怒らずに生きる技術。つまらないことにイライラせずに生きたいもの。
実をいうと、わたしはかなり怒りっぽい。頭からっぽの政治家に毒づき、無脳なキャスターは○ねばいいのにと本気でヒートアップする。子どもの反発に腹を立て、嫁さんと口論しては感情的になる。朝から晩までプリプリしてる日もある。
だからこそ、怒らずに生きるにはどうすればいいか、考えて、読んで、試した。その過程+とりあえずの結論は、「怒らないこと」はスゴ本や、正しい怒り方になる。左記のエントリには書かなかったけれど、コヴィー「7つの習慣」とアーヴィンジャー「箱」にはお世話になったっけ。
そして今回、ローマの賢者・セネカの「怒りについて」で思った、これは「脱怒ハック」だってね。怒りそうになったら、脱兎のごとく逃げ出そう。これぞ脱怒ハックなり。つまり、怒りに満ちた人生を脱出するための技術が(おぞましい具体例つきで)紹介されているのだ。「怒る技術」という本があるくらいだから、「怒らない技術」とかソレっぽいネーミングでリライトすれば売れるかもよw
■ 怒りとは何か
セネカは怒りをこう定義する : 「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である」。つまり、自分が不正に害されたとし、その相手を罰することを欲する、いわゆる「報復の欲望」なのだという。
そして、怒りとは「弱さの証明」だとも述べる。セネカは、怒りっぽい人を想像してみろと促し、老人か幼児か、さもなくば病人だという。およそ、ひ弱なものは怒りっぽいのだ。え?わたしの上司は?あの権力者で怒りっぽいのがいるではないかと考えるのだが、よく観察してみよう。怒りっぽい奴は皆、おびえていることが分かる。無能を暴かれ、その椅子から滑り落ちることに。
面白いことに、シャカとセネカが似たことを言っている。すなわち、怒りとは自分で毒を飲むようなことで、文字通り身を滅ぼす感情だ。人間の本質は時空を超えても変わらないことにタメ息。セネカが違うところは、怒りに身を任せた愚帝が何をしたかを詳細に記したところ。淡々とした筆致でエグい話をつづっている。
■ 怒りへの最善手
まず「怒り」の感情を認めろという。サイアクなのは、自分が怒っていることを認めないことで、狂人が己の狂気を認めないのと同じだというのだ。「怒ってないよ!」とアツく言いたくなったら、「酔ってないよ!」という酔っ払いを思い出そう。自分が怒るとき、どんな身体的反応が起きていたか、思い出してみるとなおよろし。「次」が予想できるからね。
そして、怒りに対する最も有効な対処は、「遅延」だと断言する。ようするに、「ちょっとマテ」というのだ。自分に対して不正がなされた、という最初の興奮は「怒り」ではないという。しかし、その後に続いて起きる衝動と、復讐へ突き進んでいく激動こそが怒りなのだ。だから、最初の興奮(今風なら、びっくりした、ガツンときた、えっ?と驚いたetc......)の後に続く、「これはひどい」という判断を猶予せよというのだ。
それができれば苦労はしないよ、と思う。それができないから苦労してるんだ、と怒るかもしれない。しかし、わたしよりもずっと賢いシャカとセネカが口をそろえて言うのだから、おそらくこれが最善手なのだろう。学問とダイエットに王道が無いように、怒りを脱出するお手軽な方法も無いのだ。そうだね、「巻くだけ」で怒りとはオサラバできるバンドが売ってたら買うよねw
■ 怒りを延期させる方法
怒りには時間が効く、ということは分かった。確かに感情的にワーッとなっても、一晩寝かしたら冷めることもあるし、怒っているときに下した判断は必ず誤っているというマーフィーもある。ようするに「頭を冷やせ」だね。では、どうすれば怒りを延期させることができるだろうか?
セネカは怒りから「逃げろ」という。自分に罵声を浴びせ、自分を怒らせるような者から(物理的に)遠ざかることで満足せよというのだ。または、怒りという中に逃げ込もうとする自分を指摘する友人に頼めという。そして、「怒り」そのものから自分を引き離せと提案する。友人がいないなら、鏡を見ろという。怒りがどれほど内面だけでなく形相を変化させたかに気づけば、現実に戻ってこれるというのだ。
ここは、わたしの考察と似ている。子どもが怒り出したとき、「手を洗いに行け」と教えている。いったんトイレに入って、それから手をしっかりと洗ってこいと。そうすることで、怒りが発生した場所から物理的にも時間的にも隔たることになる。「頭を冷やす」ほどの効果はないかもしれないが、一気に感情が爆発することは避けられる……はず(自分で実験済)。
もっとも避けるべきは、判断する前に怒ることで、怒りは未解決状態にとどめておくべきだという。「罰は延期されても科すことができるが、執行後に取り消すことはできない」は刺さる至言だ。感情的になった勢いで何度となく後悔するハメになる暴言を吐いた夜をたくさん思い出すから。
スィーヴン・コヴィーは「7つの習慣」でこのような図をあげている。刺激と反応のモデルだ。外部から受けた刺激(この場合は「怒り」を引き起こす不正)に対し、反応するだけの場合だ。こんな感じになる。
刺激⇒⇒⇒反応
刺激に対して反射的に反応している場合、「不正⇒怒り」のスパイラルから逃れられない。だがよく見てみよう、「刺激」と「反応」の間にスキマがあるんじゃないの?この間(セネカは「遅延」と呼んだ)を置くことで、「怒り」の反応を吟味する自由が生まれてくる。言い換えると、時間的なスキマがあって初めて、判断することができる。
刺激⇒ ⇒反応
もちろん「怒り」という選択を取るかもしれないが、少なくとも条件反射のように怒りまくることはなくなる。自らの価値観に沿った反応を選び取る自由が生まれるのだ。コヴィーはこれを「主体性」と定義した。
刺激⇒ 【反応を選ぶ自由】 ⇒反応
そして、主体性によって反応を選ぶ「判断」が働くとき、ほとんどの場合、いや全ての場合、「怒り」という選択は「選んでいない」ことになる、というのがセネカの主張。なぜなら、怒りというのは、感情の噴出に自らを譲り渡すことなのだから。もちろん、(周囲を動かすための)偽りの怒りという作戦もアリだ。しかし、それは「怒りの演出」を選んでいるため、セネカのいう怒りとは異なってくる。
いずれにせよ、ニセモノの怒りを除けば、「怒り」を選ぶことはありえない。そして、選ぶ自由を得るためには、トイレに行って手を洗うとか、深呼吸するといった時間的(ひょっとすると空間的)なスキマ=「遅延」が必要になる。
■ 「私は何も間違ったことをしていない」という人には
「私は何もしてない」「私は間違っていない」と強く思うときがある。胸かアタマか、怒りが今にも広がろうとする瞬間だ。セネカ翁は、そんなときはこう考えろという、「だが、まさにそのとき、悪事と傲慢と頑固さを付加するという過ちを犯しているのだ」。
つまりこうだ、「間違っていない」という裏側には、「法を犯してなどいない」とか「正しいのは私だ」という気持ちが待っている。セネカはうそぶく、法に従うから善人だというなら、無辜とはなんと狭隘なことかと。法で律せられる範囲なんて狭いものよ、それよりも義務の原則―――孝心、思いやり、寛容、公正、誠実のほうがどれほど広範囲を覆っているのだろうかと。そして、法はもとより、この義務の原則に従えというのだ。
セネカはもっと気の利いた言い回しを使う。「誰もが自分の中に王の心を宿している。専横が自分に与えられるのを欲し、自分がこうむるのは欲しない。だから、われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である」と。「わたしが正しい」からといって、それは怒る理由にはならない。むしろ、「わたしが正しい」傲慢さを思い知れ。
■ 「やられたらやり返すべきだ」という人には
しかし、それだとやられっぱなしじゃないか。苦痛を与えてくる輩には、苦痛を返してやるのが相応だ、という意見がある。その通りだと思う。目には目、歯には歯、やられたらやり返す、こっちもスカッとするためにね。
それでもなお、セネカはこういう。それは違うと。不正には不正をでは話が違うというのだ。不正をこうむったからといって、こちらが不正を反してやる筋合いは無く、しかも醜いという。苦痛の仕返しは、苦痛を与える順番を除いて大差ない。さらにこちらも過ちを犯すことになる。不正を犯した相手は、「不正を犯した」という罰と後悔の呵責を既に受けているのだからだと。
ううむ、こっちが怒りたくなるような相手は、「後悔の呵責」なんて自覚しないと思うが、セネカの周囲はよっぽど高潔な連中が集まっていたに違いない。しかし、不正を見過ごしたままだと、舐められっぱなしじゃないか?レベルによるが、いじめっ子には、二度とそのようなことをさせないためにも、「返礼」は必要じゃないかと。
わたしの声を聞いたかのように、セネカは応える。「報復に訴えるなら、怒りなしにしようではないか」と。これにはガツンとやられた。いじめられている子に、「やり返せ」というのは酷なもの。まさにやり返さないような子を狙って「いじめ」が横行するのが常套なのだから。セネカ流なら、怒ったまま行動すると狙いが外れる。冷静に、怒りなしで、復讐せよ、ということになる。でもまず第一に、「逃げろ」が正解やね。
相手があなたを殴る。退きたまえ。打ち返せば、さらに何度も殴るための機会と言い訳を与えることになる。望んでも身を引けなくなるだろう。
■ 「間違えたら、怒って叱るべき」だという人には
はいはい、それわたし。何度言って聞かせても間違える人には、やっぱりガツンと怒ってやらないと─――という人には、セネカはこう例を挙げる。
むしろ、誤りに対して怒るべきでないと思いたまえ。もし誰かが、暗闇の中におぼつかぬ足取り歩む人に怒るとしたらどうだ。耳の聞こえない人が命令を聞いていないのならどうだ。
無知は怒る理由にならないときっぱり言う。病人の激怒、狂人の罵言、子どものいたずらに耐えられるのは、彼らは何をやっているか知らないから。ナザレ人(びと)が磔刑にされたとき、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないのです」と言ったことを思い出す。ナザレ人ほどの器はないけれど、「道を知らないせいで土地をさまよう人がいたら、追い払うより正しい道を教えてやるほうがいい」という助言は耳に留めておくべし。
「間違えたら、怒って教える」ことについて、もう一つ思い出したことがある。息子の勉強を見ていて、何度やっても同じミスをくり返すときだ。その瞬間、「ここはひとつ、ガツンと怒ったほうが身にしみるかな?」と考えてしまう。すると、あるニューヨークの教師が書いた一文を思い出す。そこにはこうある。
もしある生徒が掛け算で悪い点数をとったら、それはたった一つのことを意味する。彼がまだ掛け算のスキルを理解していないということだ。だから喜んでふたたび彼に教えればいい
これは「子どもにいちばん教えたいこと」からの一文で、わたしのレビューは、親になったら読むべき6冊目「子どもにいちばん教えたいこと」にある。まさに、道に迷った人がいたら、(怒らずに)道を教えてやればいいってやつ。久しぶりに自分が書いたものを読み返してみた……すごく参考になったよ、自分が書いたのにwwwブログ様サマやね。
■ セネカも怒りんぼじゃね?
古今東西の賢人や王の例をひいては、「怒り」が何をもたらしたか、奪ったかをこれでもかと主張するセネカ。そういう彼に耳を傾けていると、はっきり言います、あなたのような生き方をしている限り、人生は千年あっても足りません。時間などいくらあったところで、間違った生き方をすればすぐに使い果たしてしまうものなのですを思い出す。これは、セネカ「人生の短さについて」で述べられている持説は、そのまま彼の後悔ばかりの人生を裏返している天邪鬼的な読みなのだ。
だから、怒りが行動を、行動が習慣を、習慣が性格を、性格が人生を変えてしまった究極の実例は、セネカの周囲か、ひょっとすると自身なのかもしれないと考えると愉しい。裕福な出自でトントン拍子に出世したのはいいものの、暴君ネロに睨まれて自殺を命ぜられる。思い通りにならない政界や、不合理な命令にセネカ自身、幾度となく激怒しては後悔してたんじゃぁないかと妄想しながら読むと、一読で二度おいしい。
「怒り」は性格ではない、選択だ。怒らずに生きるには、ちょっとした遅延をもうける技術が必要。選べる人生で、つまらないことにイライラせずにいきたいもの。技術は学べる。だから、怒らずに生きることを選ぼう。
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