« ビブリオバトルのお誘い(残りわずか) | トップページ | 「数量化革命」はスゴ本 »

生きるとは、自分を飼いならすこと「老妓抄」

老妓抄 「短篇の傑作といえば?」でオススメされたのが、岡本かの子の「鮨」。そうかぁ…と読み直したら、わたし自身について発見を得た。嬉しいやら哀しいやら。

 テクストは変わらない。だから、わたしの変化が三角測量のように見える。わたしという読み手は、自ずと「わたし」にひきつけて読む。「わたし」と同姓の、同年代のキャラクターや、発言や考えに似たものを探しながら読む。結果、「鮨」なら潔癖症の少年、「老妓抄」だと老妓に飼われる男の視線に沿う読みだった。それはそれで旨い短篇を楽しめた。舞台やキャラや語りは、さらりと読めてきちんと残る名描写だから。

 でも違ってた、やっと分かった、ある感情が隠されているのだ。それは、ファナティック。叫びだす熱狂ではない。かつてマニアックだったもののベントに失敗して、溜まった余圧に動かされている残りの人生の話なんだ。だからおかしいほどに"こだわる"。老妓が余芸にあれほどまで熱を込めるのも、「食魔」の男が料理に異常なほどの天才性を見せるのも、満たされなかったから。趣味の鬼になることで、魂を使い尽くすことで、悶々とする胸のまったきを、逸らしたいのだ。

 それぞれ短篇ごとに、ファナティックな対象が面白い。鮨マニア、東海道五十三次マニア、囲われた女など、対象との過去を見せたり隠したりしながら、残余の熱気がにじみ出る。発明家のパトロンとなる老妓なら、さしずめ「男マニア」だろう。男好き、という意ではなく、「全き男」を眺めたいのだ。仕事であれ恋愛であれ、そこにファナティックな熱情を注ぎ込む様を見つめ、照らされたいのだ。

「だがね、おまえさんたち、何人男を代えてもつづまるところ、たった一人の男を求めているに過ぎないのだね。いまこうやって思い出して見て、この男、あの男と部分々々に牽かれるものの残っているところは、その求めている男の一部一部の切れはしなのだよ。だから、どれもこれも一人では永くは続かなかったのさ」
 飼ってる男が「たった一人の男」じゃないことは、もう分かってる。それでも「たった一人の男」を求め得なかったままで終わらせたくない。かなりお年を召しているようだが、求めるのをやめたとき、「夢」そのものを失うことになるから。だから飼っている男に養女が接近するのを止めだてしない。もしも二人が心底惚れ合ったなら、老妓は、まぐわいを見せろといい出すに違いない。あからさますぎて書かれることはないだろうが、その熱狂に触れてから死にたいと告げるはずだ。

 自分にとっての目標、夢、あくがれ―――をやりとおせないまま、折り返しや終点にさしかかり、期待していた轍ではない生活にどっぷり首まで漬かる。人生のどこかで忘れものをしていることは分かっているのだが、後戻りもやり直しもきかない。だましだまししながら毎日を過ごし、自分を飼いならしながら残りの人生を見遣る。

 そのとき、かつて己を突き飛ばしていた熱の余波が、いまの生活にまで沁み通っていることに気づき、思わず一緒に微笑んでしまう。この微笑は、わたし自身に向けてもいい(それぐらいトシをとったのだ)。個人的な慣習や、「習い」となっているもの、嗜好など、自分の生活を特徴づけているものは、過去の熱狂だったりするからね。

 ちなみに、わたしが推した短篇の傑作は、太宰治の「満願」。岡本かの子なら「金魚撩乱」が好きだ(ドンデン返しと翻る金魚が重なって美しい)。いずれにせよ、「鮨」は確かに傑作ナリ。ちかさん、再読の機会をいただき、ありがとうございます。

このエントリーをはてなブックマークに追加

|

« ビブリオバトルのお誘い(残りわずか) | トップページ | 「数量化革命」はスゴ本 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 生きるとは、自分を飼いならすこと「老妓抄」:

« ビブリオバトルのお誘い(残りわずか) | トップページ | 「数量化革命」はスゴ本 »