« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

プレゼンを上達させる三冊

 昔の蔵出し。プレゼン上達のための三冊。要するに場数の問題なのだが、もっと準備するべきところがあるのでは?備えあればうれしいな、といえる三冊を選んだ。週刊アスキー2010年1月5・12日号のレビューを転載(編集部より許可済)。

プレゼンテーションZen 「プレゼンテーションZen」は、読むだけでプレゼンが上達する。いや、「見るだけ」で上手くなる。なぜなら、本書そのものが優れたお手本になっているから。巷に数多のハウツー本とは一線を画し、優れたプレゼンへのメソッドではなく、アプローチや心構え、哲学を提示する。プレゼンといえばパワーポイントを弄ることだと思っているなら、「まず、パソコンから離れろ」という提案は新鮮かも。重要なのはストーリーテリング(物語)で、スライドはその「演出」にすぎないという。だから最初は紙とエンピツだけで、「何が言いたいのか、なぜそれが重要なのか」に向かい合えというのだ。詳しい紹介は、「プレゼンテーションZen」はスゴ本もあわせてどうぞ。

 「プロフェッショナル・プレゼンテーション」は、タイトルとは裏腹に初心者向け。お約束とお作法が詰まっている。プレゼンテーションはコミュニケーション、その極意は、「キーメッセージの主語を『あなた』にすること」だという。主語を「あなた」にすることで、聞き手は「なぜ?」「どうやって?」と反応する。そんな問いに答えるように準備をするんだ。漠然と「○○するべき」だけでは、「お前がそう思うんならそうなんだろ、お前ん中ではな」で終わってしまうから。詳しい紹介は、むしろ初心者におすすめ「プロフェッショナル・プレゼンテーション」をどうぞ。

考える技術・書く技術 これら二冊は、プレゼンの中身がある人向けなのだが、そもそも内容がまとまっていない人には、「考える技術・書く技術」を強力にプッシュする。「考える技術」「書く技術」「問題解決の技術」の三本構成で、そこに一本通っているスジが素晴らしい。それは、「明快な文章を書くということは、明快な論理構成をすることにほかならない」という原則で、どこを開いても詳説してある。まず自分が納得できなければ、説得しようがないからね。たくさんの薄っぺらなハウツーよりも、ただ一つの原則をマスターすべし。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

わが子がイジメられてるらしいと思った親が最初にしたこと

 それは記録。

 背中が痛いと訴えてくる息子を裸にしたところ、広範囲に内出血跡を見つける。詳細は省くが、殴られたらしい。「すわイジメ」と気負いたつのではなく、ゆっくりと子どもの話を聞く。度を越した悪ふざけなのか、陰湿なやつなのか見きわめがつかないし、子どもの話なので一貫性が見出しにくい。

 まず、子どもの話を遮ることなく最後まで聞く。たずねるニュアンスの「訊く」のではなく受け入れるように「聞く」。そいつを逐一記録する。客観的に述べるのは難しいだろう(大人だってそうだ)、だから矛盾点には目をつぶり、ありのまま記録してゆく。ついでに写真も撮っておく。トラブルが大きくなり、収拾がつかなくなってからではなく、(たとえ一面からでもそれを自覚しつつ)子どもからヒアリングを続ける。

 次に、「親は味方だ」というメッセージを伝える。独りで抱え込むなという。どうしても言いたくないのであれば、無理に聞くことはない。親に言うことで、「親→学校→対象の子」と拡散し、「チクったな(死語)」と余計に殴られるかもしれない。それを恐れているようだ。エスカレートしない限り、すぐにどうこうするつもりはないこと、今の時点では特別なアクションを起さないことを伝える。

 そして、「逃げろ」と伝える。ガッコの先生がいう「みんな仲良く」はウソだ、とハッキリ断言する。教室という小集団ですら、仲良くなれる人、そうでない人、どうしても避けたい人が出てくる。「避けたい人」とムリヤリ仲良くする必要もないし、反対に、嫌悪をあらわにしなくてもいい。「その人と仲良くすること」が精神的/肉体的に苦痛なのなら、あからさまじゃない程度に距離をおいてつきあえばよい、逃げればよい。この「つきあい方」「逃げ方」を学ぶのに絶好なのが、教室だ。

 おそらく、このやり方はPTA推奨ではない。けれども、わたしの子供時代の経験則により、この方法でいく。わたしの場合、親は子に一貫性を求め、そうでない場合は尋問口調になったもの。そして、親の望み通りに解釈できるまでの情報が集まると、今度は「親→親」申し入れを行い、不首尾なら「親→学校」ルートに拡散する。この時点で、対象の子は問題児(死語)として扱われ、以後、「いかに相手の子を『問題児』として認めさせるか」という排除のゲームに強制参加させられることになる。はじき出された子は、「いじめ」というのではなく、「無視」の対象となる。

 人が集まりゃ、引き合ったり、仲たがいしたりするもの。合う人と合わない人がいる、それが自然。「合わない」のをムリヤリ合わせようとすると、歪みとしこりが生まれる。そうではなく、そのときどうやって関係を維持していくかを模索するほうが有用かと。ルールが要るなら決めるし、反目しない最低限のつきあいに縮小してもいい。そういう自然現象をすっ飛ばして、「みんな仲良く」を"常識"として押し付ける。

 この"常識"は地獄の常識だ。だから逃げればいい。「逃げろ」と教わらなかったから、自滅していったんじゃないかと。「自滅=自殺」ではない。死んだ子のニュースが紙面を賑わしている。だが、その何百倍(何千倍?)もの子どもたちが、自分で自分を苛んでいるのではないかと想像すると、胸が痛い。少なくとも、わたしの子はそういう目に遭わせたくない、だからくり返す、「逃げろ」と。

ぼくはお城の王様だ しかし、自分の憎しみからは逃れることができない。つよい憎しみは口いっぱいに広がる。人を真剣に憎んだとき、自分の感情のあまりにも強烈さに慄く。スーザン・ヒル「ぼくはお城の王様だ」には、いじめで追い詰められた子どもが、自身の「憎しみ」の感情そのものに苛まれるシーンがある。いじめっ子を憎いと思う自分が、たまらなく嫌なのだ。子どもは、自分でも他人でも容赦しないし、手加減もしない。余談だが、本書はいじめをテーマにした小説として絶品、かつ、読んだことを後悔する劇薬小説としても最悪だ(褒め言葉)。子どもはどこまででも残酷になりうるのだ。でも、自分にはそうならないで、自分を責めないで、という代わりにこう伝える、「逃げろ」と。

いじめ対策マニュアル そして、「いじめ対策マニュアル」で親も予習する。最初のケアから「出るとこ出る」最終手段までを幅広くおさえている。いじめが起きるメカニズムの記述で、いじめを特殊なものと扱っていないので好感が持てる。現場の先生は、「いじめはあってはならないもの」と特別視するからね。また、安全配慮義務について学校側の責任が認められた例/認められなかった例を併記したり、いじめに関わる民事上/刑事上の責任と、追求する手続きが淡々と(感情交えずに)紹介されている。さらに、学校が「いじめではない」、あるいは「いじめられている側にも落ち度がある」といって取り合ってくれない場合、どうすれば良いかが書いてある(答 : 申入れチャンネルを変える)。小学生以上の親は、保険のつもりで一読しておいたほうが良いかと。

 最後に、子どもと一緒に空手教室に通うことに決める。でもって、わたしも一緒に習うことにする(わたしも初心者だ)。どうしてとーちゃんも一緒かって?そりゃわが子が強くなったら手ぇつけられなくなるからね。

| | コメント (23) | トラックバック (7)

がんの入門書ってあるのだろうか?

 「生活目線でがんを語る会」の第2回に参加してきた。

 かなりの人が罹るにもかかわらず、わたしはよく分かっていない。日本人の死因のトップは、がんだ。だから、わたしが罹る可能性は高い。というよりも、それ以外の原因だと、なんとか助かってしまうのだろう。だから、今のわたしは、「まだがんになっていないだけ」と言える。

 これほど身近な存在なのに、「がんとは悪性腫瘍だ」とか「外科手術や放射線治で治療できる」といった上っ面の知識しか持ち合わせがない。また、かつて言われていた「がん=死」とは限らないらしい。だが、どういう場合にそうなるのか、分からない。本屋に並んでいる「がんの本」は大量にあれど、誰かの「闘病記」だったり「最新医療」もしくは「代替治療」ネタだったりする。供給側からの理屈で見ると、このラインナップは、「がんを宣告された人」や「その家族」が飛びつくようなものだ。

 「まだがんになっていない人」をターゲットに、がんのメカニズムや一般的な治療方法を、サイエンスライターが噛み砕いたものは見つからない。たとえば、罹患部位別の割合や、その治療法のウェイト(薬学・外科・放射線療法)、サヴァイヴの年数とパーセンテージの統計など。さらに代替医療を選択する率とその効果を比較するといった客観的な情報が欲しい。主観的なものが多いのは、それだけがんが私的なものだからだろうか。

がん患者学 たとえば、「本に遇う」(レビュー)で絶賛され、"バイブル"のように扱われている柳原和子「がん患者学」がある。ごまんとある「がんの本」のうち、読むべきものは少ないが、この本は例外だという。「癌について知るべきことはほとんど全部この中に書かれている」と持ち上げるので、そうかと読み始めすぐにぶつかる。がんを「患者の立場」「医師の立場」そして「書き手自身の立場」から多面的にルポする試みは力作だったが、ひとつのフィルタリングが透けて見える。それは、「現代医療 vs 代替医療」の構図だ。つまり、現代科学の医療はアテにならぬというメッセージが一貫して響く。自分の身に降りかかった理不尽さへの憤りが、医者や治療法への批判に代替される。

打ちのめされるようなすごい本 また、米原万里の書評集「打ちのめされるようなすごい本」(レビュー)を思い出す。後半はがんの闘病記となっている。「私が10人いれば、すべての療法を試してみるのに」「万が一、私に体力気力が戻ったなら」といった語句のすきまに、あせりのようなものが読み取れているうちに、ブツっと途切れるように終わっている。闘う相手を医者にしてしまったこと。「どこか」に「なにか」があるはずだと、ネット相手に療法を探し回り、「勉強」をはじめてしまったこと。自分の時間を生きるのであれば、医師を信頼するのが最初だろう。もちろん、わたしも同じような罠にはまるかもしれない。だが、これを lifetime-eaterという「罠」だと気づいたことは記しておく(後で思い出すために)。

 「まだがんになっていない」わたしが予習するために、「生活目線でがんを語る会」に参加する。がんについての勉強会で、がんについて「なった人」や「治す人」のお話を伺う。自分が罹ったら、それこそ人生最大の事件として大騒ぎになるだろうが、「いつか」そうなることを見越して学んでおく。あいまいに目をそらすのではなく、そのときを想定して準備しておく。そういうわたしにとって、とてもありがたい会となった。今回は第2回で、「がんに罹った人」ではなく、「がんを治す人」しかも放射線治療に携わる先生の話が聞けた。がんの定義から放射線治療のメカニズムまで、わたしに分かる言葉で説明していただけた。

 まず、「がんとは未熟な細胞が無軌道に増加した状態」を指すのだという。よく言われる「暴走した細胞」だね。そして、その特徴は「増殖能力は高いが、傷つきやすい」という。正常細胞は「打たれづよい」反面、がん細胞は「打たれ弱い」傾向があるんだと。曰く、「厨二病のような打たれ弱さ」だという。だから、放射線治療は、正常細胞が傷つかない量ギリギリの放射線をかけることで、がん細胞だけを打つというやり方なんだと。これは分かりやすい。いままで、放射線をあてることで、よりがんになりやすいのではないか、と考えていた。しかし、そこはメリット・デメリットを考えて、リスクを取ればいいのだ。flyingLarusさんの、このつぶやきを覚えておこう(太字化はわたし)。

   きちんと知れば、怖いことはない。
   むしろ癌の方が怖いし、できる治療が適切なタイミングで受けられない方が怖い。

 いざ自分が「まだがんになっていない」から「がんに罹った」に、そしてさらに「放射線治療を受ける」ことになったら、今のように考えられないかもしれない。しかし、予め知っておくことで、次に「リスクを取るか取らないか」からスタートできる。もちろん千差万別だろうから、ここで学んだまんまであるはずがないことは承知の上。それでも、がんを予習しておきたいもの。

 最後に。「生活目線でがんを語る」を企画したやすゆきさんをはじめ、スタッフの方、登壇していただいた先生方に、感謝します。ありがとうございました。忙しい中わざわざ時間を割いてプレゼンしていただいたのだから、授業料を渡しても良いくらいなのに……無料なんだよなぁ。おそらく第3回目もあるだろうから、さらに予習して待つ。「まだがんになっていない人」向けの入門書を探しているのだが、いいのがあったら、ぜひ教えてくださいませ。当日のU-Streamと「つぶやき」まとめは、次の通り。


| | コメント (11) | トラックバック (1)

すごい言葉

すごい言葉 エレベーター読書の続き。エレベーター読書とは、会社のエレベーターを待っている時間+乗っている時間だけ読む本を決めて、毎日少しずつ進めること。詩や名句集にちょうどいい。

 今回は「すごい言葉」、一度読んだら、一生忘れられない言葉を「すごい言葉」と呼んでいる。さらに本書では、誰もが知ってるような有名なやつではなく、人知れず埋もれているような箴言・名言を紹介している。ズキンとくる辛辣なやつから、思わず笑みがこぼれる痛快なものまで取りそろえている。暗鬱から哄笑まで、エレベーターを降りたときの気分のブレが激しい。

    幸福はコークスのようなものだ。
    何か別のものを作っている過程で偶然得られる副産物なのだ。
    ―――オールダス・ハクスリー

 これなんか、ハッとするより後でじわじわくる言葉だ。「幸福の追求」という言い回しが空々しい理由に思い当たる。なんか「幸せでない」状態から、「幸せである」状態に移行したりするのじゃないんだ。幸せとは、ただそう感じるだけのもの(だから幸せを感じることができないならば、一生"不幸せ"のままだろう)。幸せとは、「なる」ものじゃなくて「ある」ものなのだから。

    未熟な詩人は模倣し、熟練した詩人は盗む
    Immature poets imitate; mature poets steal.
    T.S.Eliot

 Immature と imitate で韻を踏んでいる。言い忘れてたけど、本書で紹介されている全ての「すごい言葉」には、原文の英文が添えられている。英語関連の編者ならではの配慮だね。リズムやリピートが同時に目に入ってくる。このT.S.エリオットのは有名どこだけど、tumblr や twitter で、この変調を目にしたぞ。

    オリジナリティとは、失敗した模倣のこと。

    オリジナリティってのはね、うろおぼえのことなんですよ。
    自分が感動したものを適当に再現したら、
    それがその人のオリジナリティになるんです。

 引用元と引用先が入り乱れ、幾度も retweet や reblog を交錯しながら浮かび上がってくる。必ずしも、欲しい情報だけが欲しいわけじゃない。必要なのも、欲しいのも、欲しいかどうか分からない(けど関連しそうな)情報も、見たいのだ。この、"ゆらぎ"の入った取捨選択の技術として、tumblr は素晴らしい。

    私は書評を書く前にその本を読んだりしない。
    読めばどうしても先入観を持ってしまう。
    ―――シドニー・スミス

 「本を読まずに書評する」という態度は、ありだ。「その本を読んだ」と言うが、いったいわたしはその本の何を読んだのだろう?と自問したくなるときがある。一字一句覚えているわけでもなし、字面をなぞっただけの"読書"になったとき、いっそ読まずに、その本の「他の本からの相対位置」だけを調べあげたほうが、「読んだ」になるのではないか。「読んでいない本について堂々と語る方法」で読書観が揺さぶられると、この主張が刺さってくる。

 頭ガツンとよりも、その言葉をコアにしてゆっくり考える言葉が多いようだ。ずっと後になって伏流水が湧くようにアイデアがまとまって出てくる。「すべての歴史は現代史」とか、「芸術は真実を悟らせるためのウソである」、あるいは「人間は自ら作りだした道具の道具になってしまった」といったすごい言葉は、その例や物語を探りはじめる良い触媒となる。

 ジワジワ自分を変える言葉たちを、どうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ちょいエロからキッツいのまで「独身者の科学」

独身者の科学 独身者の「科学」と書いて「セックス」と読ませる。独身者のたしなみ、あるいは独身者の超常識が展開される。ていねいで穏やかに、刺激つよめの論と画が並ぶ(モノクロなのが残念無念)。語り口と内容のギャップがでかいので、人を喰ったような印象を受けるかもしれぬ。

 まず、独身者の定義がユニークだ。著者によると「独身者」はかなり拡大される。つまり、以下の一つでも思い当たるならば、未婚だろうと非婚だろうと離婚だろうと死に別れていようと、「独身者」になるそうな。

  • おちゃめである
  • お調子者である
  • 研鑽家である
  • 倹約上手である
  • 指先上手である
  • いじめられたい
  • いじめたい
  • 機転がききすぎる
  • 発明家である
 ひとり上手を想定しているんだろうね。「愛はレッスンだ」という主張に激しく同意。キモチよくなり方は、自分で開拓するものだし、いくらでも深堀りできる。快楽の追求に貪欲であれと激励するいっぽう、他人の指技にとりつかれて、自分の技術の研鑽に怠るなかれと叱咤する。自慰であれ他慰であれ、練習もせずに上手くなろうなんて、ムシが良すぎる。精進あるのみ。

 真偽のほどは別として、エロス・トリビアなるものが満載されている。たとえば、世界初のダッチワイフは、古代エジプトの神官エレクチオンが作ったそうな。たまたま部屋にあった板切れを人型にくり抜き、その部分に直径3センチの穴をあけて性器を挿入したんだと。さらに、「この板のダッチワイフは今もエジプトの学者が大切に所持し、時々使っていることです」と続き、歌舞伎町の板越しプレイまで言及する。どこで眉唾すればよいやら。

 いわゆる「痛い」やつもある。ファスナーを縫いこまれたり、針と糸で縫い合わされた女性器が紹介されている。リアルかつショッキングな画になっている。また、首吊りプレイを一人でやっていて、誤って本当に首を吊ってしまったドイツ人の写真は「痛い」。以前にご紹介した「デス・パフォーマンス」まんまやね(わたしのレビューは、命がけのオナニー「デス・パフォーマンス」は劇薬 【成人・紳士限定】をどうぞ。首吊りプレイはいいのだろうか?とぁゃιぃ好奇心が湧き上がってしまうが、くわばらくわばら。

 最後に、本書で知ったマーク・トウェインの言葉を引く。これも真偽のほどは後の楽しみにしておこう。

    見よ!ペニスは剣より強し
    熱き言葉に鞘より飛び出す
    ――――マーク・トウェイン

 ちょいエロからキツいのまで、お楽しみあれ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ゲームで子育て「レッド・デッド・リデンプション」

 Z指定のゲームで子育て。

RedDeadRedemption 「ゲーム脳」を信じる人がいる。ならばゲーム暦ン十年のわたしなんざ、汚染されまくっとるわい。ゲームを目の仇にして、親の不甲斐なさを棚上げするのは止めにしよう。むしろ、ゲームは現実のシミュレーターだ。現実の人生は一回こっきりだが、ゲームはやり直せる、くり返せる。

 これまで子どもに、「ロードランナー」や「イナズマイレブン」をやらせてきた。時間を決めて、時にはエンドレスで「クリアするまで試行錯誤する」に挑戦させてきた。失敗したり負けたりするたび、本気で泣いたり怒ったりしながら、それでも工夫を重ねてきた。リアルが失敗・即・終了を強要するなら、ゲームで「失敗の練習」を積んでほしいんだ。本当の失敗とは、転ぶことではなく、起き上がらなくなることなのだから。

 いっぽう、ゲームを通じ、子どもに「現実」を与えてきた。わたしの子供時代と異なり、いまの新聞テレビから巧妙に「死」が隠されている。高速で大破した軽は映すが、ボンネットべったりの血はカメラに入れないようにする。いいや、時速100キロでぶつかったら死ぬ。人を斬ったら血が出るし、死ぬこともある。そうした想像を喚起させるためのゲーム。「オブリビオン」や「バーンアウト・パラダイス」は、プレイするにはちと早いが、「暴走」や「殺人」がどういう結果を招くか、見ることができる。カッコつきの「現実」だが、シミュレートは可能だ。

 今回は「レッド・デッド・リデンプション」。アメリカ西部開拓時代を丸ごと、なんでも、どこまででもできるゲームだ。正義を貫くも、極悪人になりきるもよし、西部劇版GTA(グランド・セフト・オート)がピッタリの極ゲーだ。Z指定(18歳以上)なので、プレイするのはわたし、ギャラリーとして入ってもらう。わたしがなりきるのは、元無法者のジョン・マーストン。スカーフェイスのガンマンなり。銃にモノを言わすプレイスタイルで行く。ストーリーはこんな感じ(wikipedia「レッド・デッド・リデンプション」より)

連邦捜査官に家族の幸せを脅かされた元無法者のジョン・マーストン。 ジョンは幸せを取り戻すために再び拳銃を手にし、かつて友と呼んだギャング達を追う。 彼は己の体に染み付いた血染めの過去と決別するため、過酷な闘いの中、一人、また一人と葬っていく。
 解体するときに飛び散る血潮、街中での撃ちあい、ナイフで刺し殺すなどといった、子ども向けとは言いがたいシーンが続出する。そのいちいちを「解説」しながら、画面のジョン・マーストンは「正義の味方」として活躍してもらう。子どもらは喝采を送るが、悪い奴は撃ち殺してもいいんだなんて思ってるんじゃ……

 次に、「悪いこと」をやってもらう。このゲームは、簡単に「悪いこと」ができる。死体漁りは序の口で、銃を向けて脅し取る、金庫破り、馬どろぼうまで(もっと酷いやつは自粛)。子どもがいちばん衝撃を受けたのは、血や暴力そのものではなく、「悪いこと」が罰せられないことだった。罰は逃れられるのだ。「この国は、『自分の身は自分で守る』のが正しいとされている。だから、銃を持つのは警察だけじゃない。もちろん『話し合い』も大切だが、最終的には銃が解決する。そういう場所なんだ」と説明する。銃は確かに暴力だが、善悪どちらにも使える。

 しかし、そういう「悪いこと」を最後まで見ている人がいる。それはわたしだ、キミだ。どんなに隠そうとも、目撃者を皆殺しにしようとも、やってる本人は「それ」を知っている。そして、その「悪いこと」を「悪い」と意識するのが、「良心」と呼んでいるもの。「罪と罰はセット」という欺瞞は、人生のどこかで、遅かれ早かれ暴かれる。そのとき、良心の重さが分かる。「バレなきゃいいんだ」ではなく、それを知っている自分の価値観で測れ。

 メキシコにて反乱を鎮圧するミッションがある。政府軍の助っ人として、砦に立てこもった暴徒をバタバタと打ち倒していく。鎮圧後、命乞いをする生き残りを、政府軍は処刑してゆく。銃殺シーンを背景に、マースティンは吐き捨てる。

      There're too many justice.

 銃の数だけ正義がある。

ブラッドメリディアン 荒涼とした西部を舞台にした作品なら、「ブラッド・メリディアン」をオススメ。 アメリカ開拓時代、暴力と堕落に支配された荒野を逝く男たちの話。

 感情という装飾が剥ぎとられた描写がつづく。形容詞副詞直喩が並んでいるが、人間的な感覚を入り込ませないよう紛れ込ませないよう、最大限の努力を払っている。そこに死が訪れるのならすみやかに、暴力が通り抜けるのであれば執拗に描かれる。ふつうの小説のどのページにも塗れている、苦悩や憐憫や情愛といった人間らしさと呼ばれる心理描写がない。表紙の映像のように、ウェットな情緒が徹底的に削ぎ落とされた地獄絵図がつづく……この続きは、「ブラッド・メリディアン」はスゴ本をどうぞ。読む「Red Dead Redemption」なり。


| | コメント (7) | トラックバック (0)

怒らずに生きる「怒らないこと2」

 怒らずに生きるための手引き。

 tumblr で拾ったブッダの言葉が好きだ。

過去にとらわれるな
未来を夢見るな
いまの、この瞬間に集中しろ

Do not dwell in the past,
Do not dream of the future,
Concentrate the mind on the present moment.

 文字どおり「刹那的になれ」という意味ではない。過去や未来に拘泥して「いま」を見失うなよという戒めだと受け取っている。本書を読むと、過去や未来に囚われている状態こそが「怒り」や「欲」であることが分かる。

 著者はアルボムッレ・スマナサーラ。スリランカ仏教の長老で、かみ砕いた言い回しと具体的な例を用い、「怒らない」ための方法を説く。本作は、「怒らないこと」の続編に位置する。前作がブッダのエピソードを多用しているのに比べると、本作は、より現代的な事例(秋葉原連続殺傷事件など)に触れている。その分、自分に引き寄せて読むことが可能になっている。前作のレビューはこちら→[「怒らないこと」はスゴ本]

 ときに仏教からスピンアウトして、キリスト教批判してるところが面白い。もし神が完璧なら、「怒る」ことなんてしないだろうと言い切る。不完全な人ではなく、その不完全な人を創った自身に腹を立てるのが筋という件は、ヒヤヒヤしながらも笑ってしまった。「怒り」と対決したり、コントロールしようとする姿勢に対し、著者は完全否定する。曰く、「怒りに燃料を与えるようなもの」だという。怒りに怒りで対処するならば、自身が燃料となる。結果、燃え尽きて無くなる。怒りで真っ白になり、その怒りに怒って爆発し、抜け殻のようになった経験はあるだろうか(わたしはある)。

 生きることは苦しみであり、感覚は苦であるという。そして、人は怒らずにはいられない存在だという。なぜなら、「自分というなにかが実在する」という考えに縛られている限り、次から次へと怒りが湧いてくるから。というのも、見るもの/聞く音、あらゆることが自分の思い通りにならないから。思い通りにならないことに嫌気がさしている状態が「怒り」で、そうした状態をなんとかしようとするのが「欲」なんだと。

 だから、怒りをこらえようとしたり、ねじ伏せようとすることは不可能なんだ。自己啓発書よくある「むりやり笑顔をつくる」も凶手、それは怒りをごまかしているだけであり、取りつくろった自分へ嫌悪感をつのらせることになる。

 では、どうすればよいか?

 「いったん停止」が"正解"になる。わたしが以前のエントリで考察した[脱怒ハック「怒りについて」]とものの見事に一致している。つまりこうだ。

もし怒ってしまったら、なにもしないで、なにも言わないで、そのとき生まれた怒りを放っておきます。怒りに「考える」という燃料をあげないで、心まで止めてください。頭の思考も、言葉を発することも、からだを動かすことも突然止めて、フリーズ状態になってみてください。ただ止まって黙っていればいいだけです。

 怒りの原因や対処について考えるとき、その手や頭は怒りに染まっている。怒りについて考えている時点で、怒りの罠に囚われているのだ。この「考えることをやめる」のはかなり難しい。しかし、「怒りの原因や対処」から目を剥がし、「いま怒っているという感覚」に注目することはできる。呼吸や心音、視野や聴覚を意識して、体感覚を研ぎ澄ますのだ。そして、考えることはただ一つ、「ああ、自分はいま、怒っているのだ」だけ。その苦しさだけを意識する。マゾかよ!と自分ツッコミ入れたくなるが、これは有効ナリ。

 カイシャでもフーフでも実証済みなので、お試しあれ。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

名文どろぼう

名文どろぼう 「エレベーター読書」と名づけた時間がある。

 カイシャのエレベーターに乗っているわずかなあいだだけに読む本を持ち歩き、その十数秒集中する。短いブツ切り時間なので、詩集や箴言集になる。琴線を弾くフレーズは手帳に留め、ネタとして使わせてもらう。

 そんなエレベーター読書に最適なのが、「名文どろぼう」。著者は読売新聞の名コラムニスト。わたしのように、ハート抉る寸鉄を書き留めておいたものの蔵出しだそうな。小林秀雄からスティーヴン・キング、落語や辞典、六法全書まで巻き込んで蒸留された名文たちが紹介されている。

 たとえば、こんなん。


     いい人と歩けば祭り
     悪い人と歩けば修行

     ───小林ハル


 自動的にソクラテスを思い出す。これだ→「結婚はいいことだ。良い女と一緒になれば幸せになれるし、悪い女と一緒になれば哲学者になれる」。名言をきっかけに自分の記憶を掘り起こす愉しみがある。

 胸に刺さるやつもある。


     夢は砕けて夢と知り
     愛は破れて愛と知り
     時は流れて時と知り
     友は別れて友と知り

     ───阿久悠


 「阿久悠を送る会」の会場の壁に飾られていた彼の言葉だそうな。井伏鱒二が訳した于武陵「勧酒」の「さよならだけが人生だ」に触れてくる。

 クスっと笑えるやつも。


     「お金がすべてじゃないわ」
     「持ってる人はそう言うんです」

     ───「ジャイアンツ」


     【ばかばか】女性が、相手を甘えた態度で非難して言う言葉

     ───新明解国語辞典(第六版)


 いわゆる「使える!」やつをご紹介。誰かを批評したあと、反撃されて、「偉そうなこと言うなら、お前が自分でやってみろ」と言われたら、どう返すか。チャーチルの小話でこうある。絵なんて画いたことのないのに、ただ名士だというだけで、美術展の審査員をやっている人がいる。そんなことが許されるのか、という問いに対して、


     「私はタマゴを生んだことはありませんが、それでも、
     タマゴが腐っているかどうかは、ちゃんと分かります」

     ───外山滋比古「ユーモアのレッスン」


 ウロ覚えだった記憶の彼方から呼び戻されてものがある。確かに読んだはずなのに、覚えてないもの。でも言われると思い出すもの。


     誰でも、生まれたときから五つの年齢までの、あの可愛らしさで、
     たっぷり一生分の親孝行はすんでいるのさ、五つまでの可愛さでな。

     ───安部譲二「塀の中の懲りない面々」


 わたしの手帳と被っているやつもある。いわゆる有名どこだ。


     天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年である

     ───スタインベック


     世の中に醜女(ブス)はいない。
     ウォトカが足りないだけだ。

     ───米原万里「ロシアは今日も荒れ模様」


 わたしの手帳だと、これにtumblrやtwitterのが加わる。「名文どろぼう」にはないけれど、いくつかついでにご紹介。もしわたしが「名文どろぼう」を編むなら、これらは是非いれたい。


     生きることに意味はないけれど甲斐はある

     ───tumblrより


     「あなたが一番影響を受けた本は?」
     「預金通帳だよ!」

     ───tumblrより(もとはバーナード・ショーらしい)


 最後に、わたしの手帳より。今年いちばん、きゅんとなった。


     丸見えのぱんつは只のぱんつだが
     見えないぱんつには無限の可能性があるんだよ

     ぱんつが実際に観測されるまでは
     ぱんつはいてない可能性だって存在するんだよ

     ───tumblrより「シュレディンガーのぱんつ」

 名文を書くには名文を盗むところから。「名文どろぼう」、このタイトルも粋だね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

業のおぞましさ、ひたむきさ「赤目四十八瀧心中未遂」

赤目四十八瀧心中未遂 松岡正剛氏じきじきにオススメいただいた劇薬小説。業のおそろしさを強調されていたが、わたしはむしろ、業のおぞましさ・ひたむきさに呑まれた。

 一度に読んだ、そして激しい、ほとんど飢えたような欲望が一度にわたしを襲った。自分自身を突き落とすような「私」には、どうしても慣れ得ない。職も住もうっちゃって、転々と堕ちてゆく主人公は、納得ずく&身を任せで浮遊する。考えた上でやってることは、わかる。なぜなら、一度はわたしも考えたから。わたしに限らず、この主人公「私」が垂れ流す自壊思考は、誰しも「思った」ことはあるだろう。

その日その日、尻の穴から油が流れていた。私が私であることが不快であった。私を私たらしめているものへの憎悪、これはまるで他人との確執に似ていた
 ただ、本気で実行することはないはずである奈落への跳落を果たしてしまう。今風なら大二病だ。勤め人になってから自分探しすると大ヤケドする例ともいえる。「私とは何か」、それは他者との関係性の中ででっちあげられたものだと分かっていても、その中でしか生きてゆくことしかできない。人を絶ち、表情を消し、そのまま朽ち果てようとしても、感情の底が叩かれたとき、やっぱり「あッ、あッ」と声が漏れてしまう。ことばが生まれるところに感情が潜む。どんなにぎりぎり・ドロドロのところにも、我が潜んでいる。その臓物のような「我」が「私」の内省を借りてつきつけられると、つきあうこちとら辟易すらぁ。

 だから早々に主人公によりそうことはやめて、ヒロインに注目する。タイトルに「心中」とあるから、相方が要る。アヤちゃんといい、第一印象は「見るのが怖いような美人である。目がきらきらと輝き、光が猛禽のようである」。以降、主人公の目を通したアヤちゃんの描写が憎い。先に述べたとおり世捨てを騙っているくらいだから、まともに人を見ない/見れない。対峙しているときは目の端で盗むように、後ろからつけるときは舐めるように、視るのだ。そして、見えない部分を補い匂いを音を貪る。

 なんのことはない、捨てたはずの世にある女に、「我」が囚われているのだ。「私」の後ろから見ているわたしにとって、「見ている」ことを隠そうともしない「私」の矛盾がよく見える。見た瞬間、穢れ、萎れ、垢にまみれる。分かっていながら見てしまう。そして、見た瞬間、関わってしまうのに。ここに葛藤を抱かないインテリを謳う「私」は、ちゃんちゃらおかしいぞ。それとも、読み手にこの矛盾を気づかせるための演出なのか?だとしたら超絶に上手いぞ。

 ストーリー運びの絶妙さも随所に練りこまれている。この小説は、死と血とセックスに満ちている。「私」は臓物を解体し、串刺しにすることを生業とし、腐臭漂う一室で、汗だくになっている。死と血のメタファーだ。そして、その酷い臭いは、ラストの瀧めぐりの爽快な風に吹き飛ばされる対比になる。女からもらったサクランボを「ぜんぶ食べてしまう」のは、その女を喰らう前フリだろうし、過去が人の姿をとって追いかけてくるところは物語が転調するポイント。技巧が見えないくらい溶け込んでいるので、目を凝らさないと気づかないくらい(←これも心憎い。でもそんなの気にせず夢中に読む)。

 同調できない「私」とともに墜ち、這い回る。読み終わったとき、悪夢から覚めたよう。強い性欲は強い渇きに似ている。わたしのまぐわいも、激しかった。「私」とアヤちゃんのような、互いにしがみつくようなセックスだった。夜の底にいると、自分を見失うときがある(あった)。モノに拘泥したり、コトに熱中するフリをすればやりすごせる。でも、そういうごまかしができないとき、わが身が後ろから噛まれるように辛い。そんな夜は、ヒトにしがみつくのがいちばんだな。行為の後の眠りは、小さな死そのもの。完璧の眠り。

 そんな夜をもたらす一冊。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

とことん幻想「リリス」

 勘ぐり捨てて、浸るように潜るように読む。悪夢と善夢を混ぜ合わせた読書。

 もちろんリリスのことは知っている。NERV本部のセントラルドグマ最深部にいる巨人だろ?百年も前の英国の作家・ジョージ・マクドナルドが、どうやってエヴァンゲリオンを見てたかは謎だが……そろそろ冗談はやめにしよう。ただ、「リリス」の正体について調べたのは、エヴァがきっかけだったりする。あるいは、「ファム・ファタル」の表紙を飾っているのがリリス。

 リリスは妖魔の一種だといわれる。もとは最初の人・アダムの妻として創造されたが、彼のもとを去り、地上へ身を堕とす(肋骨からエヴァが作られるのはその後)。赤子を虐待したり、吸血鬼としても有名なんだが、その"理由"までは知らなかった……それが、本書で、明かされる。いまふうに言う、「私が私らしくあるために」だろう。アダムが強要する正常位(男性上位)を嫌ったからという俗っぽい説もあるが、あながち外れではなさそう。

 この幻想小説は、キリスト教的寓意性に満ち満ちており、いたるところに「解釈」や「分析」したくなる伏線・象徴が潜んでいる。そのいちいちを掘り起こすのも愉しいが、いったん「解釈」を捨ててみよう。ミミズがチョウになり、流血が河になり、時や場が伸び縮みし、生きることは死ぬことになる。キテレツ奇妙な展開のいちいちに意味を求めるのではなく、訳者・荒俣宏さんがオススメする、「この音楽に身を任せてしまう」読み方が正解のようだ。

 テーマは「リリス」になるが、それを描く動機・モチーフに相当する、主人公や進行役が、いい味出している。十九世紀の科学信奉者の「私」が、うっかり幻想世界に入り込んで右往左往する様や、再三の警告にもかかわらず、(わざととしか言いようのない)悪手を選ぶところは、"お約束"ながら読み手をやきもきさせるだろう。物語の進行役(またはトリックスター?)である大鴉の含蓄あるセリフに唸らされる。「本をいうものはね、あれは、なかにはいる扉だ。したがって外へ出る扉でもある」や、「人間はね、自分でそう決めただけの自由しかないんだ。それ以上はこれっぽっちも自由じゃない」なんてセリフは、その使われる場面も含め、生きてる限り心に残り続けるだろう。

 読んだ人は、ラストのめくるめく色彩の狂演のような法悦シーンを思い浮かべるようだけど、わたしはもっと白くて寒い、夜の底からぬっと出てくる月の場面が好きだ(そして何度も出てくる)。デ・キリコ「街の憂愁と神秘」のようなルナティックなとこが性に合っている。そのまま狂ってしまえと願いつつ読むのだが、先に触れたように、これは「キリスト教的寓話」でもあるのだ。

 本書は、読書の達人・松岡正剛さん直々にオススメしていただいたもの。ありがとうございます、文字どおり夢のような酒のような読書となりました。ただ、「読んだことを後悔するような劇薬小説」とは趣が違うかと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ルポルタージュの最高傑作「黒檀」

 ルポルタージュの最高傑作。スゴ本。

黒檀 開高健「ベトナム戦記」が一番だった。しかし、アフリカの本質をえぐりだした、リシャルト・カプシチンスキ「黒檀」が超えた。この一冊にめぐりあえただけで、河出文学全集を読んできた甲斐があった。スゴい本を探しているなら、ぜひオススメしたい。ただ、合う合わないがあるので、「オニチャの大穴」を試してみるといい。十ページ足らずの、アフリカ最大の青空市場を描いた一編だが、ここにエッセンスが凝縮している。貧困としたたかさ、そしてカプシチンスキ一流のユーモアが輝いている。

 アフリカの多様性を言い表すパラドクスがある。ヨーロッパの植民地主義者はアフリカを「分割」したと言われているが、それはウソだ。「あれは兵火と殺戮によって行われた野蛮な統合だ!数万あったものがたったの五十に減らされたのだから」というのだ。アフリカはあまりに広く、多様で、巨きい。だから、大陸全体について書くなんて無茶な話。だから、「アフリカ文化」「アフリカ宗教」と括りたがるエコノミストや人類学者は二流以下になる。では、どのように書けば?

 著者は、「見たこと」を中心に据える。その場所に飛び込んで、目撃者としての観察と経験でもって、アフリカを点描してゆく。たしかに伝聞や噂よりは信憑性が高いだろうが、「点」にすぎないのでは?どっこい、個々のトピックやルポは点にすぎないが、時間や場所の異なるいくつもの点を並べていって、そこから全体像が浮かび上がらせる(お見事!)。個人的な体験と庶民の視線を使い分けながら、より大きな問題、より全体的な問題が見えてくる。本人曰く「文学的コラージュ」と呼ぶこの手法により、本質は細部に宿ることをルポルタージュで証明する。

 たとえば、こんな小話がある。炎天下で待っていて、ようやくバスが来た!いそいそと乗り込んで、落ち着けない新米さんは、きょろきょろ辺りを見回して、こう尋ねる「バスはいつ出るの?」。「出るのはいつ、ってかい?」運転手は不審げに返事をする。「満員になったらに決まってる」。あるいは、著者自身が、ある集会を取材しようと出かける。予定された広場に到着するのだが、人っ子ひとりいない。このとき、「集会はいつですか?」と訊くのはナンセンスだという。答えは初めから知れているから→「みんなが集まった時ですよ」

 これは、「時間」の受け取り方が決定的に違っているからと考える。人間の世界の外側に客観的・絶対的に位置していると捉えるヨーロッパ的な考え方と異なり、もっと主観的に「時間」を受け取るという。時はそれ自体で流れているのではなく、人の介入があって、はじめて「進む」というのだ。そんなアホな!しかし、上述はの小話は実話だ。時間の存在は、出来事によって示されるが、出来事が起こるか起こらないかは、人間次第というのだ。

 だから、対立する両軍があったとしても、矛を交えなければ、戦闘は発生しない。逆なんだ、因果が起きてないのなら、時間はそこに存在しないというのだ。時間は、人の行動の結果として顕在化する。行動を中止するか、そもそも行動に取りかからないのであれば、時間は消失する。時間というのは受動的な物質であって、なによりもまず人間に依存するものなんだと。

 この考え方は頭ガツンとやられると同時に、激しく頷きたくなる。これまで、さまざまな「アフリカ本」を読んできた。さらに、ネットやテレビなどのメディアを通じてアフリカの「部分」を見てきた。

  1. セックスと噂とメルセデス・ベンツ「クーデタ」(アップダイク)
  2. 10ドルの大量破壊兵器「AK-47」がもたらした世界
  3. 良いニュースです、「貧困の終焉」が可能であることが証明されました。悪いニュースです、それにはお金がかかります
  4. だめな国は何をやってもだめ「最底辺の10億人」
  5. いま読むべきスゴ本「ルーツ」
  6. 松本仁一「アフリカ・レポート」から行動する
  7. アフリカは"かわいそう"なのか? 「アフリカ 苦悩する大陸」
  8. 時間感覚を変える「アフリカの日々」(ディネセン)
  9. 人を魔にするもの「闇の奥」
  10. 「コンゴ・ジャーニー」はスゴ本
  11. 子ども兵──「見えない」兵士たち
 しかし、カプシチンスキ「黒檀」はこれらを超えている。どれも本書の一部を拡大したり新しくしているだけで、これほど本質を抉り出しているものはない。メディアを通じてみえる「アフリカの暫定性(もしくは臨時性)」の根っこは、まさにここにあるんじゃないかと。もちろんあのデカい場所をくくる愚は避けたいが、モノや土地にこだわらない気質を解くキーは「時間」なのではないかと。わたしにとって、とても遠く、異質な場所の、その異質さ加減が分かる。離れているというものの、その距離が感じられるんだ。

 おそらくわたしの理解は、著者のいう「上っ面の」でしかない。それでも、虚飾の上から見るのではなく、ベールの中に頭つっこむような感覚なんだ。ルワンダ虐殺の要因、子ども兵の戦争がなぜ起きているのか、「食人大統領」という悪名を頂いたアミンの素顔、個々の描写を重ねるようにして現れてくる。まさにコラージュ。

 これは、個々の場数を踏んできたからこそ書けるもの。カプシチンスキは徹底的に現場の人だった。銃撃されること四度、銃弾飛び交う最前線に立つこと十二回、革命・クーデターの目撃証人になること二十七回、ウガンダで脳性マラリアに罹り、体重が四十五キロにおちこんだこともあったそうな。ネット情報をかき集め・編集して一丁あがりという「ルポライター」がいるといったら、嘆くだろうなぁ。

 大事なことなので、もう一度。本書は、ルポルタージュの最高傑作。これと「ベトナム戦記」に匹敵するようなものがあるなら、ぜひ教えてほしい。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »