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現実を見失う毒書「コルタサル短篇集」

コルタサル短篇集 あ…ありのまま今起こった事を話すぜ! 『おれはコルタサルの書いた物語の中に没頭していたと思ったらいつのまにか外にいた』 な…何を言っているのかわからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった… 頭がどうにかなりそうだった…催眠術だとか超スピードだとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

 読んでいる自分が把握できなくなる罠に掛かる、しかも見事に。

 現実からその向こうへのシフトがあまりに自然かつスムースなので、「行った」ことに気づけない。リアルからギアチェンジしてゆく幻想譚ではなく、ユメとウツツが地続きなことに愕然とする。剣の達人に斬られた人は、斬られたことに気づかないまま絶命するというが、そんな感じ。

 ふつうわたしは、「本の中の世界」の現実と、「本を読んでいる」現実とを分けて考える。両者を隔てているのは、本を構成する物理的な紙の表面であったり、わたしの脳内世界を「脳内世界がある」と客観視できる自意識だったりする。おかげでどんな「非現実的なフィクション」だろうと「現実ばなれした悲惨なノンフィクション」だろうと、「いま・ここのわたし」と分けることができる。自分にひきつけて読むか、突き放すか、両者の間合いは、読み手の主導権に委ねられていると思い込んでいた。

 ところがコルタサルは、その距離をやすやすと越える。というか、別物だという「わたしの認識」を粉微塵にしてくれる。しかもわたしは、粉微塵になっていることに気づけないまま、罠にかかったまま放り出される。現実ばなれしている様子を、「夢のような」とか「非現実的な」と形容するが、その根拠となる現実があるから相対化できる。つまり、完全に遊離した「なにか」があるとしたら、それは名づけも描写も想像すらもできない。

 コルタサルが示す入口は、とてもありふれている。友達のアパートに滞在したり、カメラを携えて散歩にでかけたり、旅行帰りに渋滞にまきこまれたりする。そんな日常の出来事を追っていくうちに、紙の裏側、脳の外側にたどりつく。目を凝らしても境界線なんて見つからない。知らないうちにわたしの常識が通用しない場所に立っている。登場人物だけでなく、読み手ごと、世界ごと"もっていかれる"感覚に酔う・揺らぐ。「夜、あおむけにされて」は眩暈と吐き気を味わう。「南部高速道路」なんてご丁寧にも、"もっていかれた"あと、"もどされる"感覚で、まっすぐ立ってるのが難しいくらい。

 さもなくば、最初から「あちら」と「こちら」が交ざっている作品もある。区別不可能な「混ざっている」ではなく、見分けのつく「入り交じり」だ。しかし、注意深く進めていくうち、「あちら」と「こちら」がついに混じりあうところに達すると、分別することの無意味さに気づくのだ。「すべての火は火」を読了後、逆まわしに読むならば、より合わさった縄が解けるような気分になるだろう。

 これは、コルタサルの超絶技巧もさることながら、彼の現実認識に因っているのではないか。伝える都合上、「あちら」とか「なにか」といった、現実とは別物のような物言いをしてきたが、そうした幻想的といわれる非日常は、もともと現実とつながっていると考えているから、こんな奇妙な感覚をもたらす小説になったのではないか。つまり、現実が変化して非現実になるのではなく、メビウスの輪に表裏がないように、現実/非現実は地続きなのだ。

 "現実への揺さぶり"が、クセになりそうなスゴ本。これは。スゴ本オフ@松丸本舗でオススメいただいたもの。MOTOさん、良い(酔い?)本を教えていただき、ありがとうございます。

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風邪にかかるのが楽しみになる「かぜの科学」

 風邪にかかるのが楽しみになる一冊。

かぜの科学 風邪とは何か。風邪を「撃退する」ことはできるのか。ほんとうに「効く」療法はどれで、どれが俗信か。ポリオを根絶できるのに、なぜ風邪のワクチンがないのか―――

 病原体、媒介物、経路、処方箋、民間療法、市販薬の検証、最新の研究成果にいたるまで、著者はさまざまな切り口から風邪の正体に迫っていく。自ら臨床試験(治験)に参加して、試験の様子を報告する件なんて、まさに身体を張ったレポートだね。他人の鼻汁を注いだり、鼻ほじりをこっそり観察する実験は、読んでるこっちの鼻がムズムズしてくる。

 次の「常識」のうち、正しいものはどれだろう?

  1. 「免疫力」が低下すると、風邪にかかる
  2. 風邪には抗生物質が効く
  3. 風邪の予防には、ビタミンCが効く
 答えはマウス反転→【すべて誤り

 無知を承知で告知するなら、本書を読むまで知らなんだ。風邪の季節は免疫力アップを謳うサプリメントを買い求めるし、ひきそうなときはビタミンC入りのドリンクを飲む。医者にかかったら抗生物質を処方してもらうようにお願いする―――そんなわたしの蒙を拓いてくれる。

 風邪とは、ウィルスの侵入による身体の炎症プロセスだという。換言すると、風邪の症状は、わたしたち自身が作り出していることになる。ウィルスの侵入により、サイトカインと呼ばれる化学物質が放出され、これが免疫反応を調節し、病原菌を攻撃する。その一連の炎症プロセスが、鼻水や咳、痛みなどの「風邪の症状」になる。つまり、風邪とは、身体の防御作用そのものなのだ。

 したがって、活発な免疫系を持つ人のほうが風邪の症状に苦しむことになる。これは、「免疫力がある人は、風邪になりにくい」と真っ向から対立する("俗信"とまで言い切る)。そして、「風邪をひかない」人は、風邪ウィルスに感染していないわけではなく、感染してても症状が出ない(不顕性)ことを明らかにする。

 風邪はウィルスであり細菌ではない。だから、抗生物質は効かない。抗生物質は、細菌が細胞壁をつくるのを阻むことで細菌を殺す。ウィルスは細菌ではないから細胞壁をもたず、したがって抗生物質は全く効かない。同様に、抗菌、殺菌効果をうたう石鹸や製品は、風邪の予防に効果はない―――ひょっとするとこれらは常識なのかもしれないが、恥ずかしながら知らなかった……でも、インフルエンザの処方で抗生物質があったのはなぜだろう? インフルエンザもウィルスなのに。体力低下による細菌感染を防ぐためだろうか。

 また、風邪の入り口は鼻だという。手指についたウィルスが鼻いじりや鼻ほじりにより、侵入する。手にウィルス? ドアノブ、スイッチ、キーボードを経由して広がっていくという。わたしが想像しているよりも、はるかに汚れている実態が詳述され、思わず手を見たくなる。もっとも「不潔」なのは、携帯電話とキーボードで、丸洗いできるキーボードや、携帯電話専用の殺菌溶液を紹介している。

 だから、風邪の予防は、ビタミンCよりも手を洗って鼻いじりをやめることになる。「鼻なんて触らないよ!」という方は、カリフォルニア大学バークレー校の公共健康学部の教授のレポートを読むといい。10人の学生がそれぞれ1人で働く姿を観察し、1時間あたり平均16回、目、鼻、唇を手で触ったそうな(うち5回は鼻腔に指を入れた…平均でね)。

 なにかと悪者にされる風邪だが、読んでいくうちイメージが変わってくる。もちろん鼻水や咳は苦しいものだが、風邪にも有益なところがあるという。免疫系の発達を促すには、病原体への暴露を必要とする。つまり、病原体と戦う「鍛錬」をしないと未発達のままで、花粉など無害なアレルゲンに対し過剰な反応をしてしまうというのだ。幼年期に他の子や動物の微生物にさらされることによって免疫系を鍛え、アレルギーや喘息などへの耐性を発達させるという説だ。迷言「なあに、かえって免疫力がつく」まんまやね。

 そして著者は、風邪を擁護するばかりか、風邪との共存を提案する。風邪をひく、とは、自然の力を借りて学校や職場の圧力から逃れることなのだ。体の不調という代償はあれど、日常のストレスから逃れ、一人でゆっくり安静にすることができる。これは、ある意味で健康的なのではないか? と発想の逆転を促す。

 つまり、風邪とは、身体が送ってくる「休め」というメッセージなんだね。だから、ひいてしまったら、職場からも居間からも離れ、感染を広げないようにする。プラシーボ効果はけっこう「効く」らしいから、飲むときは自己暗示をかける。あとはひたすら、栄養と睡眠―――あまり風邪はひかないのだが、次回が楽しみだ。


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スゴ本オフ@ジュンク堂池袋本店のお誘い

 ゴールデンウィークは、狩りにいこうぜ。

 今回も、アツくユルくやりますぞ。自由参加、自由退場方式なので、お好きなときにいらっしゃいまし。赤いウェストバックをナナメ掛けにしてるオッサンがいたら、わたしです。一緒に書棚をめぐりましょう。孤独な狩りよりグループハンティング、わたしが/あなたが知らないスゴ本を、直接オススメあいましょう。

 今回のわたしのテーマは、「教養」。春は新しい学びを始める季節。クルーグマンの経済学を探したり、「数学ガール」の最新刊をチェックするつもり。そして、「学問の入り口フェア」に寄せられた人文・教養本をU-Streamで紹介するよ。

   日時 4月30日(土) 12:00~17:00
   場所 ジュンク堂書店池袋本店[URL]

事前申込不要。好きな時間にいらっしゃって、わたしを探してください。一緒に語り、狩りましょう。わたしの目印は、赤いウェストバック。背中にナナメにかけてマス。店内はちょっとした街並みに広いので、見つけられないかもしれません。どうしても会いたい、という奇特な方は、以下の時間を参考にしてください。フェア棚を漁っております。

   12:00  7Fカウンター前フェア台 「新入生応援フェア」
   15:00  4F人文・思想フェア棚 「学問の入り口フェア」

ひとりU-Streamします、予定時間は 15:00~16:00
ハッシュタグ #sugohon


Live streaming video by Ustream

 終わったら有志で飲みにいきましょう。

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読まずに死ねるか「ゲド戦記」

 人生は短いのに、読みたい本は多すぎる。

ゲド戦記 せめて「入」を絞ろうとしても、欲望は際限なく湧きあがる。興味と関心の赴くまま濫食しているうちに、逃している本があることに気づく。しかも、だいぶ遅くになって。かろうじての救いは、死にぎわでないこと。死期が不可逆に迫ったなら、読書どころじゃなかろう。何を読んでも後悔するのは目に見えている。しかし、それでも、「コレ読んでおけばよかった」の「コレ」を読む。そして、「ゲド戦記」は「コレ」だ。

 重厚な世界設定に心奪われ、緻密な内面描写に感情移入し、謎が明かされるカタルシスに酔う。ただひたすら夢中になれるのだが、哀しいかなハマる自分を醒めて見ると、著者の意図が映りこんでくる。キャラやイベントの出し入れについて、ル=グゥインはかなり計算しており、読み手の年齢まで考慮した上で、時間軸を決めている。

 たとえば、第1巻「影との戦い」は、ゲド自身の成長譚になる。生い立ちから青年になる過程を、その葛藤とともに描くことによって、最初の読者―――「少年」を獲得する。思春期にありがちな高慢が招いた災厄「影」は、姿こそ異なれど、読者の現実にシンクロしてくる。それは、虚栄心によるコミュニティ内の「不和」だったり、自信過剰がもたらした「失敗」、あるいは自身の「欠点」になる。自覚の有無はともかく、少年はゲドが戦うように「影」と向き合うことを覚悟するはずだ(こじれると厨二病になる)。

 そして、第2巻「こわれた腕環」では、自己を剥奪された少女の視点で展開することにより、次の読者―――「少女」を得る。大迷宮の探索や闇の儀式といった演出を振り払うと、これは少女を救出する物語になる。ただし、囚われた少女と白馬に跨ったゲドという話ではない(むしろ逆だ)。これは、「日常」に埋め込まれて見失っていた「自分」を手に入れる苦悩とあがきの軌跡になる。「選ぶ」という自由を手にしたならば、選ばなければならないという恐怖に向き合うことになる。「少女」や「女子○学生」といったラベルをきゅうくつに思い、「妻」や「母」に底知れなさを感じている女の子こそ、少女テナーに共感するに違いない。

彼女が今知り始めていたのは、自由の重さだった。自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手の分からない大きな荷物である。それは、決して気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ―――「こわれた腕環」より
 さらに、第3巻「さいはての島へ」は、少年と少女が見まいとして目を背けていた最大のテーマ、「死」になる。青春の蹉跌を克服し、自分を自分にすることが(物語のなかで)できた読者に対する挑戦だ。これは、ゲドへの挑戦だけに限らず、読み手に「死を直視する」ことを強要する。思い上がった「わたし」を「影」というメタファーで引きずり出し、日常に埋没していた「わたし」を明るみに出し、若者にとってのタブー「死」と対決させるのだ。ゲドの活躍からよりも、むしろ読み手に内在する「死」の克服から得られるカタルシスが大きい。ドーパミンあふれるラストとなるだろう。
大賢人は大きくうなずいた。「それだよ、わしの言いたかったのは。過去を否定することは、未来も否定することだ。人は自分で自分の運命を決めるわけにはいかない。受け入れるか、拒否するかのどちらかだ」―――「さいはての島へ」より
 きたないほど上手いぞ ! と唸ったのは、4巻以降。書かれたのは1~3巻から20年ほど経過しているのだが、同じだけの時間が物語にも流れている。明らかに、もう少年少女でなくなった、(かつてゲドと同じ時間を共有したことがある)大人に対するメッセージが込められている。注意深く避けられてきた微妙な話題や、20年で染まった主義がテーマとして織り込まれている。それはずばり性と力の関係や、剥き出しのフェミニズムだったりする。訳者は「揺らぎ」「ぶれ」というオブラートに包んでやるが、主張のあまりのどぎつさに読み手は辟易するかもしれない。

 しかし、あれほど多様な物語を紡いだ同じ手が、「男vs女」で割ろうとしたり、「知の独占と排斥」という一本線で歴史を解こうとする。光と闇、正と邪だけで割り切れない、現実的な歴史をアースシーに再現させることに成功させたにもかかわらず、後半になると「支配する男」と「育む女」に押し込めようとするのは、かなり不思議だ。結果、つじつま合わせが難しくなり、ほころびというよりもつなぎ目にまで拡大している。そんなに「オンナを排するオトコ」を映したいのか、それとも「そういう読者」を念頭においたのか、さもなくば「歴史とはおしなべてそういうもの」と嘯くのか……読み手や物語の上だけでなく、作家にも同じだけの時が流れたんだね。

 作品の"つながり"について。「ゲド戦記」は、「指輪物語」「ナルニア国物語」と並び世界三大ファンタジーとして名高い。だからこれがオリジン、根っこになるのだが、その豊かな果実のほうを先に味わっているので、要所要所で懐かしい驚きに出会う。たとえば、「真の名を知ることで、相手を支配する」なんてくだりは、「ベルガリアード物語」「闇の戦い」シリーズで幾度もお目にかかっている。未知の存在への恐怖は、分類できない(=分からない)恐れからなる。分類され・名づけがなされた瞬間、警戒する必要はあるが恐れや不安から離脱する。

「名まえを知るのがわたしの仕事、わたしの術だからさ。何かに魔法をかけようと思ったら、人はまず、その真の名を知らなくてはならない。わたしの故郷では、誰も、絶対に信用できる人以外には、生涯、本名はあかさずにおく。なぜって、名まえは大きな力と同時に、たいへんな危険をもはらんでいるからね」―――「こわれた腕環」より
 人は名づけにより世界を分類し、支配してきた。大きなもの、複雑なものは、順番に分けていって、それ以上分けえないほど細分化し、それぞれの属性と性質と関係を調べ、名前をつける。直接的な喩えは一切ないが、この行為はアースシーでは「魔法」と呼ばれ、読者の世界では「科学」と呼ぶ。そして、エドワード・エルリックの世界では、「錬金術」と呼ぶのだ。バタフライ効果を「均衡」と呼んだり、科学の普遍性は、人の観測世界に基づく人間原理で測ろうとする態度は、「鋼の錬金術師」を彷彿とさせる(いや、逆だ逆! 「鋼」が影響を受けているだよね)。第1巻の「影」や第3巻の「門」なんて、ビジュアル的には「鋼の錬金術師」まんまを脳内展開させたぞ。

 作品には出会う旬がある。だが、死ぬ前に読めてよかった。「読まずに死ねるか」というよりも、むしろ「読んでから死ね」ともいうべき作品。

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宮崎駿ぜんぶ入り「シュナの旅」

風の谷のナウシカ 「風の谷のナウシカ」を読んだ。

 ナウシカ読んでないよと告白すると、かなり驚かれる。むかし昔、映画を観た頃、同じとこ(トルメキア撤兵)まで読んだのは記憶している。「映画は"序盤"にすぎないよ」とか「あの後のナウシカが辛いんだよ」とかオフ会で刺激されてイッキ読み。虫と人との共存という映画版のテーマが、相容れない異文化の融和にシフトしてゆく様子はお見事だが、環境問題に絡めた前者の方が性に合うなぁ……

 初読が311より後だったので、(わたしの)世界の見え方がまるで変わってしまっている。だから、少女が背負うには世界は重過ぎるし、広すぎるし、命に満ち溢れすぎている。メシアを崇める方角へ押しやってしまうという後知恵もアリだが、もしそうした"演出"が加わると、宗教臭さが鼻につくだろう───なんてつぶやいていると、ナウシカの原点という触れ込みで「シュナの旅」を紹介される(ゆりぽありがとう)。

 「シュナの旅」を読んで驚いた、これは宮崎駿の原点だ。

 貧しい国の王子シュナが金色の種を探す苦難を描いた物語なのだが、いままで観てきた宮崎駿がぜんぶ詰まっている。ナウシカに限らず、もののけ、千尋、ラピュタなどのさまざまなイメージが渾然と浮かび上がってくる。似ているというよりも、むしろ「完全に一致」してる構図・アイディアが、後から後から湧き出てくるので、映画を観たときの感情の噴出をとめるのに一苦労する。

 もとはチベットの民話を児童書化した、「犬になった王子」を下敷きにしている。民を救うため辺境まで赴き、異化して戻ってくるというお話だ。物語の骨格は完全一致しているが、ロストテクノロジーや舞台やキャラによる置き換えが、異質なものにしている。骨は一緒でも、身にまとった肉や装束が違うことで、新しいのに懐かしい感覚がある。「ナウシカは虫愛づる姫君」とか「宇宙戦艦ヤマトは西遊記」と同じようなデジャヴを受けるかもしれない。
Photo
ブラッカムの爆撃機 かつて「ブラッカムの爆撃機」を読んだとき[参照]、宮崎駿がどんな相似形に描くか見えなかったが、今や「シュナ」が補助線となってくれる。原作と時代や舞台を大幅にズラし、後は一つ一つ置き換えをするんだね。キャラチェンやエピソードの膨らましは、「その一つ」の置き換えに着目して行う。「ブラッカム」は第2次大戦下、ドイツへの無差別夜間爆撃をした、英爆撃部隊の若者たちの物語だ。おそらく、黙示録後の未来を舞台に、(やっぱり)主役を女の子にしてしまうんじゃないかと。

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ラテンアメリカ十大小説

ラテンアメリカ十大小説 垂涎の狩場ガイド、繰るたびに嬉しい悲鳴。

 特別意識してなかったにもかかわらず、「これは」というのが結果的にラテンアメリカ圏だったことは、よくある。幻想譚や劇薬小説が「ど真ん中」で、めくるたびハートをワシ掴みされる。自他彼我の垣根をとっぱらう、のめりこむ読書、いや毒書を強制されるのがいいんだ。

 そしてこれは、ありそでなかったラテンアメリカ文学のガイドブック。ブラジルを除いたラテンアメリカのスペイン語圏を中心に、10人の作家の10作品を選び取る。いくつか読んでいるので目星がつく、どれも珠玉級。

  1. ホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』―――記憶の人、書物の人
  2. アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』―――魔術的な時間
  3. ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『大統領閣下』―――インディオの神話と独裁者
  4. フリオ・コルタサル『石蹴り』―――夢と無意識
  5. ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』―――物語の力
  6. カルロス・フェンテス『我らが大地』―――断絶した歴史の上に
  7. マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』―――騎士道物語の継承者
  8. ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』―――妄想の闇
  9. マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』―――映画への夢
  10. イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』―――ブームがすぎた後に

 それぞれの章の冒頭で、2ページほどの引用があり、醒めて見る夢の断片のようで、それだけで引きずりこまれるかもしれない。そして、サービス精神旺盛な著者は、その小説の解説だけに終始せず、作者の半生から影響を受けた作品、他の代表作・見所、読みどころをぎっしり・たっぷり・みっちりと紹介してくれる。と同時に、著者の見聞も織り込まれており、得がたい気づきも沢山あった。

 たとえば、幻想文学と現実との距離感について。欧米文学(とその影響を受けた日本文学)に染まった目には、 fantasy と real は対立したり包含したりする概念になる。しかし、本書によると、幻想文学は、あくまで現実に基づいたものになる。一見「現実ばなれ」した描写でも、書き手は何らかの現実に依っているというのだ。ガルシア・マルケス「自分の書くものには現実に基づかないものは一つもない」の言葉は聞きかじっていたが、暴走した妄想や濃密な心性も、脳外に出た現実なのだろうね。

 そして本書で、目を引く仮説をうちたてている。近代日本文学で似た話を聞いたが、もっとスケールはでかい。つまりこうだ、「偉大な作品が生まれるのは、その国語の変革期と軌を一にする」―――これを、ラテンアメリカ文学のみならず、シェイクスピアやゲーテやプーシキンも引っ張ってきて主張する。なるほど、和語が「日本語」になった明治の変動期に、いわゆる「傑作」が数多く誕生している。漱石盲愛の信者は気づきにくいが、時代と文学の生命力は同じ一つの根にある。

 ラテンアメリカ文学の場合、植民地の時代と革命の時代が色濃く影をおとしている。植民地時代を通じて中世末期のままに凍結されていたものが独立後の解凍期を経て爆発的に広がる。口承や絵文字の形で残された「切断された歴史」は、ヨーロッパ的に言うなら、歴史というよりも、むしろ神話に近いそうな。現地で用いられる言語が象徴的に語っているように、ヨーロッパという大木からスペイン文学という枝が切り取られ、挿し木され、だんだんと巨大に育ったのが、今なのだ。

 表現手段としての言語は借りながら、咲いた果実はまるで違う。膾炙した「魔術的リアリズム」は、ヨーロッパ的な「原因と結果の法則」からかけ離れている。たとえば、女が深い淵に落ちたとする。慣れ親しんだ因果律で解くならば、「草が濡れていて足を滑らせた」とか「実は誰かに追われていた」という読みになる。

 しかし、インディオ特有の心性と深く結びついている『リアリズム』でと、「淵が女を呼び寄せた」とか、「淵が女を泉に変えようとしたから」といった解釈になる。シュルレアリスムが奉る不条理じゃないんだ。条理は通っているのだが、異なる理(ことわり)によって支配された世界になる。そして、どちらの世界にもするりと入り・出てゆく手わざにゾクゾクさせられるのが醍醐味なんだろね。この「味」を上手く伝えられるかどうか分からないが、いくつか読んで書いてきたものをまとめてみよう。

■ ボルヘス「伝奇集」

伝奇集 ボルヘスの、どろり濃厚・短編集。

 読者の幻視を許容するフトコロの深さと、誤読を許さない圧倒的な描写のまぜこぜ丼にフラフラになって読む。これはスゴい。特に「南部」と「円環の廃墟」は大傑作で、幾重にも読みほどいても、さらに別のキリトリ線や裂け目が現れ、まるで違った「読み」を誘う。シメントリカルな伏線の配置や、果てしなく反復される営為が象徴されるものを、「罠だ、これは作者のワナなんだ」と用心しぃしぃ読む。

 それでも囚われる。語りはしっかりしてて、描写は確かだから、思わず話に引き込まれ、知らずに幻想の"あっち側"に取り込まれる。どこで一線を越えたのか分からないようになっているのではなく、「一線」が複数あるのだ!そして、どこで一線を越えたかによって、ぜんぜん違ったストーリーになってしまう。解説で明かされる「南部」の超読みに、クラッとさせられる。語り手の夢なのか、語られ人の夢なのか、はたまたそいつを読んでいる"わたし"の幻なのか、面白い目まいを見まいと抗うのだが、目を逸らすことができない。「「「胡蝶の夢」の夢」の夢」の夢……

 読み手の想像力というか創造力を刺激するのも一流ナリ、さすが「作家のための作家」だね。たとえば、あらゆる本のあらゆる組み合わせが揃っている「バベルの図書館」は、まんまエッシャーの不思議絵をカフカ的に読んでいるような気になる。「カフカ的」と表したのは、明らかな歪みや矛盾をアタリマエとして淡々精緻に記されている点がそうだから。作品でいうなら「城」だ、あの「城」に図書館があるのなら―――いや、もちろん"ある"に違いない―――まさに本作で描かれたまんまの無限回廊になっているはず……続きは「伝奇集」はスゴ本

■ フリオ・コルタサル「南部高速道路」

短篇コレクション1 世界文学全集を追いかけてきて良かった!逸品。なかでもコルタサルはすばらしい、これはいい作家に遭えましたな。渋滞に巻き込まれただけなのにサヴァイヴァルになる不条理感覚もさることながら、道路を走ることはそのまま人生のメタファーでもあることに気づく。わたしは、周囲のほとんどを分からないまま生きている。知ってはいても外見だけ、互いがぶつからないようにゆずりあって生きている―――というか、場所を分け合って生きているのだ。「出会い」や「別れ」なんて、クルマが近づいたり離れたりするようなもの。ラストシーンを読み終わるとき、濃密だった時間がほどけてゆく"はかなさ"を味わう……続きは、「短篇コレクションI」はスゴ本。そうそう、スゴ本オフ@松丸本舗でコルタサルの短篇集をオススメされて狩ったのだが、楽しみだー(MOTOさん、ありがとうございます)。

■ ガブリエル・ガルシア=マルケス「コレラの時代の愛」

コレラの時代の愛 51年9カ月と4日に渡る片想い。

 女は男を捨て、別の男(医者)と結婚し、子をつくり、孫までいる年齢になる。普通なら絶望して破滅するか、あきらめて別の人生を選ぶかだろうが、この男は待ち続ける。ヘタレ鳴海孝之の対極となる漢だ。現実ばなれした片恋をリアルに描くために、ガルシア・マルケスは周到に準備する。あ、だいじょうぶ、心配ご無用。「百年の孤独」のクラインの壷のような入り組んだ構成になっていないし、登場人物が多すぎてノートをとることもなく読めるから。

 時間処理の仕方が上手い。キャラクターを中心に背景をぐるりと回すカメラワーク(何ていったっけ?)を見るようだ。ひとまわりの背景にいた人物が次の中心となって、その周囲が回りだす。遊園地のコーヒーカップを次々と乗り移っているような感覚。象徴的なのは「コレラ = 死にいたる病」だな。もちろん、当時猛威を振るった伝染病としてのコレラと、そっくりの症状を見せる「恋の病」が掛けられている。片思いをする男のコレラのような恋患いだけでなく、恋のあまり死を選ぶ人々の生き様も伝染病そっくりなのが深いね……続きは、「コレラの時代の愛」で濃い正月を過ごす

■ カルロス・フェンテス「老いぼれグリンゴ」

パタゴニア・老いぼれグリンゴ 革命時のメキシコを舞台とした、エロマンティック愛憎劇。

 実はハナシはシンプルだ。老いた男と、若者と、女が出会って別れる話。老いた男は死に場所を求め、若者は革命を求め、女は最初メキシコを変えようとし、最後はメキシコに変わらされようとする物語。「女ってのは処女が売春婦かどちらかなんだ」とか、「世界の半分は透明、もう半分は不透明」といった警句が散りばめられており、ヒヤリとさせられる。

 しかし、「語り」が断りなく多重化したり、「今」が反復ヨコ跳びしており、読みほぐすのに一苦労する。「ひとり彼女は坐り、思い返す」――この一句から始まり、要所要所で形を微妙に変えつつ挿入されている。読み手はこれにより、彼女視点から時系列に描かれるのかと思いきや、別の人物のモノローグや観察に移ったり、いきなり過去話に飛ばされる。ときには地の文に作者の意見がしゃしゃり出る。まごまごしていると、「ひとり彼女は坐り、思い返す」が繰り返され、彼女視点に戻っていることに気づかされる。読み手は、このポリフォニックな技巧に翻弄されるかもしれない。

 そして、登場人物の告白をとおして、アメリカの影としてのメキシコがあぶりだされてくる。あるいは、アメリカのなれなかった未来としてメキシコが写し取られる。ちがう肌色と交じるとき、アメリカは殺し滅ぼし、メキシコは犯し孕ませたのだ。

 圧倒的なチカラの格差があるとき、殺すほうがいいのだろうか、それとも、犯すほうが人間的なのだろうか。殺した方が後腐れなく、かつ速やかに土地を奪える。一方、犯すということは、(本人の感情さておき)結果、子孫の誕生につながってくる。混血の私生児たちは成長し、国のあり方そのものを変えてくる……続きは、死とは、最後の苦痛にすぎない「老いぼれグリンゴ」

■ マリオ・バルガス=リョサ「楽園への道」

楽園への道 いいトシこいたオトナが、自分探し・夢探しを始めたら、どうなる? それは悲劇だろうか、喜劇になるか。

 本書の2つの人生が、それぞれ答えを示している。ひとりは、ポール・ゴーギャン。高給と妻子を投げ捨てて、絵を描き始める。もう一人は、その祖母フローラ・トリスタン。貴族生活から脱し、労働者や女性たちの権利確立のために奮闘する。自分を生贄にして楽園を目指す。ゴーギャンは芸術の楽園、フローラは平等な社会を。もちろん周囲には認められず、極貧と冷遇を余儀なくされる。その孤軍奮闘ぶりと確信・妄執っぷりは、何かに取り憑かれているようだ。

 さらに、それぞれの半生と照らし合わせると、文字通り「人が変わってしまった」ようだ。まさにキャラチェンジという言葉がぴったり。安定した生活から離れ、精力的に動き回る。いくつもの国や海を「横に」移動するだけでなく、ブルジョアや貴族社会から最底辺まで「縦に」堕ちていく。文明化社会から野蛮人の生活にダイブする。夫の奴隷から逃げ出す。キリスト教的禁忌を破り、桁外れのセックスライフを味わう……やりたいようにやればいいじゃん、しゅごキャラが憑いてるよ「楽園への道」

■ ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」 【劇薬注意】

 愛する人をモノにする、究極の方法。

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 それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる。感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。

 ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。

 子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。

 読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる…… はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく……続きは、劇薬小説「夜のみだらな鳥」

■ イザベル・アジェンデ「精霊たちの家」

精霊たちの家 物語のチカラを、もういちど信じる。驚異と幻想に満ちた物語に没入し、読む、読む。小説とは解剖される被験体ではないし、解体畜殺する誰かの過去物語でもない。身も心も入っていって、しばらく中を過ごし、それから出て行く世界そのもの。

 百年分の歴史が「いま」に向かって語られるに従い、「マジック」は次第に影を潜め、「リアリズム」が表出する。「百年の孤独」が追い立てられるように加速していくのとは対照的だ。ことに恐怖政治の跋扈のあたりになると、同じ小説かと驚かされるほど、濃密に血と暴力を塗り重ねる。拷問シーンでは酸欠にならないように気をつけて。

 さらに、語りの構成が絶妙だ。「私」、「わし」、それから三人称は、誰がストーリーテラーなのか推察しながら読むと二倍おいしい。「わし」はすぐに分かるのだが、あとが分からない。タイトルに「精霊」があるし、一族が住む屋敷のあちこちに精霊がウロウロしているので、最初は精霊が語り部なのかなぁと思いきや――見事に外れた。さらに、「私」が誰か分かるのは最後の最後で、物語の扉が再帰的に開いてゆく悦びを味わったぞ。物語がわたしを圧倒する。わたしを蹴飛ばし、喰らいつき、飲み込む……魂をつかみとられる読書「精霊たちの家」

 薄い岩波新書なのに、「ラテンアメリカ十大小説」は濃密なブックガイドとなっている。この導きにより、次はボルヘス「エル・アレフ」、「コルタサル短篇集」、マルケス「百年の孤独」に行こう。「百年」は再読になるが、呑み込まれないように用心しながら読むつもり(だが、呑まれるんだろうなぁ…)

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セックスの回数が増えている件について

 3.11の前と後で、増えてる、きちんと数えてないが、2倍ぐらい(当社比)。

 未曾有の危機を目の当たりにし、「ゆれ」に対して極端に敏感になっており、身体モードが戦闘態勢に入っているからだろうか。加えて、目先の不安、将来の不確かさが「生きること」そのものへの欲求をつのらせているからだろうか。生命の危機に瀕すると、生命を残そうとする情動スイッチが興るのだろうか。

 吊橋効果というコトバがある。ぐらぐらする吊橋を男女で渡るとき、恐怖によるドキドキを恋愛によるドキドキと勘違いしてしまうやつだ。聞くところによると、婚約指輪がバカ売れしているそうな。コンドームも然りかと。揺れているのは福島だけではない。日本列島という弧が巨大な吊橋と化しているのか。

 いずれにせよ、スイッチが入ったのは、わたしだけでない。行為に没頭することで不安を鎮めようとするのか、互いが互いにしがみつく。だが、これが「本」になると想像力を要する。それでも、プラトニックから生モノまで、心に掛かるやつを振り返ってみる。

エロティック・ジャポン まず、「エロティック・ジャポン」。エロスとは、生きるチカラそのものだということを思い知る。自分を見ることはむずかしい。鏡なしでは自分を見ることすらできないし、その像は反転している。「他人から見た自分」を見るためには、最低2枚必要だ。どんなにレンズが歪んでいても、カメラや他者の目があれば、自分が「どう見られているか」を知ることは可能だ。これを「日本人のエロス」でとことんヤったのが、本書。

 「趣味はエロス」というわたしだが、本書には大いに教えられる。単純にわたしの精進が足りないのか、それとも著者のフランス女が半端じゃないのか、分からぬ。徹底的に、全面的に、過激に貪婪に、日本人のエロスを詳らかにする。もちろん、「俺はそんなことしない」「それは普通の日本人じゃない」とか弁明するのは可能だ。

 だが、普通ってなに?どんなに異様で異常だろうと、それを追求・志向する人が居るのは、日本そして日本人なのだ。そいういう特殊もひっくるめて普遍化しているのが、日本なのだろう。カレーから宇宙船まで、なんでも取り込み自家ヤクロウにする。ケモノレベルのエロスから、高度文明化した情動まで、想像力の尽き果てるまで許し許される。わたしはこの大らかさが好きだ。目ぇにクジラ立てるよりも、まぁまぁなぁなぁゆるめなトコが大好きなのだ。残念ながら昨今の情勢では、堂堂エロスを語れない。外のレンズを通してでしか、日本のエロスを語れないのは残念だが、本書が語れるウツワは残っていると信じたい。

 次は、「オンナの建前・本音翻訳辞典」を推す。男性のコミュニケーション能力の低下に起因するモテ格差は、今に始まったことではない。本書があったなら、どれほど楽できただろうに… と、わたしも思っているから。

オンナの建前本音翻訳辞典オンナの建前本音翻訳辞典2

 つまり、オンナの発言の真意をくみ取れず、カン違いや軋轢を引き起こす鈍感男がモテない一方で、女性言語の読解に長けた一部のヤリチンの草刈場が現代の恋愛市場なんだ。来る本格的恋愛格差社会に備え、本書で保険をかけておくことをオススメしよう。本書は I と II があるが、 I からのエッセンスを問題形式にまとめた→オンナの建前からホンネを見抜く10問。格好の(?)「地震」という話題がある。虚勢張るのではなく、正しく怖がり、適切な準備をアドバイスできれば株も上がるというもの。

愛するということ さいごは、スゴ本オフ@恋愛編より考察。これは、テーマに沿ってオススメ本を持ち寄って、ゆるくアツく語り合うオフ会だ。いちばん面白かったのは、「オススメの恋愛本を紹介しあう」のが目的なのに、だんだん話が「恋愛とは何か?」にシフトしていったこと。なぜその本がオススメなのか?についての説明が、そのまま「自分にとって"恋愛"とはこういうもの」に換えられる。それは経験だったり願望だったりするが、それぞれの恋愛の定義なのだ。「本」という客観的なものについてのしゃべりが、「私」という個人的なものを明かす場になる。

 「レンアイ」ってのは、ドラマや映画や小説で市場にあふれ、ずいぶん手垢にまみれているのに、いざ自分が体験するとなると、非常に個人的な一回一回の出来事になってしまう。墜ちて初めて、一般化されていたワタクシゴトに気づくという、とても珍しいものなんじゃないかな。いわゆるスタンダードな王道から、変則球なのに「あるある!」「そうそう!」と手や膝を打った覇道まで、この恋愛本がスゴいにまとめた。わたしのオススメは、[5冊で恋愛を語ってみよう]に書いたので、あわせてどうぞ。

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 振り返ると、恋愛が「レンアイ」として成立するには、一定の平穏が必要やね。たとえ嵐のような激情が吹き荒れるとしても、それが嵐として成立するためには、先立つ凪が必要なのだ。俗にいう「極限状態での愛」というのは、そういう『ストーリー』を形容するための言葉だ。そして、いったん『ストーリー』というからには、始まりと終わりを持つ、一つの閉じた語りになる。この「ゆれ」でどうなるか分からない、いつ終わるかも不確かな、一寸先は薄ぼんやりとした日々、さらに目に見えない恐怖を圧殺しながら日常を送る中、「レンアイ」そのものが絵空事ぽく見えてくる。いや、絵空事なんだけれど、よりその非リアリスティックが際立つ。

 あの日を境に、色、酒、欲が増したような気がする。生きることに執着することは、性欲ならぬ生欲なのかもしれぬ。

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私小説とは内臓小説だ「塩壷の匙」

 私小説とは内臓小説だ。

塩壷の匙 自分自身をカッ斬って、腸(はらわた)をさらけだす。主人公=作者の、あたたかい内臓を味わいながら、生々しさやおぞましさを堪能するのが醍醐味。キレ味やさばき方の練度や新鮮さも楽しいし、なによりも「内臓の普遍性」に気づかされる。そりゃそうだ、美女も親爺も、外観ともあれ内臓の姿かたちは一緒なように、えぐり出された内観は本質的に同じ。だから他人の臓物に親近感を抱く読み方をしてもいい。

 松丸本舗にて松岡正剛氏から直々にオススメされた車谷長吉「塩壷の匙」を読む。傑作短編集だ。松岡正剛さんオススメの劇薬小説という触れ込みだが、これは内観のおぞましさだね。そいつをハッとするほど美麗な筆致で削りだす。たとえば、「なんまんだあ絵」で井戸の中の鮒に近しいものを感じていた老婆が、こんな光景にであう。

釣瓶を井戸へ落とし込んだのだが、ゆるゆる闇の底から上がってきた水桶の中に、鮒の白い腹が浮かんでいた。おかみはんは、あ、と息を呑んだ。しかしそれで腹が決まったのである。
 彼女の腹がどう決まったかを思いやると、ちょっと胸にせりあげてくるものがある。けれどもここで指摘したいのは、ビジュアルのコントラスト。闇に白い腹を浮かばせた鮒の死体が、あまりにも鮮やかなのだ。幸薄き半生を、淡々と積み上げるように描いてゆき、ラスト近くでこの白い腹だ。"希望"じゃないことぐらいは分かる。行く先の"なさ"を照らす白さ、「ここより先三途の川」の標(しるし)なのだろう。

 純朴で残酷であるほど、美しい。「白桃」は、ラストの悪意と対照的な、この出だしが素晴らしい。カメラ的絵と3D音響効果と脳裏への焼きつきが、一文にて示される。

納屋の背戸から涼しい風が吹いて来た。竹藪の葉群が風に戦ぎ、納屋の土間から見ていると、黄色く変色した葉の残る、篠竹の葉裏が目の中で騒ぐようだ。
 「白桃」のストーリーには一切口をつけないので、愉しんで欲しい。著者の内奥の記憶の痛みは、「塩壷の匙」よりも優れていると思うぞ。他人の不幸は蜜の味。その悪意に触れたときの無残な味と、それを黙ってさらしておくようなむごさとさみしさを胸で感じる。

 腹の中のものを、ほらこれだよ、ほらどうだよ、と手づかみで見せ付けてくる。おもわず目を背けたくなる。自分の半生の汚辱や怨恨を暴露し、それを切り売りすることで、自身を救済しようとしているのか。描かれる「不幸」がありふれていればいるほど、抉り出す狂気のほうに目が行く。書くことは煩悩そのものやね。

 では読むことは?女が男に求めるグロテスクさにたじろぎ、澱んだやりきれない生活に安堵感を見つけてうな垂れる。ひきつけて読むと、主人公=作者と共に、感情を生き埋めにすることを覚えるだろう。この本をつかむ手が、そのまま深闇の淵をつかむ手になる。同じ臓物を、わたしも持って生きていることが分かる。読むこともまた煩悩なのだ。

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あたらしい本との出会いかた

 ブログのおかげ、ネットのおかげで、質量・世界ともに広がった。ここでは、あたらしい本との出会いかたについていくつか、紹介する。

 昔は書店通い・ハシゴをするか、書評を漁るしかなかった。Popで店員さんのシュミを探るとか、文庫の解説から本の目利きを探すのも(地味ながら)有効だった。通いつめるうちに、「本に呼ばれ」て即買い→アタリだったという経験もある。無意識のうちに背表紙を読んでいたのだろうか?

 今は、blogやtwitterやfacebook経由で触手を伸ばしたり、amazonのオススメに誘惑されたりと忙しい。大型書店や出版社の新刊情報も外せないが、玉と糞が混交しており仕分けほうが大変だ。本との出会いのチャネルが増えたのは嬉しいが、フィルタリングが要となる。「あたらしい本との出会いかた」に共通するのは、そこに「人」が介在するところ。ネットの向こうの人を介して、本を探す。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」というタイトルの通り、逆説的だが、本よりも「読者」を探すんだ。

「人を探す」 これは昔の書店ハシゴに似ている。twitterのつぶやきや、はてなブックマークコメントを拾い集める。キーワードは、自分がさっき読んだ本のタイトル。それについてコメントを発している「人」を探すんだ。amazonでは「レビューアー」を探すことで、その「人」が発している別の本を見つける。同好の士というやつだね。見つけた「人」をRSSに詰め込んでおくと、RSSがアンテナ代わりになる。

「場をつくる」 ピンポイントに一本釣りすることは、あまりない。ジャンルやテーマといった、一定の範囲で取捨選択をくり返す。2chでスレ立てたり、便乗質問のフィードバックを受けるのが良いが、保守が面倒だし乱立してるので探すのも一苦労。そんなとき、「本読みのスキャット!」がありがたい。「本をテーマにした2chまとめ」があるのでジャンル横断的に見るときに重宝している。また、「人力検索はてな」で訊いたり、書評コミュニティー「本が好き」で「オンライン読書会」を開いてしまうのもアリだろう。

  「オンライン読書会」
  「本読みのスキャット!」
  「人力検索はてな:書籍」

「本のプレゼン」 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合う。Book Talk Cafe (スゴ本オフ)という会をここ一年続けてきたが、やっぱり「人」がカナメやね。本をダシに語ることで、その「人」と本との距離感が掴める。複数の本に言及すれば、より立体的にその「人」の嗜好が比較できるのだ。親近感がわいた人の「これはスゴい」なら、必ず手に取るだろう。本そのものは既読だったり未読だったりしていても、そいつをどうプレゼンするかによって、選ぶきっかけになるのだ。本を介して「人」と出会い、人が今度はノードとなって、「次の」本へつながる。この感覚は、何度やっても新鮮だぞ。

 2010/04/07 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
 2010/05/14 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
 2010/07/16 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
 2010/08/27 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
 2010/12/03 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@ミステリ
 2011/03/04 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@最近のオススメ報告

「グループ・ハンティング」 本屋は孤独に巡るものだったが、「本屋オフ」を体験してからは、集団での狩りに目覚めた。数人でワイワイいいながら周遊するだけなのだが、同じ棚でも目線が違うと、新たな発見がもりもり出てくる。「ソレがいいなら、これは?」というレコメンドが、直接・即座に出てくるのが嬉しい。初対面でも「本」を通じてすぐ仲良くなれるから不思議だ。しり込みしていた有名本・大作に後押しされたり手ほどきされたり、動機付けには困らない。やるたびに、今まで、自分がいかに狭い世界で読みふけっていたかを『何度も』思い知る。自分の職場・学校・近所ではなく、同じ興味の人を直接お誘いできるのは、twitterのおかげ。

 2010/08/07 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
 2010/10/20 スゴ本オフ@赤坂
 2010/10/23 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)
 2011/01/29 本屋オフ@丸善ジュンク堂
 2011/03/26 スゴ本オフ@松丸本舗(読まずに死ねるかッ編)

 そして、「場をつくる」+「本のプレゼン」+「グループ・ハンティング」を重ねたのが、本屋オフ&オン会だ。本屋でオフ会しつつ、U-Streamで中継し、twitterでフィードバックを受けるのだ。松丸本舗で一人U-Streamやったとき往生した。パソコン持って本屋をウロウロする明らかに怪しいオッサンでしたなw ハンディなやつを準備するとか、スタッフや店員さんの協力を仰ぐとか、ちと考える!


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劇薬小説「夜のみだらな鳥」

 愛する人をモノにする、究極の方法。

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 それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる―――「魔法少女マギカ☆まどか」で囁かれた誘いだ。

 悪魔のようなセリフだが理(ことわり)はある。乱歩「芋虫」の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。まぐわいの極みからきた衝動的な行為かもしれないが、彼女がしでかしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」ことそのもの。早見純の劇薬漫画「ラブレターフロム彼方」では、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺様)を味わえというのだ。

 感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。

 ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。

 子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。

 読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる……はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく。

 これは、ポリフォニーな構成だからなのかと、最初は疑った。さまざまな登場人物の「一人称」を織り敷いているので、誰の告白か分からなくなってしまったのだという仮説だ。しかし、登場人物の時空がバラバラなのだ。複数の時空軸が説明なしで入れ替わり、切り替わる。登場人物どうしは同じ過去を共有しているときもあるが、読者が既に読んだはずのエピソードはガン無視したやりとりをする。「おれ」で指すのが主人公ではなく、別の時空のムディートの記憶を持つ「おれ」が、突然出てくる。「あなた」が登場人物の誰かだったり、読み手そのものを指し示す。

 畸形のわが子のために、世界中から畸形ばかりを集めて、畸形の楽園を作るエピソードや、肉体の器官が少しずつ取り替えられ、20%しか残っていない「おれ」が赤ちゃんとしてぐるぐる簀巻きにされる話など、ストーリーラインも狂気を孕んでいる。アリストテレスは「醜いものも、美しく模倣することができる」と説いたが、この世界は「狂ったものも、正確に描写することができる」と呼んでもいいだろう。

 気づいたときには「おれ」の饒舌に囚われており、読み手は、「おれ」はいつ・どこのおれなのか、「あなた」とは誰なのか、探しながら惑いながら読むハメになる。現実と妄想、歴史と神話、論理と非合理といった要素が入り混じっており、何が確かな事実であり、何が根も葉もない虚構でしかないのか、疑うことも確かめることもできない。密閉された、息苦しい世界を這い回るような、袋の中で生きているような感覚だ。「おれ」の執念のかずかずによって歪曲され、誇張される描写に、読み手は突き飛ばされる。精神衛生上、非常によろしくない。読めば読むほど、ダメになってゆく。すがるように独白にしがみつく。この連想世界では、「おれ」しかいないのだ。たとえどんなに非合理であっても。

 本書は、「劇薬小説ベスト10」で教わった逸品。「狂鬼降臨」や「城の中のイギリス人」といった肉体的おぞましさをキワ立たせるものや、「児童性愛者」や「隣の家の少女」のような精神的衝撃を受ける中で、本書は、悪夢に呑まれて帰ってこれなくなる肉体・精神の双方に対してダウナー系ダメージを喰らわせてくれる。

 生きた迷宮をさまようような、誰かの悪夢を盗み見ているような毒書。

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「風が吹くとき」再読

風が吹くとき 絶句した、わたしはこの老夫婦を笑えない。むしろ、いまの"わたし"そのものだ。

 イギリスの片田舎が舞台、時代から取り残されたような老夫婦を描く。絵本というよりグラフィック・ノベルやね。穏やかな二人の生活に、さいしょはジワジワと、次に割り込むよう、最後は全面的にのしかかってくる「核の恐怖」が、すべてを塗りつぶしてゆく。初読は二十ン年前、「さむがりやのサンタ」しか知らなかったわたしには、ほのぼの+おどろおどろのギャップが衝撃だった。

 しかし、当時のわたしは、「フィクションというフィルター」を通じて受け止めたがる節があった。全面核戦争が勃発すれば、日曜大工の「シェルター」や、窓ガラスに白ペンキごときで防げるワケがない。それでも政府が発行するパンフレットを、一字一句、忠実に守ろうとする彼らに、一種ほほえましさを感じ、待ちかまえる運命を案じ、微笑しながら涙ぐんだ。

 核戦争が「ラジオ」で告げられ、3分後に飛来するところまで放送される"演出"も、「フィクションというフィルター」を"演出"してくれている。おかげでカウントダウンを身構えるようにページをめくれる。だが、放射能がじわじわと二人を蝕んでゆく様子は違う。「ここ」と「あそこ」の区別がつかないのだ。つまり、どの時点で手遅れなのか、そうでないのか、最後まで分からない。最初は丸々と血色のよい初老の夫妻だったのが、だんだん白色化してゆく。そう、この絵本では、放射能の影響は「白色」に彩られる。

 救援がくる、と信じて待つ二人。既に政府のパンフレットでは「想定外」の出来事に満ち溢れているのに、明らかに「おかしい」ことが周囲にも自分の体にも起きているのに、認めようとしない。その、頑固なほど「政府」を信頼する様子は、愚かなりと嘲笑(わら)えるだろうか。かつてわたしは、愚かだと思ったが、いまのわたしは、その「愚か」そのものだ。

 なぜなら、信ずるに足る情報を元に下した判断ではなく、"信じたい"という欲求を満足させるために、信じるから。さらに、"信じてきた"結果がもたらした事態を認めたくがないために、信じるから。ほら、ここにもサンクコストが。信頼をコストで測るならば、すでに費やしたコスト(信頼)はとり返しがつかないため、投資(信頼)し続けるしかないのだ。ご破算にして撤退するということは、それまでの自分の信頼を否定することにほかならいから。

 一応、わたしの場合、夫婦の間で、「いざというとき」のデッドラインとシミュレーションは練ってある。だが、このデッドラインは政府発表を基にしている。信頼するしかないわたしはもはや、自分を除き、誰も嘲笑うことができない。

 老夫婦の運命は、ショック療法のように効く。現実への免疫をつけられるフィクションなのだが、自身の位置に愕然とするかもしれない。たいして変わらないって理由でね。

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