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スゴ本オフ(LOVE編)について補足

 5/14に半蔵門でスゴ本オフやります。申込いただいた方全員へBook talk cafe やすゆきさんからメールが届いているはず……一名、御登録いただいたアドレスが誤っていた方がいらっしゃいます。ご案内メールが届いていない方は、お手数ですが、再度ご連絡ください。

 ここでは、スゴ本オフ(SF編)をふまえて、どんな風にするかメモしてみようかと。

【非】勉強会です。いわゆる「お勉強」はしません。テーマに合わせ、めいめい好きな本を持ち寄って、みんなで語り合う会合です。本を介して新たな読み手を知ったり、人を介してぜんぜん知らない本に触れるチャンスです。

テーマは「愛/LOVE」です。「愛」や「恋」がテーマであれば、小説、コミック、エッセイ、ハウツー、詩歌……なんでもOKです。スタンダードから、変本まで幅広です。重要なのは、その本への思い入れ。作品へのアツい思いをゆるく語り合いましょう。

ブックシャッフルします。いわゆる「本の交換会」です。オススメ本をランダムに交換しあいます。交換する本は「放流」だと思ってください。「秘蔵本だから紹介はしたいけれど、あげるのはちょっと……」という方は、「紹介用」と「交換用」、それぞれ別の本にしてもOKです。

ネットで広がります。Ustream/Twitter/Blogで、オススメ合いをさらに広めます。「その本が良いなら、コレなんてどう?」の反響は、時間空間を超えて広がります。抵抗がある方には、もちろん「見てるだけ」「透明人間」もアリですよ。ちなみに、Twitter のハッシュタグは、 #btc02 です。

オススメ本がカブるかもしれませんが、たいしたことありません。大事なのは、その本がいかに自分に影響を与えたかということを、自分を例にして語れるか、です。わたしがこのblogでやっていることがまさにそれ。プラスであれマイナスであれ、自分の実人生に大きくガツンとキた本が、すごい本=スゴ本なのですから。

ちなみに、前回のSF編でヒアリングしたところ、了解のお返事をいただけたので、変態リミッターをカットしてまいりますね。


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「土の文明史」はスゴ本

土の文明史 土壌の肥沃さと土壌浸食から歴史をとらえなおす快著。文明の発展は土壌の搾取と放棄のくり返しによるものだということが分かる。

■ 結論

 本書のシンプルな結論を図で説明する(p.17より引用)。「土」はもっとも正当に評価されていない、かつ、もっとも軽んじられた、それでいて欠くことのできない天然資源である。肥沃な土壌は、地下からの岩石の風化と地表での侵食、およびその間の微生物・昆虫・ミミズなどの生物と植物類の生態系のバランスの上に成り立っている。あらゆる文明の興亡は、「いつこの土壌を使い尽くすか」「肥沃度をどのように保(も)たせるか」に依拠する。土壌の生成を上回るペースで浸食を加速させる農業慣行により、肥沃な土壌を失ったときが、文明の滅ぶときである。つまり、土の寿命こそ文明の寿命なのだ。
Tuti
■ 超広角で大深度で人類史的な視座

 環境破壊が歴史を変えた着眼点に「土」をもってくるところがユニークだ。しかも著者は、堆積物のコアを放射性炭素年代測定で調査する。どの年代にどの程度の侵食/風化がなされたか、さらに遺跡物からどのような農耕慣行がなされていかをファクトベースで主張しており、非常に説得力がある。土地の劣化がそのまま帝国の衰亡の直接的な引き金ではないにしろ、社会の基盤そのものを脆弱にしたのは、土壌の流出による人口を養うコスト増を指摘する。

 そして、面白い/恐ろしいことに、同じ指摘はくり返されてきたという。古代ギリシア・ローマ帝国の衰亡、ヨーロッパの植民地制度、北米大陸におけるアメリカの西進において、土壌肥沃度の重要性はさまざまな形で訴えられてきたというのだ。家畜の放牧や肥料などにより、土地に再投資することで土壌を維持する方法を試みた者もいる。土壌肥沃度を高めることが重要であるとわかっていながら、その主張はくり返し無視され、土壌は喪失されてきたという。

 著者は、あたりまえのように使われてきた農耕技術についても、土壌の荒廃を加速するものとしてダメ出しする。たとえば灌漑には、隠れた危険があるという。灌漑をくり返すことにより、地下水が毛管現象で蒸発し、土中に塩分が残るようになる(塩類化)というのだ。また、鋤の使用により単位面積あたりの生産高は向上したが、風雨による侵食スピードと土壌の流出を加速することで、土地は荒廃しやすくなるという。目先の収穫のために長期的な生産量が犠牲にされ、数百年で土地は使い物にならなくなる。

 この著者の広角視点により、人類が土地を消費してきた歴史があらわにされる。土壌の形成は非常にゆっくりとしたものだから、それを捕らえる視線も長期スパンになる。だいたい文明は800年から2000年、おおむね30世代から70世代存続している。簒奪や植民地化により、新たに耕作する土地があるか土壌生産性が維持されている限り、社会は発展し反映する。いずれも可能でなくなったとき、すべては崩壊する。

■ アスワン・ハイ・ダムの皮肉

 この例外であるナイル河流域の運命は、笑ってはいけないのだが笑い話にしか見えない。エジプトの農業はファラオからローマ帝国を経てアラブの時代に至るまで7000年ものあいだ持続可能だったが、これにはちゃんとわけがある。ナイル河の毎年の氾濫により、塩類がほとんど含まれない肥沃なシルトが沿岸に運ばれているからなのだ。

 しかし、アスワン・ハイ・ダムの建設により、農業環境が破壊される。氾濫がなくなり灌漑用水のおかげで二毛作・三毛作が可能となったが、シルトは運ばれなくなり塩類化が進んでいるという。氾濫防止と灌漑用水を目的として建設されたダムが、逆にそれを加速するなんて、皮肉な話だ。

 さらに、低下する収穫量を回復させるため、農業生産は化学肥料で維持されるようになるのだが、その化学肥料は、アスワン・ハイ・ダムで発電される電気によって生産されるのだ。いまではナイル河沿岸の農家は、世界有数の化学肥料の消費者となっている。アスワン・ハイは、もはや皮肉は通り越したところにある記念碑だな。

■ 植民地化→グローバル化=土壌搾取のアウトソーシング

 近現代の欧州および北米の歴史は、土壌流出のアウトソーシングの歴史だといっていい。ヨーロッパは繰り返される飢餓問題を、食料を輸入し人間を輸出することで解決した。言い換えると、ヨーロッパは食糧生産をアウトソースしながら、工業経済を築き上げたというのだ。

 著者の視線があまりに幅広なのでピンとこないのだが、要するに、遠く離れた大陸の土壌肥沃度を搾取するいっぽうで、自国の経済の工業化を推進するものが植民地政策の本質なのだそうな。結果、その流れは現代の「市場のグローバル化」につながる。より豊かな市場を求めて農産物が海外流通するのが、今日のグローバル化した農業だ。これは、ヨーロッパの都市への食糧供給を助けるために成立した植民地プランテーション遺産の反映なのだ。つまり、土を現金に換えているだけにすぎない。そして収穫物が搾り取れなくなった土は棄てられ、新たな市場を含めた開拓がなされる。植民地は、文字通り「食い物にされた」というのだ。

 北米も同様だという。植民地の拡大ではなく、農地の西進化が土壌を搾取した歴史になる。タバコと綿花栽培は、手っ取り早く農作物を現金化することで大いに開墾されたが、農場経営者は地力を回復させるためになんの努力もしなかったという。土が与えるものを受け取り、何も与えてくれなくなれば捨てる。古い土地を蘇らせるより、新たな土地を開墾するほうを好んだ結果、土地の荒廃が西へ西へ―――太平洋へ達するまで続くことになる。

■ ローマ、欧州、北米の土壌搾取の歴史に共通するもの

 良好な土地が無造作に使い捨てされるのを見て、アメリカ農業の愚かしさを嘆くイギリス人の手記があるが、自国も同じ歴史をたどってきたことに反省しない罠に笑ってしまう。ローマ、欧州、北米における土地荒廃の歴史には、共通した罠―――地主制度が潜んでいる。

 つまり、プランテーションの所有者が、自らの土地を耕していなかったことが問題の本質だという。土壌疲弊の問題をもっとも認識すべき人々が、実際に農地で働いていなかった。そこでは雇われた監督と小作人が働いており、彼・彼女らは出来高で給料が支払われる。土壌肥沃度を維持して地主の利益を守るよりも、各年の収穫を最大にするほうを目指すことになる。土地が荒廃すれば、次の場所を開拓し、開拓する土地がなくなれば、他国を収奪する。二千年前の古代ローマと同じように、不在地主制度が土地を浪費するシステムを助長したのだという。

 さらに現代では、この土壌搾取の構造が、より巧妙になっている。地代や農耕機械・化学肥料のローンだ。かつてのような植民地の支配-被支配構造に取って代わり、農業を営む人は、機械化と化学肥料の購入費を稼ぐために、土壌を収奪する。機械化されてた大規模農場は「経営」されるものなのだ。つまり、買ってきた養分を"インプット"し、もっとも市場で求められている収穫物を"アウトプット"する。その間の"メンテナンスコスト"を最小化することが求められており、土壌喪失だとか持続可能性だとかは問題にすらされない―――今のところは。

■ 地球という「島」

 人類史をたどりなおすようにして、土壌が果たした本質的な役割を探る試みは、とても新しく感じた。さらに、農耕の発達が人口増をもたらす一方、それらをたゆみない収穫量の増加によって養うという終わりのないレースだと喝破する視点はスゴいと思う。広く、深く、長いスパンを持った目線でないと、見えない。

 そして、ちと恐ろしいシミュレーションを、過去の「実験」に求めている。大ざっぱにいって、文明の寿命は、農業生産が利用可能な耕作適地のすべてで行われてから、表土が侵食されつくすまでにかかる時間を限界とする。もちろん気候や地質学的条件は異なれど、土地の荒廃は文明の生命線を断つことにつながる。このシミュレーションを、土地利用が限定されたイースター島の歴史に求めている。限られた土壌資源を使い果たし、ついには互いに喰い合う食人にまで行き着いた事例はヒトゴトに思えない。

 荒廃のテンポは非常にゆっくりしているので、なくなったことに気づかないのだ。そして、次の、次の次の世代では、「なくなったこと」がデフォルトとしているため、失いつつあることに気づかないのだ。土壌を地球の「皮膚」に喩え、地球を「島」に喩える著者の皮肉は、ジョークにしたくでもできない。

■ では、どうすればよいか?

 これだけ脅してきたのだから、対策について考えているかな?かな?とおそるおそる読むのだが、めぼしいものはない。ペルーの「土地を耕さない独特の農法」「輪作・休耕・堆肥と灰の使用」の事例を挙げたり、地産地消を目指す農業の非グローバル化や、都市農業の可能性を模索している。バイオテクノロジーはほんの触れる程度で、土を一切使わない水耕栽培も含めると、別の可能性も見られたかも。さらに、流れ出した「肥沃さ」の行き着く先―――海洋についてまったく触れていない。土壌の肥沃さを吸収する海洋資源を目指すのが近未来だと予測しているので、このテーマは別の本で追ってみよう。「土」に軸足があるのだから仕方ないかもしれないが……

 もちろん人類史をひっくり返して「土」の面から再評価を行ったのはスゴい労作だが、どうすれば土壌を保全する動機付けができるとか、非グローバル化の潮流を作り出せるかとか、持続可能性を高めるテクノロジーについては、別の資料を探すべきなのかもしれない。ただ、すべてをゼニカネで換算するグローバル資本主義の下では、泥の価値は非常に低くみられがちだ。けれどもさらに見方を変えると、銭金を泥に換えられるのなら、地球という土壌を使い尽くす未来を変えられるかもしれない。そして、「銭金を泥に換える」方法(慣行、技術、事業)を見つけた人は、そのまま世界を手にすることになるだろう―――ずいぶんとスケールがデカい話になったが、読み手をそうさせてくれる危機感と視野感覚を煽って広げてくれる、それが「土の文明史」なんだ。


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脱怒ハック「怒りについて」

 怒らずに生きる技術。つまらないことにイライラせずに生きたいもの。

 実をいうと、わたしはかなり怒りっぽい。頭からっぽの政治家に毒づき、無脳なキャスターは○ねばいいのにと本気でヒートアップする。子どもの反発に腹を立て、嫁さんと口論しては感情的になる。朝から晩までプリプリしてる日もある。

 だからこそ、怒らずに生きるにはどうすればいいか、考えて、読んで、試した。その過程+とりあえずの結論は、「怒らないこと」はスゴ本や、正しい怒り方になる。左記のエントリには書かなかったけれど、コヴィー「7つの習慣」とアーヴィンジャー「箱」にはお世話になったっけ。

 そして今回、ローマの賢者・セネカの「怒りについて」で思った、これは「脱怒ハック」だってね。怒りそうになったら、脱兎のごとく逃げ出そう。これぞ脱怒ハックなり。つまり、怒りに満ちた人生を脱出するための技術が(おぞましい具体例つきで)紹介されているのだ。「怒る技術」という本があるくらいだから、「怒らない技術」とかソレっぽいネーミングでリライトすれば売れるかもよw

■ 怒りとは何か

 セネカは怒りをこう定義する : 「怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である」。つまり、自分が不正に害されたとし、その相手を罰することを欲する、いわゆる「報復の欲望」なのだという。

 そして、怒りとは「弱さの証明」だとも述べる。セネカは、怒りっぽい人を想像してみろと促し、老人か幼児か、さもなくば病人だという。およそ、ひ弱なものは怒りっぽいのだ。え?わたしの上司は?あの権力者で怒りっぽいのがいるではないかと考えるのだが、よく観察してみよう。怒りっぽい奴は皆、おびえていることが分かる。無能を暴かれ、その椅子から滑り落ちることに。

 面白いことに、シャカとセネカが似たことを言っている。すなわち、怒りとは自分で毒を飲むようなことで、文字通り身を滅ぼす感情だ。人間の本質は時空を超えても変わらないことにタメ息。セネカが違うところは、怒りに身を任せた愚帝が何をしたかを詳細に記したところ。淡々とした筆致でエグい話をつづっている。

■ 怒りへの最善手

 まず「怒り」の感情を認めろという。サイアクなのは、自分が怒っていることを認めないことで、狂人が己の狂気を認めないのと同じだというのだ。「怒ってないよ!」とアツく言いたくなったら、「酔ってないよ!」という酔っ払いを思い出そう。自分が怒るとき、どんな身体的反応が起きていたか、思い出してみるとなおよろし。「次」が予想できるからね。

 そして、怒りに対する最も有効な対処は、「遅延」だと断言する。ようするに、「ちょっとマテ」というのだ。自分に対して不正がなされた、という最初の興奮は「怒り」ではないという。しかし、その後に続いて起きる衝動と、復讐へ突き進んでいく激動こそが怒りなのだ。だから、最初の興奮(今風なら、びっくりした、ガツンときた、えっ?と驚いたetc......)の後に続く、「これはひどい」という判断を猶予せよというのだ。

 それができれば苦労はしないよ、と思う。それができないから苦労してるんだ、と怒るかもしれない。しかし、わたしよりもずっと賢いシャカとセネカが口をそろえて言うのだから、おそらくこれが最善手なのだろう。学問とダイエットに王道が無いように、怒りを脱出するお手軽な方法も無いのだ。そうだね、「巻くだけ」で怒りとはオサラバできるバンドが売ってたら買うよねw

■ 怒りを延期させる方法

 怒りには時間が効く、ということは分かった。確かに感情的にワーッとなっても、一晩寝かしたら冷めることもあるし、怒っているときに下した判断は必ず誤っているというマーフィーもある。ようするに「頭を冷やせ」だね。では、どうすれば怒りを延期させることができるだろうか?

 セネカは怒りから「逃げろ」という。自分に罵声を浴びせ、自分を怒らせるような者から(物理的に)遠ざかることで満足せよというのだ。または、怒りという中に逃げ込もうとする自分を指摘する友人に頼めという。そして、「怒り」そのものから自分を引き離せと提案する。友人がいないなら、鏡を見ろという。怒りがどれほど内面だけでなく形相を変化させたかに気づけば、現実に戻ってこれるというのだ。

 ここは、わたしの考察と似ている。子どもが怒り出したとき、「手を洗いに行け」と教えている。いったんトイレに入って、それから手をしっかりと洗ってこいと。そうすることで、怒りが発生した場所から物理的にも時間的にも隔たることになる。「頭を冷やす」ほどの効果はないかもしれないが、一気に感情が爆発することは避けられる……はず(自分で実験済)。

 もっとも避けるべきは、判断する前に怒ることで、怒りは未解決状態にとどめておくべきだという。「罰は延期されても科すことができるが、執行後に取り消すことはできない」は刺さる至言だ。感情的になった勢いで何度となく後悔するハメになる暴言を吐いた夜をたくさん思い出すから。

 スィーヴン・コヴィーは「7つの習慣」でこのような図をあげている。刺激と反応のモデルだ。外部から受けた刺激(この場合は「怒り」を引き起こす不正)に対し、反応するだけの場合だ。こんな感じになる。

       刺激⇒⇒⇒反応

刺激に対して反射的に反応している場合、「不正⇒怒り」のスパイラルから逃れられない。だがよく見てみよう、「刺激」と「反応」の間にスキマがあるんじゃないの?この間(セネカは「遅延」と呼んだ)を置くことで、「怒り」の反応を吟味する自由が生まれてくる。言い換えると、時間的なスキマがあって初めて、判断することができる。

       刺激⇒  ⇒反応

もちろん「怒り」という選択を取るかもしれないが、少なくとも条件反射のように怒りまくることはなくなる。自らの価値観に沿った反応を選び取る自由が生まれるのだ。コヴィーはこれを「主体性」と定義した。

       刺激⇒ 【反応を選ぶ自由】 ⇒反応

そして、主体性によって反応を選ぶ「判断」が働くとき、ほとんどの場合、いや全ての場合、「怒り」という選択は「選んでいない」ことになる、というのがセネカの主張。なぜなら、怒りというのは、感情の噴出に自らを譲り渡すことなのだから。もちろん、(周囲を動かすための)偽りの怒りという作戦もアリだ。しかし、それは「怒りの演出」を選んでいるため、セネカのいう怒りとは異なってくる。

 いずれにせよ、ニセモノの怒りを除けば、「怒り」を選ぶことはありえない。そして、選ぶ自由を得るためには、トイレに行って手を洗うとか、深呼吸するといった時間的(ひょっとすると空間的)なスキマ=「遅延」が必要になる。

■ 「私は何も間違ったことをしていない」という人には

 「私は何もしてない」「私は間違っていない」と強く思うときがある。胸かアタマか、怒りが今にも広がろうとする瞬間だ。セネカ翁は、そんなときはこう考えろという、「だが、まさにそのとき、悪事と傲慢と頑固さを付加するという過ちを犯しているのだ」。

 つまりこうだ、「間違っていない」という裏側には、「法を犯してなどいない」とか「正しいのは私だ」という気持ちが待っている。セネカはうそぶく、法に従うから善人だというなら、無辜とはなんと狭隘なことかと。法で律せられる範囲なんて狭いものよ、それよりも義務の原則―――孝心、思いやり、寛容、公正、誠実のほうがどれほど広範囲を覆っているのだろうかと。そして、法はもとより、この義務の原則に従えというのだ。

 セネカはもっと気の利いた言い回しを使う。「誰もが自分の中に王の心を宿している。専横が自分に与えられるのを欲し、自分がこうむるのは欲しない。だから、われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である」と。「わたしが正しい」からといって、それは怒る理由にはならない。むしろ、「わたしが正しい」傲慢さを思い知れ。

■ 「やられたらやり返すべきだ」という人には

 しかし、それだとやられっぱなしじゃないか。苦痛を与えてくる輩には、苦痛を返してやるのが相応だ、という意見がある。その通りだと思う。目には目、歯には歯、やられたらやり返す、こっちもスカッとするためにね。

 それでもなお、セネカはこういう。それは違うと。不正には不正をでは話が違うというのだ。不正をこうむったからといって、こちらが不正を反してやる筋合いは無く、しかも醜いという。苦痛の仕返しは、苦痛を与える順番を除いて大差ない。さらにこちらも過ちを犯すことになる。不正を犯した相手は、「不正を犯した」という罰と後悔の呵責を既に受けているのだからだと。

 ううむ、こっちが怒りたくなるような相手は、「後悔の呵責」なんて自覚しないと思うが、セネカの周囲はよっぽど高潔な連中が集まっていたに違いない。しかし、不正を見過ごしたままだと、舐められっぱなしじゃないか?レベルによるが、いじめっ子には、二度とそのようなことをさせないためにも、「返礼」は必要じゃないかと。

 わたしの声を聞いたかのように、セネカは応える。「報復に訴えるなら、怒りなしにしようではないか」と。これにはガツンとやられた。いじめられている子に、「やり返せ」というのは酷なもの。まさにやり返さないような子を狙って「いじめ」が横行するのが常套なのだから。セネカ流なら、怒ったまま行動すると狙いが外れる。冷静に、怒りなしで、復讐せよ、ということになる。でもまず第一に、「逃げろ」が正解やね。

相手があなたを殴る。退きたまえ。打ち返せば、さらに何度も殴るための機会と言い訳を与えることになる。望んでも身を引けなくなるだろう。

■ 「間違えたら、怒って叱るべき」だという人には

 はいはい、それわたし。何度言って聞かせても間違える人には、やっぱりガツンと怒ってやらないと─――という人には、セネカはこう例を挙げる。

むしろ、誤りに対して怒るべきでないと思いたまえ。もし誰かが、暗闇の中におぼつかぬ足取り歩む人に怒るとしたらどうだ。耳の聞こえない人が命令を聞いていないのならどうだ。

 無知は怒る理由にならないときっぱり言う。病人の激怒、狂人の罵言、子どものいたずらに耐えられるのは、彼らは何をやっているか知らないから。ナザレ人(びと)が磔刑にされたとき、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないのです」と言ったことを思い出す。ナザレ人ほどの器はないけれど、「道を知らないせいで土地をさまよう人がいたら、追い払うより正しい道を教えてやるほうがいい」という助言は耳に留めておくべし。

 「間違えたら、怒って教える」ことについて、もう一つ思い出したことがある。息子の勉強を見ていて、何度やっても同じミスをくり返すときだ。その瞬間、「ここはひとつ、ガツンと怒ったほうが身にしみるかな?」と考えてしまう。すると、あるニューヨークの教師が書いた一文を思い出す。そこにはこうある。

もしある生徒が掛け算で悪い点数をとったら、それはたった一つのことを意味する。彼がまだ掛け算のスキルを理解していないということだ。だから喜んでふたたび彼に教えればいい

これは「子どもにいちばん教えたいこと」からの一文で、わたしのレビューは、親になったら読むべき6冊目「子どもにいちばん教えたいこと」にある。まさに、道に迷った人がいたら、(怒らずに)道を教えてやればいいってやつ。久しぶりに自分が書いたものを読み返してみた……すごく参考になったよ、自分が書いたのにwwwブログ様サマやね。

■ セネカも怒りんぼじゃね?

 古今東西の賢人や王の例をひいては、「怒り」が何をもたらしたか、奪ったかをこれでもかと主張するセネカ。そういう彼に耳を傾けていると、はっきり言います、あなたのような生き方をしている限り、人生は千年あっても足りません。時間などいくらあったところで、間違った生き方をすればすぐに使い果たしてしまうものなのですを思い出す。これは、セネカ「人生の短さについて」で述べられている持説は、そのまま彼の後悔ばかりの人生を裏返している天邪鬼的な読みなのだ。

 だから、怒りが行動を、行動が習慣を、習慣が性格を、性格が人生を変えてしまった究極の実例は、セネカの周囲か、ひょっとすると自身なのかもしれないと考えると愉しい。裕福な出自でトントン拍子に出世したのはいいものの、暴君ネロに睨まれて自殺を命ぜられる。思い通りにならない政界や、不合理な命令にセネカ自身、幾度となく激怒しては後悔してたんじゃぁないかと妄想しながら読むと、一読で二度おいしい。

 「怒り」は性格ではない、選択だ。怒らずに生きるには、ちょっとした遅延をもうける技術が必要。選べる人生で、つまらないことにイライラせずにいきたいもの。技術は学べる。だから、怒らずに生きることを選ぼう。

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こころの保険「ゆるす言葉」

ゆする言葉 怒りについて、考えなおしているいま、ダライ・ラマ14世の「ゆるす言葉」を読み直す。

 初読は、北京オリンピックでチベット問題がクローズ・アップされていた2008年のこと。聖火リレーをめぐって世界各地で混乱が起きていたころ、ダライ・ラマのインタビューが読めると聞いて手にしたのだ。日本と中国の微妙な関係に配慮しており、政治的大人かつ茶目っ気のあるところを見せてくれる(でも70越えた爺ちゃんなんだよね)。

 今回は、怒りについて彼の意見を訊く。怒りをどう扱うか、こう断言する。


    怒りと憎しみこそが、私たちの本当の敵なのです。

    これこそ私たちが全面的に立ち向かい克服すべき相手なのであり、
    人生に時として現れる一時的な「敵」は、真の敵とはいえないのです。


 それぞれの発言は、もちろんチベットの現状を踏まえたものに見える。誰に向けたメッセージかによって、「一時的な『敵』」が誰なのかが変わってくるように受け取れる。いや、そういうわたしの「読み」が狭いのだろう。政治的事情を考えなくても、この発言は普遍性を帯びている。まさに「わたし」に向けたメッセージとして読めばいい。本書は写真+名言集のような体裁なので、「ことば」とPhotoが一緒になって記憶される。ダライ・ラマのシルエットや、チベットの自然の写真、破壊された寺院の写真の傍らに、こころに届くことばが並んでいる。

 いちばん響いたのは、次のことば。


     ゆるしの気持ちを身につければ、
     その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。

     ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、
     「自分を自由にする手段」です。


 「怒り」に対し、「ゆるす」とは、自分を解放する手段だという。怒りという苦しみから楽になるために、「ゆるす」……これはなかなか難しい。なぜなら、「わたしは許せるだろうか?」という質問に答えなければならないから。天邪鬼なわたしは、常に極論を持ってくる。曰く「自分の身体が傷つけられてもか?」、曰く「わが子がむごたらしく殺されてもか?」―――はっきり言って、ムリだと思う。だが、上のことばを知っているのと知らないのとでは、そういう極端なことに陥ったときの反応が違うと思う。人を恨み、怨む自分を呪って自身を追い詰めるとき、このことばが思い出せるかどうかが、その後のわたしに大きな影響を与えると信じる。おそらくわたしは、「ゆるす」ことができないだろう。しかし、「ゆるすことができる」という選択肢がある、ということを、このことばによって、思い出せるかもしれない。

 もうひとつ。これは、若いころのわたしに贈りたかったことば。今はもう"大丈夫"なのだが、一時期、わたしは、わたし自身を、本当に嫌っていた。憎んでいた、といってもいいぐらいだ。それでいて外面は「ひとに思いやりを」なんて仮面を(意識せずに)被っていたのだから、自己欺瞞もはなはだしいものよ。


    ほんとうの意味の思いやりは、
    まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。

    まず自分自身に思いやりを持ち、
    それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。

    つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、
    他者を思いやることなど不可能なことだからです


 ああ恥ずかしい。何が恥ずかしいかというと、このことばを耳にし目にするために、自分を憎んでいた「わたし」が蘇ってくるから(しかも何度でも!)。「まず自分を思いやれ」というアドバイスは、子どもに向けてやろう。

 こころが苦しいとき、弱ったとき、いつでも思い出せるようにしたい一冊。

 追記 : ダライ・ラマ14世はTwitterをやってる(@DalaiLama)。ずっとフォローしていきたい方ナリ。

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第2回スゴ本オフのお知らせ

 みんなで本を持ち寄って、まったりアツく語り合うスゴ本オフのお知らせ。

 ネット越しではなく、リアルにおすすめし合いましょう。ただ消費されるため過剰に生産された本ではなく、自分にとってのスゴい本を熱っぽく語りましょう。「その本がスゴいなら、これなんてどう?」と紹介される「これ」こそが貴重なので!

 もちろんネットのリコメンドや本屋のPOP、新聞雑誌のブックレビューも大切だけど、リアルのオススメには負ける。新刊本や売りたい本ではなく、本当にオススメしたいやつを、目の前に持ってくるのだから。さらにはUstreamで実況し、Twitter や blog でネット共有するので、そこからさらに、「ソレがオススメなら、コレなんてどう?」が広がる広がる。

 実際、前回のスゴ本オフ(SF編)で知ったオススメは、ほとんど未読ばかりで、いかにわたしが読んでいないかよーく分かりました。名前は聞いたことがあるけれど……と敬遠してた大作との距離が、一気に縮まったのも収穫。読まず嫌いだった傑作の「熱」が直に伝わったのが強力な動機になるのです。

 さらに、リアル面子とのつながりができたことがすばらしい。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」その「あなた」がやってくるのだから。「本を介した出会いの場」というとアレな感じだけど、好きなものは好きだからしょうがない、作品を媒介して仲間が広がる広がる。

 第2回スゴ本オフのテーマは「LOVE」、愛について、恋愛に関する本について語ろう。自分の恋の運命を決定した一冊でもいいし、やりたくても絶対やれない愛を語った作品でもOK。語り合ったあとは、本の交換会があります(ブックシャッフル)。「紹介用」「交換用」と別の本を持ってきてもよし、一冊だけじゃなくて三冊紹介しちゃうのもアリです。

 5月14日に半蔵門でやります。案内や申し込みは以下をどうぞ。

 次回Book Talk Cafeは5/14@KWCさんです

 Twitter のハッシュタグは #btc02 です。

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世界文学ハンティングの絶好の狩場「ワールド文学カップ」

 世界各国からスゴい小説をもちより一同に会する、世界文学杯が開催されている。

 別名はワールド文学カップで、紀伊國屋新宿本店の2階でやってるぞ。53ヶ国、総勢650点の文学作品になるという、すげぇ。週ごとに売り上げランキングをして優秀国を選び出し、さらにフェア全体で優勝を決めるという非常にユニークな企画。ここでしか手に入らない650冊分を収録したのリーフレット(無料)があれば、一生読む小説に困らないかと。

 フツーに考えると、欧米礼賛が色濃く残る翻訳文学では、ラテン系、アフリカ、インドといった地域は不利になるんじゃないかと思える。だが、そこは偏りをなくすような配置がされているのだ。たとえば、アルベール・カミュが「アルジェリア」だったり、ジョン・アーヴィングが「インド」の代表として選ばれている。

 えっ?カミュはフランス文学で、アーヴィングはアメリカでしょ?と思いきや、出身や(小説の)舞台であってもOKみたい。カミュは「異邦人」だし、アーヴィングは「サーカスの息子」が代表選手としてエントリーされている。書店スタッフのバランス感覚で、絶妙な選本がなされている。選本はこんな感じ↓


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  オフィシャル入口はここ→[ワールド文学カップ]

  Exciteニュース[文学の熱い戦い「ワールド文学カップ」に行った]が詳しい

 「世界文学」というテーマを用意しているのは、この国だけじゃないかと思えてくる。ふつう、大型書店の洋書階に行っても、「世界文学」という印象は感じない。いわゆる"Novel" 棚はあれど、フレンチとかラティーノといった、地域ごとにインデックスされたものにすぎない。あくまで「書籍>小説>ラテン文学」のような仕分けられた棚なのだ。いっぽう、この文学の祭典では、世界を文学で読み解こうといった熱度を感じる。

 これだけの文学作品が、ただひとつの言語―――日本語で読めることは、きわめて珍しいことなんじゃぁないかと思えてくる。いやいやいや、英語があるでしょうと即座に自分で否定するのだが、母数がまるで違う。日常語として扱う人にくらべると、圧倒的に種類・点数が多いのは、「日本語に翻訳された海外文学」ではないかと。

 ちと旧聞に属するが、ヘミングウェイがノーベル文学賞を受賞したとき、彼の文学全集があったのは、日本語版だけだったときく。「北回帰線」が発禁扱いで貧乏だったヘンリー・ミラーに初めて翻訳権の小切手を送ったのは日本の出版エージェントだったとか。もちろん英語でもあるだろうが、これだけの作品に接するには、かなり専門的な書店に行かないとないのでは。

 この目の前の世界文学の宝の山を見ていると、日本語のありがたみを感じる。この狩場は5月17日までの期間限定。ハンターの方はお早めにどうぞ。ちなみに上の右下の5冊はわたしの収穫。リアル書店へ単身入るのはキケンなので、10分と時間を区切ったつもりだが……

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近未来ならぬ現未来の海洋SF「イルカの島」

イルカの島 ちと早いが、夏にぴったりの一冊。浜辺で読むとなおよろし。

 アーサー・C・クラークが、こんなにあざやかなジュヴナイルを書くなんて。人類存在の根源を問うような重厚なハードSFと思いきや、肩透かしを喰らう。書かれたのは1962年、この時代からすると近未来サイエンス・フィクションなのかもしれないが、読んでる今から見ると、現未来小説になる。舞台は2010年(今だ!)のグレートバリアリーフで、少年とイルカの交流を描いているものの、まさに「今のいま」の話にも取れる。

 というのも、水中マイク(ハイドロフォン)を使ってイルカとのコミュニケーションを図るのだ。「イルカ語」なんて代物で、意思の疎通を図り、イルカ側も人の気持ちを汲み取ろうとする。カリカチュアライズされているものの、東京ディズニーシーの「タートル・トーク」が近い世界になるかも。ネタなのかマジなのか分からないが、商品化されている「バウリンガル(犬語翻訳機)」とか「WhyCry(赤ちゃん泣き声翻訳機)」を見ていると、いずれ「Dolphingal(ドルフィンガル)」が出てくるのは必至。

 人とイルカのコンタクトをテーマにしているものの、それを少年の成長譚をモチーフにし、さらに全体をSFでコーティングしているしているところが美味い。しかも、「人類の科学技術 < 大自然の猛威」なトコもきっちり盛り込んでいる。「気象学はいまや厳密な科学となって、予報官はこれからなにがおころうとしているのか、自信をもって発表することができる―――ただし、わかったからといって、たいして打つ手があるわけではないのは昔とおなじだ」なんて件には思わずニヤリとさせられる。

 ただ、事実は小説よりも奇であることに、軍用イルカは既にいる。機雷探知を任務として、1990年の湾岸戦争および2003年のイラク戦争では、実戦で使用されている[wikipedia:軍用イルカ]。イルカとの共栄を夢見たクラークのナナメ上を突破している現実にうなだれる。

 ともあれ、読んでうれしかったのは事実。これはスゴ本オフ(SF編)のブックシャッフル(本の交換会)で、sako0321さんからいただいたもの。そいや、クラークの「幼年期の終わり」もオススメされていたけれど、同じ作者とは思えないほど幅広やね。ちょうど両者は、クラークの両極なのかも。sako0321さん、たいへん楽しい一時間をいただき、ありがとうございます、感謝します。濃くて重くてエロい小説ばかり追いかけているわたしにとって、清涼剤のような一冊ですな。

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この本屋がスゴい!「松丸本舗」

 松岡正剛がプロデュースした、本屋というより「セイゴォ・スペース」と呼びたい書架群。オフィシャルサイトは[松丸本舗]をどうぞ。

 本屋の魅力は棚の魅力。ノーガキ無用で覗いてみなされ。

 赤白の目立つ帯に、「KeyBook」(キーブック)と記された本が、ところどころに配置されている。これは、まさに「配置」という表現がピッタリなのだ。「キーブック」とは、松岡正剛の千夜一夜で紹介された1000冊を示すという。で、その一冊一冊に連携するような選本をしているのだ。

 たとえば、ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」がキーブックなら、その左右に谷崎潤一郎「金色の死」とサド「悪徳の栄え」を並べる。ひとつの興味の焦点が合わさるとき、その近隣のタイトルにも目が届く。「ドリアン・グレイの肖像」はメジャーな奴だから既読か、概要ぐらいは知っているだろう。けれど、そんな本の近くにある、知らないタイトルがあるならば、かなりの興味を引くはずだ。「ドリアン・グレイの肖像」への思い入れに応じて、手を伸ばすだろう。

 このワイルドと谷崎とサドは、一種の文脈、コンテキストを帯びているのだ。この書架の前に立つ人は、自分の既読書から連なるコンテキストを通じて、未読本にたどり着ける仕組みになっている。既読本を通じて、自分の知と好奇心を拡張できるのだ。

 この書店に集まってくる人は、「ある特定の本」を探しているわけではない。タイトルや著者がハッキリしているのなら、amazon で探すだろう。もちろん amazon には、「この商品を買った人は、これにも興味があります」といったレコメンド機能がある(しかもかなり高度だ)。しかし、その連携は、著者だったりジャンルだったり、同じカートの中に入れられた縁の集積だったりする。

 しかし、データベースから抽出した連携は、あくまでも同ジャンルに限られている。試みに得意な分野の一冊をamazonで探してみればいい。検索結果でレコメンドされる本は、おそらく全て読んでいることだろう。似たような本が集まっているのだから、そうした探索行動は既に自らやってきたはずだ(著者、ジャンル、レーベル)。同じような本ばかりを釣り上げているのだから、養殖の釣堀りに等しい。消費としての読書に最適化されているのが、amazon なんだ。新しいジャンルで手がかりをキーに探すには役立つが、自分の既知をエンハンスするのには心もとない。

 その一方で、松丸本舗のスタイルは違う。もちろん同ジャンルの本も持ってくることもあるが、左右は別の発想―――松岡正剛の発想を経た、まるで違うジャンルの本が配置されている。松丸本舗を歩くと、「えっ?なんでこんな本がここに?」と何度も何度も何度も驚かされる。まるでこちらの驚きを見越したかのような、思わずニヤリとさせられる本を「配置」するのだ。松岡氏の脳内を経ているため、自分の興味に沿わないこともあるが、反対に、ズバり刺さるスゴ本が発見できるのだ。知っているスゴ本の隣の知らない本を狩るよろこび、すなわちブックハンティングが楽しめる。これは、松岡正剛の知とのせめぎあいかもしれない。ともすると圧倒されるレイアウトに太刀打ちできないかもしれない。それでも、自分の「この一冊」をキーに切り込んでいく快感、すなわちブックファイティングが楽しめるのだ。

 と、ヨイショするのだが、不満なトコもある。松岡氏の選書だから、どうしても偏りがある。その偏差がわたしの偏りと重なればいいのだが、ちょっと方向が違うようだ。どちらかというと、その時代のメルクマール的な選び方が目立っており、氏自身がスゴいと感じた本よりも、読者ウケを狙っているようなあざとさを感じる。だから、新しい本は入りにくく、あるていど評価が確定された"名著候補"が並ぶようになる。それはそれで悪くはないが、もう少し、そのゆらぎの幅を広げられないか、つまり松岡判断を広げられないか、とゼータクを言いたくなる。

 ところが、新しい本―――先週出たばっかりの奴とか、または、セイゴォてめぇ絶対読んでいないだろうこんなのと言いたくなるようなアレゲなのが混ざっていることに気づく。なぜ?店員さん(メガネ美人、推定28歳)に尋ねたところ、あっさりと問題解決した。追加補充だけでなく、棚を変化させていますかと訊くと、新しい本はスタッフが選んでいるとのこと。それも、「キーブック」を軸にしてピックアップしているそうな。同じ本がずーっとそこにあると、本も棚も死ぬ。そうならないように、新しい本を栄養として、棚が生きていくのだ。

 あにはからんや、本の新陳代謝は店員さんに任されていたのだ。これは面白い「賭け」かもしれない。松岡好みが、(キーブックはそのままに)だんだん変化していくのだ。「松岡正剛の脳」に追記していくような感じ。スタート時の偏りが、どのようにゆらいでいくか観察するのは、この書店の"未来を先取りするチカラ"をみるようで、非常にユニークな実験になるだろう。できればいろいろな人の手で「追記」がなされることを望む。「知」のエンハンスは、この書店を生み出した、松岡正剛自身をも超えることになるのだから。

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スゴ本オフ(SF編)

 最初に、ありがとうございます。本よりも、人の出会いのほうがスゴい場でした。

 会場を準備していただいた阿部さん、ありがとうございます。KDDI ウェブコミュニケーションズには足を向けて寝ません。自前の機材でただ一人でU-streamを実現した大木さん、ありがとうございます。ネットにリアルでつながることを、生々しく感じました。何から何までお世話になりっぱなしだったやすゆきさん、ともこさん、ありがとうございます。わたし単品なら実現すらおぼつかなかったです。受付と事務を受け持ってくれたずばぴたさん、ありがとうございます。濃く・熱いトークに参加いただいた、ひできさん、さとうさん、黒バラさん、清太郎さん、冬木さん、daen0_0さん、弾さん、ゆりさん、でんさん、sako0321さん、にわかダンサーさん、n_kanezukaさん、ogijunさん、しゅうまいさん、ありがとうございます!感動のあまり帰りの終電で目から汗が出ているキモイおっさんでした。

 まさに、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」そのあなたたちが集まった場でしたな。オススメいただいた本のほぼ全てが未読なので、嬉しい限り。あと、小飼弾さんが生身の人間だったことと、ゆりぽさんがやっぱり変態だったことが確認できてよかったナリ。まとめは以下をどうぞ。

SF本だらけのBook Talk Cafe 第1回(スゴ本オフ会)の様子。

Book Talk Cafe 第1回(スゴ本オフ)簡易レポ&オススメされた本リスト

 ここでは、スゴ本オフを受けて、blogの軌道変更しようと考えていることを書く。

 まず、リアルに接続すること。このblogは、基本的に読んだもののアウトプットの場+次に読むもののインプットの場であり、「わたし」の上を流れてゆく本を観察する場所『だった』。もちろん借りた/買った/貰った本を全て読んでいるわけでもなく、さらには読んだ本を全てレビューしているわけでもない。読んだものがわたしの中で一定のストックとしてたまったものを、ログとして吐き出している。これを変える。

 「変える」というよりも、むしろ「付け加える」とでも言うべきか。本のレビューに加えて、本にまつわるリアルを紹介してみよう。それは、「スゴ本オフ」というリアルなコミュニティであったり、書店探訪記だったり、中の人(編集者・執筆者・書店スタッフ・そして読者)の観察記録になる。つまり、物理的な本を媒介にした向こう側のリアルを、こちらからアクセスする試み。

 読書は、ストックではなくフローだ。生きることが読むことならば、つねに変わり続ける自分をつなぎとめておくのは、目の前の一冊になる。その一冊をステップにして、自分のリアルを拡張させるんだ。さらに読書は、一対一から一対多になる。著者と読者の一対一の対話だけでなく、テクストと読者『たち』との交感会であってもいい。オブジェクトとしての「本」という存在が揺らいでいる今、「そのテクストから受け取った感情・思い出を語る」ことを、読書と再定義したら面白かろう。

 次に、変態度を上げてみようかと。たまに(?)成人向けや劇薬小説などを差し込んでいるが、オフ会の皆さまには「ぜんぜんオッケー」みたいだ(あたりまえか)。頭よりもむしろ下半身でモノを考えているわたしにとって、変態スキーは心強い。下部構造は上部構造を規定する。ゆりぽ師匠に相談しながら、変態回転数を上げてみよう、そうしよう。

 最後に、ブックハントの収穫物からいくつか。ゆるゆる読んで、生きたい。

イルカの島 アイの物語闇の左手
フェルマータ航路戦闘妖精・雪風
煙突の上にハイヒール黄泉がえり象られた力

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「怒らないこと」はスゴ本

 怒らずに生きるための一冊。

 自分を壊さないための怒り方として、[正しい怒り方]を書いた。この記事がきっかけになって、本書に出会う。著者はスリランカ上座仏教の長老で、アルボムッレ・スマナサーラという。「怒り」に対する考えや姿勢を、わたしの記事なんかよりも、ずっと分かりやすく・直裁に具体的に紹介している(誓っていうが、これをタネ本にしてませんぞ)。怒りのない人生が欲しい方へ強くすすめる。わたしにとって、「それなんて俺」的な確認のための読書となった。次にわたしが「怒る」とき、よりその本質を観ることができるだろう。

■ 「怒り」について、誰も知らない

 最初に著者は挑発する、「怒り」について誰も知らないと。「怒るのは当たり前だ」と正当化したり、「怒って何が悪い?」さもなくば「怒りたくないのに、怒ってしまう」という人は、自分にウソをついていると断言する。「本当は怒りたくない」なんて言い訳して、ホントは怒りたくて怒っているのだと喝破する。そして、怒りたくないなら、怒らなければいいというのだ。

 著者は、怒りをごまかす方法などに関心を持たない。人生は短いから、自己欺瞞はやめよう。そして、まず「わたしは怒りたいのだ」ということを認めろという。そして、「なぜ怒るのか?」を理解せよと促す。どのようにして怒りが生まれるのか?Dhammapada(法句経)によると、以下の場合になる。

   1. 私をののしった/バカにしている(akkocchi mam)
   2. 私をいじめた/痛めつけた(avadhi mam)
   3. 私に勝ってしまった(ajini mam)
   4. 私のものを奪った(ahasi me)

カッコ内はパーリ語。いちいち頭の中で考えて怨み続ける。わざわざ思い出しては、悶々と悩んだり悔しがったりしているのが、「怒り」なのだという。全力で思い当たる。特に1.と3.の場合がセキララに思い出されて、ア・チチとなる。

■ 「怒り」の根っこにあるもの

 さらに、「怒り」の根っこには必ず、「私が正しい」という思いが存在するという。かつて自分が怒ったとき、その理由を冷静に客観的に分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあるというのだ。これは、他人に対する怒りだけでなく、自分自身に向けられる怒りも同様だという。

 つまりこうだ。「私にとって正しいなにか」があって、それと現実がずれているときに怒るのだ。「私は正しい」「私は完璧だ」という意思があるのが根本で、実際そうではない出来事に会うとき、自分のせいにするのだ。「私は正しい」のに、「この仕事がうまくいかない」と自分を責めたり、「私は完璧」なのに、「自分が病気になってしまった」と自分に対して怒りを抱いたりする。そういう人こそ、建前として「私はダメな人間だ」と謙虚(?)に振舞いつつ、実は心の奥底では、「絶対にそうじゃない、私こそ、唯一正しい人間なんだ」と考えているという。しかしそれこそが、怒りスパイラルの原因なんだ。

 だから著者は、「正しい怒り」は存在しないと言い切る。よく母親が子供を怒ったり、先生が生徒を怒ったりするのは、間違えた子供・生徒を正すための「正しい怒り」だと自己弁護する人がいるが、それこそ誤りだというのだ。間違えただけなら、単にそのことを指摘すればいいのに、わざわざ怒るということは、その根っこに「自分が正しい、自分の言葉も正しい、自分の考えは正しい」という考えがあるからだという。わたし自身も思い当たる。「あなたのためだから」という思い込みでオレサマ判断を押し付けているかもしれない。

■ どうすれば怒らずにすむか

 では、どうすればよいのか?怒りを押さえ込めばよいのか?著者は、それは新しい「怒り」だとして退ける。「怒りと戦う」感情もまた「怒り」なので、良くないというのだ。または、ストレスのように発散させればどうだろう?これも誤りだという。怒りをワーッと爆発させてガス抜きをしようとするのは、怒りの感情を正当化し、原因をごまかすことになる。より強いストレス要因を持ってきて、最初の怒りをカモフラージュしているのだから、根本的な解決になっていないと指摘する。

 OK、それは分かった。では、どうすれば怒らずにすむのか?著者は、「ブッダのことば」の最初の一文を引用する。

「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」

「ブッダのことば」は難しい。いや、やさしい言葉で書いてあるのだから、読むのは容易なのだが、本意を汲むには手助けが必要だ。著者に言わせると、怒ることは、自分で毒を飲むのと同じだそうな。怒ることで、自分を壊してしまう。だから、怒ったら、怒らないようにする。怒りをコントロールするのだ……ただそれだけ。それができれば苦労はしないんだが……

 も少し具体的に砕くならば、怒りを観られた瞬間、怒りは消えるという。次に怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ、怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐに自分を観察してみろと提案する。「今この瞬間、私は気持ちが悪い、これは怒りの感情だ」と外に向いている自分の目を、すぐに内に向けて"観る"ことで、怒りを勉強してみせよという。わたしのエントリでは「怒りを味わえ」と説明したが、本書では「怒りを観察しろ」という。冷静・客観化するメリットとともに、「わたしは何に怒っているのか」を問うことで、根本に気づくことができる。かなり難しそうだが、やってみよう。

■ それでも攻撃する人にはどうするか?

 「怒り」は観られた瞬間、消えるという。「怒らない」を実践できたとしよう。しかし、そこにつけ入るような人が出てきたらどうすればよいか。自分で怒ってしまうようなことは回避できたとしても、「怒らせてやろう」と攻撃したり、けなしたり、やりたい放題にやってくる人にはどうする。耐え忍べというのか?

 これに対し著者は警戒する。悪口を言ったり、自分を弁護したりなんかしたら、相手の怒りの思うツボだという。怒りというのは伝染性が高い感情で、自分が嫌な気持ちになったのなら、ののしっている相手の希望が叶っているというのだ。だから耐え忍ぶ必要もないし、怒り返しても本末転倒になる。

 自分を攻撃する人、自分に怒りをぶつける人には、「鏡を見せろ」とアドバイスする。もちろんこれはメタファーで、エンマ大王が鏡を通して生前の行いを見せつけるように、相手のふるまいを逐一説明してあげればいいという。ホンモノの鏡を見せるのではなく、ののしっている相手に対して、

「ああ、そちらはすごく怒っているのだ。苦しいでしょうね。手も震えているようだ。簡単に怒る性格みたいです。これからもいろいろたいへんなことに出会うでしょうね。それで大丈夫ですか?心配ですよ」

と指摘する。相手が言うことに反論せず、相手を善悪判断しないで、心配する気持ちで説明してあげればいいというのだ。これも難しい。イヤミにならないように手加減する必要はあるが、相手の「怒り」そのものを肯定するのは良い方法だと思う。「怒り」の正当性を認める、ではないことに注意。怒っている原因とか理由とか責任とかに言及せず、ただ、怒りの感情を認める。言い換えるなら、「あなたがものすごく怒っていることは、よく分かります」「絶対に許さないと、強く怒っているのですね」などと、相手の怒りだけを指摘する。慎重に選ぶ必要はあるが、言葉にすることが肝要なのだ。

 それでどうなる?わたしの経験によるが、「わたしが怒り返すよりも、はるかに良い結果が得られる」だった。怒りに対して怒りで応えると、ヒートアップしたり不毛な水掛け論になったり、さんざんな展開になる(嫁で実証済)。しかし、怒りに対し、「それは怒りだ」と指摘することで、大なり小なり客観視できるようになる。怒りという感情よりも、それを招いた原因の方に目が向くようになる。自己防御と相手の攻撃にアタマを使わなくなる(←これ大事!)。鏡を見せるテクニックは万能ではないかもしれないが、怒り返しよりも良い結果が得られる。お試しあれ。

 仏教法話という形をとっているが、「怒らないこと」は、文化や宗教を超えた普遍性を持っていると思う。自分の中の「怒り」を手放すことで、怒りのない人生をすごしたい……そんな願いを持つ方に、ぜひオススメしたい。

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はだかをはだかにする「はだか」

はだか はだか、好きですか?もちろん、わたしは好き。

 では、むちむち姉さんのではなく、「自分のはだか」ならどうだろう。脱衣所で目にするソレはあまり形容したくないし、人様にお見せするような代物でもない。温泉とかで裸体をさらすと、気恥ずかしいというか、妙に気まずい。そういう「文化」なんだろうと思考停止していたが、この「はだか」のおかげで気づきが山と出た。武蔵野美術大学の原研哉ゼミにおける、卒業制作を書籍化したものだ。

 本書が提案する、さまざまな「はだか」のアイディアに接するうちに、「わたしのはだか観」なるものが見えてくる。つまり、わたしが「はだか」についてどのように考えているかが、「はだか」にされるのだ。これは、面白い。

 たとえば、「りぼん」をはだかにするアイディア。少女マンガのキャラクターを、そのまんま、まるごと脱がす。顔やポーズ、セリフをトレースし、服だけを完全に脱がせた裸体で描き起こすのだ。中高生だから、全員が陰毛をしっかりと書き込まれている。が、いわゆるエロマンガのソレと異なり、これっぽっちもエッチに見えず、むしろ滑稽ですらある(エロスはチラリズムにこそ宿る)。

 すると、いかに服装が記号として扱われているかを再認識させられる。衣服こそが個人にまとわりつくキャラクター性や立ち位置といった情報を体現していたのだ。「はだか前」と「はだか後」と比較されているから分かるものの、彼・彼女たちがやっていることは、着ている服によって決定づけられている。チアガールの格好をしていないと、セリフだけで分からないし、制服を着ていないというだけで、ストーリーすらあいまいになる。キャラの描き分けは、衣服で行っていたのだ。作者と読者の暗黙の了解のようなものなのかも。「はだか」にすることで逆にキャラが見えなくなってしまう矛盾。裸は個を消すのだ。

 あるいは、「メタボリック・リカちゃん」人形に戸惑う。でっぷり太った肥満体のリカちゃんや、ガリガリに痩せたリカちゃん(ダイエットしすぎ?)、O脚のリカちゃんを実際に作り出し、わたしたちがどう反応するか、試すのだ。

 わたしの心に生まれたものは、気まずさ。リカちゃん人形という、いわば理想体型を想定してたら裏切られた感覚。これを著者は、「はだかへの羞恥のもと」だという。人間のはだかは、ひとつとして同じものはない。だから羞恥は、自分のはだかの特殊性・個別性に由来するというのだ。おなかが出ているとか、乳首の感覚が広いとか、理想の体型からの偏差が羞恥を生み出すと述べている。肌の露出そのものではなく、個体の偏差を露呈することが、はだかへの羞恥の本質だという。

 本当だろうか?

 仮に偏差が羞恥の本質だというのであれば、着衣によって隠されていない「顔」について考える必要がある。なぜなら、人によるもっとも偏差の激しいものは、「顔」そのものだから。実際のところ、顔の偏差はそれほど異ならない。目鼻のつくりつけはそんなに変わらない。しかし、われわれはふつう、それぞれの個体認識を「顔」によって行っている。したがって、偏差はすでに意識されており、服を脱いだところでことさら(偏差が)生まれてくるものでもなかろう。

 しかも、少女マンガを脱がすことから導かれる、「裸は個を消す」ことと反している。偏差を持ったリカちゃんのはだかは、まさにリアリティをもった「はだか」のモデルだという主張には同意だが、そこに生まれた気まずさは、見慣れないもの(見てはいけないもの?)を見てしまったことから出る感情だとおもうぞ。

 いちばん印象的だったのは、地球をはだかにすること。つまり、海という「衣服」に覆われた海面下の世界をあらわにするのだ。衣服から露出した肌(陸地)の部分のみを見て地球の姿をとらえていたイメージが、完全に崩れ去る。海をはぎ取った「はだかの地球」は、見慣れた姿とはおよそかけ離れた迫真の様相をしている。荒々しいギザギザの尖り、ねじれ、吹きっさらしの肌理は、地球がもりもりと動いてきた軌跡をそのまま見せつけてくれる。

 「はだかの地球」を眺めているうちに、わたしは、地球というものを、陸と海の境界線という情報で認識していたことに気づく。太平洋に浮かぶグアム・サイパン島は、巨大山脈のほんの山頂のきれっぱしにすないし、日本海溝は岩石のシワやミゾの集積だ。人は、海水を避けたその欠片のてっぺんにしがみついているにすぎないことが分かる。宇宙から撮った地球画像で国境線の不在をあらためて知るように、海の不在は人類の生物圏を逆にあらわにするのだ。裸にすることで、反対に「ある」ものが強調されるのは面白い。裸そのものが、いかに「ある」ものなのかを知らなかったから。既に知っている「はず」だと思っているものを、もう一度知るんだ。

 この、「いかに知らないかを分からせる」手法は、著者の言を借りると、ex-formation というらしい。information の対義語として考案した造語で、既知なるものを未知化することで、まるでそれに初めて触れるかのような新鮮さをともに味わい直してみるという実験なのだ。見慣れた「はだか」が、初体験の裸になる一方で、「はだか」として知覚できなかったものが、はだか化する瞬間を体感する。

 日常生活で安定化させられていた感覚や意識に"ゆさぶり"をかけてくる一冊。

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イメージファイト!「エンダーのゲーム」

エンダーのゲーム ちと古いが、「イメージファイト」(Image Fight)というゲームがある。iremの縦シューで、PC-Engine がこれとR-TYPEの専用機となっていた20年前の話だ。いわゆる覚えゲーで、敵の出現箇所や攻撃パターンを記憶・攻略するのがミソ。他のSTGと違ってユニークなのが、「訓練ステージ」と「実戦ステージ」があるというところ。つまり、ゲームというバーチャルな空間を、「訓練」と「実戦」に区切っているのだ。

 「訓練ステージ」で一定の撃墜率を達成しないと、「実戦」へ配備されず、代わりに「補習ステージ」に送り込まれる。これが鬼のような難度で、実戦よりも泣かされる。「エンダーのゲーム」がまさにコレ。読みながら、わたしの頭ん中では「イメージファイト」が響きわたっていた。

 「エンダーのゲーム」の基本は、一人の天才のビルドゥングス・ロマンといえる。類稀なる才能を秘めた少年が、異星人の侵略を阻止するための幹部養成校に放り込まれ、さまざまな葛藤を経て成長していく話―――とまとめてしまえば簡単だが、ミステリとしての謎も隠されている。圧倒的な科学力を持つ異星人が、二度も撃退されているのだが、どうやって?趨勢を決める決定的な映像が検閲されているのはなぜか?主人公だけをわざと過酷で不利なルールで戦わせるのは?それぞれの謎が晴れるとき、ちょっとしたカタルシスが得られる。

 この幹部養成校での模擬戦闘や戦略ゲームの設定が面白い。まさに「イメージファイト」の世界で、訓練のゲームと実戦のゲームが混交している。幼いといってもいいほどの主人公が、年上の先輩たちを知恵と閃きで"やっつける"ところは痛快かもしれない。他の生徒と異なり、少年は自分をコントロールすることができる、完璧に。思考も行動も感情も、感覚すら支配できる。怒りにわれを忘れたり、アンフェアなルールにカッとなったりしない。常に冷静に、自らの怒りすらをも利用して、戦いに挑む。自分を消して、粉にして、勝利への導火線に縒り込むのだ。

 しかし、授業の一環としての「ゲーム戦」で"やっつける"だけならいいものの、やはり面白くないと考える先輩もいる。ちょっかいだけならまだしも、あからさまな妨害工作までしてくる。「ゲーム」はいつしかゲームでなくなり、必死になって戦う真剣なものとなる("game"には「遊び」と「真剣勝負」の二つの意があるのが意味深だ)。一線を越えるとき、少年は、取り返しのつかない蹉跌へはまりこむ。そこからのあがきやもがきは、読み手の青春時代でぶつかった様々な"壁"を思い起こすかもしれない。SFの、宇宙の話なのに、妙な親近感を抱いてしまう。

 エンダーの「ゲーム」には、もう一つ、大きな意味が隠されている。残念ながら半分ほどで分かってしまった。逆なのだ。「エンダーのゲーム」の影響を受けた他の作品に触れているので、その世界設定だとこうするとつじつまが合う(面白くなる)、しかもあと○ページで……という発想で先読みをしてしまったのだ。残念。スレっからしの読み方なので、マネしないように。

 ともあれ、ミステリとしても◎、成長譚としても◎、倫理への揺さぶりとしても◎、もちろん奇抜な世界観のSFとしても◎の良作でしたな。blogのコメントやtwitterでオススメいただいた方々にマジで感謝!ありがとうございます、ワクワクハラハラの一時間でしたッ。

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