題名のない読書会(またはジュヴナイルで選ぶならコレ)
どれ持っていくか、再読したり悩んだり……この時間がとても楽しい。この記事では、その"楽しさ"について語る。本のタイトルは出さないのでご安心を。題名を出さずに本を紹介するという、難度の高いレビューになる。いわば、「題名のないオンライン読書会」やね。もちろん、スゴ本オフでは実物を持っていくので、予想してみてほしい。
まず、以下の言葉わけは意味ないですな。
児童文学
ジュブナイル(ほんとは"ジュヴナイル"が肌に合う)
ライトノベル
ヤングアダルト
「子ども向け」「若者向け」とラベルを貼っても無用、読みたい子ども/若者は、ラベルにちゅうちょせず手にとるから。いっぽう、既に子持ちでかなり若者から遠ざかったオッサンにとってみれば、ぜんぶ一緒、同じものの方言に見える。だから、「自分がジュヴナイルと思ったらジュヴナイル」でいいかと。学校の図書室にありそうなやつとか、○○コーナーに並んで沿うな一冊にこだわらなくてOK。
さらに進めて、「若者/子どもが主人公ならジュヴナイル」もありかと。子どもが困難や恐怖を乗り越えて成長する物語なら、学校の図書室になくても"ジュヴナイル"の資格は充分にありかと。たとえば、スティーヴン・キングといえば"モダンホラーの旗手"(もう古語やね)だけど、以外と子ども視点の成長譚がある。子どもの読み物→ファンタジー系から連想する、すぐ隣の芝生「ダークファンタジー」「モダンホラー」に目を向けるわけ。
そして、親視点で読んだら別の感触を抱くものを選んだ。子どもにとっては、主人公が成長する冒険譚として読める。だが、親にしてみれば、見慣れたわが子が、見知らぬ化物に変わってしまう恐怖譚に読めるもの。そう、子どもが成長するということが、"おぞましい"ほど強烈なショックを与える物語、でも子どもが読むものを選んだ。ツカミの、「ママ助けて…」といいながら、どんどん子どもが膨張していくシーンは、親トラウマ本になりかねない。ダークファンタジー、恐るべし。
もう一つ、いわゆる王道をもってきて、別の読み方を提案することもアリだ。わたしが持ってく鉄板の一冊は、まちがいなく誰かと被るだろうが、問題ない。オッサンになった今、読み返してみたところ、新しい経験を得たから。
まず、記憶が残酷なこと。自分の記憶が、いかに改ざんされていたかが分かった。可愛げのある少年だったはずだが、「でぶ」で「ちび」で性格的にもちょっとアレなことがキッチリ記されている。とすると、上書きされたんやね、映画にw 脳は選択的に覚えているもの。読んでる途中、主題歌がずーーーーっとリフレインしていたもの。
それから、再読で気づいたのが、これは、ドン・キホーテを裏側に持っている。シェイクスピアで遊んでいるのは分かるが、ドン・キホーテは隠しつつ伏水流のように物語を潤している。お話の構造はまるで違うが、少年は彼の狂気を引き継いでいる。ドン・キホーテはお話が始まると速やかに旅立つが、これは"ドン・キホーテになりきるまで"が前半で、後半は"なったあと"と取れる。
さらに気づいたのが、これは「ループもの」であること。通常はループというネタが登場人物を翻弄させたり利用させたりするいち現象として扱われる。しかし本書は、ループを物語に組み込んでしまいつつ、そのループをたどっているのは誰?という気にさせてくれる。登場人物だけじゃないのだ、そのループにハマるのは。自己言及の罠を回避しつつ、なおかつ外出しに堂堂と見せつつ、それでいて物語として成立している傑作だ。
さて、お分かりだろうか?二つ目は、おそらくアナタの浮かんだ一冊でアタリだ。では会場で/twitterで/ブログでお会いしましょう。

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