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"読むとは何か"を長い目で「読書の文化史」

Dokushonobunkasi 「読むとは何か」を考える読書。

 読むとは常に、目の前のテクストに対して取り組むこと。そのため、あらためて「読むとは何か」と問われると、途端に見えなくなる。「読んでいる自分」をメタに語れればよいのだが、むつかしい。最近(といってもここ十年くらい)、ハイパーテクスト論や情報のインデックス化は、しつこく聞かされる。しかし、もっと長期スパンで見た場合、どういう変化が起きるのだろう(起きているのだろう)。これを考えるためには、やはり歴史からのアプローチが適切になる。

 フランスの歴史学者、シャルチエと考えてみよう。ロジェ・シャルチエ氏は来る9月7日、国会図書館で公演をする。タイトルは、「本とは何か。古代のメタファー、啓蒙時代の諸概念、デジタルの現実」。さらに福井憲彦氏と長尾真氏を交えて鼎談をする。長期スパンで考えるよい契機となるだろう。先着順なのでお早めに↓

  国民読書年記念ロジェ・シャルチエ氏講演会「本と読書、その歴史と未来」

 予習の一冊目は 電子書籍で騒ぐ人に「書物の秩序」 だったが、今回は「読書の文化史」で考えてみる。本書では、16~18世紀アンシャン・レジームの時代において、印刷された文書が、どのように社会的影響を与え、どんな思想を生み出し、権力との関係性を変えていったかが展開される。シャルチエ氏は、わたしが常識(?)だと思考停止していた部分に対し、別の視点から考察する。あらたな知見が得られたのは収穫だが、同時に、彼の視点は今の電子書籍の風潮にも適用できるから面白い。以下まとめる。

 わたしが無批判に信じていたものに、「グーテンベルクの印刷革命が、知の独占を教会から解放し、モンテスキューやヴォルテールの書物がフランス革命を起した」がある。さらに、「活版印刷による書物の普及が、読書形態を、音読から黙読に変えた」という言説がある。

 まずシャルチエ氏は、「書物が歴史に直接的な力を持つ」という考えを戒める。書物が提供する新しい思想や表象は、読者に自然に刷り込まれるようなものではないと断言する。王や王政から人心が離れたことを、哲学書の普及のせいだとするのは、危険な発想だという。

 その根拠として、当時の店の看板を指摘する。なんでもかんでも「王様風」という名前をつける風潮があったという。王様風牛肉料理、王様風菓子、王様風靴みがきなど、王のシンボルの借用は、多用されるにつれ、王の価値を貶めることになったという。これは王政への敵意からではなく、王様風とは「よい」「すばらしい」という比喩で用いられたという。モンテスキューやヴォルテールがウケたのは、それ以前に王政が貶められ、卑俗化していた下地があったためであって、その逆ではないというのだ。

 つまり、社会の風潮に書物が決定的な影響を与えるのではない。もともとある方向へ回復不能なほど傾いており、「そっち向き」の本がベストセラーになることで、その方向が強く認識される、と考えるべきだという。しかし、わたしはよく間違える。ベストセラーを掲げては、その本が時代を創ったとみなすのだ。ベストセラーは時代を象徴するのに役立つが、この場合はシャルチエ師匠が正しいだろう。

 次にシャルチエ氏は、「(活版印刷による)安価な書物の普及が黙読文化を作った」を批判する。黙読が西洋に現れたのは「グーテンベルク革命」のはるか以前、古代末期のキリスト教徒の読書行為に現れ、13世紀のスコラ学者たちの間に伝わり、その一世紀あとに世俗社会に普及したという。儀礼のため大声で音読されることもあれば、書斎に引きこもって自分のために静かに読まれもする。シャルチエ氏は、共同でなされる朗唱にあてられる部分の体裁と、信心を育むために黙読される部分の体裁が異なっているという。読むことにおける革命が、書物そのものの変容よりも先行していることを指摘する。

 この指摘で、面白い「未来」が見える。すなわち、未来の読書の形態が、今のそれ(黙読)と異なっているならば、その変化は既に現れていることになる。たとえば、このblogを続けるようになって、わたしに現れた変化で説明するなら、それは協力読書/共同読書になる。本を、わたし単独ではなく、他の誰かと一緒になって読むのだ。読解の下調べのため誰かの論文を参照したり、同じ小説を別の切り口で斬ってもらう。

 そして、協読・共読、どちらの「読み」もblogで公開するたび、「このURL先が参考になります」とか、「こうとも読めるぞ」さらには「それがスゴ本なら、これは?」とツッコミが入る。フィードバックしていくうち、あたかもその本を共同で読んでいるようになる。本、本にまつわる話題、ニュース、映像を、同じテクストを眺めながら、ああでもない、こうでもないと議論したり調べあう。これに近いものは、ゼミの輪読だね。輪読は同じ時間・同じ場所にいる必要があるが、ネットで時空を超える。もっとフラグメントされた形態なら、ブックマークコメントやTumblrから「book」をkeyにすると、ゆるいつながりが抽出できる。

 冊子本というカタチではない媒体が普及すると、こうした協読・共読がごく自然に行われることになるだろう。しかし、そうした共読文化を生み出したのは、iPadのようなデバイスではない。すでにある習慣なんだ。

 変化の兆しを探すのではなく、既に起きた変化に目をつけてみよう。

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コメント

「社会の風潮に書物が決定的な影響を与えるのではない」とありますが、わたしも賛成ですね。
ふと、ヘーゲルが『法哲学』の序文に記した、「哲学とはその時代が思想のうちに捉えられたものである」という言葉を思い出しました。

投稿: | 2010.08.27 18:33

はじめまして。いつからか拝見・参考にさせていただいています。

こちらの本もおもしろそうですね!
個人的なことなのですが、学生のころから歴史だけはさほど抵抗なく接してきたところがあり(おそらく好きでもあるだろうし)、そのためか「歴史からのアプローチ」めいた考え方をしているところがあるようなので、そういう意味でも一度読んでみたいと思いました。

ところで、『文学の楽しみ』(吉田健一・著)という本は読まれたことありますか?

今年の春に講談社学芸文庫で公刊されたもののようで、ところどころ読みにくい箇所があったのですが(でもこれは相手が吉田健一氏なので僕の読解力不足のせいだと思います)、最近思うところあって「なぜ本読むのかな」と考えていたおり偶然目にし、試みに読んでみたところ、まず読み物としておもしろく、参考にもなり、また考えさせられました。

紹介されたシャルシェ氏の本とは視点や趣向(?)がちょっと違うかなとも思ったのですが、『読書について』も混ぜて大雑把に一まとまりにすれば類書かなと思い、加えて、僕自身は『読書について』より『文学の楽しみ』の方が断然おもしろかったので、推してみます。

機会があるうちに!(?)ぜひ一読してみてください!

(いきなり長文失礼しました)

投稿: 赤亀 | 2010.08.27 20:32

>>名無しさん@2010.08.27 18:33

コメントありがとうございます。なるほど、「哲学とはその時代が思想のうちに捉えられたものである」その哲学が残っている現代なら、捉えている思想も続いているのかもしれませんね。


>>赤亀さん

オススメありがとうございます!かなりよさげな本ですね、吉田健一「文学の楽しみ」はぜひ読みたいです(blogやっててよかった)。

投稿: Dain | 2010.08.28 22:40

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