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「フランケンシュタイン」という痴話喧嘩

フランケンシュタイン 死ぬまでに読みたいシリーズ。

 神話の王道である「造ったものに滅ぼされる」メタファーとしてのフランケンシュタインは、映画やパロディでとても身近なもの。しかし、その原作メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」を読んでなかったので、一読して一驚する。

 怪物の名は「フランケンシュタイン」ではなく、その造り主である科学者であることは知っていた。しかし、ハタチそこそこの学生であることには驚いた。そして、生命創造できてしまうほど生命科学に精通しているのに、いざデキてしまうと逃げ出してしまうチキン野郎であることを知ってクチがふさがらなくなった(呆れと哄笑で)。

 それは、「できるから、やってみた」というノリなのだが、「科学」とはそういうものなのかもしれない。可能であることと、許されることは別なのに、同じ "can" で表現できるのが不幸の始まり。大仰な言い回しで自分の業績を誇り、過ちを他になすりつける態度は、言い訳に満ちている。後先考えずに中出しして、デキちゃった子どもを認知しないヘタレ野郎の詭弁を読まされるようだ。腹を立てるより抱えて笑ってしまう。認知しないヘタレのメタファーこそが、「フランケンシュタイン」なのだ。

 そして、生み出される怪物―――名無しさんこそいいツラの皮だ。怪力の大男に幼児の知性といったイメージは、本作で徹底的に破壊される。チカラよりもスピードが人間離れしており、プルタークを読むくらいインテリで、「若きウェルテルの悩み」を共有できるくらいナイーヴなのだ。あの鈍重な「フンガー」を予想すると驚くこと請け合い。

 しかもこの怪物、しゃべるしゃべる。「彼」の回顧録のために数章丸ごと割かれているくらいで、捨てられてから、自ら学び、復讐を決意するまでの経緯を淡々と語る。一見涙モノなのだが、どことなく胡散臭さを感じる。アイデンティティのない存在は、確かに悲劇なのだが、だかといって彼が手を染める凶行は許されるものなのか?禽獣であることを否定し、人性を求めるのであれば、罪に服することを自覚するのが先かと。

 「彼」は、自分の犯罪の偶発性を強調する。最初の殺人とその罪のなすりつけは、偶然、フランケンシュタインの人生を痛めつけることになる。この偶然があまりにできすぎているため、「彼」の告白は疑わしく思われる。嘘をつくのではなく、全てを言わないという技を使ってくる。

 これは、「『怪物の告白』を聞かされたフランケンシュタイン」の口述を書き留めた若者の手紙、という幾重にも引用された伝聞形式のせいでもある。現実との境界を手紙や口伝で超え、スーパーナチュラルなとこは、話者の演出として誤魔化す/煽ることができる。古典では典型だけど、今ならブレア・ウィッチ・メソッドだね。

 そして、復讐の鬼と化した「彼」は、「覚えておけ、おまえの婚礼の夜に、きっと会いにゆくぞ」という捨て台詞を残す。ここからが、捨てられたオンナの怨み節の真骨頂といったところ。怪物の果たす復讐とは―――このミステリタッチはさすが。オチを知っていても、「志村ー後ろ!」とドキドキしながら読める。「アンタの不幸がアタシの望み」状態となったのは怪物だが、フランケンシュタインも同じ。互いに不幸になりあおうとする二人は、ドス黒い殺意を抱えた夫婦のように見える。

 こうやって解くと、ゴシック・ホラー文学として名高い「フランケンシュタイン」も、認知しないヘタレに捨てられた女の復讐譚にも読み換えられる。作者シェリー夫人も結婚で苦労したようだが、同じまなざしを向けたわたしが下衆でしたごめんなさい。

 さまざまな批評において、本作は「ペルソナとしての怪物」とされたり、ドッペルゲンガーの応用として挙げられたり、はたまたマッド・サイエンティストもののSFのはしりと評価されてきた。「批評理論入門」(廣野由美子)によると、ほとんどの批評家は、フランケンシュタインと怪物を、創造主と被造物、親子、自己と影という読み方をしている。しかし、これを「痴話喧嘩」として新しい読みができてしまうのは面白い。これは、「フランケンシュタイン」が優れた小説である証左といえる。

フランケンシュタイン 生命創造という寓意を科学と倫理に当てはめるのが、まっとうな「読み」だろう。だとすると、おそらくP.K.ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」あたりが正統派か。しかし、科学の発展云々の前から、わたしたちはヤってたんだよな、生命創造。なので、併読するなら、SFよりもむしろ、「ベビービジネス」をオススメしたい。親の好みどおりにカスタマイズされた「デザイナーベビー」を作って売る話だ。(既成)事実は小説よりもおぞましい→赤ちゃん売ります「ベビービジネス」そこに市場がある限り

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「転校生とブラックジャック」はスゴ本

転校生とブラックジャック 心脳問題を対話により深堀りした名著。二読したけど三読する。

 若いとき、一度はかぶれる独在論。つまり、この宇宙にひとりだけ「私」がいるということの意味を追求する。あれだ、2chやtwitterで見かける「おまえ以外bot」を世界レベルまで拡張したやつ。

 自分自身を指差して、私だということができる。でもそんな指差しなどせずに、世界中でただ一人、ただそこにいる<私>は、他の誰でもないし誰でもありえない。誰かが「私」といくら言おうとも、ここに、例外的な<私>が存在する―――この<私>が「私」であることを論理的に証明しようと問いつづける。

 たとえば、「心と体が入れ替わってしまった二人を、天才外科医ブラック・ジャックが元に戻したらどうなるか(転校生とブラックジャック)」とか、「自分自身の記憶と身体を丸ごとコピーして火星へ転送したら<私>はどうなる(火星に行った私は私か)」といった、SFチックな思考実験で追求する。

 本書を面白くかつユニークにしているのは、全編をダイアログ形式にしていること。著者自身をモデルにした「先生」と、12人の学生A~Lがこの問題を議論する。A論B駁といった感じで、議論が転がっていく・掘り下がっていく様子がよく見える。

 実はこの学生、著者の分身のようなもので、それぞれの側からの問答のフィードバックループをつなげた試みらしい。自説を曲げない人や、「解答」を欲しがる人がいて妙にリアルだけど、「自分の考えに近いのは誰か?」「その学生はどのように『問い・答え』をくり返しているか」探しながら読むと楽しい。ただ、出てくる議論は(カブれた人なら)既知のものばかり。主張の目新しさではなく、その問いに対し、どう格闘するかが大切なのだ。

 これ読むまで、哲学とは、ドグマを吸収することだと思い込んでいた(だから、たくさん知ったかぶれる人ほど、"哲学してる"と信じてた)。ところが、本書のおかげで、哲学とは、対話しと内省のくり返しの中で考え抜くという、もっと動的な行為だということに気づいた。哲学は、ダイアログの上に立っており、書かれたものは、そのダイアログを転がすための燃料や空間にすぎないのだと分かった。そんなダイナミズムに触発されたのは、本書の最大の収穫。

 ただ、残念(?)なところもあった。意図的か不注意か分からないが、あるべき議論が抜けている。「転校生とブラックジャック」という作品を学生に読ませ、そのセミナーをするという形式で話が進むのだが、この「転校生とブラックジャック」という作品自体が、一人称で書かれているのだ。

ブラック・ジャックはおれを手術台に固定して、いきなり手術しはじめたのだが、なんと、彼は麻酔というものを使わないのだという。おれは頭部に激痛を感じた。なんということだ。おれはこれからの手術中、ずっと意識があり、この激痛に耐えねばならないのだ!
 さらに、ブラック・ジャック曰く、「おれ」の記憶は入れ替わっていた「あいつ」のやつを植えつけておくから心配要らないという。もちろん「あいつ」の記憶も「おれ」で上書きするから、完全に元通りになるというのだ。では、「おれ」はどこにいる?―――その議論がまた面白いのだが、「設定」にムリがある。

 この独白が、誰に向けて、どのようなメディアで語られているかの検証がないのだ。インタビューであれば語り手がいるし、小説であれば書き手(と書き手が騙る語り手)がいる。一人称独白体という時点で、「おれ」が限定されてしまう。

 そして、インタビューであれば、「「おれ」はその痛みの記憶ごと創られていた」でファイナルアンサーだし、小説であれば、「「「「おれ」はその痛みの記憶ごと創られていた」という妄想だった」という妄想……」になる。なんなら最後の「妄想だった」を陰謀でループしてもいい(岡嶋二人「クラインの壷」あたりを思い出す)。

 いずれにせよ、「おれ」が過去のことを「語って」いることがこの形式自身によって規定されてしまっているため、読者は常にそこに疑いを見出すことができる。「先生」があとづけで「この物語全体は誰の記憶によっても保証されていない」「そもそも記憶ではない、端的な事実ということにならねばならない」と説明しているが、学生の議論を成り立たせるための巧妙な罠に見える。

 なぜなら、議論をスタートさせる前に、「これは『お話』ですか?」と質問してしまうと、前提が覆ってしまうから。もし『お話』なのなら、それを語る人へ視線が行くから。そして、語る人の位置から「おれ」「あいつ」が再設定されるから。その再設定で、語る人=「おれ」(インタビューの場合)であれば、「おれ」とは、他人が自分をさしていう「私」になる。いま、このblogを読んでいる<私>、すなわち「唯一無二の、ほかならぬこの<私>」には成り得ないのだ。そして、語る人≠「おれ」(小説の場合)であれば、「おれ」とは、書き手が定義した「私」になる。『お話』のなかでどんなに唯一無二の<私>だと主張しようとも、それは、いま、このblogを読んでいる<私>ではなくなる。移入して議論せよ、といってもこの「おれ」はいつ語っているの?という疑問に停止してしまう。

 問題は、誰かが自分を指して言う「私」と、このblogを読んでいる<私>の、カッコ「」< >の中の文字が一緒だというところ。学生の議論のなかで、<私>は端的にあるのに、それを表現しようとすると、一般化の「私」に陥ってしまう罠が出てくるのだが、まさにこの「私という文字が一緒」の呪いを受けているように見える。

 つまり、「私」と<私>と上手いこと分けて言ったつもりなのに、カッコの中は 私=私 になっているから紛らわしいのだ。一般的な一人称の「私①」と、このblogを読んでいる唯一無二の<私②>について、たまたま同じ文字である 私 が割り当てられていることが間違いの元じゃないの、と思えてくる。で、私②は少なくとも一つあるけれど(このblogを読んでいる私②だけが、その"少なくとも一つ"になる)、私②の外側に向かって自分を指すときに私①と称しているにすぎない。私①、私②とまた紛らわしいなら、私②を、「トゥイードルディ」とでも称すればいい。違うものを同じ名前で呼ぶことで陥っている言語ゲーム地獄から脱出するわけ。

マルドゥック・スクランブル1マルドゥック・スクランブル2マルドゥック・スクランブル3

 そのうえで、「トゥイードルディ」がどうなったら「トゥイードルディ」でなくなるか考えるのだ。体が不自由でも「トゥイードルディ」たりえるだろうが、首が分離したらどうなるか?とか、別の「トゥイードルディム」の行動意識を移植したらどうなるか?とかね。例えば脳だけになって、意識と記憶が、外側からしか観測できず、表現するための術を持たなかったら、あるいは、表現の術(すべ)が別の身体だったなら―――この思考実験は、SF「マルドゥック・スクランブル」で作品化されている(レビューは「マルドゥック・スクランブル」はスゴ本)。他に、この多体問題を深めるためにあたってよいヒントが隠されている(ルーン・バロットの体感覚など)。

17人のわたし 机上だけで独在論を弄るのではなく、フィクションやサイエンスを援用してみては……とツッコミを入れたくなる。「マルドゥック」シリーズのほかにも、「17人のわたし」あたりが考える手段となる。これは、虐待で多重人格障害となった女性が、精神科医の助けにより、人格を統合するまでを綴ったノンフィクションで、多数の人格が生まれた理由、記憶の共有や人格の入替えメカニズム、人格を統合する方法を追いかけることができる(わたしのレビューは衝撃のスゴ本「17人のわたし」)。

 しかし、そうしたわたしの姿勢そのものが邪教なのかもしれない。徹底的にロジカルにあらゆる角度から考え抜いて、「もうそうあらねばならない」「そう考えるしかありようのない」状態にまでもっていくのが「哲学すること」なのだから。

 これは入不二基義「哲学の誤読」(レビュー)と、分裂勘違い君劇場「ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書25冊」で知ったもの。お二方に感謝、おかげで良い本にめぐりあえました。

 三読したら四読する、そういうスゴ本。

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すぐおいしい、すごくおいしい数学「aha! Gotcha ゆかいなパラドックス」

 マーチン・ガードナーの懐かしすぎる名著が復刊。

 Gotcha は俗語で、「わかった!」という意。思い返すと、わたしにとっての数学の原典は、この論理パズルだったなぁ。自己言及のパラドックスや、直感に反する確率、ホテル無限、雪片曲線の長さなど、今でも楽しませてくれるパズルは、ぜんぶ本書で「わかった!」もの。ただし、今でも悩まされるところをみると、本当に Gotcha! したかはアヤしい。

aha_gotcha_1aha_gotcha_2

 たとえば、ウソツキのパラドックス。
エピメニデスは、「クレタ人はみんなウソつきじゃ」と言ったので有名です。でも、エピメニデスはクレタ人でした。彼の言ったことは正しいでしょうか?
 これは有名なパラドックス。エピメニデスはクレタ人、つまりウソつきだから、「クレタ人はみんなウソつきじゃ」という彼のセリフは、ウソでなければならない。しかし、この発言がウソであるならば、クレタ人はホントつきになり、したがってエピメニデスもホントつき。だからこのセリフは正しくなってしまう―――というパラドックスが紹介されている。

 ところが、今回読み返してみて、この「ウソつきのパラドックス」の中にパラドックスがあることに気づいた。即ち「ウソつきのパラドックス」はパラドックスではないという矛盾を見つけたのだ。それは、「クレタ人は『みんな』ウソつきじゃ」という点。この『みんな』に着目すると、エピメニデスの『ウソ』はこう書ける。

   1. クレタ人は、全員ウソつきではない(つまり全員ホントつき)
   2. クレタ人は、全員が全員、ウソつきではない(ホントつきもいるよ)

 そして 1. と 2. によって、パラドックスが発生したりしなかったりするのだ。もしも 1. の意味であれば、全員ホントつき→エピメニデスもホントつき→彼の発言もホント→おや?(矛盾が生じる)、つまり最初に紹介したパラドックスだ。しかし、 2. であれば、エピメニデスがホントつきになり、矛盾が生じないのだ!さらに、 2. でかつエピメニデスがウソをついたとしても矛盾にならない(エピメニデスが言ったことが本当かどうか分からない)となる。中学生の自分が見過ごしていた「パラドックスのパラドックス」に気づけたので妙に嬉しい。

 また、「エレベーターのパラドックス」は似た話を聞いたことがある。最上階に近いフロアにオフィスを持つハイ氏は、エレベーターで下に行きたいとき、必ずといっていいほど上行きになるため、腹を立てている。一方、下のほうの階で働くロー氏は逆になる。最上階のレストランに行きたいときは必ずといっていいほど下行きのエレベーターとなり、これまたおかしいと感じている。なぜ?という話だ。

┌──┐
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│■■│←ハイ氏は下に行きたいが、エレベーターが
│□□│  ■■にいる確率よりも□□にいる確率のほう高い
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│■■│←ロー氏は上に行きたいが、エレベーターが
│■■│  ■■にいる確率よりも□□にいる確率のほう高い
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5分でたのしむ数学50話 これは、「スーパーでレジの列に並ぶと、自分が並んだ列が遅くなる数学的証明」と似ている。直感に抗う確率というやつ。「5分でたのしむ数学50話」で出てきた話で、わたしのレビューはわかる瞬間が楽しい「5分でたのしむ数学50話」。カラクリはこうだ。

  1. たとえば、レジ1~4の列を考えてみる
  2. レジ係の能力はほぼ一緒だとする
  3. 待ってる人たちの買い物の量は偏りがないとする

 つまり、だいたい同じスピードでレジ列が処理されていると考えるのだ。こう仮定すると、「あなたが並んだ列(レジ3)が、他のレジ1、2、4よりも真っ先に進む可能性」は、1/4だろう。すなわち、このレジ列では、1/4の確率で、「早い」といえる。

   レジ1の列 ○○○○○
   レジ2の列 ○○○○○○
   レジ3の列 ○○○○○        ←●あなた
   レジ4の列 ○○○○○

 しかし、人生で列に並ぶのは一度きりではない。あなたは、レジ列にn回並ぶたびに、勝率1/4の勝負をするとする。すると、「レジ列が早い」というためには、(1/4)^nの確率になる。nが大きくなればなるほど、レジ数が増えれば増えるほど、勝てない勝負となる。すなわち、自分が並んだ列が必ずといっていいほど遅くなってしまうのだ。

 学校の勉強としての「数学」から離れてずいぶん経つが、いまだに数学の(というかパズルの)魅力にハマっているのは、その面白さを「aha! Gotcha」で知ったから。やりなおし数学というよりもむしろ、最初から好きだったんだね。

 完全に見過ごしていたのは本書のタネ本として、ホフスタッターの「ゲーデル、エッシャー、バッハ」が幾度となく紹介されていたこと。これは、「自己言及」をテーマに、ゲーデルの不完全性定理が、エッシャーのだまし絵やバッハのフーガをメタファーとして渾然と展開される超弩級エッセイ。中学生のわたしは、これをスゴ本だと気づけなかったのだ。数年前から積読山に刺さってるんだけど、あのとき手を出していれば―――違った世界を手にしていたか、さもなくば知恵熱で憤死してたかもw

 すぐおいしい、すごくおいしい数学をどうぞ。
 

 

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第3回スゴ本オフのお知らせ(7/16)

 みんなで本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフのお知らせ。

 ネット越しではなく、リアルにオススメあいましょう。ただ消費されるため過剰に生産された本でなく、自分にとってのスゴい本を熱っぽくネチっこく語りましょう

 これまで、「SF編」「恋愛本」とオフ会をやってきて分かったこと→まだまだわたし、良い本、スゴい本を、ぜんぜん、まったく、これっぽっちも知らないね、ということ。知らない本に会う喜びもさりながら、知ってた本の別の"読み"が提案され、「そうクるかー!?」と認識を新たにするのも愉しい。そして、。「それがスゴいなら、これなんてどう?」と紹介される「これ」こそが鉱脈になるのだ、人も本も。

 今回のテーマは「夏」、夏をイメージする本、夏のおもいで本、夏といえば○○に当たる本を持ってきてくださいませ(納涼つながりでホラーもOK)。これは結構悩ましい。わたしも考えたのだけれども―――いかにも暑苦しい、重苦しい、熱帯夜の汗みどろ血みどろ本ばかりが連想されてしまう。さわやかなヤツがないか、も少し記憶を探ってみる。「いかにも定番」を持ってくるか、その裏をかくか、本を選ぶのは楽しいなぁ。

 日時は、7/16(金)19:30~21:30です(19:00開場)
 場所は、半蔵門KDDI Web Communicationsさん会議室です
 参加費は、一人千円です(軽食にあてます)

 詳細と申込は、Book talk cafeからどうぞ

 FAQをまとめました、以下を参考にしてください。

  1. 「勉強会なの?」→【非】勉強会です。好きな本を持ち寄って、みんなで語り合う会です。本を介して新たな読み手を知ったり、人を介して知らない本に触れるチャンスです
  2. 「マンガとかあり?」→ありです。テーマに沿っていれば、小説、コミック、エッセイ、ハウツー、詩歌……なんでもOKです。重要なのは、その本への思い入れなのです
  3. 「ブックシャッフルって何?」→「本の交換会」です。オススメ本をランダムに交換しあいます。交換する本は「放流」だと思ってください。「秘蔵本だから紹介はしたいけれど、あげるのはちょっと……」という方は、「紹介用」と「交換用」、別の本にしてください
  4. 「ネットに公開するの?」→ネットで広がります。Ustream/Twitter/Blogで、オススメ合いをさらに広めます。抵抗がある方には、「見てるだけ」「透明人間」も配慮します
  5. 「オススメがかぶったら?」→よくありますが、無問題です。大事なのは、その本がいかに自分にインパクトを与えたかということを語れるか、なのです

 Twitter のハッシュタグは #btc03 です→皆さまのつぶやきをお待ちしております。

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iPadは「砂の本」である

砂の本 物語の魔術師ボルヘスは、「砂の本」という名の理由をこう述べる。

この本は、『砂の本』というのです
砂と同じくこの本には、
はじめもなければ終わりもないのです
 じっさい手にしてみれば分かる、どの短編を拾っても、そこから次へ紡がれて次からボルヘスの手を経て、またそこへ還ってゆく。スゴ本「伝奇集」の円環より、もっと立体性を感じる。円よりも、そう、螺旋構造をめくっているような感覚。読み手の読書経験によると、そこにクトゥルフや千夜一夜を見出したり、ドッペルゲンガーを思い出すことだろう。しかしそうした伝説を包含し、包含した「お話」を重ねてゆき、ついには巨大伽藍をぐるぐるしている自分がいる。

 「砂の本」には、最初のページがない。最初のページを探そうとしても、表紙と指のあいだには、何枚ものページがはさまってしまうのだ。最後のページも同様で、まるで、本からページがどんどん湧き出てくるようだ。めくる傍からページが出てくる、まさに無限。どのページも最初ではなく、また、最後でもない。ページ数はでたらめの数字が打たれており、これは、「無限の連続の終局は、いかなる数でもありうることを、悟らせるため」だと示唆される。

 偶然この本を手に入れ、取り憑かれた男がいる。まず挿絵をアルファベット順にノートに書き付けていった。しかしノートはすぐに一杯になったが、挿絵は尽きなかった。しかもそれらは、一度も重複することが無かったという。男はこの本の怪物性に気づき、焼き捨てようとするが―――無限の本を燃やせば、同じく無限の火となり、地球を煙で窒息させてしまうのではないかと怖れる。

 これは、同著者の「バベルの図書館」と好対照をなしている。あらゆる本のあらゆる組み合わせが揃っているバベルの図書館は、エッシャーの無限回廊をカフカ的に読んでいるような気にさせられる。三次元的にありえないのに、いかにも現実のフリをして描写される感覚だ。狂っているのは、男か、本か、わたしか。

 その本に対し、男がとった行動は、iPad の運命を暗示している。すなわち、木を隠すには森状態となるのだ。しかし、隠されたのは「砂の本」なのだろうか?全てを含む本が隠されたのではなく、すべての情報が放たれてしまったのではないだろうか。

 もうひとつ。Amazonレビューを眺めていると、「砂の本はWikipediaそのものだ」なんてコメントに気づく。面白い。ならば「疲れた男のユートピア」はTumblrそのものではないか。数千年先の未来人によると、遠い未来では、全てが引用になっているという。すべてのものは既に書かれており、人に応じ、時に応じ、くりかえし参照され、引用される体系となっているのだ。彼は言う、

大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです。
 そして、「言語とは、引用のシステムにほかなりません」とまで結論付けるのだ。引用=reblogされたものが、意識を向ける焦点として湧き上がってくる。上がってきたものは別の引用に上書きされる。スタックというフロー、まさに忘れられるために読まれる構造、これはTumblrそのものだ。

 ボルヘスの創造に乗って、なににあたるか?を想像すると、ヒヤリとする短編集。

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子どもに何をすすめるか、悩める親への福音「自然とかがくの絵本」

自然とかがくの絵本 「わが家にとって」最高のブックガイド。

 わたしは本が好きだ。図書館もAmazonもリアル書店も、子どもを連れてよく出かける。そのせいか、子どもも本が好きだ。「かいけつゾロリ」「デルトラクエスト」「サーティナイン・クルーズ」と、全読する根性は見上げたものの―――すべて物語系。もちろん「おはなし」も大切なのだが、この世界に現実にあることにも興味を持ってほしい。さもないと、妄想話ばかりウツツを抜かすわたしのようになってしまうぞw

 これではイカンと「理科読をはじめよう」からいくつか選んでみる(わたしのレビューは子どもじゃなく大人が楽しむ「理科読をはじめよう」)。結局、タイトルどおり、ハマってしまったのは、このわたし。子どもはお義理で「ふーん」という顔をしているものの、すぐコロコロ(今度はマンガだ)に戻ってゆく。

 わたしが感心するからといって、子どもが喜ぶとは限らない。

……という、非情にアタリマエの事実を再確認することとなった。そんなところに pocari さんから紹介いただいたのが、「自然とかがくの絵本」。これは素晴らしい(pocari さんの紹介は、読みたい!と思わせる素晴らしいブックガイド~赤木かん子編著『自然とかがくの絵本』をどうぞ)。

 何が良いかというと、「勉強べんきょうしていない」ところ。「理科読」の背後には自然科学が待ち構えている。そして、いかに科学に興味を持ってもらうかという動機づけが丸見えなのだ。子どもからすると、勉強は学校でたくさん、という気分。甲虫の生態や部分日食に「ふしぎだなぁ」と思う反面、親が教師よろしく百科事典とか出してきて講釈垂れるのは「それは違う」と思っているのだろう。

 何かを識りたい、というインセンティブは、ちゃんと学んでこなかったわたしのほうが強い。だから、わたしが手にする理科本は、どうしても「勉強」になってしまう。既に完成された法則を学ぶ場になってしまう。子どもは、「ふしぎだなぁ」そのままでいいのだ。そこから深めたければ自力でたどるだろうし、次に惹きつけられるまで放置するのもよし。

 だから、(これもアタリマエなのだが)理科本へのアプローチは、わたしと子どもで変えなければならない。子どもの興味を誘導したり、子どもの「先生」になるのが目的なのではない。この世界に現実にあることに興味を持って欲しいのだから―――あれ?これは冒頭でのわたしの願いなのに。「理科読をはじめよう」は学校の授業や図書室の活動の一環のため、勉強のアプローチになってしまっていたようだ。

 いっぽう、「自然とかがくの絵本」は授業でも勉強でもない。だいたい編者である赤木かん子さん自身が「ふしぎだなぁ」とか「これはすごい」を連発しているのだから。そこで原理や仕組みを説いたり、分類系統だてたりすることは一切なし。自然科学へのアプローチではなく、切り口で紹介しているのだ。そして、オトナも一緒になって「ふしぎだなぁ」とか「きれい/かっこいい/こわい/きもちわるい」と言い合っていればOK。

 しかも、各書籍には必ず表紙を載せているので、どんな本かひと目で分かる。恐竜や両生類・爬虫類、昆虫、宇宙、地球、算数、人体、哺乳類、鳥、魚と、好きな切り口から入って、気に入った表紙とタイトルで文字どおり子どもでもたどり着ける構成となっている。で、気になる本は片端から借りればいいのだ。これは、親が「与える」本ではなく、子どもが「選ぶ」本なのだ。そこで本当に気になるなら、自分で進んでいくだろう。

 編者は言う、「読みきかせのコツは、大人が読んでやりたい本は持っていかないことです。子どもたちが読んでもらいたい本を持っていくのです」。そうだね。このカタログから、子ども自身に選んでもらおう、そして一緒になって不思議がろう(ただし質問されて答えられないと悲しいので、予習はちゃんとしておこう、自戒自戒)。pocari さん、ありがとうございます。わたしにとって福音のような本です。

 以下自分メモ。次に借りたいリスト。子どもといっしょに、ワンダーしてみる。

  • 恐竜大図鑑(デーヴィッド・ランバート、ネコ・パブリッシング)
  • 驚異の大宇宙(デイビッド・マリン、ニュートンプレス)
  • 絵でわかる宇宙大地図(ロバート・バーナム、ネコ・パブリッシング)
  • 地球大図鑑(ジェームス・F・ルール、ネコ・パブリッシング)
  • こども地震サバイバルマニュアル(国崎信江、ポプラ社)
  • 水にうくもの しずむもの(マリア・ゴードン、ひかりのくに)
  • 色はなぜたくさんあるの(マリア・ゴードン、ひかりのくに)
  • 世界ロボット大図鑑(ロバート・マローン、新樹社)
  • 目で見る数学(ジョニー・ボール、さえら書房)
  • 算数の呪い(ジョン・シェスカ、小峰書店)
  • 海月(ネイチャープロダクション、ブロンズ新社)
  • ミミズのふしぎ(皆越 ようせい、ポプラ社)
  • チクッといたいやつのずかん(グリーナウェイ、リブリオ出版)
  • シャーク海の怪獣たち(サブダ、大日本絵画)
  • 海洋大図鑑(ファビアン・クストー、ネコ・パブリッシング)
  • 世界動物大図鑑(デイヴィッド・バーニー、ネコ・パブリッシング)
  • さかな食材絵事典(広崎芳次、PHP研究所)
  • 人類大図鑑(ロバート・ウィンストン、ネコ・パブリッシング)
  • 雨がふったら、どこへいく?(ゲルダ ミューラー、評論社)
  • あさがおさいた(大久保茂徳、ひさかたチャイルド)
 このテのブックガイドは新鮮度が大切。「比較大図鑑」(偕成社、1997)が紹介されているが、子どもらは「くらべる図鑑」(小学館NEO、2009)が好評だ。改版が楽しみ~


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嫌ぁぁな話ばっかり「11の物語」

11の物語 読み手を不安にさせる短編集。読書とは毒書であることを思い出させてくれる。

 サイケやホラーと割り切ってしまえればラクなのだが、焦点はあくまでも、登場人物の心の中(うち)にある。だから、事件らしい事件や、大仰な出来事が起こらなくてもじゅうぶんこわい。いや、こわいというより、イヤな気分になってくる。うっかり触れてしまったものが忌み物であることに気づき、洗っても洗っても落ちない「何か」が憑いてしまったかのような気になる。

 パトシリア・ハイスミスといえば「太陽がいっぱい」だと思っていたが、こんなサイケなものをモノにしていたなんて。ウールリッチから事件色を薄めて、S.キングの初期の短編のような舌ざわりのミステリで、プロットやオチは早い段階で予見されるものの、嫌なほう、嫌なほうへと展開する。まるで読み手を試すかのように。

 最初はフツウに見えるものの、「あれっ?」「おやっ?」ちょっと奇妙なズレに気づく。ページを追うにつれてだんだんズレが目だってきて、狂気にまで増幅される様を、ムダを省いた筆致で描く。当初の日常の延長上に、耐え難いほど異様な世界がある―――そんな異質的日常に読者は慣らされていく。人の壊れ具合を探していくうちに、壊れているのは読み手の価値観であることに気づくんだ。

 たとえば、「アフトン婦人の優雅な生活」。夫の異常行動に悩む老婦人の話なのだが、オチは分かりやすい。ただ、サプライズ云々よりも、自分を幸せだと思い込む、その信念こそがいかにファナティックであるかが暴かれているところが、こわい。そこにある現実を認めるということは、これまでの人生を否定しかねないことだと薄々分かっている。だからこそ、必死になって妄想にしがみつく。終わってしまえば「妄想」で済むが、そこに住んでいるものはどうする?読み終わってから、じくじくと痛んでくる。

 また、著者のカタツムリ好きが高じて、カタツムリの話が二編ある。読んだら表紙を見るのもイヤになるはず。オチは分かるのよ、オチは。でも嫌ぁぁぁな、一番いって欲しくない展開に転がっていくのだ。シャクなので強引に誤読してみる。このカタツムリを何かの強迫観念―――たとえばフロイトばりにコンプレックスの一つのあらわれと見なしてみる。例えば「すっぽん」から垣間見える母親の抑圧が「かたつむり」への偏愛もしくはカタツムリそのものになっているとしたら―――これもオチは必然と書かれたとおりになるが、嫌な話だ。惹句に「忘れることを許されぬ物語」とあるが、言いえて妙。

 本書は、スゴ本オフでまちさんに教わったもの。まちさん、ありがとうございます。こんな嫌あああな後味を残す話、大好きです

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ナボコフ「賜物」にクラクラ

賜物 小説はフィクションだ。そんなの百も承知だが、ナボコフはその虚構のなかで「ホント」をつく。本当の中にウソを混ぜるから、ウソをウソと見抜けない。

 フィクションの中では一貫した「世界」を紡いでくれるかと思いきや、その期待をカクンと外してくる。異なる主格を滑り込ませてしゃべらせたり、延々と現実かと思いきやラスト一行で妄想扱いにしたり、虚構に虚構を重ねてくる。地の文がいつの間にやら恋詩になったり、小説内で小説のプロットを語りだす(しかもそれは、いまわたしが読んでいる奴なのだ!)。

 ではウソだらけかというと、そうではない。史実に忠実な描写をたんねんにうつしとることで、フィクションの「中の」リアリティは増すばかり。著者は否定しているのだが、主人公の若い身空とナボコフ自身の運命の変転がものすごい勢いでオーバーラップする。「賜物」の文壇への受け入れなさ加減なんて、文学が現実を予言して的中させた好例だろう。歴史や未来の「出来事」として、本書はリアルである一方、大きな嘘もつく。まるで、読み手に見抜いてもらうのを切望するかのように。

 たとえば、虹のふもとに立ったことがあるという父の話を、こう回顧する。

愛しの君よ!君は極楽の色彩見本のようだ!父はあるときオルドスで雷雨の後、丘に登ったところ、虹が立っているまさにその根元にひょっこり入り込んでしまい―――世にも珍しいことだ―――気がついたら、色とりどりの空気と炎のようにきらめく光に包まれ、まるで楽園にいるようだったという。
 虹は、太陽と観察者との位置によって見えるものだから、虹の根元にいる人は、その虹を見ることができない。だから父がかついでいるのは分かるの。では誰がその虹を見ているのか?と自問すると面白い。それは「父の語りを思い出している主人公」になる。もちろん主人公はオルドスの丘に行ったことがない。父の語りをリアルに思い出しているうちに、その観察者になった気なのだ。

 「『父の騙りを鵜呑みにして語る主人公』を騙るナボコフ」ように、意図的・無意識的を問わずミスティフィケーションが罠のように施されている。各ページに詳細な注釈が施されており、この助けがないと読み惑ってしまうだろう(ちなみに、この虹の嘘については注釈者も気づいていなかったりする)。

 語り視点の操作によるミスリードの誘いや、円環構造、意図的なずらし、替え玉、言葉遊び、アレンジメント、トートロジー、オマージュ、反復・照応・押韻、架空の書物、架空の著者と、文芸技巧のオンパレード、これでもかと盛り込んでくる。正直おなかいっぱいだし、全部わかる人っていないんじゃないの?とツッコみたくなる。

 でもときおり、ハッと胸をつかまれる表現に驚かされる。「ぴったり心臓の数だけ、銃弾があるのだ」とか、「どこか奥のほうの部屋で、警告の響きが感じられる幸せそうな母の笑い声が響いた」なんて使ってみたくなる。

シチョーゴレフは精力的に鼻息を立ててから、手前のドアをいきなり開け放った。後ろから服をいきなりめくり上げられた女性のように、小さな細長い部屋がこちらを振り返り、私たちの目の前で立ちすくんだ。
 一番気に入った擬人化は、この「部屋」。主人公と運命の人の初対面の一幕なのだが、この出会い、実は陰に陽に演出されまくっていたのだ―――というのがずっと後になって分かる仕掛けとなっている。

 ナボコフ一流の超絶技巧に翻弄される一冊。

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祝・復刊「家畜人ヤプー」【18禁・グロ注意】

家畜人ヤプー わたしのヤプー初体験はこれ。

 ある意味「わたし」を決定づけた禁断の一冊。もちろんケも生えていない小僧が、人体改造や汚物愛好、マゾヒズムの洗礼を受けることになる。今なら問題ありまくりだが、当時は「サイボーグ009」の延長で簡単にアクセスできた。あれだ、少年探偵団のノリで「人間椅子」や「芋虫」を読んでしまった衝撃と一緒だね。

 白が頂点に君臨し、黒は奴隷、黄色は家畜として養殖・飼育されている未来社会を描いたSFがこれ。ジャパンとは邪蛮(ジャバン、邪悪で野蛮)であり、スウィフトのヤフー(Yahoo)を文字ってヤプー(Yapoo)と称される「日本人」の末裔たち。縮小機や染色体手術により、徹底的に改造されたヤプーたちは、器物であり、動力であり、玩具であり、食物であり、機械装置にもなる。

 人権?ナニソレ?ではなく、最初から「人」ではないのだから権利もへったくれもないという設定が潔い。人種差別という範疇からも外れるのだ。「色のある皮膚は人権とマッチしない。でも、こんなことはヤプーとは関係のない話だわ。黒人は奴隷(slave)だけど、ヤプーは家畜(cattle)だもの」と言い切る。イルカは知能があるから殺しちゃダメとかいうレベルじゃないのだ。

    白人>>>>>> 黒人 >  ■■人間の壁■■ ヤプー 

 では、家畜のように使役され、屠殺され、皮や食用にされるだけの存在かというと、そうでもない。ヤプーの知性は高いというのだ(人でないのに!)。そして、その頭脳を利用して黒を監視する「黒奴監督機」なるものが登場する。つまり、つまり、白人はヤプーを使って黒奴を支配しているといえるのだ。「知能が高いから殺しちゃダメ」という理屈が鼻で笑われている。

 いちばんキたのは、生体家具(living furniture)と肉便器(セッチン)やね。特に肉便器の設定は本能を揺さぶられる。たとえ空想上だけでも、そういうものがあることを考えるだけで何かを掴まれたような気分になる。ヒロインの白人女性が、恥じらいながらオシッコを肉便器に飲ませるところは、厨房時代のわたしと激しくシンクロした。なつかしさとおぞましさが、記憶の深いところから喜びとともに立ち上ってくる。

キミの名を呼べば この郷愁と後ろめたさは、甘詰留太の「キミの名を呼べば」に相似する。ただし、その方向は逆になる。「キミの名を」は、ノスタルジックあふれる学園生活が舞台となっている。性欲のはけ口として学園の備品である肉奴隷少女への、許されぬ恋を描いたエロマンガだ。「ヤプー」が人からモノへと意識変革を推し進めるのとは反対に、「キミの名を」ではモノから人への回帰を見ることができる。

 方向は逆だけれど、読後の徹底したやりきれなさ感は一緒。そこでは、モノを人とみなすこと、人をモノとみなすことは、「異常」として扱われる。その世界の「常識」からの凄まじいまでの同調圧力。両方を知る読者からすると、異常なのはどっちだ?と自問する仕掛けが施されている。

 妄想を弄べ。現実か妄想かなんて、多数決で決まるものだから。

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中年必読、若者無用「可愛い女・犬を連れた奥さん」

可愛い女 チェーホフに言わせると、恋愛とは単純で残酷なものになる。

 恋とは、人生における一時的な気の迷い。ちょっとした、人によると熱烈な病のようなもので、深刻に受け取ったり、そいつで一大決心してしまうようなものではないのだと。よく「ハシカのようなもの」と片付けられる、まさにそんなちょっとした流行りものにすぎない。

 その気の迷いから踏み出した、あてどもない楽観主義と、踏み出さずに時の流れに放置した恋の残骸を、非情なまでに描写する。実らなかった恋、過ぎ去ってしまった思いが、もう思い出とすら名づけられないほど永く置き去りにされたとき、時の審判は、互いの貌や肢体や態度に残酷な判決を下す。恋愛とは、若いうちにとっては幻想であり、老いてからは幻滅にすぎないのだ。

 本書でつむがれる三編の物語において、それぞれ三つの人生が紹介されている。それぞれの恋と「その結果」は、一様にその儚さを指す。人の夢と書いて儚いと読むのは正しい。しかし、(ここで"しかし"と言わせてくれ)、それでも自分を納得させようとする「自分だまし」がいじらしい。

 たとえば、「犬を連れた奥さん」。もう若くない男が昔を思い起こし、かつて結ばれた女のことごとくが、自分に幻影を見出したのだと慰める。女は思い違いに気づき、別れと次の出会いをくり返すのみ。そして、恋をしたことなど、ただとの一度もなかったのだ、他のものなら、何から何までそろっていながら、ただ恋だけはなかった―――

 それだけ自覚しておきながら、いま自分が直面しているものを臆面もなく「恋」だと言い切る自信はどこから来たのか?かつて味わった胸の高鳴りと異なり、初めての(ように感じられる)ときめきだからか?

 ラストで、ここにきて、読者は置き去りにされる。100回まちがえたら、101回やりなおせばいい、そんなポジティブな(能天気な?)態度に、読み手は胸のうちでつぶやくだろう、「これで、いいのだ」と。

 これ読んでいると、わたしの人生は、ちょうどうまい具合のタイミングで、ちょうどいい感じのパートナーに、まさに"恵まれた"という言葉しかあてられないような結ぼれをしている。人生は変わる。人も変わる。わたしも変わる。なのに、なぜ恋愛だけが変わらないものとして扱われなければならないのかと、鋭い指摘が立っている。

 「思い出」に封じ込めればセピア色の風景として固着化できるって?嘘だ。セピア色の写真や品々は、"そのまま"かもしれないが、そいつを眺めるわたしは変わっていくものだから。ダイヤモンドは永遠の輝きかもしれないが、見る人は変わるのだ。

 チェーホフは淡々と、ユーモラスといってもいいほどの筆致で、内面の移ろいを描く。100年前のロシアに自分の心情を見出すのは、辛いし痛い。でも、おかげでチェーホフの作品の普遍性ではなく、自らの心情の遍在にも気づけるというのもホントだ(だからといって慰めになるわけでもないが)。

 若者ではなく、中年が読むとズンとくる一冊。

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まだ科学で解けない13の謎

まだ科学で解けない13の謎 科学の大発見をしたときの最初の言葉は、「わかった(エウレカ!)」ではない。「こりゃおかしい」だ。

 このアシモフの名言は、まんま本書に当てはまる。歴史をひも解くまでもなく、パラダイムシフトになる大発見は、「あたりまえ」「常識」とされている中の、説明がつかない場所に潜んでいる。そうした、変則事項(アノマリー/anomaly)の最もホットなやつを十三編の物語にして紹介している。膾炙した知見に反証実験や、現時点では説明できない(でも厳然たる)事象をジャーナリスティックに描く。

  1. 暗黒物質・暗黒エネルギー : 存在しない宇宙の大問題?
  2. パイオニア変則事象 : 物理法則に背くパイオニア号
  3. 物理定数の不定 : 微細構造定数の値は百億年で変わった?
  4. 常温核融合 : あの騒ぎは魔女狩りだった?
  5. 生命とは何か? : 合成生物は生物の定義となるか
  6. 火星の生命探査実験 : 火星の生命反応が否定された理由
  7. "ワオ!"信号 : E.T.からのメッセージとしか思えない信号
  8. 巨大ウイルス : ウイルスは真核生物の老化解明の鍵?
  9. : 死ななければならない理由が科学で説明できない
  10. セックス : わざわざセックスする理由が科学で分からない
  11. 自由意志 : 存在しない証拠が山ほど、信じる・感じるもの?
  12. プラシーボ効果 : 偽薬で効く証拠、効かない証拠
  13. ホメオパシー : 不合理なのに世界中で普及している理由
 楽しいのはこの著者、体当たりなところ。ネットと論文とインタビューでお終いではないのだ。「自由意志」を否定する実験では、脳への刺激で体を操る実験の被験者となってピノキオの気分を伝えたり、プラシーボ効果を試すための電気ショック実験を受けたり、だんだん気の毒に見えてくる。インタビュー先で「やってみます?」なんて、いたずらっぽい笑みを受けたんだろうなぁ、何度も。想像して微笑む。

 驚くような「疑問」も提示される。あたりまえすぎて、問うこと自体を忘れてしまったもの。「常識」への挑戦に、こっちまで発奮させられる一方で、反証を受け入れようとしないオーソリティの頑迷さにさもありなんと頷いたり。そうだよね、新常識が通用するためには、けっこう長い時間がかかるし、その「新常識」がさらに覆ったりするから。

 たとえば、3章「そもそも『定数』って、誰が決めたの?」という問いかけに驚いた。物理定数や物理法則って、本当に一定不変のものなの?物理の教科書に真っ向からケンカ売るようなジョン・ウェブの研究結果が紹介されている。それによると、微細構造定数α(アルファ)の値が変化しているらしい。つまり、120億年前は今より小さく、20億年前は今より大きいそうな。

 ……ということは、定数が時間・空間の両方によって変動しうることを意味している!? とジタバタしたくなる。残念ながら彼の研究は袋叩きにあい、無能のレッテルを貼られるか、完全に無視されているという。トンデモ扱いなのかなぁ……ジョン・バロウ「宇宙の定数」という本がよさげなので、ちょっと図書館行ってくる。

 あるいは、10章の「なんでセックスするの?」という疑問には、体ごとのけぞった。理論的に見ると、セックスつまり有性生殖は、欠陥だらけの生殖法なんだって。有性生殖では、相手が必要だし、自分の遺伝子を半分しか伝えられない。おまけに(無性生殖と比較すると)子孫の数は半分になる。

 つまり、セックスとは、「二倍のコスト」が伴い、繁殖速度も半分で、なおかつ遺伝学的に半分しか伝えられられない非合理的な行為になる。こんな非効率な生殖法が、なぜ淘汰されずに今も残っているのか?この疑問に科学はうまく答えられない。もちろん、様々な主張や理論や実証実験が挙げられているが、あちらが立てばこちらが立たず状態になっている。「きもちーから」というのは後付けになるだろうね、「なんでセックスをきもちーくしたの?」という別の疑問が被さってくるし。

 読んでいくうち、つくづく、研究とは「問い」に尽きると思えてくる。バカバカしい、と一笑に付すのは簡単だ。しかし、あたりまえすぎて意識すらしていなかった事実の「なぜ」を探っていくことで、大変革が起きている。わたしが子どものころ、思いついただけで考えることを放棄していた「問い」は、ちゃんと今でも生きている。たとえば、「アンドロメダ星雲は、自分の遠心力でバラバラにならないのはなぜ?」とか、「科学法則は、本当に宇宙のどこでも通用するのか?」とか。前者はダークマター(1章)、後者は人間原理(3章)で解説されている。

 本書のなかでも、ちゃんと研究するべきなのは、「プラシーボ」と「ホメオパシー」だろう。どちらも明らかに不合理なのに、「なぜ信じられているか?」「なぜ普及しているか?」は、トドメ刺すうえでも合理的に説明できるようになるべき(分子や化合物のふるまいの話ではなく、マインドコントロールの成果が出そうだが……)。

 経験や常識や権威を、あらためて疑ってみる。これがセンス・オブ・ワンダーなんだな。そういうことに気づかされる一冊。

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この恐ろしくも美しい未来「Build the Future」

 この世のものとは思えない。

Build the Future


 ロストテクノロジー話のラスボスで、世を統べる神のような存在は、こんな姿をしているんじゃない?現実離れした造形、悪魔的工学は、人の造りしものとはかけ離れている。手術衣のようなもので全身を覆った技術者は、アーキテクトというよりもアルケミストのようだ。

 種明かしをすると、これは岐阜県にある核融合科学研究所の大型ヘルカル装置。核融合ではプラズマを一億度以上にする必要があるが、そんな高温に耐えられる物質はない。そこで磁場によってプラズマを容器から浮かせることで超高温度を達成しようと考え、磁場によるプラズマコントロールを追及した結果、このような特異な形になっているそうな。

 テクノロジーの薀蓄はさっぱり分からないが、底光りするモリブデン鋼の螺旋構造体を眺めているとゾクゾクしてくる。高度に発達したテクノロジーは魔法と区別がつかないといったのはクラークだが、わたしには螺旋力を溜め込んだウロボロスに見える―――怖いのだ。

 そういう、人の造りしものとは思えない設備、装置、機械、構造物を、わんさかわんさとレナウン娘並みに撮ってきたのが西澤丞。工場萌えとかのレベルをはるかに超えており、シビれるというより畏怖するように魅入る。巨大構造物なのだから工学的・力学的に効率を追求しているはず……にもかかわらず、先端科学技術というよりも、むしろアートの一形態のように見える。撮り手もソコを意識しているようで、テクノロジーの中に生態系的というか魔術的な"なにか"を写し取ろうとしているような構図がちらほら。

 たとえば、首都圏外郭放水路の立ち並ぶコンクリ柱群は、そのままヨセミテ国立公園のセコイア・ジャイアント杉をほうふつとさせる。精緻を極めた建築物なのに、まるで巨大生物のように見える。そこでは、人の方が異物じみてくる。ギーガーが泣いて喜びそうな光景だ。あと、大強度陽子加速器施設とかスゲえぞ、直径500mのメインリングを2秒間で30万周する粒子は、ミクロン単位でコースを外れない。10億分の1の精度で、どういう魔法を使ったらそうなるのか見当もつかない。巨大かつ繊細な顕微鏡、その加速器は、プラグインされたドラゴンの胴体のように見える。

 SFだとか未来予想の範囲を超えており、素直に科学万歳と喜べない、寒気すら感じる。いっそ、異世界だとか未来人のテクノロジーだとか言ってもらったほうがいいくらい―――それほどわが目を疑うものばかり。畏怖と恐怖のほかに、究極の構造美を受け取るだろう。

 「Build the Future」の紹介ページはフォトグラファー西澤丞のサイトをどうぞ。小さい画像だが一部を見ることができる。

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