« この「本のオフ会」がスゴい | トップページ | 食に国境なし「食の500年史」 »

「気違い部落周游紀行」はスゴ本

気違い部落周游紀行 今風に言うなら、タイトルは釣り。だがホンモノの釣り針が入ってる。

 とがった看板なのに中身は普遍、諧謔たっぷりのとぼけた会話を嘲笑(わら)っているうち、片言の匕首にグサリと刺される。そんなスゴい読書だった。

 「気違い」と「部落」という反応しやすい強烈な用語を累乗しながら、中身はありふれた『ど田舎』の村社会を描く。でもその「ありふれ」加減は、いかにもニッポン的だ。彼らを笑うものは、この国を嗤うのと一緒だというカラクリが仕込まれている。

 著者は、きだみのる。ファーブル昆虫記を全訳した業績は分かりやすいが、ひょうひょうとしながら熱い魂を抱いている。開高健風にいうなら、「胸にゴリラを飼う男」やね。紀行文に名を借りたこの痛烈な社会批判は、時代も場所もかけ離れているのに、ザクザクと胸にくる。

 たとえば何でも名前やラベルを付けたがる悪癖を、ルヌーヴィエの箴言でチクっとやる。「人は事物の名を知ると、その名に依って表される内容の全体を知ったかのように思い込む」。反射的に「ブラックスワン」が浮かぶ。今までの理屈で説明できない想定外の事象に名をつけて、分かった気になっているだけ。経済学者のトリックを、一緒になって悦に入っていたわたし自身が恥ずかしい。言葉だけで内容まで知ったかぶるのは気をつけよう。

 あるいは、「正義」の話が刺さる。人を食った筆運びだが、これは罠。心してどうぞ。

一体正義とかその他これに類する言葉は、一般に自己の利益を守るため他を攻撃する道具でないかと思われるような使用を受けている場合が多く、自らの損失に於て正義を云々する例は滅多にないように思うのは私の無学の所為であろうか。
 持論を通すため正義だ国民だと言い募る連中に見せたら、恐れ入って恥じ入るだろうなぁと想像するが、無理無駄ァ、奴らの顔の厚さを思い知るのが関の山。

 政治家の言説に用いられる「コクミン」という抽象語は、この単純素朴な村人への洞察を通じて見事に具体化する。それは、したたかさ、たくましさ、ずるさ、妬み、目先ばかりの功利主義、裏切りと足の引っ張りあい―――嫌らしくて懐かしい村民の言動に、腹を抱えて笑うだろう。そしてゾクりとするだろう。愚かしいほどの忘れっぽさや、口と腹とじゃ言うことが違う気質は、そのまんま「いま」「ここ」のことだから。

 ニッポンジンの本質は、今も昔もそのまんま。テクノロジーや表層で変わった気分になっていた背中に冷水を浴びせられる。うちひしがれた心に、とどめのように寸鉄が刺さる。曰く、「先生よ。良心って自分の中の他人だな」ってね。

 これは父が存命中に何度も首を振りながら「すごい本だぜこれは」と唸っていた一冊。もっと若かったら上滑りしてただろうが、今なら分かる、その痛々しさが。これは、相憐れむ視線に満ちているスゴ本やね。いい本ありがとう、親爺。

このエントリーをはてなブックマークに追加

|

« この「本のオフ会」がスゴい | トップページ | 食に国境なし「食の500年史」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「気違い部落周游紀行」はスゴ本:

« この「本のオフ会」がスゴい | トップページ | 食に国境なし「食の500年史」 »