完璧な短篇、完璧な短篇を書くための十戒「美しい水死人」
「これを読まずしてラテンアメリカ文学を語るなかれ」と強力にプッシュされる。なるほど、「全部アタリ」「珠玉の」という形容がピッタリの傑作選(Motoさんありがとうございます)。
短篇の名手といえばポーやチェホフを思い出すが、コルタサルやオクタビオ・パスは、そうした名人をベースに、まるで違う世界を紡ぎだす。"マジック・リアリズム"なんてレッテルがあるが、むしろ「奇想」というほうがしっくりくる。完全に正常に、誰も思いつかないような異常を描く、奇妙な想像力を持っている。
瞠目したのが、「遊園地」を書いたホセ・エミリオ・パチェーコの奇想力。読むという行為で脳裏に形作られる世界が一巡したら、その世界に閉じ込められている自分に気づかされる。「読む」ことは、物語世界を取り込むことなのに、取り込まれてしまう。見ている自分が見られてましたという、人を喰ったというよりもわたしが食い尽くされるよう。
さらに、奇想を奇想のまま放置する。つまり、因果関係や原因の解決までたどりつかないのだ(たどりつけないのかも)。異常現象が起きたなら、「なぜ?」という疑問を追いかける主人公に慣れ親しんでいると、連れまわされた後、とり残されてしまうだろう。狐につままれて、そのまま逃げられたような気分だ。「なんだ、あれは」と自問するが、けっして不快ではない。むしろ、その「つままれた」感触がザワつかせ、あれこれ想像の羽を広げる愉しみが待っている(そしてきっと、夢に出る)。
たとえば、マヌエル・ローハスの「薔薇の男」なんて、要するに鶴の恩返し的シチュエーションだ。「わたしが合図するまで、けっして、この扉を開けないでください」という状況で、主人公は果たして扉を開けるのか、開けないのか…が一つ目盛り上がりになる。扉をどうするかは、読み手の予想どおりかもしれない。だが、二つ目のオチのほうに仰天するだろう。どうしてそうなったのかは説明がない、だから、自分であれこれ勘ぐるのだ。
異常に『喰われる』感覚が見事なのが、コルタサルの「山椒魚」。写実に徹した描写で、ありふれた日常を描きつつ、細部に予兆のように狂気をしのばせる。最初は何でもなかった個々の亀裂やゆらぎが、進むにつれ世界を覆っていく過程に、読み手は同じ胸騒ぎ・同じ悪夢を共有するだろう。描写の分量が計算され、最適化されているため、正気と狂気の境目が見えない。気づいたら喰われてた、という読書。もし完璧な短篇というものを挙げるなら、この「山椒魚」か、「遊園地」を入れたい。
解説がまたふるってる。ウルグアイのオラシオ・キローガの「完璧な短編を書くための十戒」が載っている。ケツの青い情熱も感じつつ、小説に打ち込むには、まさにそのケツの青い向こう見ずさ加減が必要なんだなぁと感じ入る。
- ポー、モーパッサン、キプリング、チェホフといった師を神のごとく信じよ
- 彼らの芸術近寄りがたい高峰と見なせ。夢にもその高峰に登ろうなどと考えてはならない。それができる時は、気づかないうちに登りつめているはずである
- できる限り模倣は避けよ。しかし、あまりにも影響がつよい時は、模倣してもよい。作家としての個性を伸ばすことはなによりも大切なことだが、それには長い忍耐を必要とする
- 勝利を得る能力ではなく、それを求める熱情に盲目的な信頼を置け。恋人を愛するように、芸術を心から愛するのだ
- 最初の一語から自分がどこに向かって進んでいるのかをちゃんとわきまえて書きはじめよ。成功した短編では、最初の三行と末尾の三行がほぼ同じ重要性を備えているものである
- 「川から冷たい風が吹いてきた」このような状況を表現するには、ここに記した文章以上の表現は人間の言葉には存在しない。ひとたび言葉を自分のものにしたら、それらが協和音なのか類音なのかを気にする必要はない
- 余計な形容詞を用いてはならない。力のない名詞にいくらきらびやかな形容詞をくっつけても意味はない。まず正確な名詞を見出すこと。そうすればその名詞はひとりでに類まれな煌きをもつだろう。なにをおいてもまず名詞を見つけ出すことである
- 登場人物の手をとって、きみが描いた道筋にのみ目をむけ、自信をもって結末まで彼らを導いてやらなければならない。彼らにできそうもないこと、あるいは彼らにとって目をむける必要もないことに気を取られて、心を乱してはいけない。読者を裏切るな。短編とは一切の挟雑物をのぞいた小説である。この言葉が真実でなくても、絶対普遍の真理と心得なければならない
- 感情に支配されて筆をとってはいけない。いったんその感情を冷やしたのちに、もう一度呼び覚ましてやらなくてはならない。それを最初の状態のままで蘇らせることができれば、短編は技術的な意味で半ば出来上がったと言ってもよい
- 書く時は、友人のこと、またきみの物語が人に与えるであろう印象のことを考えてはいけない。短編を書く時は、きみの登場人物(きみもその中のひとりでありうるわけだが)の作り上げる小世界にしか興味がないという態度で物語ることだ。それ以外の方法では、短編が生命を得ることはない
「完璧な短篇」への入口は、短篇コレクションI。カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」も、マクラウド「冬の犬」も、コルタサル「南部高速道路」もこれで知った(どれも殿堂入りやね)。河出世界文学全集で、これはピカイチになりそう。
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