「あっかんべェ一休」はスゴ本
tumblr で見つけた問答。
───宗教嫌いな人に、こう問うてみよう。
- この世の中に「唯一絶対なる存在(神)」が存在するだって?そんなのあるわけない
- 「人生かくあるべし」とか「精神のレベルを上げる」とか、下らねえ。腹が減ったら食べる。眠かったら寝る。それでいいじゃん
- この世に正義とか悪とか、そんなものねえんだよ
- 秘法とか修行と称してなんだかわけのわからん事をして何になるというんだ?あいつらバカだね。神秘体験なんてヤクでラリってるのと同じだ
そうか、わたしは仏教徒だったんだ、と啓かされた作品。ミサもジハードも縁がないが興味はある。手当たり次第に読み漁っているうち、共感できる/納得できない振幅が生まれる。積極的に信じる構えよりも、因って立つ場所に気づく。気風とか、迷ったときの判断の根っこにあるもの。ナントカ教徒「になる」のではなく、「である」ことに気づく感覚。
もちろん一休宗純がモチーフだが、室町から戦国の時代背景が濃密に描きこまれている。足利将軍家の血で血を洗う抗争と、巻き込まれた民の飢饉・疫病・一揆の絶望が、わたしの目を追うように緻密に広げてある。人が人を壊す時代だ。
最初は「一休さん」としても読めるが、彼の苦悩は俺の苦悩にオーバーラップする。生きるとは何か?わたしとは何か?こんな暗黒ドシャメシャな世に、わざわざ生きねばならぬのは何故か?悟りを開いた存在に「なり」たい。何かを「選ぶ」ということは、選ばれなかったものを捨てること(それは差別の心といわないか?)。ドストのカラ兄の大審問官まんまの問答も交わされる(養叟との対決だ)。
欲望!欲望!欲望!欲望を断ち切りたいという思いも「欲望」だ。煩悩から逃れることができない、わたし自身が煩悩なのだ。学問に励んで、事業を興して、家を成して人の道をまッしぐらに突き進むことが、何ものかになることが、生存戦略なのか?
ちがう、何か「になる」ことではないのだ、何か「である」ことに気づくだけ。決して何ものにもなれない「いま」「ここ」に気づくだけ。気づいたわたしが、「わたし」という者なのだ。パッとしない過去、お先真っ暗な未来を見やってもしようがない。
運命の環は確かにある。だが、それは過去から今に至るまでで尽き、今より未来に向けて連なっている。「いま」という結節点だけはベアリングのようにくるくる自在に廻っている。過去の煩悩に焼かれても、今の気分を決めるのは今の自分。どんな未来が待っていようとも、今とはこれっぽっちも関係がない。心配事は起きてから考えよう。
わたしは、わたしの煩悩ごと生きてみよう。600年前の苦汁と大悟がいっぺんにやってきて、まるで自分も悟ったかのような気になれる。すくなくとも次のシーンを読んだとき、目の前がぱあッと広がったのはホントだ。
悟りを開くと何が見える?
『今』が見える!
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コメント
最初の問答、出展はここからかな?
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/47/index.html
投稿: satoshi | 2011.10.24 23:20
>>satoshiさん
素晴らしい!
ありがとうございます。「詠み人知らず」だったのが、嬉しいです(しかも続きがもっと良い)
投稿: Dain | 2011.10.25 07:03