ナボコフ「賜物」にクラクラ
小説はフィクションだ。そんなの百も承知だが、ナボコフはその虚構のなかで「ホント」をつく。本当の中にウソを混ぜるから、ウソをウソと見抜けない。
フィクションの中では一貫した「世界」を紡いでくれるかと思いきや、その期待をカクンと外してくる。異なる主格を滑り込ませてしゃべらせたり、延々と現実かと思いきやラスト一行で妄想扱いにしたり、虚構に虚構を重ねてくる。地の文がいつの間にやら恋詩になったり、小説内で小説のプロットを語りだす(しかもそれは、いまわたしが読んでいる奴なのだ!)。
ではウソだらけかというと、そうではない。史実に忠実な描写をたんねんにうつしとることで、フィクションの「中の」リアリティは増すばかり。著者は否定しているのだが、主人公の若い身空とナボコフ自身の運命の変転がものすごい勢いでオーバーラップする。「賜物」の文壇への受け入れなさ加減なんて、文学が現実を予言して的中させた好例だろう。歴史や未来の「出来事」として、本書はリアルである一方、大きな嘘もつく。まるで、読み手に見抜いてもらうのを切望するかのように。
たとえば、虹のふもとに立ったことがあるという父の話を、こう回顧する。
愛しの君よ!君は極楽の色彩見本のようだ!父はあるときオルドスで雷雨の後、丘に登ったところ、虹が立っているまさにその根元にひょっこり入り込んでしまい―――世にも珍しいことだ―――気がついたら、色とりどりの空気と炎のようにきらめく光に包まれ、まるで楽園にいるようだったという。虹は、太陽と観察者との位置によって見えるものだから、虹の根元にいる人は、その虹を見ることができない。だから父がかついでいるのは分かるの。では誰がその虹を見ているのか?と自問すると面白い。それは「父の語りを思い出している主人公」になる。もちろん主人公はオルドスの丘に行ったことがない。父の語りをリアルに思い出しているうちに、その観察者になった気なのだ。
「『父の騙りを鵜呑みにして語る主人公』を騙るナボコフ」ように、意図的・無意識的を問わずミスティフィケーションが罠のように施されている。各ページに詳細な注釈が施されており、この助けがないと読み惑ってしまうだろう(ちなみに、この虹の嘘については注釈者も気づいていなかったりする)。
語り視点の操作によるミスリードの誘いや、円環構造、意図的なずらし、替え玉、言葉遊び、アレンジメント、トートロジー、オマージュ、反復・照応・押韻、架空の書物、架空の著者と、文芸技巧のオンパレード、これでもかと盛り込んでくる。正直おなかいっぱいだし、全部わかる人っていないんじゃないの?とツッコみたくなる。
でもときおり、ハッと胸をつかまれる表現に驚かされる。「ぴったり心臓の数だけ、銃弾があるのだ」とか、「どこか奥のほうの部屋で、警告の響きが感じられる幸せそうな母の笑い声が響いた」なんて使ってみたくなる。
シチョーゴレフは精力的に鼻息を立ててから、手前のドアをいきなり開け放った。後ろから服をいきなりめくり上げられた女性のように、小さな細長い部屋がこちらを振り返り、私たちの目の前で立ちすくんだ。一番気に入った擬人化は、この「部屋」。主人公と運命の人の初対面の一幕なのだが、この出会い、実は陰に陽に演出されまくっていたのだ―――というのがずっと後になって分かる仕掛けとなっている。
ナボコフ一流の超絶技巧に翻弄される一冊。
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コメント
たった今、『賜物』を読み終えたところです。ナボコフは、ほんとにクラクラしますよね! 私も、虹の箇所で笑ってしまいました。「それはアジアのある峠に積まれた石の山のことだ。行軍していく兵士たちはそこに石を一つずつ置き、戻ってきた兵士たちは一つずつ取っていく。そして永久に残った石の数が、戦士した者たちの数になる。そんな風にして隻脚のチムールは石の山が立派な記念碑になることを予見したのだという。」という所も、子どもを寝かしつけるときの作り話のようで微笑んでしまいました。
投稿: isogai_1 | 2010.06.12 00:11
>>isogai_1 さん
「子どもを寝かしつけるときの作り話」…とても上手いたとえですね。思いつきのように見えながら、ちゃんと伝説なり根拠となる元ネタがありそうですから。兵士と石の話は、数を数えることができなかった時代の伝説だと聞いています。
投稿: Dain | 2010.06.13 22:05
値段にためらったんだけど、やっぱ買うべき?
「ロリータ」は大好きなんだけど。
投稿: Sophie | 2010.06.15 13:36
>>Sophieさん
んー、図書館で試してみたらいかがでしょう?私的には、「ロリータ新訳」>「賜物」です…っというか、一方的にロリータ好きなんです
投稿: Dain | 2010.06.15 23:56