との戦い」は、ゲド自身の成長譚になる。生い立ちから青年になる過程を、その葛藤とともに描くことで、最初の読者 ―――「少年」を獲得する。思春期にありがちな高慢が招いた災厄「影」は、姿こそ異なれど、読者の現実にシンクロしてくる。それは、虚栄心によるコミュニティ内の「不和」だったり、自信過剰がもたらした「失敗」、あるいは自身の「欠点」になる。自覚の有無はともかく、少年はゲドが戦うように「影」と向き合うことを覚悟するはずだ(こじれると厨二病になる)。
そして、第2巻「こわれた腕環」では、自己を剥奪された少女の視点で展開することにより、次の読者―――「少女」を得る。大迷宮の探索や闇の儀式といった演出を振り払うと、これは少女を救出する物語になる。ただし、囚われた少女と白馬に跨ったゲドという話ではない(むしろ逆だ)。これは、「日常」に埋め込まれて見失っていた「自分」を手に入れる苦悩とあがきの軌跡になる。「選ぶ」という自由を手にしたならば、選ばなければならないという恐怖に向き合うことになる。「少女」や「女子○学生」といったラベルをきゅうくつに思い、「妻」や「母」に底知れなさを感じている女の子こそ、少女テナーに共感するに違いない。
さらに、第3巻「さいはての島へ」は、少年と少女が見まいとして目を背けていた最大のテーマ、「死」になる。青春の蹉跌を克服し、自分を自分にすることが(物語のなかで)できた読者に対する挑戦だ。これは、ゲドへの挑戦だけに限らず、読み手に「死を直視する」ことを強要する。思い上がった「わたし」を「影」というメタファーで引きずり出し、日常に埋没していた「わたし」を明るみに出し、若者にとってのタブー「死」と対決させるのだ。ゲドの活躍からよりも、むしろ読み手に内在する「死」の克服から得られるカタルシスが大きい。ドーパミンあふれるラストとなるだろう。
4巻以降は、主張のあまりのどぎつさに読み手は辟易するかもしれない…が、これは著者の上にも同じだけの時間が流れた、として受け止めた。
「ゲド戦記」は、「指輪物語」「ナルニア国物語」と並び世界三大ファンタジーとして名高い。だからこれがオリジン、根っこになるのだが、その豊かな果実のほうを先に味わっているので、要所要所で懐かしい驚きに出会う。たとえば、「真の名を知ることで、相手を支配する」なんてくだりは、「ベルガリアード物語」や「闇の戦い」シリーズで幾度もお目にかかっている。初めてなのに懐かしい、死ぬ前に読めてよかった傑作なり。オススメいただいた、ゴミバコさん、アタミルクさん、ユーキさん、MOTOさん、ASMさん、HANAさん、ようぎらすさん、ありがとうございます。
宮崎駿「ぜんぶ入り」のコミック。ナウシカ、もののけ、千尋、ラピュタなどのさまざまなイメージが渾然と浮かび上がってくる。似ているというよりも、むしろ「完全に一致」してる構図・アイディアが、後から後から湧き出てくるので、映画を観たときの感情の噴出をとめるのに一苦労する。
貧しい国の王子シュナが金色の種を探す苦難を描いた物語なのだが、いままで観てきた宮崎駿がぜんぶ詰まっている。もとはチベットの民話を児童書化した、「犬になった王子」を下敷きにしている。民を救うため辺境まで赴き、異化して戻ってくるというお話だ。物語の骨格は完全一致しているが、ロストテクノロジーや舞台やキャラによる置き換えが、異質なものにしている。
骨は一緒でも、身にまとった肉や装束が違うことで、新しいのに懐かしい感覚がある。「ナウシカは虫愛づる姫君」とか「宇宙戦艦ヤマトは西遊記」と同じようなデジャヴを受けるかもしれない。オススメしてくれたyuripop、ありがとうございます。
■「レイモンド・カーヴァー傑作選」レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳
村上春樹と池澤夏樹に感謝、二人のおかげでこの本に出会えたから。
優れた小説家の仕事は、小説を書くだけでは不十分で、他の作品を紹介することにある。優れた書き手は、優れた読み手でもあるから。池澤夏樹の小説はもう読まないが、彼が選んだ「世界文学全集」は鉱脈を見つける助けになった。村上春樹の小説はもう読まないが、彼が訳したレイモンド・カーヴァーのこの短篇集は素晴らしい。
乾いた文体でレポートされたような"悲劇"。感情を具体的な語で指さず、淡々と行動で記録してゆき、ラストの最後の、「ささやかだけど、役にたつこと」のところで綿密に描写する。そのワンシーンだけが読後ずっと後を引くという仕掛け。これは狙って書いて、狙って訳している。レイモンド・カーヴァーと村上春樹、神業なり。
訳者・選者である村上春樹が「マスターピース」と言い切るだけあって、どれもこれも素晴らしい。あんまり勉強ライクに分析するのは避けたいが、技巧の旨さに舌を巻く。小物やエピソードの一つ一つをとりあげ、必要な細部を拡大しながら、かつ、修飾を捨てて書いている。クローズアップやフラッシュバックのテクニックが控えめ(しかし)要となっている。わたしの胸をつかんだのは、以下の3つ。構成、描写、そして物語として傑作の類に入る。
・ささやかだけど、役にたつこと
・大聖堂
・足もとに流れる深い川
カーヴァーを読むと、きっと胸がじわっとくる。そろそろ、この現象に名前をつけるべき。寒い夜にはカーヴァーをどうぞ。
事実へのかかわり方で世界がズレる、これは初感覚。
読んでるうち、世界がでんぐり返る瞬間は体感したことがある。だが、これはその先がある。でんぐり返った所が真空となり、そこが物語を吸い込み始めてしまうので、穴をふさぐために自分が(読み手が)解釈を紡ぎなおさなければならない―――こんな感覚は、初めてだ。
若い女と乳幼児の遺体が発見された。犯人の少年に死刑判決が下されるが、夫が手記を発表する。「妻はわたしを誘ってくれた。一緒に死のうとわたしを誘ってくれた。なのにわたしは妻と一緒に死ぬことができなかった。妻と娘を埋める前に夜が明けてしまった」―――手記の大半は、妻と娘を「埋葬」する夫の告白なのだが、進むにつれ胸騒ぎがとまらなくなる。
なぜなら、おかしいのだ。冒頭で示される記事と、あきらかに辻褄があわないのだ。「信頼できない語り手」の手法は小説作法でおなじみだが、夫は嘘は語っていない。妄念と真実の混合でもない。さらに、この事件を取材される側のインタビューがモザイク状に差し込まれる。どれも核心に触れながら、微妙にズレている。インタビュアーの会話で芥川の「藪の中」が出てくるので、おもわず現代版「藪の中」と評したくなる。
しかしこれは罠だ、あの短篇とはまるで違う。むしろ正反対の問題を差し出している。「藪の中」の本質は、「真実は一つ、解釈は無数」だ。死者も含む登場人物の数だけ解釈はあるものの、ただ一つの真実は「藪の中」にしたいから、タイトルでそう伝えている。ところが「埋葬」は、事実へのかかわり方(深度と密度)によって、事実のほうがズレてくる。インタビューと手記の穴が食い違ってくる。
そして、だれかの"語り"だけを選べない。選んだ瞬間、選ばれなかった"語り"が埋めていた空虚をふさぐため、読み手が再解釈しければならなくなる。その余地が大きすぎで、選んだ"語り"が空虚に飲み込まれてしまうほど。あたかも、地の文であるインタビューの記録と、表の文である夫の手記が、角度を変えると入れ替わってくるかのよう。
「読み手が何を信じるか」によって、読み手を語り手に逆転させる傑作。
いまなら分かる、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛した理由が。
なぜなら、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという驚くべき小説なのだから。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた、SF冒険小説として読むと、ただの面白いお話になるのだが……あらすじはこうなる。
絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……
どうやら、彼ら来訪者たちに、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、来訪者たちは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。
この秘密そのものは、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的なのだ。それは、「わたしは、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。
本当の他者というものは存在するのだろうか。語り手であれ読み手であれ、主体と関わりあって、初めて他者が「人」として立ち上がってくるのではないか───読み手の「関わりかた」さえ変えてしまう一冊。
私小説とは内臓小説だ、これで思い知らされた。
自分自身をカッ斬って、腸(はらわた)をさらけだす。主人公=作者の、あたたかい内臓を味わいながら、生々しさやおぞましさを堪能するのが醍醐味。キレ味やさばき方の練度や新鮮さも楽しいし、なによりも「内臓の普遍性」に気づかされる。そりゃそうだ、美女も親爺も、外観ともあれ内臓の姿かたちは一緒なように、えぐり出された内観は本質的に同じ。だから他人の臓物に親近感を抱く読み方をしてもいい。
純朴で残酷であるほど、美しい。白眉である「白桃」は、ラストの悪意と対照的な、この出だしが素晴らしい。カメラ的絵と3D音響効果と脳裏への焼きつきが、一文にて示される。
納屋の背戸から涼しい風が吹いて来た。竹藪の葉群が風に戦ぎ、納屋の土間から見ていると、黄色く変色した葉の残る、篠竹の葉裏が目の中で騒ぐようだ。
「白桃」のストーリーには一切口をつけないので、愉しんで欲しい。著者の内奥の記憶の痛みは、「塩壷の匙」よりも優れていると思うぞ。他人の不幸は蜜の味。その悪意に触れたときの無残な味と、それを黙ってさらしておくようなむごさとさみしさを胸で感じる。
腹の中のものを、ほらこれだよ、ほらどうだよ、と手づかみで見せ付けてくる。おもわず目を背けたくなる。自分の半生の汚辱や怨恨を暴露し、それを切り売りすることで、自身を救済しようとしているのか。描かれる「不幸」がありふれていればいるほど、抉り出す狂気のほうに目が行く。書くことは煩悩そのものやね。
では読むことは?女が男に求めるグロテスクさにたじろぎ、澱んだやりきれない生活に安堵感を見つけてうな垂れる。「万蔵の場合」をひきつけて読むと、主人公=作者と共に、感情を生き埋めにすることを覚えるだろう。この本をつかむ手が、そのまま深闇の淵をつかむ手になる。同じ臓物を、わたしも持って生きていることが分かる。読むこともまた煩悩なのだ。
■「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」 アゴタ・クリストフ
現実と向かいあうための嘘は、「必要嘘」になる。
物語のチカラと感染力を試される読書。およそ二十年ぶりの再読なのに、反応する箇所が一緒で笑える。戦時下の混乱をしたたかに生き抜く双子におののき、その過去を相対化する続編におどろき、「相対化された過去」をさらにドンデン返す最終作に屈服する。これをミステリとして扱って、嘘を暴くことはもちろん可能だが、そんなことして何になる。一切の同情を拒絶する結末に、読者は完全に取り残され、鬱小説と化す。
酷い目に遭ったとき、受けいれがたい現実と直面したとき、その出来事そのものを別のものとして扱うことができる。すなわち、「……というお話でしたとさ」と、物語化するのだ。葦船や平家の落人の貴種流離譚から始まって、邪気眼や「パパが犯しているのはアタシじゃなく別の子」といった自己欺瞞は、別の人格どころか、別の人生を創りだす。そして、辛いことや悲惨なことは、その人格や人生に担わせ、自分はそれを外側から眺める/聴く存在として演ずるのだ。
「悪童日記」では、" 感覚を消す練習"が出てくる。親に遺棄され、辛い生活強いられる現実を克服するため、互いを実験台にして双子は練習を重ねる。片方がもう片方を叩き、刃物をふるい、炎を押し付ける。ひととおりこなすと交代し、互いに傷つけあう。痛みを感じるのは、誰か別人だと感じるようになるまで。また、罵ったり、むごい言葉を浴びせあう。酷い言葉が頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで続ける。文字を読んだり、楽器を弾くのと同じように、感覚を麻痺させたり、残酷になる練習をする双子。読み手はそこに、浦沢直樹「モンスター」のような"かいぶつ"を見つけるかもしれない。
その続編となる「ふたりの証拠」では、離れ離れになった双子の片方の物語となる。「信頼できない語り手」どころか、「信頼できない作家」のことばを頼りに読み進むと、一作目自体が罠であったことに気づく。「悪童日記」を否定しているのではなく、悪童「日記」として書かれた帳面を生み出した世界を、もう一度構築しなおしている。最初の生活の輪郭をなぞるように語られる過去は、なぜ「悪童日記」が書かれなければならなかったのかを理由付けする。(二十年前の初読のとき)わたしは幾度もこう思ったものだ→「双子とは偽りで、実は一人が生み出した別人格なのではないか?『悪童日記』の『ぼくら』を『ぼく』に置換すると、一作目と二作目がちょうどウロボロスの蛇のように、たがいの尻尾を飲み込みあった円環になるのではないか」と。これは、二作目で完結しているのなら、正しい。
しかし、三作目「第三の嘘」になると、はっきりする。「悪童日記」を物語として相対化したのが「ふたりの証拠」、そして「ふたりの証拠」と「悪童日記」をもうひとつの物語として包んだのが、「第三の嘘」であると。過去を清算するための嘘、現実と向き合うための嘘、嘘を嘘で塗り固め、嘘を嘘で包み、混ぜ、練りこむ。書こうとしたのは本当の話なのかもしれない。しかし、事実であるが故に耐えがたくなる。真実を書こうとするならば、そのペンの下の紙が燃え上がってしまうというが、この場合は、真実の重みに耐えかねてペンがへし折れてしまうのだ。だから、現実の(過去の)重みを逸らすために嘘を書く。あるがままではなく、あってほしい形、あればよかった思いにしたがって書く。
読み手はどの現実?と自問していい。「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」の、どのバージョンの物語を採択できるのだ。どうやって現実と折り合いをつけるか?現実を歪めるか、別の現実(=物語)を生み出すか。その捻れた現実を復元する読書となる。そして、解きほぐした結果はかくも苦い。
生きるためというよりも、狂わずにいるための「物語」。
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│このノンフィクションがスゴい!2011
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分子レベルのメカニズムから、深海の熱水噴出孔の生態から、地球の歴史から、生きる営みの"わけ"に迫る。つまり、構造に理由を物語らせるわけだ。もちろん、生命現象すべての理由が明らかになっているわけではない。だが、最新の科学的解釈や研究の成果・仮説を元に、分子レベルから地球規模まで、スコープを自在に操りながら、なるべくしてなった必然と、そうとしか考えられない偶然の握手を提示してくれる。その推理の推移が大胆・周到・スリリングなのだ。
ニック・レーンは、進化における革命的な事象を10とりあげ、俯瞰と深堀りを使い分ける。この10の革新的事例を "invention" と銘打っているのは面白い。「発明」というよりも「創造」というニュアンス。自然選択がすべての形質を厳しい検査のふるいにかけ、そのなかで環境やパートナーに最も適応したデザインが生き残ってきた。この "invention" の成果こそ、無数の選択を経ている、「いま」「ここ」の「わたし」だと考えるに、ただ驚くしかない。ここにいる「わたし」は、それなしでは世界を認識できない前提のような存在なのに、同時に生命進化の最新鋭の "invention" なのだ。
その10の "invention" は以下のとおり。
1. 生命の誕生
2. DNA
3. 光合成
4. 複雑な細胞
5. 有性生殖
6. 運動
7. 視覚
8. 温血性
9. 意識
10. 死
4章の有性生殖と10章の死。要するに、「なぜセックスするのか?」「なぜ死ぬのか?」という疑問に正面から応えたものがスゴい。
少数のアメーバのように、クローンでいいじゃないか。生存の観点からは最高に不合理な行為なのに、多くの生物はセックスをするのか。あるいは、どうして老いて死ななければならないのか(そしてその過程で悲惨な病気で苦しめられなければならないのか)。ともすると哲学的な応答になってしまうのを、生存闘争の視点から科学で斬り込む。
生物である限り、変異は必ず起きる。そして、変異のほとんどは、集団全体の適応度を低下させる働きをするという。この変異を聖書の「罪」になぞらえている説明がユニークだ。変異率が1世代あたり1個に達すると(=だれもが罪人ということ)、クローン集団において罪をなくすには、旧約聖書のように大洪水でおぼれさせ、集団全体を罰して滅ぼすしかない。だが、有性生殖は違う、新約聖書のように。
有性生殖をおこなう生物が多数の変異を(後戻りのできない限界まで)蓄積しても危害を被らなければ、有性生殖には、健常な両親のそれぞれに多数の変異をためこませて、すべてを1体の子に注ぎ込む力があることになる。これはいわば新約聖書のやり方だ。キリストが人々の罪を一身に引き受けて死んだように、有性生殖も、集団に蓄積した変異を1体のいけにえに押し付けて、処刑してしまえるのだ。
また、有性生殖は寄生虫対策でもあるという。捕食者や飢餓よりも、寄生虫のもたらす病気によって死ぬ可能性のほうが明らかに高いことを指摘する。急速に進化する寄生虫は、宿主に適応するのに長くはかからないし、適応に成功したら今度は集団全体に取り付き、全滅させてもおかしくない。一方、宿主に多様性があれば、一部の個体がたまたま寄生虫に耐性をもつまれな遺伝子型を備えている可能性がある(はず)。そして、そのような個体は繁栄し、次は寄生虫の方がこの新たな遺伝型への対応を余儀なくされる───寄生虫と宿主とのたゆまぬ競争こそ、有性生殖が大きな利益をもたらすというのだ。
われわれはどこへ行くのか、という問いは、われわれはどこから来たのか?という問いと、われわれは何者かという問いに支えられている。生物学の「いま」でもって、あらためて(具体的に)考えることができる。
「ベッドルーム」だから、艶っぽい話を期待したらご勘弁。これは、眠れぬ夜に羊を数える代わりに、マットレスをひっくり返す黄金律を探すネタなのだから。命題はこうだ「マットレスを一定の操作でひっくり返し、マットレスがとりうるすべての配置を順繰りに実現する方法はあるのか?」。長いこと使っているとヘタってくるので、定期的にひっくり返す必要があるのだ。マットレスはごく普通のもので、長方形の、ちょうど単行本のような形だ。本書をマットレスに見立てて、タテに回したり、ヨコにひっくり返したのは、わたしだけではないだろう。
著者はマットレスを飛行機に見立てて、ピッチ、ロール、ヨーの回転を定義づけている。左右を軸とした回転(pitch)、前後を軸とした回転(roll)、上下を軸とした回転(yaw)の3種類だ。「マットレスをひっくり返す」とは、結局のところ、この3つの操作と、「何もしない」を組み合わせることに他ならないと見抜く。さらに、回転の組み合わせにより、別の回転と一致することも思いつく(たとえば、「ピッチ」+「ヨー」→「ロール」とか、「ピッチ」+「ピッチ」→「何もしない」)。ここまで一般化すると、群論(ここではクラインの四元群)が登場する。あの「クラインの壺」のクラインだ。
日常の、ちょっとした疑問をとりあげて、あれこれいじり回し、さまざまな分野から問題に迫る。歯車のギア比から始まった話題に、いつのまにか素数とフィボナッチ数が登場し、西暦2000年問題、ついには西暦10000年問題へリレーしてゆく手際は、鮮やかだ。今までの(科学の)啓蒙書と毛色が違うのは、解よりも解決法に力点があるところ。アメリカ合衆国の分水嶺を見つけるために大洪水をシミュレートしたり、シンプルな数学の問題(NP完全)にわざわざ物理系のモデルに対応させて理解しようと試みる。結論よりも試行錯誤が好きなのだな、と思わせる。
著者のユニークなのは、正解云々ではなく、着眼点と発想の自由度だ。畑違いからのアプローチからトンでもないところまでもって行かれる。この「触れるサイエンス」と「連れて行かれ感」で、ついついページが進む。眠れぬ夜のお供に開いたのに、どんどん読み耽ってしまう。
なぜ西欧が覇者なのか?これに「思考様式」から応えた一冊。
数量化革命 キモはこうだ。定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった(→数量化革命)。その結果、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させた(→近代科学の誕生)。
このような視覚化・数量化のパラダイムシフトを、暦、機械時計、地図製作、記数法、絵画の遠近法、楽譜、複式簿記を例に掲げ、「現実」を見える尺度を作る試行錯誤や発明とフィードバックを綿密に描く。
- 複式簿記・記数法:量を数に照応させることで、動的な現実を静的に「見える化」させる。あらゆる科学・哲学・テクノロジーよりも世界の「世界観」を変えた(と著者は断言する)
- 地図製作・遠近法:メルカトル図や一点消失遠近法を例に、三次元的な広がりを二次元に幾何学的に対応させた。さらに、図画から「そこに流れている時間」を取り去り、空間を切り取られた静止物として再定義した
- 暦法・機械時計・楽譜:時を再定義することで、時間とは一様でニュートラルなものであることを「あたりまえ」にした。定量記譜法により、「音がない」時間(=休符)すなわちゼロ時間が見いだされる
数量化革命とは、一言でまとめると、「現実の見える化」になる。ん?現実は"見える"に決まってるじゃないか、というツッコミは、そのとおり。数量化革命「後」からすると、あたりまえのことが、革命「前」はそうではなかった。 そこでは、「時間は、その間に生じたものと同一視され、空間はそれが内包するものと同一視されていた」という指摘が面白い。年代は統治者の名で記録され、ゆで卵をゆでる時間はグレゴリオ聖歌を歌う間になる。この感覚は今でも通用する。東京ドームで量を、駅徒歩で距離を「はかる」のだ。
計る・測る・量る―――「あたりまえじゃなかった」ものが「あたりまえ」に変容する様は、ゆっくりとだが確実に進行する。著者はそのちょうど変化の境目・ティッピングポイントへ誘ってくれる。ここが一番の読みどころで、たっぷり知的スリルを感じた。現実を再「定義」する思考の動き方が掴み取るように分かるのだ。著者のスタンスは天邪鬼的で、権威主義に頼らず、「そのとき席巻していた思考」を執拗に追いかける。
面白いだらけだが、不満もある。肝心なところが、ないのだ。どのように(how)は綿密に記されているものの、なぜ(why)が見当たらない。世界の覇者となった理由は、数量化革命が起きたから。それは分かった。だが、それが、他ならぬ西欧で起きたのは、なぜなのか?この説明が薄いのだ。ソロバン、暦、地図、インド・アラビア数字、日時計、水時計は他の地域にも存在した。だが、他ならぬ西ヨーロッパ人が数量化・視覚化に気づいたのはなぜか?他の文明・地域・国家・勢力との比較がない。
著者は結果から原因を説明しており、ニワトリ卵となってしまう。この点では、ジャレ・ド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」に軍配が上がる。遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫っている。そして、ある究極の(強力な!)結論に達している。併せて読むべし。
習うより慣れろ、学ぶより真似ろ。
やりなおし数学シリーズ。いつもと違うアタマの部分をカッカさせながら、3週間で一気通貫したぞ。もとは小飼弾さんへの質問「数学をやりなおす最適のテキストは?」から始まる。打てば響くように、吉田武「オイラーの贈物」が返ってくる……が、これには幾度も挫折しているので、「も少し入りやすいものを」リクエストしたら、これになった。
本書の特徴は、「つながり」。アラカルト方式を改め、高校数学の体系を一本化しているという。なるほど、上巻の「数と式」の和と差の積の形に半ば強引に持ち込むテクは、下巻の積分の展開でガンガン使うし、図形と関数はベクトルと行列の基礎訓練だったことに気づかされる。ベクトルが行列に、行列が確率行列に、さらに行列がθの回転運動や相似変換に「つながっている」ことが「分かった」とき、目の前がばばばーーーっと広がり、強制覚醒させられる。
上巻
1章 数と式
2章 方程式・不等式と論理
3章 平面図形と関数
4章 順列・組合せと確率
5章 指数・対数と数列
6章 三角関数と複素数平面
下巻
7章 ベクトル・行列と図形
8章 極限
9章 微分とその応用
10章 積分とその応用
11章 確率分布と統計
高校ンときと明らかに違うのは、テストするのは、自分であること、期限がないこと。期末試験も受験もない(そういや、「数学=テスト」という構図から、ついに逃れられなかったなぁ、高校時代)。好きなだけしがみついてもいいし、早々とあきらめてもいいわけだ。おかげで、全体のなかの部分として学びなおすことができた。要するに、高校数学とは微積分なんやね。
概念やテクニックの集大成として微積分に収斂されていく全体像が見えてくる(確率・統計という例外もあるけど)。微積分を理解するために極限があって、それを支えるアプローチや、同じ本質の別のふるまいとしてのベクトルや行列、三角関数や対数が説明される。それらの理解の基礎として、図形や関数、方程式や論理が準備されている。逆順に話したが、数学という道具を使いこなす段階を考慮した章立てだね。
昔むかし、あるところに若い脚本家がおりました。野心家の彼は、誰もが夢中になる映画をつくろうと思い立ちました。そして彼は、古今東西の神話や伝説から物語の共通性を抽出した「千の顔をもつ英雄」を元に、ひとつの映画をつくりました。
その映画の名は、「スター・ウォーズ」。
おびただしい事例を枚挙し、かつて持っていた初源の意味がおのずから明らかになるように、原型神話そのものに語らせるのが、本書の試みだ。それによって、宗教と神話の仮面を被って偽装されてきた人類の世界観を詳らかにする。さらに、伝説の人物の生涯、自然の神々の力、死者たちの霊、部族のトーテム祖先たちの形姿を借りて描かれる"英雄"たちの行動を積分することで、いわゆる「英雄の条件」を深堀りする。
だから、具体的なエピソードの英雄成分の抽出において、オビ=ワンやルーク、ヨーダやベイダー卿といったキャラクターを微分することも可能。だが、それはものすごくゼータクな読書になるはず。読み進むにつれて、スター・ウォーズに限らず、記憶しているあらゆるヒーロー・ヒロインたちのエピソードの噴出に取り囲まれて身動きが取れなくなるからね。
また反対に、今のウツワに注ぎなおすことによって、本書を新しい酒として発酵させることも可能だから面白れぇ。要するに、このフレームから別の物語を紡ぎなおすのだ。どんなストーリーフレームが「面白い」ものとして人類の深層レベルで記憶されているのかが列挙されているから、あとは「いま・ここ」の演出方法に沿って飾りなおすだけというお手軽さ。ストーリーテラーとして生計を樹てる人なら、必ずおさえている(もしくはパクっている)一冊やね。それくらい普遍性と恒常性を持っている。
著者キャンベル曰く、そこには人間行動の意識化されたパターン下にある無意識的な欲望、恐れ、緊張に付与されている象徴を汲み取ることができる。換言すると、神話の恒常的なパターンを分析さえすれば、(時代・地域を超えた)人間性の最深層に秘められた記録を抽出できるというのだ。
「愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ること」―――この文が出てくるところで、胸を衝かれるだろう。
読んでいて、何度も妬ましい炎に焼かれる。サン=テグジュペリはあらゆる乗り物が果たせなかった、速度と高度を得ただけでなく、その高みから観察する目と、見たものを伝える言葉を持っていたのだから。
たとえるなら、究極に達したアスリートかアストロノーツが還ってきて、自分のセリフで批判を始めたとき、わきあがる嫉妬の痛み。一つ一つわたしの胸に刺さる言葉は、究極からの帰還者だから吐けるのか、究極への到達者だから見いだせるのか、分からない。分かるのは、わたしには絶対たどり着けないことだけ。
このセリフは、路を失い、砂漠に墜落して、それでも奇跡的に助かった彼と僚友のエピソードから酌みだされる。航路から外れており救出隊は絶望的だ、食糧は燃え尽き、水は砂漠が吸ってしまった。2人は生きるためにあらゆる手立てを尽くそうとするが、ことごとく失敗する。渇きに声を失い、幻覚が見はじめ、死まであとわずか。2人のあいだに、一種の"希望"のように横たわるピストルが不気味だ。
そこで、残骸の中から一果のオレンジを見つけるのだ。すぐさま2人で分かちあう。そして、死刑囚の最期のタバコのように味わう。そして、進むために、もう一度立ち上がる。同じ運命に投げ込まれ、ピストルやオレンジを前に顔を見合わせることも可能だ。だが、彼らはそうしなかった。東北東に進路をとって、歩き続ける。この名言は、生死ギリギリのところから酌みだされた美酒なのだ。
「星の王子さま」だけじゃもったいない、必再読の一冊。ただし、再読のたび、より芳醇となるだろう。
こころが傷んだときの保険本。「なぜ私だけが苦しむのか」と同様、元気なときに読んでおいて、死にたくなったら思い出す。
「なぜ私だけが…」は、わが子や配偶者の死といった悲嘆に寄り添って書かれている。いっぽう、「それでも人生に…」は、生きる意味が見えなくなった絶望を想定している。こうした喪失・絶望に陥っているときに開いてもダメかもしれない。だが、「あの本がある」と御守りのように心に留めおいているだけでもいいかもしれぬ。「これを読めば元気がもらえる」と言ったらサギだろうが、少なくともわたしは、これのおかげでもうすこし生きたくなったから。
著者はヴィクトール・フランクル、ナチスによって強制収容所に送られた経験をもとにして書かれた「夜と霧」は、あまりにも有名。凄まじい実態を淡々と描いた中に、生きる意義をひたすら問いつづけ、到達した考えを述べている(リンク先のレビューにまとめた)。
「それでも人生に…」は、このテーマをさらに掘り下げ、さまざまな視点から疑いの目と、批判への応答を試みる。いくつかは肌に合わないかもしれない。彼のように考えるのは難しい、そう感じるかもしれない。だが、それを理由にして、フランクルがたどり着いた答えを無視するのは得策ではない。いったん受けて、噛み砕く。
フランクルは、自殺の問題を四つの理由から考える。心を病むのではなく、身体状態の結果から決断する場合、自分を苦しめた周囲の人へ"復讐" するための自殺、そして生きることに疲れて死のうとする場合のそれぞれの自殺に答える。だが、四つ目の理由に最も強く反応する。すなわち、生きる意味がまったく信じられないという理由で自殺しようとする、「決算自殺」の場合だ。
決算自殺とは、いわば人生からマイナスの決算を引き出したので、死のうとすることだという。生きてきたその時点での、借方と貸方を比べ、人生が自分から借りたままになっているものと、自分が人生でまだ到達できると思っているものとを突合せる。そこでどうがんばっても返してもらうことはないことに気づいて、自殺する気になるのだと。
これに対しフランクルは、「しあわせは目標ではなく、結果にすぎない」と言い切る。人生には喜びもあるが、その喜びを得ようと努めることはできないという。"喜び"そのものを「欲する」ことはできないから。
よろこびとはおのずと湧くものなのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。
不治の病にかかり余命が告げられた人、非生産的な毎日を送っている老人、病気で動くこともままならなくなった人、働けなくなった人―――著者は、さまざまな逆境を例に、そこでどう考えるかを提案する。いつまで不治だとみなされるかは誰にも分からないという。「ただそこにいる」だけで子どもや孫の愛情に包まれ、代替不可能でかけがえのない存在もあるという。
たとえ全てのものが取り上げられても、人としての自由は、取り上げることができなかった強制収容所の体験を語る。つまり、選び取る自由は残っていたというのだ。収容所が強いる考えに染まるのではなく、"わたしならこうする"という選択の余地は、たとえわずかなものであれ、必ずあったという。そのわずかな余地で、"わたし"のほうを選べというのだ。
つまり、生きることの一瞬一瞬が、この選択を問われていることに他ならないという。そして、生きることは、その一瞬の具体的な問いに答えることであるのだと。人生の意味を一般的な問題にすることは、あたかもチェスの個々の局面を離れて、「一番いい手は何か」と問うようなもの。定石はあるかもしれないが、あくまでもその一手を自らが選ぶことが、生きることなんだろうね。人生に意味はないけれど甲斐はある、そう納得させてくれる一冊。
受験であれ性交であれ、結婚であれ親業であれ、人生は初めてに満ちている。そして、初めてのときはドキドキ(ワクワク?)するもの。いざ本番になって慌てないように、予行演習をするのだ。過去にさかのぼるように赤本を解いたり、暗闇でコンドームを(裏表をまちがえずに)装着したり、さまざまなな「予習」を積んできた。
本書では、「がんにかかる」予行演習をする。日本人の2人に1人はなるといわれており、目耳ふさいで知らんぷりにはムリがある。受験や性交と違って、突然・唐突・直接だから、準備なしの初体験は危険でもある。「あのときに訊いておけばよかった」とか「あんなガセに振り回された時間が…」というのが、ずっと後になって分かるから。もちろんそうなったら、ショックを受けるだろうし、かなり慌てることは間違いない。しかし、予習するとしないとでは雲泥だ。受験や性交がそうだったようにね。
さらに、自分に限らず、パートナーや近しい人がなった場合のシミュレーションにもなる。たいていは、ショック→なんで私が(怒り)→ネットで検索しまくり→サプリや民間療法に取り込まれる構図のようだ。その良し悪しはともかく、「主治医とのコミュニケーション」が鍵になる。
本書は、患者とその家族の目線からみたケーススタディ集だ。人生のさまざまなステージで「がん」と出会い、どうやって乗り越え/付き合い/闘ってきたかの演習になる。予防から告知されたときの心構え、検診や療法選択のコツ、費用から最期の迎え方まで、すべて「練習」できるぞ。もちろん具体的な療法や症状は人さまざまだが、どうやって「がんとつきあっていく」かを考える羅針盤になった。
練習の中で、わたしのがんに対する態度が変わってくる。定期検診での早期発見は「めでたい」ということや(米国では"Congratulrations!"と祝うらしい)、飛び散ってしまった場合は「室内から屋外へ逃げた鳥を捕まえるようなもの」など、"がんを視る目"が変わってくるのだ。「どんなに気をつけても"なる"ものだから、定期健診は保険と思え」なんて発想は目を引いたぞ。
いきなり初体験はキツいから、これで何度も練習しよう。
あと数年で思春期にさしかかる。「なってから」読むのでは遅い。だから、「なる前に」やれる準備はしておこう。そのための心強い一冊となった。一読、「思春期の親業」に自信がつく、スゴ本というよりも、心構えをつくる本。
もちろんマニュアル世代ですが何か? こういう手引き本というかマニュアル本を良しとしない人がいる。だが、むしろ先達の経験+専門家の知識を短期間で吸収できる。あたって砕けろ的な現場主義はいただけない。本で練習して、実地に適用する。教本ばかりも情けないが(ビジネス書フェチの畳上水練)、選んで読んで、実践とフィードバックをしていこう。
思春期のポイントは2つ、「自尊心」「コミュニケーション力」を育てること。「自尊心」とは、そのままの自分の存在を肯定する気持ちのこと。「コミュニケーション力」は気持ちを分かりやすく伝えることで、他者とのつながりを深めたり、求めるものを得る能力のこと。両者は密接な関係にあるという。自尊心が低いと、「どうせ誰も自分のことなど聞いてくれない」と思い込んでコミュ力も低下するが、反対にコミュ力を通じて相手とのつながりを感じると自尊心が育つそうな。そして本書の目的は、その具体的な育て方にある。
このエントリでは、受け取ったものをいったん咀嚼して自分向けに"まとめ"直している。
まず、著者の姿勢が潔いというか謙虚だ。著者自信も10代の子を持つ母親。だから親の不完全さはよく分かっており、本書を「こうすべき」と読まないでと釘を刺す。ありがちな「親の不安を煽って売ろうとする育児書」とは一線を画している。そして、彼女の基本スタンスはこうだ。
変えられるものは、変える
変えられないものは、折り合い方を考える
ラインホルト・ニーバーのコレを思い出す。
神よ願わくは我に与えたまえ
変えられるものを変える勇気を
変えられないことを受け入れる忍耐を
そして、その二つを見分ける知恵を
この二つの知恵を実践しようと心がけると、子どもへの姿勢は、次のように変わるだろう。「なぜ、そんなことをしたのか?」という問い詰めから、「ほんとうは、どうしたかったの?」という問いかけへ。
読んだら覚醒した。料理が好きに自由になる一冊。
料理とは、振付け通りに踊るキッチンのダンスにすぎず、料理上手とは、いかに振付けを完璧に再現できるかだと思い込んでいたわたしは、この薄い文庫で、木っ端ミジン切りにされた。
本書の本質はこうだ。要するに、料理ということは、道具や調味料の差異はあれ、「空気」「水」「油」という要素が「火」の介在によって素材をいろいろな方向へ変化させることだと喝破する。それぞれを頂点とした四面体を考案し、あらゆる料理はその四面体のどこかに位置するというのだ。そして、ある料理が占める一点を動かすことにより、違った形の料理へと導くことができるというのだ。
この四面体を腹に落とすために、世界中のさまざまな料理の「本質」を換骨奪胎(文字通り!)してくれる。冒頭の「アルジェリア式羊肉シチュー」が、「コトゥレット・ド・ムトン・ボンパドゥール」に変換され、さらに「ブフ・プルギニョン」から「豚肉の生姜焼き」に一気通貫する様は鳥肌モノ。
それぞれの皿の相違点ばかり見つめていると、それらの料理は相互に関連のない別物になる。だが、本質を射貫くと、実はひとつの料理なのだということが分かる。ひとつの本質が、時と所に応じて風土ごと様々に異なる姿を見せているだけなんだということに気づくと、次の料理が格段に広がってくる。言い換えると、料理のレパートリーが、ぱあっと広がる。料理の一般原則を「手が探し当てていく」状態になるのだ。
ただし、料理を職業とする人からは、かなりの酷評をもらっているらしい。料理の原理原則に迫るあまり、枝葉をバッサリ斬ってるから。確かに牽強付会じみている(でも本質)なトコもあり、干物とは太陽に炙られたグリルだといい、サラダの語源が「塩味がつけられたもの」だからあらゆる料理はサラダになるという。
それでも、本書の価値はいささかも減らない。レシピ通りに作ることは大切だが、「レシピ通りにしか作れない」罠に陥っているわたしの蒙を啓いてくれたから。
┌――――――――――――――――――――――――――――
│この本がスゴい!2011
└――――――――――――――――――――――――――――
今年ほど「生きたい」欲望が強く湧き上がったときは無かった。
不幸に遭った方へ思いを馳せるいっぽうで、わたし自身が「生きねば」と自分に言い聞かせた。当たり前すぎて気づかなかったことに気づいた。それは、「生きることは食べること」、そして「エロスは生きる力である」こと。食事と色事こそが、わたしが生きることだと、あらためて思い知った。
安くて野蛮でやたら旨い一冊。
レシピ本は親切だけど、信頼するのはクチコミになる。掲示板やコミュニティでかじったレシピを頼りに、すばらしくうまい一皿を作ったことが何度もある(ピェンロー鍋とかアンチョビソースのパスタとか)。嬉しいのは、ただ簡便なだけでなく、「ここだけ肝心」「これはこだわる」といった、ポイントを突いているところ。
本書はそんなキモが並んでいる。しかも、完全分量度外視の原則を貫き、アミノ酸至上主義をせせら笑うレパートリーが並んでいる。「塩小さじ 1/2」みたいな科学調味料的態度を突き抜けて、塩の量がいかほどと訊かれたって、答えようがない、君の好きなように投げ込みたまえ、と言い切る。
それでも、「ゴマ油だけは、上質のものを使いたい」とか、「暑いときは、暑い国の料理がよろしい」のように、妙な(だがスジの通った)こだわりが出てくる。おそらく、ない材料はなくて済ませはするものの、ここを外しちゃダメだ、という最低限の勘所だけは伝えようとしたからだろう。ヘタの横好きのわたしでも分かる、料理で大切なのは「下ごしらえ」なことを。檀センセは説明を厚くすることで、その勘所を伝授する。
次のイメージは、檀流クッキングで覚えた「イカのスペイン風(プルピードス)」。イカを丸ごとさばいたのは初体験だったが、200円ですばらしく美味な一皿ができあがった。「本書の一品一品を、わが腕に叩き込むように覚えてゆけ」を文字どおり実践するべ。本書は、幅書店の88冊で知った一冊。美味しい出会い、ありがとうございます、幅さん。
「死ぬまでに読みたい」もとい、「読んでから死ね」級のスゴ本。
多くの人が編さん・翻訳しているが、なかでも一番エロティックでロマンティックでショッキングな奴が、バートン版なのだ。淫乱で野卑で低俗だという批判もあるが、その分、意志の気高さや運命の逆転劇が、いっそう鮮やかに浮かびあがる。妖艶な表紙からして子どもに見せられないし、残虐だったりドエロだったり萌えまくる描写が山とある。これらは、人性のドロドロの濃淡・陰影をつけるための淫猥ではないかと。
物語のバリエーションは無数。シャーラザッドの千一夜におよぶ千態万様の物語は、悲劇あり、喜劇あり、史話あり、寓話ありといったふうで、変幻万化、絢爛無比の東洋的叙事詩がくりひろげられる。献身の情熱があり、狂信の沸騰もある。哀愁さそうペーソスあり、荘重から滑稽への急転落もある。甘さ、深さ、清純さ、多彩、華麗、強靭さがちりばめられているなかに、どうしようもない厭世観が透けて見える。
この世ならぬ美しさの王女の体の、いちばん秘密なところに隠されていた赤い宝石の話とか、魔神のたわむれから、遠く離れた国の王子と王女が恋におちて数奇な運命をたどる一大ロマン「カマル・アル・ザマンの物語」とか、妖艶な美女との官能的な恋も束の間、怪盗の手により苦境に陥った商人のスリル満点の話など、まさに夢のような物語ばかり。妻の仕打ちに耐え忍ぶ夫に身につまされならも、二転三転どんでん返しでハラハラどきどきさせっ放し「靴直しのマアルフとその女房のファティマー」なんて、物語を読む面白さとか喜びのエッセンスそのものが沁み入ってくる。
ちなみに、よく知られている「シンドバットの冒険」の面白さレベルは、「中」だ。児童書だけで知ってる気になってたらもったいない。少なくとも、少年少女版「アラビアンナイト」では、「シンドバット」が盛大に去勢されてることが分かるだろう。好奇心旺盛な若者の冒険を描いたというより、行く先々で殺人と略奪に勤しんだ告白記と読める。特に、次から次へと落ちてくる人を石で撲殺するスプラッタなシンドバットは、おぞけをふるって読むべし。
全11巻を一気に読む必要はない。枕元でちびちびと、シャーラザットの一夜語りをそのままに、毎夜の楽しみにしてもいい(わたしは、1年かけて惜しみ愛しみ読んだ)。千と一夜の後、シャーリヤル王に訪れた変化は有名だが、シャーラザットに起きた出来事には感無量になった。
死ぬまでに読みたい、もとい、読まずに死ねない物語。最高の物語とは、これだ。
エロスは生きるチカラだ、皮膚感覚で思い知る。
自分を見ることはむずかしい。鏡なしでは自分を見ることすらできないし、その像は反転している。「他人から見た自分」を見るためには、最低2枚必要だ。どんなにレンズが歪んでいても、カメラや他者の目があれば、自分が「どう見られているか」を知ることは可能だ。これを「日本人のエロス」でとことんヤったのが、本書。
「趣味はエロス」というわたしだが、本書には大いに教えられる。単純にわたしの精進が足りないのか、それとも著者のフランス女が半端じゃないのか、分からぬ。徹底的に、全面的に、過激に貪婪に、日本人のエロスを詳らかにする。もちろん、「俺はそんなことしない」「それは普通の日本人じゃない」とか弁明するのは可能だ。
だが、普通ってなに?どんなに異様で異常だろうと、それを追求・志向する人が居るのは、日本そして日本人なのだ。そいういう特殊もひっくるめて普遍化しているのが、日本なのだろう。カレーから宇宙船まで、なんでも取り込み自家ヤクロウにする。ケモノレベルのエロスから、高度文明化した情動まで、想像力の尽き果てるまで許し許される。わたしはこの大らかさが好きだ。目ぇにクジラ立てるよりも、まぁまぁなぁなぁゆるめなトコが大好きなのだ。残念ながら昨今の情勢では、堂堂エロスを語れない。外のレンズを通してでしか、日本のエロスを語れないのは残念だが、本書が刊行されるだけのウツワは残っていると信じたい。
「普通」ってなんだろう?次々と現れるニッポンのセックス業(ごう、と読むべし)を眺めていると、境目が見えない。むしろ「ブルセラショップ」や「うろつき童子」は、メジャーなジャンルだろう。だが、「ライクラ・コスプレ」や、「ラブドール・デリバリー」は、ひとつの極北か、未来の冗談に見える。 google 画像でダメージ食わないよう急いで説明すると、前者は伸縮自在のスーツを全身に被ったプレイで、後者は精巧に作られたラブドールの宅配レンタルの話だ。いくらエロスが得手でも限度がある。
しかし、著者は違うと主張する。日本人は、変身願望があるという。仏教伝来このかた、日本の文化はエゴを拒否するようになったという。西洋的な問いかけ「私とは何か」ではなく、「どうしたら私は私以外のものになれるのか」という解脱への問いかけがなされてきたのだと。そして、その証拠として遊戯王やらセーラームーンを出してくる!ある日突然、別次元で活躍するヒー
ロー・ヒロインに託す日本人の熱意は、現実以外に別世界があり、魂の転生で到達するという集団的幻想の現われなのだと。さらに、ライクラ着ぐるみとは、男が女に変身するだけではないという。実際には「女」になるのではなく、「アニメの女の子」になる、即ち、性を越境しているのではなく、現実をも越境しているのだと。藤崎詩織になりたいかどうかはともかく、「いま」「ここ」の自分ではない存在には、あくがれる。
ほぼ全ページに掲載される、豊潤な画像もわたし「好み」を視覚化してくれる。会田誠は「ジェローム神父」でガツンと犯られたが、本書では「切腹女子高生」という最高にクレイジーなグラフィティが紹介されている。ロリ自虐やね。さらに、日本人の触手好きの原型は、葛西北斎「喜能会之故真通」の「蛸と海女」にあると喝破されたり。目ウロコではなく、違うところにまぶたがあったことに気づくとともに、ほぼ強制的に開かされた。わたしには、こんな「好み」があったなんて。エロスのために生きているといよりも、エロスにより生かされているのだ。これが肌で分かった所以。
かなり限定されたトピックで語ったが、本書にはありとあらゆる日本のエロスに満ち溢れている。したがって、わたしの例があなたの「うへぇ」であったとしても、あなたのピタリが必ず見つかる、かならず。それほど日本人のエロスは幅広で、あなたは(わたしも)多様なのだ。なぜなら、エロスとは、偏愛なのだから。
あなたが抱いたエロスこそが、ジャパニーズ・エロスそのものなのだ。
┌――――――――――――――――――――――――――――
│この劇薬小説がスゴい!2011
└――――――――――――――――――――――――――――
「劇薬小説」「劇薬系」とは、読み手の精神に大ダメージを与える作品のこと。かなり丈夫なココロを準備しておかないと、「読まなければよかった」と後悔に苛まれるかも。自信がない方は以降を読まないほうが吉。
この世が始まって以来、最も淫らで穢らわしい物語。
自分を壊す本を選んで読む。殻を砕き、やわらかいエゴを引っ張り出し、押し広げる、自己を拡張する読書。わたしの心を抉りだす読書。なかでもキツいのは、次の3つ。誘拐した少女の全身の穴という穴を縫い合わせる───ただし口とヴァギナを除いて。『おまえはその二つの穴だけで世界とつながるんだ、その穴だけでわたしを感じるんだ』(ラヴレターフロム彼方)。子宮を裂いて胎児を取り出し、代わりにぬいぐるみを押しこむ陵辱破壊、あるいは、女子高生コンクリート詰殺人事件で有名(真・現代猟奇伝)、家族丸ごと監禁し、家族同士で殺し合いをさせ、家族中で死体処理させるノンフィクション(消された一家)。
これら読むと、最高に胸クソ悪い満腹感を味わえる。自分の中に、こうまでドス黒い感情が溜まっていたのかと思うと、心が溶ける。この3つを超えるやつはもうないと信じてた。
しかし、間違ってた、上には上がいる。しかも、かなり上で、マルキ・ド・サド「ソドムの百二十日」だ。上3つを含み、もっと狂ってる。一言なら、「読む拷問」。男色、獣姦、近親相姦。老人・屍体に、スカトロジー。読み手にとてつもない精神的ダメージを与え、まともに向かったら、立てなくなる強烈な兇刃に膾にされる。イメージを浮かべながら読むと、想像力が絶叫する読書になる。三柴ゆよしさん、オススメありがとうございます。間違いなく劇薬No.1ですな。
鼻水吸引や髪コキ、愛液フォンデュ、ミルク浣腸は序の口で、真っ赤に焼けた鉄串を尿道に差したり、水銀浣腸で腸内をごろごろする感触を楽しむ。抜歯や折骨を趣味とする男の話や、女の耳や唇を切断したり、手足の爪をムリヤリ剥がす話が喜喜として語られ、実践される。眼球を抉ったり、乳首や睾丸を切断したり、嗜虐趣味極めすぎ。
彼らにとって他者とは、壊す対象になる。犯しながらノコギリでゆっくり首を切断したり、恋人同士を拉致して、彼女の乳房や尻を切除して調理して彼氏に食べさせたり。母に息子を殺させたり、塔の上から子どもを突き落とす『遊び』や、むりやり膣に押し込んだハツカネズミや蛇が娘の内臓を食い破る様を眺めるなど、よくぞ想像力が保つなぁと感心する(同時に、ちゃんと読んでる自分がたまらなく嫌らしい)。
圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、そして傷害致死―――ここにはあらゆる「死」の形が描かれている。「死」は一つなのに、至る道はさまざまやね。
本書は、性倒錯現象の集大成ともいえる。自己愛、同性愛、小児愛、老人愛、近親相姦、獣姦、屍体愛、服装倒錯、性転換といった現象を、露出症、窃視症、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムといった性手段で果たそうとする。では、完全なる狂気から成っているかと思うと、そうではない。極端は異常性欲を、極めて冷静沈着に書いているからね。
想像力が凶器となる読書。目を疑え、そして自分を壊せ。
ホロコースト劇薬小説。
戦争が子供に襲いかかり、子供が怪物に変わっていく話。エグいのに目が離せない、手が離れない、強い吸引力をもつ小説だ。TIMES誌の「英語で書かれた小説ベスト100」に選ばれている。
「酒が人を駄目にするのではない、元々駄目なことを気づかせるだけ」という言葉がある。アルコールは本能をリミッターカットする。酒が個人に降りかかる狂気ならば、戦争は大衆を襲う狂気だ。10歳の男の子がサヴァイヴする疎開先の人々は皆、酔ったかのように本能に忠実だ。むきだしの情欲や嗜虐性が、目を逸らさせないように突きつけられる。目撃者=主人公なので、読むことは彼の苦痛を共有することになる。
体験と噂話と創作がないまぜになっており、露悪的な「グロテスク」さがカッコつきで迫る。日常から血みどろへ速やかにシフトする様子は、劇的というよりむしろ「劇薬的」。スプーンくりぬかれた目玉が転がっていく場面は、狂鬼降臨のあの「抉り出される目玉から見た世界が回転していく」トラウマシーンを想起させる。白痴の女の膣口に、力いっぱい蹴りこまれた瓶が割れるくぐもった音は、今でもハッキリ耳に残っている。読んだものが信じられない目を疑う描写に、口の中が酸っぱくなる。耳を塞ぎたくなる。そのうち、読んだものを一貫して信じようとする努力を放棄して、それぞれのエピソードごとに「主人公」がいたんじゃないかと思えてくる。
なぜなら、悲惨すぎるのだ。
苛烈な虐待を受け続けると、普通は死ぬ。氷点下の河に突き落とされ、浮かび上がるところを押し戻され呼吸できない状態が続くと、溺れ死ぬ。真冬の森に放置されると、飢え死ぬか凍え死ぬ。だが、彼は生き延びる。次の章では誰かに助けられるか、まるでそんなエピソードは無かったかのような顔で登場する。これは、様々な死に方をしていった子供たちの顔を集めて、この「彼」ができあがったんじゃないかと。
愛する人をモノにする、究極の方法。
それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる―――「魔法少女マギカ☆まどか」で囁かれた誘いだ。
悪魔のようなセリフだが理(ことわり)はある。乱歩「芋虫」の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。まぐわいの極みからきた衝動的な行為かもしれないが、彼女がしでかしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」ことそのもの。早見純の劇薬漫画「ラブレターフロム彼方」では、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺様)を味わえというのだ。
感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。
ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。
子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。
読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる……はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく。
本書は、「劇薬小説ベスト10」で教わった逸品。「狂鬼降臨」や「城の中のイギリス人」といった肉体的おぞましさをキワ立たせるものや、「児童性愛者」や「隣の家の少女」のような精神的衝撃を受ける中で、本書は、悪夢に呑まれて帰ってこれなくなる肉体・精神の双方に対してダウナー系ダメージを喰らわせてくれる。
生きた迷宮をさまようような、誰かの悪夢を盗み見ているような毒書は、シロさんのオススメが発端。おかげで、うなされるようなおぞましい一冊にあえました、ありがとうございます。
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│スゴ本2012
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ゆるやかに、自分の「死」と向かい合う準備をしている。別に病気をしたとかではないが、一番罹る可能性が大である「がん」になったら…を具体的に想像するようになった。そして今年、不意打ちのようにいきなり死んでしまうこともある、と考えるようになった。
死にたくない、は理不尽なので、「まだ」死にたくない、と言い換えよう。では、どうしたら「まだ」が減らせるか、ピックアップしよう(ゼロは無理)。いわば、「死ぬまでにしたい10のこと」やね。「死ぬまでに読みたい10冊」までは絞れないが、100作品なら選べるだろうか。このリストは入れ替わりの激しい揺れ動くリストかもしれない。だが、順々に読んでいこう。
オフ会について。スゴ本オフはより濃く深くまろやかになった。「旨さ」も加わって、すごい出会い場になっている。本屋オフは財布と相談しながら増やしていこうかと。大人のための「エロ本オフ」は来年の課題だな。ビブリオバトルは本というよりプレゼン合戦なので、しゃべり場といて活用していこう。
スゴい本に出会えるのは、皆さんのおかげ。オススメいただいた方、つぶやかれた方、(カウンター本を提示しつつ)叩かれる方に感謝して、精進していこう。
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│このフィクションがスゴい!2011 └――――――――――――――――――――――――――――
2ちゃんねらが絶賛してたので読了。なるほど、「寝る間も惜しんで読みふけった」のはホントだ。
半信半疑で読みはじめ、とまらなくなる。テーマは超常現象と家族愛。これをアフリカ呪術とマジックと超能力で味付けして、新興宗教の洗脳術、テレビ教の信者、ガチバトルやスプラッタ、エロシーンも盛り込んで、極上のエンターテイメントに仕上げている。中島らも十八番のアル中・ヤク中の「闇」も感覚レベルで垣間見せてくれる。
エンタメの心地よさといえば、「セカイをつくって、ブッ壊す」カタストロフにある。緻密に積まれた日常が非日常に転換するスピードが速いほど、両者のギャップがあるほど、破壊度が満点なほど、驚き笑って涙する、ビックリ・ドッキリ・スッキリする。この後どうなるんだーと吠えながら頁をめくったり、ガクブルしながら怖くてめくれなくなったり。
オカルトとサイエンス、両方に軸足を置いて、どっちにも転べるようにしてある(そして、どっちに転がしても「読める」ように仕掛けてある)。ホンモノの呪いなのか、プラセボ合戦なのか、最後まで疑えるし、読み終わっても愉しめる。どっちに倒すのかは、読み手がどっちを信じてるのかに因るのかもしれん。
ウンチクともかく、寝食忘れる徹夜小説。
終わるのがもったいないし、終わらせる必要もない。ずっと読んでいたい。
辞書並みの上下巻1600頁余から浮上してきたときの、正直な気分。読了までちょうど1ヶ月かかったけれど、この小説世界でずっと暮らしていきたい。死ぬべき人は死んでゆくが、残った人も収束しない。エピソードもガジェットも伏線もドンデンも散らかり放題のび放題(でも!)いくらでもどこまででも転がってゆく広がってゆく破天荒さよ。
ストーリーラインをなぞる無茶はしない。舞台は1900年前後の全世界(北極と南極と地中を含む)。探検と鉄道と搾取と西部と重力と弾圧と復讐と労働組合と無政府主義と飛行船と光学兵器とテロリズムとエロとラヴとラヴクラフトばりの恐怖とエーテルとテスラとシャンバラとデ・ニーロがぴったりの悪党と砂の中のノーチラス号と明日に向かって撃てとブレードランナーと未来世紀ブラジルとデューン・砂の惑星とiPhoneみたいな最終兵器とリーマン予想とどうみてもストライクウィッチーズな少女たち(でもありえない)。
ウロボロスの蛇のようにからみあい、自己言及するストーリーの、飲み込み/呑まれ感覚にめまいする。さっき描写していたエピソードが、今度は登場人物が読む三文小説としてカリカチュアライズされる。作中作とその読者が言葉を交わすシーンは、ずばりドン・キホーテの後編。のめりこんだ物語から顔をあげるとき、現実に息つぎするものだが、これは息つぎしようと頭を振ったらまた別のストーリーにフェード・インするようなもの。光と意識の具合で瞬時に地と図が反転する感覚。3D立体視を小説で実現させる。混ざるのでなく交じる。もつれあい、からみあう物語のダイナミズムが、そのまま前へ、上へと転がりだす。挿話と格闘していくうちに、くんずほぐれつ巻き取られる。時間軸の遡上や図地反転を意識したうえでの「逆光」(ぎゃっこう=逆行)なのだろう。
これまで、「トマス・ピンチョン全小説」という素晴らしい企画の下、「メイスン&ディクスン」「逆光」「V.」「ヴァインランド」と読んできたが、どれも強烈な体験で、再読を必要とする。なかでも、「もう一度読みたいピンチョン」ベストは、「逆光」だ(断言)。
いつかはピンチョン、そう言ってるうち人生終わる。だからいま読む、ピンチョンを。
「オススメされなかったら読まなかった傑作」がある。もちろん読んだからこそ傑作と言えるが、なかなか手が出なかった。だから、SFスゴ本としてガチ宣言した@yuripopや、「SF好きで雪風読んでないって、アニメ好きでジブリ見てないレベル」と喝破した@roki_aに大感謝。
主役は「雪風」、近未来の戦術+戦闘+電子偵察機だ。いちおう主人公っぽいパイロットやら上司がいる。地球を侵略する異星体と戦うヒトたちだ。が、この戦闘妖精を嘗め回すような描写のデテールを見ていると、著者はこの"機"に惚れこんで書きたくて、こんな設定やらヒューマンドラマをでっちあげたんだろうなぁと思い遣る。
論理的にありえない超絶機動を採ろうとしたり、合理的な意思を突き抜けた真摯さをかいま見せるので、読み手はいつしか雪風を人称扱いしはじめる。非情・冷徹が服着てるようなパイロットも、"彼女"を恋人扱いするので、ますますそう見えてくるかもしれない。彼にとっては雪風こそ全てで、折に触れ「人類がどうなろうと、知ったことか」と嘯くため、人格破綻者か、非人間的な第一印象を抱く。
そんな孤独なパイロットが、戦闘を生き延びて行くにつれ、人間味のある一面を見せるようになる。反面、"女性的"に扱われていたマシンが、残忍非情な選択をする瞬間も見せる。テクノロジーとヒューマンの融合、人間味と非人間性の交錯がメインテーマなのかも。けれども、その演出がニクい。先ほど使った「人間味」や「残忍」という修飾は、あくまでヒトたるわたしが外から付けた表現だ。そんな甘やいだ予想を吹き飛ばすような展開が待っている。
テクノロジーが先鋭化するにつれ、搭乗する"ヒト"の存在が、機動性や加速性へのボトルネックになってくる。無人化・遠隔化が進むにつれて、「戦いには人間が必要なのか」という疑問が繰り返し重ねられてゆく。この課題は、見事に、そのままに、現代の無人軍用機にあてはまる。アフガニスタンで"活躍"しているRQ-1プレデターがそうだ。その恐ろしい相似を想像しておののくもよし、ひたすら物語に没入するもよし。続編「グッドラック」と併せると、徹夜SFになるぞ。
900ページの長編なのに、するすると呼吸をするように読み干す。ああ、美味しい。一文が異様なほど長く、描写と感情を読点でつないでいる。パッと見、読みつけるのが大変かと思いきや、全く逆。読点のリズムが畳み掛けるよう囲い込むように配置され、単に「読みやすい文章」というよりも、むしろ読み進むことを促される。お手本のような小説だ。
そして、ひたすら面白い。芦屋の上流家庭が舞台で、大きな事件も起きるのだが、圧倒的に紙幅が割かれるのは、淡々とした生活習慣や、家族の恒例行事になる。その、ちょっとした挙措や応接ににじみ出る感情のゆれや成長の証がいとおしく、思わず知らず口がほころぶ。読むことがこんなに美味しいなんて!
日本語が、これほど艶やかで美味しいなんて(知らないとは言わないが)忘れてた。花見の宴や蛍狩のシーンは、読んだというよりもその場にいた。谷崎は桜のひとつひとつを描写しないのに、花弁の輝きは見える。谷崎は闇の色合いばかり濃密に描くのに、息づくように蛍が明滅する様は見えるのだ。ふしぎなことに、雪が降るシーンはなかったはずだが、桜・雪・蛍と、輝きがつながる。
■ 「WORKING!!」 高津 カリノ
「このために生きている」一つ。ファミレスが舞台の、帯刀納豆暴力の変愛マンガ。「おもしろい」というよりも、「ハマる」。ニヤニヤががやめられない止まらない。個性的なキャラが織り成す「ズレ」「ヌケ」「イジリ」が楽しいのだが、そんなことより種島ぽぷら小さい、かわいい。種島ぽぷら好きすぎで困る。彼女を見かけると顔が火照って困る。あまつさえガストに行くと種島ぽぷらを探してしまう。ワグナリアはどこですか?
高じてくると、嫁さんと「種島ぽぷらごっこ」をする。台所の上の棚を開けようと背伸びしている嫁さんに、「どれ、お兄さんがとってあげよう」と手伝う。そして、「ぽぷらはいつも小さいなぁ、かわいい、かわいい」と頭をなでくりするのだ。最初は嫁さん「も~かたなし君は~」と付き合ってくれたのだが、何回もくり返すべきではなかった。突然、伊波まひる化した嫁にボコられ、以降、伊波まひるごっこになる(伊波まひるごっこは危険なので素人はマネしないように)。
これは、面白い。18世紀フランスの、「匂い」の達人の物語。
匂いは言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。目を閉じ耳をふさぐこともできるが、呼吸につながる「匂い」は、拒めない。匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。
だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
主人公はグロテスクかつ魅力的。恐ろしく鋭敏な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、匂いによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。嗅覚という、言語よりも精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る。さらに、頭で匂いを組み合わせ、まったく新しい匂いを創造することができる。彼によると、世界はただ匂いで成り立っている。
そんな男が、究極の香りを持つ少女を、嗅ぎつけてしまったら?
主役が主役なら、脇役も鼻持ちならない。銭金、名誉、欲情のために、平気で道義を踏みにじる。悪臭ふんぷんの魑魅魍魎の行く末が、これまた痛快だ(なんでかは読んでくれ)。無臭、異臭、体臭、乳臭さから、酒臭さ、きな臭さから、血腥さまで、ぜんぶの「臭い」がそろっている。そして、強烈であればあるほど儚い。著者・ジュースキントは、文字どおり雲散霧消する運命も重ねている。オススメいただいたのは、金さんさん、ありがとうございます。
イッキに読んで、めくるめくにおいの(匂いの/臭いの)饗宴に陶然となれ。
タイトルは釣りだが、ホンモノの釣り針が入ってる。
とがった看板なのに中身は普遍、諧謔たっぷりのとぼけた会話を嘲笑(わら)っているうち、片言の匕首にグサリと刺される。そんなスゴい読書だった。
「気違い」と「部落」という反応しやすい強烈な用語を累乗しながら、中身はありふれた『ど田舎』の村社会を描く。でもその「ありふれ」加減は、いかにもニッポン的だ。彼らを笑うものは、この国を嗤うのと一緒だというカラクリが仕込まれている。
たとえば「正義」という言葉は、「一般に自己の利益を守るため他を攻撃する道具」だと喝破する。自らの損失に於いて正義を云々する例が無いではないかと断ずる。正義の名のもとにルール違反者を見つけては断罪するのが大好きな「正義漢」は、正々堂々ストレス発散できるからね。
政治家の言説に用いられる「コクミン」という抽象語は、この単純素朴な村人への洞察を通じて見事に具体化する。それは、したたかさ、たくましさ、ずるさ、妬み、目先ばかりの功利主義、裏切りと足の引っ張りあい―――嫌らしくて懐かしい村民の言動に、腹を抱えて笑うだろう。そしてゾクりとするだろう。愚かしいほどの忘れっぽさや、口と腹とじゃ言うことが違う気質は、そのまんま「いま」「ここ」のことだから。
ニッポンジンの本質は、今も昔もそのまんま。テクノロジーや表層で変わった気分になっていた背中に冷水を浴びせられる。うちひしがれた心に、とどめのように寸鉄が刺さる。曰く、「先生よ。良心って自分の中の他人だな」ってね。痛々しさの「痛み」はわたしのもの、笑ってしまう笑えないスゴ本。
「読まずに死ねるか」級、または「読んでから死ね」レベル。
重厚な世界設定に心奪われ、緻密な内面描写に感情移入し、謎が明かされるカタルシスに酔う。ただひたすら夢中になれるのだが、哀しいかなハマる自分を醒めて見ると、著者の意図が映りこんでくる。キャラやイベントの出し入れについて、ル=グゥインはかなり計算しており、読み手の年齢まで考慮した上で、時間軸を決めている。
たとえば、第1巻「影との戦い」は、ゲド自身の成長譚になる。生い立ちから青年になる過程を、その葛藤とともに描くことで、最初の読者 ―――「少年」を獲得する。思春期にありがちな高慢が招いた災厄「影」は、姿こそ異なれど、読者の現実にシンクロしてくる。それは、虚栄心によるコミュニティ内の「不和」だったり、自信過剰がもたらした「失敗」、あるいは自身の「欠点」になる。自覚の有無はともかく、少年はゲドが戦うように「影」と向き合うことを覚悟するはずだ(こじれると厨二病になる)。
そして、第2巻「こわれた腕環」では、自己を剥奪された少女の視点で展開することにより、次の読者―――「少女」を得る。大迷宮の探索や闇の儀式といった演出を振り払うと、これは少女を救出する物語になる。ただし、囚われた少女と白馬に跨ったゲドという話ではない(むしろ逆だ)。これは、「日常」に埋め込まれて見失っていた「自分」を手に入れる苦悩とあがきの軌跡になる。「選ぶ」という自由を手にしたならば、選ばなければならないという恐怖に向き合うことになる。「少女」や「女子○学生」といったラベルをきゅうくつに思い、「妻」や「母」に底知れなさを感じている女の子こそ、少女テナーに共感するに違いない。
さらに、第3巻「さいはての島へ」は、少年と少女が見まいとして目を背けていた最大のテーマ、「死」になる。青春の蹉跌を克服し、自分を自分にすることが(物語のなかで)できた読者に対する挑戦だ。これは、ゲドへの挑戦だけに限らず、読み手に「死を直視する」ことを強要する。思い上がった「わたし」を「影」というメタファーで引きずり出し、日常に埋没していた「わたし」を明るみに出し、若者にとってのタブー「死」と対決させるのだ。ゲドの活躍からよりも、むしろ読み手に内在する「死」の克服から得られるカタルシスが大きい。ドーパミンあふれるラストとなるだろう。
4巻以降は、主張のあまりのどぎつさに読み手は辟易するかもしれない…が、これは著者の上にも同じだけの時間が流れた、として受け止めた。
「ゲド戦記」は、「指輪物語」「ナルニア国物語」と並び世界三大ファンタジーとして名高い。だからこれがオリジン、根っこになるのだが、その豊かな果実のほうを先に味わっているので、要所要所で懐かしい驚きに出会う。たとえば、「真の名を知ることで、相手を支配する」なんてくだりは、「ベルガリアード物語」や「闇の戦い」シリーズで幾度もお目にかかっている。初めてなのに懐かしい、死ぬ前に読めてよかった傑作なり。オススメいただいた、ゴミバコさん、アタミルクさん、ユーキさん、MOTOさん、ASMさん、HANAさん、ようぎらすさん、ありがとうございます。
宮崎駿「ぜんぶ入り」のコミック。ナウシカ、もののけ、千尋、ラピュタなどのさまざまなイメージが渾然と浮かび上がってくる。似ているというよりも、むしろ「完全に一致」してる構図・アイディアが、後から後から湧き出てくるので、映画を観たときの感情の噴出をとめるのに一苦労する。
貧しい国の王子シュナが金色の種を探す苦難を描いた物語なのだが、いままで観てきた宮崎駿がぜんぶ詰まっている。もとはチベットの民話を児童書化した、「犬になった王子」を下敷きにしている。民を救うため辺境まで赴き、異化して戻ってくるというお話だ。物語の骨格は完全一致しているが、ロストテクノロジーや舞台やキャラによる置き換えが、異質なものにしている。
骨は一緒でも、身にまとった肉や装束が違うことで、新しいのに懐かしい感覚がある。「ナウシカは虫愛づる姫君」とか「宇宙戦艦ヤマトは西遊記」と同じようなデジャヴを受けるかもしれない。オススメしてくれたyuripop、ありがとうございます。
■ 「レイモンド・カーヴァー傑作選」 レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳
村上春樹と池澤夏樹に感謝、二人のおかげでこの本に出会えたから。
優れた小説家の仕事は、小説を書くだけでは不十分で、他の作品を紹介することにある。優れた書き手は、優れた読み手でもあるから。池澤夏樹の小説はもう読まないが、彼が選んだ「世界文学全集」は鉱脈を見つける助けになった。村上春樹の小説はもう読まないが、彼が訳したレイモンド・カーヴァーのこの短篇集は素晴らしい。
乾いた文体でレポートされたような"悲劇"。感情を具体的な語で指さず、淡々と行動で記録してゆき、ラストの最後の、「ささやかだけど、役にたつこと」のところで綿密に描写する。そのワンシーンだけが読後ずっと後を引くという仕掛け。これは狙って書いて、狙って訳している。レイモンド・カーヴァーと村上春樹、神業なり。
訳者・選者である村上春樹が「マスターピース」と言い切るだけあって、どれもこれも素晴らしい。あんまり勉強ライクに分析するのは避けたいが、技巧の旨さに舌を巻く。小物やエピソードの一つ一つをとりあげ、必要な細部を拡大しながら、かつ、修飾を捨てて書いている。クローズアップやフラッシュバックのテクニックが控えめ(しかし)要となっている。わたしの胸をつかんだのは、以下の3つ。構成、描写、そして物語として傑作の類に入る。
・ささやかだけど、役にたつこと
・大聖堂
・足もとに流れる深い川
カーヴァーを読むと、きっと胸がじわっとくる。そろそろ、この現象に名前をつけるべき。寒い夜にはカーヴァーをどうぞ。
事実へのかかわり方で世界がズレる、これは初感覚。
読んでるうち、世界がでんぐり返る瞬間は体感したことがある。だが、これはその先がある。でんぐり返った所が真空となり、そこが物語を吸い込み始めてしまうので、穴をふさぐために自分が(読み手が)解釈を紡ぎなおさなければならない―――こんな感覚は、初めてだ。
若い女と乳幼児の遺体が発見された。犯人の少年に死刑判決が下されるが、夫が手記を発表する。「妻はわたしを誘ってくれた。一緒に死のうとわたしを誘ってくれた。なのにわたしは妻と一緒に死ぬことができなかった。妻と娘を埋める前に夜が明けてしまった」―――手記の大半は、妻と娘を「埋葬」する夫の告白なのだが、進むにつれ胸騒ぎがとまらなくなる。
なぜなら、おかしいのだ。冒頭で示される記事と、あきらかに辻褄があわないのだ。「信頼できない語り手」の手法は小説作法でおなじみだが、夫は嘘は語っていない。妄念と真実の混合でもない。さらに、この事件を取材される側のインタビューがモザイク状に差し込まれる。どれも核心に触れながら、微妙にズレている。インタビュアーの会話で芥川の「藪の中」が出てくるので、おもわず現代版「藪の中」と評したくなる。
しかしこれは罠だ、あの短篇とはまるで違う。むしろ正反対の問題を差し出している。「藪の中」の本質は、「真実は一つ、解釈は無数」だ。死者も含む登場人物の数だけ解釈はあるものの、ただ一つの真実は「藪の中」にしたいから、タイトルでそう伝えている。ところが「埋葬」は、事実へのかかわり方(深度と密度)によって、事実のほうがズレてくる。インタビューと手記の穴が食い違ってくる。
そして、だれかの"語り"だけを選べない。選んだ瞬間、選ばれなかった"語り"が埋めていた空虚をふさぐため、読み手が再解釈しければならなくなる。その余地が大きすぎで、選んだ"語り"が空虚に飲み込まれてしまうほど。あたかも、地の文であるインタビューの記録と、表の文である夫の手記が、角度を変えると入れ替わってくるかのよう。
「読み手が何を信じるか」によって、読み手を語り手に逆転させる傑作。
いまなら分かる、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛した理由が。
なぜなら、読者がこれを読み進める行為を経て、初めて完成するという驚くべき小説なのだから。名前を持たない《私》の一人称の、二重の語り/騙りによって仕掛けられた、SF冒険小説として読むと、ただの面白いお話になるのだが……あらすじはこうなる。
絶海の孤島に辿り着いた《私》は、無人島のはずのこの島で、一団の奇妙な男女に出会う。《私》はフォスティーヌと呼ばれる若い女に魅かれるが、彼女は《私》に不思議な無関心を示し、《私》を完全に無視する。やがて《私》は彼らのリーダー、モレルの発明した機械の秘密を……
どうやら、彼ら来訪者たちに、《私》の姿は見えていないようだ。まるで《私》が幽霊であるかのように、来訪者たちは気づかない。これは罠なのか、油断していて捕えるつもりなのか、そう疑う語り手。
この秘密そのものは、早い段階でピンとくるが、問題はその後だ。秘密に気づいた《私》がとった行動が、非常に示唆的なのだ。それは、「わたしは、リアルに意識を這わせて生きている」欺瞞を暴く。わたしが現実だと思っている表象へのリアクションこそが、「わたしが生きる」ことを気づかせる。
本当の他者というものは存在するのだろうか。語り手であれ読み手であれ、主体と関わりあって、初めて他者が「人」として立ち上がってくるのではないか───読み手の「関わりかた」さえ変えてしまう一冊。
私小説とは内臓小説だ、これで思い知らされた。
自分自身をカッ斬って、腸(はらわた)をさらけだす。主人公=作者の、あたたかい内臓を味わいながら、生々しさやおぞましさを堪能するのが醍醐味。キレ味やさばき方の練度や新鮮さも楽しいし、なによりも「内臓の普遍性」に気づかされる。そりゃそうだ、美女も親爺も、外観ともあれ内臓の姿かたちは一緒なように、えぐり出された内観は本質的に同じ。だから他人の臓物に親近感を抱く読み方をしてもいい。
純朴で残酷であるほど、美しい。白眉である「白桃」は、ラストの悪意と対照的な、この出だしが素晴らしい。カメラ的絵と3D音響効果と脳裏への焼きつきが、一文にて示される。
納屋の背戸から涼しい風が吹いて来た。竹藪の葉群が風に戦ぎ、納屋の土間から見ていると、黄色く変色した葉の残る、篠竹の葉裏が目の中で騒ぐようだ。
「白桃」のストーリーには一切口をつけないので、愉しんで欲しい。著者の内奥の記憶の痛みは、「塩壷の匙」よりも優れていると思うぞ。他人の不幸は蜜の味。その悪意に触れたときの無残な味と、それを黙ってさらしておくようなむごさとさみしさを胸で感じる。
腹の中のものを、ほらこれだよ、ほらどうだよ、と手づかみで見せ付けてくる。おもわず目を背けたくなる。自分の半生の汚辱や怨恨を暴露し、それを切り売りすることで、自身を救済しようとしているのか。描かれる「不幸」がありふれていればいるほど、抉り出す狂気のほうに目が行く。書くことは煩悩そのものやね。
では読むことは?女が男に求めるグロテスクさにたじろぎ、澱んだやりきれない生活に安堵感を見つけてうな垂れる。「万蔵の場合」をひきつけて読むと、主人公=作者と共に、感情を生き埋めにすることを覚えるだろう。この本をつかむ手が、そのまま深闇の淵をつかむ手になる。同じ臓物を、わたしも持って生きていることが分かる。読むこともまた煩悩なのだ。
■ 「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」 アゴタ・クリストフ
現実と向かいあうための嘘は、「必要嘘」になる。
物語のチカラと感染力を試される読書。およそ二十年ぶりの再読なのに、反応する箇所が一緒で笑える。戦時下の混乱をしたたかに生き抜く双子におののき、その過去を相対化する続編におどろき、「相対化された過去」をさらにドンデン返す最終作に屈服する。これをミステリとして扱って、嘘を暴くことはもちろん可能だが、そんなことして何になる。一切の同情を拒絶する結末に、読者は完全に取り残され、鬱小説と化す。
酷い目に遭ったとき、受けいれがたい現実と直面したとき、その出来事そのものを別のものとして扱うことができる。すなわち、「……というお話でしたとさ」と、物語化するのだ。葦船や平家の落人の貴種流離譚から始まって、邪気眼や「パパが犯しているのはアタシじゃなく別の子」といった自己欺瞞は、別の人格どころか、別の人生を創りだす。そして、辛いことや悲惨なことは、その人格や人生に担わせ、自分はそれを外側から眺める/聴く存在として演ずるのだ。
「悪童日記」では、" 感覚を消す練習"が出てくる。親に遺棄され、辛い生活強いられる現実を克服するため、互いを実験台にして双子は練習を重ねる。片方がもう片方を叩き、刃物をふるい、炎を押し付ける。ひととおりこなすと交代し、互いに傷つけあう。痛みを感じるのは、誰か別人だと感じるようになるまで。また、罵ったり、むごい言葉を浴びせあう。酷い言葉が頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで続ける。文字を読んだり、楽器を弾くのと同じように、感覚を麻痺させたり、残酷になる練習をする双子。読み手はそこに、浦沢直樹「モンスター」のような"かいぶつ"を見つけるかもしれない。
その続編となる「ふたりの証拠」では、離れ離れになった双子の片方の物語となる。「信頼できない語り手」どころか、「信頼できない作家」のことばを頼りに読み進むと、一作目自体が罠であったことに気づく。「悪童日記」を否定しているのではなく、悪童「日記」として書かれた帳面を生み出した世界を、もう一度構築しなおしている。最初の生活の輪郭をなぞるように語られる過去は、なぜ「悪童日記」が書かれなければならなかったのかを理由付けする。(二十年前の初読のとき)わたしは幾度もこう思ったものだ→「双子とは偽りで、実は一人が生み出した別人格なのではないか?『悪童日記』の『ぼくら』を『ぼく』に置換すると、一作目と二作目がちょうどウロボロスの蛇のように、たがいの尻尾を飲み込みあった円環になるのではないか」と。これは、二作目で完結しているのなら、正しい。
しかし、三作目「第三の嘘」になると、はっきりする。「悪童日記」を物語として相対化したのが「ふたりの証拠」、そして「ふたりの証拠」と「悪童日記」をもうひとつの物語として包んだのが、「第三の嘘」であると。過去を清算するための嘘、現実と向き合うための嘘、嘘を嘘で塗り固め、嘘を嘘で包み、混ぜ、練りこむ。書こうとしたのは本当の話なのかもしれない。しかし、事実であるが故に耐えがたくなる。真実を書こうとするならば、そのペンの下の紙が燃え上がってしまうというが、この場合は、真実の重みに耐えかねてペンがへし折れてしまうのだ。だから、現実の(過去の)重みを逸らすために嘘を書く。あるがままではなく、あってほしい形、あればよかった思いにしたがって書く。
読み手はどの現実?と自問していい。「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」の、どのバージョンの物語を採択できるのだ。どうやって現実と折り合いをつけるか?現実を歪めるか、別の現実(=物語)を生み出すか。その捻れた現実を復元する読書となる。そして、解きほぐした結果はかくも苦い。
生きるためというよりも、狂わずにいるための「物語」。
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│このノンフィクションがスゴい!2011 └――――――――――――――――――――――――――――
分子レベルのメカニズムから、深海の熱水噴出孔の生態から、地球の歴史から、生きる営みの"わけ"に迫る。つまり、構造に理由を物語らせるわけだ。もちろん、生命現象すべての理由が明らかになっているわけではない。だが、最新の科学的解釈や研究の成果・仮説を元に、分子レベルから地球規模まで、スコープを自在に操りながら、なるべくしてなった必然と、そうとしか考えられない偶然の握手を提示してくれる。その推理の推移が大胆・周到・スリリングなのだ。
ニック・レーンは、進化における革命的な事象を10とりあげ、俯瞰と深堀りを使い分ける。この10の革新的事例を "invention" と銘打っているのは面白い。「発明」というよりも「創造」というニュアンス。自然選択がすべての形質を厳しい検査のふるいにかけ、そのなかで環境やパートナーに最も適応したデザインが生き残ってきた。この "invention" の成果こそ、無数の選択を経ている、「いま」「ここ」の「わたし」だと考えるに、ただ驚くしかない。ここにいる「わたし」は、それなしでは世界を認識できない前提のような存在なのに、同時に生命進化の最新鋭の "invention" なのだ。
その10の "invention" は以下のとおり。
1. 生命の誕生
2. DNA
3. 光合成
4. 複雑な細胞
5. 有性生殖
6. 運動
7. 視覚
8. 温血性
9. 意識
10. 死
4章の有性生殖と10章の死。要するに、「なぜセックスするのか?」「なぜ死ぬのか?」という疑問に正面から応えたものがスゴい。
少数のアメーバのように、クローンでいいじゃないか。生存の観点からは最高に不合理な行為なのに、多くの生物はセックスをするのか。あるいは、どうして老いて死ななければならないのか(そしてその過程で悲惨な病気で苦しめられなければならないのか)。ともすると哲学的な応答になってしまうのを、生存闘争の視点から科学で斬り込む。
生物である限り、変異は必ず起きる。そして、変異のほとんどは、集団全体の適応度を低下させる働きをするという。この変異を聖書の「罪」になぞらえている説明がユニークだ。変異率が1世代あたり1個に達すると(=だれもが罪人ということ)、クローン集団において罪をなくすには、旧約聖書のように大洪水でおぼれさせ、集団全体を罰して滅ぼすしかない。だが、有性生殖は違う、新約聖書のように。
有性生殖をおこなう生物が多数の変異を(後戻りのできない限界まで)蓄積しても危害を被らなければ、有性生殖には、健常な両親のそれぞれに多数の変異をためこませて、すべてを1体の子に注ぎ込む力があることになる。これはいわば新約聖書のやり方だ。キリストが人々の罪を一身に引き受けて死んだように、有性生殖も、集団に蓄積した変異を1体のいけにえに押し付けて、処刑してしまえるのだ。
また、有性生殖は寄生虫対策でもあるという。捕食者や飢餓よりも、寄生虫のもたらす病気によって死ぬ可能性のほうが明らかに高いことを指摘する。急速に進化する寄生虫は、宿主に適応するのに長くはかからないし、適応に成功したら今度は集団全体に取り付き、全滅させてもおかしくない。一方、宿主に多様性があれば、一部の個体がたまたま寄生虫に耐性をもつまれな遺伝子型を備えている可能性がある(はず)。そして、そのような個体は繁栄し、次は寄生虫の方がこの新たな遺伝型への対応を余儀なくされる───寄生虫と宿主とのたゆまぬ競争こそ、有性生殖が大きな利益をもたらすというのだ。
われわれはどこへ行くのか、という問いは、われわれはどこから来たのか?という問いと、われわれは何者かという問いに支えられている。生物学の「いま」でもって、あらためて(具体的に)考えることができる。
「ベッドルーム」だから、艶っぽい話を期待したらご勘弁。これは、眠れぬ夜に羊を数える代わりに、マットレスをひっくり返す黄金律を探すネタなのだから。命題はこうだ「マットレスを一定の操作でひっくり返し、マットレスがとりうるすべての配置を順繰りに実現する方法はあるのか?」。長いこと使っているとヘタってくるので、定期的にひっくり返す必要があるのだ。マットレスはごく普通のもので、長方形の、ちょうど単行本のような形だ。本書をマットレスに見立てて、タテに回したり、ヨコにひっくり返したのは、わたしだけではないだろう。
著者はマットレスを飛行機に見立てて、ピッチ、ロール、ヨーの回転を定義づけている。左右を軸とした回転(pitch)、前後を軸とした回転(roll)、上下を軸とした回転(yaw)の3種類だ。「マットレスをひっくり返す」とは、結局のところ、この3つの操作と、「何もしない」を組み合わせることに他ならないと見抜く。さらに、回転の組み合わせにより、別の回転と一致することも思いつく(たとえば、「ピッチ」+「ヨー」→「ロール」とか、「ピッチ」+「ピッチ」→「何もしない」)。ここまで一般化すると、群論(ここではクラインの四元群)が登場する。あの「クラインの壺」のクラインだ。
日常の、ちょっとした疑問をとりあげて、あれこれいじり回し、さまざまな分野から問題に迫る。歯車のギア比から始まった話題に、いつのまにか素数とフィボナッチ数が登場し、西暦2000年問題、ついには西暦10000年問題へリレーしてゆく手際は、鮮やかだ。今までの(科学の)啓蒙書と毛色が違うのは、解よりも解決法に力点があるところ。アメリカ合衆国の分水嶺を見つけるために大洪水をシミュレートしたり、シンプルな数学の問題(NP完全)にわざわざ物理系のモデルに対応させて理解しようと試みる。結論よりも試行錯誤が好きなのだな、と思わせる。
著者のユニークなのは、正解云々ではなく、着眼点と発想の自由度だ。畑違いからのアプローチからトンでもないところまでもって行かれる。この「触れるサイエンス」と「連れて行かれ感」で、ついついページが進む。眠れぬ夜のお供に開いたのに、どんどん読み耽ってしまう。
なぜ西欧が覇者なのか?これに「思考様式」から応えた一冊。
数量化革命 キモはこうだ。定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった(→数量化革命)。その結果、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させた(→近代科学の誕生)。
このような視覚化・数量化のパラダイムシフトを、暦、機械時計、地図製作、記数法、絵画の遠近法、楽譜、複式簿記を例に掲げ、「現実」を見える尺度を作る試行錯誤や発明とフィードバックを綿密に描く。
- 複式簿記・記数法:量を数に照応させることで、動的な現実を静的に「見える化」させる。あらゆる科学・哲学・テクノロジーよりも世界の「世界観」を変えた(と著者は断言する)
- 地図製作・遠近法:メルカトル図や一点消失遠近法を例に、三次元的な広がりを二次元に幾何学的に対応させた。さらに、図画から「そこに流れている時間」を取り去り、空間を切り取られた静止物として再定義した
- 暦法・機械時計・楽譜:時を再定義することで、時間とは一様でニュートラルなものであることを「あたりまえ」にした。定量記譜法により、「音がない」時間(=休符)すなわちゼロ時間が見いだされる
数量化革命とは、一言でまとめると、「現実の見える化」になる。ん?現実は"見える"に決まってるじゃないか、というツッコミは、そのとおり。数量化革命「後」からすると、あたりまえのことが、革命「前」はそうではなかった。 そこでは、「時間は、その間に生じたものと同一視され、空間はそれが内包するものと同一視されていた」という指摘が面白い。年代は統治者の名で記録され、ゆで卵をゆでる時間はグレゴリオ聖歌を歌う間になる。この感覚は今でも通用する。東京ドームで量を、駅徒歩で距離を「はかる」のだ。
計る・測る・量る―――「あたりまえじゃなかった」ものが「あたりまえ」に変容する様は、ゆっくりとだが確実に進行する。著者はそのちょうど変化の境目・ティッピングポイントへ誘ってくれる。ここが一番の読みどころで、たっぷり知的スリルを感じた。現実を再「定義」する思考の動き方が掴み取るように分かるのだ。著者のスタンスは天邪鬼的で、権威主義に頼らず、「そのとき席巻していた思考」を執拗に追いかける。
面白いだらけだが、不満もある。肝心なところが、ないのだ。どのように(how)は綿密に記されているものの、なぜ(why)が見当たらない。世界の覇者となった理由は、数量化革命が起きたから。それは分かった。だが、それが、他ならぬ西欧で起きたのは、なぜなのか?この説明が薄いのだ。ソロバン、暦、地図、インド・アラビア数字、日時計、水時計は他の地域にも存在した。だが、他ならぬ西ヨーロッパ人が数量化・視覚化に気づいたのはなぜか?他の文明・地域・国家・勢力との比較がない。
著者は結果から原因を説明しており、ニワトリ卵となってしまう。この点では、ジャレ・ド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」に軍配が上がる。遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫っている。そして、ある究極の(強力な!)結論に達している。併せて読むべし。
習うより慣れろ、学ぶより真似ろ。
やりなおし数学シリーズ。いつもと違うアタマの部分をカッカさせながら、3週間で一気通貫したぞ。もとは小飼弾さんへの質問「数学をやりなおす最適のテキストは?」から始まる。打てば響くように、吉田武「オイラーの贈物」が返ってくる……が、これには幾度も挫折しているので、「も少し入りやすいものを」リクエストしたら、これになった。
本書の特徴は、「つながり」。アラカルト方式を改め、高校数学の体系を一本化しているという。なるほど、上巻の「数と式」の和と差の積の形に半ば強引に持ち込むテクは、下巻の積分の展開でガンガン使うし、図形と関数はベクトルと行列の基礎訓練だったことに気づかされる。ベクトルが行列に、行列が確率行列に、さらに行列がθの回転運動や相似変換に「つながっている」ことが「分かった」とき、目の前がばばばーーーっと広がり、強制覚醒させられる。
上巻
1章 数と式
2章 方程式・不等式と論理
3章 平面図形と関数
4章 順列・組合せと確率
5章 指数・対数と数列
6章 三角関数と複素数平面
下巻
7章 ベクトル・行列と図形
8章 極限
9章 微分とその応用
10章 積分とその応用
11章 確率分布と統計
高校ンときと明らかに違うのは、テストするのは、自分であること、期限がないこと。期末試験も受験もない(そういや、「数学=テスト」という構図から、ついに逃れられなかったなぁ、高校時代)。好きなだけしがみついてもいいし、早々とあきらめてもいいわけだ。おかげで、全体のなかの部分として学びなおすことができた。要するに、高校数学とは微積分なんやね。
概念やテクニックの集大成として微積分に収斂されていく全体像が見えてくる(確率・統計という例外もあるけど)。微積分を理解するために極限があって、それを支えるアプローチや、同じ本質の別のふるまいとしてのベクトルや行列、三角関数や対数が説明される。それらの理解の基礎として、図形や関数、方程式や論理が準備されている。逆順に話したが、数学という道具を使いこなす段階を考慮した章立てだね。
昔むかし、あるところに若い脚本家がおりました。野心家の彼は、誰もが夢中になる映画をつくろうと思い立ちました。そして彼は、古今東西の神話や伝説から物語の共通性を抽出した「千の顔をもつ英雄」を元に、ひとつの映画をつくりました。
その映画の名は、「スター・ウォーズ」。
おびただしい事例を枚挙し、かつて持っていた初源の意味がおのずから明らかになるように、原型神話そのものに語らせるのが、本書の試みだ。それによって、宗教と神話の仮面を被って偽装されてきた人類の世界観を詳らかにする。さらに、伝説の人物の生涯、自然の神々の力、死者たちの霊、部族のトーテム祖先たちの形姿を借りて描かれる"英雄"たちの行動を積分することで、いわゆる「英雄の条件」を深堀りする。
だから、具体的なエピソードの英雄成分の抽出において、オビ=ワンやルーク、ヨーダやベイダー卿といったキャラクターを微分することも可能。だが、それはものすごくゼータクな読書になるはず。読み進むにつれて、スター・ウォーズに限らず、記憶しているあらゆるヒーロー・ヒロインたちのエピソードの噴出に取り囲まれて身動きが取れなくなるからね。
また反対に、今のウツワに注ぎなおすことによって、本書を新しい酒として発酵させることも可能だから面白れぇ。要するに、このフレームから別の物語を紡ぎなおすのだ。どんなストーリーフレームが「面白い」ものとして人類の深層レベルで記憶されているのかが列挙されているから、あとは「いま・ここ」の演出方法に沿って飾りなおすだけというお手軽さ。ストーリーテラーとして生計を樹てる人なら、必ずおさえている(もしくはパクっている)一冊やね。それくらい普遍性と恒常性を持っている。
著者キャンベル曰く、そこには人間行動の意識化されたパターン下にある無意識的な欲望、恐れ、緊張に付与されている象徴を汲み取ることができる。換言すると、神話の恒常的なパターンを分析さえすれば、(時代・地域を超えた)人間性の最深層に秘められた記録を抽出できるというのだ。
「愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ること」―――この文が出てくるところで、胸を衝かれるだろう。
読んでいて、何度も妬ましい炎に焼かれる。サン=テグジュペリはあらゆる乗り物が果たせなかった、速度と高度を得ただけでなく、その高みから観察する目と、見たものを伝える言葉を持っていたのだから。
たとえるなら、究極に達したアスリートかアストロノーツが還ってきて、自分のセリフで批判を始めたとき、わきあがる嫉妬の痛み。一つ一つわたしの胸に刺さる言葉は、究極からの帰還者だから吐けるのか、究極への到達者だから見いだせるのか、分からない。分かるのは、わたしには絶対たどり着けないことだけ。
このセリフは、路を失い、砂漠に墜落して、それでも奇跡的に助かった彼と僚友のエピソードから酌みだされる。航路から外れており救出隊は絶望的だ、食糧は燃え尽き、水は砂漠が吸ってしまった。2人は生きるためにあらゆる手立てを尽くそうとするが、ことごとく失敗する。渇きに声を失い、幻覚が見はじめ、死まであとわずか。2人のあいだに、一種の"希望"のように横たわるピストルが不気味だ。
そこで、残骸の中から一果のオレンジを見つけるのだ。すぐさま2人で分かちあう。そして、死刑囚の最期のタバコのように味わう。そして、進むために、もう一度立ち上がる。同じ運命に投げ込まれ、ピストルやオレンジを前に顔を見合わせることも可能だ。だが、彼らはそうしなかった。東北東に進路をとって、歩き続ける。この名言は、生死ギリギリのところから酌みだされた美酒なのだ。
「星の王子さま」だけじゃもったいない、必再読の一冊。ただし、再読のたび、より芳醇となるだろう。
こころが傷んだときの保険本。「なぜ私だけが苦しむのか」と同様、元気なときに読んでおいて、死にたくなったら思い出す。
「なぜ私だけが…」は、わが子や配偶者の死といった悲嘆に寄り添って書かれている。いっぽう、「それでも人生に…」は、生きる意味が見えなくなった絶望を想定している。こうした喪失・絶望に陥っているときに開いてもダメかもしれない。だが、「あの本がある」と御守りのように心に留めおいているだけでもいいかもしれぬ。「これを読めば元気がもらえる」と言ったらサギだろうが、少なくともわたしは、これのおかげでもうすこし生きたくなったから。
著者はヴィクトール・フランクル、ナチスによって強制収容所に送られた経験をもとにして書かれた「夜と霧」は、あまりにも有名。凄まじい実態を淡々と描いた中に、生きる意義をひたすら問いつづけ、到達した考えを述べている(リンク先のレビューにまとめた)。
「それでも人生に…」は、このテーマをさらに掘り下げ、さまざまな視点から疑いの目と、批判への応答を試みる。いくつかは肌に合わないかもしれない。彼のように考えるのは難しい、そう感じるかもしれない。だが、それを理由にして、フランクルがたどり着いた答えを無視するのは得策ではない。いったん受けて、噛み砕く。
フランクルは、自殺の問題を四つの理由から考える。心を病むのではなく、身体状態の結果から決断する場合、自分を苦しめた周囲の人へ"復讐" するための自殺、そして生きることに疲れて死のうとする場合のそれぞれの自殺に答える。だが、四つ目の理由に最も強く反応する。すなわち、生きる意味がまったく信じられないという理由で自殺しようとする、「決算自殺」の場合だ。
決算自殺とは、いわば人生からマイナスの決算を引き出したので、死のうとすることだという。生きてきたその時点での、借方と貸方を比べ、人生が自分から借りたままになっているものと、自分が人生でまだ到達できると思っているものとを突合せる。そこでどうがんばっても返してもらうことはないことに気づいて、自殺する気になるのだと。
これに対しフランクルは、「しあわせは目標ではなく、結果にすぎない」と言い切る。人生には喜びもあるが、その喜びを得ようと努めることはできないという。"喜び"そのものを「欲する」ことはできないから。
よろこびとはおのずと湧くものなのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。
不治の病にかかり余命が告げられた人、非生産的な毎日を送っている老人、病気で動くこともままならなくなった人、働けなくなった人―――著者は、さまざまな逆境を例に、そこでどう考えるかを提案する。いつまで不治だとみなされるかは誰にも分からないという。「ただそこにいる」だけで子どもや孫の愛情に包まれ、代替不可能でかけがえのない存在もあるという。
たとえ全てのものが取り上げられても、人としての自由は、取り上げることができなかった強制収容所の体験を語る。つまり、選び取る自由は残っていたというのだ。収容所が強いる考えに染まるのではなく、"わたしならこうする"という選択の余地は、たとえわずかなものであれ、必ずあったという。そのわずかな余地で、"わたし"のほうを選べというのだ。
つまり、生きることの一瞬一瞬が、この選択を問われていることに他ならないという。そして、生きることは、その一瞬の具体的な問いに答えることであるのだと。人生の意味を一般的な問題にすることは、あたかもチェスの個々の局面を離れて、「一番いい手は何か」と問うようなもの。定石はあるかもしれないが、あくまでもその一手を自らが選ぶことが、生きることなんだろうね。人生に意味はないけれど甲斐はある、そう納得させてくれる一冊。
受験であれ性交であれ、結婚であれ親業であれ、人生は初めてに満ちている。そして、初めてのときはドキドキ(ワクワク?)するもの。いざ本番になって慌てないように、予行演習をするのだ。過去にさかのぼるように赤本を解いたり、暗闇でコンドームを(裏表をまちがえずに)装着したり、さまざまなな「予習」を積んできた。
本書では、「がんにかかる」予行演習をする。日本人の2人に1人はなるといわれており、目耳ふさいで知らんぷりにはムリがある。受験や性交と違って、突然・唐突・直接だから、準備なしの初体験は危険でもある。「あのときに訊いておけばよかった」とか「あんなガセに振り回された時間が…」というのが、ずっと後になって分かるから。もちろんそうなったら、ショックを受けるだろうし、かなり慌てることは間違いない。しかし、予習するとしないとでは雲泥だ。受験や性交がそうだったようにね。
さらに、自分に限らず、パートナーや近しい人がなった場合のシミュレーションにもなる。たいていは、ショック→なんで私が(怒り)→ネットで検索しまくり→サプリや民間療法に取り込まれる構図のようだ。その良し悪しはともかく、「主治医とのコミュニケーション」が鍵になる。
本書は、患者とその家族の目線からみたケーススタディ集だ。人生のさまざまなステージで「がん」と出会い、どうやって乗り越え/付き合い/闘ってきたかの演習になる。予防から告知されたときの心構え、検診や療法選択のコツ、費用から最期の迎え方まで、すべて「練習」できるぞ。もちろん具体的な療法や症状は人さまざまだが、どうやって「がんとつきあっていく」かを考える羅針盤になった。
練習の中で、わたしのがんに対する態度が変わってくる。定期検診での早期発見は「めでたい」ということや(米国では"Congratulrations!"と祝うらしい)、飛び散ってしまった場合は「室内から屋外へ逃げた鳥を捕まえるようなもの」など、"がんを視る目"が変わってくるのだ。「どんなに気をつけても"なる"ものだから、定期健診は保険と思え」なんて発想は目を引いたぞ。
いきなり初体験はキツいから、これで何度も練習しよう。
あと数年で思春期にさしかかる。「なってから」読むのでは遅い。だから、「なる前に」やれる準備はしておこう。そのための心強い一冊となった。一読、「思春期の親業」に自信がつく、スゴ本というよりも、心構えをつくる本。
もちろんマニュアル世代ですが何か? こういう手引き本というかマニュアル本を良しとしない人がいる。だが、むしろ先達の経験+専門家の知識を短期間で吸収できる。あたって砕けろ的な現場主義はいただけない。本で練習して、実地に適用する。教本ばかりも情けないが(ビジネス書フェチの畳上水練)、選んで読んで、実践とフィードバックをしていこう。
思春期のポイントは2つ、「自尊心」「コミュニケーション力」を育てること。「自尊心」とは、そのままの自分の存在を肯定する気持ちのこと。「コミュニケーション力」は気持ちを分かりやすく伝えることで、他者とのつながりを深めたり、求めるものを得る能力のこと。両者は密接な関係にあるという。自尊心が低いと、「どうせ誰も自分のことなど聞いてくれない」と思い込んでコミュ力も低下するが、反対にコミュ力を通じて相手とのつながりを感じると自尊心が育つそうな。そして本書の目的は、その具体的な育て方にある。
このエントリでは、受け取ったものをいったん咀嚼して自分向けに"まとめ"直している。
まず、著者の姿勢が潔いというか謙虚だ。著者自信も10代の子を持つ母親。だから親の不完全さはよく分かっており、本書を「こうすべき」と読まないでと釘を刺す。ありがちな「親の不安を煽って売ろうとする育児書」とは一線を画している。そして、彼女の基本スタンスはこうだ。
変えられるものは、変える
変えられないものは、折り合い方を考える
ラインホルト・ニーバーのコレを思い出す。
神よ願わくは我に与えたまえ
変えられるものを変える勇気を
変えられないことを受け入れる忍耐を
そして、その二つを見分ける知恵を
この二つの知恵を実践しようと心がけると、子どもへの姿勢は、次のように変わるだろう。「なぜ、そんなことをしたのか?」という問い詰めから、「ほんとうは、どうしたかったの?」という問いかけへ。
読んだら覚醒した。料理が好きに自由になる一冊。
料理とは、振付け通りに踊るキッチンのダンスにすぎず、料理上手とは、いかに振付けを完璧に再現できるかだと思い込んでいたわたしは、この薄い文庫で、木っ端ミジン切りにされた。
本書の本質はこうだ。要するに、料理ということは、道具や調味料の差異はあれ、「空気」「水」「油」という要素が「火」の介在によって素材をいろいろな方向へ変化させることだと喝破する。それぞれを頂点とした四面体を考案し、あらゆる料理はその四面体のどこかに位置するというのだ。そして、ある料理が占める一点を動かすことにより、違った形の料理へと導くことができるというのだ。
この四面体を腹に落とすために、世界中のさまざまな料理の「本質」を換骨奪胎(文字通り!)してくれる。冒頭の「アルジェリア式羊肉シチュー」が、「コトゥレット・ド・ムトン・ボンパドゥール」に変換され、さらに「ブフ・プルギニョン」から「豚肉の生姜焼き」に一気通貫する様は鳥肌モノ。
それぞれの皿の相違点ばかり見つめていると、それらの料理は相互に関連のない別物になる。だが、本質を射貫くと、実はひとつの料理なのだということが分かる。ひとつの本質が、時と所に応じて風土ごと様々に異なる姿を見せているだけなんだということに気づくと、次の料理が格段に広がってくる。言い換えると、料理のレパートリーが、ぱあっと広がる。料理の一般原則を「手が探し当てていく」状態になるのだ。
ただし、料理を職業とする人からは、かなりの酷評をもらっているらしい。料理の原理原則に迫るあまり、枝葉をバッサリ斬ってるから。確かに牽強付会じみている(でも本質)なトコもあり、干物とは太陽に炙られたグリルだといい、サラダの語源が「塩味がつけられたもの」だからあらゆる料理はサラダになるという。
それでも、本書の価値はいささかも減らない。レシピ通りに作ることは大切だが、「レシピ通りにしか作れない」罠に陥っているわたしの蒙を啓いてくれたから。
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│この本がスゴい!2011 └――――――――――――――――――――――――――――
今年ほど「生きたい」欲望が強く湧き上がったときは無かった。
不幸に遭った方へ思いを馳せるいっぽうで、わたし自身が「生きねば」と自分に言い聞かせた。当たり前すぎて気づかなかったことに気づいた。それは、「生きることは食べること」、そして「エロスは生きる力である」こと。食事と色事こそが、わたしが生きることだと、あらためて思い知った。
安くて野蛮でやたら旨い一冊。
レシピ本は親切だけど、信頼するのはクチコミになる。掲示板やコミュニティでかじったレシピを頼りに、すばらしくうまい一皿を作ったことが何度もある(ピェンロー鍋とかアンチョビソースのパスタとか)。嬉しいのは、ただ簡便なだけでなく、「ここだけ肝心」「これはこだわる」といった、ポイントを突いているところ。
本書はそんなキモが並んでいる。しかも、完全分量度外視の原則を貫き、アミノ酸至上主義をせせら笑うレパートリーが並んでいる。「塩小さじ 1/2」みたいな科学調味料的態度を突き抜けて、塩の量がいかほどと訊かれたって、答えようがない、君の好きなように投げ込みたまえ、と言い切る。
それでも、「ゴマ油だけは、上質のものを使いたい」とか、「暑いときは、暑い国の料理がよろしい」のように、妙な(だがスジの通った)こだわりが出てくる。おそらく、ない材料はなくて済ませはするものの、ここを外しちゃダメだ、という最低限の勘所だけは伝えようとしたからだろう。ヘタの横好きのわたしでも分かる、料理で大切なのは「下ごしらえ」なことを。檀センセは説明を厚くすることで、その勘所を伝授する。
次のイメージは、檀流クッキングで覚えた「イカのスペイン風(プルピードス)」。イカを丸ごとさばいたのは初体験だったが、200円ですばらしく美味な一皿ができあがった。「本書の一品一品を、わが腕に叩き込むように覚えてゆけ」を文字どおり実践するべ。本書は、幅書店の88冊で知った一冊。美味しい出会い、ありがとうございます、幅さん。
「死ぬまでに読みたい」もとい、「読んでから死ね」級のスゴ本。
多くの人が編さん・翻訳しているが、なかでも一番エロティックでロマンティックでショッキングな奴が、バートン版なのだ。淫乱で野卑で低俗だという批判もあるが、その分、意志の気高さや運命の逆転劇が、いっそう鮮やかに浮かびあがる。妖艶な表紙からして子どもに見せられないし、残虐だったりドエロだったり萌えまくる描写が山とある。これらは、人性のドロドロの濃淡・陰影をつけるための淫猥ではないかと。
物語のバリエーションは無数。シャーラザッドの千一夜におよぶ千態万様の物語は、悲劇あり、喜劇あり、史話あり、寓話ありといったふうで、変幻万化、絢爛無比の東洋的叙事詩がくりひろげられる。献身の情熱があり、狂信の沸騰もある。哀愁さそうペーソスあり、荘重から滑稽への急転落もある。甘さ、深さ、清純さ、多彩、華麗、強靭さがちりばめられているなかに、どうしようもない厭世観が透けて見える。
この世ならぬ美しさの王女の体の、いちばん秘密なところに隠されていた赤い宝石の話とか、魔神のたわむれから、遠く離れた国の王子と王女が恋におちて数奇な運命をたどる一大ロマン「カマル・アル・ザマンの物語」とか、妖艶な美女との官能的な恋も束の間、怪盗の手により苦境に陥った商人のスリル満点の話など、まさに夢のような物語ばかり。妻の仕打ちに耐え忍ぶ夫に身につまされならも、二転三転どんでん返しでハラハラどきどきさせっ放し「靴直しのマアルフとその女房のファティマー」なんて、物語を読む面白さとか喜びのエッセンスそのものが沁み入ってくる。
ちなみに、よく知られている「シンドバットの冒険」の面白さレベルは、「中」だ。児童書だけで知ってる気になってたらもったいない。少なくとも、少年少女版「アラビアンナイト」では、「シンドバット」が盛大に去勢されてることが分かるだろう。好奇心旺盛な若者の冒険を描いたというより、行く先々で殺人と略奪に勤しんだ告白記と読める。特に、次から次へと落ちてくる人を石で撲殺するスプラッタなシンドバットは、おぞけをふるって読むべし。
全11巻を一気に読む必要はない。枕元でちびちびと、シャーラザットの一夜語りをそのままに、毎夜の楽しみにしてもいい(わたしは、1年かけて惜しみ愛しみ読んだ)。千と一夜の後、シャーリヤル王に訪れた変化は有名だが、シャーラザットに起きた出来事には感無量になった。
死ぬまでに読みたい、もとい、読まずに死ねない物語。最高の物語とは、これだ。
エロスは生きるチカラだ、皮膚感覚で思い知る。
自分を見ることはむずかしい。鏡なしでは自分を見ることすらできないし、その像は反転している。「他人から見た自分」を見るためには、最低2枚必要だ。どんなにレンズが歪んでいても、カメラや他者の目があれば、自分が「どう見られているか」を知ることは可能だ。これを「日本人のエロス」でとことんヤったのが、本書。
「趣味はエロス」というわたしだが、本書には大いに教えられる。単純にわたしの精進が足りないのか、それとも著者のフランス女が半端じゃないのか、分からぬ。徹底的に、全面的に、過激に貪婪に、日本人のエロスを詳らかにする。もちろん、「俺はそんなことしない」「それは普通の日本人じゃない」とか弁明するのは可能だ。
だが、普通ってなに?どんなに異様で異常だろうと、それを追求・志向する人が居るのは、日本そして日本人なのだ。そいういう特殊もひっくるめて普遍化しているのが、日本なのだろう。カレーから宇宙船まで、なんでも取り込み自家ヤクロウにする。ケモノレベルのエロスから、高度文明化した情動まで、想像力の尽き果てるまで許し許される。わたしはこの大らかさが好きだ。目ぇにクジラ立てるよりも、まぁまぁなぁなぁゆるめなトコが大好きなのだ。残念ながら昨今の情勢では、堂堂エロスを語れない。外のレンズを通してでしか、日本のエロスを語れないのは残念だが、本書が刊行されるだけのウツワは残っていると信じたい。
「普通」ってなんだろう?次々と現れるニッポンのセックス業(ごう、と読むべし)を眺めていると、境目が見えない。むしろ「ブルセラショップ」や「うろつき童子」は、メジャーなジャンルだろう。だが、「ライクラ・コスプレ」や、「ラブドール・デリバリー」は、ひとつの極北か、未来の冗談に見える。 google 画像でダメージ食わないよう急いで説明すると、前者は伸縮自在のスーツを全身に被ったプレイで、後者は精巧に作られたラブドールの宅配レンタルの話だ。いくらエロスが得手でも限度がある。
しかし、著者は違うと主張する。日本人は、変身願望があるという。仏教伝来このかた、日本の文化はエゴを拒否するようになったという。西洋的な問いかけ「私とは何か」ではなく、「どうしたら私は私以外のものになれるのか」という解脱への問いかけがなされてきたのだと。そして、その証拠として遊戯王やらセーラームーンを出してくる!ある日突然、別次元で活躍するヒー
ロー・ヒロインに託す日本人の熱意は、現実以外に別世界があり、魂の転生で到達するという集団的幻想の現われなのだと。さらに、ライクラ着ぐるみとは、男が女に変身するだけではないという。実際には「女」になるのではなく、「アニメの女の子」になる、即ち、性を越境しているのではなく、現実をも越境しているのだと。藤崎詩織になりたいかどうかはともかく、「いま」「ここ」の自分ではない存在には、あくがれる。
ほぼ全ページに掲載される、豊潤な画像もわたし「好み」を視覚化してくれる。会田誠は「ジェローム神父」でガツンと犯られたが、本書では「切腹女子高生」という最高にクレイジーなグラフィティが紹介されている。ロリ自虐やね。さらに、日本人の触手好きの原型は、葛西北斎「喜能会之故真通」の「蛸と海女」にあると喝破されたり。目ウロコではなく、違うところにまぶたがあったことに気づくとともに、ほぼ強制的に開かされた。わたしには、こんな「好み」があったなんて。エロスのために生きているといよりも、エロスにより生かされているのだ。これが肌で分かった所以。
かなり限定されたトピックで語ったが、本書にはありとあらゆる日本のエロスに満ち溢れている。したがって、わたしの例があなたの「うへぇ」であったとしても、あなたのピタリが必ず見つかる、かならず。それほど日本人のエロスは幅広で、あなたは(わたしも)多様なのだ。なぜなら、エロスとは、偏愛なのだから。
あなたが抱いたエロスこそが、ジャパニーズ・エロスそのものなのだ。
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│この劇薬小説がスゴい!2011 └――――――――――――――――――――――――――――
「劇薬小説」「劇薬系」とは、読み手の精神に大ダメージを与える作品のこと。かなり丈夫なココロを準備しておかないと、「読まなければよかった」と後悔に苛まれるかも。自信がない方は以降を読まないほうが吉。
この世が始まって以来、最も淫らで穢らわしい物語。
自分を壊す本を選んで読む。殻を砕き、やわらかいエゴを引っ張り出し、押し広げる、自己を拡張する読書。わたしの心を抉りだす読書。なかでもキツいのは、次の3つ。誘拐した少女の全身の穴という穴を縫い合わせる───ただし口とヴァギナを除いて。『おまえはその二つの穴だけで世界とつながるんだ、その穴だけでわたしを感じるんだ』(ラヴレターフロム彼方)。子宮を裂いて胎児を取り出し、代わりにぬいぐるみを押しこむ陵辱破壊、あるいは、女子高生コンクリート詰殺人事件で有名(真・現代猟奇伝)、家族丸ごと監禁し、家族同士で殺し合いをさせ、家族中で死体処理させるノンフィクション(消された一家)。
これら読むと、最高に胸クソ悪い満腹感を味わえる。自分の中に、こうまでドス黒い感情が溜まっていたのかと思うと、心が溶ける。この3つを超えるやつはもうないと信じてた。
しかし、間違ってた、上には上がいる。しかも、かなり上で、マルキ・ド・サド「ソドムの百二十日」だ。上3つを含み、もっと狂ってる。一言なら、「読む拷問」。男色、獣姦、近親相姦。老人・屍体に、スカトロジー。読み手にとてつもない精神的ダメージを与え、まともに向かったら、立てなくなる強烈な兇刃に膾にされる。イメージを浮かべながら読むと、想像力が絶叫する読書になる。三柴ゆよしさん、オススメありがとうございます。間違いなく劇薬No.1ですな。
鼻水吸引や髪コキ、愛液フォンデュ、ミルク浣腸は序の口で、真っ赤に焼けた鉄串を尿道に差したり、水銀浣腸で腸内をごろごろする感触を楽しむ。抜歯や折骨を趣味とする男の話や、女の耳や唇を切断したり、手足の爪をムリヤリ剥がす話が喜喜として語られ、実践される。眼球を抉ったり、乳首や睾丸を切断したり、嗜虐趣味極めすぎ。
彼らにとって他者とは、壊す対象になる。犯しながらノコギリでゆっくり首を切断したり、恋人同士を拉致して、彼女の乳房や尻を切除して調理して彼氏に食べさせたり。母に息子を殺させたり、塔の上から子どもを突き落とす『遊び』や、むりやり膣に押し込んだハツカネズミや蛇が娘の内臓を食い破る様を眺めるなど、よくぞ想像力が保つなぁと感心する(同時に、ちゃんと読んでる自分がたまらなく嫌らしい)。
圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、そして傷害致死―――ここにはあらゆる「死」の形が描かれている。「死」は一つなのに、至る道はさまざまやね。
本書は、性倒錯現象の集大成ともいえる。自己愛、同性愛、小児愛、老人愛、近親相姦、獣姦、屍体愛、服装倒錯、性転換といった現象を、露出症、窃視症、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムといった性手段で果たそうとする。では、完全なる狂気から成っているかと思うと、そうではない。極端は異常性欲を、極めて冷静沈着に書いているからね。
想像力が凶器となる読書。目を疑え、そして自分を壊せ。
ホロコースト劇薬小説。
戦争が子供に襲いかかり、子供が怪物に変わっていく話。エグいのに目が離せない、手が離れない、強い吸引力をもつ小説だ。TIMES誌の「英語で書かれた小説ベスト100」に選ばれている。
「酒が人を駄目にするのではない、元々駄目なことを気づかせるだけ」という言葉がある。アルコールは本能をリミッターカットする。酒が個人に降りかかる狂気ならば、戦争は大衆を襲う狂気だ。10歳の男の子がサヴァイヴする疎開先の人々は皆、酔ったかのように本能に忠実だ。むきだしの情欲や嗜虐性が、目を逸らさせないように突きつけられる。目撃者=主人公なので、読むことは彼の苦痛を共有することになる。
体験と噂話と創作がないまぜになっており、露悪的な「グロテスク」さがカッコつきで迫る。日常から血みどろへ速やかにシフトする様子は、劇的というよりむしろ「劇薬的」。スプーンくりぬかれた目玉が転がっていく場面は、狂鬼降臨のあの「抉り出される目玉から見た世界が回転していく」トラウマシーンを想起させる。白痴の女の膣口に、力いっぱい蹴りこまれた瓶が割れるくぐもった音は、今でもハッキリ耳に残っている。読んだものが信じられない目を疑う描写に、口の中が酸っぱくなる。耳を塞ぎたくなる。そのうち、読んだものを一貫して信じようとする努力を放棄して、それぞれのエピソードごとに「主人公」がいたんじゃないかと思えてくる。
なぜなら、悲惨すぎるのだ。
苛烈な虐待を受け続けると、普通は死ぬ。氷点下の河に突き落とされ、浮かび上がるところを押し戻され呼吸できない状態が続くと、溺れ死ぬ。真冬の森に放置されると、飢え死ぬか凍え死ぬ。だが、彼は生き延びる。次の章では誰かに助けられるか、まるでそんなエピソードは無かったかのような顔で登場する。これは、様々な死に方をしていった子供たちの顔を集めて、この「彼」ができあがったんじゃないかと。
愛する人をモノにする、究極の方法。
それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる―――「魔法少女マギカ☆まどか」で囁かれた誘いだ。
悪魔のようなセリフだが理(ことわり)はある。乱歩「芋虫」の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。まぐわいの極みからきた衝動的な行為かもしれないが、彼女がしでかしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」ことそのもの。早見純の劇薬漫画「ラブレターフロム彼方」では、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺様)を味わえというのだ。
感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。
ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。
子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。
読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる……はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく。
本書は、「劇薬小説ベスト10」で教わった逸品。「狂鬼降臨」や「城の中のイギリス人」といった肉体的おぞましさをキワ立たせるものや、「児童性愛者」や「隣の家の少女」のような精神的衝撃を受ける中で、本書は、悪夢に呑まれて帰ってこれなくなる肉体・精神の双方に対してダウナー系ダメージを喰らわせてくれる。
生きた迷宮をさまようような、誰かの悪夢を盗み見ているような毒書は、シロさんのオススメが発端。おかげで、うなされるようなおぞましい一冊にあえました、ありがとうございます。
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│スゴ本2012 └――――――――――――――――――――――――――――
ゆるやかに、自分の「死」と向かい合う準備をしている。別に病気をしたとかではないが、一番罹る可能性が大である「がん」になったら…を具体的に想像するようになった。そして今年、不意打ちのようにいきなり死んでしまうこともある、と考えるようになった。
死にたくない、は理不尽なので、「まだ」死にたくない、と言い換えよう。では、どうしたら「まだ」が減らせるか、ピックアップしよう(ゼロは無理)。いわば、「死ぬまでにしたい10のこと」やね。「死ぬまでに読みたい10冊」までは絞れないが、100作品なら選べるだろうか。このリストは入れ替わりの激しい揺れ動くリストかもしれない。だが、順々に読んでいこう。
オフ会について。スゴ本オフはより濃く深くまろやかになった。「旨さ」も加わって、すごい出会い場になっている。本屋オフは財布と相談しながら増やしていこうかと。大人のための「エロ本オフ」は来年の課題だな。ビブリオバトルは本というよりプレゼン合戦なので、しゃべり場といて活用していこう。
スゴい本に出会えるのは、皆さんのおかげ。オススメいただいた方、つぶやかれた方、(カウンター本を提示しつつ)叩かれる方に感謝して、精進していこう。
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コメント
装甲悪鬼村正
アドベンチャーゲームなんですが話の内容に衝撃を受けました
オススメです
投稿: | 2011.12.01 23:27
>>名無しさん@2011.12.01 23:27
オススメありがとうございます。
「魔法少女まどかマギカ」→「虚淵玄」→「沙耶の唄」→「ニトロプラス」のつながりで、タイトルだけは知っていましたが。がぜん興味がわきました。あと、かつて誰かにオススメされたような…再チェックします!
投稿: Dain | 2011.12.02 00:50
はじめまして! 最近になって、新潮文庫版「カラマーゾフの兄弟」の帯からこのサイトを知り、すぐさまお気に入りに登録させていただきました!
多読のDainさんにお勧めなんておこがましいですが、私は、西尾維新の「クビキリサイクル」から始まる「戯言シリーズ」(講談社文庫)をお勧めします。
強烈な個性を持つ登場人物が織りなす、スピード感あふれるミステリーシリーズです。ぜひ読んでみてください!
投稿: あひる | 2011.12.04 20:35
自分は数学をやり直すのにチャート式使ってます。ひたすらノートに書き付ける、と言う効率の悪いやり方ですが・・・・・・。
『人間の土地』、面白そうですね。今度、読みたいと思います。
投稿: のどぼとけ | 2011.12.05 20:33
>>あひるさん
オススメありがとうございます。
西尾ワールドは「きみとぼくの壊れた世界」で堪能しました。
妹+ツンデレ+密室殺人「きみとぼくの壊れた世界」
https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2005/08/post_142f.html
戯言シリーズや○語シリーズは嫁さんがフォローしてて、感想を訊くと、「化物アニメ観たアンタは別に読まなくてもいい」とのことなので、傍で様子見です。
>>のどぼとけさん
コメントありがとうございます。読書時間は痛勤時間なので、(ホントはノートしたいのに)書けないのが残念です。「数学ガール」を読んでからこっち、数学は手を動かすが信条になっているので、ノートを傍らに数学したいのですが…
投稿: Dain | 2011.12.06 01:30
始めまして、こんにちは。
「ゲド」初読だったのですね。私も成人後に読みました。3巻までも深いですが、4巻以降は完全に大人向けだと思っています。
同じル=グウィンの〈西のはての年代記〉(『ギフト』『ヴォイス』『パワー』の三冊。河出文庫)は、著者の『帰還』以降の思索を踏まえた〈ゲド〉の再話、という側面も持ちつつ、物語論に踏み込んだ傑作です。未読でしたらぜひ。
投稿: けいりん | 2011.12.13 08:38
>>けいりんさん
教えていただき、ありがとうございます。
「空飛び猫」「闇の左手」「ラウィーニア」をオススメいただいているのですが、「西のはての年代記」も面白そうですね。手にしてみます。物語と作者のバランスを気にしています。ストーリーに作者の「地」があからさまに見えると、鼻につきます。良い書き手は、自らを隠し、良い読み手は、そこを暴くものだと思っています(ストーリーに語らせる、というやつですね)。
投稿: Dain | 2011.12.15 23:24
なるほど
結構参考になりました
他の記事も拝見させていただきます
更新期待しております
投稿: 毒舌野郎 | 2013.04.30 10:10