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けっこうアナログ「数覚とは何か」

数覚とは何か 数学的センスのようなものだと予断してたら、大きく外れた。味覚や視覚のような感覚の一つとしての「数覚」という意味なのだ。

 そして、驚くべきことにこの数覚、生得的なものとして扱われている。つまり、この数学的感覚は生まれながらにして備わっているというのだ。ええー、数学は得手じゃなかったんだけど……「数学は暗記科目」として逃げてたわたしには、にわかに信じがたい。

 さらにこれ、人間だけのものでないそうな。数を数えたり、グルーピングしたり、量の比較をするといった操作は、生物の遺伝レベルで仕込まれているという。「数学」なるものを人類の財産として崇め奉っていたわたしには、ちょっとした衝撃だった。人知を超えた数秘術から、より生臭い存在としてつきあえそう。

 この数覚なるもの、非常にアナログ的だという。たとえば、数字の大小比較の実験で、その非デジタルさが明らかになる。「4」と「5」の大小を判断するよりも、「1」と「9」を判定するほうが短時間になる。心の中の比較アルゴリズムは、あたかも天秤が「数を測っている」ようなものなのだという。確かに重さ「1」と「9」よりも、「4」と「5」のほうがフラフラしそう。

 本書ではもっと詳細な実験をレポートしている。2つの数字を比較する場合、どれだけの時間がかかるかを測定した実験で、31から99までの2桁の数字を提示して、65よりも大きいか、小さいかを分類してもらう。同時に、被験者の反応時間をミリ秒単位で測定したのだ。提示された数字が65に近くなるにつれて、反応時間が漸次的に長くなってゆく。これを距離の効果と呼んでいる。

 この「距離の効果」でピンとくる。わたしが数に接するとき、countable な存在というよりも、むしろ measurable なものとして捉える場合が多い。概算要求が72兆円とか、東京ドーム120杯分とか、1990円飲み放題とか。そこにはもちろん、正しい(数えられる)値があるにはあるが、わたしはいちいち気にしない。数字が出ると、値打ちやリスクやコストのボリュームとしてみなすのだ。そして、この量としての数を、概念上の数(この文脈では整数)に置き換えて考える基底に「数覚」があるんだ。以前、「やりなおし数学」の一環で、整数と実数が実感として理解できたとき、数直線が穴だらけに見えて慄然としたことを思い出す(スケールとして見ていた数直線に数という点をプロットし始め、0と1の間に無限を感じたから)。

 この、数と量に対する直感的感覚は、人に限らず動物も持っているという。そして、動物や人の計算能力に関するレポートを通じて、数学の能力は「生物学的な前駆体」があることを主張する。数は「思考の自然な対象」であり、それによって世界をとらえる生得的なカテゴリーであるという。数を理解する基底には、生物進化の過程で身についてきた能力―――視覚、嗅覚、聴覚、触覚の他に「数覚」があるというのだ。

 断層撮影を用いた脳そのものへのアプローチも豊富に紹介している。だが、この分野はあやしげな脳学者や、うさんくさい脳言説がまかり通っている。著者もその弊を注意深く避けており、「脳のココが数覚を司っている」などと特定しない。せいぜい、数の処理のために、下頭頂野内が関わっていると述べるにとどまる。

 ここから面白くなるのは、著者の「数覚」へのアプローチだ。生得的な感覚としての数覚を元に、数字や文字の視覚的認知が、頭頂・側頭領域に特殊化され、掛算には左の大脳基底が関係することまでは分かっている。しかし、人が字を読んだり記号を用いて計算するようになったのは、ここ3000年にすぎず、脳自体が進化の過程でこの機能を構造化するには短すぎると考えるのだ。アインシュタインの脳も、ラスコー洞窟の壁画を描いたヒトの脳とほとんど変わらない。遺伝形質がゆっくりと変化するのとは対照的に、文化はもっとずっと早い速度で進む。だからどこかで、文化的進化と生物学的限界の折り合いがついていると考える。もともと別の用途に割り当てられていた皮質回路を、新たな認知能力が乗っ取っているというのだ。神経細胞の可塑性もさることながら、「乗っ取られた」のが何であるか非常に興味がある。だが残念なことに、本書では明かされていない。

 著者は「数覚」を外堀からも埋めていく。「1」の1らしさ、「2」の2らしさ、そして「3」の3らしさは、実際に数えることなく計算できる認知的量だという。それは、「赤い」とか「暖かい」といった感覚属性に名前をつけるのと同じくらい容易だったに違いないと考える。そして、「1」、「2」、「3」という最初の三つの数が非常に古くて、特別な地位を占めていると主張する。格と性の語形変化を持つ言語では、「1」、「2」、「3」だけが語形変化のある数詞だし、古代ドイツ語では2は数えるものの文法的性によって、"zwei" にも "zwo" にも"zween" にもなる。英語の序数のほとんどは「th」で終わるのだが、"first"、"second"、"third" だけは違う。漢数字も一緒だね。「一」、「二」、「三」までは、漢字の形が、並んだ棒の数と一致しているから。文化的な共通項から、生物的な条件をあぶりだすのだ。

 ここから脱線(?)してゆくフランスの算数教育批判とか、アングロサクソンの数詞よりもアジアの方がエレガントな数え方をするといったエピソードがいちいち面白い。アメリカの子どもよりも、中国や日本の子どもの方が算数の能力に秀でているのは、「基数を10にとる十進法が、文法構造に完全に反映されている」からだというのだ。たしかに、一から九までと、十、百、千、万…で表現できるのはエレガントかも。"eleven"、"twelve"、"thirteen" といった特別な序数を持つ英語や、70を「60と10」と言ったり、90を「20×4と10」と言ったりするフランス語は苦労するだろう。

 そして、ベンフォードの法則から逆算的にわたしたちの数を用いた認知システムを暴いてゆく。ベンフォードの法則とは、自然界に出てくる多くの数値の最初の桁の分布が一様ではなく、およそ

  1で始まるのは、31%
  2で始まるのは、19%
  3で始まるのは、12%
  ……
  …

 12本のエンピツについて語るより、1ダースにまとめる。1そろえのトランプというのを好み、52枚のトランプとは言わない。数の表記に関する文法が、私たちに小さな数をよく生み出すようにさせているというのだ。世界を小さな集合から成り立っているように把握しようとするのは、感覚的認知的システムがもたらす幻想なんだと。いちいち(感覚的に)納得できてしまうのが面白い。数とはデジタル=デジットなものとして予断してたら、もっと感覚的=アナログなものとして受け取るようになった。心が数を操る仕組みはけっこうアナログだ。

 自分の脳に関するというより、自分の数に対する態度が変わる一冊。

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コメント

数覚=ナンバーセンス(number sense)、私もおもしろかったです。学生時代は数学がよくわからない方でしたが、これを読むことで数への愛おしい気持ちが湧いてきて、違う想いで『数学』に向き合えそうです。高校生なんかが、受験勉強の合間に読むと、やる気というか、数学の意味とかがわかるんじゃないかな?この本、茂木健一郎氏が日本経済新聞で書評を買いて以来、売り切れ続出のようで本屋では見なくなりました。

投稿: ひっぴ | 2010.10.05 23:23

>>ひっぴさん

その通りだと思います>「数への愛おしい気持ちが湧いてきて、違う想いで『数学』に向き合えそうです」
「勘定ができる≒把握している」「数えられない≒置き換える」といった実感ベースを裏打ちするようなお話ですもの。茂木さんの書評は読んでみたいですね、図書館をあたるか……

投稿: Dain | 2010.10.06 21:34

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