煉獄の日常「イワン・デニーソヴィチの一日」
極寒の強制収容所の、平凡な極限を描いた中篇。きわめて特殊な状況における、普遍的な人物群像を眺めているうち、「人間ってやつは、どこまで行っても、人間なんだな」と思えてくる。
スターリン時代の収容所の一日が淡々と描かれる。いきなりラストから引用するが、これはネタバレではない。むしろ、どんな精神をもってこのような「幸福」を感じるのかを、そこに至る本文から読み取るべきだろう。シューホフとは主人公の名。
シューホフは、すっかり満ちたりた気持ちで眠りに落ちた。きょう一日、彼はすごく幸運だった。営倉へもぶちこまれなかった。自分の班が「社生団」へもまわされなかった。昼飯のときはうまく粥(カーシャ)をごまかせた。班長はパーセント計算をうまくやってくれた。楽しくブロック積みができた。鋸のかけらも身体検査で見つからなかった。晩にはツェーザリに稼がせてもらった。タバコも買えた。どうやら、病気にもならずにすんだ。もちろん営倉というのは名ばかりの牢獄に入れられなかったし、行くことはほぼ死を意味する作業をせずに済んだ。ごまかせた食べ物は椀一杯のみ。ブロック積みは「楽し」かったかもしれないが、凍雪(マローズ)の中での重労働だ。なぜ彼が、この極限に満ち足りて、ほとんど「幸福」とまで言えるのか―――本文を読めば慄然とし、同時に人間のしたたかさとはどんなものかを思い知るだろう。
一日が、すこしも憂うつなところのない、ほとんど幸せとさえいえる一日がすぎ去ったのだ。
密告、裏切り、処罰、労働……苛酷な状況下で、人の心が折れようとするとき、イワン・デニーソヴィチはそれでも生き延びようとする。その日、その日を、一歩、一歩こなしていこう・生きようとするチカラを、読み手は受け取るだろう。ひどい状況に追い詰められた人物たちの様子に、読み手の心に哀傷と痛みをひきおこさずにはいられない。だが、その哀傷と悲壮は、人物たちが抱く感情と、これっぽっちも重ならないのだ。
想像できないほど非道な状況を描いているのに、強靭なヒューマニズムの普遍性を見ることができる。面白い。抑制した語り口で日常を描いているだけなのに、体制への痛烈な批判となっている。面白い。ドストエフスキーにせよ、ソルジェニーツィンにせよ、収容所生活が作家を大作家たらしめているのではないか、と思えてくる。
「生きていける」確信めいたものを受け取った一冊。
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