妻を持つべきか
持てる人はほろ苦く、持たざる人は甘さを感じる一冊。
持つべきか、持たざるべきか、それが問題だ……なんて深刻に考えず、勢いよく結婚を申し込んで十余年。他人は知らんが、少なくとも今のわたしにとって、「よい」方向へ進んだ(と、思いたい)。この「よい」とは、自分の人生を破滅的なトコから抜け出す方向への「よい」。砕いていうなら、銭金とか、生活習慣とか、人づきあいとか、感情の落とし処になる。もちろん、子どもの存在も大きい。妻子のおかげで生きてこられた、と断定できる。
これは、「少なくとも今のわたしにとって」の現在進行形の断定であって一般化できない。だから安易にオススメできない。踏みきるにはある種の勢いと直感が必要だが、続けるには別の種類の努力と諦観が「互いに」必要だから(←これも「今」「わたし」の判断)。
人生は還元できないが、結婚も然り。だが、人生同様、経験を積んだ人の言葉から傾向はつかめる。ソクラテスの悪妻は有名だが、彼ですら、独身か妻帯かと訊かれたときこう答えている―――「二つのどちらを選んでみても、どのみち後悔するものだ。人生なにごとにつけても、苦労や面倒、危険に満ち溢れている」。つまり、正解はないのだ。
妻帯することが、はたして人生を楽しく快適に過ごすことに通じるのか、あるいは人間の義務に関わることなのか、この問題に真正面から取り組んだ……というのは、話半分、いや九割くらい割り引いたほうがいい。これはルネサンス末期の聖職者の論説で、諧謔に満ちたアンチ・フェミニズムの系譜を引き継いでいる。いわゆる"ネタ"として笑いつつ、ちょっと身に詰まされる本なのだ。
結婚する前に、自分が一種の「甘さ」を抱いていたことは結婚後に思い知ったが、本書で再確認できた。著者はハッキリ錯覚だと言い切る。結婚する女性が、従順で上品で教育があって躾も申し分ないと考えるのは、ギャンブルに等しいという。しかも、(自分で)分かった上での賭け金が自分の人生そのものなのだから、どうオブラートにくるんでも自己欺瞞にほかならない。快楽に目が眩んで罠に陥るなと警告を送る。ここらあたりは同感だ。結婚したらタダでヤりまくりじゃん!! なんて無邪気な雄(わたしがそうだったw)には、「タダより高いものはない」という言葉を贈ろう。大事なことだから2回言うね、「タダほど高いものはない」。
しかし、中盤から風向きが変わる。女性、とりわけ妻の底意地の悪さ、偽善、虚栄、色欲などを槍玉に挙げる。おしゃべり好き、口さがないこと、食べ物に目のないことなどをあげつらう。よっぽど酷い目に遭ったのかと思いきや、著者デッラ・カーサ自身の結婚生活は数年だったそうな(妻は病没)。パートナーは鏡でもあるのだから、その「酷さ」は著者自身の顕れかもしれぬ。ミソジニーを顕に女性を悪しざまにいう書き手の心理を透かしながら読むと、反面教師となるだろう。
いっぽう、本書で身に詰まされたのは、自己正当化の罠。自分の結婚に対し、既に莫大なコスト(時と金と感情)を支払ってきたので、それを否定しようとする考えには自ずとブレーキが掛かる。いわゆるサンクコストの効果やね。人生とか結婚とか、やり直しがきかないことに対しては、自己正当化の圧力が高まることは、常に意識しておかないと。
さもないと、結婚不全を相手のせいにしてしまう。自己正当化のあまり、うまくいかない理由を相手に押し付けるのは、(事実如何にかかわらず)不毛で危険だ。これはリコンする場合も一緒だ。とある賢者曰く、認識の相違から生じた判断ミスを後悔する時、何故か人間は、他者を憎悪する。己が正しさが己の判断を歪めるのだ。
「わたし」はかなり巧妙で、ややもすると自分を丸ごと騙くらかす。「自己欺瞞を疑うメタな"わたし"」も含めて、自分の正しさを証明しようとする。そういう自分の"ズルさ"を指摘してくれるのは、いつだって嫁さんだ。つまり、嫁さんに映して"わたし"をより「よく」見ることができる。この「よく」はグッドじゃなくってクレバーやな。
「妻を持つべきか」には、それほど高尚な(高邁な?)思考はつづられていない。歪んだ論が並べてあるだけだ。だが、読むと必ず反応する。「歪んだ」のは読み手=自分を基準にしたから。自分の何を?結婚生活を。ならオマエは何を費やし何を得た?と自問自答できる。それが愉しいのだ。
思ったことを吐き出してみたら、"自分が"読みたい文章になった。10年後のわたしは、もっと面白く読むだろう(まさにウェブログ!)。
持てる人も、持たざる人も、思索のトリガーにどうぞ。
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