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親も人の子「子どもの心のコーチング」

子どもの心のコーチング 自分の親業を再確認する読書と相成った。

 実用書を読む理由は二つある。ひとつは、知らないことを知るためで、もうひとつは、知っていることを確認するため。本書は後者に値し、わたしの子育てがコーチング手法に沿っていることが分かった。やり方がよければ「よい子」が育つとは限らないが、(そもそも"よい子"という言葉の胡散臭さは承知の上)、自分で考え・生きていける大人になるための手助けにはなる。本書は、まさにそのための良書。読者に問いかけるような章タイトルで、思わず「答え」を知りたくなり、先を促す仕掛けになっている。たとえば、こんな感じ。

  1. 子どもが朝起きるのは誰の仕事?
  2. 「人の役に立つ喜び」をどうやって教えるか?
  3. どうやって「愛すること」を教えるか?
 最初の問いかけは、親子の共依存を的確に示している。「起してもらう」子どもが母親に依存していることは明白だが、この問題はむしろ母親。「子どもを遅刻させたくない」という動機には、「遅刻させるような親は外聞が悪い、恥ずかしい」感情が潜む。本書では、そこまで赤裸々に感情を暴いたりしない代わりに、「子どもに責任感を教える」方法のひとつとして、「朝起すのをやめる」ことをオススメしている。

 「朝起こさない」と宣言し、子どもと一緒にサポートを考え、翌日から起こさない。始めて何日かは一人で起きてくるだろうが、最初に起きてこないときの親の対応が、その後に影響するという。じっと我慢して起こさずにいれば、いずれ子どもは自分で起きるようになる。我慢できずに起こしてしまうと、その日からずるずると古い習慣に戻ってしまう。わが子の場合、今のところ自分で起きてきている。中高生になって部活や勉強が忙しくなると、どうなることやら。「学校に遅刻しないよう、朝一定の時間に起きるのは、誰の仕事なのか」この問いかけは、覚えておこう。

 「人の役に立つ喜び」をどうやって教えるか? という質問は、さんざん実践してきている答えがまさに展開されていて、ちょっと笑えた。子どもがお手伝いをしたとき、子どもをほめないことが大切なんだ。「いい子だね」とか「えらいぞ」というほめ言葉ではなく、子どもが手伝ってくれたことを感謝して、喜ぶのが「正解」なんだと。子どもにとって親は大きな存在。そんな親から「ありがとう」「助かった」「嬉しかったよ」という気持ちが伝われば、これほど嬉しいことはない。「ほめ言葉」という報酬のためのお手伝いではなく、「役立つこと」の喜びそのものが報酬になるのだ。

 ヘルプとサポート(釣った魚を与える/魚の釣り方を教える)の方法論や、傾聴のテクニック、「あなたメッセージ」から「わたしメッセージ」への転換など、有名どこで重要どこは総ざらえで紹介している。ひと昔の自己啓発本が子育て本にコピーしているようで、思わず微笑んでしまう。そういや、かつて自己啓発ブーム(?)の世代が、いま子育てに悩んでいると考えれば納得やね。

 しかし、本書の全部に賛同というわけではない。手法の枝葉についてツッコみたいわけではなく、もっと根本のとこで、強い違和感を抱いたのがいくつか。

 たとえば、「どうやって『愛すること』を教えるか?」という問いへの「解答」なんかがそう。著者曰く、とにかく子どもをかわいがれ、スキンシップや言葉かけが重要だと。それは否定しないが、それだけ? とツッコみたくなる。もちろんわが子に愛情を注ぐことも大切だが、それは「愛されること」を教えるにすぎぬ。「愛すること」を教える端的な方法は、「パートナーを愛すること」を子どもに示すのだ。子どもの前でイチャつくのではなく、パートナーを思いやり、大切に思う気持ちを態度で表すのだ。この、パートナーへの思いやりが丸ごと抜けているところに、引っかかった。

 さらに、子育てにおける悩みや心配事に対するサポートの話で、また引っかかる。子どもと自分だけで閉じこもることは問題だと指摘し、周囲のサポートの重要性を訴えているのは分かる。あたりまえだ、子育ては母親一人でするものでも・できるものでもない。けれども、著者のアドバイスは、子育てセミナーや講演会に行けというのだ。あるいは周囲の友人やコミュニティに相談せよという。パートナーを全くアテにしていないので、逆に不安になってくる。パートナー自身が「あなたの問題の一部」である場合があるとして、それ以上先に踏み込まない。父親は「親」を手放しているように描かれており、「お願い」レベルでアドバイスされる。

 本書には、「パートナーへの思いやり」や「相談先としてのパートナー」という発想が抜けている。あたかも母と子だけの世界で成り立っていて、あふれる不安を解消するためにコーチングやコミュニティがある―――そんな世界で書かれた本のようだ。必ずいるとは限らないが、親やパートナーに、もっと頼っていいのでは? わたし自身、齢とってズルくなったのか、なんでも引き受け・抱え込むよりも、協力しあう「うまいやり方」を探すほうを優先している。妻や子のおかげで、(妻も子も含んだ)人を信じ・頼れるようになった。親も人の子、にんげんだもの(みつを)、もっと頼って生きたいもの。

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松岡正剛さんオススメの劇薬小説

 読書は毒書。読んだことを後悔する、トラウマ本を正剛さんにぶつけてみた。

 10月23日、松丸本舗でお話できるチャンスがあったので、食いつく。まず、わたしの渾身の劇薬小説をリストアップし、正剛さんの反応を見る。次に、そこからオススメ本をディスカッションするという流れ。

 まずはわたしのターン!

 読んだことを後悔するような小説、読後感サイアクの作品を教えて欲しい。「期待して読んだら外れだった」ではなく、「読んだという記憶を消し去りたい」と思うくらい嫌あぁぁな気分にさせてくれるもの。不快、不愉快、気持ちわるい、吐きそう、夢に出そう、呪われそう、生きる気力が失せた……ホラー、マンガ、ノンフィクション、ジャンル不問で。そして、[この記事]をプリントアウトしたのを渡す。

  • 真・現代猟奇伝(氏賀Y太)
  • 隣の家の少女(ジャック・ケッチャム)
  • 忌中(車谷長吉)
  • 骨餓身峠死人葛(野坂昭如)
  • 城の中のイギリス人(マンディアルグ)
  • 狂鬼降臨(友成純一)
  • 児童性愛者(ヤコブ・ビリング)
  • インスマウスの影(ラヴクラフト)
  • 地獄の子守唄(日野日出志)
  • 消された一家―北九州・連続監禁殺人事件(豊田 正義)

地獄の子守唄隣の家の少女消された一家
忌中城の中のイギリス人真・現代猟奇伝

 セイゴォ師、「ほォ……」とニッコリ笑う。口もとはほころんでいるけれど眼ぇは炯炯としているからちょっと怖いよ!そして、やおらペンを取り出すと、「車谷長吉」「マンディアルグ」「ラヴクラフト」にチェックを入れる。なんだ、結構読んでるじゃないか、とつぶやく。

 松岡氏 「車谷長吉は痛いよね、『赤目四十八瀧心中未遂』は読んだ?」
 わたし 「いえ、まだです。覚悟キめて読むつもりです」
 松岡氏 「では、コンラッドの『闇の奥』は?」
 わたし 「読みました」
 松岡氏 「ゴールディングの『蝿の王』は?」
 わたし 「読みました、そのうえで、このリストの選外にしています」
 松岡氏 「じゃあ、ジョージ・マクドナルドの『リリス』なんてどう?」

 おっ、それは読んでいないぞ嬉しいぞ。曰く、とても西洋的な恐怖があるんだと。同行していたデザイナーのMさんが読んだというのでさらに嬉しくなる。で、一緒に探してもらう。なんか黄色っぽい背表紙の文庫で、女の子の表紙だったなぁ……松丸のあの辺にあるだろうなぁとウロウロするのだが、見つからない。松丸本舗って探すと逃げるんだよなぁ、放っておくと寄ってくるのに…とグチると、「女の子といっしょですね」と言われる。うーん、逃げられたことはあれど、寄ってこられたことがないので、肯定できない。

 松丸本舗は、折に触れて大々的に棚の入れ替えをするので油断がならない。バラバラになって移動するのではなく、ある一定のカタマリを保持しつつ、新たな本も飲み込みつつ、流動するような感覚。さながら溶岩の流れか、蠕動する消化器官をくぐりぬける食物といったところ。結局、スタッフにお願いして探し出してもらう。

 というわけで、次なる劇薬課題図書。

赤目四十八瀧心中未遂リリス

 持ち時間は5分だったけれど、ものスゴく濃密かつ強烈(そう)な本が出てきた。企画していただいた松丸本舗のスタッフさま、同行いただいたMさん、そして応えていただいた松岡さん、ありがとうございます。またやりますぞ、本屋オフ。ちなみに、次のスゴ本オフは「ミステリ」。詳しくはスゴ本オフ@ミステリをどうぞ。

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酒と本があれば、人生何とかやっていける「本に遇う」

 とうとう出たので白状する。このブログの種本といっていいのがこれ。

本に遇う 雑誌「選択」の「本に遇う」というコラム十年分を一冊にしたもの。書き手は河谷史夫氏。朝日新聞の素粒子で有名かも。書評というよりも、ある本をとりあげ、その本にまつわる話を紡ぎだす手法だ。それは現場記者やってたときの生々しい記憶だったり、読み終えたばかりの興奮まじりの絶賛だったり、大嫌いな人物への強烈な面当てだったりする。具体的で尖った書き口が好きで、挙げられた本をつまんで読んではこのブログで紹介してきた。もちろん他チャネルもあるけれど、「流行の本」を除いた良本は、だいたいここから教わっている。

 ただし、著者に全面賛同というわけではない。その狭窄を哂ったり、専横な様にツッコミ入れながら読んでいる。読書の範囲はもちろん違う。マンガや古典、数理ものはほとんど入っておらず、ノンフィクション、エッセイ、昭和史、詩句集が、著者の土俵になる。その「わたしとのズレ」が絶妙に微妙で、同じ本を違う風に読みながら、「これは良い」と評価できる。その差異がまた面白い。似てるのに違うところが、土俵を拡張する糊代になるんだろうね。

 たとえば、「遅読のすすめ」を手放しで誉めちぎり、書き手である山村修の言を借りて立花隆を批判する件がある。必要なページだけつまみ食いして足れりとする読み方は、いわゆる資料読み。速読なんて読書じゃない「遅読のすすめ」で書いたとおり、わたしも同感だ。なのだが、絶賛する前に書き手のやっかみに鼻白んでしまう。速く読める人は、ゆっくり読むこともできる。速度は「選べる」のだ。にもかかわらず、遅読をもてはやすあまり速読が攻撃されると、辟易してしまうのだ。

 あるいは、柳原和子著「がん患者学」の紹介。ごまんとある「ガンの本」のうち、読むべきものは少ないが、この本は例外だという。「癌について知るべきことはほとんど全部この中に書かれている」と持ち上げるので、そうかと読み始めすぐにぶつかった。「長期生存した人たちのルポ」と銘打っているが、もう一つ、書き手のフィルタリングが見える。つまり、「現代医療 vs 代替医療」の構図が透け見え、現代科学の医療はアテにならぬというメッセージが響く。も少し医者を信頼し、自分の人生のことに集中したほうが良いのでは?と思ってしまう。

 このように反発もしつつ、つい読んでしまうのは、河谷氏の目利きが効いてるから。いい本を嗅ぎ当てる感覚は、わたしより遥か上。S.ハンターの「極大射程」も、藤沢周平「蝉しぐれ」も、山田風太郎「人間臨終図巻」も、ぜんぶここで知った。

 スゴ本の種本、隠れた狩場のガイドとなる一冊。

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スゴ本オフ@ミステリのお知らせ

 好きな本をもち寄って、まったりアツく語るスゴ本オフのお知らせ。

  日時  12/3(金) 19:00開場、19:30開始~21:30終了予定
  場所  麹町のKDDI Web Communicationsさんの会議室
  参加費 千円(軽食と飲み物が出ます)
  懇親会 終了後、近くの居酒屋へなだれ込みます(ワリカンで四千円くらい)
  申込み Book Talk Cafe の申込フォームからどうぞ

 今回のテーマはミステリ、ミステリといえば……の定番モノを持ってきてもよし、ダークホースな一冊で皆をアッと言わせてもよし、きっと・かならず丁々発止となるでしょう。曰く、

  「それが一番なら、これは?」
  「いや、そのプロットだと、むしろアレの方が…」
  「ちょっと!それはコレ読んでないからそんなこと言えるんじゃ」

わいわいリストアップしていくうちに、ベストミステリが誕生するかも。「ミステリ」の枠を締めるようなことはしません。自分判断でOKです。面白すぎて徹夜したもの、ドンデン返しに頭ガツンとやられたもの、ラストに唖然とし、思わず最初に戻って読み直したもの、この戦慄、この瞠目、誰かに言わずにゃいられない、プラチナ・ミステリの狩場ですぞ。オフ会の内容はこんな感じ…

  1. テーマに合わせ、めいめい好きな本を持ち寄って、みんなで語り合う会です。本を介して新たな読み手を知ったり、人を介してぜんぜん知らない本に触れるチャンスです
  2. 今回、持ち寄る本のテーマは「ミステリ」。自分が「ミステリだ!」と思うものでスゴい奴を持ってきてください。ちなみに、これまでは「SF」「愛」「夏」「POP」がありました。本に限らず、CDやコミック、詩や雑誌、写真集なんてのもアリ
  3. ブックシャッフルやります。「ブックシャッフル」とは、いわゆる本の交換会。オススメ本をランダムに交換しあいます。交換する本は「放流」だと思ってください。「秘蔵本だから紹介はしたいけれど、あげるのはちょっと……」という方は、「紹介用」(見せるだけ)と、それとは別の本で「交換用」を準備してください
  4. ネットと連動します。Ustream/Twitter/Blogで、オススメ合いをさらに広めます。「その本が良いなら、コレなんてどう?」の反響は、時間空間を超えて広がります。顔出し抵抗がある方には、もちろん「見てるだけ」や、声オンリーの「透明人間」もアリ
  5. オススメがかぶることがありますが、よくあります、無問題です。大事なのは、その本がどんなに自分にとってスゴいかなので、それを熱く語ってください

 スゴ本の狩場へ、いらっしゃい。

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「読書とはなにか」まとめ+スゴ本オフ@赤坂

 国民読書年記念シンポジウムとやらで、国会図書館まで行ってきた。その後、スゴ本オフという名の飲み会をしてきた。嬉しい課題を沢山もらえたので、ここにまとめる。以前のエントリ、聴講(と飲み会)のおさそい「読書とはなにか」の結果レポートだね。

 まずシンポジウム。「発表」というよりも、「物語る」スタイルの松岡正剛さんのしゃべりは、1時間ほど。ネタのほとんどは近著やネットで知ってたが、どこに力点を置いているかが、直接伝わった。結論に近づけば近づくほど、優しい話し方から離れ、ほとんど激しているといってもいいくらい強い口調になってゆく→結論:「読書とは、世界の裂け目にわが身を置くこと」

 「読書」とは、分かるようで分からないものだという。これがスポーツや言語なら、それなりの規則や道具が揃っている(rule,role,toolと韻ふんでた)。ところが「読書」となると、それらを吸収しているようでいるにもかかわらず、あらためてそのメソドロジーをとりあげて研究することは少なかったというのだ。読書の王道となるオーデン「わが読書」ですら、読書の"しくみ"にまで届いていないと―――そこでGoogleると、まさに千夜千冊にヒットする。オーデンが正統派だとすると、セイゴォは逸脱派とキレイに対照的になるようだ。未読というか、存在すら知らなかったのでチェックしよう【課題図書1】。

  • 書き手と読み手の間に"読書"があり、それは editorship が関わっている
  • 読書とは自己と他者の出会うインタフェースである
  • 自己の内側に、沢山の自分が出会う先(創発先)を見つける行為が読書
  • 読書とは、ただ本を読むことだけではない。五感をフル動員し、触覚知覚感覚…を準備し、あらゆる知覚快楽経験に基づく行為なのだ
 あたりが、「読書とは何か」に対する応答になるが、ずばりでいうと、彼のキメセリフ「読書とは編集である」になる。セイゴォ氏によると、世界は裂かれており、読書を通じてその裂け目を見つけろというのだ。ひょっとすると自分が割れてしまう、傷つけられるかもしれない。それをおそれるなと声をはげます。スゴ腕の狩人ならではの叱咤なり。
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 面白いなーと気づいたのが2つ。ひとつはボタンだ。真っ白のシャツに真っ黒のジャケットを合わせるのが、いつものスタイルなのだ。が、問題は白シャツのボタン。いつもは第三ボタンまで外して胸元をくつろげているちょいエロにもかかわらず、今回は一番上のボタンしか外していない。やっぱり国会図書館だからかと思って微笑む。

 もうひとつは、「本のめくり方を撮れ」という主張。テレビや雑誌の撮影で、ラーメンとかフレンチをいかにも美味そうに写しているにもかかわらず、本はそうでない。カメラマンは、本の姿を撮るのが本当にヘタだと顔をしかめる。そんなものかと思い返してあっと気づく。松丸本舗のスクリーンで、セイゴォ氏のインタビューが流れている。彼の手元で本が触られているのだが、その触り方がいやらしいのだ。手のひらで撫で、背表紙をちょっと支え、ページをめ・く・り、つつっと指を走らせる仕草は、愛でるというより弄る。ほらアレだ、気をヤっている彼女の秘処を指その他で可愛がるあのまんま。「阿刀田高や藤沢周平の本のめくり方・触り方を、だれも知らない。これは損失だ」と断ずる。本を撮るのは難しい。本を、いかにも面白そうに読む(捲る・触る・置く・持つ・触れる)演出家というかカメラマンがいたら、出版社に引っ張りだこやね。「箸上げ女優」ならぬ「本読み女優」かもありかと。

 正剛氏の講演が終わり、後を継いだディスカッションはちと残念。読書のプロを3人呼んで、それぞれ20分のプレゼン→パネルディスカッションという流れだったのだが、時間足りなさすぎ。3人ともメイン張れるくらいのボリュームなのに、20分だとどうしてもマシンガントークになってしまう……さらに、テーマが巨大すぎるので、まとめが大変(というか無理)。司会さんえらく苦労してたにもかかわらず、報われてなかった。

読書の歴史 唯一耳が立ったトークは、橋本大也氏のやつ。デジタル化により本の未来を憂えるのは間違いだという。事実は逆で、「本はモテ期に入った」とぶち上げる。つまりこうだ、昔は同じ本を読んだ人どうしで盛り上がるのは、とても難しかった。せいぜい2人か、数人の仲間うちだった。ところが今や、本はブログやamazonレビューで取り上げられたり、リンクされることで、数人から数十人、数百人の単位で「読んだことがある」「興味がある」が可視化されるようになったというのだ。出版社や書店の仕掛けられた方法ではなく、「実際に読まれている人」どうしのつながりが広がっている。「読書のデジタル化によって、内面に隠されていた読書体験が外ににじみ出てくる(見える化)」という主張は至言だと思う。まさにわたしのブログがそうだ。

 そして、ネット伝聞を通じて読み替えられ、新しい解釈が読者の時代・能力・願望によって生まれていく。マングェルが「読書の歴史」で語った、読み替えによる豊饒化を、デジタル化は加速していくというのだ。この本、何度も借りては読みきれてないので、この際きちんと付き合おう【課題図書2】。
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 歴史は分かった、未来はどうなる?という問いに、橋本氏は答える。本という一定のボリュームのあるまとまりから、断片化され、分断化されたカタマリ(章単位)に流通するのではないかと予見する。いままでの1冊が1章単位で書かれ、編まれ、流通され、読まれるというのだ。この発想は新しい(というか、わたしが古いのですな)。確かにモノとしての「一冊」の分量は、画面のインタフェースだと大きいような気がする。わたしの経験だと、DS日本文学全集。「山月記」の再読は普通だったが、「吾輩は猫である」は苦痛だった。一気に読み通せる量が、「1」とカウントされるんだね。

読書の歴史 お次は、スゴ本オフ@赤坂の話。アイリッシュパブの雰囲気なのに、店員さんは可愛らしい娘さんというミスマッチ。毛がもじゃもじゃの太い腕でビアサーブされるのかなー、と期待してたので、嬉しい裏切りであった。予約なしのゲリラ的オフに集まったのは5名。ほとんどが先のシンポジウムを聴講していたので嬉しいかぎり。でもって、(あたりまえだが)話すネタは本ばかり。「正剛さんってスゴい読み手だけど、書くほうはイマイチじゃない?」と暴論ぶちかますわたしに、半ば呆れ顔で「ちゃんと読んでます?『フラジャイル』か『白川静』あたりを読んでみて」とオススメいただき、ありがとうございます。まず「フラジャイル」をチェックします【課題図書3】。

ベッドルームで群論を そして皆さん、いい本読んでますな。「最近、いい本あります?」(いい子います?のノリで)という問いに、「ベッドルームで群論を」が出てきて嬉しくなる。最高レベルの科学エッセイで、紹介を見ると、ストラスブールの万年時計、ランダムさ、貧困、戦争、地理学、遺伝学、歯車比、分割問題、命名法、群論と、ひじょうに沢山のテーマを楽しめそう。自分が惹かれている本を、「読んでる、面白いですよ」と言われると、ヤキモチのような、トモダチのような気持ちになるね。「退屈なページなど、一ページもない」という帯文句は偽りなしという。

水源 さらに、「これはスゴい!」という本として、アイン・ランド「水源」が出てきたのにはのけぞった。電話帳ぐらいあるやつで、何度も挫折したものだ。それを、「自分が生きたい/行きたいように思いっきりやることが、結果的に社会への貢献になる、なれるんだと確信をもてます」と断言されると、うむ、今度こそと気負ってくる【課題図書4】。

 族長に、「あなたはマツオタカシに似ているね、そっくりだ」と指摘される。誰だろう?タレントさんならさぞかし色男だろうとウキウキしながら帰ってGoogleってこうべを垂れる。

Google画像検索結果「松尾貴史」

 講演+オフ会で気づいたら8時間。すばらしい夕べと、スゴい本、そして教えていただいた皆さまに感謝・感謝。

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10月23日、松岡正剛さんに会える

 生セイゴォを堪能できるらしい。

 先日の対談(松岡正剛&小飼弾)でナマ正剛さんにご挨拶できたのだが、ちゃんと人間だった。思ったより小柄で細身の印象を受けた。千夜千冊・知の巨人のイメージばかり頭の中で膨らませていたようだ。ホントは気さくで親しみやすい感じ。ただ、ご本人はたいへん忙しい(かつ夜型)の方で、お会いできたのは運と縁に恵まれていたとしか思えない。

 ところが、松丸本舗twitterによると、来る10月23日、セイゴォさんに会えるらしい。しかも「読書人生相談」というお題で、相談に乗ってくれるとのこと。つぶやきをまとめると、こんなふうになる。

   日時 10月23日(土) 13時から21時
   場所 松丸本舗
   題目 松岡正剛が「読書人生相談」を受け付けます!

 こういう場はありがたい。そもさん・せっぱとスゴ本をぶつけられるから。ずばり、「このテーマで、こんなスゴ本があるぞ」と投げかけると、きっと「それを凄いというのなら、コレなんてどうだ?」のコレが直接聞けるのだから。人生は短く、スゴ本は多い。ぜんぶ読んでる時間はないから、惹かれる人のオススメ本を手にしよう。セイゴォさんのオススメは、深くて広くて濃密すぎるから、わたしの質問からフィルタリングしてもらおう。で、こんなテーマで訊いてみるぞ。

■ 劇薬小説を教えてください

 読んだことを後悔するような小説、読後感サイアクの作品を教えて欲しい。「期待して読んだら外れだった」ではなく、「読んだという記憶を消し去りたい」と思うくらい嫌あぁぁな気分にさせてくれるもの。不快、不愉快、気持ちわるい、吐きそう、夢に出そう、呪われそう、生きる気力が失せた……ホラー、マンガ、ノンフィクション、ジャンル不問で。読書は毒書、以下、珠玉の劇薬モノ(興味本位で読まないように)。

  • 真・現代猟奇伝(氏賀Y太)
  • 隣の家の少女(ジャック・ケッチャム)
  • 忌中(車谷長吉)
  • 骨餓身峠死人葛(野坂昭如)
  • 城の中のイギリス人(マンディアルグ)
  • 狂鬼降臨(友成純一)
  • 児童性愛者(ヤコブ・ビリング)
  • インスマウスの影(ラヴクラフト)
  • 地獄の子守唄(日野日出志)
  • 消された一家―北九州・連続監禁殺人事件(豊田 正義)
忌中城の中のイギリス人真・現代猟奇伝

■ 海の栄養過多について

 ハーバー・ボッシュ法により、大気中の窒素を人工的に肥料にすることができるようになった。これで、100年前の農法ではとうてい養えないほどの人口を賄えるようになった(賢者の石か、悪魔の契約「大気を変える錬金術」)―――のはいいけれど、言い換えると、ここ100年かけて流れ出した養分が海に集まっているのではないか?昔ながらの転作や輪作ではなく、化学肥料を用いたやり方は、要するに土壌のドーピング。その全てが農作物になるわけでなく、当然水とともに流れ出し、海に注ぎ、(比重が重いから)深海に溜まっているのではないか?そんな問いを発しながら読んでいる本がある。他に読むべき本は?

  • 土の文明史(デイビッド・モントゴメリー)
  • ミミズの話(エイミィ・ステュワート)
  • 大気を変える錬金術(トーマス・ヘイガー)
  • 銀むつクライシス(ブルース・ネクト)
土の文明史ミミズの話大気を変える錬金術

 当日はわたしもウロウロしてますぞ(2回目のスゴ本オフ@松丸本舗ですな)。赤いウェストバックを斜めにかけたおっさんを見かけたら、それはわたしです。お気軽に声かけてやってくださいませ。

 おまけ、10月20日に、「読書とはなにか」というテーマで国会図書館にてシンポジウムがある[参考]。わたしは聴講するつもりなんだけど、聞いたらきっとしゃべりたくなる。ので、一人でオフ会してます(セイゴォさんはいません)。赤いウェストバックを斜めにかけたおっさんを見かけたら、たぶんわたしです。好きにからんでくださいませ。キャッシュオンスタイルなので、予約とかしません。時間を気にせず、ふらりと寄れますぞ。

   日時 10月20日(水) 18時から20時
   場所 82 ALE HOUSE エイティトゥ エールハウス 赤坂店
   題目 読書について、スゴ本について、アツく語りましょう


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賢者の石か、悪魔の契約「大気を変える錬金術」

大気を変える錬金術 地球そのものが栄養過多になっている? 読了したときの感想というより不安。

 100年前は10億人だったのに、現在では60億を超えている。人口爆発の理由として、様々なテクノロジーや開発の成果が挙げられるが、著者はずばり、「ハーバー・ボッシュ法のおかげ」という。水素と窒素を反応させアンモニアを生産する方法で、「空気をパンに変える方法」とも呼ばれ、「賢者の石」を探す旅になぞらえたりもする。なぜなら、この方法により、自然にあるものよりも、はるかに大量の肥料が、ほぼ無尽蔵に得られるからだ。同様に、この方法により、無尽蔵に火薬を得ることもできる。

 まえがきで著者は断言する。人の生死にかかわっているという視点からふり返ったら、ハーバーとボッシュは、歴史上もっとも重要な功績を残したと。彼らは都市レベルの工場を建て、巨額の財を成し、何百万人もの人の死に手を貸し、何十億もの生命を救ったというのだ。いくらなんでも吹き過ぎだろうと読み始めたのだが、読み終えたときには納得していた。著者独特のレトリックを拝借すると、「いまの世界の人口の半分は、彼らの開発したもののおかげで生きている」になる。あるいは、もっと身近に実感したいなら、自分の体を見ろという。「あなたの体の窒素の半分は、ハーバー・ボッシュ法によって作られたのだ」。

 窒素は大気の8割を占め、無尽蔵にある。大量にありながら、ほとんどの生物は大気中の窒素を直接利用できない。できるのは窒素固定細菌と呼ばれる微生物の一部だけで、あとは稲妻や火山活動により、「固定窒素」が作られる。それをあらゆる生物が利用し、あらゆる生命が維持されている。だから、ハーバー・ボッシュ以前に戻るなら、地表のすべてを農地に変え、全員ベジタリアンになったとしても、人類の半分が飢えることになるというのだ。そう考えると、「何十億もの生命を救った」人物だということが分かる。

 では、「何百万人もの人の死に手を貸し」たのは?殺人ガスの開発だ。自分の工場を・工場を・財を守るため、それまで用いられいた催涙ガスではなく、塩素を用いた人を殺すガスをつくり、提供したのだ。殺人ガスによる攻撃が成功すれば、戦闘をすばやく終結させることができ、結果的に「何人もの命が救われるのだ」とハーバーは強行する。科学が、政治、権力、プライド、金銭、そして個人的な欲望と対立したときにどうなるか、嫌というほど思い知らされる。科学を邪悪にするのは人の業なんだろね。

 そう、前半は硝石の文化史、後半はハーバー・ボッシュの開発史の構成となっているが、本書を裏から読むと、人類が科学をいかに食い物してきたかが見える。ライバル会社の特許を無効にするための訴訟の丁々発止やら、敗戦国(ここではドイツ)の化学技術を奪い合うあさましさ、自分の工場を守るためナチスに全面協力した経緯が克明に記されている。ここまで「科学=銭金」を体現する人物に不快感を抱くかも。

 ハーバー・ボッシュ法による、指数的に増加する人口爆発の秘密は分かった。しかし、そのために人類が支払った代償は、本書に書かれているだけではないと思う。ナチスや火薬や化学兵器がもたらした悲劇に済まないと考えいる。というのは、最近のわたしの中の疑問───栄養過多になる地球───があるから。本書によると、本来地球上に生きながらえる数の2倍を養っているということは、大量の化学肥料がバラまかれていることになる。全てが土地や植物に吸収されるはずがないから、川に運ばれ、海に注ぎ、(比重が重いから)深海へたどりつく。仮に、「地球上の栄養分の分布図」マップが作られるのなら、深海こそ滋養たっぷりになっているのでは。化学肥料でドーピングされた養分が海へ流れ出す。いわゆる赤潮の被害の元はコレだったのではないか、と密かに考えている。

 化学と銭のイヤらしさとともに、新たな知見を識ることになった一冊。

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「短篇コレクションI」はスゴ本

松岡正剛の書棚

 ぜんぶ当たり、ハイスペック短篇集。

 選者には申し訳ないが、わたしにとって、池澤夏樹という作家は、小説家というよりも、一流の読み手となっている。思想や歴史臭が鼻につくようになってからこのかた、彼の小説は手をださなくなってしまった。代わりにエッセイを、特に書評を高く買っている。すぐれた作品を掘り出しては、いかにも読食欲を刺激するように紹介する。作品の根幹を短いフレーズでずばりと言い当てる技は、詩人のキャリアが生かされている。踏み込みすぎてほとんどネタバレ状態のもあるが、それはそれ。この河出世界文学全集も、池澤夏樹さんだから読んでいるようなもの。

 その期待に100%応えているのが、この短篇集。どれもこれも珠玉だらけ。プロット・キャラ・オリジナリティに優れた短篇のお手本のような傑作から、不条理譚なのに巨大な隠喩だと解釈すると仰天するしかない作品、「もののあわれ」とはコレだという指摘が腑に落ちる、でも異質な物語など、読み終わるのがもったいないものばかり。幸せな数時間に感謝。特に気に入った三篇について話そう。

 まず、フリオ・コルタサル「南部高速道路」が気に入る。渋滞に巻き込まれただけなのにサヴァイヴァルになる不条理感覚もさることながら、道路を走ることはそのまま人生のメタファーでもあることに気づく。わたしは、周囲のほとんどを分からないまま生きている。知ってはいても外見だけ、互いがぶつからないようにゆずりあって生きている―――というか、場所を分け合って生きているのだ。「出会い」や「別れ」なんて、クルマが近づいたり離れたりするようなもの。ラストシーンを読み終わるとき、濃密だった時間がほどけてゆく"はかなさ"を味わう。

 そして、アリステア・マクラウド「冬の犬」。これは大好きかつ唯一の既読だったりする。これも池澤氏の紹介で読んだもの。犬の動き方の「犬らしさ」がものすごく良く書けており、読みながらクスクス笑うことしきり(まちがいなく目に浮かぶ)。子どもと一緒に遊んでいる犬から、かつて自分を深く関わった犬のことを思い出す。そのカットバックが鮮やかだなぁーと思っていると、ただならぬことになる。その不安感をいきなり出さぬように、導入で親の病気のことに触れてる技巧が上手い。テクニックばかり言及しててすまぬ。実はこれ、ストーリーがいいから明かしたくないのだ。ぜひ、あたたかい場所で、ゆっくりと読んでほしい。

 レイモンド・カーヴァー「ささやかだけど、役にたつこと」はグッっとなった。感情を廃した、乾いた文体でレポートのように描写した"悲劇"。これは狙って翻訳したんだろうが、神業だな、村上春樹。具体的に踏み込まず、淡々と記録するように進めてゆき、最後の、「ささやかだけど、役にたつこと」のところで綿密・詳細に書き込む。そのワンシーンだけが読後もずっと後を引くという仕掛け。あと、パン屋のキャラの作り方が上手い。人物はその外貌や行動だけで印象を与えるのではなく、作者の手による演出で、いくらでも変えられることに(いまさらながら)気づく。さらに。わたしが"親"である分、その重苦しさは気が気じゃなかった。描写を省いただけ、想像で具体化するから。母親の気持ち、父親の感情にどんどんシンクロしてゆく。

 本書に収録されている作品は以下の通り。地域性に目配りの利いた、良い選だと思う。こういう短篇で目を磨くと、いい作家になるのか。

  フリオ・コルタサル「南部高速道路」
  オクタビオ・パス「波との生活」
  フアン・ルルフォ「タルパ」
  張愛玲「色、戒」
  ユースフ・イドリース「肉の家」
  P.K.ディック「小さな黒い箱」
  チヌア・アチェベ「呪い卵」
  金達寿「朴達の裁判」
  ジョン・バース「夜の海の旅」
  ドナルド・バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」
  トニ・モリスン「レシタティフ─叙唱」
  リチャード・ブローティガン「サン・フランシスコYMCA讃歌」
  ガッサーン・カナファーニー「ラムレの証言」
  アリステア・マクラウド「冬の犬」
  レイモンド・カーヴァー「ささやかだけど、役にたつこと」
  マーガレット・アトウッド「ダンシング・ガールズ」
  高行健「母」
  ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」
  目取真俊「面影と連れて」


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愛ある辛口「ナボコフのドン・キホーテ講義」

Nabokov

 言葉の魔術師ナボコフが、「ドン・キホーテ」をメッタ斬り。

 傑作と名高い「ドン・キホーテ」は、ナボコフに言わせると、「残酷で粗野な昔の作品」になる。本当の姿は、『気の狂った正気の男』を総がかりでいじめぬく、無責任で、子どもっぽく、痛烈で野蛮な世界を描いた作品なんだと。それがうっかりベストセラーになり、長年の誤読のおかげで真の姿が見失われてしまっているのが現状だそうな。

 この大長編をナボコフは、章節単位に解体し、吟味し、審判を下す。批評のいちいちが的確で、強い説得力で迫ってくる。面白いと言えるのは、ドン・キホーテとサンチョの会話や、冒険を織り成す幻想なだけだという。そこを除けば、この小説は、ばらばらの出来事、ありふれた筋、凡庸な詩句、陳腐な書き入れ、信じられない偶然の寄せ集めにすぎないと手厳しい。さらに、この残忍な物語をユーモラスだとか慈悲深いとか考えるような輩は、まともな見解を持っているとは言えないとまで言い切る。

 かつてわたしは「ドン・キホーテ」を大いに楽しんだ[「ドン・キホーテ」はスゴ本]。だが、ナボコフの目を通すなら、大いなる幻想に目ェくらんでたことになる。裸の王様症候群よろしく、「大ボリュームの古典を読み通すオレ様ナイス」と思ってたからかも。「ドン・キホーテ」の作品のみならず、その読者までも徹底してこき下ろされるので、いっそすがすがしく思えてくる。

 しかし、それでもやっぱり夢中になるのをやめられない。今で言う「厨二病」に侵されて現実と幻想を取り違える"痛々しさ"や、クソもゲロも一緒くたの強烈な下品さなどは、とりすました古典の姿をかなぐり捨て、生々しい噂話のように湧き上がってくる。もちろんリアリティは書き割りのお粗末さで、スーパーご都合主義的展開は鼻につくけれど、だからといってこの作品のパワーを損ねたりはしない。

 強力な物語に取り込まれる騎士ドン・キホーテの物語は、「ドン・キホーテ」の読者を取り込む、いわば「食い合い」の構造を持つ。後編に入り、ドン・キホーテとサンチョの、(それぞれにとっての)常識が相互に伝染しあう様子だとか、小説の中の「現実らしさ」「物語らしさ」に疑問を呈する主人公だとか、危なっかしくて目が離せない。いわば、小説の中の人が突然、「これはウソだッ!」と気づくようなもの。ナボコフという超一流の読み手に導かれながら、小説というフィクションのなかで「現実だ」とお約束されている現象とは何かについて、あらためて考えさせられる。

 辛辣なだけではなく、評価しているところもある。ばらばらのプロットの寄せ集めで、テキトーな展開であるにもかかわらず、ドン・キホーテの勝負の回数は、ちょうど20対20になると指摘する。テニスよろしく、ストーリーを追いながら勝敗をカウントしてゆく様は、本作への愛に満ち溢れている。構成らしい構成のない、無計画としか思われないような物語において、勝利と敗北の、これほど完璧な均衡は驚くべきことであるとまで言う。なんだ好きなんじゃないか、つんでれ、ってやつだね。さらに、この高潔な狂人ドン・キホーテを、リア王やキリストにまでなぞらえている。その読み方はできなかったが、本人の"扱われ方"は、確かに共通しているね。

 本書は、もともとは大学の文学講座のためのノートを編集したもので、六回分の講義に分けられている。さらに、公平を期するためか、あの大作を通読させる手間を省くためか、全編のレジュメまで付いている。編集者は「レジュメで読んだ気になるなよ」とクギを刺すが、あらすじは完璧に追えるかと。

 一冊で「ドン・キホーテ」がわかり、なおかつナボコフ一流の読みまで手に入る。辛口だけど。

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ゲームで子育て「ロードランナー」

 まさかこのレトロゲーにハマるとは…そして負うた子に浅瀬を教えられるとは!

 XBOX360でネットにつなぐと、「お試しダウンロード」ができるゲームがある。無料でやってみて、気に入ったら完全版を購入してね、というやつ。で、懐かしのレトロゲーをいくつかやってるうちに、わたしと息子の両方が夢中になってしまったのが、「ロードランナー」。

 SHARPのX1のはカセットテープだったよなぁ…ロードのたびにガチャガチャいってたよなぁ…と、わたしは懐かしみ、セガサターン版だと敵が自キャラをムシャムシャむさぼり喰う音が怖かったよねぇ…と、嫁さんが遠い目をし、ロードが一瞬(HDDだもん)、ポリゴンで描画された最新のロードランナーに目ぇキラキラさせている息子がいる。見た目は変わったとはいえ、こんなに昔のゲームを今やる(しかもハマる)のは、不思議なもんだ。

 どんなに美麗になったとしても、ゲームシステムは四半世紀前のと同じ。知らない人もいるだろうから説明する。ダンジョン内に配置された金塊を全部とって、出口から脱出すれば一面クリアというゲーム。敵キャラが自分を捕らえたらミス。自分は左右の床に穴を掘り、敵を誘導して落とすことができる。上手に穴を掘らないとたどり着けない金塊もあり、パズル的要素もある。いわば、平安京のエイリアン+倉庫番やね。

 「ロードランナー」が徹底しているのは、ゲームの基本要素「反復」と「パターン化」に忠実だというところ。プレイヤーは反復してパターンを編み出し、最も安全な動作を最適化する。一筆書きの効率性を追求する(短時間クリアでボーナス)一方で、敵の行動アルゴリズムを逆手にとって誘導する戦略性も求められる。面が進むにつれて、だんだん難しくなってくる。そのバランスが"絶妙"の一言に尽きる。これよりも難しいゲームバランスだと、くじけてしまうだろうし、易しすぎるならプレイしなくなるだろう。

 ゲームルールが単純なことと、この"だんだん難しくなる"のが病みつきになっている親子がいる。息子は、やみくもにトライ&エラーをくり返し、「クリアできるパターン」を作り出そうとする。少しオトナのわたしは、敵の行動や金塊を取る順番をアタマで考え抜いた上で、実地で試してみる。試行錯誤が多い分、当然のことながら息子のほうがペースが遅くなる。「ちょっとは考えてみようよ」と誘い水を向けてみるのだが、「敵がいるから無理。パズルモードならゆっくり考えられるのに」とのこと。

 で、ああでもない、こうでもないと親子で協力しあってパズルモードに耽る。ほとんど敵が出てこず、金塊を全部を取ることを純粋に追求したパズルとなっている。凹部にハマりこんだり、穴に閉じ込められたりしてもミス扱いなので、より慎重に操作する。一面一面、だんだん、相当むずかしくなっており、クリアしたときのヤッター感はちょっとしたもの。

 このカタルシスを味わわせたくて、ゲームをすすめるのだ。「ゲームばっかりやってると”ゲーム脳”になる」と脅す方がいらっしゃるが、これ長時間やってるとかなりアタマ(と指)が疲れるぞ。むしろ、淡々黙々とプレイできる能力のほうを高く買いたい。なんであれ、上達するには熱中する必要がある。その「熱中できる才能」のために、ゲームをやらせたいのだ。

 「反復によるパターン化で、ゲームがクリアできる」ことを理解したなら、「リアルの○○をゲームにできる」ことに気づかせるだけ。あとは反復練習のみ。漢ドも計ドも、「漢字ゲーム」「計算ゲーム」なのだ。もっと極端にいうなら、受験勉強も、与えられた時間(6・3・3の12年)で目標レベルに到達するための「ゲーム」だし、サッカーや水泳の選手になることも同じ。もちろん、才能や運の要素もあるが、「熱中できる才能」が凌駕する。そんなことを考えながら、パズルモードをひたすらやりこむ。

 そして、ある面で詰まる。2機の敵はかわせるが、どうしても金塊までたどり着けない。自分はジャンプできないし、穴を飛び越えることもできない。どうあがいても絶対ムリ!な場所が2つもあるのだ。うんうん唸るわたしをよそに、「まず、やってみようよ」と、黙々と失敗をくり返す息子。何十回目だろうか……めげない息子の操作をぼんやり眺めていたら、なんと敵の頭を踏み台にして穴を越えたのだ!その発想は無かった!「敵=触れたらミス」に凝り固まったアタマには斬新すぎる…旧作にもあったっけ?といぶかしむわたしに、息子は一言、

 「パパ、マニュアル読まなきゃ」

 最近のゲームはマニュアル読まずに始めてるからなぁ……

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松丸本舗にて松岡正剛さんと小飼弾さんの対談を聞いてきた

松岡正剛の書棚 お二人とも、深く・濃く・柔らかく、驚きと閃きとトキメキ(?)に満ちた一時間だった。上田さん、お誘いいただき感謝しています。「松岡正剛の書棚」の電子書籍化にちなんだ会だったが、そこはサラリと流し、「本を読むとは何か」について若かりし昔話から大胆な未来予想図まで飛び出す。以下、自分メモよりふくらませてみよう。

 これは鋭い、と感心したのは、弾さんの「本とは締めたメディア」という一言。たとえばブログなら、いくらでも書き直しが利く。永遠に終わりがない。しかし「本」という形態だと、いったん編集し出版したら、バラせなくなる。他にも「殺したメディア」という表現をしていたが、言いえて妙。もちろん改訂や"自炊"により変更・細分化することは可能なのだが、知をパッケージ化したものが「本」である限り、バラバラにすることはできないからね。

 これについて、松岡さんが、「『本』の単位ではなく、もっとセグメント化された形の付き合いになるかも」と予想する。Googleの向こう側に『本』を置いて、必要に応じて断片を引っ張ってこればいい、という考え方だ。わたしにとっては、Tumblr なんかがそうだなぁ…… そして、本というものが「文字」という形に依拠している限り、たとえ電子書籍化がどんなに進んでも、「本-文字」というメディアへアクセスするオプションが増えただけの現象にすぎないという。それは紙というメディアだったり、声(読み上げ)だったり、誰かの批評なのかもしれない、そこに「画面」というインタフェースが増えるだけなのだと。じっさい、iPad を用いなくとも、ケータイの液晶やPCのディスプレイを通じて、「本-文字」に接するのが自然になる(すくなくともわたしは)。そして、松岡さんは「本」の本質を簡潔にこういいあてる。

  1. ダブルのページ(見開きの窓)
  2. パッケージ化
  3. ランダムアクセス
  4. 直近にインデックス(章節の小見出しや目次)

 さらに、弾さんの「本は電源がいらないメディア」という一言は、電子書籍に踊る人なら忘れてはならないだろう。

 古典の「使い方」も興味深い。松岡さんの、「自分の認知構造や解釈の感触を確認するために、古典が格好の相手となる」という主張は、その著書で知っているとはいえ、ナマで聞くと利くね。さらに弾さんの「自然科学において、古典が古典になっているのは、大転回がなされているから」という話は深かった。つまり、今の常識が「常識」でなかった時代に、その「常識」を発見したのが古典となるのだから。ニュートンのプリンキピアを読むのは、万有引力の法則が常識でなかった時代に戻るためなんだと。

 古典ネタをもう少し。松岡さんの「古典には、時代や場所が特定されないように書いてあるものがある」という一言にピンときた。たとえば、伊勢物語には「伊勢」が出てこないらしい。読み手が、自分の時代背景に応じて、置き換えて読むことが可能となっているというのだ。普遍性は入れ替え可能から来るのか。「源氏名なんて、まさにそうでしょ?」のユーモアには笑った。

 この話を聞いて思い出すのは、村上春樹の作品。どこかで聞きかじったのだが、翻訳された彼の作品を読んだ人は、「これはまさに、わたしの国の話だ」と思うそうな。ロシア人、アメリカ人、韓国人、みな「これは、現代のロシア/アメリカ/韓国を描いた小説だ」と読むらしい。これはまさに、入れ換え可能な普遍性をもっているといえるだろう。村上春樹が書くのはファンタジーにすぎないが、素材を現実に求めているから、その幻想性が隠蔽される。SFの別名を「サイエンス・ファンタジー」と呼ぶように、「リアル・ファンタジー」とでもいうべき。とっくに地域性を越えているから、あとは時代を経て読まれるなら、「古典」たる資格ありだろう。

 わたしの与太はさておき、弾さんのトドメに戻ろう。「松岡さんは打率3割というが、高すぎ。スタージョンの法則はSFに限らないから」という一言に笑った&激しく同意。ケナすのは得手ではないが、わたしの打率はスタージョンに従う。ただ、「ダメな6~7割にどうつきあってゆくかが、"3割"に影響する」というセリフには参った。松岡さんが一言で言い切っている→「ムダな必要」。そう、必要悪とかいうのではなく、そうしたムダを読んできたからこそ、"3割"の手ごたえが分かるんだよね……もっともわたしはもっと低いかと。

 なんでも同意、というわけでもない。松岡さんの「本はノートブックである」は同意したいのだが、できない。図書館派、しかもヘビーユーザーなのだから。ただ、「本は二度読め」とか、「書棚は頭の中を可視化する」とか、大きく頷く。弾さんの言うとおり、「読書の問題はいずれ、不動産の問題になる」は事実なのだから。

 最後に、ニュースをいくつか。松丸本舗の「○○さんの書棚」コーナーが増殖するらしい…これは楽しみ~。そして、今年の暮れあたりから、「かつて世界の誰もやったことのないレコメンデーション」を展開するとのこと。割目シテ待テというやつやね。

 そして、これは思わず踊ってしまうほど嬉しかった情報なのだが……「情報の歴史」の新しいのが出るらしい。わーい、ずーーーーーーーーーっと欲しかったんだ!「時代を結び、情報をつなぎ、歴史を編集する前代未聞の情報文化史大年表。世界と日本が一緒に読める」は真実ナリ。ナニソレ?という人は図書館へ、絶対欲しくなるスゴ本なり。ただし、amazonへ行ってはいけない。トンでもない値がついているから。

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けっこうアナログ「数覚とは何か」

数覚とは何か 数学的センスのようなものだと予断してたら、大きく外れた。味覚や視覚のような感覚の一つとしての「数覚」という意味なのだ。

 そして、驚くべきことにこの数覚、生得的なものとして扱われている。つまり、この数学的感覚は生まれながらにして備わっているというのだ。ええー、数学は得手じゃなかったんだけど……「数学は暗記科目」として逃げてたわたしには、にわかに信じがたい。

 さらにこれ、人間だけのものでないそうな。数を数えたり、グルーピングしたり、量の比較をするといった操作は、生物の遺伝レベルで仕込まれているという。「数学」なるものを人類の財産として崇め奉っていたわたしには、ちょっとした衝撃だった。人知を超えた数秘術から、より生臭い存在としてつきあえそう。

 この数覚なるもの、非常にアナログ的だという。たとえば、数字の大小比較の実験で、その非デジタルさが明らかになる。「4」と「5」の大小を判断するよりも、「1」と「9」を判定するほうが短時間になる。心の中の比較アルゴリズムは、あたかも天秤が「数を測っている」ようなものなのだという。確かに重さ「1」と「9」よりも、「4」と「5」のほうがフラフラしそう。

 本書ではもっと詳細な実験をレポートしている。2つの数字を比較する場合、どれだけの時間がかかるかを測定した実験で、31から99までの2桁の数字を提示して、65よりも大きいか、小さいかを分類してもらう。同時に、被験者の反応時間をミリ秒単位で測定したのだ。提示された数字が65に近くなるにつれて、反応時間が漸次的に長くなってゆく。これを距離の効果と呼んでいる。

 この「距離の効果」でピンとくる。わたしが数に接するとき、countable な存在というよりも、むしろ measurable なものとして捉える場合が多い。概算要求が72兆円とか、東京ドーム120杯分とか、1990円飲み放題とか。そこにはもちろん、正しい(数えられる)値があるにはあるが、わたしはいちいち気にしない。数字が出ると、値打ちやリスクやコストのボリュームとしてみなすのだ。そして、この量としての数を、概念上の数(この文脈では整数)に置き換えて考える基底に「数覚」があるんだ。以前、「やりなおし数学」の一環で、整数と実数が実感として理解できたとき、数直線が穴だらけに見えて慄然としたことを思い出す(スケールとして見ていた数直線に数という点をプロットし始め、0と1の間に無限を感じたから)。

 この、数と量に対する直感的感覚は、人に限らず動物も持っているという。そして、動物や人の計算能力に関するレポートを通じて、数学の能力は「生物学的な前駆体」があることを主張する。数は「思考の自然な対象」であり、それによって世界をとらえる生得的なカテゴリーであるという。数を理解する基底には、生物進化の過程で身についてきた能力―――視覚、嗅覚、聴覚、触覚の他に「数覚」があるというのだ。

 断層撮影を用いた脳そのものへのアプローチも豊富に紹介している。だが、この分野はあやしげな脳学者や、うさんくさい脳言説がまかり通っている。著者もその弊を注意深く避けており、「脳のココが数覚を司っている」などと特定しない。せいぜい、数の処理のために、下頭頂野内が関わっていると述べるにとどまる。

 ここから面白くなるのは、著者の「数覚」へのアプローチだ。生得的な感覚としての数覚を元に、数字や文字の視覚的認知が、頭頂・側頭領域に特殊化され、掛算には左の大脳基底が関係することまでは分かっている。しかし、人が字を読んだり記号を用いて計算するようになったのは、ここ3000年にすぎず、脳自体が進化の過程でこの機能を構造化するには短すぎると考えるのだ。アインシュタインの脳も、ラスコー洞窟の壁画を描いたヒトの脳とほとんど変わらない。遺伝形質がゆっくりと変化するのとは対照的に、文化はもっとずっと早い速度で進む。だからどこかで、文化的進化と生物学的限界の折り合いがついていると考える。もともと別の用途に割り当てられていた皮質回路を、新たな認知能力が乗っ取っているというのだ。神経細胞の可塑性もさることながら、「乗っ取られた」のが何であるか非常に興味がある。だが残念なことに、本書では明かされていない。

 著者は「数覚」を外堀からも埋めていく。「1」の1らしさ、「2」の2らしさ、そして「3」の3らしさは、実際に数えることなく計算できる認知的量だという。それは、「赤い」とか「暖かい」といった感覚属性に名前をつけるのと同じくらい容易だったに違いないと考える。そして、「1」、「2」、「3」という最初の三つの数が非常に古くて、特別な地位を占めていると主張する。格と性の語形変化を持つ言語では、「1」、「2」、「3」だけが語形変化のある数詞だし、古代ドイツ語では2は数えるものの文法的性によって、"zwei" にも "zwo" にも"zween" にもなる。英語の序数のほとんどは「th」で終わるのだが、"first"、"second"、"third" だけは違う。漢数字も一緒だね。「一」、「二」、「三」までは、漢字の形が、並んだ棒の数と一致しているから。文化的な共通項から、生物的な条件をあぶりだすのだ。

 ここから脱線(?)してゆくフランスの算数教育批判とか、アングロサクソンの数詞よりもアジアの方がエレガントな数え方をするといったエピソードがいちいち面白い。アメリカの子どもよりも、中国や日本の子どもの方が算数の能力に秀でているのは、「基数を10にとる十進法が、文法構造に完全に反映されている」からだというのだ。たしかに、一から九までと、十、百、千、万…で表現できるのはエレガントかも。"eleven"、"twelve"、"thirteen" といった特別な序数を持つ英語や、70を「60と10」と言ったり、90を「20×4と10」と言ったりするフランス語は苦労するだろう。

 そして、ベンフォードの法則から逆算的にわたしたちの数を用いた認知システムを暴いてゆく。ベンフォードの法則とは、自然界に出てくる多くの数値の最初の桁の分布が一様ではなく、およそ

  1で始まるのは、31%
  2で始まるのは、19%
  3で始まるのは、12%
  ……
  …

 12本のエンピツについて語るより、1ダースにまとめる。1そろえのトランプというのを好み、52枚のトランプとは言わない。数の表記に関する文法が、私たちに小さな数をよく生み出すようにさせているというのだ。世界を小さな集合から成り立っているように把握しようとするのは、感覚的認知的システムがもたらす幻想なんだと。いちいち(感覚的に)納得できてしまうのが面白い。数とはデジタル=デジットなものとして予断してたら、もっと感覚的=アナログなものとして受け取るようになった。心が数を操る仕組みはけっこうアナログだ。

 自分の脳に関するというより、自分の数に対する態度が変わる一冊。

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