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本屋オフ@丸善ジュンク堂

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 ガチでオススメを紹介しあい、ピンときたら容赦なく購入する。

 本屋は普通、マタギのように孤独に巡回するものだと思い込んでいた。が、グループでハンティングすると、さらに狩場が広がることが分かった。同時に、見過ごしていたガチ本(ガチで読んどくべき本)がざくざく狩り出されるのが嬉しい。優れたマタギが、チームとなって行動すると、それぞれの視野が拡大し、さらに遠くまで見通せるようになるのだ。

 今回の狩場は、丸善ジュンク堂@渋谷。実は行くのは初めてだが、まさに「丸善」たす「ジュンク堂」だった。「丸善」らしさは文具コーナーが併設してるところ。「ジュンク堂」らしさは森のような本棚の並び。オススメ棚は、それぞれの選書担当のを並べただけで、どのレコメンドがどちらの書店かをあてっこできるぐらい特徴的。第一印象は単に合体しただけのようだが、通うとシナジー効果が見えてくるのだろうか。

 そこで、本屋オフで重要なことに気づく。通路だ。丸善や八重洲といった老舗では、人が行き違うのがやっとというぐらいの狭さ。あたりまえだ。本棚+平積みで、利用者の目に飛び込んでくる「情報量」が最大になるようなレイアウトだから。いっぽう、ジュンク堂やブック1stは、平台を抑え背の高い本棚に棚差しすることで、利用者の目に入る本の「冊数」を増やそうとしている。平台が抑制されたため、通路が広くなる。複数人で一つの棚に向き合うとき、これ重要。スゴ本オフ@グループ・ハンティングを企画するとき、参考にする。

 実際の本屋オフの詳細レポートは、「第3回本屋オフに行ってきた」(As a Futurist…)をどうぞ。以下は、戦利品についてニヤニヤ語ってみる。

コミPo まず、「コミPo!パーフェクトガイド」。かゆいところに手が届く、まさに今欲しかった一冊。絵がかけなくても、キャラを配置するだけでマンガできてしまうのは、確かにそのとおりだ……が、微妙に不満があった。「手に何かを持たせたい」とか、「背景の画調を変えたい」といった知らなかったけれど用意されていたTipsを知ることで、やれる範囲が広がった。ナナメのコマってこうやってつくるのかーと目からウロコ。さらに、マンガのお約束というか暗黙のルールが解説されており、わたしのようなド素人にはありがたい。精進するぞー。

 それから、「羣青」の中巻。スゴいわ、これ。読み手の魂をカンナ掛けしてくれる。お話をひと言でいうなら、「痛い・痛いテルマ&ルイーズ」やね。殺した女と殺させた女の逃避行だから、あとはキャラの出し入れで単純な構成かなーと思いきや、中巻で重層化してくる。ミステリではおなじみの、「叙述トリック」じみた"演出"もしてくれて、まさにやってくれる(ネタバレ反転表示)。わたしにとってレズビアンの存在は遠く、想像するしかないのだが、その社会的な苦しさは、爆発する反動の力で痛いほど感じ取れる。上巻、中巻と続いたから、次が最終巻なのだが、読むのがこわい。

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 最後は、「こつの科学」。これは、スゴ本オフ@原宿でmanameが強力プッシュしてたもの。調理をする手順や技に出てくる「なぜ」について、科学的に解説しているスグレモノ。「卵を水洗いすると腐りやすいのは?」「野菜は切ってから洗い、果物は洗ってから切るのはどうして?」「刺身は引いて、野菜は押して切るのはなぜ?」「どうしてビールの注ぎ足し厳禁なのか?」などなど、調理の「なぜ」に答えてくれる。「manameがバイブルって言ってた」「manameがブクマ1000はカタイと言ってた」などと、「まなめが言ってた」攻撃でオススメしたら、皆さん買う買う(わたしも買った)。4冊も売れたのはそのせい。

 実は後悔もある。@raituさんが「ヒストリエ」をオススメしていたのに、「完結していないから」と見送ったのは返す返すも惜しすぎる。あと@thinkeroidさんがプッシュしてた「ミトコンドリアが進化を決めた」は必読だな。「カイジより銀と金」や、「ミスミソウよりピコピコ少年」というアドバイスは、本屋オフならではだね。主催者の @tororosoba さん、参加された方、ありがとうございます。

 分け入っても分け入っても本の山。マタギのように孤独でなく、皆でハンティングすると大漁大量。スゴ本オフでもやるぞー


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コミPo!で描いてみた(その2)

コミPo 表情や動き、服の少なさに不満はあるけれど、限られた範囲でネタをヒネるのが楽しいですな。うつせみ日記のコメントで、いわゆる「大喜利」だという評が最も的確かも……これ、安価でバラ撒いて、パーツやポーズのオプションでもうけるのが王道かと。
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本より読み手「本に遇うII」

 人生は短く、読む本は多い。だから打率を上げるのだ。

 ただし、好球しか打たぬという偏食ではもったいない。文芸しか読みませんとか、マンガはノイズですと胸を張るようにゃなりたくないね。視座を広げて高めるために、自分と似た趣味の/でも異なる傾向の優れた読み手を捜す。本を探すのではなく、人を捜すのだ。

 本書を綴った河谷史夫はまさにそう。朝日新聞「素粒子」で有名な方で、本書は雑誌「選択」のコラム十年分をまとめたもの。わたしと似て異なる嗅覚を持った、優れた読み手であり、盗みたくなる書き手でもある。「本にモノを言わせる」方法は、この著者から学んだ。だから本書は、このブログの種本といっていい。一冊目は既に[酒と本があれば、人生何とかやっていける「本に遇う」]でレビューしたので、種本の続編になる。

本に遇う1本に遇う2

 ある本をとりあげて、印象や引用を縦横無尽に駆使して、時勢だとか批判をぶち上げる。ときには痛快と哄笑をもたらし、ときには痛切と吐息を誘う。連載で読むと斬れれ味抜群だったのが、まとめて読むと大型パンチのように利いてくる。本作は10年分の集大成なので、「自民党をぶっ壊す」とか民主党の大勝といった、かつての時節ネタがぼろぼろ出てくる。そして、現在との彼我の差に愕然となる。この、楽観的な思考停止はいかにもアサヒ人らしいが、「今」から当時の記事を"総括"できるのだろうか。怖いような愉しいような気になる。良い意味でも悪い意味でも、「いま」にキチンとつながっているのだから。

 たとえば、「ならず者国家」 より、金王朝二代記をあげつらい、「ひでえ話だ。史上どこに、いやしくとも社会主義を標榜する国家が世襲されるなんてことがあったかね」とブチあげる(2007年)。三代目も世襲なんですケド。

 あるいは、「ブッシュのホワイトハウス」から、アメリカの共同幻想を批判する(2007年)。そもそも原住民を大量虐殺して国を始めたという経験のうしろめたさがあるという。これを抑圧するため、「自由、平等、平和」なる共同幻想を他国に押し付け、正当化しようとするのだと。まるで教科書のような論旨だ。だが、「アメリカの共同幻想」やら「ポストコロニアル批評」がどれだけ現実味を帯びているだろうか。ギロンとしては成り立つし、"お勉強"にもなるのだが、どれだけ現実に生きる人の思考を支配しているかというと、分からない。

 また、(十年も続けたのだから)ブレもある、それが面白い。2009年、田母神前航空幕僚長が言論の自由を主張した際、それに反論をぶつけてくる。理不尽な命令であっても、軍隊であるなら、とにかく従うべきだという。部下がいちいち判断して、上意に従うか否かを決めるようでは、軍隊が成立しないという。もっとも、自身がそう述べるのではなく、「自衛隊が危ない」を書いた杉山隆男の口を借りて主張する。だが待てよ、2006年「散るぞ悲しき」で硫黄島総指揮官を紹介する際、大本営方針の作戦を否定して持論を貫いたことを称揚していたではないかと思い当たる。こういうアラは、もちろんわたしにも沢山ある。つまり、読んでる本に気分が振り回される(そして、これこそキモチ良い)。

 わたしが読むような本ばかりを読む人なら、捜すまでもない、ここにいる。だから、わたしと異なる傾向の人こそ鐘太鼓で探すべし。けれども、まるで違ったストライクゾーンだと、そもそも打てない。だから、わたしと似た趣味人を求める。似てるけど違う、その重なる間合いが、ちょうどいい。「夜ごと、言葉に灯がともる―――本に遇うII」は、そういう本。

 「本に遇う」とは言いえて妙、偶然ばったり邂逅するというニュアンスだ。ずっと片想いを続け、「やっと逢えたね」と告げたくなるような一冊や、文字どおり「ひどい目に遭った」といえる劇薬モノもある。偶然よりもヒット率を上げるため、本を探すよりも、人を探す。よい本には、よい読み手がいるのだから。

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さわれる数学「ベッドルームで群論を」

ベッドルームで群論を もちろん数学は役に立つ。男女和合でイきそうなとき、素数を数えて落ち着くのだ。とある神父に教わった技だが、わたしに勇気を与えてくれる。

 「ベッドルームで群論を」だから、艶っぽい話を期待したらご勘弁。これは、眠れぬ夜に羊を数える代わりに、マットレスをひっくり返す黄金律を探すネタなのだから。命題はこうだ「マットレスを一定の操作でひっくり返し、マットレスがとりうるすべての配置を順繰りに実現する方法はあるのか?」。長いこと使っているとヘタってくるので、定期的にひっくり返す必要があるのだ。マットレスはごく普通のもので、長方形の、ちょうど単行本のような形だ。本書をマットレスに見立てて、タテに回したり、ヨコにひっくり返したのは、わたしだけではないだろう。

 著者はマットレスを飛行機に見立てて、ピッチ、ロール、ヨーの回転を定義づけている。左右を軸とした回転(pitch)、前後を軸とした回転(roll)、上下を軸とした回転(yaw)の3種類だ。「マットレスをひっくり返す」とは、結局のところ、この3つの操作と、「何もしない」を組み合わせることに他ならないと見抜く。さらに、回転の組み合わせにより、別の回転と一致することも思いつく(たとえば、「ピッチ」+「ヨー」→「ロール」とか、「ピッチ」+「ピッチ」→「何もしない」)。ここまで一般化すると、群論(ここではクラインの四元群)が登場する。あの「クラインの壺」のクラインだ。

―――こんなカンジで連れて行かれる。クラインの四元群とは、「巡回群でない位数が最小の群」なのだが、ベッドルームで言うなら「マットレス返しの黄金律は無い」となる。エレガントなのかエロティックなのか分からないが、自分の目と手で確かめながらアプローチできるのは愉しい。

 日常の、ちょっとした疑問をとりあげて、あれこれいじり回し、さまざまな分野から問題に迫る。歯車のギア比から始まった話題に、いつのまにか素数とフィボナッチ数が登場し、西暦2000年問題、ついには西暦10000年問題へリレーしてゆく手際は、鮮やかだ。今までの(科学の)啓蒙書と毛色が違うのは、解よりも解決法に力点があるところ。アメリカ合衆国の分水嶺を見つけるために大洪水をシミュレートしたり、シンプルな数学の問題(NP完全)にわざわざ物理系のモデルに対応させて理解しようと試みる。結論よりも試行錯誤が好きなのだな、と思わせる。

 著者のユニークなのは、正解云々ではなく、着眼点と発想の自由度だ。たとえば、「ランダムとは資源だ」や、「貧富はシミュレートできる」という視点から出発する。そして、完全な無作為は可能かをコンピュータで追試したり、閉じた系にて「完全自由市場」なるものをモデリングする。もちろん両者の仮説は不備がある。「完全な無作為」なんて有限の時間で確かめようがないし、完全に自由な取引の行き着く先は、経済の死になる。

 しかし、壁にぶつかったとき、仮説は否定されるのではなく、修正されるのだ。ランダムの定義に立ち戻ったり、経済の世界に物理学のアイディアを持ち込む。そうした発想が生まれるのは、著者がそれだけ「引き出し」を沢山もっているから。セオリー通りにしか考えられない(そしてセオリーに沿うよう統計をこじつける)学者さまよりも、よっぽど自由なのは、こうした発言からもうかがえる。

経済モデルから得られた結果を実際の経済統計に一致させようとがんばるよりも、むしろ、実社会の経済活動を細かく見ていって実際にこういった経済モデルの基本的なメカニズムが働いている兆候が見られるかどうかを調べる

 「答え」を求める探求というよりも、近似に漸近する探究に近い。だから、答えそのものよりも、アプローチから得られる教訓のほうが意義深い。

 たとえば、4文字のDNAのアルファベットで書かれた文を、20文字あるタンパク質のテキストに翻訳する「遺伝暗号」を解く小史を振り返る。答えは、「自然は、最適化してない」。だが、進化論を類語反復する学者は、「自然淘汰は最良の解を見つけ出すに違いない」と血道をあげる。著者はそうした思い込みを、バッサリこう言う「人は、自分が思いついたことの美しさに、いともたやすくたらしこまれるが、自然はこういった美に関する助言を無視することが多い」―――カエサルの言「人は、見たいと欲する現実しか見ていない」やね。

 また、「戦争予報」なる研究も同じことが言える。「さまざまな国の軍事費を継続的に観察するだけで、まるで天気予報のように、戦争を予報できることになるのでは?」という疑問から出発し、軍備の増強と戦争勃発とのモデリングを調べ始める。この観点では失敗するのだが、言語、経済指標、国家形態を駆使して、戦争への統計的なアプローチを試みる。

 もちろん、因果が逆転しているのかもしれない。軍拡するから戦争が起きるのではなく、戦争のために軍拡したから、そうした統計になるのだといえる。戦争にはひとつとして同じものがないのだから。しかし、何十年、何百年と時間の幅を広げると、その戦争に固有の理由や状況はすべて平均化されることを指摘する。著者は、交通事故のアナロジーで説明する。事故の原因は、居眠りだとか道路が凍っていたとか種々雑多だが、事故の総件数はかなり正確に予測できる。同様に、戦争は歴史の流れにはまるで影響されない統計パターンだけがしつこく残るというのだ。この考えを突き詰めると、「虐殺器官」までイケルかもとワクワクする。

 そして、ある程度、戦争との相関が認められたのは、「宗教」なんだそうな。宗教が同じ国よりも、宗教が異なる国のほうが戦争になる可能性が高いらしく、さらに、概して好戦的な宗派があるらしいという。その宗教は、ほのめかされる程度だが、今アナタが思い浮かべたのが正解だ。

 最初は身近な例から始め、仮説・検証・再モデリングの手つきは鮮やか。さらに、一般的な手法のみならず、畑違いからのアプローチからトンでもないところまでもって行かれる。この「触れるサイエンス」と「連れて行かれ感」で、ついついページが進む。眠れぬ夜のお供に開いたのに、どんどん読み耽ってしまう。

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スポ魂ミステリ「サクリファイス」

 ロードレースが舞台のミステリ、駆け抜けるようにイッキ読み。

サクリファイス スゴ本オフ@ミステリでオススメされたもの。カネヅカさん曰く「泣けるスポ魂です!」に納得。恋愛あり惨劇あり、盛りだくさんの内容なのに、ムダが一切ない。伏線もアイテムもトラップも、きちんと計算して引かれ措かれ配置されており、まるでレーサーの筋肉のように引き締まっている。レースの駆け引きと、悲劇の謎解きは、どちらも心理戦。見事にオーバーラップしており、構成も見事。

 そして、タイトルの「サクリファイス(犠牲)」、読み終わったら、もう一度、表紙を眺めたくなる。そして、「サクリファイス」に込められた二重三重の意味を再確認して、思わず胸が熱くなる、肌が粟だつ。

 気に入らないのは語り手。一人称形式の唯一の「主人公」なのに、どこか他人事、脇役のような口調に違和感を抱く。チームの皆と当たり障りなく泳ぎ、真顔で「お世辞」を言い切れる。彼女を失ってもヘラヘラ笑っていられるさまは、心底アタマにくる。だいたい、プロの世界なのに、勝負に執着がない。自己を差し出そうとする様は、タイトルの「サクリファイス」そのまんま。このセリフに、「ぼく」の存在価値が込められているといっていい。

   どんなスポーツでも、勝たなきゃプロとしてやっていけない。
   だけど、自転車は違う。自分が勝たなくても、走ることができる。

 つまり、チームのアシスト役として、ただひたすらがむしゃらに走りたいのだと。ゴールにたどりつけなくてもいいとまでいう。そもそも、「ゴールにいちばんに飛び込む意味が分からない」のだと。顔が見えない語り手。考えも感情も、過去さえも全てさらけだしているのに、行動だけ得体が知れぬ。

 惨劇が起きることは冒頭で明かされているからネタバレにはならないだろう。そして、回想から始まり一人称で語っている「その瞬間」に追いつくまで主人公は、まさに「この物語を語っている時間」に生きている。「ぼく」がガツンとなることが起きているのに、「語っていた時間の"ぼく"」と「いま語っている"ぼく"」に変わりがないように見える。その「変化のなさ」が逆に怖い(ここは深読み過ぎたかもしれぬ)。

 風が吹き抜けるように読み終える。でもそこに残るのは、爽快感よりも、苦みと痛み。以下余談。

 余談1「暗峠」でトレーニングする場面があるが、「嘘だっっっ!」と声に出した。なぜなら、わたしも上ったことがあるから(自転車で)。暗峠は壁だ。喩えないなら、階段の勾配だ。もちろん乗って上れるはずもなく、押していったよ。潜在的マゾヒストなのだと思う、チャリダーは。

 余談2 全てが明かされた読後感は、ある小説のラストと似ているなーと思った。ネタバレになるからマウス反転にするが、「塩狩峠」(三浦綾子、新潮社)なり。これも、「サクリファイス」。

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「コミPo」で描いてみた

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コミPo マンガが「ポッと描ける」から「コミPo」って、どんだけ安直なネーミングやねん…

……と始めたところ、すげぇすげぇ、笑ってしまうほど簡単にできた。絵を描くは「ドラッグ・ドロップ」で、ポージングや表情などの細かいとこは「メニューから選択」でお終い。フキダシのせりふをヒネるところが一番苦労したりする。どんだけ直感的かというと、わたしの娘(園児)がサクサク作れるくらい。ちなみに、上のマンガは15分ででけた。マンガを「描く」ためのドローツールというよりも、マンガを「創る」ためのオーガナイザーだ。キャラを置いた後、ポーズやカメラアングルを試行錯誤できるのが、「マンガを描く」のと決定的に違うところ。この試行錯誤が楽しくて仕方ない。ネームさえ決まれば、あとは流れ作業、次のやつは15分で完成。

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マンガの創り方 簡単にできるようになったからこそ気づいたのが、ネームの難しさ。描くのは単純作業なのよ。けれども、「何を」「どう」描くのかになると、それこそ創造力をフルパワーで要する。マンガ家はネーム家なんだね。物語のバイブルに、「マンガの創り方」があるけれど、その威力を思い知った。キャラ絵が上手いからマンガ家になるのではなく、お話が作れる絵師だからマンガ家なのだというのが正解。

 不満もある。沢山さわっているからこそ、沢山不満が出てくる(←良いソフトウェアの証拠)。

  1. 【ポージングが少ない】 もちろん非常に多くのポーズがあるが、自分が欲しいのがない。「お尻ペンペン」とか「騎乗位」が欲しい。あるいは、モデルの手足をドラッグすることでポーズをつけるようなツールがあれば嬉しい。あと、ぱんつをしっかり描いているのなら、ぱんちらを入れるべき(コミPoちゃんのぱんつは、桜色のコットンだ)。ぱんちらがない学園マンガは、学園マンガにあらず。春一番にプリーツが、ふわっと舞って、「きゃっ」というシーンが描けないではないかwww
  2. 【服やアクセサリの数が少ない】 学園モノを想定しているのか、先生と生徒の格好しか無い。追々増えるのだろうが、もっと舞台を増やして欲しい(体操着とスク水は必須、てか有償オプション?)。さらに、「裸体」が欲しい。18禁的にアレだろうが、オンナのハダカほど美しいものはない。エロスが描きたいのよ。
  3. 【シンプルな背景を】 沢山背景があるのは嬉しいが、煩い。細かく書き込みすぎなのだ。もっと単純な背景はないだろうか?自作しろって?「シンプルな背景のライブラリ」とかあったら、購入したい←そんな声のために、素材をやりとりする仕組み(課金方法)が組み込まれるとニコニコ動画ぐらいの市場誕生かも。
  4. 【書影を入れたい】 amazonのAPIから取った書影を入れたいのだが、できない。マンガの中にAPI経由で画像を表示できたらなぁ……と思うのだが、著作権的にアレなのかも。このblogに限定されるが、「コマの画像」 → 「APIから取ってきた書映」 → 「コマの画像」という載せ方でゴマかすつもり。

 とはいえ、マンガが好き(でも描くのは苦手)なわたしにとって、スゴいインパクトがあった。初めてLotus123を触って、表→グラフができたときくらいのインパクト。あるいは、PowerPointで図形やグラフが自由自在に乗せられることを知ったときのインパクト。「アレもできる!コレもできる!」という嬉しさ……といったら伝わるだろうか。

 ちなみに、上のショートカットは「本子」(モトコ)、ロングが「律子」(リツコ)、もちろん二人とも本が大好きですぞ。twitpicやこのblogに載せるので、以後お見知りおきを。コミPoの入り口はこちらをどうぞ→「コミPo! 公式サイト」

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「読書の歴史」はスゴ本

 あらゆる「本を読む人」にオススメ。

読書の歴史 賢者のライフハックから原理的な選書眼まで、「読書」にまつわる愛と気づきがぎっしり詰まっている。古今東西に及ぶ史実、逸話、伝承、研究成果などを交えて語られた「読書の歴史」に類書は存在しない。隙のない全方位的展開でいながら、自らの思索と経験を語りつくしている。本書の評価は、「名著」がふさわしい。読んでも読みつくせないことへの畏怖と敬意を抱きながら、読むことに対する勇気を灯してくれるスゴ本。

 マングウェルは「図書館 愛書家の楽園」を読んだだけだが、博覧強記が服着ているような猛者。生きてる人で比較すると、松岡正剛なみの読書家・愛書家・狂書家といっていい。そんな薀蓄大王が気張らずに語りかけてくれる。トピックが重層に張り巡らされているので、読み手の経験や年齢や嗜好に応じ、幾通りの出合いがある。わたし自身、再読のたびに発見があるだろう。だからここでは、今回の読みで出合った気づきを拾い出してみる。

 まずは、カフカからのメッセージ。マングウェルのおかげで、「スゴ本」の価値を再認識させられた。もちろん「スゴ本」とは「すごい本」の云いで、自分を変えるほどのインパクトを与える本のこと。読前と読後で変化がないのなら、その本は読むに値しない。人生を揺さぶるものから口癖を変えるものまで、大きさはともかく、「そのときの自分を変えるような本」こそ読むべきだ―――というわたしに、ダイレクトに届いた。フランツ・カフカは友人への手紙でこう述べている。

要するに私は、読者である我々を大いに刺激するような書物だけを読むべきだと思うのだ。我々の読んでいる本が、頭をぶん殴られたときのように我々を揺り動かし目覚めさせるものでないとしたら、一体全体、何でそんなものをわざわざ読む必要があるというのか?
 「本ごときに自分が変えられてタマルカ」と豪語する人は、自分の変化に気づけないのだろう。あるいは、手にしているものは"本"という形態をとってなくても良かったのかもしれない。人生の、生活の、それぞれのタイミングにおいて、打ちのめされるような本は必ずある。それと知らずパンフレットかチラシを束ねたような本(の形をしたもの)を消費して「読書」と称することもできる。だがわたしにとっては、カフカのいう、「書物とは、我々の内なる凍った海原を突き刺す斧でなければならないのだ」の方が近い。読書とはまさしく毒書なのだ。

 アウグスティヌスのライフハックも、スタンダードながら使える。読書をしていて魂をゆさぶられるような言葉に出会ったら、必ず印をつけておけという。何度も反芻し暗唱することで、自分のモノにしてしまうために。ページも章立ても整っているコデックスならともかく、当時は巻物のようなインデックスがつけにくいものだったに違いない。

 今なら付箋か傍線か抜書きやね。わたしの場合、付箋を貼りながら一読して、次に付箋を剥がしながら二度読みしている(その際、残したいフレーズや描写、想起された思考をノートに抜書きしている)。ノートは週、月、年のタイミングで取捨選択をくり返し、アイディアを広げたり深めたりするのに使っている。寸鉄のような箴言から気の利いたエロフレーズまで、取りそろえている。本書で腑に落ちたのは、オーハン・パムークの次の一節。

人生とは一回限りの馬車に乗るようなもので、終わってしまえば二度と再び乗ることはできない。しかしもし、あなたが書物を手にするならば、それがいかに複雑で難解なものであろうとも、それを読み終えた時、望むとあらば最初に戻ったりもう一度読み直したりして、その難解だったところを理解し、それによって人生も同じく理解できるのだ。
 「二度読む価値のない本は、一度読む価値もない」と言ったのはマックス・ヴェーバーか。反対意見も沢山あろうが、反証となるような本は、"本"という形をとらなくてもよくなっている。特に最近のデジタル化の躍進によって、"本"や"読書"というよりも、むしろ"資料"や"ダウンロード"といった言い方のほうがしっくりくるのではないか。ヴェーバーの忠告は、むしろ「二度読む価値がある本を選びなさい」というアドバイスとして受け取っている。

 耳に痛い忠告もある。ずばり、「知識の集積が知識になるとは限らない」という。紀元4世紀の詩人デシムス・アウソニウスを引いて、両者の混同を嘲笑する。書棚を埋め尽くすほど買い集めたからといって、学者になるわけでもなし。追い討ちをかけるように、「書物馬鹿」を紹介する。これは、ガイラー・フォン・カイゼルベルクが1509年発表したもの。それによると、愛書家の愚行は7つの型に分類されるという

  • 第一の書物馬鹿 「蔵書を鎖でつなぎ、書庫に閉じ込め、囚人のごとく扱う」
  • 第二の書物馬鹿 「次々と書物を読むことで賢くなりたいという書物馬鹿」
  • 第三の書物馬鹿 「書物を集めるばかりで読まない、時間の浪費」
  • 第四の書物馬鹿 「高価な彩飾本の愛好家」
  • 第五の書物馬鹿 「やたら豪勢な製本を施したがり、蔵書票に凝る」
  • 第六の書物馬鹿 「古典を読んだこともなければ綴りや文法、修辞に関する素養もないまま、読むにたえない書物を書き続ける」
  • 第七の書物馬鹿 「書物を嫌い、書物から得られる知性を見くびる」
 第二、第六が痛い、痛すぎる……「本を読むと賢くなる」という刷り込み(洗脳?)に浸され、自分で自分を騙し続ける。読書から得られる喜びと知見に限らず、「そう思う自分」をメタに眺めることで、その馬鹿っぷりもひっくるめ、喰ってやれ。

 書物のデジタル化への目配りも欠かさない。本書が書かれた時代は、十数年前のマルチメディア全盛時代だ。CD-ROMにまとめられたシェイクスピアが紹介されている。が、そんなに昔じゃないはずなのに、ずいぶん古びた感覚を呼び起こさせる。8インチ、3.5インチのFD(フロッピーディスクと呼ぶのだよ若い衆)、そしてカセットテープの磁気媒体で読み書きしていたのは、確かに昔の話だが、そんなにわたしが老いたのか!?と愕然となる。昭和生まれが時代遅れと見なされる未来(そんなに遠くない)まで、ブルーレイは生き残れるだろうか。

 グーテンベルグの印刷術もきちんと紹介されているが、マングウェルの指摘で面白いと思ったのは、「印刷術」により手書きテクストが追放されたのではないという点。もちろん、印刷術により書物が劇的に安くなり、写本に携わる人が減ったのは事実だ。だが、手書きテクストへの愛着が完全になくなってしまったわけではないという。それどころか、グーテンベルクと彼の後継者たちは、積極的に写字生の技術を見習おうとし、実際、多くの印刷本のページは、写本のような体裁をとっているという。

 同時に、印刷術が確立していた15世紀末においてさえ、美しい手書きテクストへの愛好は続き、カリグラフィーの優れた作品は製作され続けている(数は少ないけれどね)。これは、現在のタイポグラフィーの興盛にも通ずる。活字が「文字を固定する技術」であるほど、固着化される文字のバリエーションが広がろうとする。矛盾なのか反動なのか。

 かつて「読書の文化史」を読んで、文化的な背景から読書の歴史を考察したことがある("読むとは何か"を長い目で「読書の文化史」)。16~18世紀アンシャン・レジームの時代において、印刷された文書が、どのように社会的影響を与え、どんな思想を生み出し、権力との関係性を変えていったかが展開される。シャルチエ氏は、わたしが常識(?)だと思考停止していた部分に対し、別の視点から考察する。あらたな知見が得られたのは収穫だが、同時に、彼の視点は今の電子書籍の風潮にも適用できるから面白い。

 ハヤリの電子書籍を考える上で有用な観点がある。もちろんマングウェルは今のデンシショセキを意識して書いたわけではないが、「書き手と読み手のパラドックス」が図らずも明かしている。つまり、「本は読まれるために、テクストはいったん死ななければならない」というのだ。テクストを完結させるためには、いったん書き手が引っ込まなければならない。書き手が存在している限り、テクストは完結しない。書き手がテクストを手放したとき、はじめてテクストが誕生するという。ハヤリの電子書籍では、書き手と読み手の間にある、編集、校正、版と刷の関係がとっぱらわれたり圧縮されたものが、「書籍」として扱われる。

 このパラドックスを律儀に踏襲したデジタル「書籍」の未来をつくるよりも、むしろ、「書籍」としない市場を目指すほうが字義どおりなのでは?と思えてくる。つまり、紙の本である限り、版と刷から逃れられない(いったん脱稿・校了しなければならない)。だが、紙の本からフリーになるのなら、「書き手と読み手のパラドックス」からも自由になるのではないか、という仮定だ。開くたびに中身が改変されたりアップデートされているようなテクスト―――Wikipedia などが思いつく―――を読み手の嗜好とリクエストに沿って動的に束ねたものが、パラドクス・フリーのものになるのではないか?

 わたしの妄想にクギを刺すように、著者は「モノとしての書物の役割」の指摘も忘れない。その本を読んでいる(手にしている)ということは、批判的であれ信奉しているものであれ、少なくとも自分の資源を使うほどの興味があるのだ。そして、それをファッションのように外に示していることになるのだ。マングウェルは、「書物が仲間に自分の存在を知らせる一種のバッジのようなものである」という。かつて、とある殺人鬼はサルトルの本を抱え歩くことで、知的な男を演出し、若い女性にアピールしていたことを思い出す。「サルトルを読んでる俺カッコイイ」というやつですな。このとき、本は物理的なラベルとして大いに役割を果たす。電子書籍のプレイヤーでは無視される役割だろう。

 今年は電子書籍二年目だという。1980年代のニューメディア、1990年代のマルチメディア、2000年代のWeb2.0、ユビキタス、クラウドといった「消費される流行語」の鬼籍に入らないよう、エバンジェリストはがんばって欲しい。金脈ではなくジーンズを売りつけようとした人(や会社)を覚えていると、同じ手口に掛からないよ。

 焚書の歴史が凄まじい、読書の歴史とは焚書の歴史だ。紀元前411年、アテネではプロタゴラスの著者クが焼かれ、紀元前213年、秦朝の始皇帝は、領土内の全ての書物を焼き尽くすことで、読書行為を終焉させようとした。ヴォルテールが、カムストックが、ナチスが、それぞれの焚書と検閲の光で読書の歴史を照らし出す。マングウェルはその焚書の歴史を焼け残った本で再現させ、焚書の光を浴びていない箇所のほうが珍しいことを指摘する。

 ひょっとすると、現代のわたしは、表現の自由が、法で保障されている、実はきわめて珍しい時代に生きているのではないか、そんな気がしてくる。しかし、非実在なんちゃらで検閲を強化する連中がいる。検閲官を自任し、自ら選んだ猥書を追放処分にしたカムストックが毎日読んでいたもの、それは聖書だったという。裏切り・殺人・姦通盛りだくさんのスペクタクルエンターテイメントが愛読書というのは、皮肉が利いている。

 自分が気に入らないものを、社会の害悪にするやり口は巧妙だ。大衆の良心や美意識、脳内の「無垢な子ども」に訴える手法は、現代のカムストックたちも利用している。タブラ=ラサは都市伝説だということは、チョムスキー御大を呼ばなくても分かるだろうが、どんな検閲社会になるかを見るために、焚書と検閲の歴史の章は必読なり。

 奇妙なことに、「読書の歴史」には終わりがない。だいたい冒頭が「最後のページ」ではじまっているのだ。そして最終章の後、索引の前に「見返しのページ」を設けている。かなりの量の空白のページで、本書を読んで得た気づきや引用、欠けているトピックや、さらには自らの思索をつづりなさいと誘っているように見える。

 読み手の経験やジャンル、嗜好、読書スタイルによって、さまざまな深度でヒントや気づきが得られる。そこから自分にとっての「読書とは何か」を考え直すきっかけが生まれる。再読すれば、またそのときの自分にとってのアイデアが見つかるだろう。本書はくり返し読むことで、ラストの空白の「見返しのページ」が埋まっていくことを求めている。そして、見返しのページは表紙側にもある。つまり、次にわたしが手にする本の、第一ページにつながっているのだ。

 読書の歴史とは、読者の歴史でもあるのだから。

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少女と記憶とアイデンティティ・クライシス「少年は荒野をめざす」

 あらゆる少女マニアにオススメ。

 いわゆる澁澤的「少女マニア」を脱し、今度は父としての立場から娘を育てている。ピンで止めてガラスケースに陳列するのではなく、生きて動いて大きくなる存在だ。もう幼児ではない娘を見ていると、記憶の彼方の少女を探すのか、それとも未だ見ぬ「少女」をシミュレートすべきか、分からなくなる。

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 そういうわたしにとって、「少女とはどんな存在か」を見える物語で示してくれる吉野朔実はありがたい。これが野郎になると、耽美とか処女性とか象徴的な語りに陥ってしまう。少女とは「女の子ども」や「処女の娘」で囲い込める存在ではない。

 もっと端的に言うなら、「少女」とは欠けた存在だ。その欠片は、世間体(親も含む)を繕うための外聞だったり、自身を安定し充足させるための何か―――才能の発露や生活基盤、"わたし"という確固たる存在そのもの―――が相当する。だから「少女」は生き難い。自分とは何か?をつかみきれないまま、世間との折り合いをつけるやり方を模索しなければならない。

 ところがオトナは放っとかない。欠けた部分に勝手に物語をあてはめたり、欲望や願望の対象としてレッテルを貼り付ける。記号化された「自己」を自分だと思い込み、愛される"条件"という矛盾に気づかぬまま状況に委ねるのが「ECCENTRICS」(レビュー)になる。いっぽう「少年は荒野をめざす」では、オトナの視線を上手にかわしながら、あやういところで「少女」にとどまろうとする。その狩野(主人公の名前だ)の奮闘が、いじらしい・かわいらしい。

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 狩野は「少女」だ。記憶や身体の不完全性を満たして欲しい―――すなわち「愛されたい」という欲望が、呪いのようについてまわる。その欲望が、「女として」という条件付になるのなら、狩野は「少女」のままでいられるのか?意志の力で生理を止めてしまった(らしい)彼女だから、きっとやってくれるはず(笑)。しかし時は絶ち、少年はオトナになり、少女は成長する。不安定な精神と、不自由な身体に囲われて、それでも狩野は模索する。自分に足りないものを、偶然であった少年・黄味島に探そうとする。

   好きな人達の
   目に映る自分は
   自分が感じる自分より
   確かな気がした

 ここで面白く/怖くなってくるのは、普通のガール・ミーツ・ボーイでないところ。狩野がであうのは、少年というよりもむしろ、自分にそっくりの存在だ。まるで双子のように似通った二人。ここから吉野朔実の真骨頂のアイデンティティ・クライシスにひた走る。自分そっくりなら、「自分」って何よ?要らないんじゃないの?自問自答から始まり、幼年期の「自分が代わりをした兄」の記憶がちらつく。互いの瞳の中に、失った"兄である自分"を見出したり、"解放されている自分"を求める二人が手を取り合った行く末は―――「ECCENTRICS」のエンディングを想像してゾッとなる。

 いま、わたしの娘は無条件にわたしの愛を求める。わたしは無条件に愛を与える。だっこしたり、ハグしたり、その他なにやかやと世話を焼いてやる。「無条件の愛」だなんておかしな言葉だが、娘から何も期待しない。ただただ喜ぶ顔を見たいだけだ(これは息子も同じだな)。しかし、与える/得るの連鎖に満ちた生き難い世間サマと向かい合うとき、わたしの娘も、狩野と同じような居心地の悪さを感じながら、「自分」を満たそうとするのだろう。

 (娘をもつ)父親がこれ読むと、いろいろ考えさせられるね。「ECCENTRICS」で騒いでたわたしに、「それが良いならこれは?」オススメしてくれた嫁さんに、マヂで感謝。

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ジワジワ傑作「笑う警官」

 ひさびさ「まっとう」なミステリを読了。

笑う警官 キャラやシチュやトリックに拘る作品を食べてきた。最近では、「どのパターンの組み合わせか」を考えながら読むので、たいへん悪質な読者だね。猟奇描写、叙述トリック、告白形式(犯人はヤス)あたりが流行りか。そんな舌には、昔のが新鮮に感じられる。犯罪と(それを支える)社会を正面から描き出す社会派というやつ。

 「笑う警官」の舞台は、スウェーデンのストックホルム。深夜バスで銃が乱射され、乗客と運転手が皆殺しになる青酸なイントロ。人種差別や移民排斥、
暴力と麻薬と貧困に満ちた当時があぶりだされる。弱者が弱者を食い物にするのが当然視され、この犯罪そのもののバックグラウンドとなっている。数十年前の作品ながら、幸福な福祉社会を喧伝する北欧に似つかわしくない。

 スウェーデンといえば、福祉と教育で名高い「成功国家」としてもてはやされている。テレビの紹介なので、話の90%を切り捨てたとしても眉唾だ。イイトコばかりを持ち上げてカメラに映したからじゃぁないかと睨んでいる。そんなわたしに展開される、人種差別と他人を食い物にするゲス野郎に満ち溢れたストックホルムは、とても人間味あふれている。たとえば、犯行に使われたマシンガンがフィンランド製だったことにかこつけて、捜査員の一人は断言する。

「そりゃ、頭のトチ狂ったフィンランド人にきまってるさ。まあ警察犬でも連れていって街じゅうから気違いフィンランド人を狩りだすんだな。胸のおどる仕事だぜ、これは」

あるいは、アラブ人に部屋を貸している家主はこう述べる。

「そうねェ、アラブ人にしてはいいひとだったんじゃないかしら。ほら、アラブ人ていうとふつう不潔で信用のおけない連中ばかりざんしょう」

偏見に満ちた発言や侮蔑のまなざしにつきあたるたびに、わたしはふふっと黒く笑って、妙な検閲を経ていない昔のミステリを手にしていることを再確認する。そう、差別の事実如何にかかわらず、そういうセリフを平気で口にする人は必ずいる。そして、そういうセリフを言わしめる動機や理由が、必ず存在する。その瞬間を丹念に写し取っているのが良いのだ。かつ、犯行の背景や犯人像に効いてくる仕掛けになっているのだ。

 クズでゲスのような連中にじっくりつき合わされた後、犯行の本質が明らかにされたとき、「これはひどい」感がいいようのないほど募り増してくるだろう(むろん犯人にだ)。読み手の、この「許しがたい」感覚は、捜査員の一人が叫ぶように代弁してくれる。引用はネタバラシになるので、ここでは控えるが、よくぞ言ってくれた!と拍手したくなる。

 カメラをお花畑に向ければキレイな画が撮れるだろうが、肥溜めに向ければ視界はクソまみれになる。犯人の外見と本質を、スウェーデンに対してわたしが抱いている欺瞞に重ね、オトナゲない読書を楽しむ。

 ちょっと「ふつう」じゃないところを見つけたので補足。捜査員の面々は、フロスト並の仕事中毒なのだが、よくある警察小説とちと違う。折にふれ、妻へのねぎらいや家族へ配慮するシーンが挿入されているのだ(北欧クオリティ?夫婦で共著だから?)。わたしの読んできた「ふつう」の警察モノだと、たいてい家庭は破綻しているか、破綻した後か。ただし主人公のベック警部は例外で、「夫婦の隙間風」が吹き始めている。聞くところによると、このシリーズの終盤に、一種の救いがもたらされるそうな。その「救い」にたどり着くために、著者は連作を続けたんじゃないかという(全シリーズ読破は大変なので、今度教えてください>やすゆきさん)。

 ちと古いが、1970年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞・最優秀長編作品賞している。時代背景の描写(デモ隊やベトナム反戦)を除けば、今でもすんなり「傑作」として通用する。事件が迷宮入りになる瞬間と、迷宮入りした事件から抜け出る快感が楽しめる。

 本書はスゴ本オフ@ミステリがきっかけ。知ってはいたものの、長年積読状態でしたな。おかげで傑作を読むことができました。やすゆきさん、ありがとうございます。

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ルーヴルを使ったコラージュ「氷河期」

 「荒木飛呂彦がハマった」という惹句に招かれる。なるほど、これは珍しい発創だ。

氷河期 本書は、ルーブル美術館のバンド・デシネ・プロジェクトの一環として製作されたもの。バンド・デシ ネ(bande dessinée)とはフランス語で「描かれた帯」という意味で、漫画に相当するのだが、わたしが馴染んだマンガとは偉い違う。もっと芸術性の高いもの で、フランス語圏では、「9番目の芸術」(le neuvième art)として認識されている(wikipedia[バンド・デシネ]より。

 マンガという先入観をいったん捨てて、ここは「画集」としてページを開いてみよう―――時は未来、場所はパリ。た だし地球に氷河期が訪れ、人類は歴史の記憶喪失に陥っている。つまり、現在との連続性が喪われた人類の末裔により、氷に覆われたルーブル美術館が探 索される。膨大な美術品を前に、調査団は失われた文明を読み解こうと、奇想天外な解釈を並べ立ててゆく。

 この解釈が面白い。裸婦に「ふしだらだ」とか「奔放だ」とか考えをなすりつけるのは、評者の性格に因る。同じ理由で、宗教や戦争から独立して見 立てると、作品に込められたメッセージはいくらでもすり替え可能になる。解釈は経験に因るように、解釈は歴史に裏打ちされているなぁ、とアタリマ エながら再確認させられる。

 モチーフのキングともいえる、キリストが群れをなして登場する場面がある。それぞれが「オリジナル」であるにもかかわらず、カリスマ性を剥ぎ取 られ、大量の複製のように見えるのは、「キリストは一人しかいない」というわたしの『常識』がそうさせているから。人類の歴史や芸術について偏見 も先入観も持たない人にとって、「ルーヴル」がどのような意味を持つのか?一種の思考実験やな。

 マンガのように「読み流し」はむずかしい。一コマ一コマ、静止画像のように独立して描いているうえに、連続して組み立てられている。コマの大小 に関係なく、精密に描いたり大胆に塗ったりしてて、面白い。人物を前面に立てて、「動き」や「語り」をコマに詰め込む日本のマンガとは、かなり違 う。まるきり別物だと思ったほうがいい。

 日本のマンガで思い起すと、絵的には異なるが、田中政志「ゴン」なんかがそうかも。極めて実験的なマンガで、セリフ、ト書き、音喩、擬音、擬 態、を排除して、完全に「絵」だけでストーリーを転がし、メッセージを伝える作品がある。あるいは、これは絵本のジャンルになるが、「風が吹くと き」なんて近い。一コマ一コマがそれぞれ独立した絵のようで、つなげて始めて漫画のように「読める」。

Rohan_au_Louvre 「バンド・デシネ」というフランス名で呼ばれると、まるで新しい何かのように誘導されがちだが、逆だろう。日本のマンガが開拓しつくした鉱脈の 一 端が再発見されているようで、むしろ別の作品を思い出して懐かしさを覚えるかもしれない。創発本として、ルーヴル美術館のユニークな案内として、楽しめる。荒木飛呂彦センセは、バンド・デシネで一冊モノにしている→「Rohan au Louvre」…「ルーヴルの露伴先生」といったところか。フランス語なので邦訳を正座して待っているところ。


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劇画「家畜人ヤプー2」がパワーアップしてるぞ

 天下の奇書「家畜人ヤプー」のコミック版。

 「子どもからエロを隔離せよ!」という怒号(歌声?)でゾーニングが流行ってる。「非実在青少年」とかいう脳みそ花畑な連中がいるが、学級文庫に乱歩や手塚が並んでいるのは知ってるのかね。「火の鳥」や「二十面相」に耽るわが息子は、「芋虫」や「人間椅子」まであと半歩。見てみぬフリはできぬ。書くにせよ、読むにせよ、物語の駆動力は性と死なのだから。

 わたしの子ども時代は、もっとオープンだった(だからこんな変態が育ったともいえるw)。「ドーベルマン刑事」はジャンプだったし、「実験人形ダミー・オスカー」にはお世話になった。しかし、セックスもバイオレンスも「こんなものか」とタカくくっていた小僧に、石ノ森章太郎/沼正三「家畜人ヤプー」は強烈すぎた。人間を完全に改造しつくし、便器や家具にしてしまう発想はなかった。いや、この世界の「日本人=ヤプー」は「人」ですらないのだから、ショックを受けるほうがおかしいのだ。想像力の極北に立つと、日常が異常に見えてくる。

家畜人ヤプー1家畜人ヤプー2

 白人が頂点に君臨し、黒人は奴隷で、日本人は養殖・消費される未来社会(イースと呼ばれる)。ポイントは「黄色人」ではなく「日本人」であるところ。徹底的に日本人を卑下し、唾棄し、叩きのめす。日本人の感情を俎上にすえた巨大なSMプレイやね。国辱とはなにか、感情レベルで実感できるかも。

 いいや、と全力で拒絶してもいい。これは未来の空想譚なのだからとココロに予防線を張っおくのだ。しかし、そんなことすると、第2巻でガツンとやられる。日本史そのものがイースの干渉の歴史であることが明らかにされるのだから(副題のとおり、まさに「悪夢の日本史」やね)。荒唐無稽?コウトウムケイだ。だが辻褄あわせやリアルの追求をするよりも、そんなことを思いつく発想のほうがスゴい。

 復刊「家畜人ヤプー」【18禁・グロ注意】で、レビューしたとき、オススメされたのが、蜈蚣Meribeの「バージェスの乙女たち」。これはこれでスゴいのだが、同じ発想がヤプーの続編にあったとは……開いた口を塞ごうと意識した唇に、イヤな感触を共感してしまうかも。この酷さは、わたしの口からは言えぬ。2巻でつまびらかにされる天狗とオカメの件は、ご自身の目でお確かめあれ。

 原作は沼正三、これを元にして石ノ森章太郎が劇画にしたのが第1巻ヤプー。それを引き継いだのがシュガー佐藤の第2巻ヤプーとして復刊している。いや、復刊というよりもリニューアル?リボーンなのかもしれない。描くタッチもコマ構成もシームレスにつながっており、お見事としかいいようがない。キワどい表現手法や挑発的な映像を眺めていると、エロスよりも不可解な気分にハマる。新しき樽に詰めた、年代モノの美酒を味わえ。むろん小学生にはムリだけど、高校ぐらいになったら、こいつを笑って読めるように育つとイイナ!

 SMとSFの、強烈な融合を見るべし。

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徹夜小説「ガダラの豚」

 2ちゃんねらが絶賛してた「ガダラの豚」読了。なるほど、「寝る間も惜しんで読みふけった」のは、激しく同意、わたしにもあてはまった。

 図書館に限るが、面白い小説を探す方法がある。天(本の上面)から見てみよう。新刊本なら長方形の天が、平行四辺形になっているはずだ。つまり、背(背表紙)がナナメになっているのが、面白い本なのだ。本は開くと、開いた場所から背がひしゃげてくる。閉じると、元に戻ろうとするが、ずっと開いていると、開きグセがつく。つまり、ナナメになっている背が急角度であればあるほど、「ずっと開きっぱなしになっていた」すなわち「閉じる間もなかった」本になる。

 わたしが借りた、一巻本の「ガダラの豚」の背は、45度だった。これほど急角度なのは珍しい。半信半疑で読みはじめ、とまらなくなる。テーマは超常現象と家族愛。これをアフリカ呪術とマジックと超能力で味付けして、新興宗教の洗脳術、テレビ教の信者、ガチバトルやスプラッタ、エロシーンも盛り込んで、極上のエンターテイメントに仕上げている。中島らも十八番のアル中・ヤク中の「闇」も感覚レベルで垣間見せてくれる。

ガダラの豚1ガダラの豚2ガダラの豚3

 エンタメの心地よさといえば、「セカイをつくって、ブッ壊す」カタストロフにある。緻密に積まれた日常が非日常に転換するスピードが速いほど、両者のギャップがあるほど、破壊度が満点なほど、驚き笑って涙する、ビックリ・ドッキリ・スッキリする。この後どうなるんだーと吠えながら頁をめくったり、ガクブルしながら怖くてめくれなくなったり。

 面白さはいたるところにあるが、わたしがいちばん惹かれたのは、「読めない」ところ。つまり、スーパーナチュラルという「筋」なのか、そうでないのか、最後まで分からない。超能力を見せつけたあと、そのトリックを暴く。宗教のウサン臭さを追い詰めたあと、宗教がリアルに及ぼす力を見せつける。呪いが荒唐無稽であると語った直後、効く根拠として科学的・文化的背景をとうとうと述べる。

 オカルトとサイエンス、両方に軸足を置いて、どっちにも転べるようにしてある(そして、どっちに転がしても「読める」ように仕掛けてある)。ホンモノの呪いなのか、プラセボ合戦なのか、最後まで疑えるし、読み終わっても愉しめる。どっちに倒すのかは、読み手がどっちを信じてるのかに因るのかもしれん。その証拠に、キャラを換えシチュを変え、こう言わせる。

人間っちゅうのはな、見たいと思うもんを無理矢理にでも見るもんなんや
信じたい気持ちだけがそこにあった。彼女はただ、自分の業苦から救われたかったのである。
君たちは、ほかに説明を思いつかないというだけの理由で、簡単にまちがった結論に飛びついてしまう。それを知ってほしい。何か説明できないことがらがあっても、ただちにそれをスーパーナチュラルだと思い込まないでほしい。

 トリックだトリックだと思い込ませておきながら、スーパーナチュラルな事象をたたみかけてくる。仕掛けたタネをあばきながら、読み手に「いや、でも違うぞ」と自問自答させながら転がってゆくお話は、先がウスウス分かっていても、こ・わ・い・デ。

 もちろん、アラを探せばいくらでも、叩けばネタは山ほど出てくる。ラストの怒涛の活劇では、強引なつじつまあわせに鼻白むし、(ネタバレ反転)サブリミナルが出てきたときはガックリときたが、それでも物語のパワーにもっていかれる。そう、もっていかれる読書なのだな。

 二十年も前に書かれた小説なので、歯がゆいところも出てくる。イマドキの若者なら、敵陣に乗り込むときはiPhone+GPSで装備するだろう。志村うしろ的シチュエーションも、U-Stream や twitter 実況で回避してしまうかもしれない(当然、超常演出はガジェット向けに強化されるだろう)。むしろ逆手を取って、ガジェットをオカルト化してしまうかもしれない。「着信アリ」とか「女優霊」が浮かぶが、そっちのセカイへ逝ってしまっており、肌合いが違う。「ガダラの豚」は、日常と親和した異常というか、現世と来世のネガポジ関係が、互い違いにあらわれている。

 ウンチクともかく、寝食忘れて読みふけれ。まちがいなく面白いから。

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セカイ系の近未来SF「虐殺器官」

虐殺器官  スゴ本オフ@ミステリで惹かれて手にしてイッキ読み(カネヅカさんありがとうございます)。ガジェットとウィット満載で大いに楽む一方、マイノリティ・リポートとメタルギア・ソリッド(MGS)を足して割ったようなセカイにくたびれる。

 延々続く「僕の語り」が特徴的で、過去と悪夢と現在を説明なしに並べてみせる。同じ脳内だから分け隔てしないよ、という手法は好きなんだが、骨子はかなり単純だ。個人認証による厳格な管理社会を突き進む「先進国」と、搾取と内戦と環境破壊が凄まじい「後進国」、キレイに分れた近未来。大量虐殺を引き起こす「虐殺の器官」を追う米軍特殊部隊のエリートが主人公で、徹頭徹尾、彼のモノローグに付き合わされる。

 この「語り」が面白い。自分(の感情)をつき放して論理を積み上げる冷静さと、母の半生をうじうじ思い悩むマザコン根性が代わりばんこに浮かんできて妙にリアルだ。冷たいユーモアも笑える。屠殺した鯨やイルカの筋肉組織を利用して飛行機の翼をつくるといった、某保護団体が知ったら卒倒しかねないドス黒ネタを淡々と説明する。そんなに未来の話じゃないから、「僕」は某団体の経緯を知ってるはず。にもかかわらず、皮肉味を一切交えずに言い切るのは、いったい誰に対してだからだろう?と苦笑する。

 随所に埋め込むネタ・パロディも面白い。機関銃をすえられ、軍事車両として再利用される日本車は、頭文字D「藤原とうふ店」だろうし、六次の隔たり(ケビン・ベーコン数)から「初体験リッジモント・ハイ」を思い出す主人公に思わず握手したくなる。あまつさえ、敵役がおもむろに「好きとか嫌いとか最初に言い出したのは~」と話し出したので感涙にまみれる。「やたら有能な官僚組織が出てくる軍事小説、あるだろ。俺はああいうの、片っ端から発禁処分にすべきだと思うんだ」は、どうみてもトム・クランシーですありがとうございます。

操作される脳 もっとも、主人公の「冷静さ」は、純粋戦闘員となるためのケミカル・トリートメントに因るものだから笑えない。戦闘の障害となる痛覚や良心そのものをマスキングして、「痛み」を知覚しても「感じる」ことを抑えるといった脳医学的処置は、グロテスクだが実際に行われている。死なない兵士はムリとしても、死ににくい兵士はできる。恐怖や痛みを感じずに突撃し、見聞きしたすべての情報を丸ごと記憶している。傷を受ければ即座に自己治癒し、睡眠や食べ物なしでも活動可能な兵士をつくりあげる。「操作される脳」(レビュー)では、こうしたDARPA(米国防総省国防高等研究計画局)の研究を紹介している。MGSまんまやね。

子ども兵の戦争 よく勉強しているなぁ、と関心したところも。現実の出来上がっていない子供たちを誘拐して、兵士に仕立て上げるサマや、「国家のイメージはPR会社によって大きく左右される」と言わしめるところなんて、「子ども兵の戦争」(レビュー)や「戦争広告代理店」(レビュー)だね。物資の運搬や食事の作業のみならず、実際の戦闘、かく乱、スパイ活動、さらには自爆テロの弾頭として「消費」される子ども兵や、(大人の)兵士に「妻」として与えられる少女の兵のエピソードは、まさに「見えない兵士たち」まんまやね。映画なら「フルメタル・ジャケット」に出てくる髪をふりみだしたスナイパー少女を思い出す。

 ただ、一人称である以上、どうしても地の文を「僕」が解説する形になる。実弾飛び交う戦闘中にしみじみ昔をふりかえる様子は異様だし、はみだした腸とか穿たれた後頭部のディテールは詳しいくせに、生きて話している相手の背格好や顔つきには興味がないようだ(そしてまさしくそこが、主人公のキャラクターでもある)。主人公はカフカを持ち出して語りたがるが、むしろカミュ的なマザコンだろう。ほら、ラストに彼が取った行動は、ムルソーの「太陽のせい」というセリフがピッタリ。

 ミステリ要素は、タイトルの「虐殺の器官」の謎に迫るところになるが、ううむ、(ネタバレ反転)リング・らせん・ループの悪い冗談にしか見えない、いわゆる言霊ってやつ。説得力も同様やね。いい意味でも悪い意味でも、エンタメ足算の足跡だらけなのでご注意を。

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