上善如水『細雪』
900ページの長編なのに、するすると呼吸をするように読み干す。ああ、美味しい。一文が異様なほど長く、描写と感情を読点でつないでいる。パッと見、読みつけるのが大変かと思いきや、全く逆。読点のリズムが畳み掛けるように囲い込むように配置され、単に「読みやすい文章」というよりも、むしろ読み進むことを促されるような構成となっている。お手本のような小説だ。
そして、ひたすら面白い。大阪の上流家庭が舞台で、大きな事件も起きるのだが、圧倒的に紙幅が割かれるのは、淡々とした生活習慣や、家族の恒例行事になる。その、ちょっとした挙措や応接ににじみ出る感情のゆれや成長の証がいとおしく、思わず知らず口がほころぶ。ジェットコースター小説や、トリッキーな話ばかり食傷してきたが、読むことそのものがこんなに美味しいなんて!あらためて感謝する。誰に?作者に?
むしろ日本語に、だ。日本語が、これほど艶やかで美味しいなんて(知らないとは言わないが)忘れてた。花見の宴や蛍狩のシーンは、読んだというよりもその場にいた。谷崎は桜のひとつひとつを描写しないのに、花弁の輝きは見える。谷崎は闇の色合いばかり濃密に描くのに、息づくように蛍が明滅する様は見えるのだ。ふしぎなことに、雪が降るシーンはなかったはずだが、桜・雪・蛍と、輝きがつながる。
そして、このイメージは、主人公の三姉妹、幸子、雪子、妙子に照応する。女ざかりの爛漫とした幸子、儚げで消えそうな日本美人(でも頑固)な雪子、生き急ぐかのように明滅する妙子―――わたしは、どの子も好きになった。雪子の見合い話が物語の骨格なので、自然と雪子の和風な美しさに目を奪われる。しかしそのうち、恋愛事件をくり返し、独立や留学を志して奔走する妙子の、モダンな魅力に惹かれる。読み終わった後では、二人に翻弄されながらも愛おしむ、幸子がええなぁ、と思えてくる。ちなみに、三姉妹のさらに姉、鶴子がいるが、「本家」として東京で暮らしており、外の存在として扱われる。
いかにも谷崎潤一郎、といえる美エロシーンがある。ビタミンB補給のために、姉妹が互いに注射針を突き立てあうのだ。雪子と妙子は生娘なので、もちろん針は男根のメタファーだと勝手に納得して読む。いちばん好きだったのは、姉の爪を妹が切る、という場面。
貞之助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑を、妙子がスカートの膝をつきながら一つ一つ掌の中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、また襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた。そして、この姉妹たちは、意見の相違は相違としてめったに仲違いなどはしないのだということを、改めて教えられたような気がした。
貞之助は幸子の夫、義妹たちが爪を切っているのにたまたま居合わせるという設定だ。だが、そのシーンを読んでいるわたしには、一緒に窃視しているように思えてくる。いわゆる萌えシーンやね。
ストーリーテラーは幸子だと思って読むといい。空気読みすぎ、体面を気にしすぎで、思わぬ方向へ話が転がってゆく。思い違いと行き違い、幸子と一緒にやきもきさせられる。トリックスターは妙子だな。話が大きくうねるとき、その転換の起点に妙子が必ずいる。ちょっとした衝突から、人死にが出るようなこともある。右往左往したり不甲斐なさに涙ぐんだりするだろうが、結局は、「なるようになる」。雪子の見合いがそうで、周囲があれこれ手出し口出しするよりも、自然に任せるほうがうまくいく。"Que sera sera" もしくは "let it be" だ。水が器に従うように、落ち着くところへ落ち着く。
文の巧さや構成の妙に感心するのは早々にやめて、完全に物語に没入させてもらう。物語に陶然となる、なんて久しぶりだ。谷崎潤一郎は、天才やね。飲むように酔うように、読める。わたしは、上善如水と一緒に読み干したぞ。ぜひ、傍らにお気に入りの一杯を用意して。
日本人でよかった、日本語が読めてよかった、桜が好きで、富士が好きでよかった───と、しみじみできる一冊。
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コメント
ネットサーフィンをしていて、9時ごろにこのブログを見つけました。
「こんな本もあるのか、ほう、こんなのも!これは凄い、この作者にはこんな一面もあったのか!この本は読んどきたいなぁ」
等と繰り返しているうち、こんな時間になってしまいました。大変楽しませてもらいました!
谷崎潤一郎はスケベ描写と萌え描写が大好きですが、美しいものの描写はとりわけ僕の大好物です。
この記事以外にも色々と読ませてもらったのですが、僕が好きな本で恐らくまだ紹介されてない本がままありました。(当たり前ですね)
そこでいきなりこんなこと言い出すのはおこがましいとは思うんですがニつほど「オススメ」させてください。まずは三浦建太郎さんの漫画「ベルセルク」。卓越した画力はさることながら、人物の描写もずば抜けて上手いです。世界観はお読みになっている本を考えるときっとはまると思います。あえて内容については多くは語りませんがもしかしたら劇薬漫画とはいわないまでも・・・少し心に響くかもしれません。
二つ目は弐瓶勉さんの漫画全般です。作品名で言うと特に「ブラム」や「バイオメガ」等の初期の作品がオススメです。ハードコアなSF作品ばかりで、決して読みやすいものではありませんが、スピード感の表現やSFらしい途方もない時間と空間の表現はメチャクチャかっっちょいいです。
気づいたら漫画しか薦めてませんね。長文失礼しました。
投稿: tontoko | 2011.02.03 03:24
>>tontoko さん
濃いくちのコメント、ありがとうございます。
「ベルセルク」は序盤の、ガッツの過去話あたりで止まっています。というのも、「グイン・サーガのようになるのでは(未完症候群)」と心配したので。
弐瓶勉はアフタヌーンで「BLAME!」を連載当初から読んでいました―――過去形でいうのは、いつからか、アフタヌーンを読むのをやめてしまったからです。「ああ女神さまっ」とか「無限の住人」とか、完結したのかしらん。
投稿: Dain | 2011.02.04 01:24