あらゆる「本を読む人」にオススメ。
賢者のライフハックから原理的な選書眼まで、「読書」にまつわる愛と気づきがぎっしり詰まっている。古今東西に及ぶ史実、逸話、伝承、研究成果などを交えて語られた「読書の歴史」に類書は存在しない。隙のない全方位的展開でいながら、自らの思索と経験を語りつくしている。本書の評価は、「名著」がふさわしい。読んでも読みつくせないことへの畏怖と敬意を抱きながら、読むことに対する勇気を灯してくれるスゴ本。
マングウェルは「図書館 愛書家の楽園」を読んだだけだが、博覧強記が服着ているような猛者。生きてる人で比較すると、松岡正剛なみの読書家・愛書家・狂書家といっていい。そんな薀蓄大王が気張らずに語りかけてくれる。トピックが重層に張り巡らされているので、読み手の経験や年齢や嗜好に応じ、幾通りの出合いがある。わたし自身、再読のたびに発見があるだろう。だからここでは、今回の読みで出合った気づきを拾い出してみる。
まずは、カフカからのメッセージ。マングウェルのおかげで、「スゴ本」の価値を再認識させられた。もちろん「スゴ本」とは「すごい本」の云いで、自分を変えるほどのインパクトを与える本のこと。読前と読後で変化がないのなら、その本は読むに値しない。人生を揺さぶるものから口癖を変えるものまで、大きさはともかく、「そのときの自分を変えるような本」こそ読むべきだ―――というわたしに、ダイレクトに届いた。フランツ・カフカは友人への手紙でこう述べている。
要するに私は、読者である我々を大いに刺激するような書物だけを読むべきだと思うのだ。我々の読んでいる本が、頭をぶん殴られたときのように我々を揺り動かし目覚めさせるものでないとしたら、一体全体、何でそんなものをわざわざ読む必要があるというのか?
「本ごときに自分が変えられてタマルカ」と豪語する人は、自分の変化に気づけないのだろう。あるいは、手にしているものは"本"という形態をとってなくても良かったのかもしれない。人生の、生活の、それぞれのタイミングにおいて、打ちのめされるような本は必ずある。それと知らずパンフレットかチラシを束ねたような本(の形をしたもの)を消費して「読書」と称することもできる。だがわたしにとっては、カフカのいう、「書物とは、我々の内なる凍った海原を突き刺す斧でなければならないのだ」の方が近い。読書とはまさしく毒書なのだ。
アウグスティヌスのライフハックも、スタンダードながら使える。読書をしていて魂をゆさぶられるような言葉に出会ったら、必ず印をつけておけという。何度も反芻し暗唱することで、自分のモノにしてしまうために。ページも章立ても整っているコデックスならともかく、当時は巻物のようなインデックスがつけにくいものだったに違いない。
今なら付箋か傍線か抜書きやね。わたしの場合、付箋を貼りながら一読して、次に付箋を剥がしながら二度読みしている(その際、残したいフレーズや描写、想起された思考をノートに抜書きしている)。ノートは週、月、年のタイミングで取捨選択をくり返し、アイディアを広げたり深めたりするのに使っている。寸鉄のような箴言から気の利いたエロフレーズまで、取りそろえている。本書で腑に落ちたのは、オーハン・パムークの次の一節。
人生とは一回限りの馬車に乗るようなもので、終わってしまえば二度と再び乗ることはできない。しかしもし、あなたが書物を手にするならば、それがいかに複雑で難解なものであろうとも、それを読み終えた時、望むとあらば最初に戻ったりもう一度読み直したりして、その難解だったところを理解し、それによって人生も同じく理解できるのだ。
「二度読む価値のない本は、一度読む価値もない」と言ったのはマックス・ヴェーバーか。反対意見も沢山あろうが、反証となるような本は、"本"という形をとらなくてもよくなっている。特に最近のデジタル化の躍進によって、"本"や"読書"というよりも、むしろ"資料"や"ダウンロード"といった言い方のほうがしっくりくるのではないか。ヴェーバーの忠告は、むしろ「二度読む価値がある本を選びなさい」というアドバイスとして受け取っている。
耳に痛い忠告もある。ずばり、「知識の集積が知識になるとは限らない」という。紀元4世紀の詩人デシムス・アウソニウスを引いて、両者の混同を嘲笑する。書棚を埋め尽くすほど買い集めたからといって、学者になるわけでもなし。追い討ちをかけるように、「書物馬鹿」を紹介する。これは、ガイラー・フォン・カイゼルベルクが1509年発表したもの。それによると、愛書家の愚行は7つの型に分類されるという
- 第一の書物馬鹿 「蔵書を鎖でつなぎ、書庫に閉じ込め、囚人のごとく扱う」
- 第二の書物馬鹿 「次々と書物を読むことで賢くなりたいという書物馬鹿」
- 第三の書物馬鹿 「書物を集めるばかりで読まない、時間の浪費」
- 第四の書物馬鹿 「高価な彩飾本の愛好家」
- 第五の書物馬鹿 「やたら豪勢な製本を施したがり、蔵書票に凝る」
- 第六の書物馬鹿 「古典を読んだこともなければ綴りや文法、修辞に関する素養もないまま、読むにたえない書物を書き続ける」
- 第七の書物馬鹿 「書物を嫌い、書物から得られる知性を見くびる」
第二、第六が痛い、痛すぎる……「本を読むと賢くなる」という刷り込み(洗脳?)に浸され、自分で自分を騙し続ける。読書から得られる喜びと知見に限らず、「そう思う自分」をメタに眺めることで、その馬鹿っぷりもひっくるめ、喰ってやれ。
書物のデジタル化への目配りも欠かさない。本書が書かれた時代は、十数年前のマルチメディア全盛時代だ。CD-ROMにまとめられたシェイクスピアが紹介されている。が、そんなに昔じゃないはずなのに、ずいぶん古びた感覚を呼び起こさせる。8インチ、3.5インチのFD(フロッピーディスクと呼ぶのだよ若い衆)、そしてカセットテープの磁気媒体で読み書きしていたのは、確かに昔の話だが、そんなにわたしが老いたのか!?と愕然となる。昭和生まれが時代遅れと見なされる未来(そんなに遠くない)まで、ブルーレイは生き残れるだろうか。
グーテンベルグの印刷術もきちんと紹介されているが、マングウェルの指摘で面白いと思ったのは、「印刷術」により手書きテクストが追放されたのではないという点。もちろん、印刷術により書物が劇的に安くなり、写本に携わる人が減ったのは事実だ。だが、手書きテクストへの愛着が完全になくなってしまったわけではないという。それどころか、グーテンベルクと彼の後継者たちは、積極的に写字生の技術を見習おうとし、実際、多くの印刷本のページは、写本のような体裁をとっているという。
同時に、印刷術が確立していた15世紀末においてさえ、美しい手書きテクストへの愛好は続き、カリグラフィーの優れた作品は製作され続けている(数は少ないけれどね)。これは、現在のタイポグラフィーの興盛にも通ずる。活字が「文字を固定する技術」であるほど、固着化される文字のバリエーションが広がろうとする。矛盾なのか反動なのか。
かつて「読書の文化史」を読んで、文化的な背景から読書の歴史を考察したことがある("読むとは何か"を長い目で「読書の文化史」)。16~18世紀アンシャン・レジームの時代において、印刷された文書が、どのように社会的影響を与え、どんな思想を生み出し、権力との関係性を変えていったかが展開される。シャルチエ氏は、わたしが常識(?)だと思考停止していた部分に対し、別の視点から考察する。あらたな知見が得られたのは収穫だが、同時に、彼の視点は今の電子書籍の風潮にも適用できるから面白い。
ハヤリの電子書籍を考える上で有用な観点がある。もちろんマングウェルは今のデンシショセキを意識して書いたわけではないが、「書き手と読み手のパラドックス」が図らずも明かしている。つまり、「本は読まれるために、テクストはいったん死ななければならない」というのだ。テクストを完結させるためには、いったん書き手が引っ込まなければならない。書き手が存在している限り、テクストは完結しない。書き手がテクストを手放したとき、はじめてテクストが誕生するという。ハヤリの電子書籍では、書き手と読み手の間にある、編集、校正、版と刷の関係がとっぱらわれたり圧縮されたものが、「書籍」として扱われる。
このパラドックスを律儀に踏襲したデジタル「書籍」の未来をつくるよりも、むしろ、「書籍」としない市場を目指すほうが字義どおりなのでは?と思えてくる。つまり、紙の本である限り、版と刷から逃れられない(いったん脱稿・校了しなければならない)。だが、紙の本からフリーになるのなら、「書き手と読み手のパラドックス」からも自由になるのではないか、という仮定だ。開くたびに中身が改変されたりアップデートされているようなテクスト―――Wikipedia などが思いつく―――を読み手の嗜好とリクエストに沿って動的に束ねたものが、パラドクス・フリーのものになるのではないか?
わたしの妄想にクギを刺すように、著者は「モノとしての書物の役割」の指摘も忘れない。その本を読んでいる(手にしている)ということは、批判的であれ信奉しているものであれ、少なくとも自分の資源を使うほどの興味があるのだ。そして、それをファッションのように外に示していることになるのだ。マングウェルは、「書物が仲間に自分の存在を知らせる一種のバッジのようなものである」という。かつて、とある殺人鬼はサルトルの本を抱え歩くことで、知的な男を演出し、若い女性にアピールしていたことを思い出す。「サルトルを読んでる俺カッコイイ」というやつですな。このとき、本は物理的なラベルとして大いに役割を果たす。電子書籍のプレイヤーでは無視される役割だろう。
今年は電子書籍二年目だという。1980年代のニューメディア、1990年代のマルチメディア、2000年代のWeb2.0、ユビキタス、クラウドといった「消費される流行語」の鬼籍に入らないよう、エバンジェリストはがんばって欲しい。金脈ではなくジーンズを売りつけようとした人(や会社)を覚えていると、同じ手口に掛からないよ。
焚書の歴史が凄まじい、読書の歴史とは焚書の歴史だ。紀元前411年、アテネではプロタゴラスの著者クが焼かれ、紀元前213年、秦朝の始皇帝は、領土内の全ての書物を焼き尽くすことで、読書行為を終焉させようとした。ヴォルテールが、カムストックが、ナチスが、それぞれの焚書と検閲の光で読書の歴史を照らし出す。マングウェルはその焚書の歴史を焼け残った本で再現させ、焚書の光を浴びていない箇所のほうが珍しいことを指摘する。
ひょっとすると、現代のわたしは、表現の自由が、法で保障されている、実はきわめて珍しい時代に生きているのではないか、そんな気がしてくる。しかし、非実在なんちゃらで検閲を強化する連中がいる。検閲官を自任し、自ら選んだ猥書を追放処分にしたカムストックが毎日読んでいたもの、それは聖書だったという。裏切り・殺人・姦通盛りだくさんのスペクタクルエンターテイメントが愛読書というのは、皮肉が利いている。
自分が気に入らないものを、社会の害悪にするやり口は巧妙だ。大衆の良心や美意識、脳内の「無垢な子ども」に訴える手法は、現代のカムストックたちも利用している。タブラ=ラサは都市伝説だということは、チョムスキー御大を呼ばなくても分かるだろうが、どんな検閲社会になるかを見るために、焚書と検閲の歴史の章は必読なり。
奇妙なことに、「読書の歴史」には終わりがない。だいたい冒頭が「最後のページ」ではじまっているのだ。そして最終章の後、索引の前に「見返しのページ」を設けている。かなりの量の空白のページで、本書を読んで得た気づきや引用、欠けているトピックや、さらには自らの思索をつづりなさいと誘っているように見える。
読み手の経験やジャンル、嗜好、読書スタイルによって、さまざまな深度でヒントや気づきが得られる。そこから自分にとっての「読書とは何か」を考え直すきっかけが生まれる。再読すれば、またそのときの自分にとってのアイデアが見つかるだろう。本書はくり返し読むことで、ラストの空白の「見返しのページ」が埋まっていくことを求めている。そして、見返しのページは表紙側にもある。つまり、次にわたしが手にする本の、第一ページにつながっているのだ。
読書の歴史とは、読者の歴史でもあるのだから。
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