ロジェ・シャルチエ講演「本と読書、その歴史と未来」に反応する
読書のデジタル化により、読むという行為の前に「書く」という行為が変わり、「オリジナリティ」や「著者」を定義しなおさなければならない――― 9/7 の講演会からいい刺激をもらった。
これは、国民読書年を記念して、国立国会図書館が開催したもの。フランスの歴史学者ロジェ・シャルチエ氏を呼んで講演→鼎談というプログラム[詳細]。非常に興味深い話ばかりなのだが、悲しいかな、良くも悪くも「大学の授業」だった。プレゼンを面白くする演出・技術が絶望的にヘタなので悲しくなる(大学のセンセにそれを求めてはいけないだろうが…)。ともあれ、わたしなりに絞ってまとめる。
もともと、「著者」という存在は後付けで生まれてきた概念だという。16世紀以前は、本とは「過去に書かれた作品を語りなおすもの」であり、「長すぎる物語を短縮したり"物語中物語"に仕立て直すもの」だった。本とはアンソロジーであり、あらすじ集のようなもので、「著者」とは、それを演出したり時代にあわせて翻訳したりする存在だった。本や本の中のもの(今で言うなら"著作権"で守られているもの)は共有物であり、語りなおされること(今で言う"コピー")が前提だったという(したがって、全ての本は海賊版だといえる)。
それが、17~18世紀にかけて、本というパッケージに一貫性を与える「著者」という概念が生まれる。個人の経験が本と分かちがたく結びつき、原稿という形に「まとめた人」という一人称が重視されるようになる。「編集者」や「出版社」という存在は、この「まとめた人」にかかわってくる。書かれたもののうち、何を世に出し、何を切り捨てるか吟味し、レイアウトや校正や装丁や流通を引き受け、「著者」というブランドを貼り付ける。同時に、「オリジナリティ」すなわち手書き原稿が重視されるようになる。自筆原稿には、校正や編集の跡が残っており、唯一無二のものとして保存されるようになる。直筆の原稿こそが、オリジナルなものなのだ。そして、その筆跡を持つものが、「著者」になる。
読書のデジタル化は、「書かれたもの」のデジタル化から始まる―――というより、もうかなり進んでいる。現代の「著者」は、キーボードから入力し、画面で推敲する。手書き原稿は今や珍しい部類に入るだろう。この書かれたもののデジタル化により、編集の過程や改変が著者から離れ、見えなくなっている。もちろん変更前後の文字列をマッチングすれば分かるだろうが、そこには朱入れの思考過程は残っていない(だいたい、"朱入れ"という言葉自体、時代遅れになっているのかも)。直筆原稿にある、加筆・修正もろもろの痕跡が、デジタル化により消えてしまっている。これは、原稿からオリジナリティを喪失していることになる。いくらでもコピーできる原稿は、「原」稿とは呼ばないのだ。
ここからわたしの妄想になる。オリジナルなものが喪われた「原稿」を書いた(というか打った)人は、著者になるのだろうか?もちろん今は「著者」「作者」と呼んでいるが、シャルチエ師の「書かれたもの…オリジナリティ…著者」が寸断されたいま、本当にその人が「打って」なくても問題がなくなっている。口述もありだし、ゴーストライターもあり、今なら生成プログラムやbotだって"あり"だろう。けれども、やはりそうしたネタをまとめた人として、一人称の名前が必要になるだろう。「まとめたもの」(もはや原稿と言えない)に対して、レッテルやブランドとしての名前をつけるのだ。
象徴的な作品として、シェイクスピアがある。シェイクスピアの脚本は、台本としての四つ折パンフレット(フォリオ)はあったものの、出版物として流通していなかった。シェイクスピアの死後、ばらばらだったフォリオを集めてコーパスを作ったのは出版社になる。その際、必ずしもシェイクスピア直筆のものではなかった。他者の編纂・改変はあったが、"シェイクスピア"というブランドに統一したのだ。今日わたしたちが目にする/手にする"シェイクスピア"の作品は、真実シェイクスピアなる者の手で書かれたことに依拠しない。シャルチエ氏はオシャレな言い回しでこう述べた、「書物は著者をつくりあげ、書物は著者そのものになる」。
百年千年の目で見ると、この、オリジナリティをありがたがる時代は、ここ300年になるのではないか。そして、現代とはその300年の最後の時代なのではないか。それより以前では、現代のわたしたちが「オリジナリティ」と呼んでいる本の中身に相当するネタは、共有物だった。現代のわたしたちが「著者」と呼ぶ人は、そのネタを演出して(解釈して/翻訳して/注釈して)書き記す無名の存在だった。そして、「書かれたもの」のデジタル化によりオリジナリティは喪失し、著者は「その本を書いた原作者」としての意味を失い、300年前に戻る。即ち、「共有されたネタを時代に合わせて演出する人やグループ」に対するブランド名になるのではないか。
この傾向は、美術や音楽の世界の方が先行している。もともと確立されたデザインやフォーム、リズムやメロディを組み合わせることで、別の作品をリ・クリエイトする手法。これにうまい名前をつけられない。コラボとかコラージュとかオマージュとか本歌取りといった語彙が浮かぶが、ちと違う。もっとカクシンハン的に、「コピーと演出」するのが前提のアプローチだ。
たとえば、岡崎京子の「pink」に出てくる男の子。古今東西のベストセラーを集めてきて、かっこいいセリフや気に入った描写をハサミで切り抜いてノリで貼って、新しい"物語"を作り出してしまう(そしてそれがバカ売れする)。ペンを一切用いず、ハサミとノリだけでベストセラーを生み出す。アナログなreblogといったところか。これをネットとbotでするのが、これからのやりかた。千夜一夜や柳田國男からだけでなく、アニメや音楽やつぶやきから、固有名詞やストーリーをクロールして、別の文体・原型に流し込む。クロールは自動化、作品内の文体の一括変更や、描写のタッチはマクロ+半手動になるかも。もっと言うと、「読みたい」リクエストに応じてネタを探したり、文体を変えたりする仕組み。セミ・オーダーメイド・ストーリーやね。
ネットに萌芽が見える。Tumblrとか「まとめサイト」が喩えられる。オリジナルの要素を並べ替えることによって、別のものになる。Twitter の一見無関係なつぶやきを組み合わせることによって、新しいストーリーを作り出す―――というより、アウトプットする。その組み合わせや解釈のしなおしが、時代に合っていたりちょい先行していたりすると、ウケるというわけ。言葉の世界なら、「編集」が近いが、編集が対象としていた「オリジナルな原稿」はもうない。デジタル化された世界にタレ流されている言説・コトノハに直接向かい合う。だから、 author (著者)というよりも、むしろ organizer (オーガナイザー、まとめ役)と呼ぶのがふさわしい。
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