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おいしいをデザインする「建築とマカロニ」

 デザイン心を刺激する、ユニークな本。

 どの辺がユニークかというと、ずばりテーマ。日本を代表する建築家たちに、マカロニをデザインしてもらったデザイン集なのだ。スゴ本オフ@食のフィードバックで教わったとき、わたしも「マカロニって、あの"食べる"パスタの?」と半信半疑だった(mats3003さん、ありがとうございます)。

 でも、あの"食べる"マカロニだった。小麦粉を練って成形しただけの"あの"マカロニを、建築家の創造性を委ねる「構造物」としてとらえなおし、食物としての味わいを機能的に追求してもらう―――そんなプロジェクトなのだ。

 マカロニといえば、円筒形のやつから、ペンネ、蝶のような形や、貝殻のようなものまで様々。バリエーションは多々あるが、基本的に「ソースやスープの乗り物」といっていい。しかし、体積に対する表面積の比率や、溝の入り方、厚み、大きさなどの条件によって、味わいは大きく変わってくるもの。さらに、どんな複雑な形にも変える可塑性があり、乾燥させればその形態を保持することができる。

 歴史の中で様々なフォルムが取捨選択されてきた結果が、現在になる。だが、これは、マカロニの作り手が考えてきた形。これを、スケールの異なった視点から「口の中で味わう建築物」として捉えなおすと、脳の違うところが刺激されてくる。

 目を剥いたのが、WAVEと名付けられた大江匡のデザイン。"ソースにからめる"発想を完全に捨て去って、ソースと具を"閉じ込める"フリスビー型の構造。ムール貝、サーモン、帆立貝をバターで炒め、白ワインで蒸して、最後に卵黄を絡める。それを2枚のフリスビーに閉じ込めるのだ。

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 形態の異形さがすごいのは、「マダムエトワルダのパスタ」と称した北川原温の設計だ。バタイユの「マダム・エトワルダ」から想を得たもので、耳たぶ、乳首、唇の形のマカロニだ。こいつを真っ赤なトマトソースのアラビアータでいただく。これは正解。食欲と色欲、食事と色事は、実は近いところにあるからね。

 同じく異様だったのが、COLCHETTE(コルケッテ)と題された、掬い絡め取られるもの───つまり、スプーンとフォークのマカロニを考案した中村好文。コンソメスープで煮込んだスプーンをスプーンで頂くという、シュールな朝食に脱帽する。他にも、ノアの方舟のような形をしたものとか、バベルの塔型のマカロニ(と読んでも良いのだろうか…)など、想像を絶する食が並んでいる。

 面白い「形」だらけなのだが、ちと気になったのがある。どれもこれも、「形」のユニークさを追求しており、マカロニが「食べ物」であることを忘れるほど遊んでいるのが目立った。というのも、デザイナーのコメントとして、「口の中に入れたときの食感」について言及している人がほとんどいないところ。皆さん、奇抜なフォルムに囚われすぎているのが、ちょっと可笑しい。

 さまざまなマカロニのフォルムは、「おいしい」のインタフェースなんだと思う。ちなみに、わたしにとって最高においしいインタフェースは、これだ。なんていう名か知らないが、ソースへの絡み具合といい、食感のモチモチ加減といい、(゚д゚)ウマー

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「千夜一夜物語」はスゴ本

 「死ぬまでに読みたい」シリーズ。

 「あたり」に出会うと、ずっと読み続けたい、終わらなければいいのに……と思うことはないか?ページを繰る手ももどかしいのに、ページが尽きるのを惜しむ、矛盾した感情。「千夜一夜物語」別名「アラビアンナイト」は、まさにその鉄板の面白さ。誰が読んでも面白いという点では、古今無類であり、読む人の心を喜ばせ、高め、慰める力を持っている。

 しかも、バートン版。「千夜一夜」は多くの人が編さん・翻訳しているが、なかでも一番エロティックでロマンティックでショッキングな奴が、バートン版なのだ。淫乱で野卑で低俗だという批判もあるが、その分、意志の気高さや運命の逆転劇が、いっそう鮮やかに浮かびあがる。妖艶な表紙からして子どもに見せられないし、残虐だったりドエロだったり萌えまくる描写が山とある。これらは、人性のドロドロの濃淡・陰影をつけるための淫猥ではないかと。

 物語のバリエーションは無数。シャーラザッドの千一夜におよぶ千態万様の物語は、悲劇あり、喜劇あり、史話あり、寓話ありといったふうで、変幻万化、絢爛無比の東洋的叙事詩がくりひろげられる。献身の情熱があり、狂信の沸騰もある。哀愁さそうペーソスあり、荘重から滑稽への急転落もある。甘さ、深さ、清純さ、多彩、華麗、強靭さがちりばめられているなかに、どうしようもない厭世観が透けて見える。

 この世ならぬ美しさの王女の体の、いちばん秘密なところに隠されていた赤い宝石の話とか、魔神のたわむれから、遠く離れた国の王子と王女が恋におちて数奇な運命をたどる一大ロマン「カマル・アル・ザマンの物語」とか、妖艶な美女との官能的な恋も束の間、怪盗の手により苦境に陥った商人のスリル満点の話など、まさに夢のような物語ばかり。妻の仕打ちに耐え忍ぶ夫に身につまされならも、二転三転どんでん返しでハラハラどきどきさせっ放し「靴直しのマアルフとその女房のファティマー」なんて、物語を読む面白さとか喜びのエッセンスそのものが沁み入ってくる。

 それも、いいところ、ちょうどのところで夜明けになる。シャーラザットの語りの上手さは絶妙だ。そりゃそうだ、女性に対する不信憎悪から、毎晩新妻を娶っては殺すシャーリヤル王を相手にしているのだから。つまらなかったら即殺される。ドラマやアニメと一緒で、主人公がピンチになって「どうなるの!?」というところで「つづく」。王はジリジリしながら次の夜を待つことになろう。

 「千夜一夜物語」とはつまり夜伽話だから、一戦交えた後のピロートークである。話の糸口は、妹が「ねえお姉さま、あの話の続きを聞かせてくださらない?」なので、王様は姉妹どんぶりも堪能していたのやもしれぬ。けれども、最初の数夜はともかく、夜が進むにつれ、物語の前にシているはずのセックスなんてどうでもよくなってくる。セックスそのものが前戯と化し、夜伽話そのものがメインとなるのだ。逆説的に、一夜の"語りの長さ"がよい証拠で、1ページ半で夜明けとなる第125夜などは、さぞかしお楽しみだったろうと想像すると愉しい。

 どこかで聞いたことのある話だぞ…というネタもある。弟に財産を残すため、自分の死刑宣告に猶予を願い、奔走する話とかは、太宰治が読んでたはず(もちろん当人が走ってる間は友人が身代わりだ)。どう見てもロビンソン・クルーソーにしか見えない漂流譚とか。「天女の羽衣」そのまんまの「バッソラーのハサン」や、ユリシーズ的展開を見せるシンドバットの物語や、ヨナの鯨を髣髴とさせる巨魚が出てくる。大爆笑したのは、ヒッチコック監督の「ハリーの災難」があったこと。直に読んでいるかどうかは分からないが、翻案・翻意で"物語"が引き継がれたに違いない。

 この、「物語が物語を産む」という感覚は、読んでたわたしも同期してた。きら星のごとく挿話・逸話に溢れているから、組み合わせるだけでオリジナルになる。さらに自分の暖めていたネタを、この設定で演出させることもできる。シャーラザットに触発されて、語りたいという欲求がむくむくと湧き上がる。ネタの宝庫なのだから、わたしの記憶と反応してインスパイアされること必至。ネットで知った小話を、さも自分が体感したかのように語りなおす(騙りなおす?)ようなもの。

 この誘惑に駆られた人はいる。沢山の訳者や紹介者が、別のお話を捏造したり、混ぜ込んだりしたそうな。有名どこは、「シンドバットの七つの航海」。ホントは「千夜一夜物語」とは別ものだったにもかかわらず、アントワーヌ・ガランという編者が勝手に組み込んでしまったという。これだけ面白くで莫大な物語を訳したり編集したら、つい自分も一つ加えたくなる「出来心」が生ずるのも無理もない。ディズニー「アラジン」や手塚治虫、ルパン三世や「アイの物語」などに受け継がれ増殖していく様は、物語の母艦そのもの。千夜一夜物語は、あらゆる物語を孕んだ物語なのかもしれない。

 ちなみに、「シンドバット」の面白さレベルは、「中」なので、児童書だけで知ってる気になってたらもったいない。少なくとも、少年少女版「アラビアンナイト」では、「シンドバット」が盛大に去勢されてることが分かるだろう。好奇心旺盛な若者の冒険を描いたというより、行く先々で殺人と略奪に勤しんだ告白記と読める。特に、次から次へと落ちてくる人を石で撲殺するスプラッタなシンドバットは、おぞけをふるって読むべし。

 そして注釈は、徹底的に実証的。詳細かつ膨大な注釈は、リチャード・F.バートンの博覧強記っぷりをたっぷり見せつけてくれる。ソマリランドの黒人の陽根を測ったら6インチ(平時)だったとか、東洋では小便をする際、女は立ち、男はしゃがむものだとか(オンナの立ちションはあたりまえだった)、騎乗位はコーランでご法度な理由だとか、実にまぁよくご存知で。注の端々に著者の信条めいたものを垣間見て、微笑んだり苦くなったりする。男は多妻主義的(ポリガミック)で女は一夫主義的(モノガミック)なんだって。そして、「男は女そのものを愛するが、女の愛情は男の愛情に対するもの」と言われると、ちょっとうなだれたくなる。

 語り手はシャーラザットのはずなのに、彼女をさしおいて"ほんとうの語り部"が貌をのぞかせるときもあり、ぎょっとさせられる。そしていちいち示唆的な箴言を吐く。曰く、「女に相談せよ、そして正反対に行え」とか、「知識が分別をしのぐ者は無知ゆえに滅ぶ」とか。「げに女の狡知は大なり、まこと悪魔の邪心といえども、女の邪心にくらぶれば弱し」とか言うくせに、「喜びは三つのものにあり。すなわち肉をくらい、肉に乗り、肉を肉の中に入れることなり」とアンビバレンスな一面も。

 全11巻を一気に読む必要はない。枕元でちびちびと、シャーラザットの一夜語りをそのままに、毎夜の楽しみにしてもいい(わたしは、1年かけて惜しみ愛しみ読んだ)。千と一夜の後、シャーリヤル王に訪れた変化は有名だが、シャーラザットに起きた出来事には感無量になった。

 死ぬまでに読みたい、もとい、読まずに死ねない物語。最高の物語とは、これだ。

 (全巻セット)

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「あっかんべェ一休」はスゴ本

tumblr で見つけた問答。

───宗教嫌いな人に、こう問うてみよう。

  • この世の中に「唯一絶対なる存在(神)」が存在するだって?そんなのあるわけない
  • 「人生かくあるべし」とか「精神のレベルを上げる」とか、下らねえ。腹が減ったら食べる。眠かったら寝る。それでいいじゃん
  • この世に正義とか悪とか、そんなものねえんだよ
  • 秘法とか修行と称してなんだかわけのわからん事をして何になるというんだ?あいつらバカだね。神秘体験なんてヤクでラリってるのと同じだ
この考え方に対して、「うんうん、その通りだ」と言ならば、その人は無宗教ではない。立派な仏教徒である───(via 日本人の宗教嫌い : iwatamの個人サーバ
あっかんべェ一休
 そうか、わたしは仏教徒だったんだ、と啓かされた作品。ミサもジハードも縁がないが興味はある。手当たり次第に読み漁っているうち、共感できる/納得できない振幅が生まれる。積極的に信じる構えよりも、因って立つ場所に気づく。気風とか、迷ったときの判断の根っこにあるもの。ナントカ教徒「になる」のではなく、「である」ことに気づく感覚。

 もちろん一休宗純がモチーフだが、室町から戦国の時代背景が濃密に描きこまれている。足利将軍家の血で血を洗う抗争と、巻き込まれた民の飢饉・疫病・一揆の絶望が、わたしの目を追うように緻密に広げてある。人が人を壊す時代だ。

 最初は「一休さん」としても読めるが、彼の苦悩は俺の苦悩にオーバーラップする。生きるとは何か?わたしとは何か?こんな暗黒ドシャメシャな世に、わざわざ生きねばならぬのは何故か?悟りを開いた存在に「なり」たい。何かを「選ぶ」ということは、選ばれなかったものを捨てること(それは差別の心といわないか?)。ドストのカラ兄の大審問官まんまの問答も交わされる(養叟との対決だ)。

 欲望!欲望!欲望!欲望を断ち切りたいという思いも「欲望」だ。煩悩から逃れることができない、わたし自身が煩悩なのだ。学問に励んで、事業を興して、家を成して人の道をまッしぐらに突き進むことが、何ものかになることが、生存戦略なのか?

 ちがう、何か「になる」ことではないのだ、何か「である」ことに気づくだけ。決して何ものにもなれない「いま」「ここ」に気づくだけ。気づいたわたしが、「わたし」という者なのだ。パッとしない過去、お先真っ暗な未来を見やってもしようがない。

 運命の環は確かにある。だが、それは過去から今に至るまでで尽き、今より未来に向けて連なっている。「いま」という結節点だけはベアリングのようにくるくる自在に廻っている。過去の煩悩に焼かれても、今の気分を決めるのは今の自分。どんな未来が待っていようとも、今とはこれっぽっちも関係がない。心配事は起きてから考えよう。

 わたしは、わたしの煩悩ごと生きてみよう。600年前の苦汁と大悟がいっぺんにやってきて、まるで自分も悟ったかのような気になれる。すくなくとも次のシーンを読んだとき、目の前がぱあッと広がったのはホントだ。

 悟りを開くと何が見える?

 『今』が見える!


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スゴ本オフ「2011ベスト」のお知らせ

 好きな本を持ちよってオススメしあう「スゴ本オフ」。本を通じて人と会い、人を通じて本を知るのがコンセプト。

 今回のテーマは「2011年に読んだピカイチ」。キッチンスタジオを借切って、料理しながら食べながら呑みながら、だらだらまったりでもアツく、好きな本を語りましょう。知ってる本から知らない人とつながるチャンスだし、知ってる人から知らない本と出会うチャンスでもありますから。12月3日(17:00-23:00)、恵比寿でやります。

  1. 今年読んだベスト本を持ってきます。一冊でも十冊でも、雑誌でも写真集でも、CDやゲームソフトでもOK
  2. オススメが被っても無問題、というかよくある話。自分にとっての思いを熱く語ればOK
  3. 一人5分くらいのプレゼンします。構えず、気負わず、まったりアツく語ってください。プレゼン中に質疑応答、トークタイムになることしばしば
  4. ブックシャッフル(本の交換会)します。交換する本は「放流」だと思ってください。「紹介したいけど、あげるのはダメ」という方は、紹介用(見せるだけ)と、放流用を準備してください
  5. 募集はfacebookでやります[こちらからどうぞ](締め切りました)。fb招待制になりました→[こちらから](締め切りました)

 過去の収獲(ごくごく一部)。奮って狩りにいらっしゃい。

スゴ本オフ@食べる(2011/10/16)
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スゴ本オフ@ジュブナイル(2011/07/22)
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スゴ本オフ@元気をもらった本(2011/05/27)
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スゴ本オフ@最近のオススメ(2011/03/04)
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スゴ本オフ@ミステリ(2010/12/03)
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スゴ本オフ@夏編(2010/07/16)
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これまでのスゴ本オフ(Book Talk Cafe)のレポート

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この「食」の本がスゴいらしい

 わたしの仮説は、どうやら正しい→「本好きは食いしん坊」

 というのも、前回の記事「この『食』の本がスゴい!」のリアクションで、これでもかというぐらいスゴい「食の本」が続々と集まってきたから。twitter や blog 、はてなブックマークコメントなどで、知らなかったスゴ本に出会えたのは嬉しい。みなさん、「食べることなら一口噛ませろ」というノリで教えてくれる。

 だいたい、旨いものが好きな人というのはフットワークが軽くって、美味・珍味を求めて腕を磨いてアンテナを高くするイメージ。人さまにふるまう時はそれこそ東奔西走する(ほら「ご馳走」って駆けずり回って食材を集めるあのまんま)。もちろん、常連だけのヒミツの店もあるし、門外不出の味もある。だが、食の基本はオープン。食べた人が好みと趣味を言い合えば良い。イソターネットを飛び交う情報は、「受信者が判断する」に似ているね。

 五感が受け取った快感は、「こんな旨い料理があるよ」と伝えたくなる。その場で一緒に「おいしい」を囲めないなら、時間や場所を越えて伝えたくなる。そのとき、「おいしい」レシピやレポートや物語は、「本」という形をとる。

 「本」というメディアは紙と文字でできている。味も匂いも食感も、見た目もシズルも腹心地も伝えられない。なのに、なんとか伝えようとする。レシピや写真で再現させようとする。「何をどう食べるか」に歴史や文化を見いだそうとする。食べられない毒物を教えようとする。時間と場所を越えて(電源無しで)伝達できる最高のメディアなのだから、そのコンテンツは生きることに直結する=「食」がふさわしい。グーテンベルクの最初の本は聖書だったが、革命前の最初の本はレシピや食材を紹介するクックガイドじゃないかと。


 ひょっとすると、間違っていたのかもしれない。スゴ本オフのテーマの一つとして「食」を据えたものの、実は逆で、「食」を広げ・深めるために「本」が発明された―――そんな妄想がたくましく育つほど、魅力的な「食」本が集まった。次のわたしのターゲットとしていくつかご紹介。

BRUTUS まず、とっかかりがBRUTUSの「美味求真」特集(2010/7/1号)。食にまつわるエピソードと「本」を直結させた記事とのこと。さすが享楽主義を標榜するだけあって、食べる快楽に貪欲で嬉しい。「食と作家」つながりは「作家の食卓」「作家の酒」「作家のおやつ」(いずれもコロナ・ブックス編集部)で作家を遡及できるが、明治~昭和の文豪級になる。BRUTUSが、間口を広げた「食と本」つながりのガイドになればありがたい。mats3003さん、オススメありがとうございます。伊丹十三「女たちよ」は、"あわせて読みたい"ですな。

魚をさばく 次は、やっぱり作るほう。スゴ本オフでのケースケさんや大木さんの包丁さばきを見ていると、できるようになりたい。ケースケさんのオススメは、生田與克「築地魚河岸直伝魚をさばく」だって。これはスゴい本なのに、生臭くなるまで使い込んだので人前に出せなくなったという曰くつきの逸品だそうな。見よう見まねレベルなので、これで腕に叩き込む。

 でも、この「料理ができる」ってなんだ?わたし自身、独り暮らしが長かったので、食べたいものを作ることはできるが、少し違う。今までは、食材をレシピどおりに調理・調味することを「料理」とし、そのレパートリーを増やすことが「料理ができる」と考えてた。

料理の四面体 だが、レシピ本などなくてもおいしい料理をホイホイ作ってしまう人がいる。これは膨大なレシピが叩き込まれているというよりも、原理原則のようなものを身につけていて、それをアレンジしているのではないか、と見る。大木さんがカジキマグロをソテーするとき、酢をベースにしたソースに絡めていたが、「味が単調になるから、酢がアクセントになる」なんだって。これは、嫁さんが鳥の酢煮込みしたときに言ってたことと同じ。知ってる人は(その分量も含め)常識かもしれないが、ここが「料理ができる人」とわたしの違いらしい。

 mats3003さんオススメの、玉村豊男「料理の四面体」は、この基本原則を四面体でモデリングしてくれるらしい。原理が分かれば、後は食材の分だけ、気分の分だけ無限にレパートリーが広がる。料理ができる"あちらがわ"へ行くべし。

 今度は料理をもっと俯瞰する本について。「食の500年史」「ヌードルの文化史」を楽しく読ませてもらったが、もっと歴史に肩まで浸かって取り組みたい。ならばtaronの日記でオススメされているマッシモ・モンタナーリ「食の歴史」がガッツりいけそうだ。あと、面白いことは知っているものの、ずっと手を出さなかった村井吉敬「エビと日本人」は、これを機に箸をつける(これとエビフライを合わせるのは面白い)。

 視点を逆転させたのもある。ケースケさんに指摘されてハッとしてのだが、岩明均「寄生獣」だ。食は食でも、「食べられる」ほうから見ると、これまたスゴいのが浮かんでくる。yuripop絶賛のダニエル T.マックス「眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎」はこれを機に手を出そう。さらにカニバルつながりで、フェリペ・フェルナンデス・アルメスト「食べる人類誌」にも行ってみる。

 リアルと本の融合点としての「食」、いくらでもどれだけでも読める作れる食べられる。味の素の「食の文化ライブラリー」に通って宝さがししよう。

 以下、twitter、blog、はてなブックマークで教わった食のスゴ本たち。オススメいただき、感謝します。

pollyannaさん
 「大きな森の小さな家」ローラ・インガルス・ワイルダー
 「農場の少年」ローラ・インガルス・ワイルダー

T-3donさん
 「闘魂レシピ」アントニオ猪木
 「江戸の料理史」原田 信男

mats3003さん
 「料理の四面体」玉村豊男
 「スマイルフード」鈴木 るみこ
 「京都人だけが食べている」入江 敦彦
 「BRUTUS (ブルータス) 2010年 7/1号」
 「建築とマカロニ」TOTO出版
 「女たちよ」伊丹十三

ITAL_さん
 「定番・朝めし自慢」出井 邦子
 「旬の食材」講談社

keloinwellさん
 「キッチン」よしもとばなな
 「ムーンライトシャドウ」よしもとばなな

tetzlさん
 小泉武夫の作品

ケースケさん
この「食」の本がスゴい!スゴ本オフにお邪魔してきました。

やすゆきさん
「スゴ本オフ「食」の会は美味くて楽しくてヤバかったです。」

taronの日記
 「エビと日本人」村井吉敬
 「エビと日本人2」村井吉敬
 「世界の酒」坂口謹一郎
 「パンの文化史」舟田詠子
 「中世ヨーロッパ食の生活史」ブリュノ・ロリウー
 「雑穀のきた道」阪本寧男
 「ハタケと日本人:もう一つの農耕文化」木村茂光
 「甘さと権力:砂糖が語る近代史」シドニー・W・ミンツ
 「茶の世界史」角山栄
 「聞き書き築地で働く男たち」小山田和明
 「ヨーロッパの食文化」マッシモ・モンタナーリ
 「食の歴史」マッシモ・モンタナーリ

uporekeさん
 「亡命ロシア料理」P・ワイリ
 「やっぱり美味しいものが好き」ジェフリー・スタインガーテン

sakura_123さん
 「美味礼賛」ブリア・サヴァラン
 「美食の文化史」ジャン・フランソワ・ルヴェル

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この「食」の本がスゴい!

 好きな本を持ち寄ってオススメしあう「スゴ本」オフ。今回のテーマは、「食」だ。

 本を通じて人と出会い、人を通じて本を知るコンセプトでやってきたが、今回は一味も二味も違ってた。なんせ、「食べ物や料理と、それにまつわる本がセット」なのだから。本を通じて人を知り、人を通じて旨い料理に舌鼓キッチンスタジオを貸し切って、料理ながらプレゼンしながら食べながら読みながらの5時間は、愉快すぎる一瞬間でしたな。参加いただいた皆さま、ありがとうございます。

 まず結論。本好きは、食いしん坊だ。つまみ読みが大好きだし、夢中になると一気に読み干したりする。味見と称してパラ読みするし、比喩から味覚や食感を組み立てるのもお手のもの。食べてるそのものだけじゃなく、食卓の風景とか場の雰囲気とかを勝手に想像しては涎をわかす。まことに本好きは食いしん坊なり。まずは、とれたての収穫を見てくれ。

業務用大型冷蔵庫をテーブル代わりに並べる(それでもあふれる)
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「作家のおやつ」が美味そすぎる…
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「シネマ食堂」はコスパ最高の一冊とのこと
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モヨコ「くいいじ」の「エア料理」面白そう
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「村上レシピ」は人気あり
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「センセイの鞄」の素麺を食べるシーンが好きだ
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開いているのは「Cooking for Geeks」
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 「本のオフ会」と銘打っているものの、わたしをはじめ、メインは料理だった。どれもたいへん美味しゅうございました。その一部をご覧あれ(食べるのに夢中で撮るのが疎かになってた)

前菜:うまい棒
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チーズと唐揚げとピラフ、赤ワインがいくらでも飲める
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気づいたら肉じゃがが無くなってた…
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美味すぎて危険な日本酒(空きました)
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脳幹レベルで「おいしい!」しか考えられなくなるレバーペースト(次の画像のフランスパンに付けて食す)
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白菜サラダ、切って干しエビとまぜれば美味、日本酒と一緒にサクサクといくらでも入る。白菜ってぐつぐつ煮込むものだと思い込んでたわたしには目ウロコ
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なめろう料理中。すばらしい手際に「プロですか?」と訊いたら「プログラマです」と返されたw
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なめろう(一瞬で消える)
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パクチーやら香草たっぷりの目が冴えるサラダ
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ヅケ(日本酒と一緒だと記憶が飛びます)。調理ポイントは「あまりいじらない」とのこと
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カジキ切り身をソテー、味付けはお酢(レシピを聞きそびれた)。食べ応えに比べ味が単一化しやすいので、お酢(できればバルサミコ酢)でアクセントを付けると良いらしい
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これも一瞬でなくなる。ソースが絶品
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ついにヤマザキのアップルパイを超えた、人生最高のアップルパイ(本文参照)
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 わたしが持ってきたのはアップルパイ。しかも「東京で一番うまい」らしいマミーズの手作りアップルパイだ。ヤマザキのアップルパイが大好きなわたしにとっちゃ、初体験。一口、「りんご!」「りんごリンゴ!」と口の中がリンゴだらけになってさぁ大変、いくらでも食べられそうなアップルパイでしたな。カスタードの甘さひかえめだったので、31のアイスクリームをトッピングしたら濃厚なケーキに化けた。わが人生No.1アップルパイなり。

尾崎翠 そして手土産にあわせたのが、尾崎翠の「アップルパイの午後」。わたしは甘さ控えめが好きだが、これは、「アップルパイは甘いのが良い」のだそうな。読むと「恋に落ちる」とはどういうことか体感できる。というのも、恋とは、「する」ものではなく「なる」もので、しかも「なっている」経過を自覚しないまま、気づいたらそういう状態に陥っているものだから。これを、物語の展開のペースでやってくれる。

 最初は、話が見えないのだ。たあいのない兄弟げんかを聞かされる。兄がぽかりと妹をはたいて、妹は憤慨してやり返す。どうやら二十歳になる妹が「恋をしない」のが問題らしく、どうして恋をしなきゃならないのかというと…という謎が話を駆動する。すると兄は兄で恋があり、妹は妹で…と一種近親相姦的四角関係が浮かび上がる。

 思わせぶりな謎が解けるのはラストで、この核心にあれよあれよと連れ込まれ、気づいたら、恋の真ん中にとり残されていた、という感覚。「アップルパイは甘いのが良い」というメッセージの真の意味が甘酸っぱく伝わる。

村上レシピ 料理と小説といえば、「村上レシピ」がピンとくる。「食」という観点から村上春樹の作品に注目したもの。「パスタが茹であがる頃に電話が鳴る」というイメージを刷り込んだのは、「ねじまき鳥クロニクル」。鼠を待っている間にマリネを作り、ローストビーフやパンを焼き、たらことバターたっぷりのスパゲティーを作るのが「羊をめぐる冒険」、長葱の梅肉和えやエビとワカメの酢の物をするのが「ダンス・ダンス・ダンス」───たしかに村上小説はレシピの宝庫かもしれない…

  • たらことバターのスパゲティー(羊をめぐる冒険)
  • トマトソースのスパゲティー(ねじまき鳥クロニクル)
  • キュウリとハムとチーズのサンドウィッチ(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド)
  • まともなハンバーガー(ダンス・ダンス・ダンス)
  • 天ぷらと青豆のご飯(ノルウェイの森)
  • ロースト・ビーフと鮭のマリネ(羊をめぐる冒険)
  • ホット・ケーキのコカ・コーラがけ(風の歌を聴け)

 わたしの他に、まあさんが「村上レシピ」+「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の組み合わせで持ってきてた。ハルキと言えばこの組み合わせ、というのは正しい。ちなみに、私的ハルキのNo.1だと思ってて、これを機に読み返そうとした「ねじまき鳥」は見事に挫折。ハルキ作品の再読は拾い読みに限るのかも。

「こつ」の科学 料理を科学した本も外せない。「『こつ』の科学」が鉄板で、わたしの他にもケースケさんが持ってきてた(まなめの放流本を再放流だという)。煮る・焼く・蒸す・茹でる・揚げる・和える……それぞれの過程で、何が起きているかがきちんと説明してある。「こつ」とか「技」とかで呼ばれている手順が、なぜ必要なのかを教えてくれる。これは面白い。

 「切る」ひとつとっても興味深い。さしみは削ぎ切り、根野菜は押し切りは普通にやっているが、その根拠を、食材の組織の密度と切断面への圧力から説明されて得心する。さらに菜包丁は両刃、刺身包丁は片刃である理由も一緒に分かる。

 「解凍する」は電子レンジが得意であることは、この本で知った。氷→水になるとき、最も時間がかかる(融解熱を必要とする)のは、-5℃から0℃の間。ここに時間がかかりすぎると、食材の細胞膜が壊れ、結果ドリップが沢山でてくることになる。この区間を素早く通過させるのには、電子レンジが最適だという。

料理のわざを科学する 料理とはサイエンスだ!と言い切っているのが、「料理のわざを科学する」(The Science of Cooking)。脂肪や糖類、デンプンやタンパク質、コラーゲンを分子レベルから解説し、おいしい謎を「化学」のレベルから説明する。ゆでる・焼く・煮る調理を、「物理」のレベルで解説する。肉やパン、スフレを原理から教えてもらう。「原理+レシピ+実験」の構成で、まさに料理とは科学なんだと実感する。

 笑ったのが、「メイラード反応」の件。肉料理などタンパク質やアミノ酸化合物を加熱したときの褐変反応なんだが、その研究を第一人者としてはフランス人と日本人しか出てこない。やはりというか何というか、両者は世界に冠たる食いしん坊なんだね。

Cooking for Geeks このテの最新は、オライリー社「Cooking for Geeks」が浮かぶが、持ってきてた人がいた(おぎじゅんさんだっけ?)。食材の味、風味の組み合わせ方、熱がどのような作用を及ぼしているのかなど、料理の科学的な仕組みを解説している。上に挙げたどの本よりも理系リケイしており、料理というより科学実験本になっている(さすがオライリークォリティ)。

百人一酒 旨い料理といえば旨い酒、「百人一酒」も持ってきた。秋の夜長の酒のおともにピッタリの一冊で、俵万智の歌人センスがアルコール昇華されている。万葉集の大伴旅人「酒を賛むる歌十三首」がいい。酒飲みは、千年前から変わっていないと分かって安心できる。

験(しるし)なき物を思はずは一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
(つまらない物思いをするぐらいなら、濁り酒を一杯飲んだほうがいいなぁ)

賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするし優(まさ)りたるらし
(偉そうに物を言うヤツよりも、酒を飲んで泣いちゃったりするヤツのほうが、俺はマシだと思うよ)

 歌人だけあって、呑むときも詠むことを忘れない。いや、逆か。詠むときにも酒を忘れてないというべきか。酒だけでなく、オトコを混ぜるとぐっとよくなる万智クオリティ。そのいっぽうで、苦しい恋も酒で詠んでいる。

    缶ビールなんかじゃ酔えない夜のなか
    一人は寂しい二人は苦しい

    「嫁さんになれよ」だなんて
    カンチューハイ二本で言ってしまっていいの
 
 そして、お酒と同じぐらい「お酒を飲むオンナ」が好き。オンナは酔わせてナンボ。うつくしさと艶っぽさが、ぱっと開いたようで、体のにおいやら息からぐっと色っぽくなる。お酒も料理の匂いもそうだけど、美麗な女性の吐息も大好き。ビール、ワイン、日本酒とたっぷり調達してきたが、一升瓶が空いたのには驚いた。ケースケさんのなめろうとか、大木さんのヅケ、ユースケさんのレバーペーストが、アルコールを加速させる。我が目我が舌大喜び。

飲食男女 おぎじゅんさんが持ってきた「飲食男女」もいいですぞ。食事と色事はおんなじこと。みだらで、せつなくて、うまそうな掌編たち。曰く、「冒頭の10行を読んだら離れられなくなる」は本当。食べること、味わうことは、なにも「食」に限らない。「食べる」「味わう」には、男と女の味がする。「食」も「色」も同じショク、食事も色事も同じ事か。男と女の艶話に、食にまつわる伏線が、張られ絡まれ回収される。

檀流クッキング 食べるのも好きだけど、作るのも大好き。いろいろレシピ本を読んできたけれど、「檀流クッキング」は何度も読み返したい。完全分量度外視の原則を貫き、アミノ酸至上主義をせせら笑うレパートリーが並んでいる。「塩小さじ1/2」みたいな科学調味料的態度を突き抜けて、塩の量がいかほどと訊かれたって、答えようがない、君の好きなように投げ込みたまえ、と言い切る。それでも、「ゴマ油だけは、上質のものを使いたい」とか、「暑いときは、暑い国の料理がよろしい」のように、妙な(だがスジの通った)こだわりが出てくる。今回は紹介のみだったが(まだ全部覚えていないし)、次は放流用に調達しておこう。

がんばらないおもてなしごはん レシピ本で気になったのが、つのださんが持ってきた「がんばらないおもてなしごはん」。"頑張らない"ところも大事だが、「全部作れる、作りたい気にさせる」というのは、かなり重要だと思う。できる人は、「料理の基本は、切ってまぜるだけ」「切ってまぜて加熱するだけ」と、めちゃくちゃシンプルに本質を言い切る。その通りなんだけど、そこを悟るための試行錯誤を経ている分、重いですな。

 「食」を別の角度から見た選書が面白かった。まみやさんが、あろうことか林真理子の小説を持ってくる。曰く、「店の雰囲気は上手く書いているのに、いざ味のこととなると貧弱ゥ~な描写の例」として良いのだそうな。舌でなく目で味わう人なんだろうね。あと、「食」から逆照射した「作家の…」シリーズが気になった。ともこさんが持ってきたのだが、「作家の酒」は知っていたものの、「作家のおやつ」があったとは。「食」を「現実(しめきり)からの逃避」で見たのが、「逃避めし」(吉田戦車)。持ってきた方はいなかったが、かなり愉快な「逃避レシピ」らしい。

 さらに「食」+「スタンド使い」を組み合わせた「ジョジョの奇妙な冒険」はキターーとひたすら嬉しい。「ダイヤモンドは砕けない~杜王町」編で奇妙なイタリア料理を食べる話だ(思わず読みふけってしまった)。コミックは「包丁人 味平(ラーメン編)」と「孤独のグルメ」が集まったが、今が旬の「極道めし」「きのう何食べた?」は候補に挙がってた。

 紹介された本の全ラインナップは以下の通り。メニューのラインナップは、facebook「スゴ本オフ(Book Talk Cafe)」からどうぞ。食べるのに夢中だったのでモレヌケがあったら教えてくださいませ。

  • 【やすゆき】「GOSPEL IN CHRISTMAS」キャスリーン・マーフィー・パルマー
  • 【やすゆき】「Waiting To Exhale」アレサ・フランクリン, ホイットニー・ヒューストン
  • 【やすゆき】「EASY BUSY」GONTITI
  • 【Dain】「ぐりとぐら」なかがわ りえこ
  • 【Dain】「こつの科学」杉田 浩一
  • 【Dain】「やっぱり肉が好き」小林 ケンタロウ
  • 【Dain】「料理のわざを科学する」ピーター バラム
  • 【Dain】「檀流クッキング」檀 一雄
  • 【Dain】「ちくま日本文学 尾崎翠」尾崎翠
  • 【Dain】「百人一酒」俵万智
  • 【Dain】「食の王様」開高健
  • 【Dain】「新しい天体」開高健
  • 【Dain】「孤独のグルメ」谷口 ジロー
  • 【Dain】「村上レシピ」岡本 一南
  • 【ともこ】「剣客商売 包丁ごよみ」池波 正太郎
  • 【ともこ】「作家の酒」コロナ・ブックス編集部
  • 【ともこ】「作家のおやつ」コロナ・ブックス編集部
  • 【ともこ】「すてきなあなたに」大橋 鎮子
  • 【ともこ】「暮しの手帖」暮しの手帖編集部
  • 【ともこ】「ご馳走の手帖」暮しの手帖編集部
  • 【ともこ】「リッチ リッチ バーガーズ  ハンバーガーを食べまくるハンバーガー日記」イノウエシンゴ
  • 【ケースケ】「こつの科学」杉田 浩一
  • 【ケースケ】「もの食う人びと」辺見 庸
  • 【ケースケ】「たまらねぇ場所築地魚河岸」生田 與克
  • 【ふじわら】「フィレンツェ 旅の雑学ノート」山口 俊明
  • 【ユースケ】「包丁人味平(ラーメン編)」ビッグ錠
  • 【ユースケ】「ジョジョの奇妙な冒険(ダイヤモンドは傷つかない/イタリア料理を食べに行こう)」荒木飛呂彦
  • 【まみや】「コスメティック」林 真理子
  • 【まみや】「欲しい」永井 するみ
  • 【まみや】「汝の名」明野 照葉
  • 【みどり】「くいいじ」安野 モヨコ
  • 【つのだ】「がんばらないおもてなしごはん」枝元なほみ
  • 【つのだ】「シネマ食堂」飯島奈美
  • 【つのだ】「日本の朝ごはん」向笠 千恵子
  • 【つのだ】「台所帖」幸田 文
  • 【つのだ】「戦下のレシピ」斎藤 美奈子
  • 【つのだ】「伝統こそ新しい」河田 勝彦
  • 【おぎじゅん】「捕食者なき世界」ウィリアム ソウルゼンバーグ
  • 【おぎじゅん】「飲食男女」久世 光彦
  • 【すなだ】「天国にいちばん近い島」森村 桂
  • 【まあ】「センセイの鞄」川上 弘美
  • 【まあ】「村上レシピ」台所でよむ村上春樹の会
  • 【まあ】「なつかしの給食」アスペクト編集部
  • 【まあ】「ことばの食卓」武田 百合子
  • 【おおき】「エル・ブジ」スペインの独創的な超有名料理本とのこと
  • 【おおき】「永平寺の料理」タイトル失念
  • 【はやしだ】「鬼平料理帳」池波正太郎
  • 【はやしだ】「剣客商売 包丁ごよみ」池波 正太郎
  • 【はやしだ】「孤独のグルメ」谷口 ジロー
  • 【はやしだ】「強くなる東洋食のすすめ」大山 倍達

 「あっ」という間の5時間だった。次回のテーマの要望が沢山出たが、最低でも今年中に、「スゴ本オフ忘年会@2011年に読んだピカイチ」を開催したいなぁ…


続きを読む "この「食」の本がスゴい!"

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紀伊國屋は売切れ御免、amazonは残り僅か「なぜ私だけが苦しむのか」

なぜ私だけが苦しむのか オススメ本をプレゼンし、読みたくなった一冊を決める「ビブリオバトル」に行ってきた。

 わたしが推したのは「なぜ私だけが苦しむのか」。付せんと傍線と書き込みで一杯の、この一冊は、死ぬまで手放すことはない。これは、「人生の保険本」だ。本を読む元気があるうちに読んでおき、いざ不幸の一撃に見舞われたときに思い出す本なのだ。「買うべし(命令形)」と猛プッシュしたお陰で、ビブリオバトル終了直後、すぐに売り切れになった。

 これ、ロングセラーなのに、置いてる本屋や図書館が少ない。Amazonでもよく品切れになる(現在11点の在庫)。この本が必要になるときは、人生のうちで必ずある。そのときは、すぐに読みたいはず。そして、「そのとき」に手に入るかどうか、分からないから。ここらは自動車保険や生命保険と同じ。「そのとき」になって直ぐに連絡できるよう、保険会社の連絡先は常に携帯している。同様に、イザというとき、この一冊にアクセスできるようにしてある。

 では、「そのとき」はどんなときか?サブタイトルがヒントになる→「現代のヨブ記」とある。旧約聖書のヨブだ。善人ヨブは、健康、家族、財産に恵まれていたが、神の試練により全てを奪われてしまう。そして、「なぜ私だけが苦しむのか」に突き当たる。ヨブだけでなく、本書では大災害や戦争、ホロコーストの犠牲者の立場から、このテーマを深堀りしている。

 世の中に、「因果応報」とか「自己責任」、あるいは「起きていることは全て正しい」といった考え方がある。これには反対の立場にいる。もちろん、ポジティブシンキングや「言葉は行動に出る」といった考えは、日常生活では大切だ。だが、これで人生を割切るのには、無理がある。

 例えば、家族や友人がガンにかかったら?事故で子どもを亡くした夫婦や、災害で家を失った人には、どんな言葉をかければいいか。いや、そうした災厄が自分自身に襲い掛かったら?「起きていることは全て正しい」という言葉がどんなに残酷に響くか。

 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の大審問官で、同じテーマを追求している。虐待されて死んでゆく子どもがいることに、何の正義があるんだ!神さまってやつがいるとしたら、いったいどこにいるんだ!と叫ばせている。

 これは、前世や試練といった言葉では、とても受けきれない。科学的に説明できることと、納得がいくことは別だ。「自己責任」という言葉の裏には、「あなたが別の選択をしたなら、違う結果になっただろう」という「責め」が潜む。既に充分に痛みを受けている人にとって、追い打ちをかけているに等しい。

 著者は、この悲しみに、宗教はあまり役立たないという。痛みを和らげるより、神を正当化するのにやっきになっているから。だが、だからといって神を否定することもない。善ではない全能の神か、全能ではないが善なる神か、という選択の問題なのだという。

 p.63とp.93に、ある「祈り」が書いてある。ひときわ目立つように付せんしている。わたしはキリスト教徒ではないが、この「祈り」は共感できる。自分が不幸に直面したとき、どうなるか分からない。だが、この本には「応え」があることは知っている。解答の「答え」ではなく、応答の「応え」だ。

 これは、人生の保険となる本だ。買えば安心、というわけではないが、少なくとも手元にあるとないとでは、違ってくる。だから買いなされ―――

―――なんてプレゼンしたら、完売した。トップはとれなかったものの、かなりの方に「この本が読みたい!」と思ってもらえたようだ。この本に出会えたのは、finalventさんのおかげ。ありがとうございます。

 もったいないなー、と思ったのは、岩波が岩波であるが故の問題。買い取りなので、部数をそろえられなかったみたい。なので、「欲しい!」「読みたい!」と思ったのに買えなかった人が続出。新宿南口のコクーンタワーのBook1stでは一冊だけ確認しているが、重要なのに手に入らないので歯がゆい。この本を必要とする人の数からすると、少なすぎるスゴ本。下のスキマはその跡地。見つけたら買うべし。

20111010

 で、わたしが参戦した第三ゲームは、かなりレベルの高い本がそろってた。トップ取ったのは、おぎじゅんさんプレゼンの「プルーストとイカ」。これは読書という行為が脳を変えていった過程を多角的に攻めていったスゴ本。ラストのgoogle脳が「最近の若者は…」論になってるけれど、素晴らしい啓蒙書ナリ。あと、食人植物+デイズアスターSFの古典「トリフィド時代」がプッシュされてのけぞった。確かにこれは今読むべきSFの一冊かも。


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いのちの食べかたを、こどもと一緒に学ぶ「ぶたにく」

ぶたにく  いのちの食べかたを、子どもと一緒に学ぶ。

 表紙は子豚、裏は腸詰、つまりブタがソーセージになるまでを写真でつづる。屠畜の現場もあるが、屠畜そのものを全面に押し出していない。妊娠、分娩から離乳、よちよち歩きから10ヶ月の若豚までを、その生活に寄り添って写しとる。そして屠場から肉になるまで、さらに次の誕生までを同じ流れで見せてくれる。

 これは、ありがたい。小学校低学年と高学年の二人が一緒に読むのに、ちょうどいいから。というのも、内澤旬子著「世界屠畜紀行」は早すぎるし、森達也著「いのちの食べかた」は一緒に読むには難しいから。

 屠畜をテーマにすると、どうしても「場所」の話になってしまう。だが、そこへ行くまでの長い間、子どもは「食べられるサイズになるまで」成長してきたのだ。その「時間」をきっちり見せてくれる。解体現場を克明に写すことで、「ほら見てこれが現実なんだよ」と教えることもできるが、低学年にはキツいかも。そんな配慮を見越したかのように、屠殺の現場はカットされている。おかげで怖がらずに見てくれた。

 テーマが偏ってないため、むしろ豚の生活に目が行く。わたしが驚いたのは、「豚は笑う」こと。見ているこっちまで目が細くなる、いい顔だ(赤ちゃんの笑顔)。子どもたちが可笑しがったのは、「豚の餌」。近所から残飯をもらってきて餌にするとある。明らかに学校給食の残り物らしいが、中には豚肉が混ざっているという。「豚が豚を食べるなんて!」子どもにとって、屠畜そのものよりもショッキングらしい。

 豚の種付けの写真もあったので、「これは交尾、セックスといってね…」と淡々と説明する。娘が感心したのが、「赤ちゃんはどこからやってくるのか」という謎が解けたこと。息子がうらやましがったのは、「種付けの雄は食べられない」こと。確かに種豚は「種」だから大事にされ、食っちゃ寝の交尾三昧だが……さすがわが息子、目の付け所が俺的ナリ。

 子どもにとってすれば「初めて」の画像もあったけれど、気分を害することなく最後のページに行き着いた。そして、食肉を見て、きちんと「おいしそう」と言ってくれた。そうなんだ、ぼくらは肉を、食べている。それは命を食んでいるのと一緒。「感謝して」とかはもう言わない。自分は他者の命によって生かされていることさえ自覚できれば合格かと。

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「数量化革命」はスゴ本

 なぜ西欧が覇者なのか?これに「思考様式」から応えた一冊。

数量化革命 キモはこうだ。定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった(→数量化革命)。その結果、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させた(→近代科学の誕生)。

 このような視覚化・数量化のパラダイムシフトを、暦、機械時計、地図製作、記数法、絵画の遠近法、楽譜、複式簿記を例に掲げ、「現実」を見える尺度を作る試行錯誤や発明とフィードバックを綿密に描く。

  • 複式簿記・記数法:量を数に照応させることで、動的な現実を静的に「見える化」させる。あらゆる科学・哲学・テクノロジーよりも世界の「世界観」を変えた(と著者は断言する)
  • 地図製作・遠近法:メルカトル図や一点消失遠近法を例に、三次元的な広がりを二次元に幾何学的に対応させた。さらに、図画から「そこに流れている時間」を取り去り、空間を切り取られた静止物として再定義した
  • 暦法・機械時計・楽譜:時を再定義することで、時間とは一様でニュートラルなものであることを「あたりまえ」にした。定量記譜法により、「音がない」時間(=休符)すなわちゼロ時間が見いだされる
 数量化革命とは、一言でまとめると、「現実の見える化」になる。ん?現実は"見える"に決まってるじゃないか、というツッコミは、そのとおり。数量化革命「後」からすると、あたりまえのことが、革命「前」はそうではなかった。

 たとえば「時間」。もちろん時を計る単位は日や月だ。「1日」は明白な"見える"単位だから。日の出から日の出までを1日とした場合、その1日は半年前の1日と同じ「時間」にはならないし、昼や夜を等分した1単位も異なってくる(アワーとは呼んでいたが)。革命「前」の時間は、季節や地域によって伸び縮みするアコーディオンのような存在だった。

 この「1日」が、暦法により均質化する。機械化時計により等分される。体感的だった時間が、区切って記録できるものに変容する。「1日」が他の1日と、「1時間」が他の1時間と同じ長さに再定義されたのだ。そして時間に「価値」がつけられるようになる。利子や賃金を、時間で分けることができるから。もちろん「利子」という概念は以前からあったが、神の独占的な財産だった「時間」を数量化し、価格をつけられるということが「あたりまえ」となったことは革命的だろう。

 数量化革命「前」では、「時間は、その間に生じたものと同一視され、空間はそれが内包するものと同一視されていた」という指摘が面白い。年代は統治者の名で記録され、ゆで卵をゆでる時間はグレゴリオ聖歌を歌う間になる。この感覚は今でも通用する。東京ドームで量を、駅徒歩で距離を「はかる」のだ。

 計る・測る・量る―――「あたりまえじゃなかった」ものが「あたりまえ」に変容する様は、ゆっくりとだが確実に進行する。著者はそのちょうど変化の境目・ティッピングポイントへ誘ってくれる。ここが一番の読みどころで、たっぷり知的スリルを感じた。現実を再「定義」する思考の動き方が掴み取るように分かるのだ。著者のスタンスは天邪鬼的で、権威主義に頼らず、「そのとき席巻していた思考」を執拗に追いかける。

 たとえば、「簿記法の父」ルカ・パチョーリを、モンテーニュやガリレオと同列に並べて論じる。複式簿記の直接的な効用は、商取引を数字で正確に記録・配置することで、ダイナミックな経済情勢を静的に把握できるようになったことになる。思考様式としての簿記は日々実践され、適用されるにつれて強力にも広範囲にも広まっていく。取り引きは数値に抽象化され、仕分けることができる。

 著者は指摘する。デカルトやカントの著述に思いをめぐらせていた人もいただろうが、その何千何万倍もの人々が、几帳面に帳簿をつけていた。そして彼らの帳簿に適合するような形で世界を解釈し始めたのだ。現代文明の合理的特性とされるもの―――正確さ、時間の秩序、計算可能性、規格性、厳正さ、一定性、緻密な整合性、一般性―――これらを涵養したのは、「方法序説」や「純粋理性批判」よりも複式簿記の方が強力・広範だ。

 面白いだらけの本だが、不満もある。肝心なところは、ほとんど書いてないのだ。どのように(how)は綿密に記されているものの、なぜ(why)が見当たらない。世界の覇者となった理由は、数量化革命が起きたから。それは分かった。だが、それが、他ならぬ西欧で起きたのは、なぜなのか?この説明が薄いのだ。ソロバン、暦、地図、インド・アラビア数字、日時計、水時計は他の地域にも存在した。だが、他ならぬ西ヨーロッパ人が数量化・視覚化に気づいたのはなぜか?他の文明・地域・国家・勢力との比較がないのだ。

 著者は結果から原因を説明しており、ニワトリ卵となってしまう。この点では、ジャレ・ド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」に軍配が上がる。遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫っている。そして、ある究極の(強力な!)結論に達している(その結論は、わたしのレビューにまとめた→Google Earth のような人類史「銃・病原菌・鉄」)。

銃・病原菌・鉄上銃・病原菌・鉄下

 それでも強いて探すなら、二つの「原因」にたどり着く。一つは、西ヨーロッパ人は周辺的な存在だったからだという。合理主義的なギリシアの思考様式と、神秘主義的なヘブライの思考様式の両方がせめぎあい、西欧社会では、両者を説明したり、調整したり、再統合する必要があったという。そのせめぎあいから数量化・視覚化が生まれたという。梅棹忠夫「文明の生態史観」を思い出すね。

 もう一つは、身もフタもないが、西ヨーロッパ人は世界で一番カネに取り憑かれたからだという。マルコ・ポーロは、黄金で満たされた東洋の国を言葉巧みに吹聴しし、コロンブスは新世界で黄金を見つけることに固執した。コルテスと部下は血塗られた両手で血眼になって金を探し求めた。ずーっと白人ドヤ顔ですごいやろ論を読まされ、この文でオチがつく。

西ヨーロッパ人ほど金貨や銀貨に心を奪われ、その重さと純度を気づかい、現金の代替物である為替手形その他の証書類について策略をめぐらせた人々は、かつて存在しなかった。西ヨーロッパ人ほど計算、計算、計算に取り憑かれた人々は、かつて地上に存在しなかったのである。
 だが、それでも不十分だろう。これらは、北米や中南米にて虐殺・略奪・征服した理由であって、そうした力を手に入れた理由ではないのだから。著者は同じテーマについて、「ヨーロッパ帝国主義の謎」を書いている。これは生物学的、生態学的なアプローチから、白い帝国主義者たちに有利に作用したプロセスを明らかにした好著だという。手にしてみるか…

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生きるとは、自分を飼いならすこと「老妓抄」

老妓抄 「短篇の傑作といえば?」でオススメされたのが、岡本かの子の「鮨」。そうかぁ…と読み直したら、わたし自身について発見を得た。嬉しいやら哀しいやら。

 テクストは変わらない。だから、わたしの変化が三角測量のように見える。わたしという読み手は、自ずと「わたし」にひきつけて読む。「わたし」と同姓の、同年代のキャラクターや、発言や考えに似たものを探しながら読む。結果、「鮨」なら潔癖症の少年、「老妓抄」だと老妓に飼われる男の視線に沿う読みだった。それはそれで旨い短篇を楽しめた。舞台やキャラや語りは、さらりと読めてきちんと残る名描写だから。

 でも違ってた、やっと分かった、ある感情が隠されているのだ。それは、ファナティック。叫びだす熱狂ではない。かつてマニアックだったもののベントに失敗して、溜まった余圧に動かされている残りの人生の話なんだ。だからおかしいほどに"こだわる"。老妓が余芸にあれほどまで熱を込めるのも、「食魔」の男が料理に異常なほどの天才性を見せるのも、満たされなかったから。趣味の鬼になることで、魂を使い尽くすことで、悶々とする胸のまったきを、逸らしたいのだ。

 それぞれ短篇ごとに、ファナティックな対象が面白い。鮨マニア、東海道五十三次マニア、囲われた女など、対象との過去を見せたり隠したりしながら、残余の熱気がにじみ出る。発明家のパトロンとなる老妓なら、さしずめ「男マニア」だろう。男好き、という意ではなく、「全き男」を眺めたいのだ。仕事であれ恋愛であれ、そこにファナティックな熱情を注ぎ込む様を見つめ、照らされたいのだ。

「だがね、おまえさんたち、何人男を代えてもつづまるところ、たった一人の男を求めているに過ぎないのだね。いまこうやって思い出して見て、この男、あの男と部分々々に牽かれるものの残っているところは、その求めている男の一部一部の切れはしなのだよ。だから、どれもこれも一人では永くは続かなかったのさ」
 飼ってる男が「たった一人の男」じゃないことは、もう分かってる。それでも「たった一人の男」を求め得なかったままで終わらせたくない。かなりお年を召しているようだが、求めるのをやめたとき、「夢」そのものを失うことになるから。だから飼っている男に養女が接近するのを止めだてしない。もしも二人が心底惚れ合ったなら、老妓は、まぐわいを見せろといい出すに違いない。あからさますぎて書かれることはないだろうが、その熱狂に触れてから死にたいと告げるはずだ。

 自分にとっての目標、夢、あくがれ―――をやりとおせないまま、折り返しや終点にさしかかり、期待していた轍ではない生活にどっぷり首まで漬かる。人生のどこかで忘れものをしていることは分かっているのだが、後戻りもやり直しもきかない。だましだまししながら毎日を過ごし、自分を飼いならしながら残りの人生を見遣る。

 そのとき、かつて己を突き飛ばしていた熱の余波が、いまの生活にまで沁み通っていることに気づき、思わず一緒に微笑んでしまう。この微笑は、わたし自身に向けてもいい(それぐらいトシをとったのだ)。個人的な慣習や、「習い」となっているもの、嗜好など、自分の生活を特徴づけているものは、過去の熱狂だったりするからね。

 ちなみに、わたしが推した短篇の傑作は、太宰治の「満願」。岡本かの子なら「金魚撩乱」が好きだ(ドンデン返しと翻る金魚が重なって美しい)。いずれにせよ、「鮨」は確かに傑作ナリ。ちかさん、再読の機会をいただき、ありがとうございます。

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ビブリオバトルのお誘い(残りわずか)

 本を通じて人を知り、人を通じてスゴ本と会うビブリオバトル。

ビブリオバトル

 今回も参戦するので、一緒にオススメあいましょう。発表者の募集期間は残りわずか。10/3(月)までだから、逃さないように。観覧者の方は、わたしのオススメに「それならコレは?」と打ち返してほしい、ぜひ。

 とき
    10月10日(祝)
    第1ゲーム 14:00~
    第2ゲーム 15:00~
    第3ゲーム 16:00~
    ※第3、第2の順に希望してる

 ところ
    紀伊國屋書店新宿南店

 バトルと銘打っているものの、あンまり闘いちっくでもなし。「これイイよ!」と目ぇキラッキラさせながら語れる嬉しい場だし、美しい女性をじーっと見つめててもちっとも失礼にならないひと時だ。だから、本をダシにして出会いを求めている横島君こそ、舌鋒を研いでおくといい。

 わたしのオススメは、人生の保険となる本。イザというとき、思い出してほしい。きっとあなたを支える一冊になる。もしかすると、イザというとき、手元にないかもしれない(amazonで絶版状態になることしばしば)。だから、書店で手にしてほしい。

 参加枠にない時間帯は店内をウロつきながら、プチ本屋オフをするつもり。赤いウェストバッグをナナメ掛けにしたおっさんがいたら、それはわたし。巡回中は twitter(@Dain_sugohon) にもいるかも。タイムラインでもリアルでも、一緒にオススメあいしましょう。

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