中年必読、若者無用「可愛い女・犬を連れた奥さん」
恋とは、人生における一時的な気の迷い。ちょっとした、人によると熱烈な病のようなもので、深刻に受け取ったり、そいつで一大決心してしまうようなものではないのだと。よく「ハシカのようなもの」と片付けられる、まさにそんなちょっとした流行りものにすぎない。
その気の迷いから踏み出した、あてどもない楽観主義と、踏み出さずに時の流れに放置した恋の残骸を、非情なまでに描写する。実らなかった恋、過ぎ去ってしまった思いが、もう思い出とすら名づけられないほど永く置き去りにされたとき、時の審判は、互いの貌や肢体や態度に残酷な判決を下す。恋愛とは、若いうちにとっては幻想であり、老いてからは幻滅にすぎないのだ。
本書でつむがれる三編の物語において、それぞれ三つの人生が紹介されている。それぞれの恋と「その結果」は、一様にその儚さを指す。人の夢と書いて儚いと読むのは正しい。しかし、(ここで"しかし"と言わせてくれ)、それでも自分を納得させようとする「自分だまし」がいじらしい。
たとえば、「犬を連れた奥さん」。もう若くない男が昔を思い起こし、かつて結ばれた女のことごとくが、自分に幻影を見出したのだと慰める。女は思い違いに気づき、別れと次の出会いをくり返すのみ。そして、恋をしたことなど、ただとの一度もなかったのだ、他のものなら、何から何までそろっていながら、ただ恋だけはなかった―――
それだけ自覚しておきながら、いま自分が直面しているものを臆面もなく「恋」だと言い切る自信はどこから来たのか?かつて味わった胸の高鳴りと異なり、初めての(ように感じられる)ときめきだからか?
ラストで、ここにきて、読者は置き去りにされる。100回まちがえたら、101回やりなおせばいい、そんなポジティブな(能天気な?)態度に、読み手は胸のうちでつぶやくだろう、「これで、いいのだ」と。
これ読んでいると、わたしの人生は、ちょうどうまい具合のタイミングで、ちょうどいい感じのパートナーに、まさに"恵まれた"という言葉しかあてられないような結ぼれをしている。人生は変わる。人も変わる。わたしも変わる。なのに、なぜ恋愛だけが変わらないものとして扱われなければならないのかと、鋭い指摘が立っている。
「思い出」に封じ込めればセピア色の風景として固着化できるって?嘘だ。セピア色の写真や品々は、"そのまま"かもしれないが、そいつを眺めるわたしは変わっていくものだから。ダイヤモンドは永遠の輝きかもしれないが、見る人は変わるのだ。
チェーホフは淡々と、ユーモラスといってもいいほどの筆致で、内面の移ろいを描く。100年前のロシアに自分の心情を見出すのは、辛いし痛い。でも、おかげでチェーホフの作品の普遍性ではなく、自らの心情の遍在にも気づけるというのもホントだ(だからといって慰めになるわけでもないが)。
若者ではなく、中年が読むとズンとくる一冊。

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コメント
岩波の三篇はすごいですね。
どれもが超一級品
まあチェーホフ自身がすごいから当たり前かもしれませんが。
私はヨーヌィチがとてもすきです。
投稿: 木村 | 2010.06.08 22:06
>>木村さん
ヨーヌィチ……お医者さんの話ですね。わたしも好きです、と言い切れない痛ましさを感じます。「若さゆえ」は、あやまちへの修飾語かもしれませんが、踏み越えてしまったならばよかったのに、と思うのです(そしたら小説になりませんがw)。
投稿: Dain | 2010.06.08 23:30
>>Dainさん
たしかに好きといってしまうには痛ましすぎるかもしれませんね。
そのやりきれなさも含めて好きということで。
この短編集では海の場面やお墓の場面がよく印象に残っています。今もう一回読んでみよかと思って探しましたが手元になくて残念です。
投稿: 木村 | 2010.06.08 23:58
>>木村さん
ああー確かにその通りです。読んでいて一番強く感じたのは、「やりきれなさ」ですね。それも人生、というにはあまりにも身に詰まされるのです。
投稿: Dain | 2010.06.09 23:54