「フランケンシュタイン」という痴話喧嘩
神話の王道である「造ったものに滅ぼされる」メタファーとしてのフランケンシュタインは、映画やパロディでとても身近なもの。しかし、その原作メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」を読んでなかったので、一読して一驚する。
怪物の名は「フランケンシュタイン」ではなく、その造り主である科学者であることは知っていた。しかし、ハタチそこそこの学生であることには驚いた。そして、生命創造できてしまうほど生命科学に精通しているのに、いざデキてしまうと逃げ出してしまうチキン野郎であることを知ってクチがふさがらなくなった(呆れと哄笑で)。
それは、「できるから、やってみた」というノリなのだが、「科学」とはそういうものなのかもしれない。可能であることと、許されることは別なのに、同じ "can" で表現できるのが不幸の始まり。大仰な言い回しで自分の業績を誇り、過ちを他になすりつける態度は、言い訳に満ちている。後先考えずに中出しして、デキちゃった子どもを認知しないヘタレ野郎の詭弁を読まされるようだ。腹を立てるより抱えて笑ってしまう。認知しないヘタレのメタファーこそが、「フランケンシュタイン」なのだ。
そして、生み出される怪物―――名無しさんこそいいツラの皮だ。怪力の大男に幼児の知性といったイメージは、本作で徹底的に破壊される。チカラよりもスピードが人間離れしており、プルタークを読むくらいインテリで、「若きウェルテルの悩み」を共有できるくらいナイーヴなのだ。あの鈍重な「フンガー」を予想すると驚くこと請け合い。
しかもこの怪物、しゃべるしゃべる。「彼」の回顧録のために数章丸ごと割かれているくらいで、捨てられてから、自ら学び、復讐を決意するまでの経緯を淡々と語る。一見涙モノなのだが、どことなく胡散臭さを感じる。アイデンティティのない存在は、確かに悲劇なのだが、だかといって彼が手を染める凶行は許されるものなのか?禽獣であることを否定し、人性を求めるのであれば、罪に服することを自覚するのが先かと。
「彼」は、自分の犯罪の偶発性を強調する。最初の殺人とその罪のなすりつけは、偶然、フランケンシュタインの人生を痛めつけることになる。この偶然があまりにできすぎているため、「彼」の告白は疑わしく思われる。嘘をつくのではなく、全てを言わないという技を使ってくる。
これは、「『怪物の告白』を聞かされたフランケンシュタイン」の口述を書き留めた若者の手紙、という幾重にも引用された伝聞形式のせいでもある。現実との境界を手紙や口伝で超え、スーパーナチュラルなとこは、話者の演出として誤魔化す/煽ることができる。古典では典型だけど、今ならブレア・ウィッチ・メソッドだね。
そして、復讐の鬼と化した「彼」は、「覚えておけ、おまえの婚礼の夜に、きっと会いにゆくぞ」という捨て台詞を残す。ここからが、捨てられたオンナの怨み節の真骨頂といったところ。怪物の果たす復讐とは―――このミステリタッチはさすが。オチを知っていても、「志村ー後ろ!」とドキドキしながら読める。「アンタの不幸がアタシの望み」状態となったのは怪物だが、フランケンシュタインも同じ。互いに不幸になりあおうとする二人は、ドス黒い殺意を抱えた夫婦のように見える。
こうやって解くと、ゴシック・ホラー文学として名高い「フランケンシュタイン」も、認知しないヘタレに捨てられた女の復讐譚にも読み換えられる。作者シェリー夫人も結婚で苦労したようだが、同じまなざしを向けたわたしが下衆でしたごめんなさい。
さまざまな批評において、本作は「ペルソナとしての怪物」とされたり、ドッペルゲンガーの応用として挙げられたり、はたまたマッド・サイエンティストもののSFのはしりと評価されてきた。「批評理論入門」(廣野由美子)によると、ほとんどの批評家は、フランケンシュタインと怪物を、創造主と被造物、親子、自己と影という読み方をしている。しかし、これを「痴話喧嘩」として新しい読みができてしまうのは面白い。これは、「フランケンシュタイン」が優れた小説である証左といえる。
生命創造という寓意を科学と倫理に当てはめるのが、まっとうな「読み」だろう。だとすると、おそらくP.K.ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」あたりが正統派か。しかし、科学の発展云々の前から、わたしたちはヤってたんだよな、生命創造。なので、併読するなら、SFよりもむしろ、「ベビービジネス」をオススメしたい。親の好みどおりにカスタマイズされた「デザイナーベビー」を作って売る話だ。(既成)事実は小説よりもおぞましい→赤ちゃん売ります「ベビービジネス」そこに市場がある限り
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