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「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」はスゴ本

 物語のチカラと感染力を試される。過去や現実と向かいあうための嘘は、必要嘘なのかもしれぬ。

悪童日記ふたりの証拠第三の嘘

 スゴ本オフ@ミステリ編で再読の機会にめぐまれたのだが、二十年ぶりなのに反応する箇所が一緒で笑える。戦時下の混乱をしたたかに生き抜く双子におののき、その過去を相対化する続編におどろき、「相対化された過去」をさらにドンデン返す最終作に屈服する。これをミステリとして扱って、嘘を暴くことはもちろん可能だが、そんなことして何になる。一切の同情を拒絶する結末に、読者は完全に取り残され、鬱小説と化す。

 酷い目に遭ったとき、受けいれがたい現実と直面したとき、その出来事そのものを別のものとして扱うことができる。すなわち、「……というお話でしたとさ」と、物語化するのだ。葦船や平家の落人の貴種流離譚から始まって、邪気眼や「パパが犯しているのはアタシじゃなく別の子」といった自己欺瞞は、別の人格どころか、別の人生を創りだす。そして、辛いことや悲惨なことは、その人格や人生に担わせ、自分はそれを外側から眺める/聴く存在として演ずるのだ。

17人のわたし たとえば、「17人のわたし」というキツいノンフィクション。父親とのセックスを強制させられた自分を守るためというよりも、むしろ「娘を強姦する父」から目を背けるための物語を担わせる人格を次々と生み出す。物語化の感染力は記憶を塗りなおすだけでなく、ついには自分そのものを疎外してしまう(別の部屋に閉じ込める、と表現される)。しかし、そのおかげでカレンという最初の人格は死なずにも狂わずにも済むのだ。

 「悪童日記」では、"感覚を消す練習"が出てくる。親に遺棄され、辛い生活強いられる現実を克服するため、互いを実験台にして双子は練習を重ねる。片方がもう片方を叩き、刃物をふるい、炎を押し付ける。ひととおりこなすと交代し、互いに傷つけあう。痛みを感じるのは、誰か別人だと感じるようになるまで。また、罵ったり、むごい言葉を浴びせあう。酷い言葉が頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで続ける。文字を読んだり、楽器を弾くのと同じように、感覚を麻痺させたり、残酷になる練習をする双子。読み手はそこに、浦沢直樹「モンスター」のような"かいぶつ"を見つけるかもしれない。

 その続編となる「ふたりの証拠」では、離れ離れになった双子の片方の物語となる。「信頼できない語り手」どころか、「信頼できない作家」のことばを頼りに読み進むと、一作目自体が罠であったことに気づく。「悪童日記」を否定しているのではなく、悪童「日記」として書かれた帳面を生み出した世界を、もう一度構築しなおしている。最初の生活の輪郭をなぞるように語られる過去は、なぜ「悪童日記」が書かれなければならなかったのかを理由付けする。(二十年前の初読のとき)わたしは幾度もこう思ったものだ→「双子とは偽りで、実は一人が生み出した別人格なのではないか?『悪童日記』の『ぼくら』を『ぼく』に置換すると、一作目と二作目がちょうどウロボロスの蛇のように、たがいの尻尾を飲み込みあった円環になるのではないか」と。これは、二作目で完結しているのなら、正しい。

 しかし、三作目「第三の嘘」になると、はっきりする。「悪童日記」を物語として相対化したのが「ふたりの証拠」、そして「ふたりの証拠」と「悪童日記」をもうひとつの物語として包んだのが、「第三の嘘」であると。過去を清算するための嘘、現実と向き合うための嘘、嘘を嘘で塗り固め、嘘を嘘で包み、混ぜ、練りこむ。書こうとしたのは本当の話なのかもしれない。しかし、事実であるが故に耐えがたくなる。真実を書こうとするならば、そのペンの下の紙が燃え上がってしまうというが、この場合は、真実の重みに耐えかねてペンがへし折れてしまうのだ。だから、現実の(過去の)重みを逸らすために嘘を書く。あるがままではなく、あってほしい形、あればよかった思いにしたがって書く。

 読み手はどの現実?と自問していい。「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」の、どのバージョンの物語を採択できるのだ。どうやって現実と折り合いをつけるか?現実を歪めるか、別の現実(=物語)を生み出すか。その捻れた現実を復元する読書となる。そして、解きほぐした結果はかくも苦い。この三部作のテーマを一文にすると、こうなるのだから。

  「ちょっとでもまじめに考えると、生きていることを喜ぶ気にはなれない」

 生きるためというよりも、狂わずにいるための「物語」。


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コメント

友人宅に遊びに行く途中に親父に貸してもらったのですが楽しい気分が台無しになる作品でした。
まあ、その後対戦ゲームで友人とひたすら撃ち合ったんですが、スポーツ感覚で撃ちあえるHALOは緊張感なくできたので、小説のことを忘れられました。
トリックは暴きたいのですが通読出来るほどの気力はもうないです。

投稿: クロ | 2011.01.04 01:19

>>クロさん

そういう方は、「悪童日記」で止めておいてよかったと心底おもいます。現実と妄想は、靴下を裏返すようにでんぐり返りますので。

投稿: Dain | 2011.01.04 08:21

これは失礼いたしました。
3冊通読いたしたのですが、3巻でのどんでん返しに関してトリックなのか何なのか確認したいと思ったのですが、一冊目を再読するのがつらかったということでございます。
果たしてあれをなんと読むのかは難しいとは思うのですが、精神をすり減らしつつもぐいぐいと読めてしまいました。

投稿: クロ | 2011.01.08 22:34

>>クロさん

あ、3冊通読されたのですね。わたしの方で勝手に「悪童日記」だけと思い込んでいました。
一冊目を読んだ目に、二冊目は「どちらかが偽だ」と映り、さらに三冊目に至ると、一冊目と二冊目の両方が偽に見えてきます。しかし、タイトルである「第三の嘘」により、三冊目そのものを疑いだすと、「どの嘘を信じるか」ゲームになるかと。
「ミもフタもなさ」で考えると、三冊目の方が最も酷い話だと思います(だからこそ、「悪童日記」という"記憶"で上書きしたくなったのかもしれません)。

投稿: Dain | 2011.01.09 08:13

dainさんこんにちわ。徹夜で3作通読しました。「もしドラ」ですっかり有名になったハックルさんが昔「名作には劇中劇の要素がある。なぜなら世界はフラクタルだからだ」みたいなことを言っていたのを思い出しました。http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080429/1209430474
リアル、フィクション、メタフィクション、作者、読者、登場人物、語り手......いろんな位相を横断しながら世界を浮遊するのが読書の無常の快楽なのかも、とか思いました。
そんなわたしが一番ウケたメタフィクションは、スティーブン・キングの大失敗した最高傑作「ダーク・タワー」七部作です。

投稿: tanukibayashi | 2011.08.06 10:55

>>tanukibayashiさん

ダークタワー完結してたんですね、ガンスリンガーでぐったりしてしまったので未読です。
メタフィクションの傑作は…たくさんあるけれど、今浮かんだのは、「ドン・キホーテ」かなぁ…

投稿: Dain | 2011.08.06 13:39

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