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「数量化革命」はスゴ本

 なぜ西欧が覇者なのか?これに「思考様式」から応えた一冊。

数量化革命 キモはこうだ。定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった(→数量化革命)。その結果、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させた(→近代科学の誕生)。

 このような視覚化・数量化のパラダイムシフトを、暦、機械時計、地図製作、記数法、絵画の遠近法、楽譜、複式簿記を例に掲げ、「現実」を見える尺度を作る試行錯誤や発明とフィードバックを綿密に描く。

  • 複式簿記・記数法:量を数に照応させることで、動的な現実を静的に「見える化」させる。あらゆる科学・哲学・テクノロジーよりも世界の「世界観」を変えた(と著者は断言する)
  • 地図製作・遠近法:メルカトル図や一点消失遠近法を例に、三次元的な広がりを二次元に幾何学的に対応させた。さらに、図画から「そこに流れている時間」を取り去り、空間を切り取られた静止物として再定義した
  • 暦法・機械時計・楽譜:時を再定義することで、時間とは一様でニュートラルなものであることを「あたりまえ」にした。定量記譜法により、「音がない」時間(=休符)すなわちゼロ時間が見いだされる
 数量化革命とは、一言でまとめると、「現実の見える化」になる。ん?現実は"見える"に決まってるじゃないか、というツッコミは、そのとおり。数量化革命「後」からすると、あたりまえのことが、革命「前」はそうではなかった。

 たとえば「時間」。もちろん時を計る単位は日や月だ。「1日」は明白な"見える"単位だから。日の出から日の出までを1日とした場合、その1日は半年前の1日と同じ「時間」にはならないし、昼や夜を等分した1単位も異なってくる(アワーとは呼んでいたが)。革命「前」の時間は、季節や地域によって伸び縮みするアコーディオンのような存在だった。

 この「1日」が、暦法により均質化する。機械化時計により等分される。体感的だった時間が、区切って記録できるものに変容する。「1日」が他の1日と、「1時間」が他の1時間と同じ長さに再定義されたのだ。そして時間に「価値」がつけられるようになる。利子や賃金を、時間で分けることができるから。もちろん「利子」という概念は以前からあったが、神の独占的な財産だった「時間」を数量化し、価格をつけられるということが「あたりまえ」となったことは革命的だろう。

 数量化革命「前」では、「時間は、その間に生じたものと同一視され、空間はそれが内包するものと同一視されていた」という指摘が面白い。年代は統治者の名で記録され、ゆで卵をゆでる時間はグレゴリオ聖歌を歌う間になる。この感覚は今でも通用する。東京ドームで量を、駅徒歩で距離を「はかる」のだ。

 計る・測る・量る―――「あたりまえじゃなかった」ものが「あたりまえ」に変容する様は、ゆっくりとだが確実に進行する。著者はそのちょうど変化の境目・ティッピングポイントへ誘ってくれる。ここが一番の読みどころで、たっぷり知的スリルを感じた。現実を再「定義」する思考の動き方が掴み取るように分かるのだ。著者のスタンスは天邪鬼的で、権威主義に頼らず、「そのとき席巻していた思考」を執拗に追いかける。

 たとえば、「簿記法の父」ルカ・パチョーリを、モンテーニュやガリレオと同列に並べて論じる。複式簿記の直接的な効用は、商取引を数字で正確に記録・配置することで、ダイナミックな経済情勢を静的に把握できるようになったことになる。思考様式としての簿記は日々実践され、適用されるにつれて強力にも広範囲にも広まっていく。取り引きは数値に抽象化され、仕分けることができる。

 著者は指摘する。デカルトやカントの著述に思いをめぐらせていた人もいただろうが、その何千何万倍もの人々が、几帳面に帳簿をつけていた。そして彼らの帳簿に適合するような形で世界を解釈し始めたのだ。現代文明の合理的特性とされるもの―――正確さ、時間の秩序、計算可能性、規格性、厳正さ、一定性、緻密な整合性、一般性―――これらを涵養したのは、「方法序説」や「純粋理性批判」よりも複式簿記の方が強力・広範だ。

 面白いだらけの本だが、不満もある。肝心なところは、ほとんど書いてないのだ。どのように(how)は綿密に記されているものの、なぜ(why)が見当たらない。世界の覇者となった理由は、数量化革命が起きたから。それは分かった。だが、それが、他ならぬ西欧で起きたのは、なぜなのか?この説明が薄いのだ。ソロバン、暦、地図、インド・アラビア数字、日時計、水時計は他の地域にも存在した。だが、他ならぬ西ヨーロッパ人が数量化・視覚化に気づいたのはなぜか?他の文明・地域・国家・勢力との比較がないのだ。

 著者は結果から原因を説明しており、ニワトリ卵となってしまう。この点では、ジャレ・ド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」に軍配が上がる。遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫っている。そして、ある究極の(強力な!)結論に達している(その結論は、わたしのレビューにまとめた→Google Earth のような人類史「銃・病原菌・鉄」)。

銃・病原菌・鉄上銃・病原菌・鉄下

 それでも強いて探すなら、二つの「原因」にたどり着く。一つは、西ヨーロッパ人は周辺的な存在だったからだという。合理主義的なギリシアの思考様式と、神秘主義的なヘブライの思考様式の両方がせめぎあい、西欧社会では、両者を説明したり、調整したり、再統合する必要があったという。そのせめぎあいから数量化・視覚化が生まれたという。梅棹忠夫「文明の生態史観」を思い出すね。

 もう一つは、身もフタもないが、西ヨーロッパ人は世界で一番カネに取り憑かれたからだという。マルコ・ポーロは、黄金で満たされた東洋の国を言葉巧みに吹聴しし、コロンブスは新世界で黄金を見つけることに固執した。コルテスと部下は血塗られた両手で血眼になって金を探し求めた。ずーっと白人ドヤ顔ですごいやろ論を読まされ、この文でオチがつく。

西ヨーロッパ人ほど金貨や銀貨に心を奪われ、その重さと純度を気づかい、現金の代替物である為替手形その他の証書類について策略をめぐらせた人々は、かつて存在しなかった。西ヨーロッパ人ほど計算、計算、計算に取り憑かれた人々は、かつて地上に存在しなかったのである。
 だが、それでも不十分だろう。これらは、北米や中南米にて虐殺・略奪・征服した理由であって、そうした力を手に入れた理由ではないのだから。著者は同じテーマについて、「ヨーロッパ帝国主義の謎」を書いている。これは生物学的、生態学的なアプローチから、白い帝国主義者たちに有利に作用したプロセスを明らかにした好著だという。手にしてみるか…

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