「幅書店の88冊」はオススメ
なぜ本を読むのか?
この疑問に冒頭で答えている、いかにも幅さんらしい。「幅さん」なんて親しげに書いたが、一方的に慕っているだけでお話したことはない。ブックコーディネーターをなりわいとしており、ときどき小さな会を開く([BACH]で告知してる)。その語りを聞けばすぐに気づく、この人、ホントに本好きなんだってね。モノとしての本も含め、本屋から本を解放するのが幅さんのミッションなのだろう。
最初の質問に対し、幅さんはなんて答えたのかというと―――
少なくとも僕にとっては、本を読むこと自体が目的ではない。その読書が、どう自らの日々に作用し、いかに面白可笑しく毎日を過ごせるかの方が重要だと思っている。言い換えると、本よりも人間や毎日の生活の方が好きなのだ。この姿勢は幾度も耳にする。本を読むことそのものではなく、読んだ後に何をしたかが重要なのだと。何かを読んで、誰かに話したくなって会いにいったとか、何かを料理して食べたとか、リアクションを重視する。本とは、誰かの経験や感情をテキストという言霊(ことだま)に情報化したものだという。その経験や感情を血肉化し、自分の言動に還元することが大切なのだと。
このスタンスは好きだ。たとえば、作りたくなる読書。からだに叩き込む料理として、檀一雄の「檀流クッキング」を紹介する。分量度外視の、野蛮で偏った、涎のたれそうな料理が紹介されているという。あるいは、でかけたくなる読書。小沢健二の「うさぎ!沼の原編」では、好奇心の扉を実際にその手でノックすることを説く。クラウドに保存された思い出でなく、ダイレクトに記憶に触れる、その鍵が好奇心なのだと。日々の生活や感情への相互作用としての読書、このスタンスはいい。
だが、言い換えると「そういうスタンス」に沿った/合った本ばかり並ぶことになる。経験のストレッチを強要する読書や、人間の感情の限界や閾値を引き上げたり破砕するような、エゲツない読書とは無縁だ。身の丈に合わない怪物に食らいついてヒイヒイ泣きながらヘシ折られることはないだろう。そういうドMには、「人生を狂わせる毒書案内」あたりがお似合いだ。
幅さんは極端に振れることなく、本の"効き目"にふみ込む。読書経験が血肉化し、自分の抽き出しにしまわれる。この遅効の抽き出しという考えは、3月11日を境に表に出ているように、見える。「厳密に言えば、本は誰も救ってはくれないのかもしれない」と予め断った上で、こう述べる。
だけれども、目を背けたくなるようなタフな現実からなんとか自分が持ち堪えるための耐性を、その引き出しの中にある小さな経験は授けてくれる気がする。だから僕は、本を読むと「救われはしないけれど、耐えられるかもしれない」とは言える。その盾や碇として、シンボルスカ「終わりと始まり」を紹介する。不条理に満ちた、「世界」という名の他者に、ただ言葉でもって向かい合う。イデオロギーやプロパガンダとは異なり、個から個へと語りかけてくる、翻訳されても壊れない、直接そのままの伝言だ。これは幅さんの会で知ったスゴ本で、この出会いに非常に感謝している。また、花森安治「一銭五厘の旗」を示して、「僕たちはかつての『少しだけずれてしまっていた毎日』の生活を鑑みる機会を噛み締める必要」をうったえる。救われはしないけれど、耐えられるための読書。
この答えには応えられない。「目を背けたくなるようなタフな現実」が何であるかは言うまでもないだろうが、わたしは目撃者でしかないから。現実は見せつけるだけでなく、身体やココロに直接触ってくる、撃ってくる、押し寄せてくるのだ。ヨブをもちだすまでもない。いまある家族や生計や身体の喪失や別離に「耐えられる」かどうかとなると……かなりアヤしい。「なぜわたしだけが苦しむのか」でさんざ予習してきてこの体たらく。
それでもわたしには好ましい、「起きるに値する朝」を毎日くり返して生きていくための88冊が集められているのだから。
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ニュースの追記
昨日(7/30)松丸本舗でサイン本を見かけたぞ。
松丸本舗のレジそば、好位置に「幅書店の88冊」が面置きしてある。
何気に表紙を開いてみると、本体に幅さん直筆のメッセージが!
ご来店の際はぜひ、チェックあれ。
(残り2冊なのでお早めに!)
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