生きることに意味はないが甲斐はある「それでも人生にイエスと言う」
こころが傷んだときの保険本。「なぜ私だけが苦しむのか」と同様、元気なときに読んでおいて、死にたくなったら思い出す。
「なぜ私だけが…」は、わが子や配偶者の死といった悲嘆に寄り添って書かれている。いっぽう、「それでも人生に…」は、生きる意味が見えなくなった絶望を想定している。こうした喪失・絶望に陥っているときに開いてもダメかもしれない。だが、「あの本がある」と御守りのように心に留めおいているだけでもいいかもしれぬ。「これを読めば元気がもらえる」と言ったらサギだろうが、少なくともわたしは、これのおかげでもうすこし生きたくなったから。
著者はヴィクトール・フランクル、ナチスによって強制収容所に送られた経験をもとにして書かれた「夜と霧」は、あまりにも有名。凄まじい実態を淡々と描いた中に、生きる意義をひたすら問いつづけ、到達した考えを述べている(リンク先のレビューにまとめた)。
「それでも人生に…」は、このテーマをさらに掘り下げ、さまざまな視点から疑いの目と、批判への応答を試みる。いくつかは肌に合わないかもしれない。彼のように考えるのは難しい、そう感じるかもしれない。だが、それを理由にして、フランクルがたどり着いた答えを無視するのは得策ではない。いったん受けて、噛み砕く。
フランクルはまず、自殺の問題を四つの理由から考える。心を病むのではなく、身体状態の結果から決断する場合、自分を苦しめた周囲の人へ"復讐"するための自殺、そして生きることに疲れて死のうとする場合のそれぞれに、応える。だが四つ目の理由に最も強く反応する。すなわち、生きる意味がまったく信じられないという理由で自殺しようとする、「決算自殺」の場合だ。
決算自殺とは、いわば人生からマイナスの決算を引き出したので、死のうとすることだという。生きてきたその時点での、借方と貸方を比べ、人生が自分から借りたままになっているものと、自分が人生でまだ到達できると思っているものとを突合せる。そこでどうがんばっても返してもらうことはないことに気づいて、自殺する気になるのだと。
これに対しフランクルは、「しあわせは目標ではなく、結果にすぎない」と言い切る。人生には喜びもあるが、その喜びを得ようと努めることはできないという。"喜び"そのものを「欲する」ことはできないから。
よろこびとはおのずと湧くものなのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。これは理解できる。「しあわせ」に向かって進んだり、「しあわせ」を手に入れたりすることは、ない。しあわせは、「なる」ものではなく「ある」ものなのだから。いま・ここでしあわせを感じることができるなら、それはしあわせで「ある」もの。脱糞や睡眠がしあわせなわたしにとって、「幸せになる」という言葉は、かなり奇異だ。しかしわたしは忘れっぽい。だから、「幸せはいつだって現在形」と書いておこう。
不治の病にかかり余命が告げられた人、非生産的な毎日を送っている老人、病気で動くこともままならなくなった人、働けなくなった人―――著者は、さまざまな逆境を例に、そこでどう考えるかを提案する。いつまで不治だとみなされるかは誰にも分からないという。「ただそこにいる」だけで子どもや孫の愛情に包まれ、代替不可能でかけがえのない存在もあるという。
たとえ全てのものが取り上げられても、人としての自由は、取り上げることができなかった強制収容所の体験を語る。つまり、選び取る自由は残っていたというのだ。収容所が強いる考えに染まるのではなく、"わたしならこうする"という選択の余地は、たとえわずかなものであれ、必ずあったという。そのわずかな余地で、"わたし"のほうを選べというのだ。
つまり、生きることの一瞬一瞬が、この選択を問われていることに他ならないという。そして、生きることは、その一瞬の具体的な問いに答えることであるのだと。人生の意味を一般的な問題にすることは、あたかもチェスの個々の具体的な局面を離れて、「一番いい手は何か」と問うようなもの。定石はあるかもしれないが、あくまでもその一手を自らが選ぶことが、生きることだと言いたいんだろうね。
反射的に次の言葉を思い出す(マザー・テレサ?)。「考えたとおりに生きなさい。さもないと、生きたとおりに考えてしまうから」。そして、その通りだと同感できるのだが、心からそう信じることは難しい。いま・ここで、身体的な不具合や、心理的な圧力から自由だからこそ、信じることが難しい。もしも、家族や健康が失われても、同意できないかもしれない……著者は、病気と死を「贈りもの」と言うが、とても無理だ。なのでこれは、「そのときになって」もう一度読もう。

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コメント
>「考えたとおりに生きなさい。さもないと、生きたとおりに考えてしまうから」
ポール・ブールジェのようですね。
投稿: | 2011.06.01 10:52
>>名無しさん@2011.06.01 10:52
ありがとうございます!
tumblr経由だったので、詠み人知らずかと思い込んでました。
投稿: Dain | 2011.06.01 11:51
それでも人生にイエスと言うは、私も読みましたが、人生は何か?その哲学の集大成ともいえる内容で、とても参考になりました。素晴らしい本ですよね。
投稿: ベンジャミンフランクリン大好き人間 | 2013.05.04 20:14