« あたらしい本との出会いかた | トップページ | セックスの回数が増えている件について »

私小説とは内臓小説だ「塩壷の匙」

 私小説とは内臓小説だ。

塩壷の匙 自分自身をカッ斬って、腸(はらわた)をさらけだす。主人公=作者の、あたたかい内臓を味わいながら、生々しさやおぞましさを堪能するのが醍醐味。キレ味やさばき方の練度や新鮮さも楽しいし、なによりも「内臓の普遍性」に気づかされる。そりゃそうだ、美女も親爺も、外観ともあれ内臓の姿かたちは一緒なように、えぐり出された内観は本質的に同じ。だから他人の臓物に親近感を抱く読み方をしてもいい。

 松丸本舗にて松岡正剛氏から直々にオススメされた車谷長吉「塩壷の匙」を読む。傑作短編集だ。松岡正剛さんオススメの劇薬小説という触れ込みだが、これは内観のおぞましさだね。そいつをハッとするほど美麗な筆致で削りだす。たとえば、「なんまんだあ絵」で井戸の中の鮒に近しいものを感じていた老婆が、こんな光景にであう。

釣瓶を井戸へ落とし込んだのだが、ゆるゆる闇の底から上がってきた水桶の中に、鮒の白い腹が浮かんでいた。おかみはんは、あ、と息を呑んだ。しかしそれで腹が決まったのである。
 彼女の腹がどう決まったかを思いやると、ちょっと胸にせりあげてくるものがある。けれどもここで指摘したいのは、ビジュアルのコントラスト。闇に白い腹を浮かばせた鮒の死体が、あまりにも鮮やかなのだ。幸薄き半生を、淡々と積み上げるように描いてゆき、ラスト近くでこの白い腹だ。"希望"じゃないことぐらいは分かる。行く先の"なさ"を照らす白さ、「ここより先三途の川」の標(しるし)なのだろう。

 純朴で残酷であるほど、美しい。「白桃」は、ラストの悪意と対照的な、この出だしが素晴らしい。カメラ的絵と3D音響効果と脳裏への焼きつきが、一文にて示される。

納屋の背戸から涼しい風が吹いて来た。竹藪の葉群が風に戦ぎ、納屋の土間から見ていると、黄色く変色した葉の残る、篠竹の葉裏が目の中で騒ぐようだ。
 「白桃」のストーリーには一切口をつけないので、愉しんで欲しい。著者の内奥の記憶の痛みは、「塩壷の匙」よりも優れていると思うぞ。他人の不幸は蜜の味。その悪意に触れたときの無残な味と、それを黙ってさらしておくようなむごさとさみしさを胸で感じる。

 腹の中のものを、ほらこれだよ、ほらどうだよ、と手づかみで見せ付けてくる。おもわず目を背けたくなる。自分の半生の汚辱や怨恨を暴露し、それを切り売りすることで、自身を救済しようとしているのか。描かれる「不幸」がありふれていればいるほど、抉り出す狂気のほうに目が行く。書くことは煩悩そのものやね。

 では読むことは?女が男に求めるグロテスクさにたじろぎ、澱んだやりきれない生活に安堵感を見つけてうな垂れる。ひきつけて読むと、主人公=作者と共に、感情を生き埋めにすることを覚えるだろう。この本をつかむ手が、そのまま深闇の淵をつかむ手になる。同じ臓物を、わたしも持って生きていることが分かる。読むこともまた煩悩なのだ。

このエントリーをはてなブックマークに追加

|

« あたらしい本との出会いかた | トップページ | セックスの回数が増えている件について »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 私小説とは内臓小説だ「塩壷の匙」:

« あたらしい本との出会いかた | トップページ | セックスの回数が増えている件について »