美しい科学「コズミック・イメージ」「サイエンス・イメージ」
「科学には視覚化の文化がある」これが本書の結論だ。
言い換えると、科学に対し、新しい画像の使い方を提供したテクノロジーの躍進が語られる。科学の発展は、見えないものを「見る」動機によって駆動されるのだ。科学史において重要な意味をもち、その進歩を促してきた絵、図、画像の一つ一つを、その背景の物語と伴に魅入っているうち、知ることは見ることだと思い知らされる。そして、視覚化の過程には、「こう見せたい」という人の意志が介在する。
たとえば、わし星雲M16の巨大な柱の画像がある。水素分子ガスと塵でできた高密度の柱は、まるで鍾乳洞の石筍のように宇宙にそびえている。著者は、その画像の「向き」や「彩色」に人の恣意性が介在していることを指摘する。宇宙には向きなんてないから、上下を逆転してもいいわけだし、「柱」をおどろおどろしく演出する必要もない。そもそも、人の目に「見える」ようなものではない波長なのだ。だが、その画像を見るのは人間であるが故、「ニョキニョキ伸びる柱」や「星が生まれる濃密さ」を暗示する向きや色になる。同様に、第1巻「コズミック・イメージ」の表紙の、かに星雲の画像は、いかにも超新星が爆発した跡のように「見せる」意志がある。
あるいは、超細密画のノミの絵がスゴい。脚や体腔、毛のいっぽんいっぽんが、ものすごく緻密で、なおかつ、巨大な一枚絵となっている。これは、1665年に複式顕微鏡で拡大して描かれたものなのだ。グロテスクで、機能的で、合理的で、そして、「美しい」。最近なら電子顕微鏡で撮影した昆虫の巨大画像があるが、(グロっぽいところもありながら)非常に洗練された構造をしている。最新のコンビナート工場にも通ずる、機能美をそこに見出すことができる。
自然科学のみならず、数学も出てくる。著者にいわせると、数学における紙とエンピツの限界を破ったのが、コンピュータの普及だという。複雑で予測不能な解がどのようにふるまうかをコンピューターで「実験的に」調べた成果が「見える化」されている。第2巻「サイエンス・イメージ」の表紙を飾るマンデルブロー集合が代表例だろう。フラクタルな自然美の代表例として雪の結晶の画像からコッホ曲線まで語れる。しかし、わたしには、人工的に作られたジュリア集合のほうに惹かれる。作り手の意志を超えて無限へ逃げていく出発点の値と、有限の領域に残される出発点の値の境界が織り成す構造は、めまいがするほど美しい。
極大から極小まで、見える波から見えない波まで、ひいては見ることすらできない存在までを視覚化してきた科学が、たっぷりと語られている。
そうそう、茶目っ気たっぷりの著者は、各章をさまざまなタイトル、セリフから引用している。いくつか紹介しよう。
- AはアンドロメダのA――隣の銀河
- 重力の虹――インフレーション宇宙のスペクトル
- ワールド・イズ・ノット・イナフ――永久インフレーション
- ET、オウチニデンワ、シタイ――空飛ぶ円盤 ("E.T. Phone Home."と思われ)
- 偶然と必然――サイコロの目
- 嘘、大嘘、統計学――正規であることの重要性
- 虹の解体――ニュートンのプリズム
- ロード・オブ・ザ・リング――ベンゼン鎖
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