« 私小説とは内臓小説だ「塩壷の匙」 | トップページ | ラテンアメリカ十大小説 »

セックスの回数が増えている件について

 3.11の前と後で、増えてる、きちんと数えてないが、2倍ぐらい(当社比)。

 未曾有の危機を目の当たりにし、「ゆれ」に対して極端に敏感になっており、身体モードが戦闘態勢に入っているからだろうか。加えて、目先の不安、将来の不確かさが「生きること」そのものへの欲求をつのらせているからだろうか。生命の危機に瀕すると、生命を残そうとする情動スイッチが興るのだろうか。

 吊橋効果というコトバがある。ぐらぐらする吊橋を男女で渡るとき、恐怖によるドキドキを恋愛によるドキドキと勘違いしてしまうやつだ。聞くところによると、婚約指輪がバカ売れしているそうな。コンドームも然りかと。揺れているのは福島だけではない。日本列島という弧が巨大な吊橋と化しているのか。

 いずれにせよ、スイッチが入ったのは、わたしだけでない。行為に没頭することで不安を鎮めようとするのか、互いが互いにしがみつく。だが、これが「本」になると想像力を要する。それでも、プラトニックから生モノまで、心に掛かるやつを振り返ってみる。

エロティック・ジャポン まず、「エロティック・ジャポン」。エロスとは、生きるチカラそのものだということを思い知る。自分を見ることはむずかしい。鏡なしでは自分を見ることすらできないし、その像は反転している。「他人から見た自分」を見るためには、最低2枚必要だ。どんなにレンズが歪んでいても、カメラや他者の目があれば、自分が「どう見られているか」を知ることは可能だ。これを「日本人のエロス」でとことんヤったのが、本書。

 「趣味はエロス」というわたしだが、本書には大いに教えられる。単純にわたしの精進が足りないのか、それとも著者のフランス女が半端じゃないのか、分からぬ。徹底的に、全面的に、過激に貪婪に、日本人のエロスを詳らかにする。もちろん、「俺はそんなことしない」「それは普通の日本人じゃない」とか弁明するのは可能だ。

 だが、普通ってなに?どんなに異様で異常だろうと、それを追求・志向する人が居るのは、日本そして日本人なのだ。そいういう特殊もひっくるめて普遍化しているのが、日本なのだろう。カレーから宇宙船まで、なんでも取り込み自家ヤクロウにする。ケモノレベルのエロスから、高度文明化した情動まで、想像力の尽き果てるまで許し許される。わたしはこの大らかさが好きだ。目ぇにクジラ立てるよりも、まぁまぁなぁなぁゆるめなトコが大好きなのだ。残念ながら昨今の情勢では、堂堂エロスを語れない。外のレンズを通してでしか、日本のエロスを語れないのは残念だが、本書が語れるウツワは残っていると信じたい。

 次は、「オンナの建前・本音翻訳辞典」を推す。男性のコミュニケーション能力の低下に起因するモテ格差は、今に始まったことではない。本書があったなら、どれほど楽できただろうに… と、わたしも思っているから。

オンナの建前本音翻訳辞典オンナの建前本音翻訳辞典2

 つまり、オンナの発言の真意をくみ取れず、カン違いや軋轢を引き起こす鈍感男がモテない一方で、女性言語の読解に長けた一部のヤリチンの草刈場が現代の恋愛市場なんだ。来る本格的恋愛格差社会に備え、本書で保険をかけておくことをオススメしよう。本書は I と II があるが、 I からのエッセンスを問題形式にまとめた→オンナの建前からホンネを見抜く10問。格好の(?)「地震」という話題がある。虚勢張るのではなく、正しく怖がり、適切な準備をアドバイスできれば株も上がるというもの。

愛するということ さいごは、スゴ本オフ@恋愛編より考察。これは、テーマに沿ってオススメ本を持ち寄って、ゆるくアツく語り合うオフ会だ。いちばん面白かったのは、「オススメの恋愛本を紹介しあう」のが目的なのに、だんだん話が「恋愛とは何か?」にシフトしていったこと。なぜその本がオススメなのか?についての説明が、そのまま「自分にとって"恋愛"とはこういうもの」に換えられる。それは経験だったり願望だったりするが、それぞれの恋愛の定義なのだ。「本」という客観的なものについてのしゃべりが、「私」という個人的なものを明かす場になる。

 「レンアイ」ってのは、ドラマや映画や小説で市場にあふれ、ずいぶん手垢にまみれているのに、いざ自分が体験するとなると、非常に個人的な一回一回の出来事になってしまう。墜ちて初めて、一般化されていたワタクシゴトに気づくという、とても珍しいものなんじゃないかな。いわゆるスタンダードな王道から、変則球なのに「あるある!」「そうそう!」と手や膝を打った覇道まで、この恋愛本がスゴいにまとめた。わたしのオススメは、[5冊で恋愛を語ってみよう]に書いたので、あわせてどうぞ。

��������編���場���3� on Twitpic

 振り返ると、恋愛が「レンアイ」として成立するには、一定の平穏が必要やね。たとえ嵐のような激情が吹き荒れるとしても、それが嵐として成立するためには、先立つ凪が必要なのだ。俗にいう「極限状態での愛」というのは、そういう『ストーリー』を形容するための言葉だ。そして、いったん『ストーリー』というからには、始まりと終わりを持つ、一つの閉じた語りになる。この「ゆれ」でどうなるか分からない、いつ終わるかも不確かな、一寸先は薄ぼんやりとした日々、さらに目に見えない恐怖を圧殺しながら日常を送る中、「レンアイ」そのものが絵空事ぽく見えてくる。いや、絵空事なんだけれど、よりその非リアリスティックが際立つ。

 あの日を境に、色、酒、欲が増したような気がする。生きることに執着することは、性欲ならぬ生欲なのかもしれぬ。

このエントリーをはてなブックマークに追加

|

« 私小説とは内臓小説だ「塩壷の匙」 | トップページ | ラテンアメリカ十大小説 »

コメント

まあ、実際、生存本能が刺激されているのは、私の周囲でも、見聞きします。
あと、私も結構年いっていますが、暖かい肌はやはり、こころを落ち着かせてくれるのは、事実。

ハグだけでも、全然、心理状態が変わります。

投稿: luckdragon2009 | 2011.04.13 04:42

>>luckdragon2009さん

はい、ハグだけで、手を握るだけで、ぜんぜん違います。他者を求めることは、生きていることを確認するための行動なのかもしれませんね。

投稿: Dain | 2011.04.13 23:39

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: セックスの回数が増えている件について:

« 私小説とは内臓小説だ「塩壷の匙」 | トップページ | ラテンアメリカ十大小説 »