食べることは、色っぽい「飲食男女」
みだらで、せつなくて、うまそうな掌編たち。
食べること、味わうことは、なにも「食」に限らない。「食べる」「味わう」には、男と女の味がする。「食」も「色」も同じショク、食事も色事も同じ事か。男と女の艶話に、食にまつわる伏線が、張られ絡まれ回収される。
少年時代の甘酸っぱさは「ジャム」に注がれるレモン汁に象徴され、性春のひたむきな欲情は、「腐った桃」の、ゾッとするくらい甘い匂いに代替され、酸いも甘いもかぎわけた行く末は、「おでん」の旨みに引き寄せられる。同時に、イチゴジャムに喩えられた血潮の鮮烈なイメージや、山茱萸にべっとり濡れた唇が「あたし、いまオシッコしてるんだ」とつぶやく様は、いつまでも読み手につきまとって離れないだろう。
ありそでなさげな、でもひょっとしたら…というポリウレタン的寸止め感覚にぞくぞくする。ファイト一発的な青い性よりも、(書き手の年齢からくるのか)ちょっと疲れた年齢の、それでもやめることができない色話が多め。ハルキのように寝たがる女たちと、チェホフのように深刻な関係に陥る、困った男たち。
一頁目でガツンと犯られろ。信じるか、信じないか。
ぼくは、女の人のもう一つの唇が物を言うのを聞いたことがある。ずいぶん昔のことだが、ほんとうの話である―――虚実の境目を探すのが面白いし、さらに、虚を自分の体験や妄想で上書き保存すると、さらに愉しい。
「桃狂い」と「とろろ芋」が秀逸だ。食べるものが、ストーリーにも、行為にも、ダイレクトに絡んでくる。危ないのは、「桃の匂い」「とろろの痒み」を自分の記憶として上書きしてしまうこと。次に実際に桃やとろろが出てきたときに平静でいられるか。メタファーが経験に影響してくる。
「色」のアイテムとしての「食」は、メタファーとしても使える。古くて申し訳ないが、映画「ナインハーフ」の目隠し冷蔵庫プレイを思い出す。フルーツの fresh と 果肉と肉欲の flesh と、あまり知らない相手との新鮮なセックスを、"掛けて"いたのだろう―――いまさらながら、思い当たる。
さらに、開高健の作品を思い出す(夏の闇か?)。行為の前に、よく熟したオレンジを一果、半分に切って、そこに振り掛けるとよろしいそうな。体液と混ざると、たまらなく良い芳香を放ち、むしゃぶりつきたくなるらしい。ただ、間違ってもレモンはダメで、すえたような臭いになるそうな。
料理と一緒、思わずやってみたくなる。危うくて美味しくて、涙の味がする読書。

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