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暗い予想図II

 与党になってからもう、三人目の総理。あいかわらず太いパイプを持ってるから、食料・簡易住宅をはじめとする怒涛の支援物資は大陸からやってくる。被災者受入先は、その雇用(工場移転)と伴に十全なサポートと土地を提供してくれる。日当40万円でもなり手がおらぬ除去作業員を提供してくれるかもしれない。夢の中で会ったような、うまい話だね。

 さらに、1号機から4号機までガレキごと持ち去ってくれるかも。汚染されたものを持ってってくれるのだから、日本にとってはもう何も怖くない。いっぽう、原子力技術の結晶が丸々手に入るから、相手にとっても嬉しいなって取引だろう。おたがい、後悔なんて、あるわけない。

 手土産は FTA が好餌となるだろうが、やーくそーくも何ぃーもない。その言葉を信じていなければ、明日さえ暮らせないだろう―――なんて気づかれてないとでも思っているのだろうか、マヌケだーわー完全にバレてる。既視感あふれる未来は、「アイツじゃダメだ。この国難、カリスマ性の高い神輿を」という流れ。改造も解散も度胸ないし、「過労による入院」の前例はできたので、喜んで呑む二番煎じの後を襲うのだ。プルトニウム漏れが入試問題漏れを上書きするように、募金は献金を消し去る。奇跡も魔法も、あるんだね。決戦は金曜日かな、晴れたらいいね!

 こんなの絶対おかしいよって叫んでも、わすれものばんちょうは日本人の気質なのかも。記憶喪失の最たるマスコミを責めてはいけない、あれは、同調空気をタレ流すフローなのだから。信じてたわたしって、ほんとバカだよね。それでも、もう誰にも頼らないなんて言えたらいいのだが、人生は一回こっきりなのだ。

 きっと、何年たってもこうしてかわらず忘れっぽいのは、日本人だから。ずっと心に描くー暗い予想図は、ほら、思ったとおりに、現実化してゆく。最後に残った道しるべは、今を忘れないこと。この忘却のループから抜け出すためには、交わした約束、忘れないことなのだから。

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「日本沈没」再読

 いまも怖いし、不安だ。そんなわたしが、たとえ一時でも自分を騙すために、再び手にした。

日本沈没1日本沈没2

 「ネタバレ:日本は復興する」 tumblr や twitter でこんなメッセージを目にする。これは、リアルでも小説でも同じ。被災者・被災地ではなく、復興者・復興地だ。本書は(物理的に)日本が沈む話であるにもかかわらず、「日本は復興する」確かなメッセージを端々に見て取ることができる。

 最初は小学生、「復活の日」の次にデザスタものとして読んだ。オトナになってからは、映画の予習として再読(ただし映画は未見)。そして今回、この時期に、こんなの読んでてよいのかしらと幾分後ろめたい気分で進めながら、ここン十年ぜんぜん変わっていなかったことを思い知る。小松左京の炯眼恐るべし。初版は1974年だが、「大災害に対する日本人の反応」的な部分は、まるで今を見ているようだ。原発事故による放射能もれやSNSによる議論・風説の共有は無い。だが、日本人というものが、災厄に対して、いかに粘り強く立ち向かっていくかが、綿密に書かれている。

台風国であり、地震国であり、大雨も降れば大雪も降るという、この小さな、ごたごたした国は、自然災害との闘いは、伝統的に政治の重要な部分に組み込まれていた。だから多少不運な天災が重なっても、復旧はきわめてすみやかで活発におこなわれ、国民の中に、災害のたびにこれをのり越えて進む、異国人から見れば異様にさえ見えるオプティミズムが歴史的に培われており、日本はある意味では、震災や戦災やとにかく大災厄のたびに面目一新し、大きく前進してきたのだった。
 しかし、あたりまえだが、現実のほうがはるかに深刻で悲惨だ。小説のなかで、どんな阿鼻叫喚が展開されていたとしても、それは物語としての惨事。3.11 からの出来事を写した、どの一枚にもかなわない。フィクションとしての薄っぺらさをあげつらうことは可能だが、そこに「逃げる」ことができる。テレビを消して、ネットから離れ、「物語」の殻に心を放つ。不安に浮つくわたしのこころを、いっとき「物語」に向けるのだ。いま揺れている足元はどうしようもないが、自分のこころは飼いならすことができる。たとえ、わずかな一時でも。

 現実はあまりにも苦く・恐ろしい。だが、そんな現実をデフォルメし、因果の流れに組み込んで、「飲める」ように仕立てたのが物語。耐え難い不安や不満に苛まれるとき、その現実に似た「物語」を摂取する。薄めた"リアル"で抗体をつくり、心を慣らすのだ。「おおつなみ」というコトバは、未来少年コナンのインダストリアで耳にした(最近ならポニョか)。児戯かもしれない、「逃げ」かもしれない。でも、フィクションのおかげで現実に引っ掛かることができる。ともすると流されそうになる心をつなぎとめておくために、物語はありがたい。

 日本沈没―――最初に結論を述べると、日本を沈めるのはとてつもなく難しい。これは著者自身が告白しているとおりで、日本が沈むまでに実にさまざまなことが起こる。起こりすぎるくらいで、とても潜水艦乗りや地震学者といったキャラクターに還元できない。物理的な日本の蠕動・鳴動・業火・咆哮そして沈下というベースに、日本人どう対応するか、隠蔽・逃避・救助・足掻そして脱出のストーリーラインが乗っかる。

 予兆や予感レベルでは個人の耳目を駆使し、すわ有事になると、ぐっと鳥瞰したカメラの視線、さらには海底1000メートルまで潜った場所から地中・土中に衛星視点まで、自由自在だ。海溝を走る泥流の描写、大地震+大津波により首都が破壊される様子、人びとの混乱と喪失、表向きは同情、本音は冷ややかな海外の反応、政治的駆引、世界経済への波及と、脳髄を振り絞ってシミュレーションに苦心惨憺した跡がしのばれる。軍事バランスや地政学的な平衡関係が崩れることまで考え抜いてある。

 また、細かいとこなら、いざというときの「市民の義務」が欠如している「通勤流入民」→「帰宅難民」と読み替えたり、海洋を信仰対象とする新興宗教「世界海洋教団」を「シーシェパード」になぞらたりできる。某国だと暴動になる危機において、日本人は「柔順と諦念」的な行動様式をとる理由は、「最後は何とかしてくれる」という国に対する「甘え」の感覚がそうさせているのだという。どこまで「いま」を再現しているか、胸に手を当てながら、読む。

 さすがに「これはヒガみすぎだろう」と思ったのは、海外勢の視線。「日本を救え!」キャンペーンの裏側の心理。国際機関や各国政府、さまざまな団体が募金活動にいそしむのだが……地震・津波・原発、現在進行形が「そのまま」テレビでダダ漏れしているのも、世界初なんだろうね。

大部分の人々の心は、はるかな極東の一角に起こりつつある悲劇的なスペクタクルに対する第三者的な好奇心にみたされていた。心の奥底では、それが「自分たちの土地」で起こったことでなくてよかったという安堵と、異常な「繁栄」をしていた国の滅亡に対する、若干の小気味よさと、特異で理解しにくい、活動的な国民を、自分たちの国に大量に受け入れなければならない不安、わずらわしさに対する予感などが、複雑にからみあっていた。
 「いま」への警告じみたものも読み取れる。マグニチュード8.7が、東京を直撃する場面がある。首都がどのように壊滅するかは読んでいただくとして、問題はその後。廃都をパトロールする警官たちの会話だ。デマや流言飛語が飛び交うのは常道として、こういう大きな災害が起きた後は、社会が『硬化』するという。具体的には、取り締まりが強化され、自由な発言を許さない空気が醸成され、大きな声・くり返される声が求心力を持ちはじめる。今なら「自粛」というピッタしの言い回しがあるし、これからは「TNP」が流行るかもしれない。「TNP=低燃費」ではない、「楽しい仲間がポポポ~ン」だね。

 年長の警官が、関東大震災がファッショ化、さらに治安維持法へ結びついた歴史ふりかえる。「震災→治安維持法→戦争」の図式は、 3.11以前はデキすぎた後付け談義と見た。が、これが「今」現実感を持つようになったら……わたしはまず、わたしの感覚を疑うに違いない。与党が求心力を希うことで、どさくさにまぎれてカリスマ党首にすげ替えたり同調したりし出したら、別の意味でアラートをあげるつもりだ。

 くり返す。わたしは、こわい。「地震・カミナリ・火事・オヤジ」だった時代から、わたし自身がオヤジ世代になった今、「地震・原発・デマ・津波」だという。確かに、どれも「こわい」。NHKでも見てまぁ落ち着けという人がいる(嫁さんだ)。「オオカミが来るぞー」と騒ぐ週刊誌がいる。「ネェどんな気持ち? いまどんな気持ち? 」とマイクを突きつける人がいる。ネットにつなぐと、ワケ知り顔の自称専門家がいる。ソースが海外だと死体がいっぱいだ。検索する検索する検索する。情報に疲弊して、物語に逃げ込む。

 現実が現実味を急速に失いつつあるいま、物語がリアルを保てるのか? どだい、最初から無理な話なのかもしれぬ。それでもすがるように読む。正気を保つために、狂気に逃げ込む。嘘から(嘘でも!)メッセージを受け取る。地震・津波・台風、日本人は昔から、自然災害を生き延びてきた。だから、今回も必ず、ふたたび興る、と。

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スゴ本オフ@松丸本舗(読まずに死ねるかッ編)

 よのなか買い占めがトレンドなので、本を買い占めてきた。

 それも、「読まずにゃ死ねない」ブツをガツガツ買ってきた。しかも、孤独なマタギの単独行ではなく、本好きが集まってグループ・ハンティングだ。互いが互いにオススメしあい、いつもなら敬遠してたものも、オススメ上手な皆さんの言にほだされて「この際だから…」と、じゃんじゃんカゴへ。

 まずは、わたしの収穫。ウンベルト・エーコ「美の歴史」とジョーゼフ・キャンベル「千の顔をもつ英雄」、トニ・モリスン「ビラヴド」は予定通りだが、カサーレス「モレルの発明」、萩尾望都「半神」は完全に知らなかった→ハンターたちの「コレはスゴいぞ!」に押されてバスケットへ。吉田秋生「海街diary」は、前回の本屋オフでも猛プッシュされたよなぁ……と押し倒される。ほら、あれだ何度も誘惑されると、ついフラフラッとなってしまうもの。もちろん「海街」は大期待を裏切らないだろうが、未完に手をつけると次巻までの渇きに絶えられるか……アンドレ・ブルトン「魔術的芸術」はスゲぇ、おそらくニアミスは何度もあったろうが、面と向かって「これはイイです!」と引き合わされて一目惚れ。第一印象では「醜の歴史」を超えるカモ。

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 次は、yukkii22さんの収穫。「コレはイイぞ」「それならコレ読め」と、わたしとMOTOさんの猛プッシュに、ざっくざっくと狩ってゆく。マクリーン「女王陛下のユリシーズ」、シン「フェルマーの最終定理」、ベスター「ゴーレム100」、クリストフ「悪童日記」は、鉄板モノに面白いからという理由で買わせる。ブラッドベリ「華氏451度」は、それが並んでいる棚の含みを持たせてオススメする。曰く、華氏451度とは「紙が燃える───書物が燃える温度」で、その世界のファイアマンとは、「消防士」ではなく、書物を燃やす焚書士を指す。本が禁じられた世界で、本はどのように「生き延びよう」とするのか……?で、松丸のニクいことに、本書は「本の本」、いわゆる本に関する本の棚に差してあるの。

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 面白いことに、「雷撃SSガール」は「まなめ(呼び捨て)がオススメしてたよ」で通じたけれど、小飼弾さんや橋本大也さんは「誰?」的に受け止められてたこと。本好きなら404 Blog Not Foundとか情報考学 Passion For The Futureは常識だろうに、解説を要する人がいたことが不思議だった。まなめはうすは書評薄めなのに、「まなめか…」で通るのが面白かった。これは、前回の「本屋オフ」でも「まなめ」呼捨て扱いなので、愛されてるねッ

 次はアタミルクさん(かな?)の戦果。yukkii22さんの狩った、こうの史代「この世界の片隅に」と合わせ、涙ぐみながら「夕凪の街桜の国」をプッシュした結果。どちらも、このブログでちゃんとレビューできていない。どちらも第二次大戦末期の「原爆」がテーマで、あまりにも胸いっぱいになりすぎてレビューできないのだ。SFでイイのをお探しのようなので、すかさず定番のティプトリーJr「たったひとつの冴えたやりかた」を推す。情にもろいのか感情記憶が豊富なのか、オススメしているうちに思い出し涙ぐみをしてしまう。既読の方もいて、80年代少女マンガ系の表紙のほうがよかったねと言いながらダブル・トリプルで狩りとらせる。

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 キホンの流れは、①松丸をウロウロする、②わたしを見つけた人が声をかける、③好きなジャンルと獲物を言って、④みんなで狩りなんだが、棚に群がって、コレがいい、ならコレは? いやいやそれならコレ! のオススメ合戦じみてて、いたく興奮した。

 最初は初々しい二人(ゴミバコさんとアタミルクさん)のために「SFの定番」を探す旅に出たのだが、なぜかぢだま某の変態エロマンガ「聖なる行水」から、「読むレイプ」と異名を取るケッチャム「隣の家の少女」、キング「呪われた町」から小野不由美「屍鬼」とホラーづくしのメニューになる。オススメ上手なMOTOさんが「山尾悠子作品集成」を挙げたときは、ついフラフラとなって非常に危険だった(「夢の棲む街」は必ず読みますぞ)。そのあと愛がテーマになって(スゴ本オフ@ラブ編を思い出しながら)、谷崎潤一郎「春琴抄」やフロム「愛するということ」をオススメする。

 そして、思い出したようにSFに戻り、クラーク「地球幼年期の終わり」を見つけるのだが、光文社古典新訳のが見つからず狩らせることに失敗(獲物が隠れていたことが分かるのだが、ハンター離脱後だったりする)。翻ってエンデ「はてしない物語」が未読だと知って狂喜して、ハードカバー版を猛プッシュする。あれは新書版の上下に分割されたのを読んではいけない。あくまでも赤のクロス表紙の箱入ハードカバーでないといけない! と力説してたらMOTOさんに力強く同意される(だよねー)。ASMさんに「ネットワーク理論でイイのあります?」と訊かれて「ベッドルームで群論を」をオススメするのだが、あにはからんや、もとはといえば、ASMさんに推されて手にしたことを思い出す(スゴ本オフ@赤坂編)。忘れてました、失礼しました、ありがとうございます。

 後半から参戦したHANAさんがとてもきれいな人だったので、舞い上がったわたしはすかさず劇薬系をオススメして全力で引かれる。ちなみにプッシュしたのは、野坂昭如「骨餓身峠死人葛」や、ヴィットコップ「ネクロフィリア」、江戸川乱歩+丸尾末広「芋虫」で、ふつう引くわなwww常識的に考えてwそれでも、彼女からオススメされた小川洋子「薬指の標本」を読む動機は、「身体接触なしで会話で支配するエロさ」という殺し文句から(わたしは単純なのです)。あと、グウィン「ゲド戦記」、チャン「あなたの人生の物語」はきっちり読みますぞ。

春宵十話夜間飛行モレルの発明
美の歴史魔術的芸術ビラヴド
千の顔を持つ英雄1千の顔を持つ英雄2半神
悪魔の涎海街1海街2
蟻るきさんゴーレム100
華氏451度フェルマーの最終定理愛するということ
高慢と偏見とゾンビ雷撃SSガール悪童日記
この世界の片隅に夕凪の街桜の国たったひとつの冴えたやりかた
最後から二番目の真実荊の城ソラリスの陽のもとに
幼年期の終わりはてしない物語薬指の標本
ゲド戦記あなたの人生の物語山尾悠子作品集成
 今回の名言「松丸本舗はAmazonより危険」。どの棚にも仕掛けがあって、自分の知ってる・好きな本から眼を動かすと、その並びにきっと、コレは!というのがある。Amazonなら、機械的に重み付けした「この本を買った人は…」だけど、松丸の「並べかた」は、松岡正剛+スタッフが知恵を絞ったもの。「なぜこの本が並んでいるのだろう?」と、謎かけを解いてるで時が経つぞ。

 さらに、今回は「ひとり U-Stream 」してみた。棚めぐりをしているハンターたちの会話や掛け合い、「それイイならコレは?」といった誘惑・挑発も流してみた。数名ご覧いただいたようだが、twitter 経由でリプライが拾えず、ちと残念。フィードバックがもらえるような仕組みが必要だなぁ…というより、U-Stream専担ないし時間帯が必要だね。松丸は棚命だから、この棚を見ながらネット越しにワイワイやるのが目標だ。次の課題としよう。

 ゴミバコさん、アタミルクさん、ユーキ(yukkii22)さん、MOTOさん、ASMさん、HANAさん、ありがとうございました(追記:間際にようぎらすさんが駆けつけてくれたことを書きもらしてた、ごめんなさい。そして、ありがとうございます、次はたっぷり巡りましょう)。一足早いレポートは、ユーキさんの「図書館の海辺」の「スゴ本オフ@松丸本舗(読まずに死ねるかッ)」に参加してみたが素晴らしい。というか、わたしが帰った後に二次会やってたのか~ええなぁ~。次は嫁さんを説得して、飲み会込みで企画しますので、ぜひ狩った獲物をダシにして宴会しましょう。それから、松丸本舗さま、ありがとうございます。たっぷり5時間、素晴らしい狩りをさせていただきました。

 本はみんなで狩ると幾重にも面白い!またやりますぞ、スゴ本屋オフ。

 2010/04/07 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
 2010/05/14 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
 2010/07/16 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
 2010/08/07 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
 2010/08/27 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
 2010/10/20 スゴ本オフ@赤坂
 2010/10/23 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)
 2010/12/03 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@ミステリ
 2011/03/04 スゴ本オフ@最近のオススメ報告

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「醜の歴史」はスゴ本

 醜いものは作られていることが分かる。

醜の歴史 「美は文化なり」これは知ってた。さもなくば、美は歴史でもある。あるプロポーションとか、あるハーモニーが「美しい」とされるのは、それぞれの文化でもって定義され、歴史の中で再定義をくりかえす。だから、ボニータは「分かる」が、「小町」を美人とするには抵抗がある。

 さらに、同じプロポーションやハーモニーといっても、「どの」プロポーションとハーモニーに着目するかは、文化や時代によって違う。ある世紀に『プロポーションがとれている』と見なされたものが、他の世紀ではそう扱われないことがある。

 たとえば、中世の哲学者はゴシックの大聖堂について語っているのに、ルネサンスの理論家は黄金分割に基づいた16世紀の神殿のことを考えているという。ルネサンス人にとっては、大聖堂のプロポーションは蛮族の、文字通り「ゴシック(ゴート族の)」のものに見なされる。黄金比や白銀比は美を再構成する基準として有名だが、どこにその比を見るかは、文化や歴史が決めているのやね。

 しかし、「醜」はどうだろう。絵画をはじめとする美術品を分析することで、美は再構成が可能だが、「醜」は事情が異なるという。「美醜」という言葉に代表されるように、美と醜は対立するものとして定義されてきた。にもかかわらず、「醜」そのものについて充分な長さの論文が書かれたことはほとんどなく、せいぜい注釈的・副次的な言及にすぎないと指摘する。

 知の巨匠ウンベルト・エーコが、この挑戦に受けて立つ。古今東西の大量の絵画・彫刻・映画・文学作品から、暗黒、邪悪、狂気、異形、嫌悪、逸脱、酸鼻を極めたエッセンスを残らず開陳する。思わず目を背けたくなる残虐なカットから、魅入られたように覗き込んでしまう細密画まで取り揃えてある。肌を粟立てながら読み耽る(というか、目を奪われる)。

 いわゆるサタンやグールといった神話上の魔物や、フランケンシュタインのような小説や銀幕上の怪物は、分かりやすい。ただし、その「醜」を知るためには宗教や文学、映画の下地を必要とする。だが、そういう文化・歴史から離れて、その醜さを理解することができるのだろうか? エーコは、ニーチェのナルシスティックな神人同形説で応える。

人間は結局、事物に自分を映し、自分の姿を反映するすべてのものを美しいとみなす…醜さは退化の兆候だと理解される…衰退、重々しさ、老化、疲労のあらゆる兆候、痙攣や麻痺といったあらゆる種類の不自由、とりわけ腐敗の臭いと色と形…これらすべてが同一の反応、「醜い」という価値判断を呼び起こす…いったい人間が憎悪するのは何か?決まっている。自分自身の没落を憎むのだ。
 エーコは、「醜い」の類義語を引いてきて、そこに表わされる不安や不快の反応を指摘する。たとえ激しい反感や憎悪、恐怖にまで至らないにしても、不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づける。さらに、排泄物や腐敗した死体といった、それ自体で「本質的な醜」を孕むものと、全体の中の諸要素の有機的関係の不均衡に由来する(つまり、比例と調和の不一致からくる)醜さを指摘する。後者は「形式的な醜」で、いわゆる文化と歴史に基づいたものになる。美と対になるのはこちらで、アリストテレスのいう「醜いものも、美しく模倣することができる」がこれだろう。

 エーコは、この「本質的な醜」と「形式的な醜」のそれぞれの例を引きながら、あざなえる縄のようにつむぎだす。醜の歴史を再構成することによって明らかにされるのは、「形式的な醜」だ。醜の概念は美の概念と同じように、さまざまな文化によってだけでなく、さまざまな時代によって相対的なものだという。現代からすると噴飯ものの醜の観念が、"科学的論拠"や"客観的事実"によって証明されてきた過去を振り返ると、今わたしが信じる美醜もあやふやなのかもしれぬ。

 たとえば、19世紀の社会学者チェーザレ・ロンブローゾの見解は、古くて新しい。彼は、犯罪者の容貌が常に肉体的異常と結びついていることを証明しようとした。醜いものは常に犯罪者であるという単純化にまでは行かなかったが、科学的だと称する論拠によって、身体的特徴を道徳的特徴とを結びつけた。エーコは相関を因果にこじつけているとバッサリ斬った後、「『醜いものは生まれつき邪悪である』という偏見が生まれる、あと一歩である」と警鐘を鳴らす。

 1798年のブリタニカ百科事典の「黒人」の項が美醜の偏見の典型かもしれぬ。「肌の色が黒色で、特にアフリカの熱帯地域に存在する人種」とまでは良いが、そこから先が当時の「美」意識に満ちている。

不恰好で不規則な形が彼らの外貌の特徴である。黒人女性は腰の肉がかなり垂れ下がっており、また、尻が非常に大きい。そのため、後姿が鞍のようである。この人種が不幸な運命にあるのは彼らの最も悪名高い欠点ゆえに思われる。怠惰、裏切り、復讐、残酷さ、無分別、盗癖、虚言癖、不信心、放蕩、不潔、不摂生によって自然法の原則が消滅され、良心の呵責が沈黙させられている。
 たんぶらで見かける黒人のヌードは、ほんとうに美麗だ。そういうモデルだからプロポーションが優れているのだろうといった理由ではない。高解像度ごしに見える肌の質感が素晴らしいのだ。蜂蜜の滑らかさに喩えた文人がいるが、18世紀の美としては一般化されていなかったんだろうね。

 美醜が相互に塗り替えられる、形式的な醜のダイナミズムが面白い。わたしの持つ美醜の基準を軽々とクリアしてくれるから。19世紀、ユーゴーが新しい美学の典型としてみた醜は、「グロテスク」と名づけられた。芸術の領域まで達した、不恰好で、恐ろしく、不快なもので、芸術的創造へと開かれる最も豊かな水源なのだと。シュレーゲルは「詩論」(1800年)において、グロテスクとは、自由な奇抜さにおいて見慣れた秩序を破壊するものだと述べ、ジャン・ポールは「美学研究入門」(1804年)において、「破壊のユーモア」だと語る。醜とは、凝った美意識を砕く道具なのかもしれぬ。ピカソの「泣く女」は「美」術というより美「術」だろうね(アルテが主)。

 美と醜がいかにうつろいやすいかを示す好例として、「当初の批評」を集めたものがある。ブラームスを評してチャイコフスキーは、「ならずもので才能のないろくでなし」と書いた。ピカソの「アヴィニョンの娘たち」をアンブロワーズ・ヴォラールは「狂人の作品だ」と評した。ヴァージニア・ウルフは「ユリシーズ」を冗長で不愉快で下品で失敗作だとした。吐き気がするから1000年間、石の下に埋めることをお勧めされたのは、ナボコフの「ロリータ」だ。

 知らないものに触れるとき、人は不安を感じる。異なる文化や違う時代の境目に立つ、そのダイナミズムが次の「美」意識を生む。醜の本質は異だ。「異」か「同」かは、何に因っているかによる。すなわち、自分の属する文化・歴史のこと。

 醜の歴史とは、異化の歴史。美と同様、醜いものは作られている。見て観て魅入ってほしい一冊。

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スゴ本オフ@松丸本舗(読まずに死ねるかッ)のお誘い

 某誌によると、「放射能がくる」らしい。ならば迎え撃とうではないか、煽りを。被災地では分け合い・助け合っているのに、東京では買い占め・奪い合っているという。ならば買い占めるとしようぞ、本を。

 耄碌ズ・おばちゃんズはトイレットペーパーを買い占めていると聞く。40年前の石油危機だから、教訓が揮発しちゃったのは当然か。40年後に後悔しないよう、わたしは「死ぬまでに読みたい本」を買い占める。もとい、天命もあるが、40年後はちゃんと読めないだろうから、元気な今のうち読みたい本を狩りに行く。というわけで、ハンター募集。

 案内は以下の通り。アツくユルくやります。自由参加、自由退場方式なので、お好きなときにいらっしゃいまし。赤いウェストバックをナナメ掛けにしているオッサンがいたら、わたしです。話しかけて、一緒に狩りをしましょう。

日時 3月26日(土) 13:00~18:00
場所 松丸本舗(丸善丸の内本店4F)
方法 事前申込不要。好きな時間にいらっしゃって、わたしを探してください。一緒に語り、狩りましょう。わたしの目印は、赤いウェストバック。背中にナナメにかけています。U-Stream のため、ノートPC持ってウロウロしているかもしれません。


大きな地図で見る

U-Stream 予定 : 3月26日(土) 14:00~15:00
ハッシュタグ #sugohon
オススメ本が映ってたり、「このコーナーを写して!」というリクエストがあったら、つぶやいてくださいまし。照明は暗め(ムーディーともいう)なので、どこまで伝わるか分かりませんが、鋭意流してまいります。お気軽にアクセスしてくださいませ。


Live streaming video by Ustream

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自分を疑う深い穴「春にして君を離れ」

 「自分を疑う」これが最も難しい。

 誰かの矛盾を突くのは簡単だし、新聞などの不備を指摘するのは易しい。科学的説明の怪しさを探すのは得意だし、だいたい『言葉』や『記憶』こそあやふやなもの。しかし、そんなわたしが最も疑わない―――あらゆるものを疑いつくした後、最後に疑うもの―――それは、自分自身。わたしは、自分を疑い始めるのが怖くて、家族や仕事に注意を向けて気を紛らわしているのかもしれない。自己正当化の罠。

 では、こうした日常の諸々から離れたところに放り出されたら? たとえば旅先で交通手段を失い、宙吊りされた場所に居続けたら? 読む本も話し相手もいないところで、ひたすら自分と向き合うことを余儀なくされる。最初は、直近の出来事を思い出し、何気ないひとことに込められた真の意味を吟味しはじめる。それは次第に過去へ過去へとさかのぼり、ついに自己満足そのものに及ぶ。

 クリスティーにしては異色作、誰も死なないし、犯人もいない。中年の女性の旅先での数日間が、一人称で描かれる。しかし、暴かれるものはおぞましい。読み手はきっと自分になぞらえることだろう。

 「いろいろあったが、自分の人生はうまくいっている」「それは全く、自分のおかげ」「わたしこそ良妻賢母の鑑だ」「あいつのような惨めな境遇ではない」「あいつがああなったのは、自業自得だ」「夫のダメな部分はわたしが正してやらないと」「いつだって子どものことを考えてきた」───こうやって書くから、読み手はこの中年女の"自己中心"が見える。しかし、それは"ほんとう"なのだろうか? 疑いはじめるとキリがない。自分の人生が蜃気楼のようなものだったことに気づく恐ろしい瞬間が待っている。

 自己欺瞞がもたらす帰結を想像したが、それを裏切るラストだった。これは、イヤ~な最後やね。ある意味、幸福な生涯なのかもしれない。オススメいただいたのは、有村さん。ありがとうございます、自分に映して読んでかなり痛い思いをしました(そして、目を逸らすことにも成功しましたw)。

 「自分を疑う」のもほどほどに。

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時を忘れる小説

 大きな現実の前では、文学はつくづく無力だな。

 そも文学は人と人との間学(あいだがく)なのだから、人を超える圧倒的な事物には、術がない。しかし、言葉が人に対して影響をもつものなら、それがいかに微かであろうとも、その力を信じる。わたしは、物語の力を、信じる。

 このエントリでは、時を忘れる夢中小説、徹夜小説を選んでみた。計画停電でテレビや電車が動かないとき、開いてみるといいかも。amazonからは書影のみお借りして、リンクはしていない。自分の書棚か、営業してる本屋を巡ろう。文庫で、手に入り安そうなもので、かつ面白さ鉄板モノばかり選んだ。いま手に入りにくいのであれば、手に取れるようになったときの「おたのしみリスト」として期待してくださいませ。

■大聖堂(ケン・フォレット、ソフトバンククリエイティブ)

 十二世紀のイングランドを舞台に、幾多の人々の波瀾万丈の物語……とamazon評でまとめきれないぐらいのスゴ本+夢中小説。NHK衛星ハイビジョンで放送しており、再ベストセラー化しそうな勢いだ。残念ながらわたしは見逃してしまっているが、このドラマで小説版を手にした方も多いだろう。

 これがスゴい理由は、あらゆる人間の欲望が描かれているから。権力欲、支配欲、愛欲、性欲、意欲、我欲、禁欲、強欲、財欲、色欲、食欲、邪欲、情欲、大欲、知識欲、貪欲、肉欲…ありとあらゆる「欲望」を具現化したものが大聖堂だ。神の場と「欲望」… 一見矛盾した取り合わせだが、読めば納得する。究極の大聖堂を描く、しかも「大聖堂をなぜ建てるのか?」という疑問に応える形で書こうとすると、とてつもない人間劇場になる。だから、これはすごい。

■ガダラの豚(中島らも、集英社文庫)

「寝食忘れて読みふけれ。まちがいなく面白いから」2ちゃんねら大絶賛の徹夜小説。半信半疑で読みはじめ、とまらなくなる。テーマは超常現象と家族愛。これをアフリカ呪術とマジックと超能力で味付けして、新興宗教の洗脳術、テレビ教の信者、ガチバトルやスプラッタ、エロシーンも盛り込んで、極上のエンターテイメントに仕上げている。中島らも十八番のアル中・ヤク中の「闇」も感覚レベルで垣間見せてくれる。

 エンタメの心地よさといえば、「セカイをつくって、ブッ壊す」カタストロフにある。緻密に積まれた日常が非日常に転換するスピードが速いほど、両者のギャップがあるほど、破壊度が満点なほど、驚き笑って涙する、ビックリ・ドッキリ・スッキリする。この後どうなるんだーと吠えながら頁をめくったり、ガクブルしながら怖くてめくれなくなったり。

■アラビアの夜の種族(古川日出男、角川文庫)

 おもしろい物語を読みたいか? ならこれを読め!【完徹保障】だッ!

 と、自信をもって断言できる身も心もトリコになる極上ミステリ。物語好きであればあるほど、本好きであればあるほど、ハマれる。抜群の構成力、絶妙な語り口、そして二重底、三重底の物語…このトシになって小説で徹夜するなんて、実に久しぶりだ。

 これは、陰謀と冒険と魔術と戦争と恋と情交と迷宮と血潮と邪教と食通と書痴と閉鎖空間とスタンド使いの話で、千夜一夜とハムナプトラとウィザードリィとネバーエンティングストーリーを足して2乗したぐらいの面白さ。そして、最後の、ホントに最後のページを読み終わって――――――驚け!

 それまで、検索厳禁な(amazonレビューも見てはいけない)。それから、明日の予定がない夜に読むべし、でないと目ぇ真っ赤にして、その予定をキャンセルすることになるから、もちろん続きを読むために、ね。

■極大射程(スティーヴン・ハンター、新潮文庫)

 徹夜小説+アクションとミステリと冒険と法廷のいいとこどり。

 ここまで手広いと大味になったり拡散しちゃいそうだけれど、すばらしく上手くまとめあげている。良い意味での「ハリウッド映画のような小説」。ヴェトナム戦争の名スナイパーが主人公なのだが、戦争モノではない。大自然の中に"引きこもり生活"を送っている主人公・ボブに、ある依頼が舞い込んでくる。

精密加工を施した新開発の308口径弾を試射してもらいたいというのだ。弾薬への興味からボブはそれを引受け、1400ヤードという長距離狙撃を成功させた。だが、すべては謎の組織が周到に企て、ボブにある汚名を着せるための陰謀だった…

 後半のご都合主義的な展開に云々するよりも、エンターテイメントとして超一級なので、寝るのを忘れて読める読める読める。主人公 vs 特殊部隊100人の銃撃戦が鳥肌たった。ページの間から硝煙の匂いと兆弾の残響がただよう、オトコくさーい小説。

■ローマ人の物語──ハンニバル戦記(塩野七生、新潮文庫)

 「ローマ人の物語」は非常に長い「物語」だが、めちゃくちゃに面白い巻と、本当に同一人物が書いたのだろうかと疑いたくなるような巻が入り混じっている。無理して全読するよりは、美味しいところだけをつまみ食いするのをオススメする。

 シリーズ中で最も面白いのは、「ハンニバル戦記」の3巻(文庫3、4、5巻)なので、まずここから召し上がれ。本書は「ローマvsカルタゴ」という国家対国家の話よりもむしろ、ローマ相手に10年間暴れまわったハンニバルの物語というべきだろう。地形・気候・民族を考慮するだけでなく、地政学を知悉した戦争処理や、ローマの防衛システムそのものを切り崩していくやり方に唸るべし。この名将が考える奇想天外(だが後知恵では合理的)な打ち手は、読んでいるこっちが応援したくなる。

 特筆すべきは戦場の描写、見てきたように書いている。両陣がどのように激突→混戦→決戦してきたのか、将は何を見、どう判断したのか(←そして、その判断の根拠はどんなフレームワークに則っている/逸脱しているのか)が、これでもかこれでもかというぐらいある。カンネーの戦いのくだりで、あまりのスゴさにトリハダ全開になるぞ。

■モンテ・クリスト伯(アレクサンドル・デュマ、岩波文庫)

 この世で、もっとも面白い小説。

 筒井康隆が「ひとつだけ選ぶならコレ」とベタ誉めしてたが、本当だ。ストーリーを一言であらわすなら、究極のメロドラマ。展開のうねりがスゴい、物語の解像度がスゴい、古典はまわりくどいという方はいらっしゃるかもしれないが、伏線の張りがスゴい。てかどれもこれも強烈な前フリだ。伏線の濃淡で物語の転び方がミエミエになるかもしれないが、凡百のミステリを蹴散らすぐらいの効きに唸れ。読み手のハートはがっちりつかまれて振り回されることを請合う。

 みなさん、スジはご存知だろうから省く。が、痛快な展開に喝采を送っているうちに、復讐の絶頂をまたぎ越えてしまったことに気づく。その向こう側に横たわる絶望の深淵を、主人公、モンテ・クリスト伯と一緒になって覗き込むの。そして、「生きるほうが辛い」というのは、どういう感情なのかを思い知る。

 予定されたり見送られたり、二転三転しているが、そろそろ計画停電の時間だ。光さえあれば物語に入れるのだから、紙の本はありがたい。

 もっと!という方には、以下のリンクをどうぞ。

  「本が好き!」の読書会「徹夜小説ありますか?」

  「はてな」の人力検索「徹夜するほど面白かった小説を教えてください」

 

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一度にただ一つのことをやるがいい

 キャベツたっぷりのラーメンを作って、家族で食べる。

 熱々をふうふうしながら食べながら、みんなで「おいしいね」と言い合っているうちに、涙が出てきた。見慣れたあたりまえの光景なのに、ものすごく貴重に思える。いつものように営業しているスーパーに、異様なほど長い買い物客の行列が連なっている。だれに向かっていいのか分からないが、「ありがとう」と苦しいほど感じる。

 16年前と違って、すぐに情報につながることができる。あたりまえかもしれないが、ネットはインフラだと痛感している。ガセも沢山あるが、見分けるのもたやすい。災害対策費を仕分けた人の話とか、現内閣のテレビを見てるだけの悲しすぎる"対策"とか、ツッコみどころもあるが、今は家族といっしょに今夜を安全に過ごす準備をしてる。今夜は電力不足になる見込みなので、風呂や夕食は明るいうちに済ませておいた。

 このブログの中の人として役立つというなら、アランの定義集から引いておくこの言葉を生かしたい。折れそうなわたしのための言葉だ。

希望の見えない悲しみの状態にあるとき、次の格言が勧められる。「一度にただ一つのことをやるがいい」

人間がその運命をつくり出すことができること、したがって道徳がむなしい言葉でないことを、証拠なしに、否、証拠に反して信じようとする意思。

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血の味がする読書「地を這う祈り」

 ずっと歯を喰いしばっていた。血の味がする読書。

地を這う祈り 途上国のスラムを切り取った写真とルポルタージュ。最貧層の人たちそのままの生活が、圧倒的な現実として迫る。妙な小細工や演出をしていないだけに、生で素でガツンとやってくる。「スゴ本オフ@オススメ本」でも議論になったが、興味本位で手にしないほうがいい、後悔するから(わたしがまさにそうだった)。著者=撮影者は、この現実を伝えなければ……という使命感に因っているのだろうが、知らないほうがいい現実もある。わたしがいかに知らないか、叩きつけられるように思い知った。

 「貧しくても心は錦」とか、「子どもの笑顔だけが輝いていた」といった紋切り型のジャーナリストではない。絶対的な貧困は健康を損ない、子どもを犯罪に近づける。貧困はずばり不幸だ、という撮り手のメッセージが伝わってくる。

 たとえば、故意に障碍部分を見せつけてくる物乞いがいる。切断された腕、象皮のようにも膨れた足、化膿した手術跡……これらを人目に曝して物乞いをするのは理由がある。より「稼ぎ」がいいから。さらに、元締めが、「稼ぎ」を良くするために、わざと切断したりすることがあるという。本当か!? 「ぼくと1ルピーの神様」[レビュー]で同じ話を聞いたが、あまりにも小説よりも奇なり(最初は都市伝説かと思った)。「地を這う祈り」には、その証拠が載っている。

 そうした人びとは、見られることに甘んじているわけではないという。通行人はおびえたようなまなざしを向けるし、無邪気な(残酷な)子どもは指さして嘲笑する。そのたびに、彼は悔しさに身を震わせ、煮えくり返るような怒りを覚えている。なぜ分かるかというと、著者が直接訊いたから。その上で、撮影してもよいか尋ねたから。これは、撮られるほうもそうだけど、撮ることにかなりの勇気が要ったかと想像すると震えてくる。直視できない姿が目に入るたび、見ねばと心を奮い立たせる。正直、ページをめくるのが怖かった。

 あるいは、「死体乞食」がいる。死んだばかりの路上生活者の死体を布やビニールで包み、それを使って喜捨を求める。「家族が死んでしまいました。埋葬したいので、どうか死体が腐る前に寄付をください」と、訴える。通行人は臭い始めた死体に同情し、次々にお金を落としていく。普通に物乞いをするより何倍も儲かるという。三日間、腐乱して完全に色が変わるまで遺体を引きずり回し、稼いだ金は日本円にして四千円。その様子をきっちりとカメラに収める。

 そうした物乞いに、真正面から、シャッターを切る。著者は本音をぽろりともらす、罪悪感のような気持ちがあると。人間としての尊厳を踏みにじっているのではないかという不安が、いつまでもつきまとっている。口さがない言い方でそしるならば、そうした写真を「売っている」とも言える。しかし、著者は乗り越える。葛藤はあれど、「安全な場所でふんぞりかえて、ケチや論だけをでっちあげている人間にはなりたくない」という思いが、シャッターを切らせるのだ。自然に頭が下がる。よくぞ撮ってくれたと思う。

 全身眼となって見入る。ひたすら抉られ、毟られ、苛まれる読書となった。読むなら覚悟して。


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妻を持つべきか

 持てる人はほろ苦く、持たざる人は甘さを感じる一冊。

妻を持つべきか 持つべきか、持たざるべきか、それが問題だ……なんて深刻に考えず、勢いよく結婚を申し込んで十余年。他人は知らんが、少なくとも今のわたしにとって、「よい」方向へ進んだ(と、思いたい)。この「よい」とは、自分の人生を破滅的なトコから抜け出す方向への「よい」。砕いていうなら、銭金とか、生活習慣とか、人づきあいとか、感情の落とし処になる。もちろん、子どもの存在も大きい。妻子のおかげで生きてこられた、と断定できる。

 これは、「少なくとも今のわたしにとって」の現在進行形の断定であって一般化できない。だから安易にオススメできない。踏みきるにはある種の勢いと直感が必要だが、続けるには別の種類の努力と諦観が「互いに」必要だから(←これも「今」「わたし」の判断)。

 人生は還元できないが、結婚も然り。だが、人生同様、経験を積んだ人の言葉から傾向はつかめる。ソクラテスの悪妻は有名だが、彼ですら、独身か妻帯かと訊かれたときこう答えている―――「二つのどちらを選んでみても、どのみち後悔するものだ。人生なにごとにつけても、苦労や面倒、危険に満ち溢れている」。つまり、正解はないのだ。

 妻帯することが、はたして人生を楽しく快適に過ごすことに通じるのか、あるいは人間の義務に関わることなのか、この問題に真正面から取り組んだ……というのは、話半分、いや九割くらい割り引いたほうがいい。これはルネサンス末期の聖職者の論説で、諧謔に満ちたアンチ・フェミニズムの系譜を引き継いでいる。いわゆる"ネタ"として笑いつつ、ちょっと身に詰まされる本なのだ。

 結婚する前に、自分が一種の「甘さ」を抱いていたことは結婚後に思い知ったが、本書で再確認できた。著者はハッキリ錯覚だと言い切る。結婚する女性が、従順で上品で教育があって躾も申し分ないと考えるのは、ギャンブルに等しいという。しかも、(自分で)分かった上での賭け金が自分の人生そのものなのだから、どうオブラートにくるんでも自己欺瞞にほかならない。快楽に目が眩んで罠に陥るなと警告を送る。ここらあたりは同感だ。結婚したらタダでヤりまくりじゃん!! なんて無邪気な雄(わたしがそうだったw)には、「タダより高いものはない」という言葉を贈ろう。大事なことだから2回言うね、「タダほど高いものはない」

 しかし、中盤から風向きが変わる。女性、とりわけ妻の底意地の悪さ、偽善、虚栄、色欲などを槍玉に挙げる。おしゃべり好き、口さがないこと、食べ物に目のないことなどをあげつらう。よっぽど酷い目に遭ったのかと思いきや、著者デッラ・カーサ自身の結婚生活は数年だったそうな(妻は病没)。パートナーは鏡でもあるのだから、その「酷さ」は著者自身の顕れかもしれぬ。ミソジニーを顕に女性を悪しざまにいう書き手の心理を透かしながら読むと、反面教師となるだろう。

 いっぽう、本書で身に詰まされたのは、自己正当化の罠。自分の結婚に対し、既に莫大なコスト(時と金と感情)を支払ってきたので、それを否定しようとする考えには自ずとブレーキが掛かる。いわゆるサンクコストの効果やね。人生とか結婚とか、やり直しがきかないことに対しては、自己正当化の圧力が高まることは、常に意識しておかないと。

 さもないと、結婚不全を相手のせいにしてしまう。自己正当化のあまり、うまくいかない理由を相手に押し付けるのは、(事実如何にかかわらず)不毛で危険だ。これはリコンする場合も一緒だ。とある賢者曰く、認識の相違から生じた判断ミスを後悔する時、何故か人間は、他者を憎悪する。己が正しさが己の判断を歪めるのだ。

 「わたし」はかなり巧妙で、ややもすると自分を丸ごと騙くらかす。「自己欺瞞を疑うメタな"わたし"」も含めて、自分の正しさを証明しようとする。そういう自分の"ズルさ"を指摘してくれるのは、いつだって嫁さんだ。つまり、嫁さんに映して"わたし"をより「よく」見ることができる。この「よく」はグッドじゃなくってクレバーやな。

 「妻を持つべきか」には、それほど高尚な(高邁な?)思考はつづられていない。歪んだ論が並べてあるだけだ。だが、読むと必ず反応する。「歪んだ」のは読み手=自分を基準にしたから。自分の何を?結婚生活を。ならオマエは何を費やし何を得た?と自問自答できる。それが愉しいのだ。

 思ったことを吐き出してみたら、"自分が"読みたい文章になった。10年後のわたしは、もっと面白く読むだろう(まさにウェブログ!)。

 持てる人も、持たざる人も、思索のトリガーにどうぞ。

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スゴ本オフ@最近のオススメ報告

 本を介して人と会い、人を介して本と会う。それがスゴ本オフ。

 オフ会のたびに思うのだが、わたしの視界のなんと狭いことか。そして、なんとスゴい収穫になることか。知ってる本でつながる人と、その人を介した「次の本」は、漫然と本屋amazonを巡ってもまず会えない。この場がなかったら、たぶん一生会うことのない、でも見た瞬間コレダ!と気づかされる、そういう一冊を沢山オススメしてもらう。嬉しい悲鳴とはまさにこれ。
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sumobook まず、気になる一冊というより、圧倒的な存在感を放っていたのがヘルムート・ニュートンの「SUMO BOOK」の普及版。オリジナルは85cm×85cm の 30kg でお値段200万円 の世界一巨大な写真集。大木さんが持ってきたのは、その普及版とはいえ重くてデカくて、鈍器というより重機。専用のブックスタンドに開いて置いて読む仕掛けだ。表紙は巨大な女性のヌード。目にいっぱいに飛び込んでくる写真と相対している感覚で、どこをめくっても、ひたすら目を奪われる。「視る=悦び」となる、贅沢なひとときでしたな。この存在感は、電子ブックじゃ逆立ちしたって敵わない。これは、欲しい。ただし、このモノが欲しいのであって、液晶画面で再生するデータではない。この存在感も含めて、欲しいのだ……だが、これを持つということは、格納、広げる場所も含めて、「持つ」ということになる。
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私の中のあなた 次に読みたくなったのは「私の中のあなた」。facebook初心者会のAndoさんのご紹介。白血病の姉のドナーとなるため、遺伝子操作で生まれてきた少女が主人公。彼女は輸血や移植のための器官を差し出すのだが、ついに拒絶する。両親を相手取って訴訟を起こす展開になるという。アメリカ的トンデモ展開にふーんと思っていたら、「実は、親は姉も妹も愛していたのです」とくる。なぜ?と俄然ミステリに見えてくる。しかも各キャラクターの一人称で構成されている藪の中構成。カズオ・イシグロの傑作「わたしを離さないで」(レビュー)と対比して読むと面白いかも。
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レンタルチャイルド ほとんど反則スレスレなのは、pakistan3104さんが持ってきた「レンタルチャイルド」。途上国のストリートチルドレンを扱ったノンフィクションなのだが、「これはひどい」を突き抜けている。物乞いもライバルがいるため、手足の一部を切断し、故意に見せつける者が出てくる(あと束ねてシメるボスも)。悲惨さを「売る」ことで、同情を「買う」わけだ。切断された腕、象の皮膚のように膨れた足、化膿した手術跡、それらを人目に曝して物乞いをしているという現実が、容赦なく語られる。同著者の「地を這う祈り」も話題になったが、これも見ないほうがいい。わたしの場合、ずっと歯を食いしばっていたので口中が血くさくなってしまった。「悲惨だが現実に目を背けないで」は正論だが、興味本位で手に取らないほうが吉。オフ会の場でも意見が真っ二つに割れてた。読むなら覚悟完了の上でどうぞ。
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 男の子たちに大人気だったのは、「スクールガール・コンプレックス」。セーラー服のぎりぎりショットのどの覗視もワタシ目線で、激しく昔を思い出す。いや、見せないんだよ、肝心なトコは。それでも醸すエロスは、匂いたつよな感覚。彼女らをエロくしているのは、実はわたしなんだという、単純な事実に気づける写真集だ。

 思わずリアクションしたくなったのが、norijr さん紹介の「読み解き『般若心経』」。介護だの悟りだの聞いていると、「おっぱい」を連呼してた伊藤比呂美もそんなトシなんだ、と感慨深くなる。さまざまに翻案・翻訳される古典のチカラは偉大だ。初音ミクの般若心経ロックをオススメしたい。現代風にアレンジ訳した黄色い文字が秀逸。時間のない方は、「超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?」でGoogleるといいかも。オフ会の場でニコニコ動画と一緒に言いたかったけれど、画面を出して皆に見せられず断念・残念。

 紹介よりも読めーとばかりに朗読をはじめたのが、ともこさんの「ウィーツィ・バット」。ポップでロックでファンタスティックなファンタジーらしい。「語り」にすぐに引き込まれ、これは期待大ナリ。あと、でんさんが持ってきた「フランス料理の『なぞ』を解く」が気になる。分子レベルで調理技術を解析したものだそうな。本屋オフで入手した「こつの科学」に通じるものがありそうだ。あわせて読む。カネヅカさんオススメの伊藤計劃「ハーモニー」も読んでみよう。「虐殺器官」が期待を込めすぎたので気をつける!

ヴァギナ ちなみに、わたしの交換本は「ヴァギナ」。前者は昨年のNo.1スゴ本で、文庫化されたのを機に再紹介した。ヴァギナは巨大な器官だとか、クリトリスは氷山の一角に過ぎないとか、UstreamではちょっとNGワードを連発する。これ読むと、ヴァギナは入口ではなく、出口であることを思い知らされる。しかも世界の・未来の。なぜなら、この世界のもろもろを作り上げたのが人の手によるのだから、世界を・未来を生み出しているのは、ヴァギナから出てくるのだから。

  • 【Dain】 ヴァギナ(キャサリン・ブラックリッジ、河出文庫)
  • 【Dain】 醜の歴史(ウンベルト・エーコ、東洋書林)
  • 【ほし】 千円札は拾うな(安田佳生、サンマーク出版)
  • 【otomexxx】 居座り侍(多岐川恭、光文社時代小説文庫)
  • 【otomexxx】 悲しみにさようなら(リンダ・ハワード、二見文庫)
  • 【しゅうまい】 新・プラットフォーム思考(平野敦士 カール、朝日新聞出版)
  • 【しゅうまい】 なれる!SE(夏海公司、電撃文庫)
  • 【norijr 】 読み解き「般若心経」(伊藤比呂美、朝日新聞出版)
  • 【Ando】 私の中のあなた(ジョディ・ピコー、ハヤカワ文庫)
  • 【pakistan3104】 レンタル・チャイルド(石井光太、新潮社)
  • 【pakistan3104】 二十歳の君へ(立花隆、文藝春秋)
  • 【せんだ】 焚き火大全(吉長成恭、創森社)
  • 【せんだ】 漂流するトルコ(小島 剛一、旅行人)
  • 【せんだ】 潜る人(佐藤嘉尚、文藝春秋)
  • 【せんだ】 愛犬王 平岩米吉伝(片野ゆか、小学館)
  • 【浮雲屋】 鈴木先生(武富健治、アクションコミックス)
  • 【浮雲屋】 海街(吉田秋生、フラワーコミックス)
  • 【pocari】 ワンピース(尾田栄一郎、ジャンプ・コミックス)
  • 【pocari】 ワンピース最強考察(ワンピ漫研団、晋遊舎)
  • 【pocari】 帰りたくない(河合香織、新潮文庫)
  • 【カネヅカ】 ハーモニー(伊藤計劃、ハヤカワ文庫)
  • 【カネヅカ】 幼年期の終わり(アーサー・C・クラーク、ハヤカワ文庫)
  • 【aguringo】 きれいな心となんでもできる手(ガールスカウト日本連盟、PHP研究所)
  • 【playnote】 進化しすぎた脳(池谷裕二、ブルーバックス)
  • 【chibizo0204】 スイッチ!(チップ・ハース、早川書房)
  • 【林田】 ストレートリード(テリー・トム、BABジャパン)
  • 【林田】 スクールガール・コンプレックス(青山裕企、イースト・プレス)
  • 【清太郎】 日本人が知らない世界のすし(福江誠、日経プレミアシリーズ)
  • 【dentomo】 フランス料理の「なぞ」を解く(エルヴェ ティス、柴田書店)
  • 【ogijyun】 幸せは見えないけれど(グウェン・クーパー、早川書房)
  • 【ともこ】 ウィーツィ・バット(フランチェスカ・リア・ブロック、創元コンテンポラリ)
  • 【大木】 SUMO BOOK(ヘルムート・ニュートン、Taschen)
  • 【ずばぴた】 アレックスと私(アイリーン・M・ペパーバーグ、幻冬舎)
  • 【やすゆき】 Scar Tissue(Anthony Kiedis、Hyperion)
 ズバピタさん、twitter中継ありがとうございます(ハッシュタグ #btc04)で辿れますぞ。今回はUstreamなしでまったり感がUPしてたナリ(楽しみにしていた方ごめんなさい)。参加された方、twitter見ていただいた方、ありがとうございます。会場を貸してくださったのは、KDDI ウェブコミュニケーションズさま、ありがとうございます。主催のやすゆきさん、感謝しています。

 こっから余談。主催のやすゆきさんがtwitterやfacebookで「ヤマザキのアップルパイがッ」と連呼しており、非常に気になっていた。その執着ぶりは、ヤマザキの回し者かと思いきや、今回その予感が覆された。ヤマザキのアップルパイは美味い!ふつうは、申し訳ていどに果実のきれっぱしが混ざっているという感のコンシューマ・アップルパイとは一線を画し、ローソンで売られているヤマザキのアップルパイは、リンゴリンゴリンゴゴゴゴゴーとしている。パイ生地よりもリンゴがデカいってナニコレ!?(ちなみに、わたしも回し者ではありませんぞ)。
Photo_5
 スゴ本オフの企画について。「企画から参加したい!」という方がいらっしゃるので、いつでも募集してマス。メールでも受け付けておりますが、 facebook のWall「スゴ本オフ」にいらしたほうが反応は早いですぞ。これまで、「青春(性春の?)の一冊」、「児童書」、「戯曲」、「エロ本」、「ネコ本」、「グルメ」などが俎上に乗ってます。

 画像の出所。

 ヘルムート・ニュートンのモノクロ→やすゆきさんflickr
 ヤマザキのアップルパイの山→やすゆきさんflickr
 スゴ本オフの収穫(一部)→やすゆきさんflickr

 関連エントリ。
 「スゴ本オフ@最近のオススメ」に参加してきた
 スゴ本オフはアップルパイ祭りであった。

 今までのスゴ本オフはこちら。

2010/04/07 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
2010/05/14 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
2010/07/16 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
2010/08/07 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
2010/08/27 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
2010/10/20 スゴ本オフ@赤坂
2010/10/23 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)

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3/4スゴ本オフやるよー

3/4のスゴ本オフは、申し込まれた方の全員が参加できます(抽選はありません)。ですので、直接ご来場くださいませー

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一筆書の人生「わたしは英国王に給仕した」

 給仕見習いから百万長者に出世した波瀾の人生を、いっきに語りおろす。

わたしは英国王に給仕した 各章の冒頭は、「これからする話を聞いてほしいんだ」から始まり、エピソードてんこ盛りでオチ・サゲ・目玉を詰め込んでいる。解説のいう「ビアホールの詩学」はぴったりやね。居酒屋で知り合ったオッサンが、半分自慢、半分法螺の過去話を開陳する。語りの上手さ、映画的展開、ちょっとの(かなりの?)エロスと、狂気と、死。居酒屋小説なるものがあるならば、まさに本書が適当だ。ナチス占領下のチェコの狂気が、狂気に見えないのは、語り手の吹き加減が上手いから?

 想像の視覚を刺激するようなうつくしいシーンが、ふんだんにある。「裸にした女性を寝かせ、その肢体を花で飾る」とか、「若い娘のおしりをひろげて、子供のようにはしゃぐ老人」なんて、読んでるこっちがまざりたくなる。女というものはどこもかしこも愛らしい・美しいものだが、作者は(主人公は)特にお尻が気になるようだ。女の最もうつくしい場所は、お尻だということが、随所の表現に見て取れる。「分かってるな、コイツ」思わずニンマリ握手したくなるね。

 とりわけ気に入ったのは、窓から捨てられたシャツが落下の際、バッと十文字に広がった一瞬をとらえたもの。旅行客が汚れた下着やシャツをホテルの窓から捨てる。その瞬間を待ち構え、つかみとって、洗って干して乾かして、売るのだ。シャツが輝くヒコーキのように見える。

それは姿を現して一飛行を停止したかと思うと、下に落ちてしまう。水の中に落ちてしまうものもある。それをおばあさんは集め、かぎの手でたぐりよせるのだ。わたしはおばあさんが深みに落ちないように足を押さえていなければならなかった。投げ捨てられたシャツが交差点の警官やキリストのようにさっと手を広げることもあった。ほんの一瞬、空中でシャツが十字架にかけられたかのようにパッと開いたかと思うと、すぐさま水車の木枠や水かきに落下する。

 ただ、毎夜毎晩、語り続けるような一本調子であることも事実。構成の妙とか伏線なんていくらでも仕掛けられたのに、あんまり見当たらない。後半に一つ気づいたのが、自分が大切に育んだある場所を失うシーン。亡失の悲しみよりも、その大切な場所を覚えてくれる人のことを考えて慰めるを見出すのだが、出だしの類似エピソードと見事にシメントリカルな構成となっている。

 ちょっとヒネって欲しいなぁというのは、無いものねだりか。そういや本書じたい、わずかな期間で一気に書かれたと解説されていたし。彼の、駆け上がるようで墜落するような人生は、池澤夏樹評によると、「エレベーターのような人生」になる。だが、紆余曲折もグロテスクな栄光もあるのだから、一筆書の人生というべきだろう。

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「デザインの骨格」はスゴ本

 ブログを「本」にすると、たいてい魅力を失う。

デザインの骨格
 フロー的なコンテンツをムリヤリ紙化した呪いかね、と独り合点している。コンテンツが質量をもたないから、流し読みのように受けるわたしの態度のせいかもしれぬ。言葉にはチカラがあるのに、情報だけ吸われてすべってゆく感覚。しかし、嬉しい例外を見つけた。「デザインの骨格」だ。

 これはブログ「デザインの骨格」をまとめたもの。単なるブログ本ではなく、それぞれのサブテーマに沿って記事が取捨選択され、著者がどのようにアイデアの枝を伸ばしていったか「見える」ようになっている。これは編者のチカラだろう。さらにそれぞれの章立てを支える言葉のチカラが輝いて惹きつける。たとえばこうだ。

  • 4本脚のニワトリ
  • 雨はなぜ痛くないのか
  • 車を自分で運転しなければならなかった時代
  • Suicaの読み取り角度はこうして決まった
  • 感覚を射抜くことばを見つけよ
  • 働かないロボットたち
 「おやっ」「あれっ」と視線をつかまえて引きずり込む。最初は発想のズレに気づきをもらって読むうち、いい意味で、読み手が立てた予想を裏切ってくれる。ブログは読んでいたので二回目になるのだが、再読で発見がもらえる(言い換えると、わたしがいかに"読んでなかった"かの証明にもなる)。

 ブログは(その本質上)時系列に読むしかないが、著者の仕事や興味の方向は、必ずしも時系列にまとまっていない。MacやiPhoneからAppleの(隠れた)美意識を発見したり、教える立場へのフィードバックを語ったり、それぞれ浮かんだものが、出た順に並んでいる。これを、「どう」デザインするのか、「なにを」デザインするのか、「なぜ」デザインするのかという切り口で編みなおし、読み直すことで、「デザインの骨格」の骨格が見えてくる。

 その粋を一言にするなら、「なぞるな、見抜け」になる。デザインとは、表面を写しとることではなく、その本質(=骨)を抽出し、かたちにすること。だから入り口は、身近なもの(例えば自分の手)を描くことによって、わかっているものの空間構造を捉えなおすことから始まる。著者は手を描くとき、指の輪郭から描かない。「見たまま」をなぞるのではなく、指の骨のつながりを最初に、次に骨を肉が埋めるように描くことをアドバイスしている。本には収録されていないが、「手を描いてみましょう」が分かりやすい。

 時事的な話題にも、この粋は生かされている。静かすぎるハイブリッド車に警告音をつける試みに対し、「新しい警告音」はよくないと批判する。だから、チャイムやメロディといった新規のものではなく、むしろ従来の「エンジン音」にするべきだという。なぜなら、街はさまざまな警告音に満ち溢れており、新しい「メロディ」はあっという間に聞き慣れてしまう。しかし、聞きなれた音の「変化」には意外なほど敏感なのだという。たとえば、電車の轟音でも平気で居眠りしていた人が、停車して少し静かになるとハッと目を覚ますことがある。同様に、エンジン音そのものは意識しなくても、その強弱によって、車の位置と動きを無意識に見張っているというのだ。

 この場合、「見張る」というより「聞きつける」「聞きとがめる」といった感か。たしかに、「そこにクルマがいる」ことは目で見ているが、「そこに『動いている/動く可能性のある』クルマがいる」ことは、そのエンジン音を耳で(肌で)感じ取っている。クルマの存在感をテーマにするならば、そのボディの形状や大きさに目を向けがちだが、その本質はエンジンで動く鉄塊だ。ハイブリッド車ではなく、完全電気自動車になっても、エンジンではなくモーター100%になっても、かなりの間、この本質はそのままでありつづけるに違いない。「わたしたちは、(自分が思っている以上に)車のエンジン音で身を守っているのです」という視点は、斬新かつ(気づかされると)当然に見えてくる。

  Suicaの読み取り面は、デザインの本質がカタチになった好例だと思う。さぞかし実地で試行錯誤してきたかと思いきや、そうでもないらしい。パターンを決めて、ある程度絞り込むことで、実験(=実地試験)を減らすことができる。Suicaの読み取り面の本質は、毎日使うようになっている人なら、よく分かっている。すなわち、「アンテナ面に当てる」ことと「一瞬とめてくれる」ことだ。問題は、これを慣れていない人にも促すカタチになっていること。こちらにアンテナ面を向けて、歩きながら「タッチ」をアフォードする角度が、13.5度を導いている。

 実はアレ、日常的に使っている人ならタッチしなくても大丈夫なことは知っているだろう(10センチぐらい上空でも認識した)。問題は、アンテナが読み取れるだけの「間」をおくこと。だから13.5度はタッチというよりも、近づけること、近づけることで「間」をおくことをアフォーダンスしているのかもしれない。

 あたりまえすぎて見逃してしまうことや、一定枠にハメて思考停止するようなことを、その前提から把握しなおす。著者がデザインした携帯電話は非常にユニーク&腹に落ちる例だ。携帯電話は、電話の進化として「いつでも」「どこでも」通話ができる目的で開発されたが、新しい価値は別のところにある―――すなわち、「個人情報の保持と発信」にあるという。携帯電話がこれまでの家電製品と一線を画しているのは、「自分の素性を明かしてからでないと買えないこと」を指摘し、携帯電話の本質は「私」と密接に結びついた機械だと喝破する(携帯電話は、「購入」ではなく「契約」するもの)。

 そして、「私」個人をデザインしたものとして、カギ(物理的な鍵)を考案する。つまり、ヒンジの部分がロックできる二つ折りの携帯電話をデザインしたのだ。ヒンジ部にキーを差し込んで回すことで、ロックが解除される仕掛けとなっている。残念ながら商品化には至らなかったが、指紋認証機能がその本質を受け継いでいるね。

 デザインの現場を通じ、本質を再把握する姿勢から学ぶことができる。手や手帖に書いておかなければならないほど重要なのは、「二律背反を疑え」だね。どちらも大切だと思っていることの二者択一を迫られるときは、一つを採り一つを捨てるしかない状況そのものを根底から疑え、というのが著者の考えだ。二つの選択肢しか見えない状況に自分を縛ってはいないか、そもそもなぜその二つなのか?そこを疑えという。「アイデアは二律背反を疑うところからはじまる」は、至言だ。

 ブログを「本」化するとき、こうした至言は根のように残る。時間軸で見ると部分的だったり進行中だったりする話が、テーマごとに伸びてゆくのをあらためて読み直すと、最初からこの本こそを目的として書かれたかのようだ。ブログを本にすると魅力が薄れるのが常だが、本書は逆で、より惹きつけられ・完成されている。書き手の悪戦苦闘から、自然に、「デザインとは見る習慣・訓練である」フィードバックを何度も受け取れる仕掛けが施されている。書き手のセンスと編集力の勝利やね。

 デザインの骨格をつかまえる一冊。


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