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美しさは数学で説明できる?「デザインのための数学」

 デザイナーのための数学入門。

デザインのための数学 あつかう数学ネタは、なじみの深いものばかり。だが、「デザインと数学」という観点に照らすと、両者の緊密な関係が見えてくる。デザインって「感性」が幅を利かすものだと思い込んでいたが、数学的な裏が取れている「美しい」「カワイイ」「かっこいい」がある。なお、本書は、東京工芸大学芸術学部において行ってきた授業をもとに作られており、CGやペーパークラフト、スピログラフを使う実践的なもの。

 冒頭いきなり質問―――「最も美しいデザイン」とは、どんなデザインなのか?でも大丈夫、著者は即答してくれる。最も美しいデザインは、自然の中に潜んでいるという。そして、自然の中に見出すことができるデザイン―――シンメトリー、らせん構造、自己複製から、フィナボッチ数、黄金比、白銀比、フラクタル、カオスといった「美の中に潜む数学」を展開してゆく。同時に、「なぜそれが美しいのか?」について持論をつまびらかにする。図版や画像がふんだんに使用されているので、文字どおり、"見える"数学となっている。

 デザインに縁のないわたしにも勉強になったのは、写真の構図と黄金比ネタ。被写体の配置が黄金比(近似値1:1.618)になるとキレイな写真になる。だが、きちんと黄金比に分けるのは大変だ。本書では、三分割法といってフレームを三分割したラインを想定しろという。そして、 2:1 に分割したものよりも少しだけ真ん中に被写体をずらすと、黄金比のバランスになる。

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 上記の <> の列が 2:1 の場所になるから、撮りたい対象を <> の左側に来るようにもってくればよい写真になるそうな。今度やってみる。

 黄金比ならぬ白銀比(1:√2)も出てくる。数学的な話はさらりと流し、著者は「日本人は、黄金比よりも白銀比や正方形が好き」と主張するする。A版、B版をはじめ、人気キャラクターは白銀比キャラが多いというのだ。好感度ランキング表(2010年、ボイス情報株式会社)から、白銀比と正方形キャラを指摘する。

  1 となりのトトロ (白銀比)
  2 ドラえもん (白銀比)
  3 ミッキーマウス (白銀比)
  4 くまのプーさん
  5 スーパーマリオシリーズ
  6 スヌーピー (白銀比)
  7 ちびまる子ちゃん (白銀比)
  8 ポケットモンスターシリーズ (正方形)
  9 サザエさん
  10 ルパン三世

 つまり、人気キャラのタテヨコの比率を考えると、白銀比のものが多い⇒白銀比のものを好む?と仮説を立てるのだ。その勢いで、マンガのご先祖様ともいえる鳥獣戯画に白銀比と正方形を指摘する。同様に、風神雷神図や阿弥陀如来像、阿修羅像にも白銀比を見つけてくる。

 しかし、やすやすと同意はできない。ううむ、人は見たいものを見るものだから、白銀比を探そうとしているんじゃないの?とツッコミ入れたくなる。ただ、デザインを考える際、数学的な背景をもつ値が隠れていることを知っているといないとでは、違いが出てくるのかも。

 数学の、デザインへの応用。ウェイトは「デザイン > 数学」なので数学好きにはもの足りないかも。

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「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」はスゴ本

 物語のチカラと感染力を試される。過去や現実と向かいあうための嘘は、必要嘘なのかもしれぬ。

悪童日記ふたりの証拠第三の嘘

 スゴ本オフ@ミステリ編で再読の機会にめぐまれたのだが、二十年ぶりなのに反応する箇所が一緒で笑える。戦時下の混乱をしたたかに生き抜く双子におののき、その過去を相対化する続編におどろき、「相対化された過去」をさらにドンデン返す最終作に屈服する。これをミステリとして扱って、嘘を暴くことはもちろん可能だが、そんなことして何になる。一切の同情を拒絶する結末に、読者は完全に取り残され、鬱小説と化す。

 酷い目に遭ったとき、受けいれがたい現実と直面したとき、その出来事そのものを別のものとして扱うことができる。すなわち、「……というお話でしたとさ」と、物語化するのだ。葦船や平家の落人の貴種流離譚から始まって、邪気眼や「パパが犯しているのはアタシじゃなく別の子」といった自己欺瞞は、別の人格どころか、別の人生を創りだす。そして、辛いことや悲惨なことは、その人格や人生に担わせ、自分はそれを外側から眺める/聴く存在として演ずるのだ。

17人のわたし たとえば、「17人のわたし」というキツいノンフィクション。父親とのセックスを強制させられた自分を守るためというよりも、むしろ「娘を強姦する父」から目を背けるための物語を担わせる人格を次々と生み出す。物語化の感染力は記憶を塗りなおすだけでなく、ついには自分そのものを疎外してしまう(別の部屋に閉じ込める、と表現される)。しかし、そのおかげでカレンという最初の人格は死なずにも狂わずにも済むのだ。

 「悪童日記」では、"感覚を消す練習"が出てくる。親に遺棄され、辛い生活強いられる現実を克服するため、互いを実験台にして双子は練習を重ねる。片方がもう片方を叩き、刃物をふるい、炎を押し付ける。ひととおりこなすと交代し、互いに傷つけあう。痛みを感じるのは、誰か別人だと感じるようになるまで。また、罵ったり、むごい言葉を浴びせあう。酷い言葉が頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで続ける。文字を読んだり、楽器を弾くのと同じように、感覚を麻痺させたり、残酷になる練習をする双子。読み手はそこに、浦沢直樹「モンスター」のような"かいぶつ"を見つけるかもしれない。

 その続編となる「ふたりの証拠」では、離れ離れになった双子の片方の物語となる。「信頼できない語り手」どころか、「信頼できない作家」のことばを頼りに読み進むと、一作目自体が罠であったことに気づく。「悪童日記」を否定しているのではなく、悪童「日記」として書かれた帳面を生み出した世界を、もう一度構築しなおしている。最初の生活の輪郭をなぞるように語られる過去は、なぜ「悪童日記」が書かれなければならなかったのかを理由付けする。(二十年前の初読のとき)わたしは幾度もこう思ったものだ→「双子とは偽りで、実は一人が生み出した別人格なのではないか?『悪童日記』の『ぼくら』を『ぼく』に置換すると、一作目と二作目がちょうどウロボロスの蛇のように、たがいの尻尾を飲み込みあった円環になるのではないか」と。これは、二作目で完結しているのなら、正しい。

 しかし、三作目「第三の嘘」になると、はっきりする。「悪童日記」を物語として相対化したのが「ふたりの証拠」、そして「ふたりの証拠」と「悪童日記」をもうひとつの物語として包んだのが、「第三の嘘」であると。過去を清算するための嘘、現実と向き合うための嘘、嘘を嘘で塗り固め、嘘を嘘で包み、混ぜ、練りこむ。書こうとしたのは本当の話なのかもしれない。しかし、事実であるが故に耐えがたくなる。真実を書こうとするならば、そのペンの下の紙が燃え上がってしまうというが、この場合は、真実の重みに耐えかねてペンがへし折れてしまうのだ。だから、現実の(過去の)重みを逸らすために嘘を書く。あるがままではなく、あってほしい形、あればよかった思いにしたがって書く。

 読み手はどの現実?と自問していい。「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」の、どのバージョンの物語を採択できるのだ。どうやって現実と折り合いをつけるか?現実を歪めるか、別の現実(=物語)を生み出すか。その捻れた現実を復元する読書となる。そして、解きほぐした結果はかくも苦い。この三部作のテーマを一文にすると、こうなるのだから。

  「ちょっとでもまじめに考えると、生きていることを喜ぶ気にはなれない」

 生きるためというよりも、狂わずにいるための「物語」。


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おとなしいヨーロッパ人「短篇コレクションII」

短篇コレクションII 歴然とした実力差に愕然となる。

 わたしの常識のナナメ上空を飛翔する想像や創造を見せつけられたのが、「短篇コレクションI」、これは傑作だ。翻って II では、きわめて馴染み深い教科書のような短篇ばかりに付き合わされる。陳腐な、と言うつもりはまだないが、この違いは何だろう。

 編者である池澤夏樹によると、I と II を分けた指標となるものは、「地域」に因る。まずヨーロッパ圏で書かれたものが II になり、それ以外が I に集められたという。つまり、最初に II が、次にそれ以外の形で I ができたのだ。並べて読むと、匂いというか空気が異なる。その違いとして池澤は、「リアリズムに幻想の混じる比率が異なる」という。ヨーロッパの方が近代文学成立の歴史を負ったためか、少しだけリアリストが多いそうな。たしかに、跳躍力は I のほうがナナメ上だ。

 しかし、わたしは比率よりも「まざり具合」のほうに着目したい。幻想が「交じる」のがヨーロッパ圏(つまり II だ)、そして幻想が「混じる」のが I になる。幻想とリアルがそれぞれ分けられるか、分けられないかに注目すると、すんなり読めてしまう。確固たる「リアル」がまずあって、そこに幻想を乗せたり交ぜたりするのが II で、そんなリアル/幻想の区別なんてなく、ただあるがままなのが I になる。

 たとえば、レーモン・クノーの「トロイの馬」なんてイカれている。酒場の男女に、「しゃべる馬」がからむお話なのだが、「しゃべる馬」以外は徹頭徹尾リアリスティックに描いているため、馬がなんだか普通の酔客に見えてきて可笑しい。バラードの「希望の海、復讐の帆」はSFをベースにしているものの、テーマはずばり「男と女」だ。ややもすると陳腐になりがちなネタをSFガジェットにくぐらせると、まるで別物の料理になる好例だといえる。

 比べ読みするなら、I ではオクタビオ・パス「波との生活」、 II からはジュゼッペ・ランペドゥーサ「リゲーア」が対照的だ。前者は「波」と恋仲になる青年の話だし、後者はセイレーンと同棲する話になる。どちらも人外の存在との恋愛なのだが、描き方が大きく違う。前者はタイトルどおり、波との生活が日常のドラマとして演出される。何せ「波」なのだから不自由極まりない。彼女(?)が巻き起こす周囲とのトラブルが、空から落ちてきた少女と同じパターンなのだ(そして秘密を知るのも主人公だけというとこも似てる)。そこでは、リアルと幻想は隔てなく並べられる。

 けれども後者、II のセイレーンになると「語り方」がまるで違う。いきなりセイレーンが降ってくるのではなく、まず聞き手の世界が細描される。そこへ語り手が入り込み、過去話へいざなわれ、思い入れたっぷりに擬人化されるのだ。幻想を出すまでのもったいぶり=リアリスティックと扱われているせいか、伏線がそのままさもありなんなキャラクターと化す。幻想を「語り手」というカッコに包んでしまうこの手法、キライではないが、物語の基本形として使い古されている。

 そう、短篇のお手本のような秀作ばかりだが、新しさはそこにない。むしろトルストイやゴーゴリのような名手を挿し込んだほうが新鮮に見えたかもしれない(もっともこの全集では、そんな古典(?)をあえて避ける趣向であるため、叶わぬ夢となっている)。そして、このラインナップが「いまのヨーロッパ圏の手練たち」というのであれば、 I の「それ以外」との幻想力の差がいやでも目立つし、同じ II の中でもタブッキやイシグロの実力が浮かび上がって見える。

  アレクサンドル・グリーン「おしゃべりな家の精」
  ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ「リゲーア」
  イツホク・バシェヴィス「ギンプルのてんねん」
  レーモン・クノー「トロイの馬」
  ヴィトルド・ゴンブローヴィチ「ねずみ」
  ポール・ガデンヌ「鯨」
  チェーザレ・パヴェーゼ「自殺」
  ハインリヒ・ベル「X町での一夜」
  ロジェ・グルニエ「あずまや」
  フリードリヒ・デュレンマット「犬」
  インゲボルク・バッハマン「同時に」
  ウィリアム・トレヴァー「ローズは泣いた」
  ファジル・イスカンデル「略奪結婚、あるいはエンドゥール人の謎」
  J.G.バラード「希望の海、復讐の帆」
  A.S.バイアット「そり返った断崖」
  アントニオ・タブッキ「芝居小屋」
  サルマン・ルシュディ「無料のラジオ」
  カズオ・イシグロ「日の暮れた村」
  ミシェル・ウエルベック「ランサローテ」

 ヨーロッパ人(びと)たちは、いつから冒険しなくなったのだろうか。ともあれ、SFまで手を出したからには、戯曲や詩歌や書簡まで触手を延ばして欲しいが、無いものねだりか。書簡形式なら、「モンテ・フェルモの丘の家」があったなぁ……ヴィスワヴァ・シンボルスカの「終わりと始まり」あたりなんて、編者好みだと思うが。

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"自我"とは記憶か客観か「ECCENTRICS/エキセントリックス」

 自分を得て、自分を喪う話。謎と伏線とドンデンと「えっ?」「えっえっ?」てんこ盛りで、読むときっと読み返すこと請合う。

Eccentrics1Eccentrics2

 現実の居心地のわるさに辟易しているが、行動するのは難しい。もっとも単純な解は逃走だ。少女は家を出て、記憶を失い、別の人格を得る。本当の自分を確かめるため、「自分を知っている人」から聞きだそうとするが、同時に忌まわしい過去と向き合うことになる。

 このドラマは「自分とは何か」というテーマも隠しているので、答えを確かめる読みをしても愉しい。例えば、「自分とは(一貫した)記憶だ」「自分とは他者の目に映るキャラクターだ」と信じる人には、記憶喪失のヒロインが揺さぶりをかける。読者は、冒頭数ページを除き、物語の大部分を喪失後のヒロインとつきあうことになる。つまり偽の人格だ。だが、そのニセモノのほうが素直で愛らしい(かわいく描いているようにも見える)。彼女がそのキャラを喪い、本来の千寿(彼女の名前だ)を取り戻すとき、読み手はかなり居心地の悪い思いをするだろう。

 あるいは、千寿の記憶を失くした彼女のみならず、同一のキャラクターを持つ双子が登場する。便宜上、「天」と「劫」という名前を持っているが、千寿との間で擬似三角関係を結ぶようになる。「擬似」というのは、双子は事実上一人であり、「三角」になりえないから。二人は要所要所で入れ替わっており、これが物語をややこしくしている。さらに物語世界だけでなく、読者の前でもスイッチしているようで、同じセリフでも、「もしこれが『天』だったら?」と疑いだすと二重三重に深読みができる。

 これはおかしい。同一キャラクターを二人が保っているのなら、「天」でも「劫」でも同じでしょ?と指摘したくなるかもしれない。そのツッコミは正しくて間違っている。最初の頃はそう宣言してふるまうのだが、いつしか、彼女の「精神面担当」と「肉体面担当」と役割分担するようになる。人格は共有しても、感覚や記憶までは共有できず、それぞれに秘密を抱くようになったのが、破綻と悲劇に結びつく。

 この三人を軸に、エキセントリックな変わった人たち(ECCENTRICS)が配置され、利己的な愛、同一性障害、母娘の確執、ダブルバインドといったネタが折りたたまれている。そのほどきかたがミステリ仕立てで、ヒヤッとしたりゾッとしたり。知り合いの知り合いが知り合いだったというご都合満載の人物相関や、街を歩けば偶然ばったりのエロゲ的フラグ立てが鼻につくが、んなとこにリアルを追求しても仕方ない。

 ああでもないこうでもないと辻褄あわせをするのだが、ある筋を通すと無理筋が生じ、その筋を生かすなら死に筋が浮き上がってくる。どうやっても割り切れないやるせなさは、読了後ずっと妄想で遊べて良い。困惑しているわたしに嫁さん曰く、「大丈夫、どれが本当かなんて、作者にも見分けつかいないから」。なるほど、慰められまする。

 これは、スゴ本オフ@ミステリのコメント欄でオススメされて手にした作品。浮雲屋さん、ありがとうございます。いまは嫁さんが「それが良いならコレは?」とオススメしてくれた、「少年は荒野をめざす」を読んでいる。吉野朔実の描く女子(おなご)はかわいいのう。

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ノスタルジックな未来「本は、これから」

 電子書籍(機)狂乱は、次世代ゲーム機乱舞と被ってみえる。

本は、これから 10年20年で見るならば、今回のアップルは、pipin@よりも良いやつを売り出したな、という程度に過ぎない。スーファミやWiiぐらいに普及するどころか、DOSV並にコモディティになるといいな、と思っている(が、いかんせんランニングコストが泣ける)。

 電子書籍(機)のライバルは、ユーザの時間を奪い合うことになるGAMEだったりSNSだったりするのでは……と思うのだが、「紙の本」を目ノ仇にして危機感あおる祭り屋マジかっこいい。そういう扇動を真に受けた人、流す人、商売を考える人それぞれが、この一冊に集まっている。

 ただ、編者である池澤夏樹の影響もあるのだが、業界の中でも「書き手」に偏っている。佐々木 俊尚や小飼弾がいない時点で「色気」づいているね。これは、一般読者よりもむしろ、出版業界の中の人へのエールなのかもしれない。編集者や作り手の意見も聞きたかったのだが、本書の焦点がボけてしまう。この本の焦点はただ一つ、「それでも本は残る」に集約される。本には体積と重量があり、デジタル化で重さを喪失した「知」はネットによって薄まる一方だという。

 そして電子ブックは一つの段階にすぎないのだと。Google の試みをアレクサンドリア図書館になぞらえたり(紀田順一郎)、ボルヘス的な妄想の現実化(池澤夏樹)と評する。さすが作家たち、レトリックは上手なり。iPad の便利さという詭弁と引き換えに書物を捨てるならば~と大上段に構える人、テクストが身体(=紙)を失うことを栄養剤やサプリメントに例える人、皆さん必死で可笑しい。

 とても不思議なことに、本の多様性を誉めているにもかかわらず、自分が「本」だと見ているものは、本全体の一部でしかないことに気づかない。「オレサマが『本』に見える範囲」で電子書籍をあれこれ論じているのがミニミニしている。文芸文学だけのサイズの人、マンガは雑音だという人、論文や写真集といった概念が抜けてる人、デジタルアーカイブという存在なんぞ想像すらしたことないんだろうなぁ…という人、論者の「本の世界のサイズ」があぶりだされる。

 そんな中で冷静なのが、五味太郎の指摘だ。電子書籍が活躍するのは、「本のようなもの」の電子化だという。つまり、やむなく本の形をしている本でないもの―――辞書、図鑑、地図、ガイドマップ、レシピといった実用書の電子化が加速するという。さらに、書籍文化の落としどころは、「あってもなくてもいいんだけれど、ま、あったほうがいいかも……」と言っちゃうのだ!目ェ三角にした口角泡飛ばしまくりの論客の中、大いに笑わせてもらう。本の原典は聖典だ、その歴史を忘れるなよと警告する池澤氏と見事なコントラストなり。

 また、「デジタル」を、軽さ/ボディの喪失/情報入力といったレトリカル&ヒステリカルな攻撃する人が多すぎるなか、デジタル情報のネックは変化と劣化が早いことや、メディアやプレイヤーの変遷に弱いこと指摘する人少なすぎ(上野千鶴子と池内了)。マングェル「読書の歴史」を読みましょう(わたしもね)。

 筆がペンに、ペンがワープロにとって代わるときや、フィルムがデジタルにとって代わるたびに繰り返されてきたセンチメンタリズムが、同じように語られる。CGで描いた三丁目の夕日のように、未来の話なのに。さておき、さまざまな書き手たちにとっての「本の範囲」「読書の領域」を測定するのが愉しい読書と相成った。

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週刊アスキーにて「今年のベスト3」を紹介してるよ

 週刊アスキーのブックレビュー「私がハマった3冊」にて、今年のベストを紹介した。

 「この本がスゴい2010」で数十冊挙げたが、そこからさらに厳選した3作だ。フィクション、ノンフィクション、そしてベストワンと選んだが、2010年どころか、十年単位で保つようなスゴ本なので、期待してチェックして欲しい。

 どれも戦闘力の高い作品ばかり。無類の面白さなら「ノンフィクション」の作品、物理的に鈍器にぴったりの濃密な奴が「フィクション」の上下巻。そして全ての人に強力にオススメしたいベストオブベストが一冊。目が洗われるというか、生を生きなおすというか、(おおげさかもしれぬが)観念がガラリと変わること請け合い。

 この企画、他の書き手と持ち回りでやっているのだが、わたしだけ浮いているw……好きに書かせてもらっているので、来年も強烈なやつをオススメするよ。

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チェ・ゲバラはトム・クルーズ似「モーターサイクル・ダイヤリーズ」

 バイクというよりも鉄馬、満身創痍の鉄騎との旅。

モーターサイクル・ダイヤリーズ スゴ本オフ@赤坂のアイリッシュパブでオススメされた一冊。「アラビアのロレンス」におけるモーターサイクルは、いわゆる「バイク」というよりもむしろ、騎士精神みたいだねといった流れで紹介される。チェ・ゲバラの旅日記だそうな。バイクは無縁だけど、自転車で旅したことはあるので惹かれる。さらに後日、松丸本舗にて、見つけてくださいといわんばかりで飛び込んできたので有無を言わさず買って帰る。

 前半はモーターサイクルで、後半は徒歩とヒッチハイクで南米を北上する。初めの頃は、行く手に何があるのか「わからない」ことに期待し、オートバイにまたがって、一キロまた一キロとむさぼるように北への逃避行を続ける。愉快な出来事ばかりではなく、貧困と欺瞞と搾取の現場を目にする。怪我や病で働けなくなった家族に向けるまなざしに、「まるでその人の面倒を見なければならない者たちに対する侮辱」であるかのような色を見つけたり、「共産主義」が一種の宗教のような熱狂をもって受け入れられていることを喝破する。

 つまり、「共産主義」は、そのドクトリンに因るよりもむしろ、「貧しい人にパンを」と言い換えた言葉なんだと。そして、ドクトリンへの信奉には、現実の飢えに対する抗議が満ちているというのだ。Tシャツのポップアートと化したゲバラが、今の世にどれだけ理解されているのだろうか。本書の後半に収録されている、演説「医師の任務について」では、旅で見聞した現実と、「自分の(個人的な)夢」との境から、自ら選んだ方向を主張する。「個人の目標=社会の効用」の幸福な(無邪気な?)結合を垣間見る。

パタゴニア・老いぼれグリンゴ 同じ南アメリカを旅しているのに、チャトウィンとなんと違っていることか。ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの後日談や、アラウカニアの王になろうとした白人の話など、歴史と虚構をモザイクのように組み合わせているのが、「パタゴニア」だ([レビュー:設計された旅「パタゴニア」])。ゲバラと比すると、チャトウィンにとって南アメリカは、北アメリカやヨーロッパの反射鏡のように見える。つまり、どのエピソードを採っても必ず歴史の「ひも」の末端は欧米のどこかにつながっている。奔放さ、饒舌さはチャトウィンのほうが一枚上手だが、現場にそのままかかわっているという点で、ゲバラの方が(荒削りだが)生々しい。

 ゲバラを脱神話化する上でも本書は貴重かも。タイトルにも書いたが、本書の中ほどに載っている写真を見る限り、ハタチのゲバラは、トム・クルーズにそっくりだ。人懐っこい笑顔と、檄文。今風なら、イケメン革命家といったとこか。案外、プロパガンダの成功はルックスも影響するのかもしれぬ。


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スゴ本オフ@ミステリ報告

 ミステリを語るのがこんなに難しいなんてッ

 12/3に麹町で実施。好きな本をもちよって、まったりアツく語り合うオフ会、今回は「ミステリ」がテーマだったのだが―――ネタバレなしでミステリを紹介するのが、こんなに難しいとは思いもよらなんだ。

 もちろん、画面に向かって独り語りする分には問題ない。ブログの読者と、紹介本の読者を想定して、どこまで出すかを線引きする。で、そのラインぎりぎりを狙って放つか、あるいは全く異なる次元で描写するといった遊び方ができる。

 しかし、面と向かって反応を確かめながらだと、線引きが難しい。しかも聞き手の中には、読んだ人が混ざっている。この、読んだ人にも未読の人にも面白く(かつネタバレなしで)語るのは苦行そのものだった。(未読の方むけの)作品の魅力にとどまらず、既読の方には「オレはこう読んだ、犯人はホントは○○じゃね?動機は…方法は…」としゃべりたいがしゃべれない。のたうちまわる。この会では「犯人はヤス」方式を採ったぞ。

 わたしが紹介したのはこの3冊、共通するのは「親殺し」

白夜行悪童日記カラマーゾフの兄弟

 「カラマーゾフ」だと犯人はヤスだということは定説(というか常識)となっているが、わたしはそうではないと考える。ヤスに教唆した人物を犯人だとすると、サイコスリラーになる。普通の犯人探し→法廷モノという展開が、whodunit をずらすだけでメタミステリを帯びてくる(あの会話がなかったら犯行はありえなかった→「あの会話」を読者が目にしなかったら……)。「白夜」と「悪童」は、なぜそんなことをしたのか(Whydunit)?に着目すると、前者は哀しく、後者はぞぞッとなる。そして、両者ともその後の人生を決定付けてしまうが、ヤスは覚悟完了の上。どちらも一気読みの徹夜本なので未読の方がうらやましい。

 皆さん、ネタバレを上手に回避しつつ、うま~く魅力を伝えている。いわゆる「王道」は少なめで、変化球を追求した作品が目立った。中でも気になったのはこの5冊。


笑う警官虐殺器官サクリファイス
11人いる洗礼

 やすゆきさんオススメの「笑う警官」は、実家の積読山に埋もれているはず。当時の琴線に掛かって入手したまんま幾年月。なつかしいのと、やはり面白いのか!との確信にて、再入手するつもり。佐々木譲氏の奴じゃなくって、スウェーデンの夫婦作家マイ・シューヴァル/ペール・シューヴァルの共著なので要注意。カネヅカさんが推した「虐殺器官」と「サクリファイス」は読もう。このブログのコメント欄やtwitterで、しつこくオススメされていたんだけど、なんとなくオチが見える読書になりそうだったので手を引いてたの。スレた目を外して洗いなおして読むつもり。「サクリファイス」については、「ミステリであり、スポ魂であり、感動モノという珍しい作品」だそうな。ずばぴたさんオススメの「11人いる!」が紹介されたので飛びつく。萩尾作品だし、SFだと思い込んでいたら、「これぞミステリ!」と断言されたので信じる。ずっと未読だった(はず)なので、これを機に読むべし。twitterから参加のぽかりさんの「洗礼」も気になる。コメント欄やはてなでオススメされたこと幾度もあるし、「楳図かずおの大傑作」といわれたら読まざるを得ない。正月読書になりそう。
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 以下、紹介されたミステリたち。
  • 【Dain】 白夜行(東野圭吾、集英社文庫)
  • 【Dain】 悪童日記(アゴタ・クリストフ、ハヤカワepi)
  • 【Dain】 カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー、新潮文庫)
  • 【Dain】 殺戮にいたる病(我孫子武丸、講談社文庫)
  • 【やすゆき】 深夜プラス1(ギャビン・ライアル、ハヤカワミステリ)
  • 【やすゆき】 笑う警官(シューヴァル、角川文庫)
  • 【カネヅカ】 サクリファイス(近藤史恵、新潮文庫)
  • 【カネヅカ】 十角館の殺人(綾辻行人、講談社文庫)
  • 【カネヅカ】 ドグラ・マグラ(夢野久作、角川文庫)
  • 【カネヅカ】 虐殺器官(伊藤計劃、ハヤカワJA)
  • 【ゆーすけ】 鉄鼠の檻(京極夏彦、講談社文庫)
  • 【でん】 神は沈黙せず(山本弘、角川文庫)
  • 【でん】 オーディンの鴉(福田和代、朝日新聞出版)
  • 【でん】 コズミック(清涼院流水、講談社ノベルス)
  • 【まち】 彷徨う日々(スティーヴ・エリクソン、筑摩書房)
  • 【まち】 ひらいたトランプ(アガサ・クリスティ、ハヤカワ)
  • 【ようぎらす】 小さな魔女ピッキ(トーン・テレヘン、徳間書店)
  • 【ズバピタ】 告白(湊かなえ、双葉文庫)
  • 【ズバピタ】 11人いる!(萩尾望都、小学館文庫)
  • 【pocari0415】 洗礼(楳図かずお、小学館文庫)
 ずばぴたさん、twitter実況ありがとうございました。信じられないほど美味な肉まんに感謝です、ともこさん。鉄板U-streamありがとうございました、大木さん。もっとブログ等で宣伝しますね。会場を貸していただいて、感謝です、KDDI ウェブコミュニケーションズさま。セッティングありがとうございます、あべさん。主催ありがとうございます、やすゆきさん。そして、参加いただいた方、視聴いただいた方、twitterやブログで見ていただいた皆さま、感謝・感謝・感謝です。スゴ本をじゃんじゃんご紹介することで、お返しができたらと思います。

 企画をいくつか。「企画から参加したい!」という方がいらしたら、大歓迎ですぞ。企画会議という名の飲み会が待っておりまする。ふるってご参加あれ。

  • ねこ本オフ(猫と戯れつつ猫本を語る)
  • エロ本オフ(大人の、大人による、大人のためのエロス)

  • ネタバレありのミステリ(事前に本を決めておく。本が好き読書会「往復書簡」が理想)
  • スゴ本オフ@ビジネス・自己啓発書(罵倒あり/罵倒禁止)

 Ustreamの状況はこちら。

 今までのスゴ本オフはこちら。

 2010/04/07 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
 2010/05/14 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
 2010/07/16 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
 2010/08/07 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
 2010/08/27 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
 2010/10/20 スゴ本オフ@赤坂
 2010/10/23 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)

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「逆光」はスゴ本

 終わるのがもったいないし、終わらせる必要もない。ずっと読んでいたい。

逆光1逆光2

 辞書並みの上下巻1600頁余から浮上してきたときの、正直な気分。読了までちょうど1ヶ月かかったけれど、この小説世界でずっと暮らしていきたい。死ぬべき人は死んでゆくが、残った人も収束しない。エピソードもガジェットも伏線もドンデンも散らかり放題のび放題(でも!)いくらでもどこまででも転がってゆく広がってゆく破天荒さよ。

 ストーリーラインをなぞる無茶はしない。舞台は1900年前後の全世界(北極と南極と地中を含む)。探検と鉄道と搾取と西部と重力と弾圧と復讐と労働組合と無政府主義と飛行船と光学兵器とテロリズムとエロとラヴとラヴクラフトばりの恐怖とエーテルとテスラとシャンバラとデ・ニーロがぴったりの悪党と砂の中のノーチラス号と明日に向かって撃てとブレードランナーと未来世紀ブラジルとデューン・砂の惑星とiPhoneみたいな最終兵器とリーマン予想とどうみてもストライクウィッチーズな少女たち(でもありえない)。

 いちお、SFちっくなガジェット―――鶴田謙二「チャイナさんの憂鬱」に出てくるようなやつ―――が満載なのでピンチョン初のSFと評する人がいるものの、これサイエンス・フィクションでも「すこし不思議」でもなく、「すげー不可思議」の略だろう。こんな奇天烈な小説は比するものがない。荒唐無稽なガジェットも疾風怒濤のエピソードも、ピンチョンが思う存分遊び倒したのが分かる。

 第一印象を一言でいうならヘビ、しかも複数のヘビが互いの尾を飲み込んでいるようなやつ。しかも、普通の一本のウロボロスではなく、しっぽや頭がいくつも分かれているnマタの多頭オロチが、何匹もからまりあって、飲み込みあっている。遠目には巨大な塊で、近寄ると蛇身がストーリーライン、ウロコの一枚一枚が輝く描写の一つ一つとなっている。「ヴァイランド」ほどではないが、それでも山ほど出てくる登場人物は、意外にこの蛇身に沿って行動するので、誰がナニか見失うことはないだろう(←ピンチョンにしてはリーダビリティが高い、といわれる所以)。

 この飲み込み/呑まれ感覚にめまいする。さっき描写していたエピソードが、今度は登場人物が読む三文小説としてカリカチュアライズされる。作中作とその読者が言葉を交わすシーンは、ずばりドン・キホーテの後編。のめりこんだ物語から顔をあげるとき、現実に息つぎするものだが、これは息つぎしようと頭を振ったらまた別のストーリーにフェード・インするようなもの。光と意識の具合で瞬時に地と図が反転する感覚。3D立体視を小説で実現させる。混ざるのでなく交じる。もつれあい、からみあう物語のダイナミズムが、そのまま前へ、上へと転がりだす。挿話と格闘していくうちに、くんずほぐれつ巻き取られる。

 転がってゆくうち、下がどこか分からなくなる。重力は一方向にしか働かないはずなのに、ここではさりげなくシカトされる。同時に時間の方向も無視される。なにげない会話の行間で知らぬ間に一晩たってたり、写真を"微分"することで過去に、"積分"することで未来を逆転させる。一葉の写真に世界を再現させる手腕は、かつてセガ・サターンでハマったMYST(ミスト)を彷彿とさせる。

 この時間軸の遡上や図地反転を意識して、つまり、逆行(ぎゃっこう)という音を考慮して原題"Agains The Day"を「逆光」と訳したそうな。原題には、いわゆる「逆光」と、も一つの意味「裁きの日に備えて」が隠されている。訳の多寡は分からんが、原著は手をだすのが無謀というもの。だから、生きてるうちに読めて幸せ。

 わたしの滅裂な妄言よりも、Pynchonwikiの「Against-The-Day」に集められた画像を眺めているほうが、イメージが湧くかと。Pynchonwikiの翻訳はtwitterにて@snowballarcさんがやってますぞ。

 いつかはピンチョン、そう言ってるうち人生終わる。だからいま読む、ピンチョンを。

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「はじめてのがん」に備える

 最初に断っておくと、わたしが告知されたわけではない。

暮らしの手帖 ただ、日本人の2人に1人はがんになるといういま、何の準備もしないわけにはいかない。はじめてのチュウや初体験と同じように、初告知に向けて情報を集める。人生初のセックスと同じくらい重要だぞ、人生初のがん告知(たぶん)。

 もちろん、ある種のダチョウのように、地面に頭を突っ込んで逃避することも可能だ。あるいは、信号無視のDQNのように「見ない=存在しない」ように振舞うこともできる。しかし、自分を大事にするのは自分の努め。家族や仲間のいる「わたし」は、もはや自分だけのものではない。「そのとき」になってあわてて間違った行動をとらないために。今というときがイザというときなのだから。

 そんなわたしにぴったりの特集があった。「暮らしの手帖」の2010.12号だ。題して、「はじめてのがん(がんと告知されたら)」。書き手は森文子さんで、国立がん研究センターの副看護部長、プロフェッショナルやね。twitter で教えてくださった @hukadume さん、ありがとうございます。

 この特集では、告知されたら、具体的にどうすればよいのかがまとめてある。衝撃をやわらげるには、悩みを抱え込まない方法、(治療法ではなく)治療費やケアの相談先、ネットや本の情報をどう取捨選択するか―――いまのわたしにとって必要な情報が全てある。自分メモとして記すが、誰かのお役に立てば嬉しい。なお、自分用にピックアップしているので、必要とする方は本誌にあたってほしい。

 まず大切なことは、「いま、何ができるか、考えること」になる。がんと診断されると、何が悪くてがんになったのかとか、よりによってなぜ自分が……などと考えてしまうという。しかし、がんとは、原因と結果がはっきりしているような単純な病気ではないのだそうだ。だから、後ろ向きの反省(別名:後悔)をくり返すのではなく、「いまできること」に注意を集中する。

 次に忘れてはならないのは、自分のがんを正確に知ること。ありがちなパターンとして、即ネットや本の「がんが消える!」「がんの特効」に飛びついて、その「治ったと言われている」症例ばかりに詳しくなること。そして、自分との差ばかりに目を向けること。重要なのは、自分のがんの正確な情報だ。そして、自分の病状について、もっとも多くの情報を持っているのは、担当医(主治医)だ。だから、入院するまでに担当医にするべき問いは、次のようになる。

  1. どの臓器のどこにある、どういう性質をもったがんか
  2. 大きさや広がり、悪性度や転移の具合はどうか
  3. 五年生存率はどのくらいか
  4. いま、どんな治療法が考えられているか
  5. それぞれ治療法のメリット、デメリットはなにか
  6. 先生はそのうちの何を、どういう理由で奨めるのか
  7. セカンドオピニオンをとるときは協力してもらえるか
  8. 今までどおりの生活が、どの程度続けられるか
 最初の衝撃「どうしてわたしが、こんな目に……」が暴走すると、矛先が主治医に向かう。本来ならば協力者なのに、(ネットの○○という療法に反対だという理由で)人間味が無いだとか「わたし」を見てくれないといった「現代医療 vs 代替医療」の構図で考え始める。米原万理の書評集「打ちのめされるようなすごい本」の後半がそうだ。「私が10人いれば、すべての療法を試してみるのに」「万が一、私に体力気力が戻ったなら」といった語句のすきまに、あせりのようなものが読み取れているうちに、ブツっと途切れる。医師を信頼できず、残り時間を勉強と反目に使ってしまったのだ。優れた作家として、さらには本の目利きとして高く評価しているが、ことがんに関しては、反面教師なり。

 主治医と話すときのポイントは、次の通りとなる。ホントはもっとあるが、絞ってアレンジしてある(だから全部読むなら本誌にあたって欲しい)。

  1. 対話は「あいさつ」から
  2. メモれ
  3. 「言われたこと」を「そのままの言葉」でメモれ
  4. 一人より二人、パートナー同伴で(パートナーもメモる)
  5. 承諾をとって録音→後で理解したり家族に説明する助けに
  6. 分かるまで質問(事前に書き出しておく)
  7. 自覚症状と病歴は、医師に伝えるべき重要な情報
  8. 治療のフィードバックを正直に伝える
  9. 最新医療にも不確実や限界がある
  10. 治療法を決めるのは自分
 そして、話し合いを重ねることで、主治医や看護師と信頼関係を築けという。それができたら、「がん治療は半分以上、成功したようなもの」とまで言う。確かにそうだろう、告知されただけでも不安なのに、協力者が信頼できないのであれば、突き落とされる気分だろう。今ならネットという広大な闇(光?)があるので、そこをさまよっているうちにゲームオーバーとなる。

 本誌では、「ネットを使うな」「がん本を読むな」とは言わない。ただ、「ネットや本や取捨選択して」とアドバイスする。がんは百人百様、同じ臓器のがんでも、病状や体の状態が異なれば、治療法・術後のケア、抗がん剤の効き目や副作用も違ってくる。だから、ある人が副作用で辛い思いをしたとしても、それが「あなた」に抗がん剤をやめる根拠にはならないという。この詭弁はよく理解できる。一をもって全となす別名バンドワゴンで、人により状況により千差万別のがんに対し、そういう論を持ってくる時点で疑わしいと判断してもいい。

 ネットや本から集めたものは、「こんな情報があるのか」程度にとどめ、折に触れて主治医や看護師にチェックしてもらえという。がんについての本なら「総論」を書いたものにとどめておけとクギを刺している(ところが、その「総論」が分からない、がんの本はひとつのジャンル、代替治療はひとつの市場をなしている)。ネットなら以下が参考になるという。いざというときの入口として覚えておこう。

   独立行政法人国立がん研究センター「がん情報サービス」
   財団法人先端医療振興財団「がん情報サイト」

 治療法についての質問は、以下が参考になる。明確な「問い」の形になっているので、いざというときはそのまま使える。

  1. 治療の目的は?
  2. なぜその治療を奨めるのか、なぜその治療が必要か
  3. 期待される効果、再発の危険はどのくらいあるのか
  4. (手術なら)起こりうる合併症や後遺症は何か
  5. (化学療法、放射線療法なら)どういう副作用がいつごろ起こり、どのくらい続くのか
  6. 副作用に対する対応策は
  7. その治療によって、今後の生活はどのように変わるのか
  8. 入院期間や社会復帰までの期間
  9. 保険適用か、自費診療か
  10. 費用はどのくらいかかるのか
 そして、セカンドオピニオンを受けたいとき、カドの立たない言い回しはこれ→「治療を決める前に、できるだけたくさんの情報を集め、納得して治療を受けたいので、○○病院でセカンドオピニオンを受けたいと考えています。必要な書類をお願いできるでしょうか。結果はご報告します」。くれぐれも内緒で受けないようにという。必要なデータを持っていけず、正確なセカンドオピニオンにならないから。

 他にも、おカネの話―――「高額療養制度」や「限度額適用認定証」の手続きが触れられているが、これは告知されたときに考えよう。気になる人は本誌でチェックしてみて。

 わたしは、「まだがんになっていない」だけ。告知されたとき、慌てないように、予習(と覚悟?)をしておきたい。とはいっても難しいだろうなぁ……

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この本がスゴい2010

 今年もお世話になりました、すべて「あなた」のおかげ。

 ともすると似たような本ばかりに淫するわたしに、「それがスゴいならコレは?」と教えていただいたおかげ。もちろん、好きな本だけ・本屋さんだけで完結しても問題ない。それでも全部読むのに一生以上かかるだろう。だけど、自分の地平を拡張するため、あえて知らない趣味、行かない場所に足を運ぶ。その収穫が、沢山の「あなた」からのオススメになる。昨年までの探索結果はこの通り。

 この本がスゴい!2009
 この本がスゴい!2008
 この本がスゴい!2007
 この本がスゴい!2006
 この本がスゴい!2005
 この本がスゴい!2004

 さらに、今年は「スゴ本」のチャネルを増やしたぞ。「スゴ本オフ」と銘打って、リアルでの交流を図ってきた(直近だとスゴ本オフ@ミステリを12/3にするよ)。ネット越しと違うのは、圧倒的な情報量。おすすめをプッシュする熱とエントロピーが直にびんびん伝わるし、あのエロいのをこんなキレイなお姉さんがッ!といったドキドキや、こんなオッサンが100%純愛を……なんて驚きが大量にある。これからも、blog + twitter + Ustream + YouTube と連携していきたいもの。あと、本屋オフも大幅増強したいですな。会議室でやるよりも少人数になるけれど、本屋オフは目の前の本棚での語りになるので、広がる広がる深まる深まる。

 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@SF編
 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@LOVE編
 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@夏編
 スゴ本オフ@松丸本舗(7時間耐久)
 【Book Talk Cafe】スゴ本オフ@BEAMS/POP編
 スゴ本オフ@松丸本舗(セイゴォ師に直球)
 スゴ本オフ@赤坂

 ネット/リアル問わず、オススメいただいたもの、本屋や図書館で呼ばれたもの、積読山から発掘したもの……今年読んできた中から、選りすぐってみた。「あなた」のブックハンティングの一助になると嬉しいし、「それがスゴいならコレは?」とおすすめいただくと、もっと楽しい。


┌―――――――――――――――――――――――――――――――
│このフィクションがスゴい!2010
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■ 「ブラッド・メリディアン」 コーマック・マッカーシー

 アメリカ開拓時代、暴力と堕落に支配された荒野を逝く男たちの話。

ブラッドメリディアン 感情という装飾が剥ぎとられた描写がつづく。形容詞副詞直喩が並んでいるが、人間的な感覚を入り込ませないよう紛れ込ませないよう、最大限の努力を払っている。そこに死が訪れるのならすみやかに、暴力が通り抜けるのであれば執拗に描かれる。ふつうの小説のどのページにも塗れている、苦悩や憐憫や情愛といった人間らしさと呼ばれる心理描写がない。表紙の映像のように、ウェットな情緒が徹底的に削ぎ落とされた地獄絵図。

 感情を伴わない暴力は自然現象に、人間の殺戮は必然に見えてくる。生きた幼児の頭の皮を剥ぐといった、こうして書くと残忍極まる行為でも、実行者は朝の歯磨きでもするかのようにごく自然に「す」る。もちろん行為の非道徳性を批判する者もいるが、どちらも感情が一切混じえてない会話・行動なので、読み手は移入させようがない。起きてしまったことは撤回されることはないのだ。

 どこにもない物語は、あたらしい神話と呼ぶのがふさわしい。


■ 「メイスン&ディクスン」 トマス・ピンチョン

メイスンディクスン1メイスンディクスン2

 「いつか」「そのうち」と言ってるうちに人生は終わる。だから読むんだピンチョンを。

 辞書並み(しかも2冊)の「メイスン& ディクスン」は、ドーパミンあふれまくる読書と相成った。小説的瞬間とでも名付たくなる、小説内時空間のどこにでも言及され・見渡され・語られている、代えるものがない強烈な感覚に浸る。酒みたいなものだ、酔いたいから呑むのであって、結果、酔うから楽しいとは限らない。もちろん微酔の楽しみもある一方、悪酔いの苦杯を舐めることもある。ピンチョンを読むのは、酔うことに似ている。バッドトリップ承知の上で、杯をあおる、ハイになるため。

 天文学者と測量士の珍道中から、その語り部の周囲、劇中劇さらに現代アメリカと、行単位に時を跳躍する超絶技巧もさることながら、メイスンにしか見えない幽霊女房や不可視のサイボーグ鴨や全員同じ夢を見ているとしか思えないしゃべる犬や礼儀正しい土人形を次々と登場させては煙に巻く人を喰ったピンチョン節をたっぷりと堪能する。複雑に折れ曲がる物語構造をもつ「ヴァインランド」とは異なり、焦点はメイスンとディクスンの二人なのでよもや見失うことはなかろうとタカくくってたら、ストーリーに「乗って」いるのに違う場所に連れて行かれる。高速で曲がるとき逆ハンあてて半ケツずつ横すべりしてゆくアドレナリン・ドライブ。

 酔うために読むスゴ本、M&D。


■ 「ドン・キホーテ」 セルバンテス

 「死ぬまでに読みたい」シリーズ。

ドン・キホーテ ひたすら面白い+泣ける+ハラハラしながら読む。いわゆる「ジュニア版」で筋は知っていたのだが、前編だけだったことが分かった。後編とあわせると、こんなにも芳醇な物語になっていたなんて!

 あまりにも有名な「風車に突撃」は、可笑しいというより痛々しい。ほら、仁侠映画を見たら肩で風切りたくなるのと同じで、厨二病をこじらせて邪気眼が開いたと喜んでいるようなもの。ちょっと痛いか、かなり気の毒かだ。

 ドン・キホーテの場合は、騎士道物語(今でいうならライトノベル)に熱中するあまり、ついに自分を伝説の騎士だと思い込んでしまう。都合のいい/悪いことに、その場その場の思いつきで「なりきる」人物をキャラチェンジするので、周りを混乱させたり自分が酷い目にあったり。このネタは魅力的だ。「ライトノベル」というジャンルが確立し、伝説級のキャラクターもいるから、このプロットは使いまわせるぞwwwたとえばこんな風に――主人公はアニメやマンガの影響をモロに受け、「邪気眼」に覚醒する(と、信じ込む)。そして、陰謀論の渦中に巻き込まれたと思い込み、きわめてフツーな日常を波乱万丈の冒険にしてしまう。

 この感染力はスゴい。「小説ベスト100」を挙げるとき、常に第一位になるのは、この物語への感化力によるもの。今回はひたすら面白い面白いと読んだのだが、換骨奪胎して現代でドン・キホーテを書いたらスゴい話になるだろうなぁ……あるいは、従者サンチョに焦点を当てて、彼の視点から再構成したらネタの宝庫になるだろう。いわゆる小説家たちがこの作品を高く評価しているのは、自身の創作意欲に火をつけたり、ガソリンを注入してくれるからかもしれない。

 最も公平で厳粛な評者は、「時間」だ。時の風雪に耐えて生き残った古典は、それだけ沢山の時代の人々に読まれたから。けれども、「ドン・キホーテ」を読むと、それだけではないような気になってくる。要するにこれは、パクれるのだッ!。盗れるところがいっぱいあるぞ。表立って堂々とやるか、あるいはコッソリ借用するかの違いはあれど、沢山の時代の作者たちに盗まれたからこそ、古典として生き残れたのだともいえる。

 読み手を創り手に変えてしまう感化力がハンパない物語。


■ 「伝奇集」 ホルヘ・ルイス・ボルヘス

 ボルヘスの、どろり濃厚・短編集。

伝奇集 読者の幻視を許容するフトコロの深さと、誤読を許さない圧倒的な描写のまぜこぜ丼にフラフラになって読む。これはスゴい。特に「南部」と「円環の廃墟」は大傑作で、幾重にも読みほどいても、さらに別のキリトリ線や裂け目が現れ、まるで違った「読み」を誘う。シメントリカルな伏線の配置や、果てしなく反復される営為が象徴されるものを、「罠だ、これは作者のワナなんだ」と用心しぃしぃ読む。

 それでも囚われる。語りはしっかりしてて、描写は確かだから、思わず話に引き込まれ、知らずに幻想の"あっち側"に取り込まれる。どこで一線を越えたのか分からないようになっているのではなく、「一線」が複数あるのだ!そして、どこで一線を越えたかによって、ぜんぜん違ったストーリーになってしまう。解説で明かされる「南部」の超読みに、クラッとさせられる。語り手の夢なのか、語られ人の夢なのか、はたまたそいつを読んでいる"わたし"の幻なのか、面白い目まいを見まいと抗うのだが、目を逸らすことができない。「「「胡蝶の夢」の夢」の夢」の夢……

 自分の記憶をまさぐられるような薄気味悪い思いをさせられることもある。まぁこれは、ボルヘスの影響を陰に陽に受けた作品に触れた、わたしの記憶なのだろう。たとえば「隠れた奇跡」。まさに銃殺刑に処されようとする男に奇跡が訪れる話なのだが、似たプロットを手塚治虫の短編「処刑は3時におわった」で読んでいる。ぜんぜん違う話、かつ、どちらも傑作、そして読後やるせなさを感じるはず。

 記憶を浚ったりや新たな発想をツツき出してくれるぞ。シナリオを求める人にはこういおう、「プロット盗み放題だぜ」ってねw ただし、ねっとりゲル状になっているので吸い出すには相当の力が必要。まさにどろり濃厚ピーチなスゴ本。


■ 「百物語」 杉浦日向子

 魍魎の類を描いた漫画で、身近な物の怪たちと付き合う。

百物語 これは、スゴ本オフ(夏)でオススメされたやつで、心をざわめかせる、夜中に独りのときに思い出しそうな話ばかり。江戸時代を舞台に、首がころりと落ちた話だとか、自分じゃない自分に悩まされる男の話、背中に毛の生えた赤子の化け物といった奇譚が、九十九話おさめられている。「百物語」と銘打っておきながら、九十九話で寸止めしているのには意味がある。百話語ると、怪異がホンモノになるからね。だから、最終話は自分で語り出してみよう。「地獄に呑まれた話」「魂呼びの話」「嫌うもの」あたりが、恐ろしく、イヤ~な話だった。

 不気味だとか怪異といった印象は、「ふつうじゃない」ものによって呼び覚まされる。ところがそんなのは上っ面なだけであって、もっと身近な、ひょっとすると身中なものかもしれぬ。たとえば、わたしの内臓は、そのまま曝せば不気味な色あいや形をしているだろうが、腹ん中にしまってある分には、わたし自身、わたしそのものといえる。皮ひとつ隔てているだけなのにね。この本に出てくる霊的現象も然り、薄皮一枚を超えれば、怪異どころか、ごく親しいものに見えてくる。

■ 「WATCHMEN」 アラン・ムーア

WATCHMEN 圧倒される暴力描写と、その暴力を肯定する「正義」とは何か?考える。あるヒーローにとっては、破壊願望や性衝動を発散するため、合法的に「悪を懲らしめる」手段としての「正義」だ。あるいは、別のヒーローにとっては、社会への怒りや怨恨、嫉妬や羨望を体現するルサンチマンとしての「正義」になる。あるいは、政治に利用され、緊張緩和の手段として濫用される「正義」を見ていると、勧善懲悪の時代がノスタルジックに思い起こされる。これは、オトナが読むヒーロー譚やね。ヒーローが被るマスクは、そのまま偽善を隠す覆面であることが、分かってしまった人のための物語。

 いっぽう、「悪」のなんとチンケなことか。コスチュームを着たかつての「悪の権化」いま「ただの老人」も出てくるのだが、利用されるだけの弱々しい存在。コスチュームを脱いだ「悪」は、強盗や誘拐といったハデハデしいものではなく、麻薬密売や売春経営といった地味な犯罪でシノギをこなす。それは、「悪」というよりもむしろ、生き抜く術のように見える。欲望や憎悪に上書きされた「正義」を見せ付けられていくうちに、しだいに「悪」のカタチが曖昧になってくる。

 物語全体が練りこまれ、濃厚で緻密に作られているため、ページを「巻き戻し」て、伏線の妙に「あああっ!」と叫ぶこと幾度か。まちがい探しのようにコマを凝視することしばし。犯人探しのメイズに迷い込むこと数多。そして、最大のミステリ、「なぜそうするのか?」に込められたメッセージの重さに潰されそうになって息たえだえになる。

 正義とは、「悪」っぽいものを対症療法的にやっつけるヒーローなどではない。「正義の反対は悪ではない、また別の正義」という至言を思い起こす。これは、オトナが読む「正義」の物語やね。正義の正体を知ってしまった人のための究極のブラック・ユーモアなんだ。


■ 「短篇コレクションI」 コルタサル他

短篇コレクション1 選者には申し訳ないが、わたしにとって、池澤夏樹という作家は、小説家というよりも、一流の読み手となっている。思想や歴史臭が鼻につくようになってからこのかた、彼の小説は手をださなくなってしまった。代わりにエッセイを、特に書評を高く買っている。すぐれた作品を掘り出しては、いかにも読食欲を刺激するように紹介する。作品の根幹を短いフレーズでずばりと言い当てる技は、詩人のキャリアが生かされている。踏み込みすぎてほとんどネタバレ状態のもあるが、それはそれ。この河出世界文学全集も、池澤夏樹さんだから読んでいるようなもの。

 その期待に100%応えているのが、この短篇集。どれもこれも珠玉だらけ。プロット・キャラ・オリジナリティに優れた短篇のお手本のような傑作から、不条理譚なのに巨大な隠喩だと解釈すると仰天するしかない作品、「もののあわれ」とはコレだという指摘が腑に落ちる、でも異質な物語など、読み終わるのがもったいないものばかり。

 地域性に目配りの利いた、良い選だと思う。こういう短篇で目を磨くと、いい作家になるのだろうか。


■ 「アイの物語」 山本弘

 人類が衰退し、マシンが君臨する未来から、「現代」をふりかえった秀作。

アイの物語 スゴ本オフ(SF編)で小飼弾さんがアツく語ってたもの。「現実よりも物語の方が素晴らしいじゃないか!物語が現実でもいいじゃないか!」というメッセージがずしんとクる。SFがすばらしいのは、現代を「ふりかえって」眺めることができるから。未来や別次元から、「いま」を理解しなおすのだ。もちろんテクノロジーが混ざるから、バイアスはかかる。だが、拡張された鏡ごしに、「いま」を観察できるのだ。

 アンドロイドがヒトに語る6つの物語。それぞれの物語が、「いま」で言う「SF短編」となっている。元ネタ探しが楽しい―――シーマン、BBS、連作小説、攻殻機動隊、老人Z、ラブプラス……「ラブプラス」は世に出ていなかったから、"予言"的中度をふり返ってもなかなかのもの。500頁超の大作だが、ミステリ要素の強い展開とあまりの面白さにイッキ読みしてしまう。

 なぜマシンが支配しているのか?どうしてそんなフィクションを語って聞かせるのか?布石のように敷かれてゆく「SFの短編」は、最初はぎこちない習作のようで、だんだんと上手くなってゆく。つくり話めいていればいるほど、地の話の真実味が増すという仕掛け。6つ目の話が終わったとき、アンドロイドは言う。

  「ええ、あれはみんなフィクションだけど、真実よりも正しい」

 そして7つ目の物語が語られるとき、真実よりも正しいフィクションのチカラを感じるだろう。惹句に「機械とヒトの新たな関係を描く、未来の千夜一夜物語」とあるが、本当に千夜のストーリーに拡張したならば、「銀河鉄道999」のような伝説となるだろう。これは、SF短編を包含したSF大作なんだ。


■ 「カシオペアの丘で」 重松清

 他人事ではなく、自分事としてがんを考えるきっかけになった。

カシオペアの丘で(上)カシオペアの丘で(下)

 人間の死亡率は100パーセント。そして、その可能性が最も高いのは、がんになる。わたしががんになったら、何が起こるのか。具体的な症状や療法よりもむしろ、わたし自身がどう受けとめ、家族にどんな影響を与えるのか。この小説を読みながら、嫌が応でも主人公とわたしを重ね合わせる。

 重松清は初めてなのだが、上手いな、この人と思わせるのは、単純な闘病記や家族ドラマに留めなかったところ。読者へのサービス精神なのか、フィクションのチカラを利用して、殺人事件やミステリ要素を盛り込んでおり、ページを繰る手を休ませない。要所要所でグッとくる仕掛けもよくできており、伏線回収の情景もドラマチックだ。「きこえ」は悪いがエンタメ的なり。

 しかし、主旋律はしっかりとしている。40歳、仕事もあれば、家庭もある男。まんま、わたしにあてはまる。レントゲン検診で「要再調査」となり、精密検査でかなり進行していることを告知される。否定や怒りを経て、受容までの各段階や、家族の反応、封印された「思い出」への再訪、そして自分自身をゆるすこと―――人生の残された時間をいかに過ごすか。早すぎるがんの進行にあわせた展開のテンポが絶妙で、こころにくいほど。

 彼の反応は、わたしのものだ。うっかり同化して、思わず涙ぐむ。めちゃくちゃぐちゃぐちゃにされるのは、わが子へどう伝えるか。主人公は、小学四年生の一人息子がいる。「死」はもうわかる年頃だ。パパの楽しい思い出を残すだけで、ホントのことを言わずに死んでいくか、それとも、ありのままを伝え、きちんと「別れ」を告げるか、彼の煩悶はそのまま、わたしを身悶えさせる。タイトルでもある「カシオペアの丘で」、彼が、息子に、伝えた言葉のひとつひとつが、わたしの胸を撃つ。わたしの胸に刻み込まれるような読書になる。

 わたしなら、どうする?

 「生活目線でがんを語る会」がある。最近の記事は、最新の放射線医療はスゴかっただな。わたしは、「まだがんになっていない人」なんだな。そういう人が、がんになってから大急ぎで勉強するのではなく、今から予習(予行)するつもりで目配りをしていこう。


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│このノンフィクションがスゴい!2010
└―――――――――――――――――――――――――――――――


■ 「怒らないこと」 アルボムッレ・スマナサーラ

 怒らずに生きるための一冊。

怒らないこと 最初に著者は挑発する、「怒り」について誰も知らないと。「怒るのは当たり前だ」と正当化したり、「怒って何が悪い?」さもなくば「怒りたくないのに、怒ってしまう」という人は、自分にウソをついていると断言する。「本当は怒りたくない」なんて言い訳して、ホントは怒りたくて怒っているのだと喝破する。そして、怒りたくないなら、怒らなければいいというのだ。

 さらに、「怒り」の根っこには必ず、「私が正しい」という思いが存在するという。かつて自分が怒ったとき、その理由を冷静に客観的に分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあるというのだ。これは、他人に対する怒りだけでなく、自分自身に向けられる怒りも同様だという。

 つまりこうだ。「私にとって正しいなにか」があって、それと現実がずれているときに怒るのだ。「私は正しい」「私は完璧だ」という意思があるのが根本で、実際そうではない出来事に会うとき、自分のせいにするのだ。「私は正しい」のに、「この仕事がうまくいかない」と自分を責めたり、「私は完璧」なのに、「自分が病気になってしまった」と自分に対して怒りを抱いたりする。そういう人こそ、建前として「私はダメな人間だ」と謙虚(?)に振舞いつつ、実は心の奥底では、「絶対にそうじゃない、私こそ、唯一正しい人間なんだ」と考えているという。しかしそれこそが、怒りスパイラルの原因なんだ。

 本を読んで怒るのをやめられれば苦労はしないぜ、と自分でも思う。それでも、自分の「怒り」の根っこをつかまえ、より扱いやすくするためにはなる。結果、「怒らないこと」は選べることに気づくのだ。


■ 「転校生とブラックジャック」 永井均

 心脳問題を対話により深堀りした名著。

転校生とブラックジャック 若いとき、一度はかぶれる独在論。つまり、この宇宙にひとりだけ「私」がいるということの意味を追求する。あれだ、2chやtwitterで見かける「おまえ以外bot」を世界レベルまで拡張したやつ。

 自分自身を指差して、私だということができる。でもそんな指差しなどせずに、世界中でただ一人、ただそこにいる<私>は、他の誰でもないし誰でもありえない。誰かが「私」といくら言おうとも、ここに、例外的な<私>が存在する―――この<私>が「私」であることを論理的に証明しようと問いつづける。

 本書を面白くかつユニークにしているのは、全編をダイアログ形式にしていること。著者自身をモデルにした「先生」と、12人の学生A~Lがこの問題を議論する。A論B駁といった感じで、議論が転がっていく・掘り下がっていく様子がよく見える。

 実はこの学生、著者の分身のようなもので、それぞれの側からの問答のフィードバックループをつなげた試みらしい。自説を曲げない人や、「解答」を欲しがる人がいて妙にリアルだけど、「自分の考えに近いのは誰か?」「その学生はどのように『問い・答え』をくり返しているか」探しながら読むと楽しい。ただ、出てくる議論は(カブれた人なら)既知のものばかり。主張の目新しさではなく、その問いに対し、どう格闘するかが大切なのだ。

 本書は分裂勘違い君劇場「ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書25冊」で知ったもの。fromdusktildawnさん、ありがとうございます。おかげでいい本に出合えました。


■ 「論理トレーニング101題」 野矢茂樹

 「東大教授が新入生にオススメする100冊」に、必ず登場する名著。

論理トレーニング101題 本書は、安直ビジネス書に群がり、カモにされているカモリーマン向けではない。週末にナナメ読んで、「なんとなく分かった気分になる」自己満足を目指していない。1問1問、エンピツとノートを準備して、101問すべてに取り組むべし。「解説書なんかいくら読んだって論理の力は鍛えられない。ただ、実技あるのみ」のとおだ。やれば、やった分だけ向上する。

 大きく2部に分かれており、前半は、接続詞に注意して正確に議論を読み取り、その骨格をつかまえるトレーニング。そして後半は、演繹と推測の適切さを論証し、さらに論証を批判的にとらえる訓練をする。すべて、①練習問題→②自力で解く→③解説と答えあわせのくり返し。章末に、ちとムズめの問題が待ちかまえており、③の理解を確かめることができる。200ページたらずの薄手の本なのに、中はどろり濃厚で、「飛ばして」「ナナメに」読まれることを拒絶している。ちょっと紹介してみよう。

   問71  次に含まれる論証の隠れた前提を取り出せ

  1. テングダケは毒キノコだ。だから、食べられない
  2. 「さっき彼と碁を打ってただろ、勝った?」「いや、勝てなかった」「なんだ、負けたのか、だらしないな」
  3. 吠える犬は弱虫だ。うちのポチはよく吠える。だから、うちのポチは弱虫だ
 順番に考えてみる。 1. は簡単だろう。「毒キノコは食べられない」という前提が隠れている。「A=B、B=C、ゆえに、A=C」の論証のうち、「B=C」が省略されたもの。 2. は少してまどった。隠れた前提なんてあるの?としばし悩んだのち、「勝ってない≠負け」に気づく。将棋なら千日手、囲碁だと持碁があるからね。

 解けなかったのは 3. だが、これは難問らしい。正解をマウス反転させておくので、ご自身で考えてみてほしい。言い換えると、これが解けるようなら、本書をクリアできる論理力はあることになる。答え→ポチが犬だとはどこにも書いていない。もし、「うちのポチ」が虎だったらこの論証は成り立たない。そして、解説が素晴らしい。書名のリンク先で紹介しているので、ぜひお立ち寄りくださいませ。


■ 「世界史」 ウィリアム・マクニール

 800ページで世界史を概観できる名著。

 「シヴィライゼーション」という文明のシミュレーションゲームがある。暇つぶしのつもりで始めたのに、暇じゃない時間まで潰されてしまう危険なゲームだ。マクニール「世界史」もそう。それからどうなる?なんでそうなる?に次々と答えてくれる本書は中毒性が高く、読むシヴィライゼーションといってもいい。

 ゲームのように面白がれないが、ゲームのように熱中して、マクニール「世界史」の最新完訳版を読む。世界で40年以上にわたって読み続けられており、blog/twitter/tumblr でスゴいスゴいと噂には聞いていたが、たしかに素晴らしい。何が良いかっていうと、「眠くならない歴史」であるところ。

世界史1世界史2

 話は少しさかのぼる。流行に乗っかって教科書開いたはいいが、あれだね、睡眠導入剤として最適だね、山川世界史。パブロフのなんちゃらのように、開いた途端、急速に眠くなる。「メソポタミア」とか「プトレマイオス」なんて、文字列だけで眠れそう。睡魔と闘いながら、なぜなのか考える。シンプルな記述と、きれいにまとめられたトピックスは名編集といってもいいのに、どうしてこんなに眠いのか。高校授業の学習効果?

 ところが、本書でクリアになった。簡にして素な文はいかにも教科書的なのだが、トピックとトピックの因果をなるべく述べているところが違う。もちろん網羅性は求めるべくもないが、ただのトピックスの羅列である類書(含む教科書)とは雲泥。原因→結果が明記されてるところは批判的に(so- what?/why-so?)読み、省略されたり「分かっていない」とする部分は自分で考える。


■ 「神話の力」 ジョーゼフ・キャンベル

 世界と向き合い、世界を理解するための方法、それが神話。

神話の力 現実が辛いとき、現実と向き合っている部分をモデル化し、そいつと付き合う。デフォルメしたり理由付けすることで、自分に受け入れられるようにする。例えば、愛する人の死を「天に召された」とか「草葉の陰」と呼ぶのは典型かと。そのモデルのテンプレートが神話だ。いわゆるギリシア神話や人月の神話だけが「神話」ではなく、現象を受け入れるために物語化されたものすべてが、神話になる。

 本書は神話の大家、ジョーゼフ・キャンベルの対談をまとめたもの。キャンベル本は、現代の小説家やシナリオライターにとってバイブルとなっている。例えばジョージ・ルーカス。スターウォーズの物語や世界設定のネタは、古今東西の神話から想を得ているが、その元ネタがキャンベル本なのだ。本書では、「英雄の冒険」や「愛と結婚」といった観点で古今東西の神話を再考し、神話がどのように人生に、社会に、文化に影響を与えているかを縦横無尽に語りつくす。おかげで、あらためて「分かり直した」感じだ。存在には気づいていたものの、名前を知らなかったものを教えてもらった。

 次は「千の顔をもつ英雄」に行こう。


■ 「黒檀」 リシャルト・カプシチンスキ

 ルポルタージュの最高傑作。スゴ本。

黒檀 開高健「ベトナム戦記」が一番だった。しかし、アフリカの本質をえぐりだした、リシャルト・カプシチンスキ「黒檀」が超えた。この一冊にめぐりあえただけで、河出文学全集を読んできた甲斐があった。スゴい本を探しているなら、ぜひオススメしたい。ただ、合う合わないがあるので、「オニチャの大穴」を試してみるといい。十ページ足らずの、アフリカ最大の青空市場を描いた一編だが、ここにエッセンスが凝縮している。貧困としたたかさ、そしてカプシチンスキ一流のユーモアが輝いている。

 アフリカの多様性を言い表すパラドクスがある。ヨーロッパの植民地主義者はアフリカを「分割」したと言われているが、それはウソだ。「あれは兵火と殺戮によって行われた野蛮な統合だ!数万あったものがたったの五十に減らされたのだから」というのだ。アフリカはあまりに広く、多様で、巨きい。だから、大陸全体について書くなんて無茶な話。だから、「アフリカ文化」「アフリカ宗教」と括りたがるエコノミストや人類学者は二流以下になる。では、どのように書けば?

 著者は、「見たこと」を中心に据える。その場所に飛び込んで、目撃者としての観察と経験でもって、アフリカを点描してゆく。たしかに伝聞や噂よりは信憑性が高いだろうが、「点」にすぎないのでは?どっこい、個々のトピックやルポは点にすぎないが、時間や場所の異なるいくつもの点を並べていって、そこから全体像が浮かび上がらせる(お見事!)。個人的な体験と庶民の視線を使い分けながら、より大きな問題、より全体的な問題が見えてくる。本人曰く「文学的コラージュ」と呼ぶこの手法により、本質は細部に宿ることをルポルタージュで証明する。

  大事なことなので、もう一度。本書は、ルポルタージュの最高傑作。これと「ベトナム戦記」に匹敵するようなものがあるなら、ぜひ教えてほしい。


■ 「土の文明史」 デイビッド・モントゴメリー

土の文明史 土壌の肥沃さと土壌浸食から歴史をとらえなおす快著。文明の発展は土壌の搾取と放棄のくり返しによるものだということが分かる。

 本書のシンプルな結論を図で説明する(p.17より引用)。「土」はもっとも正当に評価されていない、かつ、もっとも軽んじられた、それでいて欠くことのできない天然資源である。肥沃な土壌は、地下からの岩石の風化と地表での侵食、およびその間の微生物・昆虫・ミミズなどの生物と植物類の生態系のバランスの上に成り立っている。あらゆる文明の興亡は、「いつこの土壌を使い尽くすか」「肥沃度をどのように保(も)たせるか」に依拠する。土壌の生成を上回るペースで浸食を加速させる農業慣行により、肥沃な土壌を失ったときが、文明の滅ぶときである。つまり、土の寿命こそ文明の寿命なのだ。

 人類史をたどりなおすようにして、土壌が果たした本質的な役割を探る試みは、とても新しく感じた。さらに、農耕の発達が人口増をもたらす一方、それらをたゆみない収穫量の増加によって養うという終わりのないレースだと喝破する視点はスゴいと思う。広く、深く、長いスパンを持った目線でないと、見えない。

 そして、ちと恐ろしいシミュレーションを、過去の「実験」に求めている。大ざっぱにいって、文明の寿命は、農業生産が利用可能な耕作適地のすべてで行われてから、表土が侵食されつくすまでにかかる時間を限界とする。もちろん気候や地質学的条件は異なれど、土地の荒廃は文明の生命線を断つことにつながる。このシミュレーションを、土地利用が限定されたイースター島の歴史に求めている。限られた土壌資源を使い果たし、ついには互いに喰い合う食人にまで行き着いた事例はヒトゴトに思えない。


■ 「松岡正剛の書棚」

 松丸本舗の写真集。

松岡正剛の書棚 究極の本屋、松丸本舗の書棚を、可能なかぎり書影が識別できるように写している。「ただ本が並んでいる」ような画像ではダメなのだ。書棚の「並び」が命の写真集なのだから、書名ができるだけ鮮明に見えるように、仕掛けが施されている。

 すなわち、棚2~3段ごとに撮影した写真を「貼り合せて」構成している。棚の全景を一枚の画像として撮ったものではないのだ。そのため、よーく見ると画像がズレている部分がある。あたりまえだ。松丸の本棚は「平面」ではなく、でっぱっていたりへこんでいたりしている。さらに曲面構造の本棚もある。そんな凸凹を、一枚の平面に写し取れるわけがない。おかげで、一冊一冊の並びがクッキリと見える。どういう"意図"でこれらの本を並べたのか、想像するだに愉しくなる。一見して不明なのは、ちゃんとト書きが記されている。

 松岡正剛は言う、「たった一冊で人の人生は変えられる。世界も入る。そういう本のあり方を一人でも多くの人に伝えたい」。この思いは、棚の前に立つと分かる。大きいか小さいかは分からないが、わたしの人生を一変させてしまうようなスゴ本は、この棚のなかにある。そう確信させる本力があるんだ。

 究極の本棚を、ご覧あれ。


■ 「数の魔力」 ルドルフ・タシュナー

数の魔力 古代の数秘術から現代の量子論にいたるまで、人と数のかかわりをひも解いているが、類書と異なるポイントは、「数とは何か」ではなく、「数とは何を意味しているか」を語るところ。

 実際、宇宙のどこを見渡しても、「数」など存在しない。否、花弁の一枚一枚、星ぼしの一つ一つは数えられるではないか、と言える。だが、花弁の「一枚」と「一枚」は異なるし、星も然り。それらを「同じもの」と人が認識したところから「数える」が始まる。数は、人が世界を認識して初めて誕生したのだ。人が世界を知ろうとしてきた軌跡には、必ず、数による抽象化という財産が残されていると言ってもいい。

 本書は、この「数そのもの」ではなく、「数が意味するもの」に焦点を合わせ、歴史を語りなおす。だから、ピタゴラスなら「数が象徴するもの」即ち数秘術の話になるし、バッハの平均律は周波数と整数比の考察になる。デカルトだと空間認識に数を用いた話になり、ボーアなら原子モデルと整数の関係を追及する。これらは、数の性質を紹介する話ではなく、対象の性質を「数」で把握しようとしたアプローチになる。


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│この本がスゴい!2010 【ベスト】
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■ 「ヴァギナ」 キャサリン・ブラックリッジ

 知ってるつもりのヴァギナが、まるで違ったものに見えてくる。全年齢に推奨。

ヴァギナ のっけからのけぞる。モザイクかかっているものの、ヴァギナそのものが誇らしげに表紙に掲げている(遠目だとちゃんと認識できる)。表紙だけでなく、子を産むヴァギナや、常態のヴァギナなど、普通では見られない写真や図版も豊富にある。写真だけでなく、科学や宗教、歴史、神話と伝承に、文学と言語、人類学、芸術の幅広い資料から徹底的に調べ上げている。

 そして、偏見と妄想をとっぱらったヴァギナを多角的・広角的に紹介する。同時に、ヴァギナに対する文化的・科学的バイアスを指し示すことで、どれだけ歪んだヴァギナ・イメージに染まっているかをあぶりだす仕掛けになっている。これを読むことで、男女問わずヴァギナ観がガラリと変わることを請合う。

 著者曰く、ヴァギナは単に精子と子どもの通り道だけではない。父親となる相手の決定に関して、性交の前にも最中にも後にも支配力を振るっているというのだ。女性器の発達過程を振り返り、ヴァギナの本来の機能を洗い出す。それは、自分にとって最も適合する精子を見つけるために、精子を集め選別すること―――これこそ、メスの生殖器の本当の機能なのだという。メスの生殖器は受動的な入れ物ではなく、子孫の健康を保証し、さらには種の生存を保障するという、生命の最も重要な仕事を納める聖堂だというのだ。ヴァギナを入り口だとばかり思ってたわたしは反省すべき。あれは、未来の出口なんだね。

 ヴァギナ観を一変させる、決定的な一冊。


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│この劇薬・エロ系がスゴい!2010
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 成人向けなので格納。

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