はだかをはだかにする「はだか」
では、むちむち姉さんのではなく、「自分のはだか」ならどうだろう。脱衣所で目にするソレはあまり形容したくないし、人様にお見せするような代物でもない。温泉とかで裸体をさらすと、気恥ずかしいというか、妙に気まずい。そういう「文化」なんだろうと思考停止していたが、この「はだか」のおかげで気づきが山と出た。武蔵野美術大学の原研哉ゼミにおける、卒業制作を書籍化したものだ。
本書が提案する、さまざまな「はだか」のアイディアに接するうちに、「わたしのはだか観」なるものが見えてくる。つまり、わたしが「はだか」についてどのように考えているかが、「はだか」にされるのだ。これは、面白い。
たとえば、「りぼん」をはだかにするアイディア。少女マンガのキャラクターを、そのまんま、まるごと脱がす。顔やポーズ、セリフをトレースし、服だけを完全に脱がせた裸体で描き起こすのだ。中高生だから、全員が陰毛をしっかりと書き込まれている。が、いわゆるエロマンガのソレと異なり、これっぽっちもエッチに見えず、むしろ滑稽ですらある(エロスはチラリズムにこそ宿る)。
すると、いかに服装が記号として扱われているかを再認識させられる。衣服こそが個人にまとわりつくキャラクター性や立ち位置といった情報を体現していたのだ。「はだか前」と「はだか後」と比較されているから分かるものの、彼・彼女たちがやっていることは、着ている服によって決定づけられている。チアガールの格好をしていないと、セリフだけで分からないし、制服を着ていないというだけで、ストーリーすらあいまいになる。キャラの描き分けは、衣服で行っていたのだ。作者と読者の暗黙の了解のようなものなのかも。「はだか」にすることで逆にキャラが見えなくなってしまう矛盾。裸は個を消すのだ。
あるいは、「メタボリック・リカちゃん」人形に戸惑う。でっぷり太った肥満体のリカちゃんや、ガリガリに痩せたリカちゃん(ダイエットしすぎ?)、O脚のリカちゃんを実際に作り出し、わたしたちがどう反応するか、試すのだ。
わたしの心に生まれたものは、気まずさ。リカちゃん人形という、いわば理想体型を想定してたら裏切られた感覚。これを著者は、「はだかへの羞恥のもと」だという。人間のはだかは、ひとつとして同じものはない。だから羞恥は、自分のはだかの特殊性・個別性に由来するというのだ。おなかが出ているとか、乳首の感覚が広いとか、理想の体型からの偏差が羞恥を生み出すと述べている。肌の露出そのものではなく、個体の偏差を露呈することが、はだかへの羞恥の本質だという。
本当だろうか?
仮に偏差が羞恥の本質だというのであれば、着衣によって隠されていない「顔」について考える必要がある。なぜなら、人によるもっとも偏差の激しいものは、「顔」そのものだから。実際のところ、顔の偏差はそれほど異ならない。目鼻のつくりつけはそんなに変わらない。しかし、われわれはふつう、それぞれの個体認識を「顔」によって行っている。したがって、偏差はすでに意識されており、服を脱いだところでことさら(偏差が)生まれてくるものでもなかろう。
しかも、少女マンガを脱がすことから導かれる、「裸は個を消す」ことと反している。偏差を持ったリカちゃんのはだかは、まさにリアリティをもった「はだか」のモデルだという主張には同意だが、そこに生まれた気まずさは、見慣れないもの(見てはいけないもの?)を見てしまったことから出る感情だとおもうぞ。
いちばん印象的だったのは、地球をはだかにすること。つまり、海という「衣服」に覆われた海面下の世界をあらわにするのだ。衣服から露出した肌(陸地)の部分のみを見て地球の姿をとらえていたイメージが、完全に崩れ去る。海をはぎ取った「はだかの地球」は、見慣れた姿とはおよそかけ離れた迫真の様相をしている。荒々しいギザギザの尖り、ねじれ、吹きっさらしの肌理は、地球がもりもりと動いてきた軌跡をそのまま見せつけてくれる。
「はだかの地球」を眺めているうちに、わたしは、地球というものを、陸と海の境界線という情報で認識していたことに気づく。太平洋に浮かぶグアム・サイパン島は、巨大山脈のほんの山頂のきれっぱしにすないし、日本海溝は岩石のシワやミゾの集積だ。人は、海水を避けたその欠片のてっぺんにしがみついているにすぎないことが分かる。宇宙から撮った地球画像で国境線の不在をあらためて知るように、海の不在は人類の生物圏を逆にあらわにするのだ。裸にすることで、反対に「ある」ものが強調されるのは面白い。裸そのものが、いかに「ある」ものなのかを知らなかったから。既に知っている「はず」だと思っているものを、もう一度知るんだ。
この、「いかに知らないかを分からせる」手法は、著者の言を借りると、ex-formation というらしい。information の対義語として考案した造語で、既知なるものを未知化することで、まるでそれに初めて触れるかのような新鮮さをともに味わい直してみるという実験なのだ。見慣れた「はだか」が、初体験の裸になる一方で、「はだか」として知覚できなかったものが、はだか化する瞬間を体感する。
日常生活で安定化させられていた感覚や意識に"ゆさぶり"をかけてくる一冊。
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