「風が吹くとき」再読
絶句した、わたしはこの老夫婦を笑えない。むしろ、いまの"わたし"そのものだ。
イギリスの片田舎が舞台、時代から取り残されたような老夫婦を描く。絵本というよりグラフィック・ノベルやね。穏やかな二人の生活に、さいしょはジワジワと、次に割り込むよう、最後は全面的にのしかかってくる「核の恐怖」が、すべてを塗りつぶしてゆく。初読は二十ン年前、「さむがりやのサンタ」しか知らなかったわたしには、ほのぼの+おどろおどろのギャップが衝撃だった。
しかし、当時のわたしは、「フィクションというフィルター」を通じて受け止めたがる節があった。全面核戦争が勃発すれば、日曜大工の「シェルター」や、窓ガラスに白ペンキごときで防げるワケがない。それでも政府が発行するパンフレットを、一字一句、忠実に守ろうとする彼らに、一種ほほえましさを感じ、待ちかまえる運命を案じ、微笑しながら涙ぐんだ。
核戦争が「ラジオ」で告げられ、3分後に飛来するところまで放送される"演出"も、「フィクションというフィルター」を"演出"してくれている。おかげでカウントダウンを身構えるようにページをめくれる。だが、放射能がじわじわと二人を蝕んでゆく様子は違う。「ここ」と「あそこ」の区別がつかないのだ。つまり、どの時点で手遅れなのか、そうでないのか、最後まで分からない。最初は丸々と血色のよい初老の夫妻だったのが、だんだん白色化してゆく。そう、この絵本では、放射能の影響は「白色」に彩られる。
救援がくる、と信じて待つ二人。既に政府のパンフレットでは「想定外」の出来事に満ち溢れているのに、明らかに「おかしい」ことが周囲にも自分の体にも起きているのに、認めようとしない。その、頑固なほど「政府」を信頼する様子は、愚かなりと嘲笑(わら)えるだろうか。かつてわたしは、愚かだと思ったが、いまのわたしは、その「愚か」そのものだ。
なぜなら、信ずるに足る情報を元に下した判断ではなく、"信じたい"という欲求を満足させるために、信じるから。さらに、"信じてきた"結果がもたらした事態を認めたくがないために、信じるから。ほら、ここにもサンクコストが。信頼をコストで測るならば、すでに費やしたコスト(信頼)はとり返しがつかないため、投資(信頼)し続けるしかないのだ。ご破算にして撤退するということは、それまでの自分の信頼を否定することにほかならいから。
一応、わたしの場合、夫婦の間で、「いざというとき」のデッドラインとシミュレーションは練ってある。だが、このデッドラインは政府発表を基にしている。信頼するしかないわたしはもはや、自分を除き、誰も嘲笑うことができない。
老夫婦の運命は、ショック療法のように効く。現実への免疫をつけられるフィクションなのだが、自身の位置に愕然とするかもしれない。たいして変わらないって理由でね。

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コメント
今回の津波の件でこの映画のことを思い出しながら、タイトルが思い出せずにいたところをタイミングよく取り上げていただき、心のつかえが取れました。ありがとうございました。
曖昧な記憶ですが、この夫婦が広島のことに触れて、「あの爆弾は被害がひどかったらしいけど、昔のことだし、人々に十分な知識がなかっただけなんじゃないかな」というようなことを言っていたと思います。甚大な被害を被ったのはそれが起きたのが後進国の素朴で蒙昧な人々だからあって、我々は大丈夫だろう、と、夫婦も同じ悲劇に向かっていることに気づいていないという描写です。
スマトラの被害を多少は知っていながら、私も、「日本はたぶん、大丈夫だろう」と同様に勘違いしてしまっていたことに愕然としています。
投稿: | 2011.04.04 20:30
>>名無しさん@2011.04.04 20:30
た・し・か・にー
>「日本はたぶん、大丈夫だろう」と同様に勘違い
は、今のわたしが陥っています。おそらく、わたしは、自分が信じたいものを(選択的に)信じているんだろうなぁ…
投稿: Dain | 2011.04.04 23:56
こんにちは。
この作品を最初に読んだのは中学校だったかと思います。
当時の私は日本は危機意識が高いからこんな事故が起きたらみんな逃げ出すよ。
ありえないなぁ。
なんて思っていたものです。
でも、現実なんてこんなものなのかもしれないなぁと現在の状況を見ると思わなくも無いです。
ただ、この作品と違うのは現在はネット環境がそろい色々な人の意見を聞き、目に見ることが出来る。
それによって正しい情報を得ることが出来ると思っていました。
が、多くの人が色々な立場から正しいと信じる情報を発信することで実際はどうなんだと言うことが霞んでしまうと言う逆転現象が起きていると思いましたね。
ホンキわからない。
色々と情報を得ながら確率的にこちらなのかと探し出す作業は非常に大変であり、実際にこうなんじゃないかと思った情報を声高に叫んでみても、"池上彰"などが一蹴すれば全く信じてもらえなくなると言う現実。
実際、最初の爆発時に実家に電話して当分洗濯とか外干すのは控えたほうが良いとか言ったら。どーせ2ちゃん情報でしょ。
家はTBSラジオの情報で動いてるから大丈夫とか言われちゃいましたww。
いや~、恐ろしいですよねぇ。
投稿: 浮雲屋 | 2011.04.06 16:00
はじめまして。
本の内容からは外れてしまいますが・・・。
> 自分が信じたいものを(選択的に)信じているんだろうなぁ…
「正常性バイアス」ってやつでしょうか。
物理学者の寺田寅彦は著書の中で「正しく怖がる」ことの重要性と難しさについて書いていますが、今回は矛盾する情報が入り乱れていて、何をもって「正しい」と判断するかが非常に難しくなっていると感じます。
投稿: 大江戸奉行 | 2011.04.06 22:06
>>浮雲屋さん
「風が吹くとき」は、冷戦時代の核の恐怖を描いたものですが、スリーマイル、チェルノブイリ、そしてフクシマを経て自分に引き寄せて読むと、読中感覚がどんどん変わってきて興味深いです。特に汚染問題では、自分がいかにカリカチュアライズした反応をしているか、教えられているようで怖く、かつ、可笑しいです。
情報については、いったん遮断して、後は選択的に必要なモノを探して採るといったやり方をしています。自分でコントロールできない(フクシマの現場のあれこれ)ものにやきもきするのではなく、自分でコントロールできるものを注視しています。
>>大江戸奉行さん
正常性バイアス、言いえて妙だなぁと思っていたら、ちゃんとした用語なのですね。異常事態を受け入れられず、避難が手遅れになるパターンがあるようですね。昨日と同じ明日を求めたがる動機がそうさせているのかもしれません。
寺田寅彦の「正しく怖がる」は「小爆発二件」という随筆のようですね、読んでみたいです。教えていただき、ありがとうございます。
投稿: Dain | 2011.04.06 23:22