嫌ぁぁな話ばっかり「11の物語」
読み手を不安にさせる短編集。読書とは毒書であることを思い出させてくれる。
サイケやホラーと割り切ってしまえればラクなのだが、焦点はあくまでも、登場人物の心の中(うち)にある。だから、事件らしい事件や、大仰な出来事が起こらなくてもじゅうぶんこわい。いや、こわいというより、イヤな気分になってくる。うっかり触れてしまったものが忌み物であることに気づき、洗っても洗っても落ちない「何か」が憑いてしまったかのような気になる。
パトシリア・ハイスミスといえば「太陽がいっぱい」だと思っていたが、こんなサイケなものをモノにしていたなんて。ウールリッチから事件色を薄めて、S.キングの初期の短編のような舌ざわりのミステリで、プロットやオチは早い段階で予見されるものの、嫌なほう、嫌なほうへと展開する。まるで読み手を試すかのように。
最初はフツウに見えるものの、「あれっ?」「おやっ?」ちょっと奇妙なズレに気づく。ページを追うにつれてだんだんズレが目だってきて、狂気にまで増幅される様を、ムダを省いた筆致で描く。当初の日常の延長上に、耐え難いほど異様な世界がある―――そんな異質的日常に読者は慣らされていく。人の壊れ具合を探していくうちに、壊れているのは読み手の価値観であることに気づくんだ。
たとえば、「アフトン婦人の優雅な生活」。夫の異常行動に悩む老婦人の話なのだが、オチは分かりやすい。ただ、サプライズ云々よりも、自分を幸せだと思い込む、その信念こそがいかにファナティックであるかが暴かれているところが、こわい。そこにある現実を認めるということは、これまでの人生を否定しかねないことだと薄々分かっている。だからこそ、必死になって妄想にしがみつく。終わってしまえば「妄想」で済むが、そこに住んでいるものはどうする?読み終わってから、じくじくと痛んでくる。
また、著者のカタツムリ好きが高じて、カタツムリの話が二編ある。読んだら表紙を見るのもイヤになるはず。オチは分かるのよ、オチは。でも嫌ぁぁぁな、一番いって欲しくない展開に転がっていくのだ。シャクなので強引に誤読してみる。このカタツムリを何かの強迫観念―――たとえばフロイトばりにコンプレックスの一つのあらわれと見なしてみる。例えば「すっぽん」から垣間見える母親の抑圧が「かたつむり」への偏愛もしくはカタツムリそのものになっているとしたら―――これもオチは必然と書かれたとおりになるが、嫌な話だ。惹句に「忘れることを許されぬ物語」とあるが、言いえて妙。
本書は、スゴ本オフでまちさんに教わったもの。まちさん、ありがとうございます。こんな嫌あああな後味を残す話、大好きです。
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コメント
いつも楽しく読ませていただいてます。
ハイスミスは長編しか読んだことがなかったので面白そうです。
あと、未読なので間違っているかもわかりませんが、「サイケ」は「サイコ」の書き間違いではないでしょうか?
投稿: kaz | 2010.06.14 08:41
>>kazさん
コメントありがとうございますー
「サイケ」も「サイコ」も、この小説では同じ意味だと思っています。オッサンなので、「サイケ」にしてみました。
投稿: Dain | 2010.06.15 00:04