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「初秋」は息子に読ませたい

 文句なし傑作。

初秋 ジャンル的にはハードボイルドだが、大人と少年の交感ものとしてジンときたし、ビルドゥングスロマン(成長譚)とも読める。本書はスゴ本オフ@ミステリでやすゆきさんが目ぇウルウルさせながらオススメしてたので読んだんだが、正解ですな。

 離婚した両親の間で、養育費の駆け引きの材料に使われている少年がいる。心を閉ざし、ぼーっとテレビを見るだけで、周囲に関心を示そうとしない。私立探偵スペンサーへの最初の依頼は、「父親に誘拐された息子を母親に取り戻す」だったはずだが、放置され、ニグレクトされた少年に積極的に関わろうとする。そのスペンサー流のトレーニングがいい。

「おまえには何もない。何にも関心がない。だからおれはお前の体を鍛える。一番始めやすいことだから」

ときには突き放し、ときには寄り添う。厳しくてあたたかい、という言葉がピッタリだ。これは二色の読み方ができて、かつて少年だった自分という視線と、いま親である立場というそれぞれを交互に置き換えると、なお胸に迫ってくる。少年が無関心という壁をめぐらすのは、自分を守ろうとする態度。その防御壁が一気に崩れ去るところは、ちゃんとハードボイルドしている。いっぽう、やったことがない父親役を買ってでたスペンサーは、妙な距離をおきつつ、「大人になること」を叩き込もうとする。

 年をとるのは簡単だが、大人になるのは難しい。そも「大人になる」とはどういうことか、わたしの場合、親するようになってようやく分かった。そして、その答えがスペンサーと一緒なので愉快になった。大人になるということは、「できることをやる」。体を鍛えて強くなり、大切なものを守るとか、料理や洗濯など、自活できるようにするとか、あるいは、得意や興味を伸ばして収入を得るといったことも大切だ。だが、もっと根っこのところについて、スペンサーはこう述べる。そのいちいちが、かつての自分自身に言い聞かせているように見える。

「いいか、自分がコントロールできない事柄についてくよくよ考えたって、なんの益にもならないんだ」
「なにか重要なことについて、例えば、お父さんがまた自分を誘拐しようとするかもしれない、といったことについて考えるときは、彼が試みるかどうかについてあれこれ考えるよりは、彼が試みた場合にどうすのがいちばんいいか、とうことを考える方がいいんだ。彼がやるかどうか、きみには判断できない、彼の考え次第だ。きみは、彼が試みた場合にやるべきことを決める。それはきみの考え次第だ。わかるか?」

 自分の方向(運命、将来、状況、環境…)について、あれこれクヨクヨ思い悩むのを、「考える」とか「検討する」と思っている人がいる。それは、「考え」ていることにならない。自分が改善できることや、自分が影響を与えることができることを見極める。そして、自分ではコントロールできないことは極力「考え」ない。「たられば」については、可能性×影響度の高い順にその対策だけを講じておく───要するにリスクマネジメントやね。人生がままならないものなら、ままなるものを注視・注力しよう。これについて、イチロー大兄がうまいこと言ってた。打率争いをしている他の選手についてコメントを求められたとき、こう答えたという。

「自分でコントロールできるものとコントロールできないものを区別し、自分がコントロールできるものだけに集中する」

 この方法は応用が利く。Tumblrで拾った名言に、こうある「つらいことがあったら、事実と解釈を分けよう」……たしかに。事実はコントロールできないけれど、解釈はできる。事実をどう捉えなおすかによって、次のアクションが打てるかもしれない。少年・ポールは、スペンサーの導きで、自分が置かれた状況を捉えなおす。もろ肌ぬいだスペンサーの活躍は、いささか出来すぎているかもしれないが、そこはそれ、ハードボイルドのお約束。

 これは、中学ぐらいになった息子に読ませてやりたい。きっと少年の情感に寄り添った読書になるだろう。そして、息子が成長し、子どもを持つようになったら、もう一度読ませてやりたい。スペンサーの視線になっているだろう。

 子どもの目線と、大人の目線と、両方で読むべし。

  

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「スゴ本オフ@最近のオススメ」のお誘い

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 好きな本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフのお知らせ。

 SF、恋愛、POP、ミステリ……毎回テーマを決めてきたけど、今回はノンジャンルで、最近のオススメにします。あれこれテーマを選んだり、決まったテーマで脳内・本棚ブック・ハントもまた楽し。悩ましい楽しみなのだが煩わしいことも事実。なので間口を広げて、

   最近(ここ一年)読んだ中で、「これイイ!」というもの

を持ち寄り・紹介しあいましょう。業界の回し者のように、「2010年に出版された新刊」とかの縛りはありません(新刊恐怖症は煽りません)。10年前の本でも、1世紀前に出たものでも、あなたが読んだそのときが new! なのだから。

 日時 3/4(金)19:00開場、19:30~21:30
 場所 麹町のKDDI Web Communicationsさんの会議室
 参加費 千円(軽食と飲み物が出ます)
 終わったら有志で飲会へなだれ込みます(懇親会は三千円程度)

 申込方法は、こちらからどうぞ→3/4 スゴ本オフ申込みフォーム(締め切りました) 簡単な自己紹介を添えて、やすゆきさん(@yasuyukima)にtwitterかfacebookでメッセージを飛ばしてください。 twitterもfacebookも入ってないぜ、という方は、わたしにメールを送ってください(右上のプロフィールからどうぞ)。 twitterやメールですでに申し込まれた方は、フォームから再度申し込む必要はありません。

 よくある質問と答えは以下の通りです。

  1. 「勉強会なの?」→【非】勉強会です。好きな本を持ち寄って、みんなで語り合う会です。本を介して新たな読み手を知ったり、人を介して知らない本に触れるチャンスです
  2. 「マンガとかあり?」→ありです。テーマに沿っていれば、小説、コミック、エッセイ、ハウツー、詩歌……なんでもOKです。重要なのは、その本への思い入れなのです
  3. 「ブックシャッフルって何?」→「本の交換会」です。オススメ本をランダムに交換しあいます。交換する本は「放流」だと思ってください。「秘蔵本だから紹介はしたいけれど、あげるのはちょっと……」という方は、「紹介用」と「交換用」、別の本にしてください
  4. 「ネットに公開するの?」→ネットで広がります。Ustream/Twitter/Blogで、オススメ合いをさらに広めます。抵抗がある方には、「見てるだけ」「透明人間」も配慮します
  5. 「オススメがかぶったら?」→よくありますが、無問題です。大事なのは、その本がいかに自分にインパクトを与えたかですから

 2010/04/07 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
 2010/05/14 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
 2010/07/16 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
 2010/08/07 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
 2010/08/27 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
 2010/10/20 スゴ本オフ@赤坂
 2010/10/23 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)
 2010/12/03 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@ミステリ

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タイトルは釣り「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」

 タイトルに釣られたものの、じつに愉しい読書だった。

もうすぐ絶滅するという紙の書物について 最高峰の知識人ふたりの、書を愛でるウンチクをたっぷり味わう。本好きにオススメ。これは、「物語を消費するのが好き」とか、「情報を吸収するのが好き」という意味ではない。消費や吸収なら、アニメやネットでイケるでしょ(「本」じゃなくて「画面」でおk)。そうではなく、「本を読むのが好きな人」なら、ニヤニヤしながら読むだろう。

 本書は、ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの対談集。「薔薇の名前」「フーコーの振り子」の原作者エーコと、「存在の耐えられない軽さ」「マックス、モン・アムール」の脚本を書いたカリエール、どちらも最高の作家であり読者だ。

 そんな二人が、「電子書籍は本を滅ぼすか」について、開始30頁あたりで早々に結論を下す。勢い込んだ読み手には、ひょうし抜けするほどあっさりしてる。

ですから、「電子書籍」が書物を滅ぼすことはないでしょう。グーテンベルクが印刷術という素晴らしいものを発明した後も、ひきつづきコデックスが用いられ、パピルスの巻物やウォルミナが売り買いされたように、さまざまな実用と習慣が並存し、選択肢が広がるのは願ってもないことです。
 電子書籍を、デジタルカメラの比喩で予想する人がいる。要するに、フィルムカメラがデジタルの波に飲まれたように、電子ブックは紙の本を駆逐するというのだ。だが、われらがエーコ&カリエールは違う考えだ。「映画は絵画を滅ぼしませんでした。テレビは映画を滅ぼしませんでした。ですから、画面ひとつで世界中の電子文書にアクセスできるタブレット型のブックリーダーだって大歓迎なのです」なんていいだす。むしろ大事なのは、画面上で本を読むようになることで、これまで本のページを繰りながら得てきたものが、どんなふうに変わってゆくのかを知ることなのだという。

 二人はむしろ、本を、車輪のような、それにまさるものを想像できないほど完成された発明品だと考える。モノとしての本は、自転車やメガネ、スプーンやハサミと同じような存在だという。もちろん材質やデザインの点で変化はあるだろうが、本質的な機能や構造は、それ以上うまく作りようがないとまでいうのだ。

 その本質がコデックスなら、グーテンベルク以前も以後も「本」はあったし、これからもそうだろう。でも「紙」の本は?という問いには直接答えるのではなく、カウンターパンチを食らわせる―――曰く「耐久メディアほどはかないものはない」と。つまりこうだ、情報や個人の記憶を長期間保管できるものと見なされてきた、一連の記憶媒体の歴史を振り返る。フロッピーディスク、カセットテープ、CD-ROMなど、既に見向きもしなくなったメディアについて昔話を始める。

 たとえば、「フーコーの振り子」の初稿は1984年にフロッピーに保存したはずだという。あの時代なら5インチだろうから、読むならスミソニアンまで行かなければならぬ。しかもなんと、その初稿のフロッピーを失くしてしまったのだそうな。負け惜しみのように「タイプライターで打った原稿なら、今でも手元にあったはずです」というが、理解できる。学生のときワープロで打った卒論のフロッピーはもうないけれど、印刷したやつはダンボールに突っ込んであるから。

 ここからわたしの妄想。紙の本の他に、(もともとは紙メディアだった)デジタル化された「本」が普通になると、デジタル化された本の寿命はメディアの寿命に左右されるだろうね。たとえば、ほとんどのコミックはデジタルで流通し消費され、「モノとして残したい」欲求を叶えるために紙化されるだろうね。その瞬間、紙化された本は延命することになる。反面、本じゃなくてもよかったものがどんどんデジタル「本」になると、記録方式を越えて引き継がれるためには、『本』である必要がでてくるわけだ。

 この顕著な例が、古典だ。著作権という制約もあるが、「コンテンツの寿命>メディアの寿命」となる古典を考えると、読まれる度に新しくなる強さを思い知るね。

 古典はあらゆるメディアに染み出していると言える。CD-ROM本になったのは、「ダ・ヴィンチ・コード」ではなく、「シェイクスピア全集」だし、オーディオブック化されるのは古典と相場が決まっている。源氏ひとつとっても、それぞれの時代の、「現代語」訳者が違うし、ドラマ化、映画化、メタファー、オマージュ、インスパイア、本、巻物、襖絵、塗りから歌、詩、唱、フィルム、LP、FD、CD、カセット、VHS、DVDそしてブルーレイと、さまざまな読み、読み方が提案され翻案されて、それぞれの時代の先端メディアに乗って流通する。電子書籍を「ブーム」だけで終わらせないためには、コンテンツのチャネルが「増えた」という視点が必要だね。青空文庫のテキストに限定せず、音声や画像も盛り込んだ「iPhoneで読む源氏物語」という サービスが生まれるだろう。

 妄想おわり。次々と繰り出されるウンチクに巻き込まれるうち、読んでるこっちも触発されるのだ。面白いねぇと反応したのが、「本を読むときの視線」。そういや、松岡正剛氏も、一流の作家は一流の読者でもあるから、その「読み方」「本の触り方」「本の愛で方」を撮影・録画しておけ、だなんて言ってたな(「読書とはなにか」まとめ)。カリエールは、読むときの視線を、書くときの視線に置換して考える。たとえば、フランス語や英語なら左から右だろうが、アラビア語やペルシャ語は右から左に動くことを指摘する。そして、この動きがカメラの動きに影響を与えているのではないかと仮説を立てるのだ。例として、トラベリング・ショット(カメラの位置を移動させながら撮影する技術/traveling shot)を挙げている。西欧のトラベリングが左→右がほとんどだというが、ちょっと注意してみよう。

 この、本を読むときの癖がその文化圏のものの見方に影響を与えている可能性を考えると、愉しい。本能的に目がそう動くのが、文化により縛られるのだ。遺伝のように引き継がれるのか、面白い。「マンガはなぜ面白いのか」を読んだとき、カンディンスキーの絵画論があった。描かれた人物の「向き」に比喩が隠されているというのだ。つまり、これから事件に(未来に)向かってゆく主人公は、たいてい左を向いている。これは、「左に向かって読んでいくことが左を進行方向とし、右を逆進や戻る方向として受け取るという、暗黙の了解を成り立たせているというのだ。宇宙戦艦ヤマトが左向きなのは、日本語のコンテンツだからという仮説だね。きちんと数えたわけではないが、「WATCHMEN/ウォッチメン」のキャラクターは右を向いた顔が多かったような気が(左を向くときは、「振り返る」動作だったような…)。次に読むときに気をつけてみよう。

 「本」の達人だからこそ、「言語の寿命」のスケールもデカい。「日本語が滅ぶ」と声高に叫ぶ連中の目線はせいぜい数十年。あたりまえだ、自分が生きたスケールでしか測れない想像力しか持ち合わせていないから。だがエーコは数百年、数千年のスパンでメッセージを伝える手段を考える(ケタ違いだね)。

 たとえば、「放射性核廃棄物質を警告する方法」が面白い。核廃棄物の放射能は一万年持続するという。厳重に格納しておくとしても、そこへ侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばよいのかが問題だ。二、三千年たったら、読み解く鍵の失われた言語が出てくる。現在は英語をはじめ何十ヶ国語で「危険」だの「近づくな」と警告しているだろうし、絵文字や記号もあるかもしれない。

 しかし、厳重に囲めば囲むほど、「何か価値があるもの」というメッセージを出しているのと一緒だ。使われなくなった言語の末裔か、さらには宇宙や未来からの来訪者たちがやってきた場合、どのように「警告」すればよいか?NASAが依頼した言語学者の結論は、「どのような言語も絵文字も有効ではない」だ。言語は失われたらおしまいだし、絵文字はそれが生まれた文脈の外では理解されえないという。

 エーコの解決策はシンプルだ、反転表示にしよう。

一番上の層では廃棄物を希釈して放射能を微量にし、その次の層ではもう少し放射能を強くする、というような埋め方にするのです。もし来訪者たちが、誤って、手もしくは手に相当する器官を、廃棄物の埋まった土地に突っ込んでも、指の骨を一個失うくらいですみます。それでもしつこく続ければ、指を一本は失うかも知れません。しかし、そのくらいで諦めるだろうと確信できます。
 こういうケタ違いのスケールに曝されていると、「日本語が滅ぶ!」とか「最近の若者の言葉づかいが!」とかいう爺婆があわれに思えてくる(エーコもじいさんだがw)。危機感を煽って売りつけるマッチポンプは商売の基本なので、商売っ気のないエーコ爺さんならではともいえるな。

 このように、「本」を物質としてのメディアとみたり、数千年に渡るメッセージとみたり、はたまた「発明品」という位置づけで歴史の文脈においたりする。そのたびにわたしは、ハッと気づかされたり妄想バブルを膨らまされたり、かなり忙しい読書だった。この二人、筋金入りの書痴でありながら、「本」をかなり自由に考えているね。

 さまざまな「本」の読み替えがユニークだが、本棚を「ワインセラー」として比喩したのには膝ポンだった。本の達人だから、積読なんてもってのほかなんてくるかと思いきや、「本棚はワインセラーです。入れておくのは、読んでも(飲んでも)いい本か、読んでも(飲んでも)良かった本です。そのまま一生読まないかもしれませんけど、それでかまわないんですよ」という。「話題の」本を三年後に読んだっていいじゃないか、と新刊恐怖症に対抗するメッセージをもらって元気付けられる。

 原題を直訳すると「本から離れようたって、そうはいかない」だそうな。タイトルはかなり「意訳」だが、この釣りに掛かるような本好きなら大満足の一冊になる。喜んで釣られろ。

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現実をスウィングしろ「宇宙飛行士 オモン・ラー」

 これは傑作。現実からすべり落ちる感覚を満喫する。

宇宙飛行士オモン・ラー ベースは30年前の冷戦時代。米ソの月探索競争を背景に、宇宙飛行士を目指す若者・オモンが語り部だ。現体制を守るため理念や思想が自己目的のお化けとなるトコなんて、いかにもソヴィエトらしくて笑える。だが、ステレオタイプな「ソヴィエト」に心許してると、裏をかかれる。現実から感覚がズれてしまう。

 この感じは、「止まったエスカレーター」だ。ふつうエスカレーターは「流れて」おり、わたしはタイミングよく「乗っかる」ことで運ばれてゆく。ところが、点検か停電で止まった状態のエスカレーターで上ろうとすると、体と感覚のバランスが取れなくなる瞬間がある。目に入るのは「エスカレーター」なので、体を自然に「流れ」に合わせようとしてフラッとなるのだ。

 同様に、「戯画化されたソヴィエト」や、「一人称のお約束」に沿って乗っていこうとすると、オヤッ、フラッとなる。わたしが「現実」だと考えていたものが、「わたしが現実だと考えていた」ものに横すべりする。世界はそのまま(に見える)のに、認識だけがズれていく感覚にとらわれる。だいたい、主人公であり語り手であるオモンからして、知覚を捏造する技術を習得している。さらに、自意識に自信がもてない瞬間が出てくる。気絶するように眠って、目が覚めたらぜんぜん違う場所にいたと報告したり、平気で「いま」「ここ」と少年時代の夏を同一視する。

 でんぐり返った先が非現実的だったら、まだ分かる。マジック・リアリズムとはまさにそんなもので、リアリズムに満ちた語り口で途轍もないホラを吹く。だが、もともとのソ連が悲惨な現実として描かれているため、「悪夢から目覚めたら地獄だった」カフカ的展開となる。いや、カフカならファンタジックな逃げもあろうが、ズれてはいてもリアルなのだ。狂っていても、体制維持という目的には合理的な不条理を飲まなければならないのだ。

 この黒い笑いは、ヘラー「キャッチ=22」や、ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」と同じツボを突く。前者の、「自分が狂人であることを証明できるのであれば、それは狂っていないという証拠であり故に狂人ではない」。あるいは後者の、「悪魔を現実に投げ入れたら、人は、悪魔付きの現実を認めるが、悪魔そのものは認めようとしない」を思いだす。オモンが、「ほんとうの」英雄、「真の」宇宙飛行士となるためには、「ハリボテの」体制を自分の血と肉でもって埋めあわせなければならない。ジレンマの笑い、いや笑いのジレンマか。奥歯にモノ挟まっているようなしゃべり方をしているのは、ネタバレたくないから。ちなみに見返しやamazon紹介はかなりネタバレだから、見ないほうが吉。

恐怖の兜 著者ペレーヴィンが仕掛けてくる「現実への揺さぶり」は、読み手にまで効くようになっている。世界なんて、「わたし」というウツワの観測範囲から定義された「現実」に過ぎないのだ。この、入れ子細工の現実というテーマは、「恐怖の兜」でもいかんなく発揮されている。これは、バラバラに閉じ込められた男女八人が、部屋にあるパソコンでチャットするという、「チャット小説」だ。一種の脱出小説でもあるのだが、脱出した先で読み手が迷宮に取り残される気分を味わうだろう。曰く、「ここはどこ?」「わたしは誰(だったんだ)?」ってね「恐怖の兜」

 ロシアン・ブラック・ユーモア、極上の黒い笑い、そして現実のスウィング感覚を、堪能あれ。

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「奇想の美術館」はスゴ本

 博覧狂気マングェルの絵の読み方。

奇想の美術館 完全にタブラ・ラサの状態で芸術に触れることは、不可能だ。プラトンによれば、あらゆる知識は記憶にすぎないし、ソロモンにいわせると、新しく見えるものは、すべて忘れられたものでしかない。わたしがある形状や色彩を知覚する際、それらは既に知覚済みの領域に反応しているにすぎない。

 われらがマングェル、当然そんなことは百も承知。第一に、「描かれたもの」、自分が目にした図像、イメージから記憶を呼び覚まそうとする。たいていは幼い頃の思い出だったり、ハマった小説にまつわる風景だったりする(マングェルは<たぶん>世界一の読書家だ……生きてる人の中で)。

 だから読者は、マングェルの記憶から堀りだされる数多の小説・論文・エッセイに面食らうかもしれない。絵の話が文学になり歴史に転がってゆくから。描かれたオブジェクトの一つ一つが何を象徴しているかを汲み取るためには、美術史と図像学の知識が必要だ。だが、マングェルは臆することなく踏み入ってゆく。

 あるときは探偵のように、自ら発見した手がかりを元に、画面に隠された意味を一つずつ解き明かしてゆく。そしてあるときは物語作家のように、手がかりを踏み台にし、イマジネーションの両翼を存分に広げる。ミステリーを解くようなスリルと、ファンタジーを読むような幻惑を覚える。物語は時間のなかに存在し、絵画は空間のなかに存在する。「描かれたもの」を元にして、マングェルは時間と空間の両方に分け入ってゆく。

 第二に著者は、「描かれていないもの」に着目する。描かれていないオブジェクトに、どうやって目を着けることができるのか。マングェルのアプローチが面白い。まず、画面の空白部分に目を向ける。ポール・セザンヌの「青い壷とワインの瓶」を例にとり、配されたオブジェクトよりも、そこにあたった光のように処理されている───いや、描かれていない紙の地の部分───に注目する。そして、セザンヌのその絵に対するリルケの指摘を引いてくる。「セザンヌはそのりんごの自分が知っている部分だけを描き、まだよくわからない部分は空白のまま残したのだった」という。認識を超えたものは表現を保留するという考えに痺れる。

ここでウィトゲンシュタインの「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」を持ってくるのは安直だろう。わたしの拙速を揶揄るかのように、ジョーン・ミッチェルやポロックのような抽象画をもってくる。画面に何が描かれているのか、何を画家が伝えようとしているのか、さっぱり分からない。「そこに意味を求めようとする姿勢」に着目する。モチーフとして選ばれたことの理由や動機、作品にこめられた物語を読み解こうとする無意味さを指摘するのだ。

 そして、絵を見る楽しみは、何が描かれているかを理解するだけでなく、どのように描かれているか、つまり純粋な色彩やリズムやマチエールを感じ取るところにもあると主張する。さらに、不在そのもの(描かれていないもの)を感じ取ることにも意味があるとまで踏み込んでくる。what じゃなく how を楽しむこれは音楽を聴くのに似ている。主旋律から感情や動きを解釈するよりも、むしろメロディーそのものに身をゆだねるのだ。

 描写不能のものは、最初から描くことは不可能だ。しかし、それでもあえて人に伝えようとするならば、絵筆や楽器といった表現の手段から超越し、言語という認識の方法の外側で製作しなければならない。言語化可能ということは、その言語によって認識が歪められるか、あるいは束縛されているのだから。見るものが「解釈したい」という強い欲求によって、作品がムリヤリ解釈可能なものへ変形されてしまうことを、本能的に恐れていたのかもしれぬ。

 著者はウィトゲンシュタインではなく、ブッダのエピソードで喩える。下位の神々の一人が、ブッダをまねて、競走馬を作ろうとしたが、できたのはラクダだったという。

自分たちの理解や方法論が正しいと信じ込んで、自己欺瞞に目をつぶったまま、あくまで芸術の本質を解読しようとすれば、私たちにできるのは、せいぜい自分たちのお粗末な知識と経験を通じて、自分が受けた印象を貧弱に再現することだけである。それは私たちがでっちあげた卑小な物語であり、その絵が伝える本当の「物語」ではない。じつに似て非なるものである。

 理解不能のものを表現すれば、それは理解不能のものとなるのだ。

 第三に著者は、写真をもちだしてくる。炎上するヒンデンブルク号の有名な写真や、カリフォルニア移民の悲しみに沈んだ肖像写真を例に、レンズという目を通して、過去が同時代のものになり、写真は現実を大衆化したのだと述べる。同時に、写真と現実の決定的な違いを指摘する───写真と違って、現実にはフレームがないのだ。視線はあちこちにさまよい、(写真にしたら余白となる)外にあるものまでが見える。ところが、いったん写真にするということは、目に見えている「現実」を記録する一方で、カメラの本質として、目に見えないものをつねに示唆し続けることになる。

 カメラマンが切り取るべきフレームを選んでいること、その光と影のコントラストはカメラマンの意図したものである延長上に、写真へのなんらかの操作(から明らかに改竄と呼ばれるものまで)が許されてしまっているというのだ。笑顔のタイミングを狙った一枚であれ、photoshop のチカラで別物に仕立てた画像であれ、「写真」と呼ばれる。どこからが「写真」でなくなるかなんて境目なんて、無い。

 あらゆる写真の基盤には避けがたい欺瞞がある。写ったものを「現実」とみなしてしまう思い込みに、この欺瞞は依拠している。意図的に検閲されたものであれ、無意識のうちに操作された構図であれ、さらに人為的に合成されたものであっても、カッコつきの「現実」だと信じ込んでしまうというのだ。これは、わたしたちが鑑賞する対象に物語(や説明)を求めたがる欲望に支えられている。「理解したい」欲求は、たやすく餌に飛びつく。

 ここ連日、TIME の photoessays を眺めている。エジプトのカイロに集う人々を撮影した何百枚という画像だ。最初は、撮影者の意図に沿ってproとantiと軍を見ていたが、そのうち、フレームの外にあるはずのモノを探すようになった。たとえばトイレ。あれだけの人が一箇所で抗議行動をしているわけだから、当然トイレに行きたい人も出てくる。タレ流しだろうが、その画は見えない。先日みつけた一枚に、"Civic Duty : cleaning up the mess that was left behind" とあるが、ンコのことかなぁと推察する。

 同時に、あれだけの人が集まっているということは、その人の普段の場所は、「不在」のままだろう。職場であれ、コミュニティであれ、フレームの外の人は、その不在性を強く意識するはずだ。テレビやラジオや新聞や、ネットやメールやケータイでつながろとするだろう。写真の欺瞞性は承知していたが、マングェルのこの文章を通じて、フレームの外の写っていない部分まで想像(創造?)するようになった。分かりやすいからこそ、(撮影者の意図を)受け取りやすいからこそ、用心して想像しなければならない。なんというパラドクス。

 マングェルは、さまざまな種類にはっきり示された、あるいはこっそり隠された物語を見つけては楽しむ。さらに、表現不可能・認識不能の対象まで想像・創造をめぐらせる。イメージを言葉に翻訳し、言葉をイメージに翻訳することで、一種の文体をつくりだし、世界と自分を把握する。イメージによって私たちは作られているとまでいうのだ。この世界をかたちづくるイメージの実体は、ひょっとすると空虚で、そこにわたしたちが自分の欲望、経験、疑問、後悔を充満させているだけかもしれない。それでもわたしは、目をむけ、耳をかたむけることをやめない。なぜなら、知覚することで自分を理解するために、やめるわけにはいかないのだから。


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スゴ本オフ(3/4)申込みについて

3/4のスゴ本オフの申し込みは、twitterかFacebookでやすゆきさん(@yasuyukima)に@飛ばしてくださいませ。「twitterもFacebookも入ってないぜ」という方は、わたしへメールを飛ばしてください(このblogの右上の「プロフィール」からどうぞ)。

申込みは3/4 スゴ本オフ申込みフォームからどうぞー

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スゴ本オフ(3/4)お知らせ

スゴ本オフのお知らせ。
オススメ本をまったりアツく語り合う、スゴ本オフを開催します。

 日時 3/4(金)夜
 場所 麹町のKDDI Web Communicationsさんの会議室


 参加費 千円(軽食と飲み物が出ます)
 テーマ 2/25(金)に決めます
 終わったら有志で飲会へなだれ込みます

 まずは手帳にマルしといてくださいませ。
 過去のオフ会は以下の通り。

 2010/04/07 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
 2010/05/14 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
 2010/07/16 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
 2010/08/07 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
 2010/08/27 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
 2010/10/20 スゴ本オフ@赤坂
 2010/10/23 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)
 2010/12/03 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@ミステリ


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「生命の跳躍」はスゴ本

 How(いかに)を追って、Why(なぜ)に至る。

生命の跳躍

 分子レベルのメカニズムから、深海の熱水噴出孔の生態から、地球の歴史から、生きる営みの"わけ"に迫る。つまり、構造に理由を物語らせるわけだ。もちろん、生命現象すべての理由が明らかになっているわけではない。だが、最新の科学的解釈や研究の成果・仮説を元に、分子レベルから地球規模まで、スコープを自在に操りながら、なるべくしてなった必然と、そうとしか考えられない偶然の握手を提示してくれる。その推理の推移が大胆・周到・スリリングなのだ。

 ニック・レーンは、進化における革命的な事象を10とりあげ、俯瞰と深堀りを使い分ける。この10の革新的事例を "invention" と銘打っているのは面白い。「発明」というよりも「創造」というニュアンス。自然選択がすべての形質を厳しい検査のふるいにかけ、そのなかで環境やパートナーに最も適応したデザインが生き残ってきた。この "invention" の成果こそ、無数の選択を経ている、「いま」「ここ」の「わたし」だと考えるに、ただ驚くしかない。ここにいる「わたし」は、それなしでは世界を認識できない前提のような存在なのに、同時に生命進化の最新鋭の "invention" なのだ。

 その10の "invention" は以下のとおり。

  1. 生命の誕生
  2. DNA
  3. 光合成
  4. 複雑な細胞
  5. 有性生殖
  6. 運動
  7. 視覚
  8. 温血性
  9. 意識

 蒙を(強制的に)開かされたのは、4章の有性生殖と10章の死。要するに、「なぜセックスするのか?」「なぜ死ぬのか?」という疑問に正面から応えたもの。少数のアメーバのように、クローンでいいじゃないか。生存の観点からは最高に不合理な行為なのに、多くの生物はセックスをするのか。あるいは、どうして老いて死ななければならないのか(そしてその過程で悲惨な病気で苦しめられなければならないのか)。ともすると哲学的な応答になってしまうのを、生存闘争の視点から科学で斬り込む。

 まずセックスについて。生物である限り、変異は必ず起きる。そして、変異のほとんどは、集団全体の適応度を低下させる働きをするという。これを何度も繰り返すことによって、集団全体が衰退し、絶滅に至る。クローン生殖を行う場合、適応度を変化させる変異と、それを押さえ込む変異が、同じ子孫に起きない限り、衰退をとめることができない(と、わたしは理解した)。

 だが、有性生殖はこの窮地を救う。変異のない遺伝子をひとつの個体に持ち寄れば、変異のない個体をまた作り出せるからだというのだ。著者はユニークな喩えを用いる。2台の車が故障した場合を考える。1台は変速機がいかれ、もう1台はエンジンが壊れているような場合、修理工は使える部品を組み合わせてちゃんと走る車1台に仕立てられる。有性生殖はこの修理工のようなものだというのだ。

 さらに、クローン生殖と有性生殖を、それぞれ旧約聖書と新約聖書になぞらえているところが面白い。要するに、変異とは罪のようなものなのだ。変異率が1世代あたり1個に達すると(=だれもが罪人ということ)、クローン集団において罪をなくすには、旧約聖書のように大洪水でおぼれさせ、集団全体を罰して滅ぼすしかない。だが、有性生殖は違う、新約聖書のように。

有性生殖をおこなう生物が多数の変異を(後戻りのできない限界まで)蓄積しても危害を被らなければ、有性生殖には、健常な両親のそれぞれに多数の変異をためこませて、すべてを1体の子に注ぎ込む力があることになる。これはいわば新約聖書のやり方だ。キリストが人々の罪を一身に引き受けて死んだように、有性生殖も、集団に蓄積した変異を1体のいけにえに押し付けて、処刑してしまえるのだ。

 また、有性生殖は寄生虫対策でもあるという。捕食者や飢餓よりも、寄生虫のもたらす病気によって死ぬ可能性のほうが明らかに高いことを指摘する。急速に進化する寄生虫は、宿主に適応するのに長くはかからないし、適応に成功したら今度は集団全体に取り付き、全滅させてもおかしくない。一方、宿主に多様性があれば、一部の個体がたまたま寄生虫に耐性をもつまれな遺伝子型を備えている可能性がある(はず)。そして、そのような個体は繁栄し、次は寄生虫の方がこの新たな遺伝型への対応を余儀なくされる───寄生虫と宿主とのたゆまぬ競争こそ、有性生殖が大きな利益をもたらすというのだ。

 一種のショックを受けたのは、「死」について。医学の発達によって、たしかに人の寿命は延びた。だがそれは、既に死んでいるはずの存在を人為的に伸ばしているだけであるということが、遺伝子により証明されている(とわたしが感じた)からだ。たとえば人の場合、150歳まで生きられない。したがって、「150歳で病気を発症させる遺伝子」は、自然選択により排除できないことになる。同様に、70歳が寿命だった自然選択では、71歳でアルツハイマーを発症させる遺伝子は排除されなかったことになる。

 いま、まさに起きていることがこれで、「老い」とは、ヒトが死んでいるはずの年齢をはるかに超えてから働く遺伝子がもたらしている衰えだと定義しなおせる。捕食者や感染症などにより、統計的には死んでいるはずの個体への自然選択の力がおよばなくなっているのが「現在」なのではないかと考えるとゾッとする。主要な死因を排除する方法で伸ばしてきたが、まさにその方法により「死」がそこらじゅうに顕れている。著者はもっとスマートに「われわれは、墓場から掘り返した遺伝子に、墓場へと追い立てられている」と述べる。

 喩えの秀逸さも特筆すべきだ。「老化の原因と言われるフリーラジカルは、危険を知らせる火災報知機のようなもの。だから、そのシグナルを押さえ込むことは、火災報知機のスイッチを切ることに等しい」とか、エネルギーの伝達メカニズムで、分子から分子へリン酸塩が運ばれてゆく様子を「鬼ごっこ」になぞらえる。意識の存在を量子のふるまいによって説明しようとする説に、「量子にとってシナプスとは海だ」というたとえは腑に落ちたし、細胞の中を巨大な都市空間とみなした描写は壮麗なり。熱力学での電子のやりとりをエロティックに、「求める」「斥ける」「放出する」といった用語で書き表し、あまつさえ「熱力学とは『欲求』を扱う科学なのだ」と断ずる。この独特・ユーモアあふれるセンスのおかげで、理解が一気に深まる。

 著者の口ぶりから、科学者の楽観を垣間見るのも嬉しくさせられる。太陽エネルギーを使って水を分解し、されにはその産物をまた反応させて水を再生することができ―――水素エコノミーを夢見るのではなく、本気で目標としている。そしてこれは、近い将来、きっと成功をおさめるだろうと言い切る。人類が水と少しの日光で暮らせるようになるのも、遠い未来ではあるまいと構える───この楽観主義が、現在そして未来の科学を支えるのだろう。経済支配だとかジェネリック囲い込みとか科研費獲得の奔走とは別のもの。

 intelligent design に対しては、名指しこそ控えめだが、ずばりトドメを刺している。著者はラストで、進化を疑うのは、分子からヒトへ、最近から惑星全体へと証拠が収斂していることを疑うに等しいと主張する。これは、生物学の証拠を疑い、それが物理学や化学、地質学、天文抱くとも矛盾しないのを疑うことでもあるというのだ。そして、実験と観察の正しさを疑い、現実による検証を疑うことになる。つまり、現実を疑うのだとID論者に突きつける。残念ながらID教の方にとって、これは最後に手にする本になるだろう。だが、このメッセージは、科学に対してわたしがどんな態度をとるべきかを厳しく定義している。

 本書を手にしたきっかけは本屋オフ@丸善ジュンク堂で同著者の「ミトコンドリアが進化を決めた」を紹介されたから。「けっして簡単な本ではありませんが、読むたびに発見があります」に惹かれて「跳躍」から手をつける。@thinkeroid さんありがとうございます、スゴ本でした。p.302 の「眼の最初の原型は、藻類で生まれたのである」あたりがビビビとくると思います。

 

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集まれ!化学バカ「Mad Science」

 狂ってるとしか思えないが、美しい。
 凍った稲妻や、硬化した雪の結晶は、綺麗かつ不思議だ。ふつうなら一瞬に起きる現象を「見える化」する。オレオクッキーを燃料にしたロケットを発射したり、シャボン玉爆弾を放ったり、身の回りのものから物騒なものを作り出す。自称(?)マッド・サイエンティストである著者が、自宅やガレージでできる究極の化学実験をフルカラーで紹介したのが、本書だ。

 そもそもまえがきのところで、「この本の実験の中には、狂っているとしか思えないものがある。どう考えても狂っているものが」と断言している。そして、朱書きで、

  この本には、
  すべての実験を安全に行うために
  必要なことが
  書いてあるわけではない!

と警告する。材料や方法や実験手順が図解で示されているので、「やればできる」気に思わずなってしまう……のだが、マグネシウムリボンを強火にかけたり、ナトリウムの反応を加速させたり、ちっぽけなコインに高電圧を目一杯かけたりと、危険きわまりない。わたしのようなシロートは、写真だけでニヤニヤ楽しむことにしよう(この映像が迫力きわまりないのだ)。動画が公開されているので、わたしが一番気に入っている「凍った稲妻」をご紹介。

 これは、プラスチックの塊を駆け抜ける電荷を凍結して、電気の動きを見る実験だ。まず、アクリルに電子をぎゅうぎゅうに詰め込んでおく。そして、打ち込まれた釘を合図に閉じ込められた電子が数百ナノ秒の間に輝く枝状のスパークとなって飛び出してゆく。手の中のイナズマという不可思議な光景なり(リヒテンベルク図形
[google画像])。
 世界で一番アブない化学の授業が、安全に楽しめる一冊。

……ここから余談。これ読んで、高校3年の3月を思い出す。受験がひと段落したころ、「自由参加の実験」なるものを持ってきた。化学のセンセとしては、詰め込み授業の罪滅ぼしか、受験優先へのささやかな反抗だったのかもしれぬ。卒業単位に関係ないのだが、ヒマつぶしのつもりで挙手する。

 フタを開けてみると、センセ、わたし、女子一名(種島ぽぷら似)とお寒い限り。教科書を開けば10分で済む話を、座学、準備、実施、レポート、後片付けと手間ヒマかけたのに、残念ながら欠片も覚えておらぬ。黙々とこなしつつ、傍らの女子(種島ぽぷら似)に「なぁ、なんでこの補習受けたの?」「なんとなく……」「化学好きなの?」「べつにー」などという会話を交わす。そして幾年月が流れた、いまなら分かる、オジサンになったから分かる、あれはフラグだったんだ……さもなくば、フラグになり得たんだと。

 フラグは大切にね!

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マンガはなぜ面白いのか

 答えをずばり→「動き」が楽しい。

マンガはなぜ面白いのか 物語の盛り上がり具合と、コマを行き来する目の動き、キャラの挙動が重なるとき、わたしは喜ぶ。「コミPo!」でマンガを描く(というか構成する?)ようになって、能動的にマンガを「見る」ようになり、さらに本書を読んで、ようやっと気づいたのだ。「マンガはなぜ面白いのか」は、自分がいかに複雑な手続きを経て、マンガ文法を読みこなしているか、改めて自覚させてくれる。

 (自分で)マンガを構成うえで、かなり役に立ったのは、「コマの変化による圧縮と開放の効果」だ。コマの大きさとコマ内の人物の比で緊迫感を表し、コマの広がる方向と、人物の動線を合わせること(合わせないこと)で、開放感と示す。指摘されれば、ああ成程かもしれないが、石ノ森章太郎の作成でもって腑に落ちる。わたしが「意識して」つくると、こうなる。
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小説のストラテジー この「運動」をキーワードに、小説の快楽を追求した評論がある。「小説のストラテジー」だ。記述の対象が移りかわる運動によって「快」がもたらされるといい、アイキュロスのアガメムノーンにおける炎を例にとる。炎は描写としてのかがり火だったり、憎悪や情炎の象徴だったり、戦火そのものだったりするが、その炎が時間・空間を渡っていく運動を感じ取ることで、そこに「快」を感じるという。ただし、ラインの行き来からもたらされる運動であり、マンガの二次元とは別物になる。

 小説の線的、マンガの面的側面を表すのに、一つの小話がある。生まれたときから盲目の子が、母に向かって「見えるってどういうこと?」と問うたとき、母は「遠くのものまでいっぺんに触れることよ」と答えたという。第一行から始まって、順番に遠くまで触ってゆくことが小説を読むことなら、「ここ」からいっぺんに遠くまで見渡せるのがマンガだ。行き来の運動の快のみならず、面や空間を視線が滑ってゆくのは心地よい。

 さらに、カンディンスキー「点・線・面 抽象芸術の基礎」を引いて、描かれた人物の向きの比喩を示す。ほとんど無意識のように考えていたが、言われると納得できる。つまりこうだ───これから事件に(未来に)向かってゆく主人公は、たいてい左を向いている。これは、「左に向かって読んで行くことが左を進行方向とし、右を逆進や戻る方向として受け取るという暗黙の了解を成り立たせている」というのだ。

 本書でいちばんハッとしたのは、「作品の中に流れている時間」に着目したところ。①描写される物語という一時的な発語の場所と、②話の中で回想場面が入り、③その場所を外から(将来から)眺めるメタ的な場所が生じる。つまり、現在の言葉、過去の言葉、ナレーションの言葉と、それぞれの場所の言葉を読者は選別して、三層に流れる時間を統合しながら作品を読んでる───という。

 これは、少女マンガによって開発された手法で、読む順序を与える時間分節の機能は、できるだけ解除されている一方で、読者の心理を誘導する圧縮・開放も解除されるのが常だという。異なる時間軸・空間の想起をアニメのセルのように重ねるコマ構成だ。こうやって抽象的な言葉だと分かりにくいが、見れば一発「あたりまえ」の世界だ。複数のコマをブチ抜いた立ち姿なら、少年マンガでもよく見られるだろう。

 マンガが、「どのように」面白くなっていったかを振り返る章も面白い。戦前マンガと手塚マンガの決定的な差や、厩戸の王子の記号(彼岸花のような髪型と髪飾り)が、心理表現に自由度を与えた証左、そして手塚マンガとゴルゴ13の「表情」からみる時代感性の落差。さらには吾妻マンガのような不定形の面白さが現れるためには、マンガ表現の記号的な意味の体系が一般化している前提を要する(だからそうした一般を少しズらした異化効果が成り立つというのだ)。

 まだるっこしい(抽象的な)書き方をしているのは、例がないから。一度「コミPo!」をお試ししてみるといいパワーポイントのようにキャラを配置でき、自由にポーズを決められるようになって、はじめてハタと気づき/思い悩むだろう。「どっちに向けて、どこにフキダシを置こうか」←いわゆる「暗黙のお約束」が分からないと、いつまで弄っても違和感ありまくりのマンガになる。

コミポパーフェクトガイド 「コミPo!パーフェクトガイド」は、そんなかゆいところに手が届く。コマの並びの空隙は、たての並びと横の並びと、どちらが広く取るのか?から始まって、フキダシの位置、数、どこからどちらへ読まれる(べき)なのかをアドバイスしてくれる。「手に何かを持たせる」とか「背景を水彩画風に変える」といった、ソフトウェアのTipsに限らず、「マンガとはこう描くべきだ(こう描くと読みやすい)」ルールが紹介されている。構図を変えるときのイマジナリーラインの重要性は、恥ずかしながらコレで初めて知った。

 マンガの場合も、blogと同様のゴールデンルールを適用する。つまりこうだ、「まず描いて(書いて)公表する、反応があったらフィードバックする」。ほらアレだ、兼好法師の徒然草の黄金律───「うまくなるまでは周りに隠しておこう」と、こっそり習っている人は多い。しかし、そういう人は決して上手くならない。むしろ、まだ下手なうちからうまい人の中に混じって、まわりからけなされたり笑われたりしても、それを恥とはせずに、平気で受け流すようにしないといけない。

 絵はモデリングにお任せするとして、構成とネームとアイディアで勝負しよう。それを可能にしてくれた「コミPo!」に感謝。

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「エロティック・ジャポン」はスゴ本

 エロスは生きるチカラだ、皮膚感覚で思い知る。

 自分を見ることはむずかしい。鏡なしでは自分を見ることすらできないし、その像は反転している。「他人から見た自分」を見るためには、最低2枚必要だ。どんなにレンズが歪んでいても、カメラや他者の目があれば、自分が「どう見られているか」を知ることは可能だ。これを「日本人のエロス」でとことんヤったのが、本書。

 「趣味はエロス」というわたしだが、本書には大いに教えられる。単純にわたしの精進が足りないのか、それとも著者のフランス女が半端じゃないのか、分からぬ。徹底的に、全面的に、過激に貪婪に、日本人のエロスを詳らかにする。もちろん、「俺はそんなことしない」「それは普通の日本人じゃない」とか弁明するのは可能だ。

 だが、普通ってなに?どんなに異様で異常だろうと、それを追求・志向する人が居るのは、日本そして日本人なのだ。そいういう特殊もひっくるめて普遍化しているのが、日本なのだろう。カレーから宇宙船まで、なんでも取り込み自家ヤクロウにする。ケモノレベルのエロスから、高度文明化した情動まで、想像力の尽き果てるまで許し許される。わたしはこの大らかさが好きだ。目ぇにクジラ立てるよりも、まぁまぁなぁなぁゆるめなトコが大好きなのだ。残念ながら昨今の情勢では、堂堂エロスを語れない。外のレンズを通してでしか、日本のエロスを語れないのは残念だが、本書が刊行されるだけのウツワは残っていると信じたい。

 「普通」ってなんだろう?次々と現れるニッポンのセックス業(ごう、と読むべし)を眺めていると、境目が見えない。むしろ「ブルセラショップ」や「うろつき童子」は、メジャーなジャンルだろう。だが、「ライクラ・コスプレ」や、「ラブドール・デリバリー」は、ひとつの極北か、未来の冗談に見える。google 画像でダメージ食わないよう急いで説明すると、前者は伸縮自在のスーツを全身に被ったプレイで、後者は精巧に作られたラブドールの宅配レンタルの話だ。いくらエロスが得手でも限度がある。

 しかし、著者は違うと主張する。日本人は、変身願望があるという。仏教伝来このかた、日本の文化はエゴを拒否するようになったという。西洋的な問いかけ「私とは何か」ではなく、「どうしたら私は私以外のものになれるのか」という解脱への問いかけがなされてきたのだと。そして、その証拠として遊戯王やらセーラームーンを出してくる!ある日突然、別次元で活躍するヒー
ロー・ヒロインに託す日本人の熱意は、現実以外に別世界があり、魂の転生で到達するという集団的幻想の現われなのだと。さらに、ライクラ着ぐるみとは、男が女に変身するだけではないという。実際には「女」になるのではなく、「アニメの女の子」になる、即ち、性を越境しているのではなく、現実をも越境しているのだと。藤崎詩織になりたいかどうかはともかく、「いま」「ここ」の自分ではない存在には、あくがれるね。

 人形についても同様で、日本人は人形について、「イノセントな感じ」を求めるという。著者は、リカちゃん人形とバーニーを比較する。リカちゃんはモデルチェンジの度に、ネオテニー(幼児成熟)な原則に基づいて、赤ちゃんっぽい外見が強調されていったことを指摘する。源氏物語、更級日記、梁塵秘抄までを持ち出して、「日本人は昔から未成熟な少女が大好きでした」と断言する。未完成な女の象徴や、つかの間の純真さを大切にしてきたのだと。

 さらに、深田恭子や浜崎あゆみといったアイドルの身体的特徴に着目する。バンビのような子供の肉体、大きな瞳、小さな顎とX脚の持ち主の幼児的な記号こそが、日本の求める美に合致する。無垢で、従順で、フォーマット化された理想の恋人なのだと。

 いっぽう、日本の男性は、自分自身にあまり自信を持っていないんだって。だからこそ、無垢で、従順で、フォーマット化された(ように見える)恋人を求めるのだと。この事情は女の子も理解しており、「やさしくしてね」などと男性のプライドをくすぐるように、カワイく、イノセントに振舞うことが大切だと心得ている。要するに、自信を失った男に華を持たせるようにアプローチする女、という構図がニッポンのセックスの基本なのだ。

 いいや、それはおかしい。フランスという異国から見た歪んだ日本人像だ、と反論することもできる。針を棒に、棒をロケットに写したいびつなレンズなのだと。確かにそうかもしれないが、吉田良や四谷シモンの球体関節人形偏愛を見ていると、(大きさはともかく)同じ針は確かにわたしにもある。どこまでも従順な存在に倒錯した感情を抱くのはおかしいのかな、ふつうだろ?と思えてくる。相手の自由を失わせ、自分が望むがままに振舞い、かつ、相手に奉仕する。人形クリエーターの菅原史嵩が人形作りの秘訣をこう述べている。

人形は微笑んではいけないのです。人形の顔は、持ち主たちがそれぞれのファンタスムを投影できるように、放心した様子でなければならないのです。また、われわれの夢を写す鏡として、いかなる自己主張もしてはならないのです。

 ほぼ全ページに掲載される、豊潤な画像もわたし「好み」を視覚化してくれる。会田誠は「ジェローム神父」でガツンと犯られたが、本書では「切腹女子高生」という最高にクレイジーなグラフィティが紹介されている。ロリ自虐やね。さらに、日本人の触手好きの原型は、葛西北斎「喜能会之故真通」の「蛸と海女」[google画像検索:蛸と海女]にあると喝破されたり。目ウロコではなく、違うところにまぶたがあったことに気づくとともに、ほぼ強制的に開かされた。わたしには、こんな「好み」があったなんて。エロスのために生きているといよりも、エロスによりわたしが生かされているのだ。これが肌で分かった所以。

 かなり限定されたトピックで語ったが、本書にはありとあらゆる日本のエロスに満ち溢れている。したがって、わたしの例があなたの「うへぇ」であったとしても、あなたのピタリが必ず見つかる、かならず。それほど日本人のエロスは幅広で、あなたは(わたしも)多様なのだ。なぜなら、エロスとは、偏愛なのだから。

 あなたが抱いたエロスこそが、ジャパニーズ・エロスそのものなのだから。

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上善如水『細雪』

 900ページの長編なのに、するすると呼吸をするように読み干す。ああ、美味しい。一文が異様なほど長く、描写と感情を読点でつないでいる。パッと見、読みつけるのが大変かと思いきや、全く逆。読点のリズムが畳み掛けるように囲い込むように配置され、単に「読みやすい文章」というよりも、むしろ読み進むことを促されるような構成となっている。お手本のような小説だ。

 そして、ひたすら面白い。大阪の上流家庭が舞台で、大きな事件も起きるのだが、圧倒的に紙幅が割かれるのは、淡々とした生活習慣や、家族の恒例行事になる。その、ちょっとした挙措や応接ににじみ出る感情のゆれや成長の証がいとおしく、思わず知らず口がほころぶ。ジェットコースター小説や、トリッキーな話ばかり食傷してきたが、読むことそのものがこんなに美味しいなんて!あらためて感謝する。誰に?作者に?

 むしろ日本語に、だ。日本語が、これほど艶やかで美味しいなんて(知らないとは言わないが)忘れてた。花見の宴や蛍狩のシーンは、読んだというよりもその場にいた。谷崎は桜のひとつひとつを描写しないのに、花弁の輝きは見える。谷崎は闇の色合いばかり濃密に描くのに、息づくように蛍が明滅する様は見えるのだ。ふしぎなことに、雪が降るシーンはなかったはずだが、桜・雪・蛍と、輝きがつながる。

 そして、このイメージは、主人公の三姉妹、幸子、雪子、妙子に照応する。女ざかりの爛漫とした幸子、儚げで消えそうな日本美人(でも頑固)な雪子、生き急ぐかのように明滅する妙子―――わたしは、どの子も好きになった。雪子の見合い話が物語の骨格なので、自然と雪子の和風な美しさに目を奪われる。しかしそのうち、恋愛事件をくり返し、独立や留学を志して奔走する妙子の、モダンな魅力に惹かれる。読み終わった後では、二人に翻弄されながらも愛おしむ、幸子がええなぁ、と思えてくる。ちなみに、三姉妹のさらに姉、鶴子がいるが、「本家」として東京で暮らしており、外の存在として扱われる。

 いかにも谷崎潤一郎、といえる美エロシーンがある。ビタミンB補給のために、姉妹が互いに注射針を突き立てあうのだ。雪子と妙子は生娘なので、もちろん針は男根のメタファーだと勝手に納得して読む。いちばん好きだったのは、姉の爪を妹が切る、という場面。

貞之助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑を、妙子がスカートの膝をつきながら一つ一つ掌の中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、また襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた。そして、この姉妹たちは、意見の相違は相違としてめったに仲違いなどはしないのだということを、改めて教えられたような気がした。

貞之助は幸子の夫、義妹たちが爪を切っているのにたまたま居合わせるという設定だ。だが、そのシーンを読んでいるわたしには、一緒に窃視しているように思えてくる。いわゆる萌えシーンやね。

 ストーリーテラーは幸子だと思って読むといい。空気読みすぎ、体面を気にしすぎで、思わぬ方向へ話が転がってゆく。思い違いと行き違い、幸子と一緒にやきもきさせられる。トリックスターは妙子だな。話が大きくうねるとき、その転換の起点に妙子が必ずいる。ちょっとした衝突から、人死にが出るようなこともある。右往左往したり不甲斐なさに涙ぐんだりするだろうが、結局は、「なるようになる」。雪子の見合いがそうで、周囲があれこれ手出し口出しするよりも、自然に任せるほうがうまくいく。"Que sera sera" もしくは "let it be" だ。水が器に従うように、落ち着くところへ落ち着く。

_ 文の巧さや構成の妙に感心するのは早々にやめて、完全に物語に没入させてもらう。物語に陶然となる、なんて久しぶりだ。谷崎潤一郎は、天才やね。飲むように酔うように、読める。わたしは、上善如水と一緒に読み干したぞ。ぜひ、傍らにお気に入りの一杯を用意して。

 日本人でよかった、日本語が読めてよかった、桜が好きで、富士が好きでよかった───と、しみじみできる一冊。

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