おとなしいヨーロッパ人「短篇コレクションII」
わたしの常識のナナメ上空を飛翔する想像や創造を見せつけられたのが、「短篇コレクションI」、これは傑作だ。翻って II では、きわめて馴染み深い教科書のような短篇ばかりに付き合わされる。陳腐な、と言うつもりはまだないが、この違いは何だろう。
編者である池澤夏樹によると、I と II を分けた指標となるものは、「地域」に因る。まずヨーロッパ圏で書かれたものが II になり、それ以外が I に集められたという。つまり、最初に II が、次にそれ以外の形で I ができたのだ。並べて読むと、匂いというか空気が異なる。その違いとして池澤は、「リアリズムに幻想の混じる比率が異なる」という。ヨーロッパの方が近代文学成立の歴史を負ったためか、少しだけリアリストが多いそうな。たしかに、跳躍力は I のほうがナナメ上だ。
しかし、わたしは比率よりも「まざり具合」のほうに着目したい。幻想が「交じる」のがヨーロッパ圏(つまり II だ)、そして幻想が「混じる」のが I になる。幻想とリアルがそれぞれ分けられるか、分けられないかに注目すると、すんなり読めてしまう。確固たる「リアル」がまずあって、そこに幻想を乗せたり交ぜたりするのが II で、そんなリアル/幻想の区別なんてなく、ただあるがままなのが I になる。
たとえば、レーモン・クノーの「トロイの馬」なんてイカれている。酒場の男女に、「しゃべる馬」がからむお話なのだが、「しゃべる馬」以外は徹頭徹尾リアリスティックに描いているため、馬がなんだか普通の酔客に見えてきて可笑しい。バラードの「希望の海、復讐の帆」はSFをベースにしているものの、テーマはずばり「男と女」だ。ややもすると陳腐になりがちなネタをSFガジェットにくぐらせると、まるで別物の料理になる好例だといえる。
比べ読みするなら、I ではオクタビオ・パス「波との生活」、 II からはジュゼッペ・ランペドゥーサ「リゲーア」が対照的だ。前者は「波」と恋仲になる青年の話だし、後者はセイレーンと同棲する話になる。どちらも人外の存在との恋愛なのだが、描き方が大きく違う。前者はタイトルどおり、波との生活が日常のドラマとして演出される。何せ「波」なのだから不自由極まりない。彼女(?)が巻き起こす周囲とのトラブルが、空から落ちてきた少女と同じパターンなのだ(そして秘密を知るのも主人公だけというとこも似てる)。そこでは、リアルと幻想は隔てなく並べられる。
けれども後者、II のセイレーンになると「語り方」がまるで違う。いきなりセイレーンが降ってくるのではなく、まず聞き手の世界が細描される。そこへ語り手が入り込み、過去話へいざなわれ、思い入れたっぷりに擬人化されるのだ。幻想を出すまでのもったいぶり=リアリスティックと扱われているせいか、伏線がそのままさもありなんなキャラクターと化す。幻想を「語り手」というカッコに包んでしまうこの手法、キライではないが、物語の基本形として使い古されている。
そう、短篇のお手本のような秀作ばかりだが、新しさはそこにない。むしろトルストイやゴーゴリのような名手を挿し込んだほうが新鮮に見えたかもしれない(もっともこの全集では、そんな古典(?)をあえて避ける趣向であるため、叶わぬ夢となっている)。そして、このラインナップが「いまのヨーロッパ圏の手練たち」というのであれば、 I の「それ以外」との幻想力の差がいやでも目立つし、同じ II の中でもタブッキやイシグロの実力が浮かび上がって見える。
アレクサンドル・グリーン「おしゃべりな家の精」
ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ「リゲーア」
イツホク・バシェヴィス「ギンプルのてんねん」
レーモン・クノー「トロイの馬」
ヴィトルド・ゴンブローヴィチ「ねずみ」
ポール・ガデンヌ「鯨」
チェーザレ・パヴェーゼ「自殺」
ハインリヒ・ベル「X町での一夜」
ロジェ・グルニエ「あずまや」
フリードリヒ・デュレンマット「犬」
インゲボルク・バッハマン「同時に」
ウィリアム・トレヴァー「ローズは泣いた」
ファジル・イスカンデル「略奪結婚、あるいはエンドゥール人の謎」
J.G.バラード「希望の海、復讐の帆」
A.S.バイアット「そり返った断崖」
アントニオ・タブッキ「芝居小屋」
サルマン・ルシュディ「無料のラジオ」
カズオ・イシグロ「日の暮れた村」
ミシェル・ウエルベック「ランサローテ」
ヨーロッパ人(びと)たちは、いつから冒険しなくなったのだろうか。ともあれ、SFまで手を出したからには、戯曲や詩歌や書簡まで触手を延ばして欲しいが、無いものねだりか。書簡形式なら、「モンテ・フェルモの丘の家」があったなぁ……ヴィスワヴァ・シンボルスカの「終わりと始まり」あたりなんて、編者好みだと思うが。
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