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大人の女の、いやな恋「パーマネント野ばら」

 ……という触れ込みでワクドキしながら読了、ためいき。

パーマネント野ばら スゴ本オフ(恋愛編)で出会ったのだが……これは……これは…これは詩だな。どうしようもない男に人生を振り回されながら、それでもオンナをやめるわけにはいかない。そんな彼女たちの負の情(なさけ)が、パステルカラーでほのぼの&セキララに描かれる。セリフのいちいちがグッと胸に迫り、感情の喫水線は上がりっぱなしだった。心が弱ってたら泣き崩れていただろな。

    けどなけどな
    私のことなんか誰も
    みてくれないしほめてもくれへん

    生きていくのを
    ほめてもらうのは
    あかん事なんやろか

 もっと大声で叫ぶような気持ちを、そっとつぶやくように告げる。作者が「わたし」に託しているのは一目瞭然だが、あまりにも"痛い"。自分の痛みを物語化して泣き笑い飛ばしてしまうつもりなのか。これ描いてるとき、サイバラさんどんな顔してたんやろな、想像すると胸がいっぱいになる。

 そして、子どもの存在。娘が一人いるということは、(そして二人で暮らしているということは)、かつてパートナーがいて、いまはいないということ。夜、娘を抱きしめながら、こんなこと考えるなんて。そして、とりとめもない日常を語り合う想い人の存在が、「わたし」に伝えるあたたかみ、その温もりが、"痛く"なる、ラストで。

    好きやずっとはどこにもないから
    わたしはまいにちうそをつく

うわー、と思ったね。"そういう話"だったんかと。誰もほめてくれないから、自分で自分をほめてみる、好きやずっとはどこにもないから、自分で自分にうそをつく。このホントの意味が明かされるとき、わたしは思わず頭を抱えてしまった。この狂おしさ、せつなさ、空虚(ウツロ)感、男のわたしにゃ重すぎる。でも嫁さんには読んで欲しくない。うっかり読んで「わたし、これ分かる」なんて言われたら、どうすればいいんだ……そういう意味で、女性向けやね。

 だが、男性陣が読んでおくべき箇所もある。セリフほのぼの、画は壮絶。

    20年で満タンになったんや
    女の心は、定期預金やからなあ
    あはは
    ひとつガマンのみ込むたびに
    金振り込んで

    そーですねん
    ある日急に
    満期になって自分でも
    びっくりしましたわー

    毎日ガマン飲み込んで
    こら永遠にいけるんかな
    思てたらー

    あはは
    急に帰ってくるもん
    金利もバッチリついて
    女の定期預金

 「女の定期預金」、これはケータイにでも刻んで、毎日復唱すべきやね。読むきっかけを作ってくれたともこさん、ありがとうございます。

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聴講(と飲み会)のおさそい「読書とはなにか」

 いっしょに聞きに行きませんか?国民読書年記念シンポジウム(無料です)。

 国民読書年を記念したシンポジウムが、国会図書館で行われる。ロジェ・シャルチエ教授の講演「本と読書、その歴史と未来」もスゴかった[感想]けれど、今回のは真打だ。メニューはこんな感じ……

 ■日時 平成22年 10月20日(水) 13:30 ~ 17:00

 ■場所 国立国会図書館 東京本館

 ■基調講演「人間にとって読書とは何か」

   松岡正剛氏(編集工学研究所所長、イシス編集学校校長)

 ■パネルディスカッション
  「読書の過去・現在・未来―デジタル時代における言葉・テクスト・リテラシーをめぐる諸問題」

   和田敦彦氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
   橋本大也氏(書評家、デジタルハリウッド大学教授)
   杉本卓氏(千葉工業大学工学部教育センター教授)

 ■ディスカッション「『新しい読書』のすすめ―研究と実践への展望―」

 もぉこの人選だけでハァハァものですな!「人間にとって読書とはいかなる意味をもつのか」とか大きく振りかぶった演題になっている。そんなに構えなくても、「昨今のデバイス・風潮の変化で、読書スタイルがこう変わったよ」といったお話が伺えたらと期待する。申し込みは[ここから]

 で、聞いたらきっとしゃべりたくなるので、勝手にオフ会します。場所は「82 ALE HOUSE エイティトゥ エールハウス 赤坂店」で、同日の18時から2時間ぐらいねばるつもり。赤いウェストバックをナナメ掛けにしているオッサンを見かけたら、わたしです。講演について熱く語ってもよし、最近のスゴ本を紹介しあってもよし、好きにからんでください。キャッシュオンスタイルなので、席とか時間とか気にせずに、ふらりと寄れますぞ。

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「メイスン&ディクスン」はスゴ本

 「いつか」「そのうち」と言ってるうちに人生は終わる。だから読むんだピンチョンを。

メイスンディクスン1メイスンディクスン2

 もちろん「V.」も「重力の虹」も持ってる。けど「持ってる」だけで、読み終えたためしがない。イメージの濁流に呑み込まれて読書どころでなくなる。注釈と二重解釈と地文と話者の逆転とクローズアップとフラッシュバックと主客の跳躍に翻弄され、読書不能。まれに、「読んだ」「面白かった」という方がいらっしゃるが、どうやって【読んだ】のだろうあやかりたい頭借りたい。過日、ようやく河出書房の世界文学全集の「ヴァインランド」をくぐりぬけたのだが、読書というより酔書でフラフラとなった。

 で今回、辞書並み(しかも2冊)の「メイスン&ディクスン」は、ドーパミンあふれまくる読書と相成った。小説的瞬間とでも名付たくなる、小説内時空間のどこにでも言及され・見渡され・語られている、代えるものがない強烈な感覚に浸る。酒みたいなものだ、酔いたいから呑むのであって、結果、酔うから楽しいとは限らない。もちろん微酔の楽しみもある一方、悪酔いの苦杯を舐めることもある。ピンチョンを読むのは、酔うことに似ている。バッドトリップ承知の上で、杯をあおる、ハイになるため。

 天文学者と測量士の珍道中から、その語り部の周囲、劇中劇さらに現代アメリカと、行単位に時を跳躍する超絶技巧もさることながら、メイスンにしか見えない幽霊女房や不可視のサイボーグ鴨や全員同じ夢を見ているとしか思えないしゃべる犬や礼儀正しい土人形を次々と登場させては煙に巻く人を喰ったピンチョン節をたっぷりと堪能する。複雑に折れ曲がる物語構造をもつ「ヴァインランド」とは異なり、焦点はメイスンとディクスンの二人なのでよもや見失うことはなかろうとタカくくってたら、ストーリーに「乗って」いるのに違う場所に連れて行かれる。高速で曲がるとき逆ハンあてて半ケツずつ横すべりしてゆくアドレナリン・ドライブ。

 ふくらみ過ぎたストーリーにガードレールが無い(!)のでワッと思ったらクルリと高架の裏側へ入り込み、そのまま上下反転して爆走する。物語中に挿入された逸話から本流に戻る際、本編から逸脱した話としていったん"ねじって"接続してくる。下巻54章あたりの、小説技巧としてのメビウスの輪は初体験だ(しかもヒントのようにメビウスの輪のイメージが前巻に出てくる、現実よりも一世紀早い発見として)。

 そう、史実に偽実をコッソリ/堂堂と仕込む技が冴える・笑える。ジョークの掛詞が時をまたがっており、"今"から見るから成り立つのだ。ヒコーキなんて絶対存在していないのに、「一種飛行のような航海」という表現に引っかかる。メイスンの妻レベッカは既に死んでおり幽霊として登場するのだが、どうしてもデュ・モーリアの"あれ"を思い出す。もちろんわたしの反応などお見通しなのだろう。さらに、「そうだろ?アルジャーノン」とダニエル・キイスばりに呼びかけるのは奇異っス(鼠ならぬ、前出のしゃべる犬の台詞なのだ)。また、メイスンが暦の狭間に失われた11日間を彷徨するシーンがある。その最後の瞬間、現時間に追いつくところなんて、S.キングの「ランゴリアーズ」の某場面とそっくりなのはホラを通り越して悪い冗談としか見えない。

 まだある。何気ない会話の中に偉人エマスンがさらりと出てくるが、彼が生まれたのはさらに歴史を20年ほど下った19世紀に入ってから。さりげなく嘘(というより法螺)を吹く。ミュンヒハウゼン男爵を引き合いに出しながら、その上前をはねる大法螺。罠のように仕掛けられる多重奏の法螺に、もちろんこっちは噴かされる。さすがに二世紀も先取りしたフラクタル理論やカオス理論が飛び出してくれば「嘘を嘘と見抜く」ことは簡単だが、「新(ニュー)ヨークだったら酒場に禁煙室があるのに」などと現代ニューヨークの嫌煙運動を彷彿させるエピソードを大真面目に書くのは悪戯もやりすぎ。

 ジョークのジャンプもさることながら、物語の時間軸が入り混じり、当時にいるのか現代にいるのか分からなくなる。「メイスン・ディクスンの冒険譚」と、「その冒険譚の語り手」、さらにさらに「語り手の過去話」「聞き手の"いま"の話」が入り混じる。しかもパラグラフどころか行単位に飛躍するので、めまいが激しい。先に述べた「横すべり感覚」に加え浮遊感が積み重なり酩酊に至る。歴史小説の「ふり」をした中に、奇想・妄想・夢想・幻想あることないことみっちり詰め込んでおり、小説にあらすじやダイジェストを求める愚が相対的に暴かれる。メインストーリー(そんなのあるのか?)をさらって「読んだ」とすることを拒絶している。テーマらしいものといえば、ディクスンが下巻の終わりかけにぶちまける。

「そして今また此処、もう一つの植民地でも、今回は奴隷を所有する連中と奴隷に給料を払う連中の間に線を引く仕事をやった訳で、何だかわし等まるで、世界中で、この公然の秘密に、この恥ずべき核(コア)に繰り返し出会う運命になってるみたいな…(中略)…何処まで行けば終わるんです?わし等何処へ行っても、世界中、暴君と奴隷と出会うのか?亜米利加だけは、そういうのがいない筈だったじゃありませんか」

 そんなの見返しとか書評とか見りゃ瞭然でしょうに。でもこのテーマのためだけにピンチョンは1000ページを超える小説を書いたわけじゃないし、わたしも読むつもりじゃない。書きたい欲望、読みたい欲望に衝かれてそうするんだ。何かを得るためといった「目的」なんぞ糞喰らえ、読みたいから読むのだ。これは、酔うために読む小説なのだ。読むことに目的はないけれど、甲斐はある。人生がそうであるように。手段と取り違えていいのは文学者と翻訳者だけだね。

 その翻訳なのだが、擬古文のせいなのか、メイスンとディクスンの「掛け合い」がシェイクスピアじみている。相手へのからみ具合や、馴れ合い・しなだれ方といった、両者の間合いがそうなのだ。さらに、訳があまりにも逐語的すぎてて、意味不明な文の羅列が続くところがところどころある。わたしの読解が稚拙なのだろうとムリヤリ納得させて進めるのだが、ピンチョン一流の韜晦なのか、訳者の"演出"なのか、はたまた翻訳ソフトによる"手抜き"なのか、分からなくなる。まァ莫大な教養を強要するピンチョンのことだし、版を重ねるごとに充実してくるんじゃァないかと。これ、インターネットの膨大な集積が無かったら読むことも訳すことも不可能じゃないかしらん。

 酔うために読むスゴ本、M&D。

 備忘メモ : ヴィジュアルが充実しているM&DのWiki [Pynchon Wiki: Mason & Dixon]……これから読むためのよすがとして、読んだ人の"おたのしみ"として。

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【告知】 怒らない人生のための3冊を、週刊アスキー9/21号にて紹介中

 「これさえあれば」というワケではないけれど、読んでおけば残りの人生、怒らずに済ませる道を選べるかも。わが身をもって実験したものばかりなので、効果は保証しますぞ。ほにゃららハックとか称して、自分が試しもしないものをタレ流すより数倍ムネ張れると思いきや、言い換えると、それだけわたしが「怒って」きたことの裏返しになる。あんまり威張れたものでもないや。

 思うに、怒りとダイエットは似ている。押さえ込むとリバウンドするとか、性格というよりむしろ習慣に依存する病(やまい)のようなところまで。怒りを回避するコツは、怒りを生み出している場所・人から物理的に距離をとること。離れることで時間的余地を生み、客観的に視ることができる。ダイエットが、肥満の原因から距離をとることと一緒やね。

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彼はどこからアイディアを得たのか?「チャップリン自伝」

チャップリン自伝 スゴ本オフ@松丸本舗でオススメされ、手にした一冊。これ何度も挫折したんだよなーとつぶやきながら読む。最初はハードカバーで(やたら分厚かった)、次は原著で(眠くなった)。どうやらこれは上巻分に相当するらしい。オススメいただいたモギーさん、ありがとうございます、いい本でした。

 チャップリンのサービス精神は、映画のなかだけでなく、自伝にも発揮されている。読み手を笑わせるエピソードにホロリとする小話をさしはさみ、極貧時代からスターダムに駆け上がるまでを、息つくヒマなくイッキ読みする。緩急自在の語りなり。彼の映画の基調―――笑いとペーソスの混ざりあい―――は、子どもの頃の思い出にある。

 あるとき、屠畜場から逃げ出した羊が通りを駆け回り、通行人を転ばせたり跳びはねさせたりしたという。最初は滑稽で面白くて笑っていたが、捕らえられた羊が屠畜場へ連れ戻されてしまうと、突然、その羊の悲劇がクローズアップされる。彼はいそいで家へ帰ると、泣きながら母にこう訴える「あの羊、みんな殺されるよ!殺されるよ!」。

 非常に興味深いのだが、幾度もクビをひねったのは、彼の正確すぎる記憶力。例えば、幼いころもらった小遣いの額から手仕事の報酬、レシピ、当時の生活に必要なこまごまとした物価までを、ことごとく覚えている。さらに、共演者の口上の過ちと、正しい台詞を精確に覚えている。「抱腹絶息、アドリブ自在(ad libitum)」の発音ができず、アド・リビタムを「アブリ・プラム」「アブリバム」と発音していた―――などと指摘する。この回想録を書いたのは老齢になってからだから、驚異的といっていい。完璧主義がなせる業(「わざ」じゃなくて「ごう」)かもしれない。

 さらに、ユーモアにぴりっと辛味を利かせる箴言もちりばめている。「ニューヨーク五番街のすばらしい邸宅群も、人間の住む家というよりは、成功の記念碑という感じ」と揶揄するさまは漫画的だが真実だ。また、「アメリカ人は、エネルギッシュな夢にとり憑かれた楽天家であり、挫折を知らない冒険家」、さらには「イギリス人が他人の社会的ひけ目を見抜く天才的なすばやさは、実際驚くばかりである」などと、なかなか辛らつな観察眼による。

 チャップリンといえば、『あの』スタイルが思い浮かぶが、最初は即興の思いつきから始まっている。チョビひげは年齢を隠すためだし、巨きな山高帽氏とドタ靴はアンバランスさを笑ってもらうために閃いたそうな(同様に、キツキツの上着とダブダブのズボンも然り)。そのアイディアがどこから得ていたのか、そのヒントはないかという観点でも読んだのだが、答えは上述の通り、「人の観察と正確な記憶」になる。彼がよく読んだもとして、エマスン、トゥエイン、ポー、ホーソーンを挙げているが、古典の教養は思ったほど身についていないと告白している。「退屈をいやされた」程度だというがどうだろう。

 本書からは確認できなかったが、醜聞もこと欠かなかったらしい。フェラチオというラテン語を人口に膾炙させたのはチャップリンその人であることは、意外に知られていない事実だ(と、Tumblrで流れてきた。さらに彼のあだ名は「小児科医」だという。理由は、結婚相手の年齢にあったのかもしれない。コリン・ウィルソンあたりを読めばロリコンの気の話が出てくるのだろうか。

   1918年 チャップリン29歳 16歳のミルドレッド・ハリスと結婚
   1924年 チャップリン35歳 16歳のリタ・グレイと結婚
   1932年 チャップリン42歳 21歳のポーレット・ゴダードと結婚
   1943年 チャップリン54歳 18歳のウーナ・オニールと結婚

 浮名や名声とは裏腹に、さびしい心を抱えていたようだ。喜劇役者として大々的に支持されるようになったとき、彼は大衆の中の孤独を味わうようになる。「みんなわたしを知っているらしい。だが、そのわたしは、だれひとり知らないのだ」―――視る人と演ずる人が同じ空間にいた時代から、メディアという媒体を経るようになったちょうどはざかいにある孤独なのかもしれない。

 良い機会なので、読了後、「キッド」を子どもと観る。子どもたちはガラス割って逃げるシーンがお気に入りで、ハラ抱えて見入っている。スラップスティックで終るかと思いきや、分かりやすい伏線で表された感動の場面も用意している。1921年に公開の、今でもじんとクる映画だ。もう100年なのか、まだ100年なのか。わたしの一番好きなこの台詞を聞くために、もういちど「ライムライト」を見てみるか。

  “What you need in your life is courage, imagination and some money.”
  人生には三つのものがあればいい、希望と勇気とサムマネー

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数秘術から量子論まで「数の魔力」

数の魔力 いっぷう変わった数の歴史。

 古代の数秘術から現代の量子論にいたるまで、人と数のかかわりをひも解いているが、類書と異なるポイントは、「数とは何か」ではなく、「数とは何を意味しているか」を語るところ。

 実際、宇宙のどこを見渡しても、「数」など存在しない。否、花弁の一枚一枚、星ぼしの一つ一つは数えられるではないか、と言える。だが、花弁の「一枚」と「一枚」は異なるし、星も然り。それらを「同じもの」と人が認識したところから「数える」が始まる。数は、人が世界を認識して初めて誕生したのだ。人が世界を知ろうとしてきた軌跡には、必ず、数による抽象化という財産が残されていると言ってもいい。

 本書は、この「数そのもの」ではなく、「数が意味するもの」に焦点を合わせ、歴史を語りなおす。だから、ピタゴラスなら「数が象徴するもの」即ち数秘術の話になるし、バッハの平均律は周波数と整数比の考察になる。デカルトだと空間認識に数を用いた話になり、ボーアなら原子モデルと整数の関係を追及する。これらは、数の性質を紹介する話ではなく、対象の性質を「数」で把握しようとしたアプローチになる。

 なかでも面白かったのが、バッハの平均律について。ピタゴラス音律からオクターヴまで、音を数で表す試みと、そこから生まれる矛盾。告白すると、難しすぎて理解できなかった―――が、恐ろしく複雑でとんでもなく面白い世界があることは感じられる。音は振動であり、振動数を簡単な整数比にしようとするのだが、そこからズレる音が出てくる。振動数をn倍の比する試行錯誤と、それでも「完全」になれない音階の話。だが、われわれの耳は、自分が慣れている音階にあてはめて聴こうとするため、純正からの乖離に対して寛容になるというのだ。同じテーマを深堀りした「やわらかなバッハ」(橋本絹代著)がある。実はこれ、献本でいただいたのだが、積読山に刺さったままだ。これを機に挑戦しよう、バッハ聴きながら。

 また、πの文字列に、ボルヘス「バベルの図書館」をイメージする試みがスゴい。πの小数展開の中に出現する数字列を文字に置き換えるのだ。例えば、00を空白に置き換え、01をaに、02をbに置き換えるように進めていく。アルファベットが尽きたらまた空白から始め、最後は99もひとつのアルファベットに置き換える。この置換をくり返すことにより、πの小数展開を収めた図書館は、ボルヘスの描いた、あらゆる書を収めたバベルの図書館に変貌する。小数展開は尽きないし、その組み合わせは無限といっていいのだから、そこには、あらゆる表現がくり返されてゆく。円周率を見つけてしまったが故に見いだした永劫回帰やね。

 「数学」とはそれ自体で完結した学問のようにとらえていたが、実は逆。人間が世界を捉えようと抽象化した影こそが数学なのだ。したがって数学の拡張は、世界を認識する手立ての延伸になる。

 そんな確信を抱かせる、数奇な歴史探索の一冊。

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子離れのすすめ「13歳からの心を強くする子育て」

13歳からの心を強くする子育て 親の目的は、「わが子を大人にする」に尽きる。

 そして、あらゆる子育て本は、「そのためにどうする?」を語ったもの。それ以上でも以下でもない。

 もし、プラスアルファとか別の「目的」をわが子に見出した場合、無理強いや歪みを引き起こす。どんな時代にも、おかしな親がいる。自分が果たせなかった夢を子どもに押し付けたり、自分の思い通りにわが子を操ろうとしたり(わたしの子ども時代には、『母原病』なる言葉が流行った)。わが子は小学校の高学年。そろそろ難しい年頃にさしかかる前に、予習のつもりで読んでみる。予想通り、厳しい(でも王道の)言葉が並んでいる。

 本書の真髄はここになる。

   赤ちゃんは、肌を離すな
   幼児からは、肌を離しても手を離すな
   小児からは、手を離しても目を離すな
   少年からは、目を離しても心を離すな ← ここ

 もちろん「少年」に限らず「少女」も同じ。肌をくっつけ存在を知らせ、手を引いて歩き、迷わないよう目で追い、いつでもここにいるよと声をかけてきた。いわば、安心するため・させるための親の役割を果たしてきた。その甲斐あってか、不安なこと、心配なことは何でも相談してくれる。

 しかし、それじゃぁダメなんだ。分かってる、わかってる、手を差し伸べて、大人の目線で処方箋を与えようとすると、子どもが自身の「理想と現実」に向き合えなくなる―――よく、分かってるんだが、これは厳しい。いまじゃないが、わたしが「子離れ」しなければならない時期がくる。子どもの自立をハラハラしながら「見守る」。「見張る」のではなく、見守るのだ。

 「子どものため」という理由をつけて、子どもを過度に監視するのを、本書では「拘束の杖」と呼んでいる。あれもダメ、これもダメ、と厳しく見張るパターンだ。これは、子どもによかれという(親の)イメージがあって、それに合わせて子どもを育てたいという思いが根っこにある。そのイメージに合った子が可愛いとなってしまう。本来、無条件の愛となるべき親の愛情が、「条件付」になってしまうというのだ。「勉強ができる子」が可愛い、「運動ができる子」が可愛い、「皆に好かれる子」が可愛い、なによりも「親の言うことをよく聞く子」が可愛い―――前提条件つきの愛は、かなり思い当たる。

 この「前提条件つきの愛」を確かめる方法がある。子どもが抱く「理想」とは何か、問い直してみるのだ。その「理想」が親として子どもの前で言い続けていたものだとしてら、親の押し付けである可能性がでてくる。子どもが自ら思い描いた理想ではないかもしれないというのだ。仮に親の押し付けだったとしたら、わが子のこころにある「理想」をもう一度リセットする必要がある。当然理想と現実のFIT/GAPで揺れ動くのなら、その揺れ動きこそ成長のために必要なんだと。先回りして転ばないように差し伸べていたこの手は、これから「拘束の杖」になりそうやね。

 王道ながら、きちんと言葉にされにくい原理原則が並んでいる。たとえば「疑いの教育」。教育の目的は、「信じるに足るものは信じ、疑いがあるときは徹底して疑う。その方法と能力の発達を導くこと」になる。著者は、「子どもを『愚か者』にしないために、勉強をさせる」という。ここでいう、「愚か者」とは、「学力の低い人間」のことではない。「正しいジャッジメント」ができない人間、あるいは「偏った価値観の持ち主」のこと。

 テレビや新聞でタレ流される安易なレッテル貼りや歪曲化を見るにつけ、「善の敵は悪ではなく、愚かさだ」というボンヘッファーの至言を思い出す。この「疑う」教育はガッコ任せにできないよな、と痛感する。テレビや新聞を批判するための手段として、ネットや海外ソースが利用できるようになるまで教えるか―――をっとこれは「拘束の杖」?

 きっと、子どものほうから、だんだん距離をおくようになるだろう。あと数年でやってくる、わが子の第2反抗期が楽しめるよう、心を構え覚悟する。そういや、わたしが子ども時代は「積み木くずし」が流行ったなぁ……

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美しい科学「コズミック・イメージ」「サイエンス・イメージ」

 「科学には視覚化の文化がある」これが本書の結論だ。

美しい科学1 言い換えると、科学に対し、新しい画像の使い方を提供したテクノロジーの躍進が語られる。科学の発展は、見えないものを「見る」動機によって駆動されるのだ。科学史において重要な意味をもち、その進歩を促してきた絵、図、画像の一つ一つを、その背景の物語と伴に魅入っているうち、知ることは見ることだと思い知らされる。そして、視覚化の過程には、「こう見せたい」という人の意志が介在する。

 たとえば、わし星雲M16の巨大な柱の画像がある。水素分子ガスと塵でできた高密度の柱は、まるで鍾乳洞の石筍のように宇宙にそびえている。著者は、その画像の「向き」や「彩色」に人の恣意性が介在していることを指摘する。宇宙には向きなんてないから、上下を逆転してもいいわけだし、「柱」をおどろおどろしく演出する必要もない。そもそも、人の目に「見える」ようなものではない波長なのだ。だが、その画像を見るのは人間であるが故、「ニョキニョキ伸びる柱」や「星が生まれる濃密さ」を暗示する向きや色になる。同様に、第1巻「コズミック・イメージ」の表紙の、かに星雲の画像は、いかにも超新星が爆発した跡のように「見せる」意志がある。

 あるいは、超細密画のノミの絵がスゴい。脚や体腔、毛のいっぽんいっぽんが、ものすごく緻密で、なおかつ、巨大な一枚絵となっている。これは、1665年に複式顕微鏡で拡大して描かれたものなのだ。グロテスクで、機能的で、合理的で、そして、「美しい」。最近なら電子顕微鏡で撮影した昆虫の巨大画像があるが、(グロっぽいところもありながら)非常に洗練された構造をしている。最新のコンビナート工場にも通ずる、機能美をそこに見出すことができる。

美しい科学2 自然科学のみならず、数学も出てくる。著者にいわせると、数学における紙とエンピツの限界を破ったのが、コンピュータの普及だという。複雑で予測不能な解がどのようにふるまうかをコンピューターで「実験的に」調べた成果が「見える化」されている。第2巻「サイエンス・イメージ」の表紙を飾るマンデルブロー集合が代表例だろう。フラクタルな自然美の代表例として雪の結晶の画像からコッホ曲線まで語れる。しかし、わたしには、人工的に作られたジュリア集合のほうに惹かれる。作り手の意志を超えて無限へ逃げていく出発点の値と、有限の領域に残される出発点の値の境界が織り成す構造は、めまいがするほど美しい。

 極大から極小まで、見える波から見えない波まで、ひいては見ることすらできない存在までを視覚化してきた科学が、たっぷりと語られている。

 そうそう、茶目っ気たっぷりの著者は、各章をさまざまなタイトル、セリフから引用している。いくつか紹介しよう。

  • AはアンドロメダのA――隣の銀河
  • 重力の虹――インフレーション宇宙のスペクトル
  • ワールド・イズ・ノット・イナフ――永久インフレーション
  • ET、オウチニデンワ、シタイ――空飛ぶ円盤 ("E.T. Phone Home."と思われ)
  • 偶然と必然――サイコロの目
  • 嘘、大嘘、統計学――正規であることの重要性
  • 虹の解体――ニュートンのプリズム
  • ロード・オブ・ザ・リング――ベンゼン鎖
 ピンチョンやモノーといった大御所からスピルバーグや007といった映画まで。章のタイトルから中身を想像するのもまた楽し。眼福・満腹・至福の二冊。

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ロジェ・シャルチエ講演「本と読書、その歴史と未来」に反応する

 読書のデジタル化により、読むという行為の前に「書く」という行為が変わり、「オリジナリティ」や「著者」を定義しなおさなければならない――― 9/7 の講演会からいい刺激をもらった。

 これは、国民読書年を記念して、国立国会図書館が開催したもの。フランスの歴史学者ロジェ・シャルチエ氏を呼んで講演→鼎談というプログラム[詳細]。非常に興味深い話ばかりなのだが、悲しいかな、良くも悪くも「大学の授業」だった。プレゼンを面白くする演出・技術が絶望的にヘタなので悲しくなる(大学のセンセにそれを求めてはいけないだろうが…)。ともあれ、わたしなりに絞ってまとめる。

 もともと、「著者」という存在は後付けで生まれてきた概念だという。16世紀以前は、本とは「過去に書かれた作品を語りなおすもの」であり、「長すぎる物語を短縮したり"物語中物語"に仕立て直すもの」だった。本とはアンソロジーであり、あらすじ集のようなもので、「著者」とは、それを演出したり時代にあわせて翻訳したりする存在だった。本や本の中のもの(今で言うなら"著作権"で守られているもの)は共有物であり、語りなおされること(今で言う"コピー")が前提だったという(したがって、全ての本は海賊版だといえる)。

 それが、17~18世紀にかけて、本というパッケージに一貫性を与える「著者」という概念が生まれる。個人の経験が本と分かちがたく結びつき、原稿という形に「まとめた人」という一人称が重視されるようになる。「編集者」や「出版社」という存在は、この「まとめた人」にかかわってくる。書かれたもののうち、何を世に出し、何を切り捨てるか吟味し、レイアウトや校正や装丁や流通を引き受け、「著者」というブランドを貼り付ける。同時に、「オリジナリティ」すなわち手書き原稿が重視されるようになる。自筆原稿には、校正や編集の跡が残っており、唯一無二のものとして保存されるようになる。直筆の原稿こそが、オリジナルなものなのだ。そして、その筆跡を持つものが、「著者」になる。

 読書のデジタル化は、「書かれたもの」のデジタル化から始まる―――というより、もうかなり進んでいる。現代の「著者」は、キーボードから入力し、画面で推敲する。手書き原稿は今や珍しい部類に入るだろう。この書かれたもののデジタル化により、編集の過程や改変が著者から離れ、見えなくなっている。もちろん変更前後の文字列をマッチングすれば分かるだろうが、そこには朱入れの思考過程は残っていない(だいたい、"朱入れ"という言葉自体、時代遅れになっているのかも)。直筆原稿にある、加筆・修正もろもろの痕跡が、デジタル化により消えてしまっている。これは、原稿からオリジナリティを喪失していることになる。いくらでもコピーできる原稿は、「原」稿とは呼ばないのだ。

 ここからわたしの妄想になる。オリジナルなものが喪われた「原稿」を書いた(というか打った)人は、著者になるのだろうか?もちろん今は「著者」「作者」と呼んでいるが、シャルチエ師の「書かれたもの…オリジナリティ…著者」が寸断されたいま、本当にその人が「打って」なくても問題がなくなっている。口述もありだし、ゴーストライターもあり、今なら生成プログラムやbotだって"あり"だろう。けれども、やはりそうしたネタをまとめた人として、一人称の名前が必要になるだろう。「まとめたもの」(もはや原稿と言えない)に対して、レッテルやブランドとしての名前をつけるのだ。

 象徴的な作品として、シェイクスピアがある。シェイクスピアの脚本は、台本としての四つ折パンフレット(フォリオ)はあったものの、出版物として流通していなかった。シェイクスピアの死後、ばらばらだったフォリオを集めてコーパスを作ったのは出版社になる。その際、必ずしもシェイクスピア直筆のものではなかった。他者の編纂・改変はあったが、"シェイクスピア"というブランドに統一したのだ。今日わたしたちが目にする/手にする"シェイクスピア"の作品は、真実シェイクスピアなる者の手で書かれたことに依拠しない。シャルチエ氏はオシャレな言い回しでこう述べた、「書物は著者をつくりあげ、書物は著者そのものになる」。

 百年千年の目で見ると、この、オリジナリティをありがたがる時代は、ここ300年になるのではないか。そして、現代とはその300年の最後の時代なのではないか。それより以前では、現代のわたしたちが「オリジナリティ」と呼んでいる本の中身に相当するネタは、共有物だった。現代のわたしたちが「著者」と呼ぶ人は、そのネタを演出して(解釈して/翻訳して/注釈して)書き記す無名の存在だった。そして、「書かれたもの」のデジタル化によりオリジナリティは喪失し、著者は「その本を書いた原作者」としての意味を失い、300年前に戻る。即ち、「共有されたネタを時代に合わせて演出する人やグループ」に対するブランド名になるのではないか。

 この傾向は、美術や音楽の世界の方が先行している。もともと確立されたデザインやフォーム、リズムやメロディを組み合わせることで、別の作品をリ・クリエイトする手法。これにうまい名前をつけられない。コラボとかコラージュとかオマージュとか本歌取りといった語彙が浮かぶが、ちと違う。もっとカクシンハン的に、「コピーと演出」するのが前提のアプローチだ。

 たとえば、岡崎京子の「pink」に出てくる男の子。古今東西のベストセラーを集めてきて、かっこいいセリフや気に入った描写をハサミで切り抜いてノリで貼って、新しい"物語"を作り出してしまう(そしてそれがバカ売れする)。ペンを一切用いず、ハサミとノリだけでベストセラーを生み出す。アナログなreblogといったところか。これをネットとbotでするのが、これからのやりかた。千夜一夜や柳田國男からだけでなく、アニメや音楽やつぶやきから、固有名詞やストーリーをクロールして、別の文体・原型に流し込む。クロールは自動化、作品内の文体の一括変更や、描写のタッチはマクロ+半手動になるかも。もっと言うと、「読みたい」リクエストに応じてネタを探したり、文体を変えたりする仕組み。セミ・オーダーメイド・ストーリーやね。

 ネットに萌芽が見える。Tumblrとか「まとめサイト」が喩えられる。オリジナルの要素を並べ替えることによって、別のものになる。Twitter の一見無関係なつぶやきを組み合わせることによって、新しいストーリーを作り出す―――というより、アウトプットする。その組み合わせや解釈のしなおしが、時代に合っていたりちょい先行していたりすると、ウケるというわけ。言葉の世界なら、「編集」が近いが、編集が対象としていた「オリジナルな原稿」はもうない。デジタル化された世界にタレ流されている言説・コトノハに直接向かい合う。だから、 author (著者)というよりも、むしろ organizer (オーガナイザー、まとめ役)と呼ぶのがふさわしい。

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さよなら、日経。はじめまして、東京新聞。ひさしぶり、フォーサイト

 「さよなら、日経」で話したとおり、東京新聞にしたのだが、なかなか良い。

 まず家族に大ウケだった。ローカル面に嫁さんが喜び、スポーツ欄は上の子が独占。さらに四コマまんがは、ひらがなを覚えたばかりの下の子が食いつく。おかげで毎朝、「ちびまるこちゃん」を読み聞かせるハメになった。四コマ!わたしが小さいころ、新聞を開く動機となったのは、四コマだったような気が。次いで社会面。水の事故について紙面を指しながら、「どうして泳げるはずのオトナが溺れるのか」について話し合う。家族みんなで同じ紙面を見る、というのは新しい経験になっている。

 つまり、新聞に求める情報がパーソナルなものからファミリーに移ったのだ。ただ一人で情報を吸うのなら、吸い口は一つ。ストローでジュースを飲むようなもの。けれども、茶器やジョッキで「まわし飲み」をするのなら、でかいウツワが必要になる。専門誌より地方紙の方が、飲み口は大きい。わたしの場合、ストローにフィルタをつけてRSS+クォリティ誌を吸えばいい。これはというのがあれば、嫁さん子どもに解説する(必要なら、ネットから"引く")。

 さらに、世論誘導が分かりやすい。対決型やレッテル貼りが稚拙で露骨なので、書き手のスタンスが「見える」。見出しだけで、「伝えたいこと=思わせたいこと」が分かる。見出しに対して「だから何なの?」「なぜそう言える?」と質問しながら読むといいよー、と子どもに教えている。文字がデカくて少ないせいか、論理の飛躍や論証モレが簡単に見つかるので、ちょうどいいトレーニングになる。

 日経(3500円)→東京新聞(2500円)のコスト減もありがたい。家計にもありがたいだけでなく、家族全員が読むようになって、コストパフォーマンスが飛躍的に増えたのだ。思い返せば、紙の日経を読むのはほとんどわたしで、子どもは、オススメされたものを受動的に読んでいた。それが、家族で読むようになって、共通のインタフェースとしての新聞という役割が出てきた。「いま」「目の前」でリアルに共有するのなら、新聞がいちばんだ。なんせ情報を「さわる」ことができるのだから。同じモノを一緒に眺めることで、批判したり感心したり、一緒に検証できるのだから。

 で、浮いたお金で「フォーサイト」。高く評価していたんだけれど、諸事情により休刊の運びに……近辺の雑誌の凋落は分かっているものの、フォーサイトは痛かった。おかげで情報チャネルの見直しをさせられるハメに……[経緯]。それがウェブで復活しているので、早速申し込む[ウェブ版フォーサイト]。ネット情報に銭払うのは、じつは初めてなのだ。ビミョーな価格設定(800円/月)なので試してみよう……しかし不思議だね、i-mode のサービスには躊躇ないのに、自分でクレジットカード番号を入れるとなると途端に慎重になる。この感覚はネットから銭取るときに役立つかも。惹かれた記事のラインナップは以下の通り…

 申込んで読んで分かったこと……BLOGOSと似た読者を集めているような気が(政治的には中道左派なのかね)。あと、決済が月毎である潔さには恐れ入った。ダメなら来月からお代は結構です、というノリなのか。いちおう一年間は猶予を見るつもりだけれど、いいカンジに育って欲しいナリ。finalvent氏よろしく政治経済を語りだしたら、ああ、ネタ元はフォーサイトなのだなと忖度して欲しい。

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陽気で不吉な寓話「ブリキの太鼓」

ブリキの太鼓 饒舌で猥雑で複雑な虚実を描ききった傑作。

 この面白さは、J.アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」を読んだときと一緒。というか、アーヴィングは「ブリキ」に影響を受けているなぁと読み取れるところ幾箇所。アーヴィング好きなら必ず気に入る(はず)。歴史と家族が混ざるとき、哀愁と残酷が交わるとき、自ら過去を語りだす「ぼく」――― 一人称の存在が必要になる。第二次大戦下の激動をしたたかに生き抜く「ぼく」は、強烈な一撃を読者に見舞うだろう。

 というのも、この「ぼく」という存在は、「オスカル」という小児の「中の人」なのだから。「ぼく」は、生まれたときからオトナに成りきっている。知的で、冷静で、屈折しまくっている。周りの大人からは「オスカル」と名付けられた子どもは、「オスカル」としても判断・活動する。この「オスカル」と「ぼく」の二重主語が面白い。「オスカル」を完全に掌握するまでは、とみさわ千夏の「てやんでいBaby」みたいなノリで楽しい(ちと古いか)。カエルと小便を煮込んでペースト状にしたスープは、「オスカル」なら絶対口にしないだろうが、「ぼく」は普通に飲み下す。

 そして、中の人である「ぼく」の意思で、地下室へ墜落する。3歳にして自らの意志でその成長を止めてしまうのだ。あとはひたすら、小人である「オスカル」の皮の中で世界を観察しはじめる。「ぼく」には二つ、武器がある。ひとつは「声」で、もうひとつは「太鼓」だ。

 読者のほとんどは「ガラスを割ることのできる声質」に惹かれるし、その声が縦横無尽に破壊しまくるシーンは圧巻だ。しかし、ほとんど言及されない「ブリキの太鼓による人心掌握」こそ彼を悪漢たらしめている。そう、これはナリは小人で精神はオトナのピカロ(悪漢)小説にも読める。ナチス集会場の舞台下にもぐりこみ、演奏されていたマーチをワルツに変えてしまうのだ。太鼓に意志とメッセージを込め、玉ねぎ酒場に集った人々を感情の乱痴気騒ぎに突き落とすとこなんて、現代のハールメンの某といっていい(笛じゃなく、太鼓だが)。

 ジョン・アーヴィングのモチーフに影響を与えている所をいくつか。「ぼく」の師匠となる小人と、彼が率いるサーカス団あるが、まさに「ホテル・ニューハンプシャー」の小人のサーカスになる。「ぼく」が暮らすアパートの住民との交流は、「ホテル」のジョンとホテルの住民たちとの掛け合いになる。ナチスドイツが物語に絡んでくるのはご愛嬌か。

 まだある。「ぼく」の最初の相手となるマリーアとの濡れ場で、「彼は顔をそこに埋めた。押しつけた唇のあいだに毛が入り込んできた」というシーン。その手触り感覚は、「サイダー・ハウス・ルール」で主人公が財布に入れておいた片思いの女性の陰毛を、まさにその当人につかみ出されたときの感覚とそっくり!ちなみに主人公は(毛を握った)彼女の手を包み込んで、開かせまいとする。「サイダー」で最も美しいシーンである。

 アーヴィングさておき、「ブリキの太鼓」のテーマは沢山ある。黙示的に見える寓話を紐解くと、父殺しと母を欲するオイディプスからカッコウよろしく親違いとなる話、先に述べたハールメンまで、具沢山だ。なかでもメインなのは、「脱皮」だろう。変化や破壊といった言葉もアリかもしれないが、母の葬式の際、オスカルを中から食い破るように「ぼく」が急成長しだすところは、メタモルフォーゼ(変態)や羽化という表現が適切かと。ちっとも大きくならない成長物語かと思いきや、ここで大きく裏切られる(パートナーだったブリキの太鼓は、ここでいったん捨てられる)。

 止めた身長が伸びだすことは、そのまま世界の変化になる。オスカルという小人の皮を破った「ぼく」は、もう一度世界と対峙して、今度はもっと生臭く生きはじめる。その性根の座り具合が面白い。「ぼく」の、ふてぶてしい真摯さは、終わってしまった歴史を振り返るとき、脱皮してユーモアになる。

 おそろしく奔放な語り口に乗せて、言葉遊び、オリジナル数え唄、韻文をズらしながらの語り、隠喩のあてこすり、いかようにも愉しめる。「ぼく」自身の欺瞞も隠してあるから、それを探してもいい。

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ゲームで子育て「オブリビオン」

オブリビオン 「ゲームばかりしているとバカになる」と言われて育って親になった。

 「ゲーム脳の恐怖」をマに受けてDS狩をするような親がいるいっぽう、子どもといっしょに「イナズマイレブン」に興じる親もいる。てか豪炎寺最強なんだけど。それでも個人技だけではジリ貧で、戦術も要求するかなり高度なゲームなり。

 親としてはイナズマもいいけれど、もっと良い(=わたしの価値観で素晴らしいと評価する)ゲームをやってほしい、と思っている。これは親のエゴ丸出しなんだが、その上で選べばよいかと。良いものを知らずにいると、(わたしの価値観に照らして)もったいない、という感覚。たとえば「ワンダと巨像」、たとえば「Ever17」、たとえば「Rez」……

 そして、たとば「オブリビオン」。これはXBOX360購入したとき、「鉄板の2本」と友人に紹介されたもの(ちなみにもう一本は、「バーンアウト・パラダイス」[レビュー])。メインシナリオ(ドラゴンファイア)とサブクエストを何十本かクリアして一言、これは「最後のRPG」だ。ロープレはつまらないとか飽きたと信じてたわたしには、これをやらずしてそんな口を叩くなかれ、と痛感せしめたもの。すげぇ、世界を丸ごと与えられ、何でもできるし、何をしてもいい。自分で「役」と「目的」を見つけ、そこに自分が入り込む。もちろんクエストを粛々と遂行してもいいし、横道にそれて、無関係のダンジョンを道草気分で探索してもいい。物語はやってくるものではなく、追い求めるものなのだ。昔のゲーマーなら、「ルナティックドーン」をリアルにしたもの、といえば通じるかな。

 そう、何でも「できる」んだ。王を助ける獅子奮迅の働きをしてもいいし、小善を言い訳に盗賊狩りに勤しんでもいい。ひたすら錬金術を極めてもいいし、そうした技術で悪の道を突き進むこともできる。そう、ピッキングで開錠して盗み出し、追手をブチ殺し、あまつさえ追剥ぎまがいのことも「できる」。ただし、指名手配され明るい表を歩けなくなるけど。

 いわゆる、フツーの世界では禁止されていること―――「悪いこと」ができる。スリは見つからないように、細心の注意を払う。殺人は―――する人生としない人生を選ぶ決意で、実行する。いったん見つかると、ヒドい目に遭う。罪は贖わないかぎり、ずっと付いてまわる。スリルを味わうなら別だが、ビクビクしながらすごすよりは、最初から「悪いこと」をしなければいい。

 この「悪いこと」ができる場合、アイコンが赤く警告する。傍らで見ている子どもらは、「やっちゃダメだよパパ、ドロボーしたら!」と騒ぐのだが、わたしは「どうして?バレなきゃ盗ってもいいんじゃない」と挑発する。そこで子どもは考える→「盗んでもバレなければいいのか?」。

 そして子どもは気づく。悪いことをすると、その場で逮捕されなくても、必ず誰かが見ている(だから、「悪名」パラメーターがカウントされる)。なによりも、自分(=プレイヤーやギャラリー)が見ている!「悪いこと」を始めたら、ずっと「悪いこと」をし続けなければならない。ずっと逃げ回らなければならない―――そんなのイヤだ、と子どもは叫ぶ。

 そうなんだ、悪いことをするには、「悪いことをするんだ」という強い意志と、ずっとバレないようにし続ける狡さ賢さが要る。これはリアルでもゲームでも一緒で、罪を贖わないという人生を選んだのなら、一生犯りつづけるのだ(オブリビオンではリセットする方法はあるらしいが…)。盗みや殺人は極端なので、「ウソ」を例にして説明する。

―――ひとつのウソなら簡単だけど、バレないようにウソを続けるのは難しい。なぜなら、前のウソと今のウソのつじつまが合うように考えて、騙しつづけなければいけないから。いったんウソがばれたら、きみの言うことのどれがホントか信じられなくなってしまう。ビクビクしながらウソを続けるよりは、正直でいるほうがずっとラク―――

 どこまで伝わったか微妙だが、子どもにとって、首なしゾンビよりもスケルトンよりも、「できる≠許される」が平然と提示されるインパクトの方が大きかったようだ。そりゃそうだ、「イナズマイレブン」のように、そこらの「宝箱」を開けてアイテムをゲット「できる」からといって、「許される」とは限らないのだから。

 世界を救う英雄でも、ドロボーになったら追われる。ゲームがリアルを映しているというよりも、ゲームの中に(ゲームとしての)秩序が存在するんだ。そういう生々しい世界、それがOBLIVION。

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スゴ本オフ@BEAMS顛末(POP is Dead?)

 第4回スゴ本オフの話。

 8/27に原宿でオフ会をする。会場を貸していただいた TOKYO CULTUART さん、ありがとうございます。やすゆきさん、大木さん、ずばぴたさん、ともこさん、そしてご参加いただいた皆さま、感謝・感謝です。「オススメ本を持ち寄って、まったりアツく語り合う」コンセプトで、今回のお題は「POP(ぽっぷ)」。まずは集まった作品を見てくれ。

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 そして参加された方の発想の柔軟なこと王道なこと極道なこと、わたしの想像力のナナメ上どころか、別次元の本がガンガンでてきて興奮した!知らないことを知ることは、こんなにドキドキするなんて。知ってることを「知りなおす」ことがこんなにクラクラするなんて。「QuickJapan」とか「STUDIO VOICE」とか、懐かしさと甘酸っぱさがこみあげてくる。ドリキャスとかNoel(ノエル)とか普通に特集されててマジ泣ける(そういや、NoelはTwitterそのものだな)。Perfume「ポリリズム」の初版が飛び出したり(ヤフオクで結構なお値段だそうな)、澁澤龍彦責任編集の「血と薔薇」が堂堂とプレゼンされたり、はたまた料理のライフハック本「こつの科学」が並んでいたりする。さまざまな「POP」を見たり聞いたり読んだりしているうちに、POPの解釈は自由だな~とあらためて思う。

 欲しい!と思ったのは、「無惨絵」。幕末に刊行された血みどろ浮世絵「英名二十八衆句」に競作する形で昭和の絵師、花輪和一・丸尾末広が復活させたもの。丸尾末広がフルパワーで描いているのに気合負けているかもしれない江戸の無残絵ばかりといえば(分かる人には)分かるだろうか。これ、U-Streamでどう流れてどんな反響(絶叫?)があったか気になる……

  1. 【ともこ】 Perfume「ポリリズム」シングル
  2. 【ともこ】 HMVフリーペーパー2008春号(表紙がPerfume、裏表紙が綾波)
  3. 【ともこ】 ジャップJap Magazine spring 1994 特集・小泉今日子の死
  4. 【ともこ】 STUDIO VOICE ラブラブ・エレクトロン 1999 1月 277号
  5. 【ともこ】 ポップカルチャー A to Z
  6. 【ずばぴた】 青ひげ(カート・ヴォネガット)
  7. 【wms】 QuickJapan vol68 特集・ほしのあきロングインタビュー
  8. 【ショウノ】 フォルメンを描く(ルドルフ・クッツリ)
  9. 【ショウノ】 MASSAGE(TOKYO CULTUART)
  10. 【さこ】 さるのこしかけ(さくらももこ)
  11. 【さこ】 間奏曲(赤川次郎)
  12. 【さこ】 チェンバロコンチェルト(バッハ)
  13. 【やまざき】 The Best of Norman Rockwell
  14. 【やまざき】 もっと知りたいゴッホ 生涯と作品(國府寺司)
  15. 【ツクダ】 4010 Night Time(TOKYO CULTUART)
  16. 【ツクダ】 フォトグラフール(町田康)
  17. 【ツクダ】 リュートの弦(ジム・ウードリング)
  18. 【おがわ】 DIARY OF A little Avocode(TADA REIKO)
  19. 【おがわ】 八百八百日記(戌井昭人と多田れいこ)
  20. 【おがわ】 relax 2001 01 vol 47 特集・ビースティ・ボーイズ
  21. 【おがわ】 こんぴら狗物語 走れゴン(絵・湯村輝彦 文・多田とし)
  22. 【まなめ】 雷撃SSガール(至道流星)
  23. 【まなめ】 「こつ」の科学(杉田浩一)料理のライフハック本
  24. 【ケースケ】 ワンダー3(手塚治虫)
  25. 【ケースケ】 毎日が夏休み(大島弓子)
  26. 【ケースケ】 ふたりのロッテ(エーリヒ・ケストナー)
  27. 【アオノ】 血と薔薇 復刻版(澁澤龍彦責任編集)
  28. 【アオノ】 あかずきんちゃん(絵・湯村タラ 文・武井直紀)
  29. 【アオノ】 江戸昭和競作 無惨絵(花輪和一 月岡芳年 丸尾末広 落合芳幾)
  30. 【フカサワ】 毒蛙の復讐(篠原有司男)
  31. 【フカサワ】 前衛の道(篠原有司男)
  32. 【フカサワ】 ザ・タナアミ・タイムズ
  33. 【フルヤ】 トランスフォーマー飛び出す絵本(ポップアップだ!)
  34. 【フルヤ】 DESTORY ALL MONSTERS "GEISHA THIS"
  35. 【フルヤ】 ビジュアル全集 人造人間キカイダー
  36. 【さいとう】 レキシントンの幽霊(村上春樹)
  37. 【さいとう】 ゲーム帝国(ファミ通の連載まとめ)
  38. 【さいとう】 銀河ヒッチハイクガイド(ダグラス・アダムス)
  39. 【いのうえ】 女たちよ!(伊丹十三)
  40. 【やすゆき】 僕らの事情(デイヴィッド・ヒル)
  41. 【やすゆき】 How dare you!(10cc)
  42. 【やすゆき】 少女神 第9号(フランチェスカ・リア・ブロック )
  43. 【Dain】 「カフカ」西岡兄妹
  44. 【Dain】 ご近所物語 完全版(矢沢あい)

 自由な「POP」が飛び交う中、ガツンと印象深かったのは、(wmsさんだったかな?)の至言「POPとはexploitされるものである。つまり、売れてナンボ、搾取される運命にある」。これを受ける形で、ともこさんの「現代は消費されるPOPから、アート寄りになってしまった。POP is Dead?」は効いたナリ。たしかにそうだ、ここに並んだPOPを「いま」「これから」出そうとするのは、かなり困難かも。それは先駆者がいるからという理由ではなく、「そのPOPのノリに銭金かけるつもりはねぇ」という出版側の事情によるのだろう。

 実はこの「POP」、ムズかった……ポップン、ポピュラー、サブカルチャー、思いつかない。よっぽど「ぽっぷ」の「あかずきん」とか、ジム・トムプソンの「ポップ1280」でも持っていこうかしらんと知恵熱出した……ムリヤリ脳内変換して「POP」を「おしゃれ」とか「軽み」と置き換えて二つほどひねり出す。

ご近所物語 「ご近所物語」(矢沢あい)

 ラブコメ。「NANA ナナ 」が有名だけれど、ダンゼンこれ。日曜アサの脳内が、どれみやプリキュに浸るずっと以前に、ちょっと鼻がかった声のミカコ(cv:宍戸留美)に染まっていたのかも。デスマーチに心をすり潰されてたわたしには、デザイナーという夢へ驀進するヒロインがまぶしかった。

 「POP=おしゃれ」なのは、彼女のファッション。毎回毎回、着ている服が違ってる。「自分がデザインした服を着ているところなんて、ハートキャッチプリキュアのえりか嬢に相似してる。その軽いアツい性格と、古きよきバブリーな時代感覚のズレが、いま読み返しても面白い。ホント言うと、職場の女子と話を合わせるという下心でチェックしはじめたんだけど、いつ頃からだろうか……日曜アサの女子アニメが「大きなおともだち」のものになったのは。

カフカ 「カフカ CLASSICS IN COMICS」(西岡兄妹)

 カフカ短編のコミカライズ。不気味で不思議で不条理な本。わたしのカフカのイメージは、「物理的にも精神的にもがんじがらめ」「せまってくる締め切り」といった重苦しいもの。それを継承しつつ、思い切った大コマを用いた画面の白さが、浮遊感をもたらしている。

 やらねばならぬことが迫っており、その責は自らにあり、なおかつ監視されているという「あせり」や「手遅れ」感こそが、カフカのモチーフだ。かつて「失踪者」をリアルな悪夢を強制的に見させられる毒書と評したが[参照]、本書は全編みなぎっている。ところが、濃密なタッチで精密に描かれた頁から次のページへジャンプするとき、シンプルな大ゴマが待っている。「バケツの騎士」のジャンプは、一瞬めまいを起したかのよう。「POP」という言葉からはほど遠いカフカに、不思議な「軽み」をもたらしている。

 さて、次回のお題は「ミステリ」、秋の夜長にピッタリの極上なやつが集まってくるだろうなぁ……日程と募集は後日。

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