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究極の本棚「松岡正剛の書棚」

松岡正剛の書棚 まさにわたしのために作られたMOOK。嬉しすぎる。

 東京駅で時間がつくれそうなとき、欠かさず必ず通っていたのが八重洲ブックセンター。だが、昨年から180度方向転換し、出口は八重洲口ではなく丸の内北口になった。目指すは丸善4階、松丸本舗である。

 ここが危険なのは、放し飼い状態になること。いつもは複数の図書館をやりくりしたり、勇気の人差し指でamazonポチっとしていたのが、完全開放される。新刊本に餌付けされている飼い犬から、リミッターカットされたハンターになる。財布におカネ入れてなければ買えなかろうと思いきや、カードOKというデンジャー・ゾーンだ。しかも週末の家族サービスの合間を縫って訪れるので、真昼のゲームのよう(もちろん、夜ならホット・サマー・ナイトになる)。

 ここでは、書物への偏愛は吐息のように漏れでる。書有欲(≠読書欲)の炎をぬけて、行き先のない旅に身を投ずるのだ。ありのまま起こったことを話すと、30分だけのつもりが、ハッと気づくと2時間近く経っている。時が飛ばされたに違いない。放置された子どもは怒りMaxになっている。

 これではイカンと、デジカメとハンディカムで店内を撮影する。動画と静止画の両方、2時間かけて全部の棚を撮りつくす―――のだが、いかんせん薄暗い店内では、肝心の背表紙が見えない。かろうじて良く撮れたのが、「松丸本舗のさまよいかた」で紹介した数枚になる。本の撮影は難しいナリ。

 そんなタメ息に応えたかのように、「松岡正剛の本棚」が出た。これは、松丸本舗の写真集ともいうべきMOOKで、可能なかぎり書影が識別できるようになっている。「ただ本が並んでいる」ような画像ではダメなのだ。書棚の「並び」が命の写真集なのだから、書名ができるだけ鮮明に見えるように、仕掛けが施されている。

 すなわち、棚2~3段ごとに撮影した写真を「貼り合せて」構成している。棚の全景を一枚の画像として撮ったものではないのだ。そのため、よーく見ると画像がズレている部分がある。あたりまえだ。松丸の本棚は「平面」ではなく、でっぱっていたりへこんでいたりしている。さらに曲面構造の本棚もある。そんな凸凹を、一枚の平面に写し取れるわけがない。おかげで、一冊一冊の並びがクッキリと見える。どういう"意図"でこれらの本を並べたのか、想像するだに愉しくなる。一見して不明なのは、ちゃんとト書きが記されている。

 松岡正剛は言う、「たった一冊で人の人生は変えられる。世界も入る。そういう本のあり方を一人でも多くの人に伝えたい」。この思いは、棚の前に立つと分かる。大きいか小さいかは分からないが、わたしの人生を一変させてしまうようなスゴ本は、この棚のなかにある。そう確信させる本力があるんだ。

 究極の本棚を、ご覧あれ。

 【お知らせ】 スゴ本オフ@松丸本舗をやります

 いつもの「Book Talk Cafe」でやってる発表会形式ではなく、松丸本舗の本棚をいっしょに眺め、「これはスゴい」とヒソヒソ声でオススメしあいます。ふつう、本屋は一人で黙々とハンティングするもの―――この常識をくつがえし、一緒に棚を観察しましょう。その棚のどこに着眼し、どう目線をすべらせていくかを、お互いにコメントしあいましょう。もちろん、他のお客さまの迷惑にならないよう、極力気ィ使います。「コレハ!」というのを見つけたら、買いでしょう。来た!見た!買った!でいきましょう。

 日時 8/7 10時ごろ~夕方までの、お好きな時にどうぞ
 場所 松丸本舗([URL] (丸善丸の内本店4F)

 特に受付とかありません。店内を終日ウロウロしているわたしを見つけて、声をかけてください。一緒にウロウロしましょう。このオフ会は開始も終了もありません。あなたが「こんにちは」と言うときがスタートで、「さようなら」と言うときがエンドです。好きなときにきて、飽いたらお帰りは自由です(本屋ですもの)。U-Stream も Twitter もなしで、ユル~くやっています。ビールが恋しくなる時刻まで居座っているので、赤いウェストバックをしているオッサンを探してください。

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読書の夏で20冊、夏をテーマに選んでみた

 爽やかな田舎の風景だとか、ひと夏の恋や冒険、心胆凍る恐怖夜話など、夏を感じる、夏を味わう作品を選んだ。読むとアツくなるやつも混ざっているのでご注意を。

よつばと まず、夏といえば夏休み。だから「よつばと!」(あずまきよひこ)。学生じゃない身分になって幾年月。子どもが、「もうすぐ夏休みだー」などと指折り数えていると、「チッ」と舌打ちのひとつもしたくなるもの。あれだけ沢山の入道雲を眺め、あれだけ沢山のセミとりをしたにもかかわらず、キラキラとした思い出は欠片ぐらいしか残っていない。それを1000倍ぐらい拡大したのがこれ。天真爛漫の「よつば」が、周りを巻き込む無茶ぶりに、文字どおりハラ抱えて笑う。と同時に、帯のキャッチコピー「いつでも今日が、いちばん楽しい日」が胸をアツくする。夏休みを生きなおすような気分になる傑作。

Air 次に、夏といえば観鈴ちん(異論却下)。だから「Air」(桂遊生丸)。ゲームのみならず、TVアニメ、映画と、何度も彼女の死に立ち会ってきた。「ふつう」にあこがれる女子高生と、偶然出会った旅人がくり返す、田舎の夏の物語。微妙に違えども、ラストで彼女は必ず、「もうゴールしてもいいよね?」と訊いてくる。その度にひるんだり涙にむせたりさせられる。くり返される「ゴール」の果てに、異なるラストに出会う。それが、このコミック版「Air」。空の少女にとらわれていたのは、実はわたしだったのかもしれない。ゲームをプレイしたとき、彼女が助かるエンディングがあるに違いないと、必死になって探したのだから。

涼宮ハルヒの暴走 ループする夏といえば、定番テーマかもしれない。だれだって「この夏休みがずっと終わらなければいいのに」と願っただろうから。「CROSS†CHANNEL」とか「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」あたりが有名どころ。極端なのは、「涼宮ハルヒの暴走」(谷川流)だろう。無意識に実現してしまうのが涼宮ハルカならぬハルヒなのだから。夏休みの最後の数日間を、何万回とくり返す。もちろん読み手は物語の外側なのだから、ずっと志村後ろ状態にさせられる。プールだ映画だセミとりだとかいった、「夏の日常」の中にデジャヴ感が混ざっていく。この感覚はアニメの「エンドレス・エイト」でうんざりするほど疑似体験できるぞ。

ハローサマー、グッドバイ 「ハローサマー、グッドバイ」(マイクル・コーニイ)は、少年のひと夏の恋物語―――だと思っていたら、きっとのけぞる。SFなんて科学調味料で味付けしたファンタジーにすぎないなんて思ってると、間違いなく驚く。これはSFでないと書けないし、その強烈な証拠をラストで明かすのは上手い/美味い。後半の急転直下は驚きの連続だし、最後の最後のドンデンは、一本背負いのように決まる。全て少年の独白で進められるため、読み手も同じ情報の制限を受けることになる。このもどかしさと息苦しさは彼の青春そのもの。最初は、少年と少女の夏の冒険だったのに。そして、あばかれる人性の残酷さと、一変した風景とのコントラストが、まぶしい。

夏への扉 そろそろ定番、「夏への扉」(ハインライン)を推したいのだが、読中感は、むしろ冬。「夏」っぽかったのは、ヌーディストビーチのワンシーンかな。騙され、虐げられた主人公の印象が強かったからだろうか。タイムマシンで行き来する、いわゆる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」もので、いまでも色あせない。描かれた時代は1970年で、30年先の2000年に「跳ぶ」のだが、もうミレニアムから10年経っているんだね……そっちのほうが感慨深い。お掃除ロボットは「ルンバ」、外部記憶デバイスは「SDカード」と、実現された「未来」もある一方で、タイムマシンはまだだろうか。新訳が出ているようなので、この機会に再読してみようか(でも表紙は、あの猫のやつが好き)。

夏のロケット 「夏といえばロケット」だと言ったのは、レイ・ブラッドベリ(ホントはロケットの噴射が引き起こす「つかの間の夏」なんだけど)。でもこのおかげで、むくむくと立ち上る入道雲を見るたびに、あれはロケットが噴出したやつだと妄想するようになった。「夏のロケット」(川端裕人)は、高校の同級生が集まって、ロケットを作って宇宙まで飛ばしてしまおうとする「青春小説」なのだが、そこへ至るまでのウヨキョクセツとトラブルの数々がすごく良い。壁に乗り上げ乗り越えてゆく彼らを見ているうち、いつのまにやら登場人物の誰かに感情移入している自分に気が付くだろう。ラストの打ち上げは、ジンとくるに違いない。読者をここまで連れてくる筆力はスゴいと思う。

なつのロケット これに触発されたのが、マンガ「なつのロケット」(あさりよしとお)。「夏の…」はリーマンだが、ここでは、なんと小学生がロケットを作る話。ロケットを飛ばす動機は違えども、その情熱は一緒。危いと言って子どもから夢を取り上げるのは、いつだって親なんだな。でもわたしはもう、その「親」をやる方になっているので、正直微妙な気持ちで読まされる。それでも、ラストの日暮れ時、「成功していたら衛星は今どこを飛んでる!?」「この辺を飛んでたら見えるかも……」の次の一コマは、鮮やかな感動を呼ぶ。そう、宇宙はいつだって「今、真上」にあるもの。ロケットを見るとき、視線はいつも空に向いている。夏になると空を見たくなるのは、そのせいかも。

潮騒 王道なのが「潮騒」(三島由紀夫)だ。夏と言えば海、海と言えば恋を徹底的に正面から描いた純愛小説。情景の美しさや、初々しい(でも秘めたる)恋愛感情が、いまとなってはまぶしい。これは読んだときの年齢も重要かも。ちょうど主人公と同じ年頃(ティーン?)に読んだなら、一生こころに残るだろう。ギリシアの散文詩「ダフニスとクロエ」から想を得たとか、ミシマ文学ぽくないとか薀蓄述べたり考え込む「前」に読めたわたしは幸せ者。若いときに読んでおくと、読んだことが思い出になる小説といってもいい。オトナになって汚れてしまったわたしにはどう映えるだろうか?も一度読んでみる。

蝉しぐれ 強烈な夏の情景を思い起こさせるのが、「蝉しぐれ」(藤沢周平)。これは、時代小説であり、恋愛小説であり、ビルドゥングスロマンであり、ミステリの要素も持っている。少年の成長をタテ軸に、幼なじみとの淡い恋、お家騒動の陰謀と悲運が絡みついている。詰め腹を切らされた父親の死骸を、大八車に乗せてもって帰ってくるシーンが強烈だ。真夏の炎天下、ただ一人、大汗をかきながら、大八車を引いていく姿は、ぐっとなる。父と子、男と女の「伝えられなかった想い」に身もだえするようなせつなさを感じる。そう、これは泣ける小説でもあるんだ。

異人たちとの夏 読むと夏を思い出すのに、「異人たちとの夏」(山田太一)を推したい。タイトルにずばり「夏」が入っているだけでなく、まさに真夏の夜の夢のようなお話だから。とうの昔に他界した両親と、ふたたび出会った男の話なのだが、もう一つ奇妙な"ひねり"が入っている。その両親は、死んだ頃そのままなのだ。だから、その夫婦の中では時間が経過していないにもかかわらず、主人公(その両親の息子だ)の経験を共有している。異界との交流といった魍魎譚にしてもいいが、これが丸ごと主人公の記憶の改変話にとると、一層こわくなる。こわくて、切ないお話。

夏の庭 泣ける夏本といえば、「夏の庭」(湯本香樹実)だろう。好奇心旺盛な少年たちが、「人が死ぬところを見てみたい」がために、近所の"おじいさん"を観察しはじめる。"おじいさん"との交流を通じ、すこし大人に近づく少年たちを描いた児童文学。つかみはS.キングの「スタンド・バイ・ミー」なのでオマージュかと思いきや、やっぱりオマージュですな(展開は全く違うけれど)。夏は死の季節だ、ばらばらになったセミの死骸を見たり、なにかが腐っていく臭いを感じると、死を思わずにはいられない。だが、「死」はそこらじゅうにあるかもしれないが、「別れ」は親しいものとしか起きえない。人は出会うから別れるのだということを、あらためて思い起こさせる。

スタンド・バイ・ミー オマージュが出たので本家の「スタンド・バイ・ミー」(S.キング)を。やはり少年たちが「死体を見に行く」プロットなのだが、さわやかな青春物語をキング特有の生々しさが覆っている。たった数日の冒険が、少年たちを「一皮むける」存在にする。ふりかえってみると、そんなにとんでもない出来事ではない。そりゃ、ちょっとした困難や、死ぬかもしれないと思うほどおびえることがあったかもしれない。それでも、自分の殻を破るきっかけになるし、確かな友情とそうでないものを見分けるにも充分だ。本作は映画も良くできており、「人生に二度観るべき映画」なのだそうな。一度目は少年時代、次は大人になってから。

隣の家の少女 さわやかな気分をドン底に突き落とすような「隣の家の少女」(ジャック・ケッチャム)をどうぞ。虐待・監禁・陵辱を扱った劇薬小説で、ふつうの人は読んではいけない。しかし、これも「ひと夏の恋物語」と読めてしまうのが憎い。淡い恋で済めばよいのだが、少女の様子が変だ。どうやら虐待されているらしい……現代のように家庭内暴力が認知されている時代ではない。なんとか彼女を救おうとするのだが―――ははッ、ケッチャムがヒーロー物語を書くわけないじゃない、彼は"目撃者"になるのだ。そして、観たことを一生後悔するのだから。これは、「読むレイプ」、ふつうの人がうっかり読むと、一生後悔するかもしれない。

夏の葬列 読んだことを後悔する小説つながりとして、「夏の葬列」(山川方夫)を挙げたい。これは、恐ろしいことに、中学の国語の教科書に収録されていたやつで、一言であらわすなら「鬱小説」。戦争で子どもが殺されてしまうお話で、「戦争の悲惨さ」を訴えるのに重要なのだという主張が聞こえてきそうだが、ポイントは「戦争の悲惨さ」ではないところ。なんでもない短編なのに、ファイナルストライクが非道い。主人公と読み手を打ち倒すような運命が、ちょうど最悪なタイミングでのしかかってくる。身勝手な行動の代償は、あまりにも大きすぎたのかも。

夏の滴 劇薬つながりでもう一つ、「夏の滴」(桐生祐狩)はエグい。インモラルな小説は沢山読んできたが、ふつうの、少年のひと夏の冒険譚なのかと思いきや、予想外どころか場外を越えてトンでもないところまで連れて行かされる。ジュヴナイルのつもりで手にした人は―――間違いなく気分が悪くなるだろう。リアルな「障がい者いじめ」とその結末が恐ろしいし、母子相姦をくり返した挙句、「死んでもだいじょうぶ、またお母さんがあなたを産んであげるから」と言わしめる設定におののく。瑞々しさと生々しさとグロテスクな描写が混在しており、どこか狂っているとしかおもえない。そしてその狂気は強烈な暑気がなせる業なのかもしれない……そう思わせるホラー。

殺人鬼 ではホラー(というかスプラッタ)の傑作「殺人鬼」(綾辻行人)の出番だ。夏といえばサマーキャンプ、サマーキャンプといえばブギーマンという「13日の金曜日」設定は、いまじゃ流行らないか。楽しいはずのキャンプが、突然現れた殺人鬼によって、阿鼻叫喚の地獄と化す。手足切断、眼球えぐり出し、首チョンパ、これでもかこれでもかと残虐シーンてんこ盛り。あまりの悲惨さに、おもわずページから顔を背ける。でも読んでしまった光景は、いつまでも脳内再生されてしまう。そして、本作がただの「読むスプラッタ」に留まらないのは、でかい罠が一つ隠されているところ。ラストで明かされる殺人鬼の正体に、読み手はのけぞること請け合い。

ひぐらしのなく頃に 準備が揃ったところで「ひぐらしのなく頃に」(竜騎士07)を出すのが定番だな。これはアニメで体験したのだが、和製ホラー+猟奇のオンパレード、血と暴力に満ち満ちている。陰惨!凄惨!阿鼻叫喚で、残酷!桎梏!嘘八百、救いのない袋小路をずーーーっとグルグルさせられる。こわさのあまり狂ってしまったほうが楽になるかもしれん、初めて途中で観るのをやめようと思わしめる作品だった。幸か不幸か、一緒につきあってくれたのは嫁さんで、こわいもの見たさで次へ、次へと進めていく。物語の全貌が見えても救われたことにならず、そこから解決のための行動にもどかしい思いをすること二度三度。分かった後でも、思わず「嘘だッ!!」と叫びたくなる。

屍鬼 夏で田舎でホラーといえば、「屍鬼」(小野不由美)を忘れるなかれ。これも、S.キング「呪われた町」のオマージュなのだが、輪をかけてこわい。田舎の共同体の息苦しさと閉塞感が見事にあらわされており、帯のコピー「完全無欠、逃げ場なし」はホンモノ。村総出で人狩りをし、死骸を積み上げるワンシーンは、のどかな刈り入れの場面とオーバーラップして、読んでるこっちにまで狂気が感染する。ただし、ボリュームありすぎなので、いまやってるアニメから入っても良いかも。あの「厚さ」にはちゃんと理由があるのだろう。単に吸血鬼の話といえば、それこそ短編でだって書ける。そうではなく、あの村全体に広がった狂気を書き尽くすために、それぞれの立場でかかわる登場人物たちを丹念に描写していたんだと思う。

百物語 魍魎の類を描いた漫画では、「百物語」(杉浦日向子)がいい。これは、スゴ本オフ(夏)でオススメされたやつで、心をざわめかせる、夜中に独りのときに思い出しそうな話ばかり。江戸時代を舞台に、首がころりと落ちた話だとか、自分じゃない自分に悩まされる男の話、背中に毛の生えた赤子の化け物といった奇譚が、九十九話おさめられている。「百物語」と銘打っておきながら、九十九話で寸止めしているのには意味がある。百話語ると、怪異がホンモノになるからね。だから、最終話は自分で語り出してみよう。「地獄に呑まれた話」「魂呼びの話」「嫌うもの」あたりが、恐ろしく、イヤ~な話だった。

夏の花 ラストは、「夏の花」(原民喜)を。夏の花とは、原子爆弾の比喩。文字どおり、八月の広島上空に咲いた大型爆弾がもたらす運命を、一人称、三人称の視点を重ねながら描いている。カメラでいう「引いた」状況は三人称、クローズアップは一人称の章で綿密に書いている。女の、「灌木の側にだらりと投げ出した豊かな肢体」だとか、「男であるのか、女であるのか、殆ど区別も付かないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上がって、したがって眼は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ…」など、見てきたような生々しさは、実際に作者が体験した状況だから。スゴ本オフ(夏)でもらった一冊なのだが、かつて幾度となく読んでいたことに気づかされる。にもかかわらず、毎年夏になると、本書を読み返すことになるだろう。

 一気に紹介したが、まだまだ沢山ありますな。夏のイメージは「死」。強烈な光線にさらされた生の(性の、晴の、盛の)躍動が、死のイメージをネガポジのようにあぶりだしている。お盆や飛行機事故、原爆といった死のイメージが、わたしのどこかに植え付けられているのかもしれない。バタバタ死人が出たり、大きな事故があるのは、夏になると、草葉の陰から手まねきされているからかしら。

 抜けているテーマもいくつか。例えば、「夏といえば甲子園」あたりが抜けていたね。コメント欄で熱すぎるスポ魂「逆境ナイン」(島本和彦)をオススメいただいているが、これは傑作ナリ。わたしなら、「夏=死の季節」と重ねて、やっぱり「タッチ」(あだち充)を挙げておきたい。あと、「八日目の蝉」(角田光代)が良いという噂を聞くが、未読なので今回は紹介を見送った。おいおい充実させていこう。最近出たやつだと、ホラーアンソロジー「八月の暑さのなかで」が楽しみ。なんたって読み巧者の金原瑞人が集めたやつだから。

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「生活目線でがんを語る会」に参加しました

 本を読む目的が、他人の知識・経験を共有することであれば、会って話すのが一番いい。ダイレクトに反応を確かめつつ、つながるから。会って話せないから、手紙になり、本になる。今回は、どんな本を読むよりも、実際の体験を直接聞けるという、非常に貴重な会に参加できた。そして、アタマガツンとやられた。

 がんと生きている人、がんと生きていた人の話をうかがった、「生活目線でがんを語る会」だ。

 最新医療の勉強会ではない。がんになることは、生活を人生をどのように変えてしまうのか、百人百様の生きざまを教えてもらった。U-StreamとTwitterで実況され、アーカイブされた先は、ここにある。わたしのように、「ピンとこない奴」には衝撃的かもしれない。

 まとめると、ここで受け取った最重要のメッセージは一つ、ここで決めた次の行動は一つある。一つのメッセージとは、「患者になったらできることは限られているが、患者になる前は、なんでもできる」こと。そして、ここで即決した一つのアクションは嫁さんに定期健診を受けてもらうこと

 いままで、素朴にも、がんになるということは、イコール「余命はもって3ヶ月です」と思っていた。がんは治らない病、告知されることで、そのまま100パーセント助からないのもだと、無邪気にも信じ込んでいた。映画や小説をドラマティックにするためのステレオタイプに染まっていたのね。

 しかし、がんを「なおす」ことができることが分かった。「なおす」は微妙な言い方なので、早期発見と適切な治療により、「おさえこむ」ことができる。がんになるイコール100パーセント助からない、というわけではないのだ。Surviver たちの直接のことばに、自分の思い込みが打ち砕かれる。

 もちろん、そうじゃない場合もある。あたりまえだ、人の体が様々なように、症状も療法も万別だろう。にもかかわらず、その極端な一例でもって全てがそうだと判断し、議論していくことがいかにムダでばかげているかが、よっく分かった。自分のときには、「そのときの自分」の状態を踏まえ、何ができるか(したいか)考え、信頼できる専門家に任せればよい。がんになったら、やれることは限られてくるのだから。がんになってから、やることが限られてくるまでの時間は、想像を絶するほど早くやってくる。残酷なまでに早い段階で、やれることがなくなっていくのだ。

 その一方で、がんになる前の今のわたしなら、何でもできる。なったときに後悔しないための生活、愛情、仕事、その他やりたいことを、いま、今日のこの瞬間のうちに取りかかるのだ。そして、人生のどこかで「がんになる」ことを前提に、どの段階で見つけるかを想定して行動する。具体的には定期健診を受けることになる。わたしには会社のやつがあるが、嫁さんにはない。そう、嫁さんに受けてもらうのだ。

 ……と、勢い込んで激しく語ったら、嫁さんはアスカの「あんたバカぁ?」的な言い方で、「はぁ?」と応える。かかりつけのお医者さんに毎年検診してもらっているとのこと。予防の一オンスは治療の一ポンドに優るというけれど、よっぽど嫁さんの方が実践しているね。知らなかったわたしが阿呆や。

 この会に参加してよかった。いっぺんに目ぇ覚めた気がする。登壇した方々そして主催のやすゆきさん、U-Stream の大木さん、スタッフの方々に感謝します、ありがとうございます。ふんふんと聞くだけではなく、受け取ったメッセージを、自分の生活ひいては人生に具体的に適用していく気に、強くなったから。

 それから、Twitter実況+U-Stream があったのだが、こんな"つぶやき"があった。

     Ust 見るたび、「他人事」が減ってくる
     マスメディアの「客観性」て、「他人事」の意味だもんね

 激しく同意。マスメディアの「客観的な」お涙頂戴ストーリーに載せられていたなら、絶対にたどりつけない心境だから。他人事じゃない、自分事としてのがんライフを生きる。

 最後に。わたしのメモからいくつかピックアップ。

  • がんは、「飛び散る」病気
  • ただでさえ見つけにくい乳がんが見つけられたことは、ラッキーだ。しかも早期に手術できたことは、もっとラッキー
  • がん患者は、常に3つの不安にさらされる。①個人の不安「死ぬかもしれない」、②医療の不安「自分がどんな治療を受けているか、分からない」、③社会復帰できるか不安
  • がんは、「死ぬまで」つきあっていく病気
  • がんになった母に、「どこに何がしまってあるか」を尋ねるということは、すなわち、おまえはもうすぐ死ぬのだということを暗に伝えていることになる。だから、聞けない
  • 病気だからといって亡くなるんじゃない。腫れ物に触るような扱いはされたくない。ただしこれは、人それぞれで、自分の場合は適度に放ったらかしにしてくれた
  • 「がんばれ」という言葉の重さ。頑張っていないわけじゃないのに、「がんばれ」と言われる意味を考える

 Twitter のまとめは、以下の通り。お話とメモに夢中で、ほとんど目をやっていなかったが、Twitter の発言とあわせると、より立体的に思い出せる。U-Stream + Twitter + 自分のノートは、いつでも手が届くところに置いておこう。

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がんを考える、自分事として、「カシオペアの丘で」

 人間の死亡率は100パーセント。そして、その可能性が最も高いのは、がんになる。

 わたしががんになったら、何が起こるのか。具体的な症状や療法よりもむしろ、わたし自身がどう受けとめ、家族にどんな影響を与えるのか。この小説を読みながら、嫌が応でも主人公とわたしを重ね合わせる。

カシオペアの丘で(上)カシオペアの丘で(下)

 重松清は初めてなのだが、上手いな、この人と思わせるのは、単純な闘病記や家族ドラマに留めなかったところ。読者へのサービス精神なのか、フィクションのチカラを利用して、殺人事件やミステリ要素を盛り込んでおり、ページを繰る手を休ませない。要所要所でグッとくる仕掛けもよくできており、伏線回収の情景もドラマチックだ。「きこえ」は悪いがエンタメ的なり。

 しかし、主旋律はしっかりとしている。40歳、仕事もあれば、家庭もある男。まんま、わたしにあてはまる。レントゲン検診で「要再調査」となり、精密検査でかなり進行していることを告知される。否定や怒りを経て、受容までの各段階や、家族の反応、封印された「思い出」への再訪、そして自分自身をゆるすこと―――人生の残された時間をいかに過ごすか。早すぎるがんの進行にあわせた展開のテンポが絶妙で、こころにくいほど。

 彼の反応は、わたしのものだ。うっかり同化して、思わず涙ぐむ。めちゃくちゃぐちゃぐちゃにされるのは、わが子へどう伝えるか。主人公は、小学四年生の一人息子がいる。「死」はもうわかる年頃だ。パパの楽しい思い出を残すだけで、ホントのことを言わずに死んでいくか、それとも、ありのままを伝え、きちんと「別れ」を告げるか、彼の煩悶はそのまま、わたしを身悶えさせる。タイトルでもある「カシオペアの丘で」、彼が、息子に、伝えた言葉のひとつひとつが、わたしの胸を撃つ。わたしの胸に刻み込まれるような読書になる。

 わたしなら、どうする?

 自分がもうすぐ死んでしまうことよりも、自分が愛する人に悲しくて悔しい思いをさせてしまうことが、悲しくて悔しい―――彼の嗚咽はわたしのものだ。本のドラマが終わったあと、わたしができることは、この思いを予約しておくこと。死は避けられないし、がんになるかも分からない。であれば、そうなってあらためてイチから考えはじめるのではなく、いま、ここで、この感情をリザーブしておくこと。その思いを抱えながら、きょうを生きること。子どもには、死の教育を施しておくこと。

  子どもに死を教える3冊
  子どもに死を教える4冊目
  がんを覚悟する生き方

 痛勤電車が読書タイムであるわたしには、かなり辛い読書になった。周りの人はさぞかし気味悪かっただろう。平日朝から嗚咽こらえるオッサンはどう見ても変態だ。なので、これから読む人は、必ず独りで読むように。

 それから、わたし自身への気づきを得るため、「生活目線でがんを語る会」に参画する。7/23 六本木で行われる会合で、身近な病としてのがんについて体験者のお話を聞く。募集は既に締め切っているが、U-Streamで視聴可能だ(19:30~)。

  「生活目線でがんを語る会」 U-Stream
  「生活目線でがんを語る会」 Twitter (ハッシュタグは #ganlife )

 他人事ではなく、自分事として、がんを考える。

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「夏を感じる」スゴ本オフ

 第3回スゴ本オフの話。

 7/16に麹町でオフ会をする。会場を貸していただいているKDDIコミュニケーションズ様、やすゆきさん、大木さん、ずばぴたさん、ともこさん、ありがとうございます。「オススメ本を持ち寄って、まったりアツく語り合う」コンセプトで始めたオフ会だ。わたし単品だったらゼッタイ無理だったこの企画も、はや3度目。どんだけ感謝してもし足りない。

 で、ヤる度にびしびし感じるのだが、本読んでないね、わたし。読んでないというより、ハナっから知らない。知らない本がザクザク出てくる。ふつう、ほとんどの本は知らないだろう常識的に考えて―――というツッコミごもっとも。でも、そうじゃないのだ。自分の好きな範囲なら、たとえ未読であっても、「少なくともタイトル/作者は聞いたことがある本」だろう。だが、自分の観測範囲ですら知らない本がたくさん出てくるのだ。つまり、目に入っていながら見てすらいない。

 それが、「このテーマならコレ!」という形でプッシュされる。あるいは、プレゼン時に、「ソレが良いならコレなんてどお?」なんて提案される。今回のテーマは「夏」、その戦利品としてコレクトされた本は、以下の通り。

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  • 【Dain】 よつばと!/あずまきよひこ/アスキー・メディアワークス
  • 【Dain】 欲望という名の電車/テネシー・ウィリアムズ/新潮文庫
  • 【Dain】 Air/桂遊生丸/カドカワコミックエース
  • 【Dain】 蝉しぐれ/藤沢周平/文春文庫
  • 【チャーリー】 青が散る/宮本輝/文春文庫
  • 【サンペーリ】 WORLD WAR Z/マックス・ブルックス/文藝春秋
  • 【サンペーリ】 えんにち(こどものとも傑作選)/五十嵐豊子/福音館
  • 【ユースケ】 パイの物語/ヤン・マーテル/竹書房
  • 【ユースケ】 姑獲鳥の夏/京極夏彦/講談社文庫
  • 【マチノ】 初秋/ロバート・B・パーカー/ハヤカワ・ミステリ文庫
  • 【清太郎】 庭のつるばら/庄野潤三/新潮文庫
  • 【清太郎】 しずかな日々/椰月美智子/講談社文庫
  • 【ケンタロー】 城崎にて・小僧の神様/志賀直哉/新潮文庫
  • 【春子】 百物語/杉浦日向子/新潮社
  • 【春子】 オフシーズン/ジャック・ケッチャム/扶桑社ミステリー
  • 【春子】 墜落遺体/飯塚訓/講談社プラスアルファ文庫
  • 【点子】 午後の曳航/三島由紀夫/新潮文庫
  • 【点子】 高丘親王航海記/渋澤龍彦/文春文庫
  • 【点子】 DIVE!!/森絵都/角川文庫
  • 【ぽかり】 鉄塔武蔵野線/銀林みのる/新潮文庫
  • 【???】 夏と花火と私の死体/乙一/集英社文庫
  • 【たなべ】 スティル・ライフ/池澤夏樹/中公文庫
  • 【うすい】 夏の花/原民喜/集英社文庫
  • 【うすい】 ナツノクモ/篠房六郎/IKKI COMICS
  • 【おぎじゅん】 悲しみよこんにちは/フランソワーズ・サガン/新潮文庫
  • 【ばん】 あまんちゅ!/天野こずえ/BLADE COMICS
  • 【ばん】 サマーバレンタイン/唯川恵/幻冬舎文庫
  • 【はやしだ】 はじめての - ひと夏の経験-/久保田裕子/伊藤隼也/英知出版
  • 【マツモト】 ロストハウス/大島弓子/白泉社文庫
  • 【モギー】 素晴らしきラジオ体操/高橋秀実/小学館文庫
  • 【モギー】 バシズム/日本橋ヨヲコ/講談社ヤングマガジンKC
  • 【モギー】 海を抱く/村山由佳/集英社文庫
  • 【ともこ】 海街diary 1 蝉時雨のやむ頃/吉田秋生/小学館
  • 【ともこ】 夕凪の街 桜の国/こうの史代/双葉文庫
  • 【ずばぴた】 サウスバウンド/奥田英朗/角川書店
  • 【ずばぴた】 冒険者たち/斎藤敦夫/岩波少年文庫
  • 【やすゆき】 蝿の王/ゴールディング/新潮文庫

 夏本なので、さわやかなーとか暑苦しいーとかホラーな話になるかと思いきや、「死」のネタに反応する。夏といえば生命力あふれる季節である分、むしろ「死」がコントラストされるのだろうか。お盆とか、原爆とか、終戦記念日とか、御巣鷹山とか、夏と死を結びつける話になる。飯塚訓「墜落遺体」や、志賀直哉の「城崎にて」、原民喜「夏の花」、こうの史代「夕凪の街 桜の国」について話していくうち、生きているというこの事実は、実は偶然にすぎないことに気づかされる。夏とは、偶然に生きた自分と、偶然に死んだ誰かを思いやる季節なのだろうか。

 知っているけど手を出していないという本もいっぱい。単なる食わず嫌いか、いまの積読本に押しだされている作品がある。たとえば、天野こずえ「あまんちゅ!」とか吉田秋生「海街diary」とか。そいつを、「コレはスゴいぞ」と目ぇキラキラさせながらプッシュされると→「読みます、読めば、読もう」となる。面と向かって人からオススメされた本は、優先順位が上がる傾向になる。次にあったとき「面白かった」or「それならコイツをオススメだ」を言いたいから。

 読書とは、独りぼっちで書き手と向かい合う行為だと思っていたが、こんなに仲間がいるなんて!「それがスゴいなら、コレなんてどう?」「あの人がオススメするなら読んでみよう」と、読書は「つながり」で増えていく。そのリアルが共有できて、楽しすぎる場ですな。恋バナならぬ本バナが、こんなにも楽しいなんて!「読書会」というと有志のクローズドな雰囲気だけど、ネットを上手くつかってオープンにしているところが、スゴ本オフの特徴。といってもこれは、やすゆきさんと、ずばぴたさん、大木さんのおかげ。ありがとうございます。この楽しさをおすそ分け、Twitterの発言をずばぴたさんがまとめたものをどぞ→「第3回スゴ本オフ・ Book Talk Cafe 夏篇まとめ」

 これまでのオフ会は以下の通り。

 スゴ本オフ(SF編)
 スゴ本オフ(恋愛編)

 次回は8/27、お題は「ポップ」、場所は変わって、BEAMS原宿店でヤります。受け付けは、あらためて告知しますので、楽しみにしてお待ちください。

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熱帯夜にふさわしい「欲望という名の電車」

欲望という名の電車 ピューリッツァー賞を受賞した、生々しい戯曲。夏の深夜にふさわしい。

 「欲望」という名の電車に乗って、「墓場」という名の電車に乗り換えて、彼女が行き着いた先は、むきだしの「現実」という名の地獄だったのかもしれん。なすすべもなく堕ちてゆき、こぼれ落ちる富と過去を必死になってかき集め、ガラスのように繊細な幻影を張り巡らせているヒロイン・ブランチは、痛々しいを超えて恐ろしい。なぜならそこに、わたし自身を見るから。

 とりわけ、妹のダンナ・スタンリーとの会話は、緊張でピリピリする。性的な手の内を隠そうとするブランチと、動物的なまでに率直に「生」剥きだしのスタンリーとの掛け合いは、読んでるこっちが苦しくなる。「セールスマンの死」(レビュー)もそうだったけど、テネシー・ウィリアムズはこういうの天才だね。

 没落する地主階級と勃興する労働者階級、過去に生きる女と今を謳歌する男、ブランチとスタンリーの対立は、あっちこっちで感情のテンションをつり上げる。息が詰まりそうな濃密な空気のなか、手で触れられそうな張り詰めた空間は、寝苦しい熱帯夜そのもの。口を開いたら、重くて湿った空気が流れ込んでくるみたい。

スタンリー   女に向かってきれいだのどうのってお世辞を言うことさ。人に言われなきゃあ自分がきれいかどうかわからんような女には、まだお目にかかったことがないね、おれは。実際以上にしょってる女ならいるがね。昔つきあってた女の子で、しょっちゅう「あたしグラマーでしょ、グラマーでしょ」って言うのがいた、おれは言ってやったよ、「だからどうなんだ?」ってね。
ブランチ   そしたら、その人、なんて?
スタンリー   なんにも。はまぐりみたいに口をつぐんじまったよ。
ブランチ   それでお二人のロマンスは終わったの?
スタンリー   それで二人のおしゃべりが終わった、それだけのことさ。そういうハリウッド型グラマーに迷うやつもいるが、迷わない男だっているんだ。
 さらに、彼女の過去があばかれていく過程でヒヤッとさせられる。開けた窓からひとすじの風が流れ込んでくるかのよう。彼女がオブラートで包もうが誤魔化そうが、スタンリーは容赦しない。自分を見下す女を野卑に扱うことで、徹底的に満足感を得ようとする。彼の試みが成功するとき、ぎりぎりまで張り詰めた物語のテンションは、読み手の緊張感とともにブツリと放たれる。そして、まっすぐな矢のように、読者の心に向かって飛んでくるだろう、彼女の悲鳴とともに。

 美化した過去でもって眼前の現実から自分を守ろうとするのは、弱いから?その弱さを暴きたて、背けた目にリアルを突きつけるのは暴力なのか?「セールスマンの死」と、同じテーマ、同じ狂気が伝わってくる。彼女がしたことは異常かもしれないが、彼女は異常ではない。これ気づくとき、まさに同じ狂気を内なる自分に見出してぞっとするのだ。

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amazonより書店、書店より図書館の方が優れているもの

 それは本へのアクセシビリティ。本を手にするハードルを低い順に並べると、次の通り。

  1. 図書館
  2. 書店
  3. amazon

 図書館がいちばん簡単だ。そこに実物があるし、興味があれば手にとって傍らの椅子に座って読めばいい。時間がなければ片端から借り出してしまえばいい。コストゼロで、「その本に集中する時間」が、純粋に投資となる。どんな本が読まれているかは、張り紙や図書館のウェブサイトで確認できる。そこで、流行りのベストセラーとは別に、長く読まれている隠れた名著を見つけるかもしれない。

 次は書店。「フリー戦略」なんてカコイイ用語があるみたいだが、あにはからんや、本屋は昔から実戦してきたよね、「立ち読み」で。小奇麗にパッキングして、試し読みも置かないような本屋は、その戦略を捨てているといえる。ただし、誘惑に気をつけなければならない。「レジに持っていくまで騙せたら勝ち」なんてやつだ。Popやレイアウト、パッケージや帯のキャッチーに騙されることしばしばで、元をとらねばと気負うと、お金のみならず時間のムダになる。

 最もハードルが高いのは、実はamazonなどのネットショップだったりする。なんせ「実物」がないうえに、画面上の"情報"だけで決めなければならない。おまけに手にとって見るためには、購入しなければならない。写真と違うとゴネてチェンジできる風俗店よりも、よっぽどチャレンジャーだ。沢山の本の"情報"があふれているにもかかわらず―――むしろ、だからこそ―――実際の本へのハードルが高くなっている。

 本の断片的な"情報"をすくいとって、「読んだ」ということにしたいのなら、ネットだけでいい。電子書籍という流行がこれを加速するのであれば、断片的な情報があたかも本の属性のように流通されるだろう。それで出版界が壊滅するかのような予言者がいるが、本当だろうか。断片ででしか消費されないような"情報"なら、なにも最初から本になるようなものではなかったということ。そういう本の「属性」を束ねて印刷して売りさばくような「本」が淘汰されるのは、むしろ喜ばしいことだろう(もっとも、そういう本は遅かれ早かれ消えるだろうが)。

 もちろんこれらはコインの表裏で、アクセシビリティの高さは、スピードとトレードオフになる。図書館で気軽に、新刊本が借りられるワケではない。さらに書店員などの読み巧者のアドバイスが沢山もらえるべくもない。

 そこで、わたしのやり方を提案。ネットで集めた"情報"を元に、図書館で借りるのだ。懐は痛まない上に、ネットの"情報"の確度を洗練させることができる。つまりこうだ、信頼できる"情報"を元に、わたし好みorわたしが知らないスゴ本が提示されたとき、図書館へ予約する。

   新刊・文芸 : 悪漢と密偵
   学術・教養 : 読書猿
   文学・批評 : epiの十年十冊
   本の流行 : ガブのホントは教えたくない売れる"本"の秘密

 「悪漢と密偵」は、うれしい。店頭にもamazonにも並んでいない本が、いつ出るか分かる。各出版社のサイトにも「新刊案内」といったものはあるが、その出版社に限定されている。それらを束ねたここは、まとめのまとめといえる。書名、著者、出版社、簡単な紹介文でアタリを取り、よさそうなものは片端から図書館へリクエストする。ほとんどの本は購入してくれ、なおかつ誰よりも早く手にできるだろう。それを読んだうえで(あるいは読まなかったうえで)、買う買わないを考えればいい。

 「読書猿」「epiの十年十冊」は、ありがたい。まさに、わたしが知らない(または知ってるけれど未読の)スゴ本を示してくれる。けれどもやはり、向き不向きがあるので、念のため図書館で借りる→試し読めばいい。くり返し読むなら、そこであらためてamazonへ赴くのだ。

 さらに、騙されぬ先の杖として「ガブのホントは教えたくない売れる"本"の秘密」が役立つ。出版社や編集者が、どんな売り方戦略をしているか、こと細かに教えてくれる。業界の手の内をさらしてくれる、ありがたい人ナリ。"情報"や"属性"の断片を切り売りしている本は、もちろん読むつもりはないが、「なぜ、その本が売れるのか?」には大いに興味がある。ベストセラーは、ふだん本なんか読まないような人がこぞって欲しがるからなんだ。図書館のベストセラー棚を数十年単位で眺めていると、時代や風俗の"うねり"のようなリズムを感じる。

 不特定多数とネットで出会い、よさげな候補と図書館でおつきあいして、決めた一冊を書店やamazonで買う。つまり、ネットは未来の窓で、書店は現在のスナップ、そして図書館を永続化された自分の書棚にするんだ。

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煉獄の日常「イワン・デニーソヴィチの一日」

イワン・デニーソヴィチの一日 極寒の強制収容所の、平凡な極限を描いた中篇。きわめて特殊な状況における、普遍的な人物群像を眺めているうち、「人間ってやつは、どこまで行っても、人間なんだな」と思えてくる。

 スターリン時代の収容所の一日が淡々と描かれる。いきなりラストから引用するが、これはネタバレではない。むしろ、どんな精神をもってこのような「幸福」を感じるのかを、そこに至る本文から読み取るべきだろう。シューホフとは主人公の名。

シューホフは、すっかり満ちたりた気持ちで眠りに落ちた。きょう一日、彼はすごく幸運だった。営倉へもぶちこまれなかった。自分の班が「社生団」へもまわされなかった。昼飯のときはうまく粥(カーシャ)をごまかせた。班長はパーセント計算をうまくやってくれた。楽しくブロック積みができた。鋸のかけらも身体検査で見つからなかった。晩にはツェーザリに稼がせてもらった。タバコも買えた。どうやら、病気にもならずにすんだ。
一日が、すこしも憂うつなところのない、ほとんど幸せとさえいえる一日がすぎ去ったのだ。
 もちろん営倉というのは名ばかりの牢獄に入れられなかったし、行くことはほぼ死を意味する作業をせずに済んだ。ごまかせた食べ物は椀一杯のみ。ブロック積みは「楽し」かったかもしれないが、凍雪(マローズ)の中での重労働だ。なぜ彼が、この極限に満ち足りて、ほとんど「幸福」とまで言えるのか―――本文を読めば慄然とし、同時に人間のしたたかさとはどんなものかを思い知るだろう。

 密告、裏切り、処罰、労働……苛酷な状況下で、人の心が折れようとするとき、イワン・デニーソヴィチはそれでも生き延びようとする。その日、その日を、一歩、一歩こなしていこう・生きようとするチカラを、読み手は受け取るだろう。ひどい状況に追い詰められた人物たちの様子に、読み手の心に哀傷と痛みをひきおこさずにはいられない。だが、その哀傷と悲壮は、人物たちが抱く感情と、これっぽっちも重ならないのだ。

 想像できないほど非道な状況を描いているのに、強靭なヒューマニズムの普遍性を見ることができる。面白い。抑制した語り口で日常を描いているだけなのに、体制への痛烈な批判となっている。面白い。ドストエフスキーにせよ、ソルジェニーツィンにせよ、収容所生活が作家を大作家たらしめているのではないか、と思えてくる。

 「生きていける」確信めいたものを受け取った一冊。

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小説の読み方指南=「フランケンシュタイン」+「批評理論入門」

批評理論入門 小説の読み方指南の良書、一冊で小説技法と批評理論の両方を俯瞰する。

 読書本は多々あれど、ほとんど対象はノンフィクションに限られる。つまり、すばやく情報を吸収し、的確に批判するためのハウツーを宣伝している。書店の平台に乗っているコピー本のオリジナル、アドラー「本を読む本」を精読すれば事足りるかと→わたしのレビュー : 上から目線の「本を読む本」を10倍楽しく読む方法

 いっぽう、フィクション・小説だと話が違ってくる。小説の読み方を具体的にレクチャーする本は少ない。「小説を読む」という行為は個人的な体験とされているため、客観性を求められる批評がしにくい(と思われがちだ)。また、小説技法を味わうには、一定量の"修練"が必要で、教科的に身につけられるものではないとされる。

 例えば、石原千秋「未来形の読書術」(レビュー)や平野啓一郎「本の読み方」(レビュー)あたりが小説の読書指南として挙げられるが、どちらも内的体験を一般化する試みにすぎない。評論としては面白いし、次の「読み」へつながるかもしれないが、ひとつの批評に限られる。あくまで「ひとつの批評」なのだ。

 こうした小説の批評を束ねたもの、さらに小説の技法を集積したのが、「批評理論入門」になる。悪い言い方になるが、「勉強が可能」なのだ。「小説を読む→楽しむ」という行為は、もっとテクニカルなもの/伝達可能な手法なのだ。

 小説だから、好きに読めばいいんじゃない?確かに。でも、作者が仕掛けた罠や飾りつけをちゃんと驚いて/愛でてあげるのも大切。そのための近道があれば、ためらわずにたどってみよう。自力主義に固執して、多読や精読や原典や教養修行を強要するのは、エリート主義の残骸だと思う。

 本書はゴシック・ホラーの傑作「フランケンシュタイン」を俎上に、「読むとは何か」「小説とは何か」について徹底的に解剖している。二部構成となっており、前半はデイヴィッド・ロッジ「小説の技巧」から小説技法を援用し、後半はヨハンナ・スミス「フランケンシュタイン」の批評理論を適用している。一冊で二度おいしい力作。

 死ぬまでに読みたい本として、「フランケンシュタイン」は先日読了したばかりだが、「批評理論入門」のおかげで嬉しい再発見が多々あった。例えば、「月」の象徴的な意味。西洋において、月は母性の象徴であるとともに、不吉な出来事を予言する目印だという(シェイクスピア劇)。フランケンシュタインが生命創造に没頭しているとき、「月が深夜のわたしの仕事を見守っていた」と描写されているが、この「仕事=labor」に「分娩」という意味を見出す。つまりこれは、フランケンシュタインの出産行為を象徴しているというのだ。

 さらに、惨劇のシーンではヘンリー・フューズリ「夢魔」を持ってくる。

彼女は死んでいた。ベッドに投げ出され、頭が垂れ下がり、苦しみに歪んだ青ざめた顔は、髪の毛で半分覆われていた
これは、「夢魔」そのものだという。睡眠中の女性を襲うインキュバスのイメージで、(作品では見えないが)怪物は彼女をレイプしたというのだ。「んなバカな!」「なるほど!」と意見が割れるかもしれない。だが、この絵を描いたヘンリー・フューズリは、「フランケンシュタイン」の著者メアリの母の愛人だったということが指摘されると、その相似に息を呑むだろう。

 得るものもある一方で、鼻につくトコも目立つ。批評理論を紹介する宿命なのかもしれないが、それぞれの理論にガチガチの硬直的な読みしかできない。フロイト的解釈やフェミニズム批評などは、ほとんどこじつけとしかいいようのない強引な論理展開なのに、批判もされず並列されている(どの立場を支持するか、ではなく、その立場がロジカルに説得力を持っているかという点で論外なの)。

 本書は小説を読む際の、「お作法」として見るならば、メリットは大だろう。小説読みの「型」を身につけるための教則本にするのだ。そして、いったん「型」を身につけたら、そいつを破ってみればいい(かたやぶり、というやつ)。この「かたやぶり」が一切なく、まるで自分を消してしまっているかのような読み方は、「楽しい?それ」と言いたくなる。技法を探求し、理論に厳密な読みを追求する余り、これっぽっちも楽しそうに見えない。

 ある小説をどう読むかは、ある食材をどう料理するかに似ている。もちろん、道具やレシピはひととおりマスターする必要はある。しかし、その先は自分の好きに料理すればよいかと。つまり、自分の創造的読みに任せるのだ。本書を読んでいると、慣れていない道具(小説技法)や調理法(批評理論)で作った料理を食わされているような気がしてくる。ネタとしか思えない一品が出されると、ゲンナリしてくる。

 その後で、冒頭の石原千秋「未来形の読書術」や平野啓一郎「本の読み方」に戻るのだ。型を身につけ、型破りをした「読み」を堪能できる(それぞれ、上手い料理に仕上げているが、美味いかどうかはまた別の話)。そういうトレーニングをせずに、我流に頼るのは危ない。設定やスジだけ押さえて「読んだ」としてしまったり、言葉のイメージだけ膨らませて事足れりとするヘンテコ読みになってしまう。「型」がないから、かたなしだね(小鳥遊ではないぞw)。

 だから、我流でヘンな癖をつけてしまったわたし自身に、「批評理論入門」をオススメしたい。鼻につくが、身にもつくから。

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がんを覚悟する生き方

 別に宣告されたわけではないのでご安心を。

 ただ、充実した医療サービスが受けられる日本人でいるかぎり、わたしを「殺す」方法は、かなり限定されている。自殺は、メンタル面でフラグ回避を心がけている。交通事故はそこらの歩行者・運転者よりも気をつけている(もちろん"運"の要素もあるだろうが)。

 統計によると、わたしの死因は「がん」になる。

 実は、身近な人をがんで亡くしている。彼の、日常を続けることに極端にこだわった生き方は、いまのわたしにも影響を与えている。というのも、いま、ここの、わたし自身が日常生活にこだわっているから。自分のカラダを意識して食べる。排泄に注意し、睡眠に気を配る。家族とのコミュニケーションは、一期一会といったらはおおげさだが、いずれ別れるときをアタマの隅においている。

 同時に、フィクション・ノンフィクションを問わず、本や映画からもそういう「覚悟」めいたものを受け取っている。ひとが自分の人生に集中するために、「癌」という仕掛けが施されているのだ。黒沢明「生きる」や、マイケル・キートン「マイ・ライフ」、あるいは「死ぬまでにしたい10のこと」―――これらは、癌を宣告された主人公が、死を自覚することで逆に生の輝きを取り戻す。

死ぬまでにしたい10のこと 宣告されて初めて、自分の人生でやりたいことを10のリストに書き出し、順番に実行する。映画「死ぬまでにしたい10のこと」は、そのリストが単純で簡単なものであればあるほど、観る人は自らを振り返るだろう。「いま」「ここ」「わたし」にとって、やりたいことを、やる。ただそれだけが、いかに困難でスリリングで"日常"なのか、病気になってはじめて気づくのだ。

 その一方で、「いま」「ここ」「わたし」の関係を壊したくない。もっと言えば、家族へのショックを「ないもの」にしたい。もちろん自分も精神的ダメージを受けるだろうが、家族への衝撃を慮って言い出せない、言い出しにくい―――わたしの場合、むしろこっちになる。やりたいことは「もう充分」とは言えないけれど、「やってない」「手をつけてない」わけではない。けれども家族は?と考えるだけで熱くなってくる。できれば黙って消えていきたい。

 しかし、そういうわけにはいかない。遅かれ早かれ、いずれは分かる。そして、わたし自身が家族のサポートを必要とするときがくるだろう、必ず。「冷蔵庫のうえの人生」は、人生が有限であること、よりよく生きるには、家族の支えが必要なことが、新しい文体「メモ」で表されている。思春期の娘と、その母親との他愛のない日常が、冷蔵庫に張られたメモの往簡でつづられる。いつまでも続くかに見えた日常は、ある出来事を機に変わり始める。

冷蔵庫のうえの人生 話そうか、話すまいか、母の葛藤がつたわってくる。たかが冷蔵庫のメモなのに、病気のことを娘に伝えるのに躊躇する姿が見える。すれ違いがちの、めまぐるしい日常、それがあまりにも愛しく、最後まで黙ってたほうがいいんじゃないのか、という思いが透ける。エゴなのか優しさなのか、分からない。

あなたにいてほしかった。でも、口に出してそう言う勇気がなかった。こんなことのためにあなたの人生を台無しにしたくなかった。あなたには普段通りの生活をしていてほしかった。私のかわいい娘でありつづけてほしかった
 もしわたしが同じ病気になったら、やっぱりこの母親と同じように悩むだろう。エゴと優しさを一緒に抱えたまま、少し泣くかもしれない。今から態度を決めるのは無理だろうが、ただ、それでも、「そういう気持ちになるだろう」と予め知っておくことは可能だ。「覚悟」には程遠いが、そのとき考えるのではなく、いま考えておきたい。

 このとき重要なのは、「がんと闘う」のではなく、「がんとつきあう」こと。がん細胞という"悪いやつ"がいて、そいつをやっつけるわけじゃない。もともとオレの細胞なんだし、それを否定することは、オレを否定することだろ?だからがんをひっくるめて生きるんだ―――彼はそういった。

打ちのめされるようなすごい本 その態度は、米原万里と対照的だ。彼女が遺した書評集「打ちのめされるようなすごい本」の後半は、がんの闘病記となっている。「私が10人いれば、すべての療法を試してみるのに」「万が一、私に体力気力が戻ったなら」といった語句のすきまに、あせりのようなものが読み取れているうちに、ブツっと途切れるように終わっている。

 残念なのは、闘う相手を医者にしてしまったこと。「どこか」に「なにか」があるはずだと、ネット相手に療法を探し回り、「勉強」をはじめてしまったこと。自分の時間を生きるのであれば、医師を信頼するのが最初だろう。もちろん、わたしも同じような罠にはまるかもしれない。だが、これをlifetime-eaterという「罠」だと気づいたことは記しておこう(後で思い出すために)。

 ちょうどぴったりの勉強会がある。「生活目線でがんを語る会」というもので、がんにかかるってどういうことなのか?何が起こるのか?といった疑問を、現在闘っている人、かつて闘っていた人、家族が闘っているのを経験している人に語ってもらうのだ。医療関係者がテクニカルな部分を語るものではなく、もっと身近な病としてのがんを知る良い機会。案内と申込みは以下の通り。

  「生活目線でがんを語る会」7/23 19:30スタートです

 人間の死亡率は100%。そして可能性が最も高いのが「がん」なのなら、少しでも人生の質を上げておきたい。そのための助けとなるかもしれない。

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【告知】 東京国際ブックフェアでスペシャルトークします

日本最大の本の展示会、東京国際ブックフェアで、やすゆきさんとトークするので告知ー

 とき : 7/10(土)17:00-17:50
 ところ : 東京国際ブックフェア西1ホール「本が好き!」(ブース番号2-51)
      東京国際ブックフェアの公式サイトは、[東京国際ブックフェア]
      「本が好き!」の公式サイトは、[本が好き!]
 テーマ : 本との出会いの場所

 書店、図書館、ネット……本と出会う場所は変わっているのか、変わってきたのか、変わってゆくのかを、スゴ本オフでお世話になりっぱなしのやすゆきさんとトークします。ネット(というよりブログ)以前以後で、わたしの読む対象は爆発的に拡張しているものの、その本質("本"ではなく"人"を探すこと)は、ぜんぜん変わっていないようだ。その辺りの事情とテクニックを、毒にならないように気をつけるつもり。

 このブログや、オフ会とは別のおしゃべりにするつもりなので、ぜひご参加くださいませ。ちなみに、ブックフェアの入場料(1200円)を無料にする方法は、招待券の申込みをどぞー

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真実より正しいフィクション「アイの物語」

アイの物語 人類が衰退し、マシンが君臨する未来から、「現代」をふりかえった秀作。

 SFがすばらしいのは、現代を「ふりかえって」眺めることができるから。未来や別次元から、「いま」を理解しなおすのだ。もちろんテクノロジーが混ざるから、バイアスはかかる。だが、拡張された鏡ごしに、「いま」を観察できるのだ。「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」と喝破したのはキルケゴールだが、人生だけじゃなく、「いま」も然り。

 アンドロイドがヒトに語る6つの物語。それぞれの物語が、「いま」で言う「SF短編」となっている。元ネタ探しが楽しい―――シーマン、BBS、連作小説、攻殻機動隊、老人Z、ラブプラス……「ラブプラス」は世に出ていなかったから、"予言"的中度をふり返ってもなかなかのもの。500頁超の大作だが、ミステリ要素の強い展開とあまりの面白さにイッキ読みしてしまう。

 なぜマシンが支配しているのか?どうしてそんなフィクションを語って聞かせるのか?布石のように敷かれてゆく「SFの短編」は、最初はぎこちない習作のようで、だんだんと上手くなってゆく。つくり話めいていればいるほど、地の話の真実味が増すという仕掛け。6つ目の話が終わったとき、アンドロイドは言う。

  「ええ、あれはみんなフィクションだけど、真実よりも正しい」

 そして7つ目の物語が語られるとき、真実よりも正しいフィクションのチカラを感じるだろう。惹句に「機械とヒトの新たな関係を描く、未来の千夜一夜物語」とあるが、本当に千夜のストーリーに拡張したならば、「銀河鉄道999」のような伝説となるだろう。これは、SF短編を包含したSF大作なんだな。

 本書はスゴ本オフ(SF編)で小飼弾さんがアツく語ってたもの(弾さんのレビューは「感無量 - 書評 - アイの物語」)。「現実よりも物語の方が素晴らしいじゃないか!物語が現実でもいいじゃないか!」というメッセージがずしんとくる。なるほど、こういう意味だったんですな。おかげで夢中本に出合えました、ありがとうございます。

 そこでも一度みなさんに告知ーわたしが知らないスゴ本に出合えるオフ会がありますぞ→スゴ本オフ(夏編)。これは、本そのものだけでなく、「そのスゴ本」をオススメする人と出会う場なんだ。

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