電子化できない体験「本から引き出された本」
もちろん、できたばかりの作品を沢山の人に読んで欲しいというタテマエは分かる。だがわたしには、あの山がまだ不良化されてない債権に見えるのだ。一冊一冊ていねいに永く読んでもらいたい、という扱いから遠い。風俗や流行を集めて束ねて並べた流通体で、いずれ断片が reblog/twit されるからいーや、と考えてしまう。レジまで騙せたら御の字という態度なら、すべて電子化してしまえ、あとはこっちで選ぶから、と乱暴に想像する。
しかし、どんなにスクリーニングされても「本」という形としてなくならないものがある。たとえ電子化されても固有名詞で記憶され検索されて、(別料金で)紙のカタチになる本がある。人が生きている限り、忘れられることのない本がある。
本書は、そうした「残る本」から引き出された本だ。著者はマイケル・ディルダ。ワシントンポスト紙で書評欄を担当し、ピューリッツァーまで受賞している練達の書評家。その読書人生で出逢った珠玉の文を引き合いながら、自身の人生を語る。「よく読むことは、よく生きること」というメッセージが伝わってくる。オーソドックスにシェイクスピアを勧める一方で、日本アニメ「ムネモシュネの娘たち」を絶賛している。人文系に寄っているものの、探索範囲がすごく深い。
本書は、いわゆる箴言集として読める。名著と呼ばれるたくさんの作品から、じわじわくる寸鉄を抜き出しているから。経験という知恵がごく短い文に凝縮されている。そこから何を汲みだすかは、読み手(の経験値)次第だろうし、そこから何を酌み交わすかは、杯をどう掲げるかによる。Tumblr 向けならこのへん。
詩に完成はない、断念あるのみ (ポール・ヴァレリー)じわじわクる片言が並ぶ。プルーストの上の警句は有名だが、本書では続きが記載されている。以下の通り。
ほんとうの発見とは、未知の風景を求めることではなく、新たな目を持つこと (マルセル・プルースト)
幸せな結婚生活がほとんど存在しないのは、若い女性が時間をかけてつくっているのが網であって檻でないからだ (ジョナサン・スウィフト)
――新たな目を持つこと、別の目、別の百の目で宇宙を見つめ、それぞれの目に映る百の宇宙を見ることにある。われわれはそれをルノワールやドビュッシーの作品に見ることができる。このとき、われわれは紛れもなく、星から星へと旅しているのだもっと読みたいという気持ちにさせてくれる。その文句が吐かれた文脈や、物語なら全体の中の位置づけもひっくるめて、知りたい気持ちにさせてくれる。単なる名言集なら巷に沢山ある。そうではなく、あるテーマ(上述では"芸術の信条")に沿ってコレクトされた警句は、そのまま著作物へのポインタへとなっているのだ。プルーストでいうなら、「ツンデレ」を100年先取りしていることが分かる惹句はこれ。どの物語・エッセイで、どんな効果を狙って言ったのか気になる気になる。
不在や晩餐の誘いへの断り、何気ない冷淡さのほうが、いかなる化粧品や極上の装いよりも効果的である (プルースト)または、本書を"ディルダの抜書き集"としても読める。短い警句や箴言だけでなく、お気に入りの本からの一定量を抜き書いたもの。そして、鋭い洞察や挑発的な引用を枕にして、人生や愛、仕事、教育、芸術、死に関する自己の見解や逸話を添えている。ディルダは、ユーモアたっぷりに、本書を「ブーケ」と評している。なるほど、名著・好著のお花畑から集めてきた華が、一冊の花束となって、そっと渡されている。
ただ、このブーケ、人生の指針となる書であるように編まれている。人生の難局を乗り越えるためのハウツーではなく、迷うことそのものが前提の、もどってくるための本棚だ。つまり、予め一読しておいて、困難にぶつかったとき「そういえば」と思い出すための経験値かせぎの本なのだ。もちろん答えそのものは記されていないが、先人の奮闘がどの書に記されているか(それをディルダがどのように活かしてきたか)が分かる。いずれ命綱となる読書は、本棚の特定の位置だとか、開かれた本の"あるページ"といった「場所」のイメージで記憶される。検索したりタグ付けしたり「お気に入り」フォルダといった「データ」ではないのだ。
つまり、わたしは読書というものを、その時の体感(気温、姿勢、紙質、空気、色や匂いや音)ひっくるめて経験しているらしい。なぜなら、過去の読書を掘り起こすとき、本そのもののセリフや警句やストーリーだけでなく、体感の残滓も一緒になって出てくるから。その本を読んだ場所に立ったときや、その本が置いてある棚に目をやったときに、立ち上がってくるものなのだ。わたしが存在するために、肉体としての物質が必要であるように、データではなく、モノとしての本(というか、その本がある場所)が必要になる。
もちろん全ての本がそうあるわけではなく、強い影響力を永く及ぼすものに限る。そうした本は読む前からだいたい分かっているか、読み始めたら(手に取ったなら、背表紙をみたなら、タイトルを聞いたなら)ピンとくる。たとえ電子化されても指名買いというか本化して、わたしの人生に「場所」を与えたくなるのだ。本書には、自分の人生と共有したくなる本がしまいこまれている。一冊一冊、引き出して「場所」を与えるたびに、知りたい方向が拡張されていく。「本から引き出された本」の原題は、"Book by Book"というのは、「本による本」という内容とともに、人生を一歩一歩拡張していく"Step by Step"という意が込められているのだろう。
マイケル・ディルダのこの本は、わたしの一つの目標になった。こういう本を出せたらいいなと願いながら、彼の書評スタンスを引いてみる。
よい書評とは、何が必要なのだろうか。H.L.メンケンが指摘するように、「書評はまず何よりも、おもしろくなければならない。つまり、巧妙に書かれなければならないし、関心を惹く個性を示さなければならないということだ。面白いこと、巧妙なこと、読み手を楽しませること―――精進しよう、そうしよう。
| 固定リンク
コメント
どーもです。相変わらず読ませてくれます。いや、読ませていただいてます。
最近、書評を評するブログもあるようですが、もし僕がそのブログのオーナーなら、このブログは絶賛ですね。皮肉にも、紹介本を読むつもりは無くても、このブログだけは最後まで読んでしまいますから。
いつかここの書評が(物理的に)一冊の本にまとまるのを楽しみにしています。
投稿: パピガニ | 2010.03.31 00:34
>>パピガニさん
ありがとうございます!書籍化、したいですね~、わたし自身どこでナニ書いたのか忘れているものもあるので。
投稿: Dain | 2010.03.31 00:50