少女と記憶とアイデンティティ・クライシス「少年は荒野をめざす」
あらゆる少女マニアにオススメ。
いわゆる澁澤的「少女マニア」を脱し、今度は父としての立場から娘を育てている。ピンで止めてガラスケースに陳列するのではなく、生きて動いて大きくなる存在だ。もう幼児ではない娘を見ていると、記憶の彼方の少女を探すのか、それとも未だ見ぬ「少女」をシミュレートすべきか、分からなくなる。
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もっと端的に言うなら、「少女」とは欠けた存在だ。その欠片は、世間体(親も含む)を繕うための外聞だったり、自身を安定し充足させるための何か―――才能の発露や生活基盤、"わたし"という確固たる存在そのもの―――が相当する。だから「少女」は生き難い。自分とは何か?をつかみきれないまま、世間との折り合いをつけるやり方を模索しなければならない。
ところがオトナは放っとかない。欠けた部分に勝手に物語をあてはめたり、欲望や願望の対象としてレッテルを貼り付ける。記号化された「自己」を自分だと思い込み、愛される"条件"という矛盾に気づかぬまま状況に委ねるのが「ECCENTRICS」(レビュー)になる。いっぽう「少年は荒野をめざす」では、オトナの視線を上手にかわしながら、あやういところで「少女」にとどまろうとする。その狩野(主人公の名前だ)の奮闘が、いじらしい・かわいらしい。
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好きな人達の
目に映る自分は
自分が感じる自分より
確かな気がした
ここで面白く/怖くなってくるのは、普通のガール・ミーツ・ボーイでないところ。狩野がであうのは、少年というよりもむしろ、自分にそっくりの存在だ。まるで双子のように似通った二人。ここから吉野朔実の真骨頂のアイデンティティ・クライシスにひた走る。自分そっくりなら、「自分」って何よ?要らないんじゃないの?自問自答から始まり、幼年期の「自分が代わりをした兄」の記憶がちらつく。互いの瞳の中に、失った"兄である自分"を見出したり、"解放されている自分"を求める二人が手を取り合った行く末は―――「ECCENTRICS」のエンディングを想像してゾッとなる。
いま、わたしの娘は無条件にわたしの愛を求める。わたしは無条件に愛を与える。だっこしたり、ハグしたり、その他なにやかやと世話を焼いてやる。「無条件の愛」だなんておかしな言葉だが、娘から何も期待しない。ただただ喜ぶ顔を見たいだけだ(これは息子も同じだな)。しかし、与える/得るの連鎖に満ちた生き難い世間サマと向かい合うとき、わたしの娘も、狩野と同じような居心地の悪さを感じながら、「自分」を満たそうとするのだろう。
(娘をもつ)父親がこれ読むと、いろいろ考えさせられるね。「ECCENTRICS」で騒いでたわたしに、「それが良いならこれは?」オススメしてくれた嫁さんに、マヂで感謝。

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